End of cloudy
学園長室にはキーボードの音だけが響いていた。
規則的で、どこか小気味よい旋律が、静かな部屋に響き渡る。
カーテンで覆われた窓。その隙間から見えるのは月明かりだけに照らされた漆黒の世界。
そんな中、一人でパソコンと向き合っていたさくらは思いっきり息を吐いた。
「う〜〜ん、やっと終わったぁ」
疲労の色がにじみ出た声。
身体を伸ばし、固まっていた筋肉をほぐせば、いい音がなった。
マウスを操作し、パソコンの電源を落とす。一応、今日の分の仕事は全て終了だ。
「ふぁ〜あ……もう、こんな時間」
キーボードの隣に置かれた時計を見ながら、欠伸を一つ。多少の装飾が施されたクラシックな時計。その短針の位置は、外の情景とあわせて今が夜の10時であることを示していた。
「今夜はこのまま泊まっちゃおうかなぁ」
もう一度欠伸をして、学園長室を見る。
応接用に配置されたソファは結構大きめにできており、小さな身体のさくらが眠る分には問題はない。
デスクワークのおかげで、身体中には疲労が蓄積している。今から極寒の外を通ってまで家に帰る気力は出てこなかった。それに、帰る理由もない。
(家に帰っても、誰もいないしね)
憂鬱な気分になる。自分はこれだけ働いているというのに、家には自分の帰りを待ってくれるような家族もいない。
隣の家に住む朝倉純一を初めとした朝倉家の人間とは家族同然の付き合いをしているが、やはり、家族とお隣さんの間には壁があった。
いくら家族同然の付き合いとはいえ、今、自分が家に帰っても、それを出迎えてはくれないのだ。純一や、その孫の由夢や音姫の家は、自分の家・芳乃家ではなく、朝倉家なのだから。
電灯も灯っていない、誰の靴もおかれていない、寂しい自分の家。
そんなところに帰って、自分の孤独を実感するくらいなら、と思う。
(ってか、なんでこんなに仕事たまってるんだろう……)
ここのところさくらに付きまとっている疑問だった。
何故か異常なまでに自分の、学園長としての仕事がたまっている。
それも急に仕事が増えたというわけではなく、以前からあったものを後回しにし続けた結果、処理待ちの仕事が両手でも足りないほどの量になってしまっている。そういった類のものだった。
それが、わからない。
(ボク、ここまでお仕事にルーズな人間だったかなぁ?)
変だ。
何故、自分が仕事を後回しにしたのか。その理由がわからない。
自分は与えられた責務にこたえられるように、常に最善は尽くしてきたハズ。仕事があるのなら、真っ先にそれを片付けることを優先してきた。それこそ、盆も正月も関係なく。
今にして思えばそれも家族のいないひとりっきりの孤独から逃れるためだったのかもしれない。
お盆だろうとクリスマスだろうと、正月だろうと。ひとりっきりで過ごすのは、寂しい。
その寂しさを紛らわせるため、自分は仕事に逃避していたのかもしれない。戸棚からカップ麺を取り出しながら、思う。
取り出したカップ麺には生麺がどうのだの、火薬を入れるのは後だのと、面倒な手順が書かれていたが、さくらは気にすることもなく全ての袋をぶちまけて、お湯を入れた。
(仕事以外に何もすることないはずなんだけど)
自分に学園の仕事を後回しにしなければならないほどの用事があったというのか? なんども思い出そうとした。けれど、まるで思い出せない。
自分は学園のことを後回しにしてまで何をしていたのか。
(そんな用事……ないよ)
カップ麺ができるまでの時間、傍らに置かれていた新聞を手に取る。
今の自分の生活は仕事だけだ。
朝、おきて、風見学園に行き、学園長としての仕事をこなし、そして誰もいない家に帰ってきて、一人っきりで夕食をとって、眠る。その繰り返し。
変わらない。
かつて、アメリカで魔法の研究をしていた時と、何も変わらない。
ただ、魔法の研究が、学園長の仕事に変わっただけ。
今更ながら、後悔に誓い感情を抱く。
(こんなことなら帰ってこない方がよかったかなぁ……)
何かを求めて帰って来た初音島。自分にないものが得られると思って、自分の孤独を癒してくれると思って、数十年ぶりに帰って来た故郷。
けれど、その故郷は、さくらに何も与えてくれなかった。
純一や音夢の再会は嬉しかった。けれど同じくらい悲しかった。
彼らは自分達の家族を作ってしまっていて、そこにもう自分の居場所はない。そして、彼らと違い、ただ一人変わらない自分の姿がひとり、時間に取り残されている自分の孤独をあらためて思い知らされた。
