When You Wish upon a Star
どんよりと曇った空に、じめじめとした湿気混じりの風。
生徒会室の窓の外を見れば、目に入るのは曇天より降り注ぐ雨。自然がもたらした酸混じりのシャワーは中庭に広がるアジサイの薄紫色の花弁に当たり、はねる。
外は豪雨……とまではいかないまでも、雨。春も終わり、本格的な夏への入り口であるこの時期、梅雨のイメージを具現化するようにぽつぽつと散発的に鳴り響く雨の音。
これで、5日連続だ。
「萎えるな」
鬱々さを隠そうともせず、義之はため息を吐いた。
自由に外に出れないという、現実的な不便さもあるが、なによりも精神的に参ってくる。お天道様は曇り空のカーテンの奥に顔を隠して、その光を自分達に見せてはくれず、湿気の香水を纏った黒雲ばかりを眺めていては、気分まで湿気臭くなる。
身体にこびりつくような初夏のむし暑さへの不満も混じって、義之はもやもやとした、今ひとつ、すっきりしない気分だった。
「本ッ当、嫌な季節だねぇ〜」
対面からの声。義之が窓から視線を外し、声の方へと向けると、茜のうんざりしたような顔が目に入る。
デスクに置かれた『書記』と書かれたネームプレートに、降りかかる彼女の青色吐息。
「ニュースでは、今年の梅雨は雨が控えめになるかもしれない……なーんて、言ってたのに」
「今年もいつも通り、いや……いつも以上に絶好調な梅雨だな」
毎年毎年に起こったことを事細かに覚えているほど繊細な人間ではないが、それでも、ここまで降ったのは久しぶりのような気もする。その割に暑さの方は控えめになるどころか、こちらも例年を越える勢いで。雨と暑さの二重苦だ。どうやら、今年の雨は暑さの割合を抑える分数ではなく、倍々にする累乗記号だったらしい。
いや、夏の雨なんて、概ねそんなものか。
指の上でボールペンを器用に回しながら、義之は続けた。
「今日は七夕だし、そろそろ持ち直してほしいもんだ」
「そうだねー、せっかく天の川が大洪水じゃ、織姫さまと彦星さまもかわいそう」
「織姫と彦星かぁ」
茜の返事に対し、ロマンチックな考えだ、と思いつつ背もたれに体重をかける。
そこまで考えての言葉ではなかった。単純に、1年に1度きりの行事で、しかも、それが天の川という景色を見るというイベントである以上、天候は晴れている方がいい、と少し思っただけで、それ以上に深い考え――ロマンはない。初日の出は晴れた空で見たい、ということと同じように。
「ま、別に大洪水でもいいんじゃね? それならそれで、泳いで渡るさ」
「うわー、義之くん……ロマンがないなぁ」
「そうかい?」
どんな障害にも負けず、愛しい人に会いにいく。それはそれで結構、ロマンがあるようにも思うのだが。
「二人とも」
そんな義之と茜の会話を断ち切るように、割って入った、涼やかな声。
この蒸し暑さの中にあっても、平気そうな顔をした彼女の声はやはり、普段どおりに平静そのもの。
しかし、どこか諌めるようなその語気に、茜は「すみませーん」と舌を出して笑った。
「織姫と彦星の未来を憂いるのもいいけど、仕事はさぼらないでね」
「は〜い。わかりましたー、生徒会長サマー」
「ああ。悪かったさ、杏」
まるで悪びれない二人の返事に、『生徒会長』の腕章をつけた杏はくすり、と笑った。
「ま、そんなに急ぐ仕事もないんだけどね」
その言葉を証明するように、生徒会室は閑散としていた。
風見学園生徒会室。平時の事務室でもあり、会議室でもあり、文化祭などの際には総合参謀本部となるこの場所も、今、利用しているのは生徒会長である杏。副会長の義之。そして、書記の茜だけだ。
勿論、仕事が忙しすぎて、誰もいない……なんて事態も往々にしてある。風見学園の生徒会は、名ばかりの組織でもなんでもなく、また、本校と付属の二つの学校、二倍の生徒を抱えている関係上、どちらかといえば忙しい。
しかし、今は梅雨の時期。
3月の卒業パーティー並びに年度末の追い込み事務、4月の新入生歓迎パーティー。5月の春季体育祭。6月のスポーツテスト。
などといった、行事山盛りの地獄の春季を越えて、夏まで一段落つくことのできる時期だった。
じめじめとした嫌な季節ではあるが、それに関してはありがたい。
「のんびりできるっていいことだな、本当に」
時間に追われない日々のありがたさを改めて確認しつつ、義之は書類をととのえた。簡単な書類整理。今日の分の仕事は、これだけだ。
「……お、止んだか?」
雨が屋根を叩く音の間隔が広くなっているような気がして窓の方を向いた。
「え、本当〜?」
「そうみたいね」
音をたてて、椅子から立ち上がった茜に、杏は視線をデスクに向けたまま相槌を打つ。
「やった〜♪ ちょうど仕事が終わったところだったんだー、こういうのって、なんかいい気分〜」
はしゃぎながら、窓際に走る茜を横目に、義之は窓の外を見下ろした。眼下に見えるのはこれから帰路につこうとする生徒たちの姿。広がる傘は、ない。雨が止んだいうことに間違いはなさそうだ。
「んー、俺の方も一応は終わったけど」
問いかけるような、あるいは、請うような目で杏を見た。今日の分、と決めていた仕事は全て終了だ。
しかし、積み上げ式に仕事が溜まっていく以上、本来は予定にないことでも、今のような暇な時期のうちに予め済ましておきたいという考えもある。余裕があるのならば、どんどん先の仕事へと取り掛かるべきではないだろうか?
