お姉ちゃん、がんばる

「おねーちゃん、ほんとにやるの?」

 朝倉家のリビングに子供の声が響く。
 食卓に並んであった椅子の内、一つを両手で掴み、フローリングの床の摩擦音と共に、引き摺っていた少女はその声に反応し、小さな頭を振り向けた。

「当たり前だよ」
「ひとりでお料理なんてできるの?」
「できるもん」

 少女のいるダイニングキッチンからは少し離れたところ。食卓とは異なる足の低い机の傍。テーブルの奥に配置されたテレビが一望できるように置かれた緑色のソファに桜内義之は落ち着きがなさそうに座っていた。

「私、ずっとお母さんのお手伝いしてたもん。だから一人でもできるの」

 姉、朝倉音姫の後姿を、義之の不安に揺れる瞳が追った。
彼女は先ほどから、義之が何を言ってもこの言葉で返すばかりだ。

「でもさ……、お手伝いするのと一人で作るのってぜんぜん違うよ!?」

 駆りたてられるように言ったが、相変わらず音姫は首を横に振る。

「あんまり変わらないよ」
「そ、それに……じゅんいちさんも、子供だけで料理しちゃだめだって……あぶないよ……」
「あぶなくないもん」

 背中にかけられる声を振り払うように、音姫は一心に椅子を引き、ついに目的の位置、システムキッチンの前まで運び終えた。
 音姫は両手を使って、椅子によじ登ると、キッチンを一望した。
 必要とする物がどこにしまってあるかは、わかっている。慣れた手つきでステンレスの包丁とまな板を取り出すと、自分の前に置いた。
 ついには食材まで並べてしまったのを見て、義之は肩を落とした。

「もう……ボク、知らないよ? どうなっても……」

 呆れたように、拗ねたように。唇を尖らせる弟を見て、姉はふん、と胸を張った。

「弟くんに心配してもらうほど、私はおちぶれてないもん」
「『オチブレテ』……なにそれ?」

 きょとんとした義之を尻目に、音姫は準備を続ける。
 冷蔵庫にある乏しい食材の中から適当な食材を取り出すと、ステンレス包丁を握った。

「弟くんはそこでちょっとだけ待ってて。おねーちゃんが美味しいごはんを作ってあげるから」

 片目をつむり、得意気に微笑む姉の姿に、もう義之は何も言えなくなってしまった。
 彼女が料理をする、と言い出したのは昨夜のこと。

 母親が亡くなり、父親も海外出張となり、住民が減った朝倉家。最初こそ梅雨の雨のように落ち込んでいたものの、やがて、梅雨は晴れる。
 朝倉家の三人の兄弟は次第に元気を取り戻して言った。しかし、そんな朝倉家には大きな問題があった。
 料理ができる人間がいないのだ。
 孫達のことを気遣う祖父はかったるがりやなりに料理を試みるものの、簡単な料理をたまにするのと、毎日の献立を支えるというのはまた違う。姉と弟はよく母親の料理を手伝っていたものの、手伝いをするのと一人で料理を作るということの間には大きなハードルがあり、妹は完全に料理と縁が無かった。
 幸いにも朝倉家はご近所事情には恵まれており、時間さえあれば親しいお隣さんが晩御飯を作ってくれるものの、彼女はここ最近、忙しいようで休日ならまだしも平日にわざわざ隣の家まで来るというような暇はなかった。
 まるで半世紀前。かったるがりやの兄と、なんでもできるのに何故か料理だけはできない妹が二人で暮らしていた時のように。朝倉家はしばらくの間、外食と店屋物中心のメニューが続いていた。
 ある夜、祖父に連れられて行った回転寿司でのこと。

「あんまり外食や、てんや物ばっかりだと栄養かたよっちゃうよ。私が弟くんと由夢ちゃんのご飯を作るから」

 音姫は義之に対してそう言ったのだ。おそらく祖父にも、妹にも聞こえてはいないだろう。

「あったかいご飯、作ってあげるからね。弟くん」

 その時の笑顔に対して、「冷たいご飯も美味しいよ」と手元にあったお寿司を指して能天気に義之は答えたのだが、すると、機嫌が良さそうだった姉は急に不機嫌になってしまった。
 「そういう意味じゃない……」とそっぽを向く姉に、何が気に入らなかったのかと義之は不思議に思うしかなった。しかし、一度、機嫌を損ねた姉は一晩たたないと自分と話してくれない。そのことを義之はこれまでの経験から理解していたため、一晩待ち、彼女の元に向かったのである。
 そして、話は現在に至る。

(料理かぁ)

 継続的に鳴り響く包丁の音に、義之はなつかしい気分になった。
 料理には興味がある。いや、あったというべきかもしれない。
 梅雨の前は義之もよく台所に立っていた。頼まれてもいないのに自分も手伝いをすると、しゃしゃり出ていた。
 まともに包丁を使えなかった義之が、ようやく重さで叩き切るはなく、刃で切ることに気が付いたあたりだった。
 義之に料理を教えてくれていた人が亡くなったのは。それ以来、料理の手伝いをする機会はなくなっていた。
 それだけに義之にとって、この包丁の音はなつかしい。トントントンと飾り気もなにもない単調な音なのに、何故か、気分が落ち着いた。