今となっては、自分は何を求めて帰って来たのか。それすらもわからない。
「そろそろ……いいかな?」
蓋を開ければ、大量の湯気と共に香ばしいラーメンの匂いが部屋に溢れる。少し鼻につくが、食欲を誘う香り。しかし、さくらの表情は綻ぶことはなかった。
「うわ〜、おいしそう〜」
呟いた言葉は空虚な響き。
心にもない言葉を、自分に言い聞かせることほど虚しいことはない。
別にカップ麺が嫌いなわけではない。
「…………」
サファイアブルーの瞳が見る先――ゴミ箱の中には大量のカップ麺。
三日も連続でこんな食事をしていれば、流石に嫌気が差してくる。
割り箸を二つに割りながら、自然とため息が一つ出た。
「はぁ、あったかいご飯が食べたいなぁ……」
家に帰ることができれば、あったかいご飯が食べられるのに。こんなインスタント食品とは比べ物にならない、手作りの、想いのこもったあたたかい食事――――。
「……?」
何を考えてるんだろう、自分は。
さくらは自分の思考に呆然とした。
家に帰ったらあったかいご飯が食べられる? 仮に家に帰ったとして、誰がご飯を作ってくれるんだ?
家に帰ったところで、自分で作るしかない。自分一人で作ったものを、自分一人で食べる。それがあったかい食事? ――――馬鹿か。
(どうしちゃったんだろう、ボク)
自分のことがわからない。
最近の自分はありえないことばかりを考えている。何かにつけて、ありえないことが思い浮かぶ。まるで、それが自然だったかのように
(……疲れが溜まってるのかな)
そうに違いない。と思う。
以前、心理学の勉強をした時に習った知識が言っている。これは『逃避』。
つらい現実に精神が疲弊してしまって、ついつい妄想に逃げているだけだ。
自分に家族がいるような気がするのも、家に帰れば自分の帰りを待ってくれてる人がいるような気がするのも、全ては現実を直視したくない自分が生み出した妄想だろう。
ちょっとだけ冷めてしまったラーメンを啜り、さくらは執務用の机を見た。
仕事に追われて整理整頓すらできていない散らかったデスク。
今日の分を片付けたことで多少はマシになっているものの、明日になれば新しい仕事が運ばれてきて、その上を埋めてしまうのだろう。
(………………)
夜の学園長室。
一人で食べるラーメンは、冷たかった。

門を出て行く生徒たちの顔は明るい。
明日からは休日。ただでさえ、幸福感と開放感に溢れた金曜日の放課後。ここ最近、島全体を騒がせていた謎の事件や事故が収まっているということも、それに拍車をかけている。
生徒たちはみんながみんな、楽しそうに、顔を輝かせて、帰路につく。
(みんな、いい顔してるなぁ)
その様子を見ていると、さくらはあたたかい気分になると同時に、自分の中に寂しげな感情が溢れることを感じた。
生徒たち一人一人の明るい表情は、それぞれの持つ可能性のあらわれ。未来への期待の具現。
それは、さくらにはないものだった。
(羨ましいなぁ。ボクも)
かつては自分もそうだった。自分もあの中にいて、未来への希望を胸に、日々を過ごしていた。
それがいつの間にか、周りの世界と切り離されて、独りきり。
(んー……)
そういえば、と思う。
自分は何故、昇降口にまで降りてきているのか。生徒たちの帰りを見送っているのだろうか。
自分の行動としては、別段、不自然なことでもない。気が向いたときにはこんな風に生徒たちの帰りを見送ったり、逆に朝に登校してくる生徒たちを出迎えることもある。
学園長は忙しいんだから、そんなことは生徒指導に任せておけばいい。と周りの教師に言われることもあったが、生徒たちの顔を直に見ておくことは学園長としての何よりの役目だと思っているさくらは、やめる気にはならなかった。
「…………」
けれど、今日は変だった。
学園長室で仕事をしている最中、流れたチャイムの音。
6時間目の終わりを告げるその音を聞いていると、自然と身体が動いていた。
まるで、何かに導かれるように。この場所に来て、帰路につく生徒たちを眺めていた。
(……早くお仕事片付けないとね。でないと、明日のお休みが潰れちゃう)
生徒たちはもう家に帰れても、自分はまだ帰れない。授業を受けるという責務が終わった彼らと違い自分はまだ責務を果たしていない。
さくらは学園長室に戻ろうと思った。
「…………」
しかし、足が動かなかった。
何故?
