Trinity
カーテンの隙間から入ってくる朝の日差しに義之は自分の意識が覚醒していくことを感じた。
すぅっと、視界が開けていく。
別段、義之は寝覚めが悪いことはないが、良いというわけでもない。このように目覚まし時計の無機質な異音や同居人たちに強引にたたき起こされる前に起きることができるのは珍しいことだと自分でもわかっていた。
寝覚め時にありがちな気だるさはなく、気分がいい。こういう日は何かいいことがありそうな気がする。
少しずつ頭の中のエンジンがかかる。夢の中に沈んでいた記憶が浮かび上がる。そういえば今日は休日のはずだ。学園も生徒会の手伝いも何もない自由な日。やっぱり、何かいい事が――。
「……ん?」
意識と感覚がクリアになっていくにつれて、気付いた。
しかし。
「………………」
気のせいだろう。
義之は自分に言い聞かせて、そして、念のために枕元に手を伸ばした。コツン、と。指の先が硬質の何かに当たる。この安物のプラスチックの感触。間違いない。愛用の目覚まし時計だ。
腕を横にずらすとまた別の感覚、紙の触感が伝わってきた。本。そんなに分厚くはない。標準的な単行本サイズ。これの正体もわかる。昨晩、眠る寸前まで読んでいたコミック。この二つのオブジェクトから推測――ここは、自分の部屋。自分ベッドの上だ。
頭が回る。記憶がしっかり確認できる。寝覚めから一分と経っていないというのに義之の意識はハッキリと覚醒していた。だからこそ、気付いた。
気のせいだと、言い聞かせていたことが、気のせいでもなんでもないことに。
「………………」
布団の中。朝の日差しを浴びて煌々と輝く金色の髪。
髪だけではない、その先を辿っていけば――。
「……何してるんですか」
芳乃さくらが、居た。
このベッドはそう大きなものではない。義之一人が横になれば総面積の八割方を占有してしまう。そんな中。開いているスペースに、無理やり押し込むように、さくらは小さな体を潜り込ませて、眠っていた。
幸せそうな顔をして寝息をたてている彼女の口からは、義之の疑問への返事はない。
(……はて)
天井へと視界を移し、考えた。
こんなことを言うのもなんだが、今の自分はかなり冴えている。朝の勉強は効率的という話を聞くたびに寝覚めの気だるさを引き摺ったまま勉強しても何の効果もないだろうと突っ込みを入れていたが。なるほど、たしかに。今なら歴史年表だろうと、元素記号だろうと。なんだろうと覚えられそうな気がしてくる。
こんなに清清しい目覚めは年に何度あるかないか。それくらいには頭が冴えている。だから、昨晩のことを、眠る前のことを思い返すのも容易だった。
そう。
昨晩の記憶を漁ってみても、まるで思い当たらない。何故、彼女が自分と同じベッドにいるのか? わからない。
そう、すぐに気付けるくらいは頭は冴えていた。自分が彼女を引き入れたなんて記憶はなく、そもそも、姿を見た覚えすらない。
(勝手に入ってきたのか……?)
そうとしか考えられなかった。
スー、スー、と心地良さそうな寝息を聞きながら、頭をかかえる。この人の性格はよく知っている。別段、驚きはしない。驚きはしないが。
(やれやれ……)
呆れる。
さくらを起こさないように気を使いながら、義之はベッドから上半身を起き上がらせた。
一応確認してみるが、着衣に乱れなどはない。見に纏ったパジャマは眠るときの状態。そのままだ。さくらの方もいつも通り。いつも通りの寝間着だ。
万に一つも、何かが起こったということはなさそうだった。何かが起こるなんて、ありえないとわかっているが、一応、安心する。全く、本当にこの人は……。
呆れつつも、どこか微笑ましい気持ちになりながら、義之がベッドから降りようとした。
その時だった。
「おっはよーー!」
響き渡る声。
元気一杯、としか表現のしようのないその声に、短いノックの音が続き、返答する間も何もなく、扉が開いた。
「義之くーん、朝だよ! あーさー! ……え?」
部屋の中に入ってきたアイシアは、その勢いのまま、硬直する。
ピシリ、と、何かに亀裂が入るような音が聞こえたような気がした。この時になって、義之は初めて気付いた。今の自分の、この部屋の状況が客観的に見てどう写るのか、ということに。
朝の日差しに照らされた部屋。一つのベッドの中。男と女。
「あ、ああ。アイシア。おはよう……はは」
「………………」
信じられないものを見るように見開かれた、ルビー色の瞳が見据えるのは義之、そして。
「……うにゃ?」
絶対零度の視線を感じ取ったかのようにもぞもぞと、布団が動いたかと思えば、サファイアブルーの瞳が眠たげに開かれる。
顔を上げたさくらは一人、大きな欠伸をすると。にぱっと笑顔になった。
「さくらさん……」
「にゃはは。義之くん、おっはー。あ、アイシアも。はろはろ〜」
まるで何事もなかったかのように、ベッドから飛び降りて、硬直していたアイシアに対しても笑いかける。
ああ、やばい――と義之が思った瞬間。
「な、な、な……何してるのよぉ〜〜〜っ!!」
部屋中に素っ頓狂な声が響き渡り、アッシュブロンドの髪が揺れた。掴み掛からんばかりの勢いでさくらに詰め寄り、声を荒げる。
「さくらぁっ!」
「うにゃ?」
「何してるのよ!? 義之くんと!」
「ちょ……、まて。アイシア……これはだな……」
明らかに怒気を含んだアイシアの言葉に義之の体が震える。しかし、さくらはこの状況でものん気だった。
「にゃはは」と相変わらずの天真爛漫な笑いと浮かべて、アイシアに問い返す。
「何って? ナニ?」
「ナニもカニも……何でこんなことしてるのよ!」
「にゃはは? どういう意味かな?」さくらは背伸びをしながらからかうように続けた。「具体的に言ってくれないと、ボク、お馬鹿さんだからわかんないんだ♪」
これはのん気――ではない。綺麗なサファイアブルーの瞳。その中に義之はたしかに見た。
そう。雪月花(主に雪と花が)の面々が他人を囃し立てる時のような。杉並が何かの悪事を企んでいるときのような。そんな色。今のさくらの瞳はまさしくそれだ。
「む〜……」
このまま続けても暖簾に腕押しだと悟ったのか。まるで要領を得ないさくらの言葉に業を煮やしたのか。
数秒の後に、ルビー色の瞳が義之の方を向く。
「よっしゆっきく〜〜ん……」
引きつったような笑みを浮かべて義之を見つめるアイシア。思わず部屋から飛び出したくなったが、それを必死で抑えた。
「は、はいっ」
「説明してくれるかな〜?」
「えーっと、これは……その……」
咄嗟に言い訳も出てこない――というより元々、やましいことはしていないのだから言い訳も必要ないはずなのだが。
たしかに、客観的にみて非常にまずい状況なのは承知のことだ。しかし、この状況は自分にとっても完全に想定外のことであり、自分に責任や説明を求めるというのは無理があるのではないか?