「……お姉ちゃん、がんばってね」

 自然にそう言っていた。
 義之が姉の後姿から不安を感じなくなったの時、ふらふらと、一人の少女がリビングに足を踏み入れた。お団子髪を揺らし、寝惚け眼を手で擦りながら、少女は義之の下へと向かう。

「おにいちゃーん……」
「あ、ゆめちゃん。お昼寝は終わったんだ」
「……うん、今起きた……」

 由夢の欠伸交じりの声。まだ意識の半分以上は夢の中にいるようだ。

「あれ……?」しかし、そのまどろんだ瞳がうっすらと見開かれる。「ねえ、お兄ちゃん。おねえちゃんは?」

 少しだけ不安そうな声。
 義之は妹を安心させるように笑うと、キッチンの方を示した。

「お姉ちゃんなら、あっちだよ」
「ほんとだ。おねえちゃん、何して遊んでるの?」
「遊んでるわけじゃないんだ」

 義之は由夢を自分の隣に座らせると人差し指を自分の口の前に立てた。

「お料理してるんだよ」
「お料理?」
「そう、お料理。お姉ちゃんがぼくたちのごはんを作ってれるんだって」

 トントントン――。
 義之の言葉を証明するかのように、包丁の音は響き続ける。

「おねえちゃんが? わたしやお兄ちゃんのために?」
「うん」

 まるで欲しかったオモチャを買ってもらえることがわかった子供のように、由夢の顔がパァッと輝いた。
 トントントン――。

「だから、ぼくたちはここで待ってようね。お姉ちゃんの邪魔したらダメだよ」
「うん! 待ってる!」

 眠気が全て消えてなくなったような、はきはきとした声。由夢が大げさに頷いた。その時だった。

 トントン…………。

 ふいに。
 規則的に鳴り響いていた音が、ぷっつりと鳴り止んだのは。
 義之は、はじめは不思議に思ったが、すぐに、もう全部切り終わったのかな、と考えた。耳に馴染むBGMと化していたとしても、それは音楽機材で再生しているものではない。音姫が包丁の動きを止めてしまえば、その瞬間に鳴り止む音だ。
 だが、その考えも間違っていたことに義之が気付くのに、時間はかからなかった。

「お姉ちゃん、どうしたの?」
「?」
「う……」

 包丁がまな板を叩く音に代わって、朝倉家のリビングに響くのは唇を噛み締めるような、苦い声。
 音姫の瞳から涙がこぼれ、足場代わりにしていた椅子に落ちた。
 義之は慌ててソファを蹴り、フローリングの床の上を疾駆した。

「お姉ちゃん!」
「…………」
「ど、どうしたの……?」

 一度流れた涙は止まらない。音姫の目尻から次々に涙がこぼれる。
 義之は椅子の上にへたりこんでしまっている姉の様子を見ようと背伸びをし、そうして、椅子にシミを作っているのが涙だけではないことに気付いた。

「おてて、切っちゃったよ……」

 包丁を使うときに目標を固定するためのストッパーとして用いる左手。その中でも一番、刃が振り下ろされるポイントに近く接する部分――つまり人差し指。
 その外側を刃が掠めたのか、白い小さな指には一本の赤い線が走り、そこから同じように赤い色の雫がこぼれていた。

「う、うわ……た、たいへんだ!」
「おねえちゃん!?」

 思わず叫んでしまった義之。その声が由夢にも事態を知らせ、彼女も慌てて駆け寄った。

「血……、おねえちゃん、血が……」見慣れない赤い色に由夢が息を呑む。
「弟くん……痛いよぉ」
「も、もう! だからあぶないって言ったのに!」義之は再び叫んだ。「……とにかく、手当てを!」

 彼も滴り落ちる赤い色に恐怖を感じなかったわけではない。ただ、それ以上に姉の方が心配だった。つらそうに眉を伏せる姉の姿を見ていれば、動転しそうな心も抑えられた。

「ばんそうこうは……えーっと!
 お姉ちゃん、ごめん、ちょっと取ってくる!」
「う、うん……なるべく、はやくね」

 痛みを必死で噛み殺しながら、音姫が頷く。
 義之の行動は速かった。
 足を滑らせるんじゃないかと音姫が心配するくらいに。『イダテン』というものはああいうものなのかな。と痛覚に痺れる頭で彼女は思った。
 そこまで考えて、「持ってくるなら救急箱を」とも思ったが、

