Downpour
夕暮れの豪雨の中、桜内義之は妙に冷静だった。
雨音が多重にも重なり天然のオーケストラを奏でる。その音色を聞いているとなんだか、心が安らいでくる。――たとえ、こんな状況でも。
数メートル先の光景すらも舞い上がる水飛沫によって覆い隠される。
正直、自分が馬鹿だったと認めるしかないか。
義之の言葉は雨音にかき消され、自分の耳ですら捉えることはできなかった。
これほどの大雨は何ヶ月ぶりだろう。
水をたっぷり吸い顔面に張り付いた前髪を払いながらそんなことを考える。
雨の中、ただ一心不乱に、桜並木を走る。
自然のスピーカーから発せられる数多にも重なった濃厚な重低音。その勢いはもはや滝。
天上より放たれた水の塊たちはあられのように鋭く地上を襲い、肌が雨を弾くたびに痛覚が反応する。
自然のシャワーを浴びた髪の毛は水滴を垂らし、服はべっとりと肌に吸着している。ズボンは元より下着まで水は届き、靴の中は完全に浸水。大地を蹴るたびに靴下越しに嫌な感触が伝わってくる。
ここまで来るといっそ、爽快ですらある。
自分の迂闊さに対する後悔も薄れるというのだ。
「あ、兄さん。今日出かけるのはやめておいたほうがいいですよ」
朝に交わされた会話が脳裏に蘇る。
自由な生活が約束された週末の日。
芳乃家の前で義之を待ち構えていたように立っていた朝倉由夢は開口一番、そんなことを言った。
今日は天候が崩れるから出かけないほうがいい。
そう提案する妹に対し、こんなにいい天気なのに雨なんて降るものかと偉そうに返したのは他ならぬ義之だった。
(ああ、俺が間違っていた。すまん由夢。全面的にお前が正しかったよ)
胸の中で妹に詫びる。
今頃、彼女は愚かな兄にあきれ果てているのか、もしくは嘲笑っているのか、それとも心配してくれているのか。義之にはわからない。しかし、どちらにせよ後ほどご機嫌取りをしなければならないことだけはわかった。
「そうですか。じゃあ、勝手にしてください。私は別に兄さんがどうなろうと関係ないですから」
それでも出かけるつもりならせめて傘だけでも持って、という妥協案すら一笑に付され、自分の言葉がまるで信用されていないことを悟ったときの由夢のふくれっ面を頭に思い浮かべ義之は苦笑いした。
(和菓子一つ、じゃ無理だよなぁ。ちっくしょ。あいつの言うとおりせめて傘だけでも持っておけば……)
しかし、この驚異的なまでの豪雨の中、傘一つがどれだけ有効に機能するかは疑わしいところだろう。
浅い川のようになった道路の上を足を滑らせることもなく器用に駆け抜ける。水溜りを飛び越え、違法駐車の自動車を避け、全速力で走る。
桜並木を抜け、住宅街。どこかの屋根の下で雨宿りをと考え辺りを見渡した義之の視界に入ってきたのは。
「むっ……」
「お……?」
天枷美夏だった。
道端の自動販売機が置かれたエリア。簡素な屋根とベンチを備えたその空間の中で、義之と同様に濡れねずみになった少女が雨風を凌いでいた。
いつもの私服姿。しかし、トレードマークの赤いマフラーは水を吸って地面に垂れ下がり、ホルスタイン柄の帽子もすっかり変色。普段は外側にはねた髪も水の勢いに打ちひしがれ、ストレートヘアーのようになってしまっている。
美夏は義之の顔を見るや否や苦虫を噛み潰したような顔をして、腕を組んだ。
「よっ、天枷」
対照的に義之は明るい顔で片手をあげる。最も、ずぶ濡れの髪が張り付いている状態ではその表情は他者には確認できないだろうが。
一拍待ってみて、美夏から返事がないことを悟るとそのまま屋根の下に入る。
美夏は自分の隣にきた義之を見て眉をしかめたが、さすがに追い出すようなことはしなかった。
「奇遇だな。こっちの方になにか用でもあったのか?」
「………………」
「それにしてもすごい雨だな、こいつは」
「………………」
「まさかあの晴天が一瞬で崩れるなんて、いや、本当、お空の神様は気まぐれなもんだ」
「………………」
小さな空間に義之の声と雨が屋根を打つ音だけが響く。
義之が何を話しかけようとも、彼女は一文字に結んだ口を開こうとはしない。
その様子に義之は嘆息し、顔にへばりついた髪をぬぐった。