生徒たちの顔は見た。彼らの元気そうな顔。それを見ることが出来て、自分は満足のはずだ。
ここに来た目的は達成されたはず。証拠に胸の中にはあたたかい気持ちが溢れている。……けど。
――――まだ、見ていない。
一番、重要な、何か。
自分がここに来た目的は、達成されていない。
だって、まだ、彼を。彼の姿を――――。
「芳乃先生!」
ふいに飛んできた声に、思考の中にあったさくらの意識が引き戻される。
ハッとして、声の方向を見ると、そこには。馴染みの生徒たちの姿があった。
「あ! 小恋ちゃん! それに、杏ちゃんに茜ちゃん!」
素朴で親しみやすい感じの少女、小恋。そして、後ろに控えるのは、お人形のように整った冷淡なる顔の少女と悩み事とはまるで無縁なような明るい顔の少女。
通称、雪月花と呼ばれる三人の女子生徒。
学園でも有名な存在で、特に杏と茜の二人は学園に様々な騒動を呼び起こすトラブルメーカーだ。それゆえに生徒会からのマークも受けている彼女たちだが、さくらにとっては仲の良い教え子だった。
「お久しぶりで〜す」
「うん。久しぶり、茜ちゃん」
「どうかしたんですか?」
小恋の言葉にさくらは笑った。
「にゃはは、最近忙しくてみんなの顔を見れてなかったからね♪」
「へぇ」
「年末の補習授業以来ですね。こうして話すのは。……あ、一応、始業式の挨拶があったか」
「うん。年が明けてからすごく忙しくなっちゃって」
大変ですね、とほぼ同時に言った小恋と茜の顔を見ながらさくらは不思議に思った。
年が明けてから、忙しくなった。1月に入ってから、家に帰った記憶がロクにない。忙しくなったことに間違いはないはずだ。
けど、何故忙しくなったかが、まるでわからない。
「やっぱり、年度末が近いってことで仕事も多いんですか?」
「うーーん。そういうわけじゃ、ないんだけどね……」
自分に言い聞かせるように言う。仕事の量が増えたわけではない。
むしろ量自体でいうのなら、年末の方が余程、忙しかった。
通常の業務(しかも、年末進行というお題目でスケジュールが大幅に繰り上げられた)に加えて、クリパの開催に伴う多くの事務。
そして、クリパで目の前の少女たちがやらかしてくれた『セクシー寿司パーティー』なる珍事。その後始末とそれに伴う補習授業の監督。
「そういえば、ちゃんと反省してるかな? クリパのこと」
「えっ」
「セクシー寿司パーティーだよ♪ みんな健全な学生さんなんだから、もうあんなことはしないでよね?」
気まずそうに目をそらした小恋と茜にからかうように笑いかける。最も、さくら自身はそこまで気にはしていないのだが。
苦い思い出だと思っているのか、小恋が苦笑いを浮かべた。その時だった。
「セクシー、寿司、パーティー?」
それまで会話に参加していなかった杏が不思議そうに口を開いたのは。
(そういえば、今日の杏ちゃんはなんか変だな……)
無感情そうな瞳を見ながら、さくらは思った。妙に無口だ。
杏は一見しただけでは無口で冷淡な印象を受ける娘だが、実際は全くの逆だ。相当に饒舌であり、言葉遊びに長ける。
何度か言葉を交えただけでいつの間にかその会話の主導権を握ってしまう。口八丁、舌先三寸。そんな表現がぴったりくる生徒だ。
「ってなんですか?」
「えっ」
「クリパでそんなことあった……っけ?」
「あ、杏ちゃん?」
さくら、だけではなく小恋や茜の瞳も驚きに染まる。――何を言っているんだ?