「弟くん、救急箱……」

 消え入りそうな声が届く位置に義之はいなかった。

「きゅーきゅーばこ?」と由夢。
「由夢ちゃん……うん、できれば救急箱が欲しい……」
「それって、どこにあるの? わたし、取って来る!」

 救急箱とは緑の十字架が描かれた小さな木の箱で、洗面場に置いてある、と音姫が説明すると由夢はすぐに駆け出した。その動きは先ほどの義之以上に危なっかしく、変なことを考える暇もなく音姫は息を呑んだ。

(うーん……? 私が怪我したのに、二人の方が心配だなぁ……)

 最初こそ涙を流してしまったものの、痛みにもある程度は慣れてきて、そんなことを考える余裕もあった。赤い血が恐くて直視できなかった傷も、よく見てみればそこまで深く切っているわけでもない。

(私が自分で取りにいけばよかったかな? とくに由夢ちゃ――)
「お姉ちゃん! ばんそーこー、持ってきたよ!」
「弟くん!」

 息を切らせて戻ってきた義之が持っていたのは本当に『絆創膏』だけだった。さすがにこの年の男の子に、的確な治療道具を揃えてくれることを期待するのは無茶というものである。

「んー……消毒液はない、よね?」
「え?しょーどく?」義之は申し訳なさそうにうつむいた。「ごめん、ばんそーこーだけしか……」
「ううん。いいよ。由夢ちゃんが取ってきてくれてるから」
「ゆめちゃんが?」

 義之の声は驚き、というより不安の方が大きい。

「おねえちゃん! お兄ちゃん! きゅーきゅーばこ、持ってきたよ!」

 義之と音姫が見ると、由夢がお団子頭を揺らしながら、二人の方に向かってきているところだった。

「ゆめちゃん!」
「あ、待って……」

 由夢の手元で揺れる木製の小箱。ガタガタと、揺れる。
 一刻も早く手渡そうとする由夢とは逆のことを考えて、義之と音姫は叫んだ。

「あまり慌てると危な――」
「そんな風に走ったら――」

 しかし、遅かった。
 二人が同時に息を飲む。
 慌てていたのが悪かったのか、靴下とフローリングという摩擦の少ない組み合わせが悪かったのか。

 ――――ゴン!

 由夢は足を滑らせ、頭から転倒した。

「あ……」
「うわあ……」

 ――――ガシャン!!

 同時に、中空を舞った救急箱が食卓の足に叩きつけられ、壊れはしなかったものの、蓋は開き、派手に中身が散乱する。
 シン、と。リビングは静まり返った
 だが。それも数秒のこと。

「う、う……うわあああああああーーーーーーん!!!」

 自身が受けた痛みと救急箱がたてた派手な音が引き金となり、由夢は大声で泣き、涙を散らす。

「ゆ、ゆめちゃん! だ、だいじょうぶ!?」
「由夢ちゃん!」

 一も二もなく、義之と音姫は駆け出した。
 結局、その日は姉妹二人の軽い負傷。そして、祖父の純一が帰ってきたことで一旦はお開きとなってしまった。


 翌日。
 音姫は再びキッチンに立っていた。
 先日同様、食卓より引き摺られていった椅子が調理台の前に配置し、足りない身長を補うための準備も万全だった。
 ただ先日と違うのはキッチンにいるのが音姫一人ではないということだ。
 不安の色を瞳に灯した義之と、溢れる好奇心に身体を揺らす由夢の姿が、キッチンの中にあった。

「今日もお爺ちゃんはお出かけ中です」

 さながら、朝礼で前に立つ教師のように。音姫は弟妹たちに向き直った。

「うん」
「ともだちとあってくるって言ってたもんね」

 それは義之と由夢にとっても周知の事実である。

「それがどうかしたの?」

 由夢が不思議そうに瞳を動かすと、音姫はニッコリと笑顔をみせた。

「今日もお料理の練習ができるってことだよ。由夢ちゃん」

 音姫は冷蔵庫の前までいき、三段に分かれた冷蔵庫の中央の取っ手を背伸びしてつかむ。
 冷気と共に開かれた扉。その奥には綺麗にスライスされた野菜と肉が入ったボウルがあった。昨日、切り終えた食材を隠しておいたものだ。予想外のハプニングもあって、速めに終わるハメになったものの、既に十分な物量だ。
 鼻歌交じりにボウルを抱える取り出す姉の後姿に義之は言葉を投げかけた。

「ねえ、お姉ちゃん。……昨日も思ったんだけど」
「なに?」
「なんでじゅんいちさんに隠れてやるの?」

 不思議でたまらないというように首を傾げる。

「こどもだけでお料理なんて、お爺ちゃん。ぜったい許してくれないよ」
「じゃあ、お爺ちゃんと一緒におりょうりしたら?」

 不満そうに呟く音姫に由夢が言う。義之も妹の言葉に「そうだよ」と続いた。
 そんな二人を交互に眺め、音姫はため息をついた。

「……一回、言ったの」
「え?」
「……でも、お爺ちゃん。かったるいおばけだもん」
「…………?」

 年齢に釣り合わない、ため息を残して、音姫はリビングに向かった。「弟くんも由夢ちゃんも、そんなこと言わないようにね」と声が反響した。

「かったるいおばけ……って、あたらしい七不思議かな? ……今度、学校でここに聞いてみよう」
「かったるい? かったるい」
「ゆめちゃん?」
「かったるい、カッタルイ、カッタルーイ」
「カッタルーイ。ちょっと、かっこよ……く、ないな」