「だから、ほら……さ」
「だから?」
「その……」
頭の中を様々な思惑がよぎるも、不思議なことにそれらを言葉として外に出そうとしてもまるで形を成してくれなかった。追い詰められた、緊迫した状態の人間は論理的な思考を言葉を構築する能力が極度に低下すると聞く。しどろもどろ、とはこういうことか。
ジリジリ、と威圧感が強まる。
アイシアはその場から動いていないのに、自分の眼前にまで迫ってきているような錯覚を覚える。
そんな折、
「ボクと一緒に寝てただけだよね。義之くん♪」
「ええ、まぁ。そういうことです…………あ」
助け舟のように出されたさくらの言葉につい相槌を打ってしまった。
条件反射というやつだ。馬鹿みたいにうんうん、と頷いてしまった。それは助け舟でもなんでもない、泥舟だったというのに。
ひんやりと。アイシアの声のトーンが低くなる。
「へぇ〜、そうなんだ……」
「い、いや、違っ。今のは……」
「義之くんとさくらが何をしていたのか……よーく、わかったよ」
「あつ〜い夜だったね♪」
さくらは小さな体を軽快に跳ねさせて、再びベッドの上に飛び乗った。そして、冷ややかに細められたルビーの瞳に見せ付けるように、義之の手を取ると、にっこりと笑顔で言った。
また余計なことを――と思う暇もない。
アイシアの肩が震え、その顔が真っ赤に染まったかと思えば、
「この、浮気者〜〜〜〜ッ!!!」
部屋中、いや家中に響き渡るのではないかと思えるくらいの叫び声が義之を襲った。
「あたしというものがありながらー! さくらなんかにー!」
「わー! だから誤解だって!」
「む……、ボクなんかにって。『なんか』ってなにさ!」
「言葉通りの意味よ!」
今日はいい日になりそうだと思ったけど――。
「義之くん! 納得のいく説明をしてほしいな!」
「にゃはは♪ 説明もなにも、さっき言った通りだってば。ねぇ、義之くん♪」
今日もまた、騒がしい一日になりそうだ。
部屋を覆う二つの高い声に対して、義之は一人、ため息をついた。
◆
「まったく。紛らわしいことはやめてよね」
アイシアは憮然として言い放つと、お茶碗を両手で抱え、緑茶を啜った。
湯気と共に茶葉の香りが立ち上り、鼻孔をつく。緑茶特有の穏やかな色。それをもってしても和らげることはできないのか、その顔には隠そうともしない不機嫌さが浮かんでいた。
「やめてよね……って、言われてもなぁ」
急須を机の端に置きながら、義之は苦笑すると、つられるようにさくらもにゃはは、と笑う。
「そうだよね〜。人間、誰しも、わかっていてもやめられないことがあるもんね〜。
禁句だと知りつつもやめられない……そんな義之くんの苦悩。わかってあげなよ。アイシア」
……そういう意味ではないのだが。
なんとも真剣そうに、的外れなことを言ってのけるさくら。その姿を見ていると呆れ声が漏れた。
「あの、何を勘違いしているかは知らないですけど……。俺に言われても困るって意味ですよ?」
「あはは♪ 知ってるよん」
「…………」
「さくらぁ……」
まるで悪びれた様子もなく、笑う家主に、居候二人は沈黙するしかなかった。
結局、朝の一件について(長い混乱と回り道をえてから)さくらの口から説明された事の経緯は以下のようなものだった。
休日の朝一番。寝覚めがよかったのは義之だけではなく、今日はさくらも早々と目が覚めたらしい。しかし、目覚めたのはいいがお腹がすき、何か作ってくれないかと思って義之の部屋へと――自分で作るという選択肢はなかったのかと、至極真っ当の突っ込みをアイシアと二人で入れたがさくらは笑うだけだった――やってきたのだという。
当然、さくらが部屋を訪れたときには義之は眠っていた。普段ならばここでダイビングアタックなり大声なりで無理やりに義之を起こすのだが、今日は何故かそんな気にもならず、布団の中に潜り込み、義之が起きるのを待っている内に自分も二度寝してしまったのだという。
最も、その段階、さくらが説明をはじめる前にはまずは完全にヒートアップしてしまったアイシアを落ち着かせる必要があった。「落ち着かせる」と口で言うのは簡単だが、実際に行うのは、並大抵の苦労ではない。
元々、その明るさの反面、思い込みが激しいところのあるアイシア。
一旦、抱かれてしまった誤解を解くのはそれだけで一苦労だというのに、義之が何か言うたびに、さくらが余計な口を挟み、彼女を煽る。そのたびに義之が気を揉むことになった。
「二人でボディーランゲージをしていただけだよ♪」だの「ボクはそんな気はなかったんだけど、義之くんが強引に……」だの。あからさまに自分達をからかうために言っているとわかる大嘘にまで一々、アイシアが反応するものだから、何度、同じことを言ったか、何度、話題がループしたか。
寝覚めの良さからくる冴えた頭でも思い出せない。いや、あまりにもバカバカしくて思い出す気にもならない。
そんな、なんともくだらないことをしている内に少なからずの時間が過ぎてしまい、今日の朝食は随分と遅い――昼食といっても通用する――時間になってしまった。
休日の芳乃家の朝は平均してもそう早いものではなく、何事もなかったとしても平時はこのくらいの時間に朝食を取るのが常だ。しかし、折角、休日らしからぬ快適な早起きができたというのに、この有様では少しだけ損したような気分になってしまう。
そんな折、
「……でも、やっぱり誰かと一緒に眠るって、あったかいね」
さくらがぽつりと呟いた。
先ほどまでのようなふざけた様子はなく、アイシアも少しだけ眉根を寄せたが声を上げるようなことはなかった。
「そうですか?」
「うん♪ すっごく安心できた。やっぱり家族で一緒に眠るっていいね」
「家族、一緒に……」
その言葉に。
かつてのことを思い出す。
自分が彼女に拾われて――すなわち生まれて――すぐ後。朝倉家に預けられていた時のこと。
あの頃はまだ幼かったから、眠る時はいつも家族で一緒だった。兄弟同然の二人の女の子にそして姉妹の母親であり、義之にとっても母親のような存在だった彼女。四人一緒の布団。四人一緒のおやすみなさい。幼心に覚えている。そのあたたかさを、家族のぬくもりを。
家族と一緒に眠るということ。それは人間の最も奥底に刷り込まれている欲求、本能のようなものなのかもしれない。
「……ええ」
「やっぱり、義之くんもそう思うよね♪」
「まぁ、そうですね。……家族のぬくもりって、やっぱいいものです」
自分でも驚くくらいに、静かな声だった。かつての記憶を抱いた言葉。
ガラにもない。一人、感じた気恥ずかしさから逃れるように、義之はお茶を啜った。
(由姫さん……)
過去のことに思いを馳せれば、自然とあの人の顔も頭に浮かぶ。大切な人との、大切な思い出。
そういえば。最期の時。あの人は言っていた。
――それと、最後にひとつだけ。
あの時は、なんのことだかわからなかったけど。今なら、わかる。
「ん?」
義之の視線に気付いたのか、さくらはサファイアブルーの瞳を不思議そうに寄せた。
なんでもない、と手振りで返すと誤魔化すように再び緑茶を一杯。茶碗の中にはお湯に融けきれなかった茶葉しか残っていなかったが。
――あなたの本当のお母さんも、わたしと同じくらい、ううん、わたし以上にあなたを愛しているわ。
脳裏に思い起こされるやさしい声。
きっと、あの人は気付いていたのだろう。義之の本当の母親、その存在と正体に。
「………………」
