アイシア?
その日、桜内義之は目が覚めると、いつものように商店街の一角へと向かった。
目指すところはただ一つ。商店街の片隅で露店を営む彼女のところだ。
「お、いたいた」
彼女の姿を見つけ、思わず義之の表情が綻ぶ。
少しウェーブのかかった銀の髪とワインレッドの瞳。サンタクロースを思わせる赤と白の服装。広げたブルーシートの上に可愛らしく座る、お手製の玩具に囲まれたお姫様。
義之は片手を上げ、「よう」と声をかける。
しかし。
「義之くん。……おはようございます」
目の前にいるのは、義之のよく知る彼女ではなかった。

「どちらさまですか」
思わず訊ねてしまった。
銀色の髪にワインレッドの瞳が特徴的な北欧の少女。見慣れたその姿。いつものように彼女は商店街の片隅で露店を営んでいる。
義之の頭の中に浮かんだ名前に間違いはない。間違いがあるはずはないのだ。
「何を言ってるんですか、義之くん。私は私ですよ?」
けど、やっぱり目の前の少女は、義之の知る彼女とは別人だった。
「………………」
「どうしてかたまっているんですの?」
訳が解らないという風に義之を見上げるワインレッドの瞳。
その中にあるのはなんら邪な感情のない純粋無垢の輝き。
彼女にとっては常連であり、友人である少年に挨拶をしただけなのだ。故に、何故かフリーズしてしまっている少年の態度に戸惑いを隠せない。
ただ訳が解らないのは義之の方も同じだった。
「アイ、シア……だよな?」
恐る恐る口に出す。
アイシア。
いつも商店街の片隅でシートを広げて、フリーマーケットのような小さな露店を大真面目に営む少し変わった少女。
義之の問いかけに、やはりクエスチョンマークを浮かべつつ、彼女は頷いた。
「当たり前です。義之くん。 私のこと忘れてしまったんですか?」
「いや、そんなことはないんだけどさ」
違う。なんか違う。
義之の中で、どんどん疑問と疑惑が広がっていく。
「それより聞いてください、義之くん。今日はお客さんがいっぱい来てくれました……」
「へ、へえ。玩具、売れたんだ」
「いえ、そういうわけでは……」
いつもの会話、のはずだ。
話している内容はいつも彼女と交わしている事と違いはない。ないのだが。
まるで別人と話しているような錯覚を義之は拭うことができなかった。
義之の中のアイシアは、常に明るくて、良くも悪くも猪突猛進気味で、若干天然が入っていて、黙っていれば美人で通るのに間の抜けた行動の多くがそれをぶち壊してしまう。
そんな女の子。
しかし、目の前にいる少女は。
「みんな結局、遊んだだけで帰ってしまったんです」
「そいつは災難」
「いえ、そんなことはないですの。みんなが私の玩具で遊んでくれた。笑顔を見せてくれたから……」
それだけで、嬉しいんです。と、安らかな微笑みを浮かべる。
物静かで落ち着いた言葉。変化に乏しい儚げな表情。その中から時折漏れる微笑。
そんな少女の振る舞いはまさに、文字通りお人形さんのような、絵画の中から飛び出してきたような。幻想がそのまま現実になっている。そんな印象を義之に与えた。
(俺をからかっているのか?)
