冬の残照


 ようやくの一段落だった。
 参道から離れた茂みの中、丁度いい大きさの石を見つけた義之はそれに腰かけ、息を吐いた。太陽は高くまで昇っているが、そこはやはり、冬の朝。凍える冷気を浴びて吐く息は真っ白に染まった。
 自分達のクラスがクリスマスパーティーではっちゃけた(義之自身はその場に居合わせたわけではないのだが)のがもう一週間前のこと。罰として与えられた冬休みの補習合宿も今日――1月1日で3日目になる。
 午前は補習授業を受けて、午後はボランティアという、花の学生の冬休みとしては泣きたくもなるスケジュールが基本だったのだが、元旦の今日に限っては少しばかり予定が違い、朝からクラスごと神社の手伝いに駆り出され、義之はつい先ほどまで神社内を走り回っていたのだった。

「や、やっと休憩か……み、見回り役なんて二度とやらないぞ……くっそー」

 もう一度、白い息を吐く。この寒さの中なのに、シャツが汗でへばりついている。
 朝から働いている、といっても時間だけを見るのならそう大したことはない。
 しかし、元旦の神社という状況。どこから沸いてきたんだ、とぼやきたくなるような参拝客の中を駆け抜けて仕事をこなすというのは相当にきついものだった。
 勿論、楽しそうに初詣をエンジョイする人々を横目にどうして自分は……という精神的苦痛もなかったわけではない。
 今も参道には途切れることのない人の列が見え、喧騒が響く。その楽しそうな声は義之の右の耳から左の耳へと虚しく通り過ぎていった。
 本来なら、自分もあの列の中に家族同然の隣家の姉妹かあるいは幼馴染や友人たちと共に紛れ込み、人ごみに対して、口ではなんだかんだと文句を言いつつも、本心ではその人ごみすら楽しんで初詣をエンジョイするはずだった。
 そんな予定は、今となっては最早、ありえなく、無意味なこと。今年の自分はこうして神社で働く側だ。
 現実を受け入れるしかない。義之はわかりきったことを自分に言い聞かせながら、もう一度、ため息をつきたい気分だった。

(しかし、休憩といっても、たいして時間はないんだよなぁ)

 ようやくの休憩時間だが、あまり長くはない。午後からも仕事はあるのだ。日が暮れる時刻になるまでは帰さない予定だと同じように神社で働いている姉(罰で働いている自分たちとは違い自主的なアルバイトだが)からは聞いている。
 それを思うと尚更、憂鬱になる。
 早々にサボり行為を働いた悪友のように自分も仕事を放り出して、あの参拝客の中に紛れ込みたくも――。
 義之の頭の中を過ぎった、そんな、悪魔の囁きは、

「お疲れ様です、先輩!」

 天使の声に掻き消された。

「ああ。ありがとう、まひる」

 振り返れば、そこには真昼の太陽のように眩しい笑顔を浮かべたまひるがいた。

「えへへ。先輩、すっごく頑張ってましたね」

 義之の傍らに立ち、無邪気に笑う。そのあたたかな表情を見ていると、不思議と疲れも和らいだ。
 小鳥遊まひる。
 名前の通り、お天道様のような明るい笑顔が印象的な、女の子。数日前、クリパの日に階段の踊り場で出会った――幽霊の女の子。

「先輩って口ではなんだかんだ言っても、いざやるときはきっちりやりますよね。わたし、先輩の姿に思わず、見とれちゃいました」
「そうか?」
「そうですよ〜。普段はダラーっとしていても、いざって時はキリっとなる男の人ってカッコイイです!」

 まひるは断言した。

「例えるのならば、……普段は休みの日はお昼過ぎまで寝ているのグータラお父さんが、珍しく日曜の朝から庭に出て1人でバーベキューの支度をしてくれた時くらいカッコイイです!」

 妙に長く、妙に所帯染みていて、それでいて、的を得ているようで得ていないようなたとえ話だった。

(それって『カッコイイ』のか? いや、カッコイイことに違いはないかもしれないけど、何かが違うような……)

 このみょうちくりんなたとえ話は彼女の特徴だ。会った当初は「突っ込み待ちなのか、ならば突っ込むべきか?」とも思っていたが、ようやく本人は大真面目で言っているのだとわかってきた。
 長いたとえを語りながら、まひるは憧れるように義之を見、その頬はうっすらと、ほでっている。本人には冗談のつもりがないのは、たしかだろう。周りがどう思うかは、別にして。

「まーた変なたとえを」

 義之は肩をすくめた。なんとも微笑ましく思う。

「ってかまひるの中で普段の俺の評価ってそんなに低かったのか」
「あ!」

 ふと疑問に思って呟くと、まひるは大口を開けて、露骨に慌てた。その目があたふたと気まずそうに泳ぐ。

「……そ、そういうわけじゃ、ないですよ」
「まぁ、普段の俺は札付きのサボり魔だからな。今日は音姉の手前、サボるにサボれなかっただけさ」

 といっても普段の自分の素行に自信があったわけでもないので、特には気にしない。自嘲めいた笑みを浮かべて、フォローするように言った。
 変なたとえ話を介してとはいえ、真正面から、まひるに『カッコイイ』と言われたのが、少しだけ照れくさい。

「でも、昨日も一昨日も、ボランティア活動をがんばってたじゃないですか。こうやって後ろにずーっとへばりついていたまひるが証人です!」

 何故かまひるが胸を張る。

「それもさくらさんの手前だからさ」

 ついでに委員長に「もしサボったりしたらぶち殺すわよ」と言わんばかりの、蛙くらいなら軽く睨み殺せそうな目で睨まれていたというのもあった。
 軽く笑って、義之は立ち上がると、好奇心に溢れた瞳が義之を見上げた。