「杏……?」
小恋が心配そうに杏の瞳を見る。
すると、その瞳は何かを思い出したかのように見開かれた。
「あ……、そう、だったわね……うん。セクシー寿司パーティー」
「あはは。主催者さんが何を言ってるの♪」
「ふふ、私としてもあれは無かった事にしたい思い出だから」
杏はいつものように不敵な笑みを口元に浮かべると茜と二人で笑った。
「とぼけてみようとしたけど、失敗したみたいね」
「だめだよ。杏ちゃん。 過去はしっかりと、受け止めないとね」
「はい。すみません……えーっと、園長先生……?」
「うにゃ?」
杏の言葉は何故か歯切れが悪い。
妙な発音できれた言葉に、自分に何か尋ねたいことでもあるのかとさくらは思ったが、
「……あ、いえ。なんでもないです」
すぐに彼女は首を振った。
その振る舞いに、やはり違和感を覚える。
「そう? なら、いいんだけど」
「はい。園長先生」
園長先生。
まるでさくらのことを確認するように、目の前にいる人は園長先生だと、自分に言い聞かせるように。杏はもう一度、言った。
「杏……? 本当にどうしたの?」
「大丈夫よ。小恋。別に変なことなんてないわ」
「そうかな? なんか杏ちゃん。今週はずっと調子が違うような……」
小恋や茜が心配そうな顔で杏を見る。
さくらでさえ、妙な違和感を覚えるくらいだ。長年の付き合いで親友である彼女たちに至っては違和感なんていう曖昧なレベルではないのかもしれない。
「大丈夫。私は、いつも通りよ」
しかし、杏はきっぱりと、言い切った。
当人にそう言われてしまっては二人も引き下がるしかなく、これ以上の追及はしなかった。
「……それにしてもー、本当に桜、枯れちゃったね」
妙な空気なってしまったその場を誤魔化すように、茜が言った。
「そうね」
杏が頷き、学園に多くある桜の木を見上げる。つられて、さくらや小恋もその視線を追った。
つい最近までは華々しく薄桃色の輝きを纏っていた桜の木々はその全てが花弁を散らし、冬に相応しい寂しげな姿になっていた。
――――頭が痛い。
急な頭痛を覚え、さくらは頭をおさえた。
「初音島の桜が枯れたのは……10年ぶりくらい、になるのかしら」
「うん。たしかそのくらいだよ」
「どうしちゃったのかなぁ。なんで急に……園長先生?」
――――脳髄が呻く。考えろ。
「う……」
――――頭骨が叫ぶ。思い出せ。
「芳乃先生? どうしたんですか?」
小恋の声が、遠い。
桜。
初音島の枯れない桜。それが、枯れた。
今週のはじめ。何の前触れも何もなく、枯れない桜が、枯れた。
この一週間、初音島の住民の間ではその話題でもちきりになっていた。
さくらも初音島に住まう住民の一人だ。そのことが気にならないはずはない。しかし、何故か桜のことについて考えるとひどい頭痛がさくらを襲うのだ。
「園長先生?」
「……あ、うん。大丈夫。ちょっとクラっとしただけ」
枯れない理由も謎なのだから、枯れてしまった理由も当然、謎。――考えるのは無意味だ。自分のやることじゃない。植物学者にでも任せておけばいいこと。