けれど、あの人も自分にとって間違いなくお母さんだった。母親として、自分なんかにはもったいないくらいの愛情を注いでくれた。
ちょっとした切欠で溢れてきた、記憶。少しだけ悲しくて寂しい。でも、あたたかくて、大切な思い出。
そのことを思えば、ガラにもないとわかっているが、やはり、しんみりした気持ちになってしまう。
「もー、義之くーん。なに辛気臭い顔しちゃってるの〜」
「そうだよ。せっかくの休日なんだから、テンション上げていこうよ!」
そんな心情を見透かしたように、二つの声が重なる。声の主はどちらも、太陽のような笑顔を義之に向けていた。こうしてみると姉妹みたいだな、と思う。
――だから、あなたもお母さんを愛してあげて。
さくらを見る。
自分より、頭一つ分も二つ分も小さな背丈。繊維のように綺麗に伸びた金髪。子供のように無邪気に輝く瞳。どう見ても年上には見えない。その姿。
しかし。彼女は紛れもなく自分の母親。愛すべき家族だ。
(わかってますよ。由姫さん……)
あの時、できなかった返事を、そして誓いを胸に。
「ん、ああ。悪い二人とも。ちょっと、ね」
義之は咳払いするように呟くと、二人に対して、笑顔を見せた。
過去を省みるのは大事だけど、あまり引っ張られてしまうのも本末転倒。今日はせっかくの休日。ブルーな気分でいるのは損だろう。
忘れてはいけない記憶を胸に、日々を明るく生きる。それが、きっと真理なのだろう。
義之は、そう思った。
一瞬の静寂。
それに耐えかねたかのように、さくらはしたり顔になると、
「……というわけで。これからずっと一緒に眠ってもいいかな? 義之くん」
一言で、その場の雰囲気をぶち壊した。
「ごほっ!?」
「な……! さくら!?」
喉元を通っていた茶葉が逆流しそうになるのを、義之は必死で堪えた。
いきなり何を言い出すんだ。と思ったのは義之だけではないようで、アイシアもポカンとした顔をしている。
咳き込むのが収まりきらない内に疑問の声が先に出た。
「な、なんでまた……けほっ、急に……」
「うーん。ほら、やっぱり。家族って一緒に眠るのが自然じゃない? 今日、実践してみて、それがよ〜くわかったから♪」
だからさ、とさくらは机から身を乗り出す。その機先を制したのは義之ではなく、
「だめっ!!」
アイシアの声だった。
「ええ〜〜!? なんで〜〜?」
「もう! なんか二人が真面目そうに話してるから、黙っていてあげたら……、それをいいことに何言い出してるのよ!」
「だってさ〜。ボクと義之くんは親子なんだよ〜? それくらい何も問題はないじゃん」
ねえ? とばかりにさくらの瞳が義之に向けられる。どういう反応を期待しているのかは知らないが、返せる言葉なんてあるはずもない。
「だめ! たしかに、親子だし……、家族だし……、別におかしなことじゃないかもしれないけど……」
いや、おかしいことだろ。
アイシアの言葉にポカンとした。子供が学生といえる歳にもなってまで、家族で寝床を同じくしているというのは相当希少な例だろう。
そもそもが、義之は男で、さくらは女だ。その分け隔てを突破するために「家族」や「親子」という理由が効力を発揮する期間はもうとっくに過ぎ去っているのではないだろうか?
義之はそう思っているし、アイシアも当然、同じ考えを抱いているものだと思っていたのだが……。
「でも一緒に寝るのは絶対だめ!」
「なんでさ〜?」
本当に不思議そうに首を傾けるさくらに対し、アイシアは一拍の間をおくと、実に堂々と、言った。
「義之くんはあたしのものだから! 義之くんと一緒のお布団に入って、一緒のあたたかさを感じていいのは、あたしだけなの!」
まるで「地球は丸い」とでも言うような、はっきりとした断言。
一欠けらの疑いも、淀みもない声に、義之は自分の体が引っくり返りそうになるのを必死で堪えた。
(何を言い出すんだ……!)
畳にダイブしそうになった頭を上げる。どこも打っていないはずなのだが痛い。
あらかじめ知っていたら、頭は上げなかったかもしれない。顔を上げてしまえば、さらなる酷い頭痛に襲われるとわかっていたら、ずっと畳に突っ伏して、ひたすらに嵐が過ぎるのを待つという選択をしたかもしれない。
しかし、もう頭は上げてしまった。
上がった視界は炸裂寸前の爆発物の姿を、捉えてしまったのだ。
「…………」
さくらはまるでお気に入りの玩具を取り上げられた子供のように、不機嫌そうな顔をしていた。メラメラ、と怒りの炎が空気を炙る音が聞こえる気がする。
あ……、と義之が思う暇もない。
密閉された空間に溢れたガスがちょっとした火花で大爆発を起こすかのごとく、人間の反射神経が反応できるより遥かに短い時間、まさに刹那の時間で。
「いつ義之くんが、アイシアのものになったのさ!」
炎は爆裂した。
さくらが音をたてて座布団から立ち上がり、それに呼応するようにアイシアもアッシュブロンドの髪を揺らし、立ち上がる。それが合図。
広々とした芳乃家の居間は、砲火の飛び交う、戦場と化した。
「いつ、って……そんなこともわからないの?」
「少なくとも、ボクには覚えはないよ! ……っていうか、そんなの絶対ボクが許可するはずないし!」
「なんでさくらの許可が必要なのよ」
「そんなの当たり前だよ! だって、義之くんはボクの子供なんだよ!?」
「ふぅ〜ん。それが? 今時、息子の交際にまで口を出してくる母親なんていないよ!」
「うにゃっ!?」
花火の連鎖みたいだな、と義之は目の前の合戦を見て思った。
夏の夜。音姉や由夢と一緒に庭に出て、一緒にやった花火。順番待ちをしている花火の束は引火することなんて絶対ないように離れたところにまとめておいて置くんだけど、そこは完璧なようでどこか抜けている音姉や、優等生を気取るくせにうっかり気質のある由夢。ついつい火花を飛ばしちゃって、一つに火が灯ると同時に、次から次へと。連鎖して――。
(って、現実逃避はだめだ、俺……。過去に逃げるのは……)
一つの花火についてしまった火。それが巻き散らかした火花はさらに周りの花火を着火させ、盛大なる炎のパーティーを巻き起こす。
今、義之の目の前で起こっているのはそれに近い。さくらとアイシア。どちらかが何かを言えば、もう片方の怒りと反論を呼び、それがさらにまた――。
このままだと多分、お互いが腹に抱えているものの全てを燃やしつくすまで連鎖は続いてしまう。『雨降って、地固まる』という言葉もあるが、このままだと『雨降って、血固まる』になりかねない。
この連鎖(ネグザス)を止められるのは、自分しかいないのだ。
「アイシアばっかり義之くんを独り占めはずるいよ! ボクにもちょっと譲ってくれてもいいじゃない!」
「義之くんは一人しかいないのに、譲るも何もないでしょ!」
「あー、あのー、お二人とも……」
一段と酷くなった頭痛を抑えながら、義之は切り出した。
「義之くん」と二人の声が全く同じタイミングで返ってきて、重なった声に二人はハッとしてお互いを見合わせ、またすぐに顔をそらした。
「と、とりあえず落ち着いて。ほら、お茶でもどうぞ」
義之は机の端から急須を取ると、二人の手前に置かれていた――あの剣幕の最前線に晒されながらよく倒れなかったものだ――茶碗に緑茶を注いだ。もうぬるくなってしまっているが、熱しすぎた頭を冷やすにはこれくらいが丁度いいだろう。
「うにゃ……」
「あ、ありがとう。義之くん」
罰の悪そうな声を聞きながら、自分の茶碗にもお茶を注ぐ。