「あ、先輩、どこかへ行くんですか?」
「ああ」

 つい先ほどまでは休憩時間中、ここでぐったりしていよう。なんて考えていたが、今はもうそんな気分はなかった。短いとはいえ、せっかくの自由時間。無駄に浪費するのは論外だ。

「せっかくだし、ちょっとだけ見て回ろうと思うんだ。ジッとしてるだけだと、まひるもつまらないだろうし」
「え?」

 義之が笑いかけると、まひるはわたわたと肩を震わせる。

「い、いえっ。わ、わたしは別に……。午後からもお仕事がありますし、お疲れなら、休んでください。わたしのことは気にしなくてもいいですよ?」
「大丈夫、大丈夫。もう疲れは取れたから」

 半分は本当で半分は嘘だ。疲労は身体に染み付いている。けれど、こうしてまひると話していると大分とそれも薄れてきた気がする。
 それに、どれだけの疲れでも、まひると一緒に歩き回りたいという欲求には敵わない。

「そ、そうですか……?」
「ああ。だから、まひるの方こそ遠慮する必要はないって」

 義之は口元に笑みを浮かべた。

「最も、まひるが気が進まないのなら話は別だけどさ」
「い、いえ! そんなことは……ないです!」

 ぶんぶんと首を振る。

「わたしも色々見てまわりたいです! です、けど」
「じゃあ、色々見て回ろうぜ。……まぁ、たいして時間はないけど」

 義之はポケットから携帯を取り出して時間を確認した。残念ながらのんびりと『見て回る』という行為ができるほど時間に余裕はなかった。当然だ。罰としてボランティアに駆り出されている身。初詣を楽しめてしまっては意味がない。まぁ、軽食を一つ二つ、食べるくらいが関の山だろうか。

(というか、元々今の時間自体が、「午後に備えて、軽めの食事でも食べとけよ」ってことなんだろうけど……)

 なら、おにぎりくらいは支給してくれればいいのに。義之は胸中で愚痴を漏らした。罰として参加させられている身分で贅沢を言うな、ということか。
 もしかしたら、音姉たち、正式なアルバイトの人間にはお茶やらおにぎりが出ているのかもしれないが。加えて、傍にいれば、身内のよしみでそういったものを分けてもらえたかもしれないとも思ったが今となっては後の祭りだ。

(今からでも音姉のところに行けば貰えるかな?)

 彼女の居場所は大体の見当はつくが、しかし、それでも探していては、それだけで休憩時間が終わってしまうだろう。
 それなら、まだジッとしていた方がいいし、そんなことをしてしまえば――。
 チラリ、と義之はまひるを見た。

「それじゃ、行きましょうか。先輩♪」

 きっと、この幽霊少女はおおっぴらに頬を膨らませて拗ねるだろうから。
 はじめから、選択肢の外だった。


 食事のことを考えていると、本当にお腹がすいてきていた。
 適当に人の少なそうな出店を探して、まひると二人で(傍から見れば一人で)参道から離れた裏道を歩いていた義之は急に鳴り響いた自分のお腹に少し驚いた。

「あはは。随分、大きな音がなりましたね」

 傍らに控えていたまひるがそんなことを言って、無邪気に笑う。

「ぐごおお〜って、言いましたよ。ぐごおおって」
「んーむ、この匂いのせいだ」

 なんとも微笑ましくまひるが先ほどの腹の音を再現する。義之はかぶりを振った。
 元旦の神社という状況。『出店』と呼ばれるものはわざわざ探さなくても自然に目に付く。今、義之たちがいるのは本堂からはやや離れた場所、神社の正門から参拝に向かう客たちにとっては縁のない迂回路のような道だったが、それでも石畳が引かれた道路の両脇はびっしりと出店が埋め尽くしている。
 くじ引きや金魚すくいなども定番の見世物に加えて、当然、その中には食事を扱っている店も多い。
 ベビーカステラ、フランクフルト、タコヤキ……。群をなしたそれらの店々から漏れ出る香ばしい香りに腹の虫が催促をはじめる。

「たしかにそうですね。こうして匂いを嗅いでいるだけでなんだかお腹がすいて……」

 まひるがあっ、と口を開いた時。

 ――きゅうう。

 随分と可愛らしい音が響いた。
 二人の間に、一瞬の静寂が走ったかと思えば、まひるの頬が徐々に赤く染まる。

「あぅぅ……せ、先輩〜。今のは聞かなかったことに……」

 そして、もじもじと肩を震わせる。
 そんな彼女の様子に悪戯心が刺激されて、義之は少し嫌味っぽく笑った。

「はは。いや、ばっちり聞いちゃった。可愛らしい音だったな」
「うう〜」

 ますます赤くなって、まひるはがっくりと頭を落とす。

「ああ……よりにもよって先輩の前でお腹をならしちゃうなんて……」

 心なしか涙目だ。

「例えるならば……友達から借りたいけない本を枕の下に隠しておいたら、ある日、勝手に部屋を掃除されていて、布団が取り替えられていた……ときくらいに恥ずかしいです」

 女の子がするたとえ話じゃないよな。と義之は思ったが、ツッコミを入れる隙もないくらい本気で落ち込んでしまっているようだ。消沈したようにため息を吐く。
 そんな姿を見ていると、からかったのが悪い気がしてきて、フォローをしようかと義之は口を開いた。

