HAPPY NEW YEAR!


 冬の朝。芳乃さくらは桜公園のベンチでまだ低い位置にある太陽を眺めていた。
 吹き抜ける冷風に二つにわけておろした金髪が弄ばれ、その感触を寒さと共に感じながらも朝の日差しの下では、それすらも心地よいと思いつつ。
 風が走るたびに、さくらの金髪と、そして、桜公園の木々が揺れる。ざわざわ、と。薄紅色の花も、緑色の葉も、すべてを落とした冬の桜が揺れる。
 それは、どこか寂しげな姿でもあったけど。

「ま、冬だしね〜」

 誰に言う事もなくさくらは笑った。
 今は、冬だ。冬に桜が枯れているのは、当たり前。
 今日は、12月31日。
 1年が終わり、新しい1年への節目となる日。
 その朝の太陽の下で、さくらは思いっきり、背伸びをした。


「おはようございます、さくらさん」

 芳乃家の玄関口で義之はさくらを出迎えた。
 大晦日の朝。いつもより早くに目を覚ましてみれば、家の中に家主であるさくらの姿はなく。  「今年はお正月に休みを取る事が出来た」と嬉しそうに話していたわりにはおかしいな、と怪訝に思い外に出たところ、そこでばったりと帰ってきた彼女と鉢合わせしたのだ。パジャマに上着を羽織っただけの義之と違い、ちゃっかりと普段着に着替えている。自分のように玄関先を見に出たのではなく、どこかに出かけてきたのは、間違いないだろう。

「おはよう、義之くん♪」
「こんな朝っぱらからどちらに?」
「にゃはは、ちょっと散歩にね」

 見慣れた金色のツインテールを揺らし、さくらは猫のように、はにかんだ。

「へぇ、散歩、ですか」

 珍しい、と義之は思った。
 芳乃家の主でる彼女は基本的にきびきびとしたしっかりものだが、時たま、隣家に住むかったるがりコンビ以上のぐうたらっぷりを発揮することがある。特にこの最近、仕事もなにもない休日にはそれが多い。夜遅くまでレンタルしてきた時代劇を見て、朝と言い張るには微妙な時間帯になるまで布団の中にくるまっていたり。義之が起こしに行ってようやく動きだすという日も多々ある。
 その彼女が朝一番に起床、そして、散歩とは。
 口にこそ出さなかったが、そんな思いは、顔にはしっかりと出ていたようで。

「義之くーん。その目は何〜?」
「い、いえ。別になんでも」
「嘘だ〜。この怠け者にしては珍しいな〜、なんて目だったよ」

 慌てて首を振った義之だが、さくらは面白がるように笑う。

「お母さんに対して、そんな目をするのは失礼だぞ?」

 言葉とは裏腹に、全然、気にした風もなさそうに口元に人差し指を当てる。
 そのしぐさに義之は小さく肩を竦めた。

「親子だから、ですよ。そういう目で見れるのは」

 感情を誤魔化す必要も、飾り立てる必要も、ない。思ったままの感情で接することができる。
 さくらは一瞬、ぽかんとしたように目を丸くしていたが、

「あはは、そうだね♪」

 再びツインテールが揺れる。それはお天道様の光を浴びて、きらきらと煌いた。
 さくらは眩しげにサファイアブルーの瞳を細めると、小さな手を日傘代わりに、空を見上げた。
 つられて義之も視界を上げる。朝の日差しが一瞬、視界を白くそめた。

「今日は大晦日。1年の節目だからね。自然と早起きにもなるよ。義之くんもそうでしょ?」

 さくらの笑顔に、義之は頷いた。
 別段、変わりのない冬の朝だ。雪こそ降っていないものの、相変わらずの寒さの。
 しかし、特別な日という意識があるだけで、何故かそれは特別なものに感じられる。弱弱しい冬の日差し、肌身を撫でる風。吐く白い息。すべてが。

「ま、そうじゃない人もいるみたいですけどね」

 パジャマと上着だけで出る分には少し厳しかったかもしれない。両肘を抱えなら、義之は顎で芳乃家の方を示した。
 そうじゃない人。この芳乃家に住む、もう1人の住人。

「アイシアはまだ寝てるの?」
「俺がさっき見たときは高いびきでした」
「ふーん」

 といっても、アイシアが寝坊というわけではない。自分たちが早く起きすぎただけだ。この時間帯なら、まだ眠っている人の方が多いだろう。

「そっか、アイシアはまだお休み中なんだ?」
「……? はい、そうですけど」
「そっか、そっかー。アイシアはおねむなんだー」

 サファイアブルーの瞳の中になにか企むように色が光ったのを、義之は見た。

「つまり……」

 義之を見上げる、その表情が悪戯っぽく歪む。

「義之くんに甘えるなら、今がチャンス!」

 身構えようとする。が、間に合わない。勢いよく地面を蹴ったさくらの小柄な影が一直線に――。

「――――させないッ!!」

 瞬間、乱暴に引き戸が開け放たれる音。硬質な音が響いたかと思えば、玄関から同じく小柄な影が飛び出し、義之とさくらの間に割って入った。
 ――――ドン!
 2つの影は義之の目前で衝突し、そのままもつれ合うように倒れる。