争いを止めるために最も有効なのは、一旦、ほんの少しの時間でいいからお互いが静まるタイミングを作ることだ。特に言葉のみを武器に争っている場合は「水を差すこと」は何よりも良策になる。
お互いに引くに引けないといった状況も一拍、何かを考える間を作ってしまえば、驚くほどあっさり収まるもの。その一拍の時間を何で作るかはさておき、義之はそのことを知っていた。だからこそ。
「……落ち着きましたか?」
この温いお茶を飲み終えた時、自然と二人の感情はおさまっているだろう。そういう確信があった。ぬるま湯はお世辞にもおいしいとはいえないが、ゆるやかに胸の中にしみて、気分と頭痛を収めてくれる。
佇まいを直し、座布団に座りなおしたさくらとアイシアもそれは同じだったようで、その顔からは熱が抜け落ちていた。
「ま、まぁ、ちょっと感情的になりすぎちゃったかな……」
アイシアがお茶碗を置くと同時にさくらも頷く。
「うん……ボクも少し強情だったかも……」
「あはは……」
「ごめんね。義之くん。大騒ぎしちゃって」
「いえ。落ち着いたのならよかった。俺も二人が喧嘩しているところはあまり見たくないんで」
たとえ本気で喧嘩しているわけではないと知りつつも、やはり、勘弁願いたい。こんなことが続いていては胃袋と脳髄に致命的ダメージが入ってしまう。
(ま、明日にはまた別のことで騒ぎになるんだろうけど……)
目の前の一応、嫁と姑という関係に当たる二人を見ながら義之は苦笑いした。自分の胃袋はどれだけ持つことやら。偏頭痛なんか患ったりするハメにならなければいいんだけど。
全員がお茶を飲み終えたのを合図としたように義之は時計を見た。
お昼過ぎ。思ったより時間は過ぎていない。
「どうします、今日は?」
せっかくの休日。家の中で一日をつぶすというのも勿体無い話だし、どこかに出かけるとするのなら丁度いい時間帯だ。そう思いながら二人に向けて言った。
「「う〜〜ん」」
また二人の声が重なった。二人して顎に手を当てて考え込むような仕草を見せる。かと思えば、ほとんど同時に顔を上げて、それぞれ宝玉のような瞳を義之に向けた。
やっぱり、姉妹みたいだな。
輝く二つの笑顔を見ているとそう思えた。
「「商店街はどうかな?」」

初音島に娯楽施設はそこまで多くない。
何せ、そもそもが離れ島だ。
『枯れない桜』という唯一にして最大の特徴(それもいまではないが)や、島といえども本土から車も通れる大型の橋や定期フェリーは通っていて、都心から片道三十分前後で来訪できるという中途半端なアクセスの良さのおかげか、田舎というほど辺鄙ではないものの、都会といえるほどの賑わいがあるはずもない。
そんな中で遊べる場所を探そうと思えば、島内では最大級のレジャースポットである遊園地『さくらパーク』か、天然の遊び場である浜辺、そして桜公園くらいで。加えて、女性にとって休日の遠征に欠かせない要素である『買い物』という条件も満たせるのはこの商店街しかなかった。
買い物のできる場所は他にもあるが、楽しめるレベルまで店が揃っているのはここしかない。この商店街は表通りも裏通りも様々な店で溢れていて、女性ならば見て回るだけでもさぞかし楽しいのだろう。
少しだけ皮肉交じりに思う。何故なら義之自身は『ウィンドゥショッピング』というものをあまり好ましく思っていないからだ。
足が棒になるまで、歩き回り、色んな店を回って、時間を無駄に浪費する。残るのは疲労感のみ。誰が考えたのか。何故、好まれるのか。何度付き合わされても、まるでわからない。
しかし。
「義之くーん! おそーい!」
「早くしないと先に行っちゃうよー」
「ああ、悪い」
二人の声に急かされて足取りを速める。
先ほどから服屋を中心に回っているが、どの店でも二人はあれでもない、これでもない。と楽しそうに商品を見て回っている。そんな二人の顔を見ているとケチを付ける気も、文句を言う気も出てこなかった。
ひょっとしたら楽しい、とさえ感じているかもしれない。
(変わったね、俺も)
雑貨屋の店頭に置かれた箱に視線を落とす。『どれも100円!』と書かれた箱の中には大小、様々なアクセサリーが詰まっている。
子供向けの飛行機や恐竜のキーホルダーから、花びらや十字をかたどったペンダント。安物ですよ、と言わんばかりの不恰好なブレスレットまで様々だ。
「義之くん、何見てるの〜?」
ひょっこりと、さくらが顔を出す。
彼女は義之の視線を追うと、へぇ、と興味深そうに呟いた。こういった小物の類は好きなのだろう。
「何か気になるものでもあった?」
「いえ」
何気なく見ていただけなのだから、気になるもなにもなかった。
義之はあらかじめ買うと決めていた物にしかお金を使わない。というようなタイプではないが、特売品箱の中は100円ですら高いと感じるようなものばかりで、購入意欲を刺激してはくれない。
(2つ、3つで100円なら、まだ……いや、それでも高いな)
六角形のペンダント。そのチェーンを手に取る。安っぽいクリアブルーの色合いは本体触るまでもなく、プラスチック製だということを教えてくれる。中央には宝石に見せかけてガラス玉が埋め込まれているが、これまた安っぽい。今時、小学生の女の子でもこんなのを貰っても喜ばないだろう。
「どれも微妙ですね。デザインが」
というか、デザインだけの問題じゃないけど。
一人、胸中で捕捉しながら義之はペンダントを箱に戻した。
「ふ〜ん」
疑問符のついたような声を返し、箱の中をあさっていたさくらだったが、しばらくして、顔を上げた。
「ま、在庫処分の特売品なんて、こんなもんでしょうね」
「んー、言うほど悪いものじゃないと思うけどなぁ……。それに〜」
ちらり、とサファイアブルーの瞳が義之の胸元を示す。
「義之くんが今、つけてるのよりは、よっぽどマシだと思うけど?」
「うっ……」
からかうような言葉に絶句する。『今、つけてるの』――たしかに。義之のシャツの下にあるペンダント。それを考えればデザインがどうこうといえる立場ではないかもしれないが。
しかし、と、義之はあえて襟元に手をいれると、ペンダントを、木製のハートを取り出して見せた。
あの日、アイシアに貰ったプレゼント。アイシアには内緒だが、あの日から義之はこのペンダントを肌身離さずつけている。あまりにもストレートすぎるその形状にはデザイン感の欠片もないし、気恥ずかしさが煽られるけれど、それだけ彼女の純粋な想いを象徴しているようで、いやな気はしない。
「いいんですよ。こいつには愛がこもってますから」
本人のいる前だと絶対にいえないような台詞だった。
「わー、なかなか言うねぇ」
「たいしたことは言ってないです」
「……にゃはは。うん。そうだね♪」
何が嬉しいのか、さくらはうんうん、と頷く。まるで、授業参観で張り切る子供を見守る親のようなその態度に、義之はなんともいえない気恥ずかしさを覚えた。
「二人ともー! のろのろと何やってるのー!」
飛んできた声に、二人してビクリとする。
さくらが二つ返事をしながら、アイシアの方を振り向く隙に、義之はハートのペンダントをシャツの中にしまった。これが、当人の目にとまり、コメントを求められるのは勘弁願いたいことだ。アイシアは怪訝そうにさくらを見ていて、こちらにはまるで注意が向いていない、気付かれてはいないだろう。
「君たちってほんっとバ・カップルだなぁ、って思っただけだよ♪」
「えぇ〜?」
バ・カップル。強調したいのか変なアクセントの置き方だった。