「あー、いや。ま、そう気にする事じゃないんじゃないか。えーっと……ほら! まひるって元々、色気より食い気って感じだしさ……ってああ、違っ、そうじゃくて!」

 何を言っているんだ、自分は、と思った。全然、フォローになってない。

「色気より食い気……やっぱりわたしってそういうタイプに見えますか」

 案の定。まひるは涙目で義之を見上げた。

「そりゃ、まぁ、どちらかと言えば」

  義之の目から、彼氏としての贔屓目なしに見ても、まひるは充分に美少女だと思うが、食い気より色気、というタイプにはお世辞にも見えない。

「はぁ……やっぱり、そうですか……」

 地面に向かって、青色吐息が落ちる。
 このままの話題で突き進むのは、やはりまずい。かといって急な話題の方向転換も不自然だ。

「しかし、幽霊でも腹はなるんだなぁ」

 ここは会話の焦点を変える方向でいこう。そう思い、義之はぽつりと言った。
 話題そらし目的を抜きにしても、気になったことは本当だった。お腹はすくという話は以前に聞いていたが。

「そりゃ、なりますよ」

 当然じゃないですか、というようにまひるは頷いた。

「欠伸とかと同じです。これも生理現象の一貫ですから。生きていくうえで必要なことです」
「生理現象、ね」

 お前、生きてないだろ。と喉元まで出かかったが、義之はその言葉を飲み込んだ。
 幽霊に生理現象の重大さについて語られるとは。たしかに昨晩、まひるが欠伸をしている姿も見たし、「夜の学校は怖いからトイレまで一緒に行って欲しい」なんて幽霊らしからぬお願いをされたこともある。
 が、変なたとえ話にはなれても、こればっかりはどうにもなれない。幽霊らしくないことを見るたびに、違和感を覚えるし、同時に――。
 義之は何も言わず、軽く肩をすくめて、まひるを見た。

(もう突っ込む気にもならないな。まったく)

 お前、本当に幽霊か? なんてこと、何度もした突っ込みだ。今更、同じことを言う気にもならない。そう、それだけが理由だ。だから、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。それだけだ。
 別に。

「………………」

 どれだけまひるが元気でも、どれだけまひるが普通の人間と同じ行いをしていても、まひるは幽霊だ。
 変わらないその事実を、口に出す事ではっきりと再認識してしまうことがいやだったわけではない。
 義之の沈黙に対して、まひるは何を勘違いしたのか頬を膨らませた。

「もう! 先輩〜、そんな、幽霊が何を生意気言っているんだー、って目で見ないでくださいよ〜」
「え? いや、そういうつもりは……」

 ハッとして、目をまたたく。が、まひるは怒ったように続けた。

「いえ、絶対、そういう目をしていました。幽霊差別ですよー」

 ふん、と少しだけわざとらしく、まひるは身を翻す。
 誰が見ても冗談とわかるその姿。本当に、自分が幽霊であるという事実を気にしていないことが見て取れて。どんな時にも尽きることのない彼女の明るさが見て取れて。

(…………)

 その明るさに、何故か、胸が痛んだ。
 彼女の笑顔を見ていると、元気付けられる。けれど、同時に何故か、悲しくなる。微笑ましい気持ちで満たされる胸の中に、一輪だけ悲しみの花が咲く。――――何故だろう?
 だが、義之はそんな自分の感情を表には出さず、いつものように「参ったな」と苦笑いした。この胸の中の感情にまだ気付く必要はない。いや、まだ気付きたくない。
 義之の心境を知ってか、知らずか、まひるも相槌をうつように笑った。

「この間もお話しましたけど、普段は別にお腹がすいたりはしないんですけどね。ただ、こういう風に美味しい匂いに溢れた場所だと……」
「ぐー、ってなっちゃうわけか」
「はい。恥ずかしながら」

 照れるように頬をかく。とりあえず、話題をそらすことには成功したようだった。
 まひるは両手を後ろ手に組むと、くるん、と軽快な動作で義之に向き直った。

「それにしても色んなお店がありますね〜」
「ま、今日は正月だしな」
「わたし、こういうお祭りごとってはじめてだから、興奮しちゃいます」

 今日は縁日中の縁日だ。荒稼ぎしてやろうとする店側と盛大に楽しんでやろうとする客側。その二つが重なり、群をなす出店と人の列。
 それら一つ一つにまひるはゆっくりと、視線を移していく。人々の喧騒も含めて、その全ての景色を楽しんでいるのが、見て取れた。
 そんな折、ふいにまひるの目の色が変わった。

「あ!」

 ガバッと、飛び跳ねるくらいの勢いで頭を上げる。そして「へ?」と呆気に取られる義之の声も無視して、そのまま一目散に駆け出す。

「まひる?」

 義之は呆然として、そんな彼女の後姿を見送っていたが、ややあって。

「せ、先輩! せんぱ〜〜い!! ちょっと、こっちに来てください!!」

 まるで宝物でも見つけたような、まひるの声が轟いた。

「おーい、待てって!」

 一体なんだ、と思いつつも、慌ててその足取りを追う。
 生憎と幽霊である彼女と違って、義之は実体があるので、まひるのよいにすいすいとは進めない。ここは本堂への直行道と比べると人は少ないが、それでも混雑と評するには充分な人の量だ。

「まひるー? うわっと、すみませんっ」

 肩をぶつけて、軽く頭を下げたりしながらも、なんとかまひるに追いつく。

「見てください、先輩!」
「な、なんだ……いったい……」

 軽く息を切らせて見れば、小学生くらいの小さな子供たちの中に混じって、まひるがぶんぶんと腕を振っていた。その脇には。

「……ソースせんべい?」

 カラフルな色合いと大きな字体で、ハッキリと書かれた看板。
 視線を落として見れば、子供たちが手の中にある、ミルクせんべいの柔らかな薄桃色と、対比するようなソースの黒の二色模様が目に映る。子供たちは手元にソースをこぼしたりしながらも、シャキシャキと小気味のいい音を立てて、美味しそうにそれをほおばっていた。

「はい! そーすせんべいです!」
「ああ、たしかに、ソースせんべいだな」

 ソースせんべいをかじる子供たちに負けないくらいに元気に肩を震わせるまひる。その大きな瞳を一色に染める喜びの色。だが、その姿は義之にしか見えないし、その声も義之にしか聞こえない。
 だから、周りの子供たちに純朴な、けれど不思議そうな目で見上げられたのはこの際、仕方がない。