そう自分に言い聞かせると思考を振り払った。こんな頭痛、そうそう味わいたいものではない。
自分は何も知らない。何も知らないし、何も考えない。それで、いい。
「にゃはは……疲れがたまってるのかなー。最近、こんなんばっかだよ」
「あまり無理はしないでくださいね。 お仕事も大事ですけど、身体の方はもっと大事ですよ」
「うん。わかってる、わかってる♪ ありがとう、小恋ちゃん」
怪訝そうな顔の小恋を安心させようと、さくらは笑う。痛みがまだ頭に残っていて、うまく笑えたかどうかは、わからない。けど、とびきりの笑顔を見せたつもりだった。
「明日から休日だけど、みんなは何か予定ある?」
「いえ、今のところは……」
「そうですねぇ。あ、杏ちゃん。みんなで一緒に遊ばない?せっかくだし。渉くんや杉並くんも誘ってさぁ」
「渉はともかく、杉並のヤツが簡単に捕まるとは思えないけど……まぁ、いい案ね」
そのまま4人で正門のところまで歩く。
彼女たちを見送ったら、仕事に戻ろう。丁度いい踏ん切りがついた、とさくらは思った。
「あれ……?」
その声を発したのは誰だったか。
みんながほぼ同時に、正門のところ、風見学園と銘打たれた看板に背を預けて立つ、一人の少女の姿を見た。
緑のリボンの風見学園付属制服。髪の毛を両側でお団子に纏めた少女。
朝倉由夢はまるで誰かを待っているかのように、佇んでいた。
「由夢ちゃん、やっほ〜!」
さくらが声をかけると由夢はうつむいていた顔を上げて、こちらを見た。
「さくらさん!? それに、小恋先輩と……」
「どうも、由夢さん」
「どうもどうも〜」
その瞳に驚きの色、そして、さくらの気のせいかもしれないが微かな失望の色が浮かんだ。
「奇遇だね、こんなところで」
小恋の言葉に由夢は頷いた。
もたれかけていた石柱から離れ、4人と向き直る。
彼女のお団子頭を見ながら、さくらは疑問の言葉を口にした。
「由夢ちゃん。誰かを待っていたのかな?」
学年は違うとはいえ、同じ風見学園付属の生徒。そこまで帰りの時間に差が出るわけではないが、やはり各学園、各クラスごとに時間はばらける。さくらが見る限り、小恋たちのクラスのホームルームが終わったのは最後の方だったように思えた。
その証拠に小恋たちのクラス、付属3年3組の一団が出てきてからは、昇降口からはもうまとまった生徒が出てくる様子はない。個人的な用事で残っていた生徒たちが散発的には出てくるか、後は部活動に向かう生徒たちだった。
さくらは由夢が昇降口から出るところを見ていない。それはつまり、さくらが昇降口に来る前に既にそこから帰ってしまったことを意味する。彼女のクラスはおそらく全校の中でも最も早く最後のホームルームが終わり、解散となったのだろう。
「え……、そ、そういうわけじゃないんですけど……」
さくらの言葉に対して、由夢は遠慮がちに首を振る。注意深く見ておかなければ、少し首を傾けたようにしかみえないくらいに、小さな動作で。
由夢は否定した。しかし、一番初めに昇降口から出たクラスの人間が、最後に出たクラスの人間と鉢合わせするなど、誰かを待っていたとしか考えられらない。
ならば、誰を?