(けど、まぁ……今日はこの辺にしときたい、かな)
茜ではないが、たまには傘をささずに帰りたかった。今でこそ雨は止んだようだが、相変わらず天候は怪しく、すぐにまた降り出すかもしれない。
そんな義之の思いを汲み取ったのか、汲み取らなかったのか。
「そうね」
杏はぴしゃりと言いきり、棚に置いていた鞄を取り出した。
「今日はこのあたりで終わりにしましょう」
「やった〜♪ 杏ちゃん、大好き〜♪」
「いいのか?」
飛び跳ねて喜ぶ茜とは裏腹に、義之は少しだけ眉根を寄せた。願ったり叶ったりといえばそうなのだが。
杏の言葉には、何か裏があるような気がしてならないのだ。
昔と変わらず相変わらずのポーカーフェイス。不敵にして、深謀遠慮の生徒会長のお言葉に対する、勘。
そう、単なる勘だ。恋人としての。期待という名の、カンである。
「ええ」
だが、こともなさげに杏は頷く。
まるで義之の反応を確かめるかのように、一拍置いて、
「だって今日はお祭りがあるから」
にっこりと、笑みを浮かべた。

学園前にあるバス停からバスに乗り、その振動に揺られておよそ十数分。
芳乃家や朝倉家のある昔からの住宅街とは逆方向である西の灯台側、初音島の中でも新興の住宅街。そこに豪華な邸宅が並び立ったエリアがある。
そして、そんな豪華な邸宅の中でも一際、目をひく大邸宅。漫画に出てきそうな長々とした塀に巨大な門の和風邸宅。
ここが、雪村邸だ。杏と二人で門の前まで帰って来た義之は、その大きさにやはり圧倒される想いだった。
「今、あける」
そう言って、隣にいる杏がバッグから鍵を取り出す。玄関の鍵ではない。その前にある正門を開けるための鍵。
昔ながらの邸宅というものは見栄えはいいが、面倒だ。外観の良さと引き換えに合理性というものを犠牲にしている。最も、全ての家屋がそういうわけではないだろうとはわかるが。
本日、7月7日の初音島商店街で行われる七夕祭り。
それに向けて、早めに仕事を切り上げた風見学園生徒会一同だったが、さすがに制服姿でお祭りに行くのは気が引ける、ということで一旦、各々は自宅へと解散していた。
とはいえ、今、この場にいない茜とも、つい先ほど、バスの中まで一緒にいたので解散という感覚は薄い。彼女の家はここから近いし、程なくして再び姿を見ることにもなるだろう。
「おじゃましまーす」
杏の手招きに応じ、整ったつくりの敷居を越えた。門から玄関まで繋がる渡り廊下を覆った芝の間隔が心地よい。
「ただいま、でいいって言ってるのに」
「ん……? ああ、一応さ。一応」
「ふーん……」
誤魔化すような義之の言葉に杏はソッポを向いた。
「ただいま」
そして、当てつけるように言い放つと、先を歩き、玄関の扉を開く。
(……まぁ、たしかに)
心なしか、少しだけ不機嫌そうに見える背中を見ながら、義之は肩をすくめた。
杏と恋人の関係になって以来、ちょくちょく訪れていた雪村邸だが、ここ最近は特にこちらの家に厄介になることが多い。私服に着替えるために解散したはずが、何故か自分の家に行かずこちらに来ていることがその証拠だ。
ここ、雪村邸の中には義之の私服は勿論のこと。代えのパンツから、歯ブラシ、好みの漫画まで、いたるところに私物が置かれている。この家の元の主であり今は亡き、杏の祖母が知ったらどんな顔をすることだろう、と少しだけ心苦しく思うものの、現状をあらためる気もなかった。
(ったく。横着だよなぁ、色々と)
自分に半ば呆れる。
お互いに自宅に一人暮らしという立場を最大限に悪用した、姉であり、かつての生徒会長の言うところの『不健全なお付き合い』だ。
今は外国にいる彼女だが、現在の義之の状況を知れば憤慨するのだろうか? それとも、妹のように案外、許してくれるのだろうか。
「どうかした?」
「あ、いや。なんでもない」
杏の声に義之は我に戻った。今の『半同棲』とでも言うべき、はっきりしない状況は正直どうかとも思うが、仕方がないことだ。少なくとも、風見学園を卒業するまではこのような関係が続くのだろう、と1つの結論を出して。
靴を脱ぎ、玄関に上がれば、見えるのは長々と広がる廊下に、随所にある大きな障子扉。曲がり角もないのに、廊下の先が見えないという景色を、義之はこの家に来るまで見たことがなかった。
もう慣れたものだが、相変わらず広い。この間、遊びに来た自称・高性能ロボットが迷子になったのも記憶に新しい(本人は決して『迷子』と認めることはなかったが)。
学生服の襟元を緩めながら、きょろきょろと辺りを見回した。
「いつもの、どこ置いたっけ」
説明足らずの言葉だと自分でも思う。
「いつもの?」
「ああ」
「……ああ、シャツね。あれなら洗濯したから、私の服と一緒に乾かしてる」
だが、二人の間ではそれで十分だった。
「サンキュ。洗面場か?」
この梅雨の季節、乾燥機を使わずに外に干すことはないだろう、と思いつつも、義之は一応、確認を取った。
「ええ」
「おっし。取ってくるよ。杏のも一緒に取ってこようか?」
「私のはいいわ」
駆け出す寸前だった、義之の足を穏やかな制止の声が止める。
「今日はちょっと、いつもと違ったスタイルでいこうと思ってね」
そう言って、相変わらずの含み笑いを浮かべる杏。
義之は少しだけ疑問に思いながらも、
(ま、いつものことか)
いつも通りの恋人に、逆に安心感を抱きながら、檜の廊下を歩き出した。

「こんなもんか」
着替え終えた義之は洗面場の鏡を前に、自らのたたずまいを確認した。
基本的に、香水やら髪の手入れといった、オシャレの類とは縁のない人間だが、さすがに最低限、気にすることは気にしている。