「って、やばい!」

 呆気にとられ、その様子を見守っていた義之だったが、すぐに我にかえり、両腕をのばした。地面と接触寸前の2人を掴み、自分のもとへ抱き寄せる。2人分の体重に引っ張られかけたが、腕の筋肉と、両足を踏ん張る事でなんとか耐えれることができた。

「……ふぅ、危なかった」

 白い息を吐いて、へたり込む。朝っぱらから、なんなんだ……。

「痛たた……」

 義之の左腕に抱えられながらさくらがおでこをさすった。

「もー、アイシア、危ないよ〜。ありがとー、義之くん♪」
「危ないよ〜、……じゃないわよ!」

 右腕の中で、ウェーブのかかった銀髪が揺れる。ルビー色の瞳を怒りにそめて、アイシアはさくらを睨む。義之の見た限り、彼女もおでこか、あるいは顔面を強打していたように見えたのだが。痛みよりも怒りの方が強いだろうのか。

「なんか胸騒ぎがしたから飛び出てみれば……人がいないところで何しようとしてるの!」
「ダイビング・ゴー・トゥ・義之くん♪ もしくは人間大砲・ターゲット・イズ・義之くん♪」
「そこから先は?」
「もっちろん、エネルギー・チャージ! 充電充電〜」
「…………それはあたしの特権って言ってるでしょ、さくらーっ!」

 楽しげに言うさくらに向かって、アイシアは吼えた。しかし、さくらはそんな声をそよ風のように受け流すと、自分を抱きかかえる義之を見上げた。

「それにしてもナイスキャッチだったね。義之くん」
「はぁ……」

 キャッチしているのは現在進行形だけど。と思いつつもとりあえず相槌を打つ。

「アイシアもだけど、さくらさんも危ないですよ。あんな風にいきなり駆け出したりしたら」
「にゃはは〜、反省します」

 悪びれた風など一切なくさくらは笑った。

「ちょっと、さくら! 人の話はちゃんと聞いてよ!」

 怒り収まらないといった感じのアイシアに義之はアイシア、と呼びかけた。別に2人の仲介をするつもりはなかったが、結果的にはそうなったかもしれない。

「おはよ、起きたんだな」
「義之くん! うん、ついさっきね。おはよう♪」

 先ほどまでの怒りはどこへやら。一転して笑顔になる。大きなルビー色の双眸が喜色に染まって義之を見上げ、アッシュブロンドの髪から漂ういい匂いが鼻先を泳ぐ。
 アイシアはにんまりと口元をゆがめた。

「じゃ、さっそく、おはようのアレを〜」

 そして、唇をすぼめる。その動作が何を意味しているのか、何を求めているのかはわかったが。
 義之は苦笑いすると、左腕の中を見た。

「うーん、さすがのボクでも、この超至近距離で見せ付けられるのは……」

 さくらも義之と同じように困ったように苦笑いを浮かべていた。

「うう〜、じゃあ、さくら、早く離れてよ。恋人同士の儀式が出来ないじゃない。ってか、そもそも、いつまで義之くんに抱きかかえられてるの!」
「アイシアもじゃない」
「あたしはいいの!」

 下りろー、とアイシアがもがく。

「やーだよ♪」

 それも、さくらにはどこに吹く風だ。むしろ、下りるどころか逆に義之の左腕をがっしりと掴む。

「わぁ、やっぱり、細身に見えるけど意外と筋肉ついてるんだね♪」
「あー! その感触はあたし専用なんだから、さわっちゃだめ!」
「にゃはは〜。それは、義之くん独占禁止法違反でーす」
「なによそれ!」

 何度も吼える銀色と。のれんになんとやらか。それを何度も受け流す金色。

「え、えーっと……」

 どうすればいいんだろう? 自分の右腕の中と、左腕の中を困ったように見比べて、義之は唸った。
 同時に後悔もした。こけそうになった2人を抱きとめるまではいいが、その後、すぐに下ろせばよかった、と。そうすれば、こんなどちらを下ろすことも憚られるような状況にならずにすんだ。こんな妙な状況には。