人間嫌いを公言するロボットの少女。最近はだいぶ打ち解けたように思えたのだが、やっぱりまだまだなのかもしれない。
そう思いながらタオルでもないかとポケットをあさっていると。
「ん……?」
美夏が無言でタオルを差し出してくれていた。
その意外な行動に思わず呆気に取られる。
「お、サンキュ」
「ふん。勘違いするな。隣にボタボタ水を垂らす奴がいたら美夏にとって迷惑だっただけだ」
まず顔を拭き、次に髪の毛の水を取る。あまり大きなタオルではなかったが、短髪の髪を拭くだけなら十分なサイズだった。
「ふう……。少しは生き返った」
体全体にこびり付いた雨水の感触は健在だったが、首から上だけはすっきりした。
美夏と並んで立つ。ベンチは湿気くさく、腰掛ける気にもならない。
「で、なんでこっちに?」
もう一度、話しかけてみる。何故だか、義之には今度は返事をもらえるという確信があった。
「由夢に用があってな」
「用?」
「ああ、借りていたノートを返そうと」
へえ、と相槌。
朝倉家に到着し、無事にノートを返せたのはいいがその帰り道で豪雨にあい、ここに避難してきた、というわけらしい。
そんなもの平日になってから学園で返せばいいのに。わざわざ家まで持っていこうとするなんて律儀な奴だ。と義之は感心した。
「しかし……由夢の言うとおりだったな……」
ぽつりと呟いた美夏の言葉が雨音に気を傾けていた義之の注意を呼び戻す。
「どういうことだ?」
「ん……いやな。これからノートを持っていくと電話で伝えたんだが、そのときに」
聞くところによると、どうやら美夏も由夢から大雨注意報を受けていたという。
しかし、その時は晴れ渡る青空。美夏は大丈夫だ!と自信満々に断言し朝倉家を目指したのだった。帰り際にも、しばらく家の中にいないか、と引き止められたのだが、それも振り切ってきてしまった。
「そ、そうか……なるほどなぁ」
俺はこいつと同レベルってことか……。そんな失礼なことを思い、頭の中で苦笑いをする義之。
「一応、傘は持ってきたんだが……」
「へっ? 傘があるのか!?」
急に見つめられ、美夏は顔を若干赤らめつつも言葉を続けた。
「あ、ああ……だが、壊れているんだ」
「壊れてる?」
「うむ。どうやっても開くことができなくて……」
「ほー。なあ、天枷。その傘、ちょっと貸してみろ」
壊れている、というのがどの程度なのかはわからない。しかし、軽いものなら直せるだろう。そう思い提案する。
美夏は一瞬躊躇した様子を見せるも、すぐに鞄の中から折りたたみ式の傘を取り出し、手渡した。
「ほら、これだ。どうやっても開くことができなくて」
「ふーん。どれどれ……」
紐を解き、収納された骨を展開。全部を組み立て終わると傘のはじきを押す。
経過時間十数秒。そこには見事に一つの傘が出来上がっていた。
骨が折れているわけでも、はじきが反応しないわけでも、布が破れているわけでもない。一人前の折りたたみ傘だ。
その姿を見て思ったままの疑問が義之の口から出る。
「……どこが、壊れているんだ?」
美夏は呆然とした顔、そして、気恥ずかしそうな顔になった。
「へ、変だな……美夏が開こうとしたときはどうしても……」
「…………天枷」
美夏の焦った声。対照的に義之は呆れ声。
「多分、それ。傘じゃなくてお前に問題があったんだろ」
「な、なに! この美夏がか!?」
ただでさえ高い声がさらに高く跳ね上がる。
「ああ。お前が不器用だっただけってオチだ」
「むぅ、そんな……バカなッ! この美夏が!」
一人で色々とわめいていたが、楽しそうなので義之は放っておくことにした。
ふと外を見ると雨の勢いは大分おさまってきている。これくらいなら傘があれば帰れるだろう。
「おい天枷」
「そんなことがあるはずがない……この美夏が……」
「雨がだいぶマシになってきたみたいだが」
「最新鋭なんだぞ! 美夏は! その美夏が傘一つにぃ〜〜」
「…………おい」
聞こえていないようなので、もう一度、名前を読んでやることにする。
「だいたい、美夏にできなくて桜内にできる、なんてことがあるはずが……」
「おい、そこのバナナ」
「誰がバナナだッ!!」
コンマ数秒のすばやい反応。義之が言い終わる前に振り向いていた。