服の表裏を間違えて着ていることもなければ、特に髪の毛が跳ねていることもない。最低限、みだしなみはととのっていると言えるだろう。
(んーむ、少し伸びすぎかな)
ふと気になって、右手の親指と人差し指で前髪を一束つまむ。眉毛にかかっている、くらいならいいが、目を覆い尽くすくらいの長さだ。生徒会での多忙な日々もあって、後回しにしていたがいい加減、散髪にいったほうがいいかもしれない。
と、義之がそんなことを考えた時。
――――ピーーンポーーン。
雪村邸にチャイムの音が鳴り響いた。
「ん……茜か?」
最終確認。
再び、鏡に向き直り、自らの姿を一瞥すると、義之は洗面場から外に出た。
「杏ーーっ! 客だぞーーっ」
玄関に向かって早足で歩きながらも義之は叫んだ。
勝手知ったる他人の家。とはいえ、さすがに家主を差し置き、来客を出迎えるというのには抵抗がある。
長々とした廊下に声が木霊する。……が、返事はない。
「杏ーー? どうした?」
やはり杏の声は返ってこなかった。
義之が怪訝に思った時。
「義之……」
小さな声が、ふすまの隙間から漏れ聞こえた。
「杏?」
ここは知らない部屋だな、と思いつつふすま越しに問いかけた。
「杏、客だぞ」
「ごめん、今ちょっと手が離せない、代わりに出て」
「わかった」
着替え中、だろうか? それにしては時間がかかってるような。
「まぁ、どうせ茜だろうしな」
「ええ。私もそう思う」
杏の声に頷くと、廊下の一端に置かれた電話機の子機を取った。インターホンを受ける機能も内蔵された子機だ。
「はい。雪村です……」
「あ!義之くーん、はろ〜♪」
「ああ。やっぱり、茜か」
受話器から聞こえてきたのは、聞きなれたはしゃぎ声だった。
「意外と早かったな」
「ふーん、そうかなー?」
「早いと思うぜ。なにせ、こっちはまだ……」
準備ができていない、と言いかけて、再び来た道の先に視線を戻した。先ほどと変化はない。まだ、で違いないようだ。
「まだ?」
「まだ、準備中だ。とりあえず上がってけよ」
「りょうかーい♪」とやはり、悩み事なんて何もなさそうな声が聞こえると、それっきり、受話器からは何の音もしなくなった。
「……『上がってけよ』ねぇ」
子機を充電器に戻しつつ、義之は自分の言葉に肩を竦めた。
自分も邪魔させてもらっている立場だというのに。なんともずうずうしい物言いだ。
「おっじゃましま〜す♪」
ガラリ、と引き扉が開き、跳ねるようにして入ってくる茜。
その流れるような長髪の後ろに見慣れた姿を捉えて、義之は目を丸くした。
「天枷に、由夢?」
「どうも、兄さん。おじゃまします」
「おじゃまします……だ。桜内」
ペコリと下げられるお団子頭と牛柄帽。――――朝倉由夢と天枷美夏だった。
「ああ、お前らか」
今、来たのは茜だけ、と思い込んでいただけに一瞬だけ、呆けた顔になるものの、すぐに笑顔を浮かべた。今夜のお祭りは美夏も誘うと杏が言い、それならば、大勢でいた方がいいと、杏と茜に許可を取り、義之は由夢に一報を入れたのである。
渉や杉並も呼ぼうかと思ったが、せっかく晴れた天気。涼やかな七夕の夜をぶち壊しにしそうな面々を呼びつけることもないだろうという杏の意見で却下になった。
「にしても、早いな。お前ら」
「兄さんはともかく先輩方や天枷さんをお待たせするわけにはいきませんからね」
せっかくお誘いをいただいたことですし、と外向きの皮を被った由夢は笑う。
「部外者の私がいたらお邪魔かな〜とは思ったんですけど、やっぱりご一緒させていただこうと思いまして」
「そんな〜、じゃまなんてことはないよ〜。ねぇ、天枷さん?」
「うむ。由夢なら大歓迎だ。むしろ、邪魔なのは桜内の方だ」
「ははは……」
方や、もう片方の後輩は相変わらずのふてぶてしさだった。
「ま、今日は別に生徒会で繰り出そうってわけでもないしな。茜と天枷の言うとおり、気にするなって」
今回のお祭りは別に生徒会が協力しているわけでもなければ、生徒会の面々で骨休みツアーを企画したわけでもない。自分達のように、自由意志で参加する人間は結構、いるとは思うが。
「そういえば、桜内……。杏先輩はどうした?」
先ほどから気になっていたが、とでも言ように腕を組む美夏に、義之は頷いた。
「杏なら今、着替えてるところだ。もう終わると思うけど……」
自分自身が確認するような言葉。
その言葉が途切れるか、途切れないかというときだった。
「お待たせ」
檜廊下がしなる音と共に、小柄な影が姿をあわらす。
杏、と呼びかけ、義之は振り向き、そして、その姿を見て固まった。
「わぁ……」
感激したような由夢の声が耳に響き、美夏は瞳を見開く、茜にいたっては歓声と共に飛び跳ねるように、杏の傍に寄った。それもある意味、当然。何故なら――。
「雪村先輩。その浴衣、よく似合ってますよ」
「ふふ、ありがとう」
お世辞などではない。心からの言葉に杏も頬を緩める。
そんな様子を眺めながら、義之は「ああ、いつもと違うってそういう……」なととぼんやり思った。
薄紫色。
小さな杏の身体を包んでいるのは、見慣れたゴスロリファッションでもなければ、勿論、風見学園の制服でもない。随所に花の模様が描かれた薄紫色の浴衣だった。
彼女の落ち着いた印象を形にしたかのように、静やかなる色合いを朱色の帯が止め、振袖からのぞく白の裏地が彩りを加える。
「わ〜、杏ちゃん。すご〜い!」
「ああ、杏先輩! すっごく綺麗だ!」
由夢に続き、茜と美夏からも送られるひとしきり褒め言葉。
先ほどと同じように笑顔で対応した杏の瞳が、とっておき……最後にとっておいたデザートを見るように、義之の方を向く。