「いきなり何を言い出すのよ」
「……ああ」
アイシアの声に相槌を打つ。『バカップル』といわれるような覚えは――。
「あたしと義之くんがバカップルって。そんなの当たり前じゃない」
「……って、そう返すの!?」
「あはは! それもそうか。ほんっと、妬けちゃうなぁ〜」
「そうよ。そんな当たり前のことに今更、気付くなんて……さくら。頭大丈夫?」
まるで可愛そうな動物を見るようにルビーレッドの瞳が細められる。溢れんばかりの哀れみの色にさくらの表情が引きつったのを義之は見た。
「もう歳だし、耄碌しちゃってるんじゃないの?」
可愛そうに……とでも言うようにかぶりをふるアイシア。
さくらは相変わらず笑みを浮かべていたが、引きつった笑顔というのはただ恐いだけだ。
状況確認。戦線からの離脱を最優先とする――! 足音を殺して、義之は後ろに引いた。
「耄碌って……キミに『だけ』は言われたくないよ、キミに『だけ』は!」
「何よ、まるであたしも同類みたいに言わないでよ! っていうか、その口ぶりだとやっぱり認めてるんじゃない。自分が耄碌してるって!」
「なっ!?」
義之は軽い頭痛を感じて、こめかみをおさえた。またはじまったよ。
「……だいたい、耄碌も何も関係なく、アイシアは昔っから頭の中がパーな癖に! そんなキミにボクの頭がどうこうを言う資格なんてないと思うんだけど」
「な……! 頭の中がパーって! どういう意味よ!」
「自分の胸――ううん、頭に聞いてみたらいいんじゃない?」
さくらさんとアイシア。この二人は本当に不思議だ。
まるで姉妹かと思うほどの以心伝心っぷりを見せたかと思えば、次の瞬間には、本当に些細なことで喧嘩になる。
詳しい話は聞いていないが、旧友だというこの二人はよく似ている。背負ってきたものの重さも、その重さに負けずに笑うことのできる強さも。
昔からの付き合いだということと、似たもの同士(当人たちがどう思っているかはともかく義之はそう思う)だということ。本当の意味で気心の知れた仲なのかアイシアと一緒にいるさくらは義之たちにはまるで見せない顔を見せる。
今朝方の喧嘩にしてもそうだ。義之が何を言おうともさくらは軽く流すのに、アイシアが言えば流せない。どんな小さな挑発にものるし、逆に相手を挑発する。そんな姿は義之たちと一緒にいても決して見ることはできないものだ。
反応が幼い、いや、若いのだ。純朴、と言ってもいいかもしれない。義之たちの前では常に被っている『大人』としての仮面を脱ぎ捨てているような、そんな感じ。自分と同年代の人間と話せるということはそれだけ気分が安らぐということだろう。
そんな気張りしないですむ相手が傍にいるということは彼女にとって。いや二人にとって幸せなことだと思う。人間が生きていく上で、『家族』という存在は大事だけど、それと同じくらい『友人』という存在も大事なものだから。
「………………」
今一度、雑貨屋の特売カゴに手を入れる。六角形のペンダント。安っぽいけど、よくよく見ればいいデザインかもしれない。
眼前で繰り広げられる恋人と母親の罵りあい。一々、下らないことでよく言い争えるものだ。と呆れる。また、自分が仲介することになるのだろうか? 朝のようにすんなりとおさまってくれるのならそれもいいのだが毎回、あれだけ素直におさまるとは限らない。
そう考えると頭が痛い。何度、こめかみを手のひらで撫でてもおさまらない。だけど。
「ああ、もうパー、パーって! 人の頭の中を空っぽみたいに言って!それじゃ、あたしがバカみたいじゃない!」
「事実でしょ! 因数分解もフレミングの法則もわかってないくせに!」
「そんなの生きていく上で必要ないじゃない!」
「義之くんのお嫁さんを自称するのなら、もうちょっと教養を見につけてほしいな。ボクとしては」
「自称〜〜!? それは自称じゃないよ!公認だよ! ねぇ、義之くん!」
悪い気分ではなかった。
(今回は放置が一番か……?)
朝の時のようにわざわざ仲立ちをする気力もなければ、誤魔化すための小道具もない。
義之は二人から一定の距離を確保すると、腕をくみ電柱に寄りかかった。歩き疲れのせいか、太股の筋肉が少し悲鳴をあげている。言い合いが終わるのを待つという口実で少しだけ休ませてもらうことにしよう。
「あら。誰かと思えば」
空気が震え、雪のように静かな声を鼓膜が感じ取った。
「ふふ……奇遇ね」
「………………」
この抑制のない声。振り返るまでもなくわかる。良い意味で淡々としていて、耳心地の良いこの声は。
「ああ。奇遇だな」
雪村杏に間違いない。
振り返ればやはりそこにいたのは杏だった。
彼女は義之と視線をあわせると相変わらずの意味深な笑みを浮かべる。その笑みの下に何の意味が隠れているのか、何も隠れていないのか。付き合いは長いが未だに読み取ることはできない。
義之は肩をすくめた。
「なんだよ」
彼女の意図を知ろうと思えば、こうやってこちらから言葉を投げかけてみるのが一番有力だ。それでも成果を得られる確率が低いことに違いはないのだが。
「別に……」
しれっと言うと、杏はいつもの無表情に戻った。
「買い物か」
「ええ。ちょっとね。手間のかかる後輩の世話を」
「手間のかかる後輩?」
誰? と喉からでかかった言葉を義之は飲み込んだ。
杏の低い背丈の先。そこに、こちらに向かって揺れる真っ赤なマフラーと牛柄帽子が目に入ったからだ。
「杏先輩! あっちの店に結構いいものが――って桜内!?」
「なるほど。お前か」
「お前とはなんだ!」
たしかに『手間のかかる』ヤツだ。
「人様に対してそのような口の聞きよう……無礼だと思わんのか!」
「その言葉。そっくりそのまま返してやるよ」
「なんだと!?」
季節外れにもほどがあるマフラーをなびかせて、そして、そのマフラーの深紅に負けないくらいに目尻を赤くして美夏は義之を見上げた。
だが、義之はその怒気を軽く流し、杏に向き直った。猛牛の相手をしているほど自分は暇人ではない。
「桜内! 貴様にそのようなことを言われる覚えはないぞ!」
「珍しい組み合わせだな」
「そう?」
「ああ」
「おいこら! 桜内!」
甲高い怒声をそよ風のように右耳から左耳に流しながら、頷いた。
この場所。商店街で二人がいるというのは結構、珍しい。
杏が商店街にいる姿はよく見かけるが、義之の記憶がたしかなら、その五割は茜と一緒で。残りの四割は小恋も交えた買い物。数少ない一割が一人っきりでブラブラしている姿だ。美夏と一緒に買い物をしている姿はあまり覚えがない、というか初めて見るかもしれない。
そこまで考えて――ああ、『組み合わせ』だけじゃ言葉足らずだったかな。と思った。
杏が不思議そうな顔をするのも無理はない。彼女が美夏と一緒にいるのはよく見る光景なのだから『組み合わせ』という意味では珍しくもなんともない。
「……まぁ、そうかもね。美夏、あまり買い物は好きじゃないみたいだし」
しかし、杏は言葉の意味を読み取ったのか、美夏を横目に言った。相変わらず頭の回転が早い。
「え? 美夏は買い物は嫌いではないぞ」
杏の言葉に美夏はキョトンとした顔になる。
意外、だ。そういえば、由夢から美夏と一緒に服を買いに行ったという話は聞いたことがある。しかし、単にタイミングが悪いだけかもしれないが、義之は彼女の姿をあまりここで見たことはなかった。
嫌いではないが、積極的に行くほど好きではない、ということだろうか?