 何が気に入ったのかその言葉を唱える由夢。
 義之が首を捻っていると、音姫がキッチンに戻ってきた。両手で一冊の本を抱えて。

「かった、かった……むぐ?」
「ゆめちゃん、いい加減やめようね……」

 義之は由夢の口を覆うように手を当てた。

「弟くん。由夢ちゃんに変なこと教えないで」
「いや、教えたのはお姉ちゃんだよ……」
「むぐ、むぐ……」
「?」

 抗議の声をかるく受け流して、音姫は抱えていた本を広げた。
 その表紙に書かれた文字を義之は瞳で追う。

「えーっと……『チンパンジーでもわかるクッキング術! これでわからないヤツは人間にはいない!』 ……お姉ちゃん。これ、なに……? お料理の本?」
「うん」

 表紙には、ゴシップ調で書かれた大きなタイトルがあり、その下地にオムライスやホットケーキ、チャーハンといった写真が並んでいる。料理の技法書で間違いはないだろう。
 変なタイトルだと、義之は子供心に思った。

「この本に従って、残りを作ろうと思うんだ」
「なんか、ふるくさい本だね。色々と」
「けど、わかりやすかったよ」

 音姫が微笑と共に義之に手渡す。
 それは音姫が、由夢の部屋で見つけたものだった。
 タンスの奥底で眠っていた、料理本。
 一目を惹く挑発的なタイトルは当然、比喩表現であり、本当に動物が読むことを想定したものではないが、料理が苦手な人や未体験の人を対象とした本であり、子供の音姫にとってもわかりやすいものだった。

「あ、中は結構、あたらしい」

 外側こそ埃に塗れているものの、中身に関しては角の腐食を除けば、汚れがほとんどなかった。

(メモ書きも何もないなぁ)

 ページをめくっているうちに義之は違和感を覚えた。
 かつてこの家に住んでいて彼が実の母親のように慕っていた人や隣家に住みやはり母親のような存在である人たちも料理本を持っていた。彼女たちが本を参考にしているところを義之は見たこともあるし、読ませてもらったこともあるが、二人とも料理本にはなにかしらのメモ書きを加えていた。それぞれ自己流の付け加えだったり、おかしな部分の添削、たんなる即興のメモだったりと理由は様々であったが。
 しかし、この本にはそれらが一切ない。綺麗な本だった。
 ページの触感の新しさから、全く触れられていないか、一、二回読まれて以後放置されたかのどちらかだろう。

(持ってた人はお料理、嫌いだったのかな?)

 義之がそんなことを思いながらページをめくっているとはらり、となにかが落ちた。ページが破れたわけではない。挟まっていた物だ。
 義之は背を屈めて、それを取った。そこには――。

「お兄ちゃん。それ、なに?」
「図書館のカードだ」

 しおり代わりに挟んだまま忘れ去られたのか。薄いカードが反射する光はどこか寂しげだった。

「あ。名前が書いてあるよ。あの本の持ち主の名前かな」
「なんて書いてあるの?」
「えーっと、ね」

 義之は由夢にも見れるようにかざすと、二人でその裏面をなぞって見た。しかし。そこには未知の文字列が並んでいた。

「あさくら……」
「あさくら……」
「音……」
「おと……」

 弟妹の間に、下りる沈黙。

「おと、おと……なんて読むんだろう。これ」
「…………」
「…………ゆめちゃん、わかる?」
「………………わかんない」

 義之は横目で由夢を見るも、兄に読めないものが妹に読めるはずもなかった。

「だよね……『朝倉』ってことはゆめちゃんやお姉ちゃんの親戚の人かな?」
「弟くん、由夢ちゃん。何してるの?」

 そこに、音姫の声が割り込む。

「あ、ごめんなさい」

 早く返して、とばかりに手を出す姉に対し、図書カードを元の場所に挿して、義之は本を手渡した。
 本の行方に引っ張られるように、由夢は音姫の後ろに回りこむと、左肩越しに覗き込んだ

「それで、お姉ちゃん。何、作るの?」
「うん。これにしようと思うんだ」
「ボクにも見せてよー」

 音姫が開いたのは炒飯のページだった。
 有り体の材料だけ十分まかなうことができ、尚且つ、比較的、簡単そう。そして、ご飯やお肉の間に野菜などを混ぜることで、野菜が苦手な弟妹でも自然に食べることができそう。というのが選択の理由である。
 逆説的に言えば、それらの条件を満たせるのは炒飯くらいしかなかったともいえるのだが。