その動作から義之が目を話せないでいると、微笑をたたえていた、つぶらな唇がうっすらと開いた。
「……ノーコメント?」
吐息のようにこぼれた言葉。
「あ、いやいや。そんなことは!」
彼女の微笑がガッカリしたような、曖昧なものに変わったのを見て、義之は慌てて首を振った。
「いつもと違うってのはそういうことだったのか、すごくよく似合ってるぜ、杏」
「そんな取って付けたような褒め文句を言われてもね」
「おいおい……、お前の晴れ着姿なんだぞ。俺が見惚れないはずないだろ」
「……ふふ、わかってる。ありがとう」
冗談、と知りつつも肩を竦めた義之の言葉に、杏は笑顔を浮かべる。今度の笑顔は心からのものに思えた。
「うっわ〜! ねぇねぇ、天枷さん、由夢さん。今、義之くん。ナチュラルに凄いこと言ったよね〜?」
「ああ」
「え、ええ」
「だよね〜。『俺が見惚れないはずないだろ』だって〜♪ かぁっこいい〜」
「……そこ、しゃぁらっぷ」
何が楽しいのか、きゃんきゃん騒ぐ女子三人に軽く釘を刺し、もう一度、杏を見る。
「……うん。やっぱり、よく似合ってる」
そりゃ、仕方がないじゃないか。
「お人形さんみたい?」
「いい意味でな」
「ハートきゅんきゅんした?」
「した」
「可愛い?」
「うん」
だって、本当に可愛いんだから。俺の彼女は。
「今すぐ抱きしめたい?」
杏が浮かべるからかい混じりの微笑の中にたしかにある純朴な照れの色。それが、ますます可愛くて。
周りの囃し立てる声も気にならず、義之は呆けたように、こくこくと頷いた。

夕暮れまでの嫌な天気が嘘のように、夜空は澄んでいた。
煩わしい小雨もなく、どんよりと空を覆っていた雲もその姿を控え、まるで織姫と彦星のための道を作るように、星々だけが煌めく。
「おおー、結構、賑わっているなぁ」
夜という時間帯に釣りあわず、人々の活気に溢れた商店街の光景を見て、美夏が声をあげた。
飾り付けられたちょうちんと数多くの出店。やきそばやタコヤキ。ベビーカステラにソースせんべい。わたがし機の立てる派手な音と共に、食欲を刺激する香りが充満する。
勿論、食べ物ばかりではない。古典的な遊戯ながらいつまでたっても子供に人気の射的、おみくじ、わっか投げ。金魚並びにスーパーボールすくい、その他諸々。
安物のスピーカーで商店街全体にリピートされているお祭り音頭と重なってるかのように、途切れることのない子供たちのはしゃぎ声。夏の夜風に、多くの短冊をつるした巨大な笹が揺れた。
「今回ははしゃぎすぎるなよ。天枷」
お祭り特有の騒々しさを心地よく思いながら、義之は笑った。
「む、それはどういう意味だ?桜内」
「言葉どおりの意味さ」
「美夏を子供と一緒にしないでもらおう。このような行事ではしゃぐことなどありえ……おお!」
まるで説教でもするかのようにぶつぶつともらしていた文句の声が、ふいに跳ね上がる。
「あれは金魚すくいではないか! 何、黄金の金魚入りだと!? 由夢っ、一緒に行こう!」
「え?」
勢いよく自分の手を取った親友に由夢は戸惑ったように視線を動かし、右へ左といったあと、その瞳が義之の方を向いた。彼女も美夏とは結構な仲だ。あのテンションに驚いたわけでもなければ、一緒に行くのがいやというわけでもない。確認を求めるような視線は単に、5人でお祭りに来たのにいきなり別行動を取るのは……ということだろう。
(ま、行ってやれよ)
義之は片手をひらひらと振って、意向を示した。まずは同年代の人間で楽しんでみて、合流したくなればすればいい。お互い目立つか目立たないかでいえば、後者であるし、その気になれば、すぐに可能だろう。
「あ、はい。行きましょうか、天枷さん」
「よぉぉぉぉっし! 今年こそは一匹でもすくってやるぞぉぉぉ! 待っていろ、忌まわしきレッドフィッシュ! じゃあ、杏先輩、ちょっと行ってきます!」
杏が返事を返す暇もなく、美夏はそのまま由夢の手を引いて、駆け出していってしまった。さながら、イノシシの如く。
去りゆく深紅のマフラーを眺めていると思わず苦笑いがもれる。
「……あれではしゃいでないってんなら、なんだってんだ?」
義之につられるように、茜と杏も笑った。
「あはは、相変わらず元気だね。天枷さん」
「美夏だからね」
はしゃぐのは別に構わないが、去年のようにならなければよいが、と思う。
たしか、去年の七夕祭り。今日と同じように、はしゃぎにはしゃぎ、騒ぎに騒いだ美夏は、あまりにテンションが高ぶりすぎたのか(今日とは違い雨が降っていたという悪条件があったのもあるだろうが)、回路が熱暴走を起こしてしまったのだ。
あの時は大変だった。
(ま、本人も言ったように子供じゃないんだ。同じ失敗は二度はないさ)
多分。
昨年、一匹の金魚もとることができず紙の網を破いてしまった不器用なロボットのリベンジ成功を祈ってやりながら、二人の後姿を視界から外し、義之は傍ら、薄紫色の振袖を纏った杏を見た。
彼女の浴衣姿は、この夜のお祭り景色に溶け込むように、自然で優雅だった。
「さて、天枷の子守は由夢に任せるとして、俺たちも回ろうぜ」
「ええ。……それにしても、美夏、こういうイベントだと由夢さんにべったりね」
「ん、なんだ? 由夢に嫉妬か」
「……そういうわけじゃないけど」
つい、と視線をそらす杏。なんだかんだで彼女は後輩が可愛いのだ。
「俺としては、こういうときに天枷が由夢と一緒にいてくれて助かってるけどな」
「? ……どうして?」
「どうしてって、そりゃ」
常日頃、杏のことを犬のように慕っている美夏。その懐きっぷりは見ていて微笑ましいものがあるが……。