(このお兄ちゃん、誰とお話してるんだろう……とか思われているんだろうな。ま、いいけど。それにしても)

 よくわからない。たかがソースせんべいでまひるは何をはしゃいでいるんだろう?
 たしかに今は小腹が空いているし、ソースせんべいの懐かしい匂いに食欲がそそられないこともない。
 ないのだが、周りにはフランクフルト屋もあれば、串焼き屋もある。義之としては比べてみると、若干、子供っぽさがあり、どちらかと言えば駄菓子の類に分類されるソースせんべいは、嫌だ、とまではいかなくても、進んで行くほど魅力的には思えない。
 そんな義之の素っ気無い反応が不満だったのか、まひるは怒ったように眉根を寄せた。

「もぅ、先輩。反応が薄いなぁ。そーすせんべいなんですよ!?」

 ぷっくりと頬を膨らませて言う。
 その態度からはソースせんべいへの小さからぬこだわりが見え隠れしていた。
 はて、と義之は思考を走らせた。

(なんだ? ソースせんべいに何かこだわりでも……あ)


「例えるなら――――そーすせんべいくらいおいしいです!」


 そういえば。
 数日前、まひると一緒に音楽室で食事(まひるの言うところのピクニック)をした時、彼女は『美味しさ』の例えに『ソースせんべい』を使っていた。
 彼女の例えにしては珍しくストレートな、そして、随分と主観的な例えだな、と思ったが、それだけソースせんべいが好きなのだろう。
 義之はようやく納得した。

「ああ、そういや、好きなんだっけ。ソースせんべい」
「はい! 大好きです、そーすせんべい!」

 その言葉を待ってました、といわんばかりに派手に頭を上下させて肯定をあらわす。そして、その後には期待に満ち溢れた目で義之を見た。

「じーっ」

 デパートで気に入ったおもちゃを見つめる子供のように。大きな双眸がきらきらと輝く。
 彼女のその瞳が何を意味しているのかがわからないほど義之は鈍感ではない。鈍感ではないのだが。

(どうにも、こういう表情を見ていると……)

 この思わず突っつきたくなるほっぺとか、子供のように純朴な瞳とかを見ると――少しだけ、からかいたくなってしまう。
 燻る悪戯心を感じながら、義之は自分のお腹を撫でた。

「んー、たしかに腹も減ってるしな」
「はい!」

 まひるの声がさらに喜色を帯びる。

「よし、それじゃ、なんか買って食うか」
「はい!!」

 お腹の底から出ているような元気いっぱいの声を聞くと、義之は180度、方向転換した。
 「ふぇっ?」と間の抜けた声が聞こえたが、それは無視して、並び立つ店々に視線を走らせる。

「ここはお祭りの王道、ベビーカステラかな。いや、リンゴ飴もいいなぁ」
「あ、あの……せ、先輩〜?」
「おー、あの店はわんこそばだって。縁起物としてはあれが一番かな。いや、こういうお祭りの場はやっぱりジャンクフードかなぁ」
「…………」

 期待に満ち溢れた瞳が、困惑したような瞳を介して、一気に涙目になっているのを義之は振り向かずともわかった。

「よし、やっぱりベビーカステラにしよう。1袋に結構入ってるから2人で食えるし」

 なぁ、まひる。と同意を求めるように義之は振り返った。勿論、本気で言っているわけではない。まひるをちょっとだけからかったら、笑って謝ってソースせんべいを買ってあげるつもりだった。

「あ、あれ……?」

 が、振り返った先にはまひるの姿はなかった。
 そこにいるのはさっきから変な1人芝居をしている(ように見える)義之を不思議そうに見る子供たちとソースせんべい屋の店主だけで、いつも、傍らに控えているはずの彼女の姿はない。
 今度は青ざめるのは義之の番だった。

「ま、まひる……?」

 怒ってどこかへ行った? それとも、まさか。

「ソースせんべいが食べられない憤りで成仏、とか……!? いや、そんな、まさか」
「せ〜〜ん〜〜ぱ〜〜い〜〜」
「うおわぁッ!?」

 地の底から響いてくるようなどんよりとした声と、首筋に吹きかけられたひんやりとした吐息に義之は飛び跳ねた。

「ま、まひる……。いつの間に後ろに……」
「…………」

 振り返り、再びソースせんべいの出店に背を向ける格好で義之は後ずさった。
 いつの間にやら背後に回りこんでいたまひるは、まるでソースせんべい以外の出店を見るな、と言わんばかりに義之の前に立っている。ひんやりとした表情としぐさ。義之はこの幽霊らしくない幽霊少女に初めて幽霊っぽさを感じた。

「先輩、わたしはそーすせんべいが好きです」

 その目は虚ろに、ぼんやりと、義之を捉えて。
 首筋に寒気を感じながら、義之は頷いた。

「あ、ああ。それは知ってる」
「先輩、わたしはそーすせんべいが好きです」
「う、うん」
「先輩、わたしはそーすせんべいが好きです」

 ………………。
 参った、と思った。

「先輩、わたしはそーす――」
「……わかった。俺が悪かったから。買うよ、買ってやるよソースせんべい」

 何個でもさ、と義之は頭を下げた。
 それを聞くや否や、まひるの顔にいつものお日様のような笑みが広がった。

「ホントですか、先輩! やったぁ」

 はずむような声と共に、喜びを全身であらわし、両手でバンサイをした。
 本当にソースせんべいが好きなんだなぁ、と思いながら、義之はポケットから財布を取り出すと、子供たちの間を抜けて、せんべい屋の前に立った。