義之が真っ先に思いついたのはその疑念。
だが、それも何か違うような気がする。
演技だとか、冗談とかではなく、何か根本的なものが。
「…………義之くん?」
彼女の瞳が不安げに揺れる。
どこか普段とは違うアイシアの様子に義之の胸が跳ねた。
「ん、ああ! なんだ、アイシア」
取り繕うように、返事をする。少し裏返った声で。
「もしかして…………私のこと、嫌いになっちゃったんですか?」
少しうつむき気味に首を傾け、上目遣いに義之を見るアイシア。
瞳はうっすらと涙を浮かべ、唇は不安そうに震えている。
その可憐な姿に、義之の思考はショートした。
「な! なななな……! そ、そんなことはないって! なんで俺がアイシアを嫌いにならないといけないのさ!?」
瞬間悩殺。
常にハイテンションで進み続ける少女の、普段とは違う一面に少年の顔が真っ赤に染まる。
「けど、義之くん。なんだか、変です」
変なのはアイシアの方だって。
喉まで来た言葉を義之は必死で飲み込んだ。
「いや……それは……。なんか、アイシアの雰囲気がいつもと違うから、少し驚いただけだよ」
「そうですか? 私はいつも通りですけど」
アイシアが不機嫌そうに、顔をしかめたことに義之は気付くのが遅れた。今日の彼女はそれくらいに表情の変化が乏しかったからだ。
「はは……、そうか?」
「あまり深く追求しないでおこう」と心に決めつつ、引きつった笑いを浮かべる義之であった。

「なんで図書館?」
アイシアに連れられて義之は初音島公営の図書館にいた。
遊びに行こうと言い出したアイシアに対して義之は、仕事はいいのか、と至極真っ当な質問を投げかけてみたのだが。
「自営業だから大丈夫です」
なんて言って、瞬く間に玩具とブルーシートを片付けてしまった。
道楽の店でも営業時間をその日のノリで変更したりはしないと思うが、これでも本人は趣味ではなく、大真面目に『職業』にしているつもりらしい。
(しかし、あのバッグは四次元バッグか何かなんだろうか)
そのサイズとは不釣合いなまでの分量の商品を全てを収納してしまったアイシアのバッグを見てそんなことを義之は思った。
「休日だからって遊んでばかりいてはダメです。今日はたっぷりお勉強をしましょう」
「マジすか」
「マジです。 えっと、義之くん、どの教科が苦手ですか?」
「んー、体育以外全部」
「…………お決まりの回答、ありがとうございます」
指先でペンを回転させている義之を見て、アイシアはため息をつく。
「苦手な物から片付けていこうと思ったんですが……うーーん、とりあえず……」
顎に手を当て、困ったように唸るアイシア。
時間にして一分にも満たない思案の末に取り出したのは。
「数学?」
「はい。数学です」
「苦手なんだよなー、数学って」
数学の教科書だった。
館内の自習コーナーに置かれたその教科書は年月を帯びており、義之が現在使用している物より数版も古い物だが、基本的な内容にそこまで違いはないはずだ。
「苦手な物だからこそ、しっかり勉強しないとだめです。それじゃあ、始めますよ」
「……ほー、そんじゃこっちは」
「ああ。それはこの公式の応用です。あ、義之くん、そこの計算、間違ってます」
「んえ! あー、ほんとだ。こんな凡ミスを……。えーっと、ここを計算しなおして、んでもって、こっちの式に代入してやれば……よしっ、できた!」
「正解♪ 義之くん、やっぱり頭の回転が早いです」
「いや、アイシアの教え方が上手だからさ。これでこのページの問題は全部制覇っと」
二人の勉強は滞りなく進行していた。
義之はふと時計を見上げて、軽く息を呑む。既に図書館に着てから相当の時間が経過していたからだ。
時間が経っているという自覚がなかった。普段と違い、勉強という行為をまるで苦痛に感じない。
「アイシアって頭いいんだね」
義之にとってそのことが少し意外だった。なんとなく、普段のイメージから勉強は得意じゃなさそうだ、という先入観があったからだ。
ただ、それはいつものアイシアの話であり、今のアイシアはたしかに勤勉そうな印象を受ける。
「当たり前です。義之くんと違ってちゃんと勉強していますから」
「はは……、耳が痛い」
えっへん、と胸を張る銀髪の少女。
やっぱり違う。どこかが違う。口調も、仕草も、何かが違う。
……けど。
(可愛いことに違いはないんだよな……)
ぼそりと。漏れた言葉は誰の耳に届くこともなかった。

「くー、頭いてえ……」
間断なく自分を襲う頭痛に耐えかね、義之は顔をしかめた。
一日中勉強なんて、慣れないことをしたせいで脳が危険信号を訴えている。
アイシアといっしょだったから、苦にならない。と思っていたが、心の方は誤魔化せても肉体の方は無理なようだ。