「あいつがお前にべたべたしてる間は、俺がべたべたできないからな」
それが困ったところだ。
杏の肩を抱くように、義之は身を寄せた。
「ふふ……、美夏はお邪魔虫扱い?」
わがままな子供を見るような目。
その瞳は自分より遥かに下にあるのに、何故か見下ろされているような錯覚を覚える。
「あんなに可愛い後輩に対して、酷い男ね」
「友愛の情は抱いているさ」
自然とお互いに見つめあう形になる。
「…………」
「…………」
さらに、近づく距離、が――。
「あの〜、すみませーん。お邪魔虫はここにもう一匹いるんですけど〜」
ハッとして、義之が見れば、舌を出して茜が笑っていた。
「ふふ。そうだったわね」
「そーいや、茜がいたか」
「うわぁ、ひっどぉい、お二人さん。そんな露骨に『邪魔だな。こいつ』みたいな目で〜。これだからカップルの付き添いなんて嫌なんだよ〜」
義之と杏の言葉に、からかうような顔から一転、よよよ……と涙ぐむ。
最も、本心では気にしていないどころか、そのカップルの観察を楽しんでいるのだろうことは明白だったが。
「はは。悪かった、悪かった。三人で楽しみますか」
少しだけ杏との間に距離をとって、義之が言うと茜はパァッと笑顔になった。
「わ〜い♪ 天枷さんと由夢さんはあっち行っちゃったし、一人余っちゃうかと思ってたよー」
「そうね。夜とはいえ、まだ早い時間だしね。ふふ……」
「おおー、意味ありげなコメントですな〜」
並んで、意味深な笑みを浮かべてみせる雪花の二人。
すぐさま杏の口から、義之との関係について、あることないことを言い出し、冗談と知りつつのっているのか、本気で信じているのか、一々オーバーリアクションで返す茜が場を盛り上げる。
二人の会話に参加しつつも義之は考えた。さて、どうしようか? お祭りといえば、まずは食べ物……といいたいが、あいにくと、まだ、お腹は空いていない。なら、射的などといった遊戯を――。
このお祭りの計画を頭の中で立てていた折だった。
「ん?」
小さな手が自分の服の裾を引いたのがわかり、義之は振り返った。
「義之」
「杏、どした。何か面白そうなものでも」
「うん。……あれ」
コクリ、と頷く、杏はとある方向を示す。そこにあった看板を見て、義之は頷いた。
「ああ、おみくじか……って」
が、すぐに怪訝そうに首をかしげることになった。
おみくじ? それはたしか神社にのみあるものだったはずだ。お祭りとはいえ、何故、商店街に?
そう口に出してみたものの。
「そうだっけ? いいじゃない。細かいことは」
「そうそう」
二人はさして気にした風もない。
「義之くん。あるものはあるんだからさ〜。もたもたしてると、私が先にやっちゃうよぉ〜?」
「……いいのかねぇ」
まぁ、今時、雑誌の占いコーナーなど○○おみくじといった名は普通に使われているし、神社が関係ないところでの名称として珍しくはない。これも、そういった類のものだろう。
他の出店と違い、元々あった店の前にせり出ている形ではなく、何もなかった(強いて言うのならゴミ置き場だった)場所にテナントが張り出された『おみくじ屋』。よくよく見ればその棚の上にはお菓子の詰め合わせ袋や子供用の玩具など、商品と思わしき物が陳列され、その前に『大吉』や『末吉』といったネームプレートが置かれている。
(おみくじっつーか、くじ引き、だな……普通に)
軽く辟易しつつも、義之は頭の片隅でそう割り切る。これはそういうおみくじだ。
「はいはい。いらっしゃい、いらっしゃーい。胡ノ宮神社公認のおみくじだよ〜。皆さんよってらっしゃい、みてらっしゃい〜」
しかし、おみくじ屋の店内から現れたサングラスの男によって、納得しかけた頭の中はすぐに混乱することになった。
「す、杉並ッ!?」
義之の素っ頓狂な声が祭囃子に乗って響く。
『初音島商店街』と刺繍の施されたハッピを着て、顔を隠すかのように深々とかぶったニット帽子と漆黒のサングラス。だが、その怪しげな風貌と、ハリのある声は間違えようがない。
風見学園の悪の帝王にして混沌の権化。杉並、その人に違いはなかった。
「はっはっは。何を言っている。桜内義之くん。杉並というのは誰だ?私はただのおみくじ屋の店員なのだが……」
「何を言ってるってのは、こっちの台詞だ」
というか桜内義之くん? 『ただのおみくじ屋の店員』に知られるほど自分の名前と顔が有名だとは到底、思えないが。
今度は一体何を企んでいるのか。生徒会の所属になってから、彼とは幾度となく刃を交えた義之は怪訝そうに腕を組んだ。
「ま、いいじゃない。やってみましょうよ」
だが、義之と同じように、いや、義之以上に何度も杉並と戦ったはずの杏は気にした風もなく前に出る。
「そうだよ。杉並くんだって人の子だよ。案外、普通にバイトしてるだけかも」
「そうか?」
出店の店員のアルバイト。日雇いでコンスタントに小金を稼げる。学生が飛びついても、そこまで不自然ではない。しかし。
「……そうかねぇ」
あくまで普通の学生の話だ。『普通』という単語の対極に位置するこの男に当てはまる話ではない。
「ふはははは! そこのお嬢さん、悪いが私は杉並などという男ではないぞ。私はただのおみくじ屋の店員だ、それ以上でも、それ以下でもない。ふっふっふ……」
「はいはーい♪」
「言ってろ……」
こんな人を小馬鹿にしたような堂々過ぎる笑い声を出せる人間がそうそういてたまるか。義之はそう思ったが、眉をひそめただけで、口には出さなかった。
「ねぇ、『ただのおみくじ屋の店員』さん。おみくじ引きたいんだけど」
そんな義之を置いて、杏はさらに一歩前に出ると、二人称の部分のアクセントを強調して言った。