「すみません、これください」
「あいよ。しかし兄ちゃん。独り言が好きだねぇ」
「あはは……」

 店主のおじさんにあからさまにいぶかしむように言われたが、それも、気にならないくらいに、まひるの笑顔が義之を照らしていた。

「そーすはたっぷり付けてください!」
「えーっと、ソース大目でお願いします」
「トッピングは……うーん、悩ましいところですけど」
「それとトッピングは……」
「決めました! 今回は久しぶりのそーすせんべいということで純粋にミルクせんべいとソースの調和を楽しみたいので、なしにしておきます。色々つけて食べるのもまた面白おいしくていいんですけどねー」
「あ、なしで。はい、ソースだけで」

 まひるの声はおじさんには聞こえないので、代わりに義之が注文する。

「まいど」

 薄いミルクせんべいを5枚重ねにし、その上にべっとりとソースの黒が塗られる。それを2組受け取ると、義之は足早に店の前から離れた。隣でよだれを垂らして、恍惚の瞳でソースせんべいを眺めるまひるを見れば自然と早足にもなる。
 それでも、両手にせんべいを持っているので、慎重に。人ごみを抜けて、石で舗装された道から離れ、裏道へ戻る。きょろきょろと辺りを見渡し、誰もいないことを確認すると、そこでようやく、左手のソースせんべいをまひるに手渡した。

「わぁ」

 ぱぁっと、その顔に喜色が広がる。

「先輩! そーすせんべいです! 夢にまで見たそーすせんべいです!」

 そして、くるくると回転する。そんなに嬉しいか、と義之が笑いかけると、まひるはハッキリと頷いた。

「もちろんですよ〜、例えるならば……幽霊になってから苦節十数年。食べたいよー、食べたいよー、と思い続けていたそーすせんべいを久しぶりに食べられる時くらい嬉しいです!!」
「例えてないね……」

 今の状況、そのまんまだ。
 受け取ったソースせんべいをご大層にも両手で抱えて、まひるはあまりの嬉しさゆえか、涙すら流して、それを太陽に掲げた。

「ホントのホントにそーすせんべいです……。ああ、神様、仏様、そーすせんべい様。まひるはこの幸運を感謝します。うう……」

 神々と同格か、ソースせんべいは。
 義之は肩をすくめたが、そんな彼女を見ていて、悪い気分はしなかった。

(相変わらず、見ていて飽きないな)

 まひるはいつもそうだ。行動の1つ1つが、あまりにも、微笑ましくて。見ているこっちまであたたかい気分になってくる。周りにあたたかさを振りまいてくれる。
 それが、彼女の、小鳥遊まひるという少女の魅力。そして、その魅力に義之は心惹かれた。

「んじゃ、食うとしますか」

 放って置けば、ずーっとソースせんべいを拝み倒してそうなまひるに対して、義之は促すように言った。

「はい! 食べちゃうのもなんか名残惜しいですけど……」
「かといって、神棚に飾っとくわけにもいかないだろ」
「あはは。それもそうですね」

 まひるは軽く笑った。

「それじゃ、いただきます」
「いただきま〜す!」

 なつかしい。
 義之の第一印象はそれだった。子供の頃に親しんだ駄菓子の味わい。さくさく、という小気味のいい音とソースの濃い味とともに、なつかしさが胸に滲みる。

(久しぶりに食ってみたけど、なかなかいけるな)

 ミルクせんべいの薄味とソースの辛味が同時に舌を刺激する。原始的な味、といってしまえばそれまでだが、原子的なだけに純粋にお腹がすいた今は余計に美味しく感じた。
 見れば、まひるもまたご満悦の表情でサクサクとせんべいをかじっていた。

「しかし、ちょっと意外だったな。まひるってもっと甘いものが好きなイメージだったんだけど」
「ひゃまいふぉのもすひですよ」
「……飲み込んでから話そうな」

 苦笑いしながら注意すると、まひるはこくこくとせんべいを頬張ったまま頷いた。

「んぐんぐ……ごっくん。甘いものももちろん好きですよ〜。けど人生、刺激も大事ですから」
「人生、刺激が大事、か。なるほど」

 杉並あたりはその意見に諸手を上げて賛同するんだろうな。なんてことを考えていると、気がつけば、まひるは手元のせんべいを全てたいらげてしまっていた。……早い。

「ふぅ、先輩、ごちそうさまでした! やっぱりそーすせんべいは最高ですね」

 後に残るのは彼女の口元についたソースだけだ。それをぺろり、となめながら、まひるはあっけらかんと笑った。

「これだけでご飯三杯はいけちゃいますよ♪」
「いくらなんでも、ご飯三杯はちょっときついような」
「いえ、余裕です。余裕の余裕の大余裕です! 六杯だっていけちゃいます」
「そ、そうか……」

 ご飯六杯まで行くと、もはや、ソースせんべい云々抜きにただの大食いなだけなんじゃ……。なんてことを思ったが口には出さない。
 そんな風に会話しながら食べていたのが、悪かったのか。義之の手元のせんべいからソースがこぼれ、べたり、と手につく。

「っと、しまった」

 義之は残りの一切れを口の中に放り込むと、黒く染まった手を見た。手の甲から指までべったりだった。

「これがあるのがたまにきずだよなぁ。ソースせんべいって」
「そうですね〜」

 苦笑すると、まひるも困ったように笑う。

「でも、そうやって指についたソースを食べるのもまたオツなものですよ?」
「たしかに結構、美味いけど。それは、食べるって言わないからな。正確には――」

 舐める、だろ。そう言おうとした時、まひるが身を乗り出したのが、見えた。

「ぺろり」

 反応する暇もない。くすぐったい感触と共に、義之の手の上を彼女の小さな舌が走る。
 ぽかんとする義之をよそにまひるは1人、ソースの味を堪能するように目を閉じて、ほっぺを揺らすと、再び笑顔を見せた。