「そうなの?」
「ああ。 ……ただ、ウィンドゥショッピング……というやつはちと苦手だがな」
腕を組んで、美夏は息を吐いた。オブラートに包んでいっているがその態度では心底、苦手だ。と言っていることと同じだ。
そして、義之にとってはともかく、女性にとっては『ウィンドゥショッピング』という言葉は『買い物』と同義語なのだ。厄介なことに。
「はは。俺も、買い物は嫌いじゃないけどウィンドゥショッピングは苦手だな。どうにも非生産的で」
美夏の言葉に義之は心底、共感した。こんなことは初めてかもしれない。
「うむ。本来、行動というものはすべからく、目的と一本の線で繋がれているものだ。
しかし、ウィンドゥショッピングというものは不思議なことに、スタート時点で目的が設定されていない。目的を探すことが目的という見方もできるが、それにしても非効率的な話だ。無駄が多すぎる」
「ふふ、前にも言ったでしょ。美夏。その無駄を楽しむ生物よ。人間はね」
ドキリ、と心臓が跳ねた。
「そうなのか? うーむ、やはり、よくわからん……」
美夏は気にした様子はなく、相変わらず腕を組んで唸っているが、今の言い方はまるで。
まるで、美夏が人間ではないと知っているような――。
(いや。そんなはずはない)
頭に浮かんだ疑惑を義之は振り払った。自分だって人間の癖して「人間は云々」と他人事のように語るなんてよくあることじゃないか。いつも冷静で、何事も客観的に見ることのできる杏ならそれも尚更だ。
杏にとっては何の気もなしに言った言葉だろう。断じて、彼女が美夏の秘密を知っているなんてことはない、と思う。
「そういえば。桜内。貴様は何をしているのだ?」
「ん、俺?」
「ああ」
「見ての通りさ」
義之は少しだけ肩をすくめて、街路の奥を、未だに言い争いを繰り広げている二人の少女を示した。
「あれは……園長? どういうことだ?」
「ふふ、なるほどね」
ポカンとした顔の美夏を差し置いて、杏はしたり顔になる。本当に察しのいいこと。おそらく次に浮かぶのは「嫌いだ」と公言しているウィンドゥショッピングに付き合わざるを得ない立場の弱い男に向けた 哀れみの笑いに違いな――。
「幼女誘拐。そして、連れ歩きの真っ只中ってわけね」
――い?
「アホか!」
「な!? 桜内!貴様!」
なんてことを言い出すんだ! クールな声でとんでもないことを言う。
義之は血相を変えた。
「あら、違った?」
「そんなわけないだろ!」
「ふぅん……それじゃ、これから誘拐しようとしているところ?」
「それも違う!」
たしかに背格好はまるで小学生の彼女たち二人と自分が一緒にいる絵面は、無理やりに見てようやく兄弟に見えるようなレベルかもしれないが。誘拐犯は言いすぎだ。
「慌てて否定するところが怪しいわね……」
「桜内、貴様……まさか、杏先輩までかどわかすつもりじゃないだろうな!」
「そっちの勝手な前提で話を進めるな!」
「杏先輩に手を出そうと言うのなら、この美夏が許さんぞ!」
バッ、とマフラーをなびかせ、美夏が構えを取る。世界的バトルアニメにおける野菜人の取るような溜めの姿勢。
「だーかーらー」
義之は額を抑え、ため息をついた。
いい加減に否定することも疲れてきた、その時。
「あ! あんなところにいた!」
救いの声が、聞こえた。
「義之くーん! 待って〜〜……って」
「も〜、酷いよ〜。あたしたちを放って行っちゃうなんて……あれ?」
いつの間にか争いは収まったのか。金色の髪と銀色の髪が揺れて、とてとてとこちらに向かってきている姿が見える。
二人は義之の傍まで来ると、杏と美夏の姿を確認して、足を止めた。反射的にアイシアが一歩、後ろに下がったのがわかった。
「杏ちゃんに美夏ちゃん! こんにちは〜」
「どうも。こんにちは、園長先生」
「こんにちはだ。園長」
「こんなところで、奇遇だね♪」
これで誘拐犯扱いは終わりそうだ。義之は胸を撫で下ろすと、傍らのアイシアを見た。
「…………」
談笑をはじめたさくらと二人を見つめるルビーレッドの瞳に浮かぶのは、微かな、だけどハッキリとした不安。
「アイシア」
「…………うん」
しかし。
彼女は義之の言葉に頷くと、一歩、前へと足を踏み出した。
見れば、杏と美夏がアイシアに向けて興味深そうな視線を送っている。
「えっと、彼女は……たしか」
「?」
杏はアッシュブロンドの髪を、ルビーの瞳を見て、
「…………」
「あ……、たしか、クリパでお会いしましたね。えーっと……アイシア、さん?」
笑顔を浮かべた。
「うん! 久しぶり、杏ちゃん……ううん、義之くんのペット1号さん♪」
「ええ……久しぶり。ペット3号さん」
「お前ら……」
まさか、そのネタを引っ張り出されるとは。
義之は再び頭骨に痛みが走るのを感じて、こめかみをおさえた。
「うにゃ? ペットってどういうこと?」
「な……桜内! やはり、貴様は!」
「だから、違うって!」
不思議そうなさくらの瞳と、再び怒りの炎を灯した美夏の瞳に、慌てて声を上げる。またこの展開か!