「お一人様、300円だ」
「はい。これ、三人分」
驚くほどの素直さで杏は500円硬貨1つと100円玉四つを手渡した。
あたかも自分のお金のような堂々たる支払いっぷりだが、全て義之のポケットの中から出たものである。
「毎度あり〜。貴公らに幸あらんことを〜」
大げさにかぶりをふって、くじの入った筒箱をかかげ上げる店員。
まずは杏がその筒箱を手に取り、振った。
「後々のために、指紋でも採取する気か? 俺たちの」
義之の問いかけにも、店員は黒いサングラスを不気味に光らせ、不敵な笑いを浮かべるだけだった。
そうこうしているうちに、杏が一枚の紙を取り出す。
「どうだ。杏?」
何が出たのかと思い、義之は腰を下げ、肩越しに杏の手元を見ようとした。
まぁ、そこまで悪い結果が出ることもあるまい。そう思ったが。
「……大凶」
ポツリともれた声。
無表情を装っているようだが、杏の眉が微かに、不機嫌そうに寄せられる。
「うげ……よりにもよって、か」
「うわ〜、杏ちゃん。ついてないね……」
まるで我が事のように肩を落とし、友人の悲運を嘆く茜に、相槌をうつ。
大凶、とは。おみくじは基本的に凶以下はほとんど出ないようになっているという話なのだが……。
しばらく、広げたおみくじを見つめ(睨み?)続けていた杏だったが、ふいに視線を上げると。
「……何か細工した?」
鋭い瞳でいちゃもんを言い放った。
店員のサングラスに向けられているはずのその目に義之は背筋にハリが刺さったような感触を覚える。結構、本気だ。そんなにいやだったのだろうか。大凶。
(所詮、おみくじ……だと思うけどなぁ)
付き合いだしてから知ったことだが、杏はこうしたことに無頓着のように見えて、わりと気にするタイプだ。
義之には理解しがたいものがあるが、なんだかんだで女性にとって占いだのおみくじだのは重要なものなのだろう。今は本島にいる、義之の幼馴染などはそのわかり易い例だった。
最も、杏と彼女との間には、最悪な結果を見た時に派手に落ち込むか、派手に不機嫌になるか、という大きな違いがあるが。
「ははっ。お嬢さん、いちゃもんはやめていただこうか……それが貴公の天命、アカシックレコードに刻まれた事柄なのだよ。ふっふっふ」
「む……」
「悪いが、凶以下は景品はなしだな。次のチャレンジに期待しておこう。次のチャレンジャーは誰かな?」
客商売の人間とは到底思えないほどに不遜な物言い。
憮然とした杏が下がったことを確認すると、自称・ただの店員は義之と茜の顔を交互に見た。
「はいはーい。今度は私でーす」
それに答えるように手を上げて、茜が前に出る。
店員はふむ、と小さく頷くとやはり先ほどと同じように筒箱を彼女に手渡した。
「残念だったなぁ、ま、気にするな」
自分に付き添うように下がってきた杏の肩を軽く叩き、義之は笑った。
「こんなところで運気を使うのもなんだしさ」
「いいわよ。こんなのただの確率の話だし」
言われるまでもない、というような言葉。
が、本心が別にあるのは明白だった。その証拠に。
「いやったぁ〜〜!! 大吉だ〜〜!! ほらほらみてみて、杏ちゃん!義之くん!」
歓喜に溢れた茜の声に対して、今度は隠すこともなく杏は眉をよせた。
「む……」
「おー、すごいな」
呆気に取られているうちに黄金色で『大吉』と書かれた小紙を両手で掲げながら、茜が戻ってくる。たかが一枚の紙なのに、まるで豪華な宝石でも手に入れたかのようなはしゃぎっぷりだ。
「いやった〜。この夏は何かいいことがありそうな、気分〜♪」
そう言って義之たちの前でクルリ、と身体を1回転させる。
しかし、自分を見上げる瞳に気付くと、あ、とその動きを止めた。
「あはは、なんか、ごめんね、杏ちゃん」
言いつつもあまり申し訳そうではなく、どこか楽しそうな口調だった。
所詮はくじだ。良い結果を自慢こそすれど、その結果を申し訳なく思う必要はなくて当然なのだが。
「どうやらラックを茜に吸い取られちまったみたいだな」
義之は苦笑いして言った。
「そうかもね……私の分までお幸せに」
「ありがと〜♪ ハッピーのお裾分け、ありがたくいただきまーす」
そう言って、再び茜は跳ねた。
「最後は俺か」
気合を入れるように呟き、義之は一歩、前に出た。
おみくじなんて、そこまで信じてはいないが、どうせ引くのなら、なるべくいい札を引きたい。
手渡された筒箱を2、3回振る。飛び出てくるのは小さく丸まった紙。
「……どれどれ」
なんだかんだいいつつも、胸の中に期待を秘めて、義之は紙束を開いた。
しかし、結果は最悪だった。
「おいおい……俺もかよ……」
思わず呻いてしまった。
「何が出たのかな、お客さん」
「……見てのとおりさ」
自嘲するように、ひらひらとおみくじを振る。披露される、真っ赤な、最悪の二文字。……『大凶』。
杏に続いて、自分まで。義之は頭を抱えた。
「これが正真正銘の最悪、ってやつか?」
茜と店員の同情するような視線を感じる。
こんなもの所詮は確率。気にするほうが馬鹿。気にした方が負け。それはわかっているのだが。
それでも、大吉の後で大凶、といものは。
「くは〜、ったく、なんてこったい」
なかなかに最悪だ。景品ももらえない。なんだってお金を払ってこんな気分にならないといけないんだろう。
「……最悪?」
しかし。
何故か、杏は嬉しそうな笑みを浮かべていた。
「ううん。そうでもない」
「杏?」
その様子は先ほどまでとは全く異なる。
「だって、ほら……」
義之が疑問の声を発したすきに、杏は義之の手元からおみくじを取り、自分のものと並べる。
並ぶ、おみくじ。
『大凶』と『大凶』の文字。