「やっぱり、これはこれでそーすせんべいのウリですよ♪」
「………………」
「……って、あ」

 そこでようやく、自分が何をしたのかに気付いたのか、その頬が朱色に染まる。

「す、すみませんっ、先輩。つ、つい……!」
「いや、ま、いいけどさ……」

 そんな彼女を見ていると、自分までなんだか、恥ずかしくなってきて、誤魔化すように頭をかいた。

「…………」
「…………」

 ほんのりとお互いの間に漂いだす、妙な雰囲気。
 遠くに聞こえていた初詣の喧騒が、まるで遠い世界の物音のように思える。冬の寒風が2人の間を横切っても、この空気を払ってはくれない。
 ただ、あるのは静寂。とても、あまずっぱい静寂。

「…………」
「え、えーっと」

 心臓が音をたててなるのを感じる。頬が赤くなるのがわかる。そこらじゅうがこそばゆい。
 永遠に続くのかとも思われた、この『間』は。

「あー! 義之、はっけーーん!!」

 場違いにも思えるほど、能天気な声に吹き飛ばされた。
 その声にほぼ同時に硬直を解かれた義之とまひるは、やはり同時に、ハッとして声の方角を振り向いた。
 巫女姿の少女が3人。こちらに向かって来ているのが見えた。

「小恋? それに杏と茜」

 見慣れない格好をしているからといって、見まごうはずもない。小恋、杏、茜――――雪月花3人組だった。女子の大多数は神社から巫女服を借りて、ボランティアを行っているのだ。
 見られたか? 義之は姿勢を硬くした。幽霊のまひるの姿は彼女たちには見えないにせよ、何か、自分1人では明らかに不審に思われるところを見られたかもしれない。
 最悪、まひるがソースせんべいを持っているところ――空中浮遊するソースせんべいなんて見られていたら、もう、どう言い繕えばいいものか。
 まひるも同じことを考えたのか、義之の傍から若干、離れながら顔をこわばらせている。

「やっほー、義之くんー」

 しかし、その心配は杞憂のようだった。雪月花はいつもどおりの様子で、その目にも、態度にも不審がるようなところは見受けられない。

「お、おう。お前ら、こんなところでどうした……?」

 それでも、焦ることは焦る。
 つとめて、冷静に。いつもどおりを意識して、義之は返事をしたが、意識したことで逆に声が上擦ってしまった。
 杏が少し眉を寄せる。観察力に長ける杏だ。もしかしたら今の声だけで何かに気付いたかもしれない。しかし、いぶかしむ様な動作は一瞬だけだった。

「それはこっちの台詞よ。何してるのよ、こんなところで」
「何って、みりゃわかるだろ。メシ、食ってたんだよ」

 ホッとして、何事もなかったかのように笑う。
 でしょうね、と杏は静かに頷いたが、小恋と茜は不満げに声をあげた。

「それなら、私たちと一緒に食べればよかったのにー」
「そうだよね〜。休憩時間に入った途端、いきなりいなくなっちゃうんだもん」
「はは……」

 2人の勢いにまひると揃って、思わず後ずさる。

「……まるで、私たちから逃げるみたいに、ね」

 それでも、笑って誤魔化していると、杏がありがたくない補足をしてくれた。

「まぁ、ちょっと1人で食べたい気分だったのさ」
「こんなところで〜?」
「ま、人ごみから逃げたかったんだ」

 茜の追撃はなかなか鋭かったが、義之はそれも、笑って受け流した。
 3人とも今ひとつ納得していないのは見て取れたが、たかが休み時間の過ごし方ひとつにそこまでこだわるつもりもないのか、それ以上追求されることはなかった。
 逃げるように見えたというのなら、それは事実だ。別に彼女らと一緒にいることが嫌なわけではないのだが、まひると一緒に居たかった。勿論、彼女はずっと義之の傍にいるが、周りの目を気にして、こそこそと会話するのもなんだし、周りの目があっては先ほどのように一緒に食事をすることはできない。

「すみません、先輩……。わたしのせいで」

 しゅんとしたような声が聞こえてきたが、義之はちらりと振り向き、申し訳なさそうな顔のまひるに気にするな、と声に出さず笑顔を見せた。補習合宿がはじまってから、これまで食事はずっとクラスの面々と一緒だったのだ。今日ぐらいは彼女を優先してもバチは当たらない、はずだ。

(いや、今日『も』。かなぁ……)

 といっても、彼女のことを優先するのは今日に限ったことではない。出会ってからというものの不思議と彼女は義之の世界の中心にいる。まだ、出会ってから数日しかないというのに。こんなにも、魅かれている。

「それより義之。音姫先輩がね、そろそろ時間だから自分のところに来るように、って。朝の集合場所にみんな集まってるよ」
「ん? ああ、わかった」

 小恋の言葉に義之は頷いた。

「あーあ、もう休憩終わりかぁ。たるいな」
「でも、折り返し地点まで来たんだから、あとちょっとだよ」

 茜が元気付けるように言う。

「そうね。それに、こうやって巫女服を着て働くっていうのは私は案外、嫌いじゃないわ」
「あはは。うん、わたしも杏ちゃんといっしょでちょっと楽しいかな♪ こんなのめったにできない経験だし」
「……ま、お前らは特別衣装を楽しめるだけいいよな」

 巫女姿にはしゃぎまくっている杏と茜に、義之はため息をついた。

「あら……義之。その手」

 そんな折、杏が何かに気付いたかのように呟く。
 彼女の視線が自分の手に向けられていることに気付き、義之は、ああ、と頷いた。指にはこぼれたままのソースがある。まひるに少し取ってもらったが、まだ残っていた。
 小恋も、何があるのかと、覗き見る。