「チャーハンかー、おいしそうだね」

 音姫の右肩越しに義之は言った。

「お肉もお野菜も切ってあるし、後はご飯と一緒に炒めるだけだよ」
「うん! 今日はわたしたちも手伝うよ」
「お姉ちゃん一人だとあぶないからね。昨日みたいに」
「もう……」心配するようにむらがる二人に、音姫は不服そうに頬をふくらませた。「私は一人でもできるのに」

 しかし、その顔はどこか嬉しそうだった。

「それじゃあ、三人で作ろう。弟くんはご飯を用意して、由夢ちゃんはフライパンをお願い」
「うん!」
「わかった!」

 喧嘩することもあるし、内緒ごとだってあるが、なんだかんだで息のあった兄弟。あっという間に散開するとそれぞれの仕事をこなす。
 椅子が一つだけでは足りなさそうだったので、もう一台の椅子を運び、調理用器具を揃える。具こそあるものの、肝心のご飯に関しては、朝倉家の炊飯器の中には見当たらなかったため、義之が隣までひとっ走りすることになった。

「さくらさんに怒られちゃうかな?」

 芳乃家の炊飯器の中に入っていた残りご飯。
 生憎と家主は留守だったため、一応、メモ書きと、お詫び代わりに和菓子を置いておいたものの、無断で拝借することになってしまったのが心残りだった。
 義之が帰ってみると、音姫は再び包丁を振るっているところだった。

「あれ?お姉ちゃん。また?」
「うん。もうちょっと細かく切っておいた方がいいと思って」
「ふぅん……。ボクはそのままでいいと思うけどな」

 言いながら音姫は千切りにしたキャベツを纏めて、切り目の入っていない向きからさらに包丁を入れていく。
 左手の人差し指に巻かれた絆創膏の傍を刃が掠めて、義之は背筋が寒くなった。

「また、おてて切らないでね……」
「今度は大丈夫だよ」

 一通り、包丁を使った仕事が終わると、捌かれた野菜と肉は小皿にわけて纏めた。子供とは思えない手際の良さだった。
 次いで、かけておいたフライパンを手に取ると音姫は義之に向き直った。

「フライパンあっためとくから、ゆめちゃんと一緒にたまごをかき混ぜておいて」
「うん」

 義之は由夢と共に新しいボウルを床に置くと、その周りにしゃがみ込んだ。一つ目のたまごを割り、銀色の中に黄色い目玉を落とした時、彼は妹が困ったような瞳で自分を見ていることに気付いた。

「お兄ちゃん、うまく割れないよ……」

 手のひらには小さな亀裂がいくつも入ったたまごがある。

「うーん、ゆめちゃんにはまだお料理は早いかな?」
「むー」
「ボクが代わりに割ってあげ――」

 ――バチン!
 義之と由夢は息を呑んだ。赤い閃光が一瞬、走り、キッチンの中を少しだけ明るくしたからだ。

「お姉ちゃん、今の何っ? それに、なんかバチバチ言ってるけど……」
「油であっためてるんだから当たり前でしょ」
「入れすぎじゃないの?」
「……あ! 見てお兄ちゃん。たまご割れたよ♪」

 嬉しそうな由夢の声を背に、義之はフライパンの上で跳ねる油に身を縮めた。
 音姫の入れた油の量はいささか大目ではあるものの、適量の範疇に収まるレベルの量だ。ただ、油が弾ける音というのは子供の身体を無条件で竦ませる。

「大丈夫だから」音姫は一蹴した。「たまごしっかりかき混ぜておいて。カラとか入れないでね」
「う、うん……。 ゆめちゃん。後はボクがやっておくよ」
「わかった! 私、お姉ちゃんのお手伝いしてくるね!」

 気分良さそうに由夢は姉の下へと走っていった。椅子を上り、音姫の隣に並ぶと、広げたまま固定されている料理本に目を通す。

「あ、お姉ちゃん。油、ドバーって入れるように書いてあるよ。ドバーって」
「うん。それ」
「いっぱい入れるね♪」
「なら、お姉ちゃんがもう入れたよ。え……」

 使い終わり、音姫が脇に置いてあった油ビン。
 由夢はそれを手に取ると、一気にフライパンの中に注いだ。

「あ……」

 音姫が息を呑んだ音が響く暇はなかった。
 刹那、――大量に注がれた油は、フライパンの中へ。そして、一部は跳ねてフライパンの外。コンロに落ちる。フライパンの裏側には洗い流されずにこびり付いていた食材の残りカスがあり、これが先ほど、赤い炎が上がる媒介になったものだった。その残りカスが再び媒介となって、赤い光が上がる。今回はすぐに消えず、そのままフライパンを上がり。十分に注ぎ込まれていた油をさらなる媒介とすることで、勢いを増す。
 微かな熱気が周囲を揺らした直後。