身振り手振りの必死さだけで、自らの潔白を訴えた後、義之は誤魔化すように言った。
「そ、そんなことより……えっと、アイシア。こいつとは初対面だよな?」
「貴様、こいつとはなんだ」
二人称に対する文句が飛んできたが、二人称に文句を付けたいのは義之も同じだったので軽く流す。
アイシアは義之の言葉にコクリ、と頷いた。
「うん。はじめまして」
「う、うむ。はじめまして……。お前は……桜内と園長の知り合いか?」
「うん♪ 彼女はアイシア。ボクの友達なんだ」
さくらの紹介に美夏だけではなく、杏も意外そうな顔をした。そういえば、彼女もアイシアに関しては何もしらないも同然だ。二人とも、学園長先生の知り合い、ではなく『友達』とくれば驚くのも無理はない。
「園長先生のお友達でしたか……」
「ほー、そうなのか」
「うん。あたしはアイシア。よろしくね」
笑顔を浮かべて、アイシアが白い手を差し出す。美夏はその手をがっしりと握ると、元気よく笑った。
「ああ! 美夏は天枷美夏だ。よろしくな!」
「……え? あま、かせ?」
美夏の自己紹介にアイシアは瞳を丸くした。そして、金魚のようにパクパクと開いた口で天枷? と復唱する。
「天枷……美、なつ? それって、君の名前?」
「あ……ああ。美夏は美夏だが……?」
「アイシアさん?」
なんだ? と美夏が不思議そうな顔をする。義之に向けて説明を求めるような視線を送ってくるが、義之にも理由はわからない。
だが、アイシアのこんな姿は記憶にある。
そう、たしか――最初にアイシアと一緒にクリパで風見学園を回ったときや、桜公園に行って『枯れない桜』を見上げた時。
あの時も彼女はこんな瞳をしていた。まるで、何かを思い起こしているような。過ぎ去ったものともう一度出会ったような。そんな過去を見る瞳。
懐かしさと寂しさを同時にかみ締めているような、そんな姿。しかし、それも数刻のこと。
「アイシア?」
「あ……うん。ごめん、なんでもないよ♪」
義之が声をかけるとアイシアはいつものアイシアに戻っていた。
「そっか。君は天枷美夏っていうんだ……」
「うむ。それがどうかしたか?」
「ううん。ステキな名前だな〜、って思って」
なんでもない、とでも言うようにアイシアは優しい笑みを浮かべる。その笑顔にもう寂しさはなかった。
「……そうか?」
「うん! キミにピッタリだと思うよ!」
「……ふむ」
自分の名前を褒められて悪い気はしないのだろう。美夏は満更でもなさそうに頷き、少しだけ口元を綻ばせた。
「美夏ちゃんも義之くんのお友だちなのかな?」
「彼女は……義之のペット5号です」
「な!? 杏先輩! 何を言い出す!?」
「あはは、そうなんだ♪」
絶妙のタイミングで会話に入り込んできた杏の声。普通の紹介はできないのだろうか。
「お前……そこは普通、私の後輩です、って言うところだろ……」
「にゃはは。杏ちゃんは相変わらずだね〜」
「ふふ……ちなみに4号は小恋ね。6号、7号は……」
「んなことはどうでもいい!」
アイシアとさくらの笑い声と美夏の抗議の声が街路に響き渡る。
全く、騒がしいことだ。義之は肩を落とし、呆れるような、むしろここまでくると感心するような思いで息を吐いた。いつでも、どこでもあろうと、こうやって馬鹿話ができるのは一種の才能かもしれない。
(ま……、それが俺たち、か)
そのことに対して嫌な気分を抱かない自分も、また大概だろう。なんだかんだでこうやって常に馬鹿話ができるということを、幸せだと思う自分に気が付く。以前ならば、あまりに自然すぎて、そのことの、ありがたみに気付くことはなかっただろうけど。
一度、失ってみれば、わかるものもある。
「あ、そうだ! ちょっと待っててね」
ふいに、アイシアが声をあげた。
商店街の表通りに向かって、一目散に駆けていく。「すぐに戻るから!」と少し遅れて声が響いた。
「アイシア〜? もう、相変わらずそそっかしいなぁ」
「ええ。……どこにいったんでしょう?」
「さあ?」
ボクに聞かれても、とこれみよがしに肩をすくめてみせるさくら。
義之も腕を組み、何事かと考えていると、杏の――心なしか楽しそうな――声が割り込んできた。
「それにしてもアイシアさんって。どこか美夏に似てるわね」
「ああ……」
たしかに、似ているといえば似ている。
「むぅ……そうか?」
「ええ。彼女のことはあまりよく知らないのにこういうこと言うのもなんだけど……よく似ていると思うわ」
「俺もそう思うな」
『猪突猛進』の四字熟語が何よりも似合うところとか、うっかりものなところとか、何かに騙されやすい、勘違いしやすい――つまるところ、頭の中が少しパー……。
具体的なことは本人たちの怒られそうなことばかりだったので口には出さなかったが、義之は杏の言葉を肯定して、頷いた。
「美夏と気が合うと思うわ」
「そうだね。ボクもそう思う♪ 美夏ちゃんとなら、アイシア。絶対に仲良しさんになれると思う」
どこか確信めいたものがあるような、さくらの声に、照れ臭そうに美夏が腕を組む。
「だから、アイシアと仲良くしてあげてほしいんだ。……いいかな?」
「ま、まぁ、園長や桜内の知り合いならば、美夏にとっても知り合いだ。邪険にする理由もな……」
「お待たせ〜〜〜〜っ!」
「うわっ」
大声に思わず体が震える。
アッシュブロンドの髪を揺らし、怒涛の勢いで義之たちの輪の中へと舞い戻った彼女に対して、義之は苦笑いした。
「一々騒がしいってば」
「あはは。そうかな〜? ごめん♪」
「おかえり、アイシア。何しに行ってたの?」
「あ、うん。これこれ〜!」
アイシアは両手で抱えていた大きめの紙袋を示してみせた。
「なんだそれ?」
ファーストフードショップのハンバーガーかと、第一印象を受けるも、すぐに違うと思いなおした。
簡素な紙袋という共通点はあるが、大手チェーンの使っているようなタイプにしては地味な色合い、雑な包装。そこから連想されるイメージは、ビルに居を構えたファーストフードショップというよりも、個人営業の店だ。
そもそも、あの紙袋には覚えがあるような気がする。義之は記憶を巡ろうと、意識を軽く集中した。いつだったか、つい最近の――。
「じゃーん!」
アイシアはこれみよがしに封を開き、その中身を見せた。地味な色合いの紙袋、その中には。
――大量の、チョコバナナが詰まっていた。
「げ!」
「あ!」
そうだ。思い出した! あれはこの間、アイシアと一緒に商店街にいったとき、一緒に行ったチョコバナナの出店で使われていた紙袋だ。今時、チョコバナナ屋さんなんてそう多くないだけに、覚えている。
「バ、バナナ……」
見れば、美夏がまさに顔面蒼白という顔で、紙袋の中を見ていた。
パッと見だけでも、その中に詰められたチョコバナナの数が20本を優に超えていることがわかる。
「うん。チョコバナナ♪ 美夏ちゃん、バナナ好きでしょ?」
自信満々に言うアイシア。その根拠はどこから来ているのか。
「だから、プレゼント! お近づきの印にね♪」
「バ……バナナ……」
これは、好意だ。と義之は思った。