さくらは少しだけ考えて、答えに思い当たった。
「あ、もしかして、音姫ちゃんを待ってたのかな?」
そうとしか思えなかった。
由夢は学園では誰に対しても人当たり良く接するため、ほとんどの人間とは概ね良好な人間関係を築いている。今、自分の隣にいる雪月花三人組とも学年の枠を越えて、友人とも言っていいほどの関係だった。
しかし、誰に対しても親しいとはいえ、わざわざ帰りを待つ人間となれば限られてくる。そして、ほとんどの生徒がもう帰ってしまった今、その候補は彼女の姉である朝倉音姫しかいなかった。
半ば確信をもって、言ったさくらの言葉。だが、由夢は数秒と経たずに首を振る。
「い、いえ。お姉ちゃんは今日は遅くなるから、先に帰るようにって」
「え? あ……そういえば、そっか」
昼間に一緒に食事をしたときにそんなことを言っていた気がする。
「じゃあ、天枷さん、は、同じクラスか」
「……本当に誰かを待っていたってわけじゃないんです。小恋先輩」
「? じゃあ、どうして?」
わけがわからないといった杏の言葉。由夢は、はい、と力なく呟いた。
「……なんでか、わからないんですけど。こうして、いないといけないような気がして。本当に自分でも変だとわかってるんですけど……」
曖昧な表情のまま、由夢は語りだす。その目はさくらは勿論、小恋たちも見ていない。どこか、遠くを見ているような。無くしてしまったものを必死に探しているような、そんな目だった。
その目を見ていると、さくらは胸の痛みを感じた。
「……いきなり、変なこと言うようですけど、最近、ずっとこんな感じで」
「どういう、こと?」
力のない由夢の言葉。問いかけるさくらの言葉もまた、弱弱しい。
「ずっと、胸の中にあった大切なものがなくなった。……そんな、気分なんです」
胸の前で手をあわせて、うつむく由夢。その瞳は深刻で、悲しみをたたえていて、冗談を言っているようには、とても思えない。
どう反応していいものか。杏と茜の顔にはそう書いてあった。
まるで理解できない。と言うかのように、二人は由夢から一歩、距離を取る。
「……わかるよ、由夢ちゃん」
だが、小恋は、そんな由夢の手を取ると優しく微笑んだ。
「私もそうなんだ。ここのところ、ずっと。この一週間。胸の中にあった大切ななにかを見失ってしまったような。そんな気分……」
「小恋先輩……も?」
「うん。すっごく、寂しい」困ったように小恋は笑う。「……ううん。虚しい。何かを失ってしまったのに、それが何かもわからない自分がすごく歯痒くて、虚しい」
小恋と由夢。
お互いの手を取った二人はそれっきり、沈黙してしまう。
まるで、自分たちが無くしてしまったものを確かめ合うように。
「………………」
理解できない。
さくらは呆然と、二人を見つめていた。
まるでわからない。自分の正直な感想を言ってしまえば、いきなり、何を言い出すんだろう。とまで思った。
しかし、さくらもまた、彼女たちと同様に自分の中に何かの空洞を感じていた。
理性でも記憶でも感情でもない何か。
それに突き動かされることが、最近、度々あったから。
だから、二人の言葉を戯言だ、と断じられなかった。痛みに耐えるように、悲痛な瞳をしている二人から目を話せなかった。
たとえ、それが自分自身を苦しめることになっても。
――頭が痛い。
また、頭痛。今度は胸の痛みも。
何かを訴えるように痛みが全身に走る。
わけがわからない。
――――この痛みは、自分に何を伝えようとしているんだろう?
「……ボクは、ボクは……」
――――自分は、何を失ってしまったんだろう?
――――自分は、何をしなければならないんだろう?
――――自分は、何だろう?
さくらは、何もわからなかった。

「ただいまー」
芳乃家の扉を開けながら、声を出す。
返事は、当然、なかった。
わかっていたことながら、さくらはため息をつく。
芳乃家には電灯の明かりは灯っておらず、明かりを浮かべた隣の朝倉家とは対照的なように寂しげな雰囲気を漂わせている。玄関の扉を開けたところで見えるのは広がる暗闇と、肌身にさす冷たい空気。
なんの音もしない静寂に、身を震わせ、さくらは電灯のスイッチに手をかけた。
玄関に、廊下に、人工のともし火が宿る。しかし、その中にも人の気配はしない。
重い足取りで廊下を歩き、居間にまでたどり着くと手に持っていた荷物を纏めて置いた。