「わっ!!」
「きゃっ!!」

 ――――派手な火柱がキッチンに立ち昇った。






 夕焼けが朝倉家のリビングを照らす。
 結局、チャレンジ2は成功一歩手前であったものの、結果だけを言うのなら失敗だった。
 燃え上がった火柱はそのまま壁に移り、危うく、半世紀以上の歴史を誇る朝倉家を燃えカスにしてしまうところだった。
 軽いパニックに陥った三人だったが、真っ先に我に帰った義之が消火器を引っ張り出し、なんとか鎮火に成功した。
 その動きを支えたのは非難訓練で行われた消火器の使い方講座と練習である。
 まさか役に立つとは思わなかったと、義之は普段バカにしていた学校行事に対する認識を改めることになった。後に彼は学校で自分の活躍を、多少の誇張を交えて小恋をはじめとした友達たちに話すことになるのだが、ここでは別の話である。

「………………」

 絆創膏を剥がしながら音姫は息を吐いた。
 小さな指に、短く走っていた赤い線の上には、薄いかさぶたができており、あと数回夜を越せば、痕跡すら残さず治癒することだろう。
 視界の隅、キッチンの中には見たくもない光景が広がっている。壁を彩るこげ模様に、上塗りする消火器のバブル。そのバブルに押し潰された元・炒飯の具たち。

(お爺ちゃんが帰ってきたらなんて説明しよう……)

 そう考えれば、彼女の気は重かった。

「お姉ちゃん、バンドエイドはがしたらだめだよ」

 テーブルの上に二人分のお茶を置いて、義之は言った。

「もういらない」
「いらないの?」
「うん。剥がしておいた方が治りがはやいし」
「……でも、お風呂入るときにしみるよ?」

 義之の声に音姫は言葉に詰まった。
 別段、絆創膏をはっていても水はしみてくるのだが、些細な違いはある。子供の場合、気分的な視覚的な問題も手伝い、その些細な違いがもたらす痛覚の差は相当に重要なのだ。

「……そうだね。もうちょっと付けとく」

 渋々、といった風が溢れる姉の言葉に義之は頷き、「新しいのとってくるね」と言い残してリビングを後にした。炎上したフライパンの光景に驚き、部屋に籠もってしまった妹の様子を見てくる、という目的もあってのことだった。
 その後姿を眺めながら、音姫は息を頬杖をついた。

「今日も失敗しちゃったなぁ……やっぱり、子供だけでお料理なんてむりなのかな?」
「こ〜ら、ほおづえついちゃだめだよ」

 そんな彼女の背中にかけられた声。

「えっ」
「にゃはは。火遊びしてた悪い子はここかな?」

 音姫は心臓が飛び上がるような気分だった。

「おじゃましまーす。お兄ちゃんは留守……みたいだね」
「さ、さくら、さん……」
「やっほー、こんにちは。音姫ちゃん」

 隣家である芳乃家の家主であり、音姫にとっても顔馴染みである芳乃さくらは相変わらずの笑顔を浮かべて、そこにいた。
 さくらは音姫に挨拶をすると、キッチンの方に目を見やる。すると、その陽だまりのような笑みが少しだけ引きつった。

「うーん、結構派手にやっちゃったね……」
「ご、ごめんなさい! さくらさん! で、でも……火遊びなんかじゃ!」
「大丈夫、だいたいはわかってるからさ」

 声を荒げて謝る音姫に対して、さくらはひらひらと手を振った。否、振ったのは手だけではない。その手のひらに握られている一枚の紙キレ――メモ用紙だ。
 汚い、というよりも子供っぽいくせ字で書かれた一枚のメモ。音姫の字はここまで曲がってはいないし、由夢ではここまで綺麗にメモを千切れない。

「あ、それ……弟くんの字?」
「うん。ボクのご飯を持って行っちゃった可愛い泥棒さんの落し物」

 珍しく早めに仕事の終わったさくらが自宅に帰ってみて、昨夜の残り飯でも使って何かをこしらえようかと思った時だった。
 炊飯器の中に入っていたはずのご飯が、メモ書き一枚と、その傍に添えられたやたらと形の悪い和菓子とトレードされていることに気付いたのは。

「お料理作ろうと思ったんでしょ?」
「は、はい……それでも、ごめんなさい」
「うにゃ? なんで?」
「子供だけでお料理しちゃだめだって……言われてたのに、なのに……。それで、こんなことに……」

 どんどん小さくなっていく音姫の声。その音域を上げようとするように、さくらは笑顔を見せた。

「にゃはは、別にボクは怒ったりしないよ。お兄ちゃんにもボクが言っておいてあげるから、心配しないで」
「ほ、本当……?」
「うん。ほんとほんと♪」

 しばらくもたたないうちに、バンドエイドを片手に持って、義之が戻ってきた。彼は珍しい来客に驚き、喜びの色をあらわにした。
 義之が音姫に新しいバンドエイドを張ってあげた後、さくらは二人に対し、一応、「火には注意すること」と軽い忠言こそ送ったものの、それだけだった。むしろ、あまりに緩すぎて、音姫は逆に心苦しくなってしまったくらいだ