「あれ、ソース? タコヤキでも食べてたの?」
「いや、ソースせんべいだ」

 意外な菓子名が出たせいか、小恋の相槌は一拍遅れた。

「へえ、ソースせんべいかぁ。なつかしいね」

 とりあえずこの手についたソースを取らなければ、と義之が考えた時。何故か、杏がすぐ傍にいた。

「ふふ、私が取ってあげる」

 杏がぺろり、と舌を出して自身の唇を舐める。その動作が何を意味しているのかは明白で。

「……おい」
「あら。遠慮することはないわよ」

 いつもの冗談。悪ふざけ。これもその一貫なんだろう。けれど。

「…………」

 義之は自分の後ろにいる幽霊少女がどんな顔をしているかを想像して、凍りついた。まひるが、彼女が後ろにいる今は、勘弁願いたい。
 いただきます、と杏は小さく呟いた。
 杏が何をしようとしているのかをワンテンポ遅れて理解したらしい、小恋の間の抜けた声が響き、そして、次の瞬間には杏の舌が義之の指を――。

「だめですーーーーーーっ!!!」

 その瞬間、義之にしか聞こえない大声が響いた。

「ッ!?」

 あ、と小恋のやはり間の抜けた声に、茜の声が重なる。気がつけば、杏は地面に思いっきりしりもちを打っていた。

「…………?」

 訳がわからないというように杏の瞳がきょろきょろと辺りを見る。物理法則を無視した自分の動きに困惑しているようだった。
 何が起こったのかを理解できたのは、多分、義之だけだろう。

「杏ちゃん!?」
「あ、杏……? す、すごい変なこけ方だったね……」

 小恋が心配そうに「貧血?」とたすねるも、杏は首を横に振った。

「……変ね、今、誰かに裾を引っ張られたような……」

 しばらく考えた後、杏はいぶかしむように小恋や茜を見た、が。

「ううん。杏が勝手にこけたんだよ」
「う、うん」
「うーん……それはわかるんだけど……」

 小恋と茜が否定するまでもなく、2人の仕業ではない、ということはわかっているようだった。それでも、納得がいかないというように杏は眉根を寄せていたが、しばらくたって、ようやく立ち上がる。

「はは、疲れがたまっているんじゃないか?」

 自分でも白々しい、と思いながら義之は言った。

「もしくは、天罰だな」
「む……」

 露骨に不機嫌そうに見られた。

「あ、義之。その指……?」
「ん、ああ」

 小恋の声に、片手を高くあげて、見せ付けるように、指を示す。いつの間にか指先を黒くそめていたソースは、なくなっていた。

「杏が倒れてるすきに自分でなめちまったよ。ほっとくと、また変なことしようとするだろ?」

 どうだ、とばかりに義之が言うと、杏は人差し指を口元に当てて、いつもの不敵な笑いを浮かべる。

「あら……変なこと、とは心外ね。せっかく喜ばせてあげようと思ったのに」
「もう、杏ったら、また変なこと言って」

 小恋が慌てた、あるいは、呆れたように言ったところに、茜が「小恋ちゃんもなめたかったんだよねー」と笑いかけ、また小恋の声が裏返ることになった。

「んなことよりもさ。そろそろ時間、やばくないか?」

 携帯を取り出して見てみれば、やはり、もう休憩時間の終了までほとんどない。そもそも彼女たちは自分を呼びに来たはずだ。

「わっ! 本当だー」
「ありゃりゃ、いつの間に〜」

 小恋と茜が2人揃って声を上げ、杏は静かに頷いた。
 雪月花3人組は慌てた様子で駆け出し、義之もその後に続く。そして。

「…………」

 義之は肩越しに後ろを見て、自分に続く陰を確認すると、フッと笑みを浮かべた。
 自分でなめた。
 これもまた、嘘だ。


 朝と同じ集合地点には既に多くのクラスメイトたちの姿があった。

「なんとか間に合ったね」
「ああ」

 小恋の言葉に頷く。なんとか、と言うものの、こうして到着してみれば案外、時間は余っていた。
 大勢のクラスメイトを何気なしに見渡してみれば音姫と麻耶が何やらを話しこんでいるのが義之には見えた。おそらくは、午後の予定の確認でもしているのだろう。
 待つ、というほど時間はかからないとは思うが、なんともいえない間だ。

「あ、あのぅ」

 そんな折、さっきから随分と静かだったまひるが申し訳なさそうに口を開いた。
 見れば、彼女は気落ちしたように肩を落としていた。さり気なく小恋たちから離れると、義之は口を開いた。

「ん?」
「す、すみません、先輩。わたしったら、つい……」
「あぁ、さっきのアレか」

 先を言わせず、義之は軽く笑った。
 先ほどの杏の謎のスリップ。その元凶は、紛れもなく、彼女だ。

「まぁ、まひるは俺の彼女なんだからさ。あれくらいは当然の権利じゃないか?」

 まひるは気にしているようだったが、正直、義之としては、あのまま杏に舐められていたら、それをネタにしばらくいじられる羽目になっただろうから、たすかった、とすら思っていた。

「うーん、そうでしょうか……」
「それに、謝るなら俺じゃなくて杏に、って言いたいけど、それも無理なんだよなぁ」
「はい……」

 しゅん、とまひるの表情がしなびれる。

「できることなら直接謝りたいのですが、それもできないので、先輩を介して伝えてもらおうと」
「伝えるって言っても」

 どう伝えればいいんだろう。
 実はここに自分以外には見えない幽霊の女の子がいて。実はその女の子は自分の彼女で。さっき杏がこけたのは、その彼女が杏の行動に混乱して、思いっきり裾を引っ張ったせいなんだ、すまなかった。代わって俺が謝罪する。
 とでも伝えればいいのだろうか?