純粋だ。善意だ。一切の邪な感情のこもっていない直接的すぎる善意だ。――それだけに、タチが悪い。勘違いした善意というヤツは。
欲も悪意もない、ストレートな善意というものは非常に断りづらいものだ。
なんだかんだで礼儀を重んじるタイプの天枷美夏。この申し出を払いのけることなんてできはしないだろう。
「ふふ……よかったわね、美夏」
「う。あ、あ……」
「にゃはは。ボクたち今お腹一杯だから、一人で食べていいよ〜。あ、杏ちゃんは食べる?」
「いえ。私もさっき食べたばかりで」
笑い声が二つ。
この内、片方はまた善意の塊。しかし、もう片方は明らかに善意ではない。
(えぐい……。俺や渉だけじゃなく、天枷にも容赦なし、かよ……)
さくらはともかく、彼女は美夏がバナナに対してどのような感情を抱いているのかを知っているはずなのだが。
哀れな後輩を、否、犬を見るように美夏を冷笑すると、杏その背中を後押しした。
「あ、杏先輩……、桜内……」
「…………諦めろ」
「さ、美夏。早いところ食べちゃいなさい。冷めちゃったらアイシアさんに悪いでしょ」
「う、う……そ、そうだな、……あ、アイシア……といったな。あ、あり……がとう……」
「あはは。そんなお礼を言われるほどのことでもないよ〜♪」
「は、は、は…………い、いただきます……」
たしかにお礼を言うことではないな。
義之はそう思いながら、今まさに、地獄へと旅立たんとするバナナ嫌いの少女に黙祷を捧げた。

「「疲れた〜〜!」」
帰り道。夕焼けに照らされた街頭に二人の少女の声が響く。
「疲れたって、それはこっちの台詞ですよ」
暁の一色に染まった空から視界を落とし、自分の先を歩く二人に向けて義之は笑った。長くなった三人の影が交差点に差し掛かり、陽炎のように揺れる。
商店街から家まではたいした距離ではないが、夕暮れ具合から判断するに、家につく頃には太陽は地平線の先へと沈んでしまうことだろう。
「にゃはは。でも、楽しかったね」
「うん。やっぱり、ショッピングは基本だよね」
義之の右手にはズシリ、とビニール袋の重りがある。袋の中に詰まっているのは、アクセサリーでもなければ服でもない。野菜、魚、ジュース……数時間後に必要な日用品の数々だ。
結局、さくらとアイシアに連れられて数え切れないほどの店を回ったが、二人は試着をしたり、品物を手にとってみたりはするものの、何も購入せず。帰り際に義之が芳乃家の冷蔵庫の中身を思い出さなければ、手ぶらでの帰宅となるところだった。
「……ショッピングねぇ」
あれだけ時間をかけて、何も買わないというのは本当にどうにかしてる。と義之はビニール袋の持ち方を変えながら思った。やはり、自分にはウィンドゥショッピングというものの概念が理解できない。
それにしても天枷には悪いことをした。
結局、アイシアが買ってきたチョコバナナは23本。その全てを完食した彼女はバナナミンの供給過多のせいか。はたまたそれ以外の要因か。機能不全に陥り、ぶっ倒れてしまった。そのまま、杏が引き摺って帰っていったが、今にして思えば、帰りぐらいは送ってやるべきだったかもしれない。
今頃、生死の境目を彷徨っているであろう後輩のことを義之が考えていた。その時だった。
「えいっ!」
先を歩いていたはずのさくらがいつの間にか目の前にいた、と思えば、がっしりと、腰にしがみついてきたのは。
「うわっ」
声と共に、体が揺れる。ふいをつかれたとはいえ、さくらの小さな体では与えられる衝撃などたかがしれている。靴裏がアスファルトの上を滑る音こそしたものの倒れることはなく、すぐに慣性モーメントはおさまった。
「何をするんですか……」
「にゃはは、エネルギー補給♪」
ひょっこりと揺れる金色のツインテールを見下して、義之はため息を吐いた。こんなことしていると……。
「あ!」
ほら、と思う。
さくらが後ろに行ったことに気付かず、先を歩いていたアイシアの顔がこちらを向き、すぐさまのその髪とリボンが揺れ動く。
「さくらぁ〜」
驚くほどの軽快さで義之の前までくると、さくらの首根っこを掴み、無理やりに彼女を引き剥がした。
「何してるのよ!」
「何って、エネルギー補給だよ。今日一日疲れちゃったからね」
「エネルギー補給なら、一人で横にでもなってればいいでしょ!」
「義之くんがいるのといないのとでは、充電率が段違いなんだよ〜」
不満気に頬を膨らませるさくら。
「どのくらいよ?」
「大違い。累乗レベルで」
「累乗……」
普通の乗法ではなく、累乗か。たしかに凄い違いだ。
義之は苦笑した。自分はそれだけ栄養価が高かったのか。まるで自覚はないが、累乗は累乗でも元の数は1というオチではないのだろうか?
しかし、さくらの言葉にアイシアは頷くと。
「まぁ……たしかにわからないでもないけど……」
と、ほんのりと頬を赤くして言った。
「……そうなのか? アイシア」
「うん。義之くんの体にふれてるとなんていうか……」
「疲れた体も心も一発でリフレッシュだよね♪」
「うん♪」
そして、二人して笑う。本当に仲がいい時はとことん仲がいい。
「どーにも、自分ではわかりませんけど……」
「にゃはは。嘘じゃないよ?
日々を効率的に過ごすためにもボクたちは義之くんが必要なんだよ」
さくらはクルリ、と義之の左側に回りこむと、その手を取った。これならいいでしょ、とでも言いたげに笑いながら。
対抗するかのように、アイシアは右側に回り込もうとして、そして、アッという顔になる。左手は何も握っておらず、さくらの手を取ることができた義之だったが、その右手には今晩のおかずとなる食材が詰まったビニール袋で塞がっていた。
「義之くん、それ貸して」
「別にいいけど……重いぞ?」
「いいの!」
きっぱりと言い切った彼女の右手にビニール袋を手渡す。その重みに対してアイシアはあからさまにつらそうな顔をしたが、しかし、手放すことはなく片手だけで保持する。
引きつった顔をしていたアイシアだったが、左の手で開いた義之の右手を握るとその表情は一変。まるで極上の甘味をほお張っているかのように幸福そうな笑顔になった。
夕焼けに照らされた三つの影が一つに繋がる。
「えへへ」
「にゃはは」
「ええい。二人して、気持ち悪いぞ……」
手を繋いだ状態で歩くということは相手に歩幅をあわせなけばならない。自然と、足の長い義之が彼女たちにの小さな足取りにあわせる形になるのだが、それを苦痛には思わなかった。
一つに繋がった影がゆっくりと、暁の空の下を歩いていく。
「義之くんの右手は、あたしの手を取るためにあるの」
「義之くんの左手はボクの手を握るためにあるんだよ」
「人類哲学に波紋を投げかける新説ですね、それは……」
このまま、どこまで歩いていくのか。それは義之にも、誰にもわからない。
だけど。できる限りは。
「も〜、義之くん。ノリがわる〜い」
「そうだよ〜」
「どう答えろっていうんですか!」
こうして三人で歩いていこう。
歩けるところまで歩いていこう。
一緒に手を握っていこう。
夕焼けを眺めて、飛び去るカラスの鳴き声を耳に、義之はそう思った。
ひらり、はらり。
桜の木から緑の葉が散った。それは黄昏の光をあびて、まるで朱色の宝玉のように煌めいた。