テレビのリモコンを手に取るとその電源ボタンを押す。番組はなんでもいい。とにかく何か、音が欲しかった。
「……お腹空いたな」
空腹感に、小さな手がお腹をおさえる。
芳乃家の居間とキッチンは目と鼻の距離にあるが、こう言ったところで料理が運ばれてくるわけではない。
何か作らなければ。
そう考えて、冷蔵庫を開けたさくらは、呆然とした。
「……にゃはは。何もないや」
冷蔵庫の中にはいくつかの飲み物や卵があるだけで、まともな食事を作ろうと思えばとても足りなかった。
(そうだ。買い物しておかないとって、思ってたのに……)
冷蔵庫の中身がほとんど空であることはわかっていたはずなのに。買い物を完全に忘れていた。
なんて、だらしない、と自分に呆れる。
(これじゃ昔のお兄ちゃんだよ……。ぐーたらだなー)
仕事の疲れのせい。と情けない言い訳が脳裏を過ぎるも、それも言い訳にならない。
帰り道に買い物してくるのは、独り身の社会人にとっては当たり前のことだ。自分が使う物は自分で買わなければならない。
それが、まるで。
――――まるで、自分以外の誰かが買い物をしてくれているような。
そんなことを考えているなんて、怠慢にも程がある。
お腹は空いた。しかし、食材はない。
さくらはため息をつく。
かといって、今から買い物に行く気にもならない。仕事を終えて、疲れた身体。一旦、家の中に入ってしまい、たるんでしまった身体と心に鞭を打ち、また極寒の外に出るのは気が進まなかった。
「ラーメンは……あった」
そうなれば、仕方がない。
非健康的だと自分でもわかっているが、インスタント食品の世話になるとしよう。
戸棚を掻き分けて、ひとつのカップ麺を取り出すと、自分を励ますように作り物の笑顔を浮かべた。
「お湯を入れて〜、蓋を閉じて〜、3分後にはできあがり〜」
虚しい。
わざわざ家に帰ってきたのに。やっていることは学園に泊り込んでいる時と変わらない。
自分の家にいる。その安心感が、多少精神を和らげてたが、それでも、胸の中にこびり付いた寂しさを完全に振り払うことはできなかった。
それどころか家に帰ってきたところで自分は独りだ、ということを。再び確認してしまったことがますます寂しさを大きくする。
――――家では、誰かが自分を待ってくれている。
微かに抱いていた、ありえない期待が。ありえないことだと断じられた。わかってはいた。けれど、悲しい。
(………………)
コタツの中に身体を入れる。
有機的な熱を有した機知の揺り篭は、そんなさくらの身体を温めてくれたが、コタツというものの構造上、足元はともかく、上半身に熱が行き渡るまでは時間がかかる。
身体は、胸は、肩は。まだ寒い。
テレビを見ながらさくらは身体を震わせた
見ている、聞いている。その表現は正しくない。正しくは眺めている。テレビの中では液晶越しにニュースキャスターが何事かを告げるも、それはさくらに何の感慨も抱かせない。
肩にかかる冷気が寒い。隣に誰か人がいればいいのに。
それだけを考えていた。
隣に誰かがいれば、お互いに身を寄せ合うことで寒さを忘れられる。人と人は寄り添うことで身体の寒さも、心の寒さも忘れることができる。
――――だけど。
(誰も、いないんだよね……)
どれだけ考えても、思っても、自分は独り。
全身に蔓延する疲労感がさらに倍増したような感覚を抱く――――疲れた。
「ふあ……」
空腹も疲労の前には押し流される。
さくらは、耳障りとさえ思えるテレビの物音と、場に溢れるラーメンの原始的な匂いを感じながら、
「…………」
意識は徐々に遠のいていった。

………………。
唇が感じる冷たく平らな触感。
「ん……?」
混濁した意識の中で、これは机か。とさくらが理解した瞬間、ぼんやりと視界が開けた。
顔を上げると、それを拍子に肩にかけられていた毛布が落ちた。
霧がかかったように、ぼやけて移る居間の光景。食卓に座った誰もが見れるように置かれたテレビに、壁にかかった時計。そして自分が足を入れているコタツ。
どうやら居間のテーブルに突っ伏して、眠っていたようだ。
「ああ、そういえば……」
ぼんやりとした頭で思い出す。
自分は仕事から帰ってきて、晩御飯の準備をしたはいいが、そのまま眠ってしまったのか。
テレビも付けっ放し、ラーメンも作りっぱなしで、なんてだらしない。