(間違いなく、精神異常者を見る目で見られるな……)

 想像するだけで苦笑いが湧き上がる。

「そうですね。やっぱり自分で伝えないと」

 意を決したようにまひるはグッと拳を握り締めた。

「今度、お家に行ってどこかに謝罪の文章を書いておきます」
「家? 杏の家にか」

 そういや杏の家って行ったことがないな、と思いながら義之は訪ねた。

「はい。えーっと、そうですね。確実に見てもらえるようにお部屋の鏡とかに。『ごめんなさい』って。目立つように口紅で!」
「……いや、怖いから、それ」

 部屋に帰ったら、鏡に真っ赤な『ごめんなさい』の文字なんか浮かんでいたら、流石の杏でも腰を抜かすんじゃないだろうか。いや、彼女のことなので、至極冷静に泥棒かなにかかと考えるかもしれないが。
 義之の反応を見て、まひるは、またがっくりと肩を落とした。

「そうですか……、だめですか……」
「メッセージで伝えるって発想はいいかもしれないけどね」

 それでも、杏がまひるの存在を認知できないことに変わりはない。――――それが本当に、悲しい。

「それじゃ、やっぱり気持ちの問題ですね! 聞こえる聞こえないは関係ありません。杏さんの耳元でひたすら謝り倒します! ごめんなさい、ごめんなさいって」
「……なにかの呪い?」
「え?」

 杏が錯乱しそうだ、と思った。

「けど杏なら多分、気にしてないと思うぞ」

 まひるに示すように、義之は雪月花を見た。そこにあるのは相変わらず楽しそうな談笑の声。

「それにしても、さっきのこけ方は面白かったね〜。杏ちゃんでも足をすべらせることってあるんだ」
「ふふ……そうね。これを機に新たな境地を開拓してみようかしら……」
「新たな境地?」

 小恋は困惑した様子だったが、それに答えることはなく、杏はこちらを振り向くと、にやりと笑った。

「ね、義之……ドジッ娘って萌える?」

 そして、誘うように言い放つ。さらには「巫女プラスドジッ娘……この破壊力は天下一品よね」などと1人続けた。文字通り、転んでもただでは起きないな、と義之は呆れ半分感心半分に思った。

「て、天下一品なんですか……」
「さあ」

 まひるが瞳をぱちくりとさせるが、その言葉の是非を義之が知るはずもない。

「まぁ、杏の言う事はあまりマジに取らない方が――」
「弟くーん、やっほー!」
「っ!?」

 急に声が飛んできて、義之はびくりと身体をふるわせた。
 麻耶との打ち合わせは終わったのか、巫女姿の音姫がすぐ傍に来ていた。

「ちゃんと、時間守ったね。えらいえらい♪」

 ご満悦、といった表情でうんうん頷く。

「一応、監視役だからな。遅刻するわけにはいかないよ」
「うん。さっすが弟くん。信じてたよ」

 公衆の面前だというのに、放って置けば頭でも撫でてきそうな勢いだった。その満足そうな声に、やっぱり早めに来てよかった、と義之は思い直した。これは、仮に遅刻なんてしていたら大変だっただろう。
 それにしても。

「信じてたって。……俺はどんなイメージなのさ」

 義之がしなびれたように言うと、音姫の代わりにやはりいつの間にか傍に来ていた杏が答えた。

「ずばり、遅刻魔、ね」

 ストレートな言葉だった。
 義之は唸り、おいおい、と否定のニュアンスを含めて言うも、一方で、小恋と茜と音姫は杏の言葉にうんうんと頷く。

「ですよね」

 さらに、まひるまで一緒になって頷いているのを見れば、さすがにげんなりした。やはり、自分はそういうイメージか。実のところ、そこまで遅刻回数は多くないはずなのだが。

「あ、そうだ。弟くん、他のみんなはそれぞれ班ごとに分かれてるけど弟くんは……」
「ああ。俺は午後も午前と同じで見回り、だろ?」

 義之の言葉に、正解、と音姫は笑った。
 まぁ、予想の範疇内だ。みんなは午前と午後で別の仕事を担当することになるのかもしれないが、自分は多分、午後も同じ仕事だろうと思っていた。
 午前中同様、姉のサポートとして、クラスの見回り役として、この初詣の神社中を駆け回る。やることはかわらない。それはそれで楽なような、つまらないような。

「すみません、音姫先輩。私たちは?」

 小恋の声に音姫は振り向き、午後の仕事の詳細を告げる。その横顔はすっかり生徒会長モードのそれになっていた。
 そんな彼女たちから義之は再び数歩、距離を取ると、まひるを見た。

「ま、やるしかないか」
「そうですね。ふぁいと、おー、ですよ。先輩!」

 まひるが握りこぶしを作って、声と共に青空へと突き上げる。午後も、彼女はずっと一緒だ。自分と共にいてくれる。太陽にも負けないくらいの、冬の冷気も、仕事の疲れも吹き飛ばすくらいの笑顔で自分を照らしてくれる。

「ああ。ファイト、オーだな」

 義之も握りこぶしを作って、彼女の手とあわせた。この笑顔をずっと、見ていたかった。

「がんばってください、先輩! わたしもここで応援してますから!」

 胸の底がチクリ、と痛む。
 予感は、いや、答えは最初から胸の中にある。ただ、それに気付きたくなくて。
 だから、今は何も気付かないふりをする。痛みも、不安も、何も、表には出さない。彼女の笑顔に負けないくらいに笑顔でいよう。笑っていよう。

「ああ。とびっきりの応援を頼むよ、まひる」

 いつか、その現実と直面するときが来るとしても。その日はすぐ傍まで迫ってきているとしても。そう、今だけは。
 義之は握りこぶしを開くと、手のひらを彼女の頭の上に置いた。そのまま、わしわしと撫でてやると、彼女は少しだけくすぐったそうに、そして、少しだけ照れくさそうに。

「はい、――――先輩」

 そっと、微笑んだ。




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