気味の悪い赤々とした色で書かれたぶっそうな文字。
けれど。
「おそろい……」
「へっ?」
「ほら、義之と私の、おそろい」
二つのおみくじは、全く同じものだ。
「だから、これはこれで、いい。……むしろ、大凶でよかった、かも」
ほんのりと頬を染めて、杏が呟く。
再び、手元の二枚のくじを一瞥すると、たしかめるように杏は頷いた。
「ふふ、やっぱり私たち、運命で結ばれてるみたいね」
「……そうか?」
義之は頭をかきつつも、しかし、頷いた。
「ま、たしかに、俺も縁、みたいなものは感じる……かな。これは」
多くの種類があるおみくじの中から二人揃って同じものを引いたのだ。
しかも、噂話が本当であれば『大凶』というものは相当に封入率が低いと聞く。それを二人揃って引き当てた。そう考えれば、悪い気は、しないかもしれない。――いや、結構、いい気分かも。
「けど、大凶はなぁ」
「嫌?」
「いくらペアでも、ね」
それなら、と杏は片方のおみくじを持ち出す。続いて、左手を前に出すように求める。
義之には意図がわからなかったが、断る理由もなく、素直に左手を出した。
目の前に出された義之の左手。
「これで厄払いよ」
彼女は素早い手つきで、その薬指におみくじを結びつけた。キュッ、と紐を結ぶような音がして、軽く血管が締め付けられる。
ああ、なるほど。
義之は彼女の意図を理解し、呆れた。
「おいおい……。おみくじは神木に結ぶもんだぞ?」
呆れ、ぼやきながらも、何故か微笑ましい気分になる。
「そうだっけ? ふふ、忘れちゃった」
「ったく」
義之はもう片方のおみくじを使い、すっとぼけたような顔で笑う杏の小さく細い薬指に、薄紙をそっと結びつけてやった。
「ほら、これで杏も厄払いだ」
そして、彼女の手に自分の手を重ねた。
「ありがと」
おそろいの紙の指輪。まるで子供のやることのようだ。けれど、やはり、悪い気分ではなかった。
星空の下、祭りの喧噪の中。まるで、周りの世界から隔絶されたような。
「おそろい、ね」
「ああ。おそろいだ」
まるで杏と二人だけの世界にいるような。
義之はそんな錯覚に自分がとらわれているのを感じた。
「あのー、店員さーん。あの二人みていると大吉ではしゃぎまわっていた私が、まるで馬鹿みたいなんですけど〜」
「ふふ、バカップルにつける薬はな……もとい、どんな苦難も心の糧とする、愛の力とは素晴らしいなぁ。はははははっ!
……と、忘れていた。これ、大吉の景品のスイカだ。うまいぞ」
「うわ〜い! おいしそう〜、うれしいな〜、お家に帰って家族で食べよーっと♪ …………はぁ」

吹き抜ける夜風が心地いい。
月と星の明かりに照らされて5つの影が歩く。
水ヨーヨーや吹けば伸びる笛といったお祭りの戦利品たちを両手いっぱいに抱えて、義之たちは帰路についていた。
「で、天枷さん、金魚、どうだった?」
「う、うるさいっ、どうでもいいだろ。そんなこと」
小脇にスイカを抱えた茜の質問に対し、美夏は答えず、顔をそむける。
その態度が何よりの答えになっているのだが。本人はそのことには気付いていないようだった。
「金魚はだめでした」
ポツリ、と由夢が言う。
「一匹も取れなかったのかよ……」
「はい、天枷さん。やっぱり、その、細かいことは苦手みたいで……」
「……相変わらず、不器用なヤツ」
「ええい! そこ! だまらんか!
金魚の1匹や2匹! すくえたところで何の得になる! 人間と違って、美夏にはそのような不要なスキルは必要ないのだ!」
ストレートな言葉とオブラートに包んだ言葉を掻き消すように声が飛ぶ。
去年も同じような負け惜しみを聞いたような気がするのは、きっと、義之の気のせいだろう。
「相変わらず、かたくなだねぇ」
やれやれ、と義之が視線を傍に戻すと、隣をいく杏は歩きながら、何かを行っていた。
なんだ? と思って、目をこらすと、その手に持っているのは、筆。そして。
「短冊?」
七夕の象徴でもある、短冊だった。
机も何もない、しかも歩きながら、だというのに、彼女は器用に筆を動かし、薄紙に文字を刻んでいく。その内容は、角度が悪く、この位置からではわからない。
「なんて書いたんだ?」
好奇心から、義之は呟いた。
その声にハッとしたように、杏は顔を上げると、やはり、いつもの不敵な笑みを浮かべる。
よくぞ、聞いてくれました。その微笑には、そう書いてあるように思えた。
「……知りたい?」
「ああ」
「そうね……」
一体、何を書いたのだろう?
筆を動かす手を止めて、杏が口を開きかけた時。
「兄さん。それじゃあ私はここで」
「え? ああ、そうだったな」
気が付けば、もう並木道の前。朝倉家に帰る由夢はここから先に進むことはない。島の西側に住む杏や茜とは分かれる場所だ。
本来なら、義之もここで杏たちと別れる立場なのだが。このまま、雪村邸に向かうのなら、由夢とは別れ杏や茜と一緒に並木道を歩くことになる。
「では、またな、由夢」
「気をつけてね〜」
「はい。天枷さんも花咲先輩も、また明日」
笑顔で手を振り、由夢は一人、列から外れた。
そのまま、一直線に帰るのか、と思いきや義之の隣で足を止める。
「兄さん、今日も雪村先輩のお家に泊まるんですか?」
「う……」
「これで5日連続ですね」
ちょっとだけ拗ねたような声。たしかに、もう5日近く帰っていない気がする。
じろりとした猫のような目から逃れようと義之は星空を見た。……星空? そう星空だ。先日までのような学園から杏の家に行き、雨が降っているから、今日はこのまま杏の家に泊まる、という言い訳もこの晴れ渡った星空では使えないではないか。では、どうやって、この妹君に言い訳をする?