「お疲れ様です」
「まさか、俺が休日を丸々勉強に費やすなんて……」
音姉や杏が知ったらどれだけ驚かれることか。いや、そもそも信じてくれるのか。
義之は少しの悔しさが混じった微笑を浮かべ、暁に染まった空を見た。
「たまにはこういうのもありじゃないですか。 私なんて休日なのにずっと座禅させられていたこともありますよ」
「へ、座禅? アイシアって仏教徒?」
意外すぎる組み合わせに目を丸くする。しかし、アイシアは軽く笑い、首を横に振った。
「といっても、正式な作法とは全然違ういい加減な『座禅もどき』でしたけど」
「ふーん……なんでまたそんなことを」
「…………修行、です」
「修行、ねえ……」
修行。
わりとよく使われるようで、現実では滅多に使われる機会のない。大勢の人が意味を理解しているつもりでも、実際に解説しろ、と言われれば困ってしまう。そんな言葉。
(ま、たしかに『修行』のイメージっていえば、滝に打たれて「なんまいだぶ」だけど)
そんな風な連想をする自分は腐っても仏教国の国民ということだろうか。と義之は自嘲気味に思う。 もっとも、そのイメージも『黒人はみんな陽気で三枚目』と同じくらい根拠のないステレオタイプなものだが。
「しかし、ほんと頭が痛い……」
「そういう時は甘いものを食べるといいらしいですよ」
「甘いものか……よし」
アイシアに見えないように、ポケットに手を突っ込む。そして、ポケットの中で小さな饅頭を作り、取り出した。
カロリー的にはプラマイゼロ、でも頭痛に効けば儲けものだ。
ワインレッドの瞳が不思議そうにこちらを見る前に先手を打つ。
「後で食べようと取っておいたお菓子が役に立つときが来たみたいだ」
言った後になって我ながら、説明口調すぎないか。と義之が少し不安に思った時だった。
――――ぐぅぅ〜〜。
二人の間に可愛らしい音が響いたのは。
「あ……」
瞬間、アイシアが白い肌を朱色に染める。
「アイシア……、お腹空いたの?」
「い、いえっ。そんなことはないです」
「けどさっき」
「気のせいです!」
ぶんぶん、と銀髪を揺らして、顔を振る。
その必死な態度に、義之は思わず噴き出してしまった。
「な、何を笑っているんですか?義之くん」
問いかけには答えず、彼女の手に先ほど作った饅頭を置く。
「それ、あげるよ。俺はお腹空いてるわけじゃないから」
「だから私は……!」
「ま、貸し一つってことでさ」
「むー……」
不服そうに頬を膨らませるアイシア。
義之はそんな彼女を見てもう一度、笑みを浮かべた。
「んじゃ、日も暮れるし今日はこの辺で」
「は、はい。 それじゃあ、義之くん」
「ああ。またな」
別れの瞬間。
(最初は戸惑ったけど、やっぱりアイシアは、アイシアだな)
義之はそんなことを思いながら、彼女に手を振った。

――――翌日。
桜内義之は目が覚めると、いつものように商店街の一角へと向かった。
目指すところはただ一つ。商店街の片隅で露店を営む彼女のところだ。
「………………」
彼女の姿を見つけ、思わず義之の表情が綻びかける、が、すぐに声をかけるような真似はしない。
柱の影に隠れ、恐る恐るといった動作で彼女の様子を伺う。
少しウェーブのかかったアッシュブロンドの髪とルビーの瞳。サンタクロースを思わせる赤と白の服装。広げたブルーシートの上に可愛らしく座る、お手製の玩具に囲まれたお姫様。
いつもと変わらない、少女の姿。
ふいにそのルビー色の瞳が見開かれたかと思うと、
「……あっ! 義之くんっ。おはよ〜〜〜っ!!」
軽快な動作で彼女は立ち上がった。
「あ、あ、あ……」
「義之く〜〜ん! そんなところでこそこそと何してるの? あ、ひょっとして、あたしに見惚れていた〜?」
「あはは……はは……、アイシア、だ」
思わず膝から力が抜け、義之はその場にへたり込んでしまう。
「あれ?どうしたの?」
「い、いや……なんでも、ない。はは……おはよう、アイシア」
「も〜、なんでそんな曖昧な顔してるの。あたしの顔に何かついてる?」
結局、昨日のアレはなんだったんだ、そんなことを思いながら彼女を見る。
「………………」
「義之くん? ほんとにどうしちゃったの? なーんか様子が変だよ」
「アイシア、元に戻ったんだな。……よかった。いきなり人が変わったようになったから何事かと思って」
「??? あたしはずっとこの調子だけど……?」
夢でも見たんじゃない。と彼女は笑う。
(……まぁ、深く考えないでおこう……。多分、俺は疲れていたんだ……)
少年は自らが次元の狭間を垣間見たことに気付かず、そう割り切ると、いつものようにハイテンションな北欧少女の傍へと向かうのだった。