(弟くんや由夢ちゃんにご飯作ってあげたかったなぁ)

 やはり、音姫の気は重かった。
 大事にならなかったのは嬉しいが、さくらさんに知られてしまった。今回はお咎めなしだったものの、もう、料理を作らせてはくれないだろう。と彼女は思った。
 しかし。

「そんなにお料理をしたいなら、ボクに相談してくれればいいのに」

 さくらは至極、当たり前のように言った。

「え……それってどういう意味?」
「料理が作りたいならボクがレクチャーするってことだよ。といっても、お仕事があるから週末くらいしか時間取れないけど……」
「わたしまたお料理してもいいの?」
「それはそうだよ。止める理由はどこにもないじゃない。音姫ちゃんさえ良ければ、だけど」

 青い瞳に灯ったやさしげな光。
 音姫は隣でお茶を飲んでいた義之が咳き込むくらいの勢いで立ち上がり、頷いた。

「……はい! お願いします、さくらさん!」

 かしこまって頭を下げる音姫。さくらの方が恐縮するほどのきっちりとした礼儀。
 けれども、その心は踊っていた。

「それじゃ、早速、今日の晩御飯から作ろうか」
「はい」
「さくらさん。ご飯って何にするの?」

 さくらは指を顎に当てて小さく唸った。

「まだ考えてなかったなぁ。音姫ちゃん、何がいい?」
「私は何でもいい……」
「それじゃあ、今から一緒に買い物行く?」

 願ってもいなかった提案に音姫は大げさに頷いた。
 その反応に、さくらは満足気に笑うと、青い瞳で義之の方を見る。

「義之くんも一緒に行く?」
「うーん、行きたいけど……やめとく」
「どうして? 弟くんも一緒にいこうよ」

 不思議そうな顔をする音姫に義之は少しだけ考え込んだものの、やはり首を横に振った。

「やっぱりやめとく。……ゆめちゃんを一人だけ置いていくわけにはいかないから」
「あ……そうだったね」
「うにゃ。義之くん。由夢ちゃんは今何をしてるの?」
「お部屋の中。お料理なんて嫌い、って怒ってるから、しばらく出てこないと思うよ……」

 さくらを見上げる義之の瞳は心配と呆れ。
 その大きな黒い瞳にさくらは「わかった」と笑うと、音姫の方に向き直った。

「それじゃ、音姫ちゃん。ボクたちだけで行こうか」
「は、はい。弟くん、由夢ちゃんのこと……お願いしてもいいかな?」

 姉の言葉に、義之はにぱっと笑った。

「もっちろん! 任せておいて。
 お姉ちゃんこそボクやゆめちゃんのことは気にしないでね。おいしいお料理、待ってるから!」




 メインディッシュはサーモンのソテーである。
 パリっと音をたてそうなくらいに脂の溢れた皮と、ほのかに湯気の灯った赤い体。その充々たる肉付きを丸々炙り焼きにされた姿は見ているだけで食欲をくすぐる。隣に配置された野菜も、この匂いが染み付いているならば、野菜嫌いの子供だって思わず一緒に食べてしまうだろう。
 そして、メインディッシュをさらに飾り立てるのは両脇に配置された和食における黄金コンビ。すなわち白米と味噌汁である。双方があげるあたたかな湯気が、交じり合い、人間の視覚と嗅覚を介して、食べてもいないのに、味を連想させる。添えられた副菜のにくじゃがも見事なデキだった。
 時間と共に、涎の溢れる香りが朝倉家の食卓を支配していく。この香りの支配下にあっては子供は「いただきます」の合図を今か今かと待つばかりである。

「お兄ちゃん、今日のご飯、すっごく美味しそう!」
「うん、ボクもそう思う。ね、じゅんいちさん。もう食べてもいいよね?」
「ああ、いいとも。冷めないうちにさっさと食べてしまおうか」

 純一が合図をすると共に、食卓に「いただきます」の掛け声が響き渡った。
 彼にとっても久しぶりのまともな家庭料理だ。年甲斐もなく、お腹をならしそうになるくらい、食欲はうずいていた。外食や店屋物はたしかに、それはそれでいい味があるが、家庭料理には何にも変え難い味がある。

 旧友との久しぶりの食事の後、帰ってきたところをキッチンの焦げ跡に出迎えられては、さすがの彼も驚いた。何事かと思ったものの、丁度さくらと音姫も買い物から帰って来たところであり、さくらの説明で、軽い注意こそしたものの、ほとんど何事もなく事は流された。
 最も、さくらがいなくても何も変わらなかったであろうが。
 その原因が悪戯の類ならば、話は別だが、今回の件は悪戯でもなんでもなく、自分たちで料理を作ろうとしたという甲斐甲斐しさにある。そんな可愛い孫たちを叱り付けることは彼にはできなかった。