「大丈夫よ。由夢さん」
返事に困っていた義之に代わって口を開いたのは、杏だった。
「今日は私が義之の家にお邪魔させてもらうことにするから」
「何?」
「えっ、本当ですか?」
あからさまに弾んだ由夢の声にコクリと杏は頷く。
「義之、いいでしょ?」
「んー……まぁ、俺はどっちでも」
そもそも、今、杏の家に通いつめているのも一種の波だ。
自分が彼女の家に行くか、彼女が自分の家に来るか。まるでスイッチが切り替わったように不定期で変更される日常のパターン。どちらも自分の家に一人暮らしの立場、どちらでも支障はないし、どちらでも文句はない。
ただ、一緒にいられるのなら。文句はない。そう一緒に。
(……彦星と織姫は1年に1回しか会えないんだっけ)
久しぶりに兄さんの料理が食べたいです、なんていう由夢の嬉しそうな声を聞きながら、義之は梅雨という季節が嘘のように、綺麗に晴れ渡った天の川を見上げた。
たいしたものだ。自分なんかじゃ、最愛の人のぬくもりから1日たりとて離れたくない。……実は1年に1回といわず、こっそり会ってるんじゃないだろうか?
「えーっと、それじゃあ義之くんと杏ちゃんもここでお別れ……になるのかな?」
「そのようだな」
茜の言葉に美夏が頷いた。
それを聞くと、茜はそれなら、と抱えていたスイカを義之に差し出す。
「それなら、このスイカ。もっていっていいよ〜」
「いいのか?」
「うん♪ 実はね。このあいだ親戚から送られてきてね。余るほどあるんだ〜スイカ」
「なるほど。そういうことならありがたく、もらっとくよ」
「うん。三人で食べて♪」
受け取ってみると、ズシリとした重みを感じる。なかなか良質なスイカだ。今日の晩御飯の後、さっそくいただこうか。
「それじゃあ、みんな、またね〜」
「では、これにて失礼する。杏先輩、由夢。…………とおまけの桜内」
「誰がオマケだ」
「またね。茜、美夏」
並木道の奥へと向かって、歩き出す二人を見送りながら、義之たちは手を振った。これで後は家に帰るだけだ。
楽しい1日だったが、やはり安心感が湧き出してくる。
「……さて、俺たちも行くか」
「ええ」
「はい、兄さん」
二人に頷きかけ、歩き出す。今晩は久しぶりに由夢に自分の手料理を奮ってやるとしよう、と義之は思った。メニューは……今の芳乃家と朝倉家の冷蔵庫の中次第だろう。
そんなことを考えていた時、ふいに思い出したことがあった。
「あ、そういや。杏」
「ん?」
「さっきの話なんだけど……」
視線は彼女の手の中、短冊へ。
歩きながら、聞きそびれてしまっていた質問を口にする。
「で、何を書いたんだ」
「んー」
「杏?」
しかし、何故か杏は義之を見ると考え込むように顎に指を当てる。数刻の後。
「ごめん、気が変わっちゃった」
あまり申し訳なさそうに呟くと、義之の感心の的である短冊を、振袖の中にしまいこんでしまった。
クルリ、と後に残った筆だけを回して、
「何を書いたかは……秘密よ」
本当に楽しそうに、そして、幸せそうに、杏は笑った。
「そう言われると、気になるぞ」
「私の性格は知ってるでしょ? そういわれると隠したくなるの」
「む……」
これはだめだ、と義之は悟った。不定期的に入るスイッチで、秘密主義モードに入ってしまった。
こうなれば何を言っても、暖簾に腕押し。自分が必死になるのを見て、楽しむことはあれども、決して教えてはくれまい。
「兄さん、雪村先輩、何をやってるんですかー?」
前の方から、由夢の声が響いてくる。大分と距離を離されてしまっていた。
杏は由夢の顔を見ると軽く頭を下げ、そちらに向き直り、義之に対して、一緒に行こうと誘うように手を出したが、両足は止まったまま、動かなかった。秘密主義者に対して、遺憾のイを表明、というやつだ。
「……拗ねてるの?」
「拗ねてるさ」
「子供ね」
「もったいぶって、結局は見せないっていうのもかなり子供だろ?」
そうやって二人で笑いあう。
「まぁいいさ。杏の考えてることなんて、俺は全部わかってるからな」
「ふぅん? じゃあ、この短冊の中身を当てられたのなら……ご褒美をあげる」
「その言葉、覚えとくからな」
やがて、どちらともなく手を取ると、ゆっくりと歩き出す。足並みをそろえて、つないだ手は決して離さず。
(星に願いを、か)
再び天の川を見上げて、思う。この星々に杏は何を願ったのだろう。
煌めく夜空の星は何よりも貴く、美しい。かつての四季を問わず咲き誇っていた桜の花びらのように。
この偉大なる星空なら、たしかにちっぽけな人間の願い事を叶えるくらいのことはしてくれるかもしれない。
(俺も何か願ってみますかね? といっても……)
隣を歩く杏のぬくもりが、繋いだ手と手を介して、流れてくる。
あたたかい。
大切な人の、ぬくもり。
そう、これがあれば、いい。
彼女さえ、居てくれれば、それでいい。
(なんにも思いつかないんだよなぁ。願い事)
――――願いを星に託す必要がないくらいに、今の自分は幸せだった。