「………………?」
そこまで考えて、さくらの瞳は見開かれた。
その瞳から眠気が消え、辺りを見渡す。
テーブルの上には何もなく、水拭きでもしたのだろうか? 窓から差し込む光を反射して、綺麗に輝いている。
BGM代わりにとつけていたはずのテレビは、電源が切られており、代わりに小鳥の鳴き声が耳に心地いいBGMになってくれている。
それに、と傍らに落ちた毛布を見る。こんなもの、羽織った覚えはない。
誰かがかけてくれたのか、だとすれば、一体誰が――――。
呆然としていたさくらの耳は、ひとつの音を捉える。
音――いや、それは声。
「ねえねえ、義之くん。このお肉はどうする?」
「あー、それは冷凍庫の一番上。残りの野菜はそのあたりに置いておいてくれ」
とてもなつかしくて、そして、あたたかい。
声。
「とりあえず朝飯に必要な分だけ出しといてくれ。後は俺がやる」
キッチン。
声は、キッチンの方から流れてきている。
「あ、あ……」
立ち上がろうとしたさくらは目眩を覚えて、その場にふらついた。
なんとか、身体を支えようとするも、一旦崩れたバランスは整えられず畳の上に倒れ込む。
物音が響いた後、キッチンから呟きが聞こえた気がした。ほどなく、忙しない足音がさくらの方に近付いてくる。
足音は目の前でとまり、足音の主は腰を落とすとさくらを気遣うように言った。
「大丈夫ですか」
これだ。と思った。
そう、この声だ。
「目が覚めたんですね……おはようございます」
ずっと、求めていた声。
自分がずっと、求めていたもの。
さくらが顔を上げると、そこには、
「義、之、くん……」
桜内義之が、彼女の息子が――――いた。
義之が気遣うように不安げな顔を浮かべて、右手を差し出すと、迷うことなく、さくらはその手を取る。
「どうして……」
それだけしか、言えなかった。
魔法が、枯れない桜が。
記憶が混濁している。思い出そうとすればするほど頭の中身はぐちゃぐちゃになって何も、出てこない。
けれど、目の前にいる彼は、桜内義之は、もうこの世界には存在していないはず。それだけは、思い出せた。
いまにも消えてしまいそうな力のないさくらの言葉。
さくらの思いを知ってか、知らずか、義之は彼女に向けて笑った。
「はは。どうして、でしょうね」
優しげな微笑。
さくらを支えるように義之は立ち上がり、真摯な瞳がさくらを見た。その瞳は、真っ直ぐに自分を見据えていて、とても夢や幻には思えない。
「自分でもよくわからないんです。なんで、俺はこうしていられるのかって……」
「うん。だって、君は……君は……!」
言葉に力がこもる。どうして、どうして、どうして――――! 感情があふれ出る。制御なんてできない。
「さくら」
そんな折、静かな声が二人の間を横切った。
諭すような、祝福するような、不思議な響き。
「大丈夫。義之くんは、ここにいるよ」
アッシュブロンドの髪の少女が、ルビーの瞳を輝かせて、告げていた。
幸せは、ここにある――――と。
「あ――――」
両足から力が抜けた。だらしなくその場に座り込んでしまう。
実感が湧くと同時に、全身が安堵の心で包まれる。何も理解できないでいたサファイアブルーの瞳は徐々に現実を見つめ、涙でそまっていく。
「お腹空いたでしょう? ちょっと、待ってください。すぐに朝ごはん作りますから。 アイシアも手伝ってくれるよな」
「もっちろん! 夫婦での初めての共同作業だね♪」
「夫婦って……ま、いいけど」
肩を竦めながらも、義之は笑った。
自分のもとから離れて、再びキッチンに向かう義之。その後姿を見ながら、さくらはハッとした。
「あ……義之くん!」
追いすがるように背中にかけられた声に反応し、義之の足が止まる。そして、ゆっくりと、さくらの方を振り向いた。
「なんですか?」
返ってくるのは、やはり笑顔。胸の中があたたかい感情で溢れる。
言わなければ、この言葉を伝えなければ。
さくらは、静かに、けれどはっきりと、言った。
「おかえりなさい」
母親として。これだけは言わなければならなかった。
義之は一瞬、ポカンとした顔になるも、すぐに全てを理解したように、気恥ずかしそうな笑いを浮かべる。
「はい。 ただいま、さくらさん」
窓から差し込む、朝の日差しはあたたかくて。
今日は、いい天気になりそうだった。