「美味い……さすがだね、さくら」

 鮭をつまみながら純一は感嘆の声をあげた。

「ううん、お兄ちゃん。ボクは何もしてないよ」
「ほう?」

 しかし、彼の賞賛の声にさくらは首を横に振った。
 彼女はチラリとテーブルの向かいを一瞬だけ見、すぐに視線を戻した。

「色々教えてあげたのはたしかだけど……このお料理は音姫ちゃんが、ほとんど一人で作ったものだよ」
「本当かい?」
「ボクは手順を教えただけさ。そしたら音姫ちゃん、一人でやっちゃうんだもん。ボクもびっくりしちゃった」

 さくらの言葉をたしかめるかのように純一はもう一口に鮭を摘んだ。

「……そいつはすごい。あの年で……」
「基本がしっかりしていたからね。材料と手順だけ教えてあげれば後は簡単なことだったみたい」

 彼女は自分が教えるまでもなく、母親から料理の技法をしっかりと受け継いでいたのだろう。とさくらは思った。

「ま、由姫ちゃんに似たのかな? ぐーたらな血筋を継承しなくてよかった」
「ふ、その手の皮肉は聞き飽きた……いや、聞きなれたよ。いい加減、別の罵り文句を考えておくといい」
「相変わらず、だめ人間だなー」

 呆れ声を右耳から左耳へと流しつつ、純一は孫たちの姿を見た。視線の先。食卓の対面側には子供三人が並んで座っている。

「ど、どうかな……弟くん、由夢ちゃん……? 変な味、しないかな?」

 音姫は自分で作った料理には一口も手をつけず、両隣に座る二人を見ていた。不安そうに弟妹の様子を見守る彼女だったが、そんな不安を抱く必要はないのは、何よりも明らかだった。

「はむはむ……お兄ちゃん、そのお魚、私にくれない?」
「だめだよ! いくらゆめちゃんでもこれはだめ……もぐもぐ。あ、お姉ちゃん、何か言った?」

 かけられた声にも気付かないくらいの勢いで義之と由夢はご飯を口の中に放り込む。遠慮も躊躇もない。むしろ、一息ついたらと、言いたくなるほどだ。

「あ、あの……お料理、美味しい?」

 おそるおそる、といった感じの言葉。
 間髪おかずに義之は叫んだ。

「もっちろん! すごく美味しいよ! お姉ちゃん、やっぱりすごいや!」
「わ、ご飯が……」
「こらー、義之くーん。口の中は片付けるか塞いでから喋りなさーい」
「うわわ、ご、ごめんなさいっ」

 対面から飛んできた声に義之が背筋を縮める。

「はは。まぁ、いいじゃないか、さくら。女の子ならともかく、男の子はそれでなんぼだ。これくらい元気な方がいい」
「もー、そんなこと言ってると、義之くんがお兄ちゃんみたいなミスター・カッタルイになっちゃうよ」
「なんじゃそりゃ……人に変な異名をつけるのはやめなさい、さくら」
「かった、かったー。かったるいー」
「由夢ちゃん、そんな言葉、使っちゃだめなの」

 慌てて、飲み込もうとする義之だったが、今度は喉につまらせてしまい、音姫からお茶を手渡されるはめになった。

「もう、弟くんは本当に世話が焼けるんだから」

 せっかちな弟に音姫は苦笑するが、その笑みは、やさしげなものだった。

「ゴクンゴクン……ふぅ、苦しかったぁ」
「あわてんぼ」

 くすくす、と。微笑ましそうに目を細める音姫。

「……あ、ご飯粒がついてる」
「え?ほんと?」
「うん。お兄ちゃんのほっぺた」
「ほんとだ。由夢ちゃんの言うとおりだね」
「えー、どこどこー?」

 姉と妹の誘導に従い指を動す義之だったが、彼が白い粒を見つける前に、音姫は手を伸ばした。

「取ってあげるね、弟くん」

 ほっぺたに指を当てるとすくうように、弟の頬に付着していた白い粒を取る。そして、そのまま――。

「もぐ……うん、おいしい」

 ご飯粒を自分の口の中に入れた。

「お姉ちゃん、いじきたないよ……?」
「弟くんのものなら、きたなくてもいいの」
「いいの?」
「うん♪」
「そっか……ならよかった!」

 義之は不思議そうな顔から転じて、笑顔になる。
 食卓に満たされている空気はあたたかい。ただ、それだけで満腹になってしまいそうになる。
 甘美な香りと、愛情のこもった美味しいご飯。
 それに加えて和気藹々とした家族の団欒が加われば、もう敵はなしだった。
 この晩餐は、何よりの至宝。

「ね、弟くん」

 義之がお味噌汁の最後の一滴を飲み干した時。音姫がぽつりと言った。

「何、お姉ちゃん?」
「これからはお姉ちゃんがずっとご飯作ってあげるから」
「ほんと!?」

 振り返ってみた姉の笑顔が輝いていたのは、多分、彼の見間違いでも電灯の明かりのせいでもないだろう。

「だから、楽しみにしててね、弟くん♪」



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