(こいつにとっては天枷美夏よりも、こっちの方が真の名前なんだろう。名は体をあらわす。うん。いい名前じゃないか。ザ・バナーナ)
「いいか桜内。耳の穴がっぽじってよく聞けよ。美夏はなバナナというものが」
「雨はだいぶおさまってきたっぽいぜ。今なら帰れるんじゃないか」
「聞けーーー!!」
しかし、今から帰るとなると問題点は二つある。
まず一つ、傘は一つしかないということ。
これはたいした問題ではない。そもそもこの傘の持ち主は美夏なのだから美夏が使えばいい。
重要なのはもう一つの問題。
「お前、その格好で帰る気か」
「む……」
義之自身も相当だったが、美夏のずぶ濡れっぷりも酷いものだった。
まるでスポンジのようにたっぷりと水を吸い込んだ衣服は、大量の水を絞りとれるだろう。
そして義之はここまでくれば家まで目と鼻の先なのに対し、美夏は違う。ここから桜並木を抜け、さらにその上でバスに乗らなくてはならない。
この格好で公共の施設を利用するというのはさぞかし気が引けるものだ。
しばらくここで服が乾くまで待つという手もあるが、それも結構な時間がかかるだろう。
「ふん、別に美夏のことを気にする必要はないぞ桜内。貴様は先に帰ればよかろう」
「そうは言うが……」
義之は顎に手を当て、少しの間、思案する。
沈黙。しかし、水の雫が零れ落ちるくらいの短い時間で義之は顔を上げた。
「あ、そうだ。天枷。お前、家に来いよ」
「なに? 桜内の家か?」
「そう。俺の家、芳乃家」
朝倉の家からこっちに向かってきた美夏にとっては逆戻りの形になってしまうが、まずはそこで服と体を乾かしてもらおう。義之の考えはそれだった。
「しかし……それも迷惑だろう」
「構わないって」
「んーむ、しかしだ。園長だっているんだろ?」
「さくらさん? ああ…」
今日は休日だし、多分家でごろごろしているんだろうな。だらしのない家主の姿を思い浮かべ義之は苦笑いする。
「さくらさんなら大丈夫。気にしないと思う」
「しかしだなぁ……」
「いつまでもこんなところにいるわけにもいかないだろ? なんなら、風呂も貸してやるよ」
何の下心もない、純粋に美夏のことを思っての提案だった。
誰が相手であれ真摯にその人のことを考え、相手にとっての最善だと思うことができる。
桜内義之とは、そういう少年だった。
「んー、そこまで言うのなら……すまんがその提案に乗らせてもらおう」
そんな純粋な善意の大攻勢に、ついに美夏は折れた。
我が意を得たりとばかりに義之は頷くと。
「それじゃあ、帰るわけだが……」
曖昧な表情で傘を見る。
一つしかない傘。降り注ぐ雨。二人の男女。
これらのキーワードにより連想される言葉は一つしかない。しかし。
(ま、ここまで濡れていたら今更変わらないよな。こいつも俺なんかといっしょは嫌だろうし)
そして、まだまだ降り止まぬ雨の中に足を踏み出そうとする。
「あ、待て、桜内」
ふと見ると美夏が目線で傘を示している。
義之は、俺はいいから、と手を振った。
「お前の傘だろ? お前が使えよ」
「しかし、開けてくれたのは桜内だし……。一人だけ傘をさすってのも……」
「別に気にしないさ。もうこれ以上濡れてもたいして変わらないし」
この話はこれで終わり、とばかりに踵を返す義之。
「あぁ……もう! 待てと言っておろうが!」
雨の中に踏み出した義之の隣に美夏が並んだ。
義之が不思議そうな顔で美夏を見ると、彼女はその頬を赤く染めながら、傘を差し出していた。
「ふん。勘違いするなよ桜内。美夏は雨に濡れたくない。しかし、桜内から一方的に恩を受けるだけなのは気に食わない。桜内に借りを返しつつ、美夏も雨に濡れずにすむ方法はないか。そう考えたすえに美夏の高性能AIが導き出した答えなのだ!わかったか!」
長々と早口で告げる。
ぽかんと口を開いていた義之だったが、ややあって傘の手元を取った。
(ようは、別に相傘でも構わないって言いたいわけね)
若干のタイムラグを得て美夏の摩訶不思議言語――通称・ツンデレ語の翻訳を完了し、ようやく彼女の意図を理解した義之は。
(全く由夢といい、ムラサキといい。通訳が欲しいぜ、こいつらとの会話には)
歩きながらそんなことを思う。
しかし、そんな野暮な思考も、雨音が奏でるオーケストラの前には霧消していった。