「あのー、3人とも。朝っぱらから玄関口で何をやっているんですか……」

 傍から見る分には、まるで3人で抱き合っているような、こんな状況には――。

「って!!」

 心臓がドクンと跳ねたのがわかった。義之の、そして、さくらとアイシアの視線が門の方を向く。

「…………」
「…………」

 そこには、隣家の住人が――冷ややかな視線を投げかける由夢と、口元をひきつらせている音姫の姿があった。

「い、いや、これは、その、違っ」

 一筋の汗が額を走る。草木も凍る冬の朝だというのに。

「こ、これにはワケが! これは!」
「家族3人の朝のスキンシップだよ♪」
「えー、それはあたしと義之くんだけでいいのー」

 このタイミングに及んでぎゅっと腕を握り、さらに身体を密着させてくる2人。

「2人とも黙ってて! えーっと、だから!」

 自分を見る姉妹や、相変わらずなことをいうさくらとアイシアに義之はさらに動揺した。わたわたと。思考も言葉も、支離滅裂に混乱する。
 慌てる義之をよそに、由夢は冬の寒さより余程冷たい、視線を投げかけてくると、そっぽを向いて、義之『たち』の真横を通り過ぎようとした。

「相変わらずお仲がよろしいようで、なによりです」
「ゆ、由夢〜。違うんだ〜」

 その背に手を伸ばそうとして、両腕がふさがってることに気付き、仕方なく声だけで彼女を呼び止める。しかし、由夢は一顧だにせずそのまま芳乃家の中へと入っていってしまった。

「う〜〜」

 軽い絶望感にかられながら、振り返ると、音姫が疑惑の、否、悔しさの感情を歯噛みするように自分たちを見ていた。
 まずい、と思いつつも、彼女なら由夢よりは冷静に話を聞いてくれるだろうと義之は期待し、状況を説明しようとしたが。

「音姉――」
「3人だけでむぎゅむぎゅずーるーいーー!!」

 両腕を広げて発せられた大声に、声が掻き消される。

「お姉ちゃんも混ぜてーー!!」
「うわっ!」
「ええ〜〜! 音姫ちゃんまで来ちゃうの〜!?」
「にゃはははは♪ みんな仲良し〜♪」

 もう、だめだ――。
 現実から逃げるように、義之は天を仰いだ。
 大晦日の空は、ただただ、青かった。


「ひどい目にあった……」

 玄関口の騒動からしばらくの後。義之は居間の中で、一服していた。こういう冬場の日にはやはりコタツに入り、あったかいお茶を飲むに限る。

「ひどい目?」

 コタツの向かい側に座り、年末特番を見ていた由夢が義之の言葉に振り向く。今、信じられないことをきいた、とでも言うような目。
 自然と義之の頬もひきつる。

「私にはとてもそうは見えませんでしたけど」
「ははは……」
「まったく」

 由夢はため息をついた。

「1年の最後の日まで何をやっているのやら」
「おいおい、そんな言い方はないだろ」

 それじゃあまるで、1年中、あんなノリだったみたいじゃないか。
 そう冗談めかして言い、笑ってみせた義之だったが、

「…………自覚、ないんですか?」

 思いっきり、呆然とされた。

「うぐ……」
「まぁ、兄さんがどんな生活を送ろうと、妹の私には一切関係ないから構いませんけど。少しくらいは節度を弁えてくださいね、『ラブルジョワ』さん」
「…………」

 由夢は冷ややかに言い放つと、それっきりで視界をテレビに戻してしまった。

(しっかし、節度、ねぇ)

 ツンとした妹の動作に、肩をすくめる。
 そう言われても、どうしたらいいものやら。説得力がないかもしれないが、自分自身はある程度は節度を弁えようと思っているつもりだ。
 とはいえ、自分1人がどれだけ頑張っても、どうしようもないことというのはある。

(その台詞は、あの3人に言ってくれよ……)

 内心でため息をつきながら、義之は台所の方に視線を向けた。

「アイシアさん。こっちのお皿、お願いします」
「まっかせて音姫ちゃん! がんがん洗っちゃうよ〜」
「あ、こっちのお皿は全部乾燥機に入れちゃってもいいんだよね?」

 カチャカチャ、と食器がたてる音と、蛇口からの水流の音。件の3人の楽しそうな声。

(別に仲が悪いってわけでもないんだよな)

 それがまた義之には不思議だった。なにかあるたびに自分絡みで張り合う3人だが、当人たちの間では仲が悪いなんて事はない。むしろ、良好な関係、といっていいだろう。
 その証拠に今も仲良さげに朝ごはんの後片付けをしている。

「さくら、こっちの全部終わったよ!」
「私の方もです」
「オッケ〜。それじゃ、これで全部終わりだね♪」

 その3人の輪に自分が入れば、一気に3人の関係が微妙なものになってしまうのは、何故だろう。自分がいるだけで3人の中に一気に火花が飛び交ってしまう。

(ひょっとして俺が諸悪の根源?)

 そんなことを思って、苦笑いした。まさか、まさかな……。

「何、1人でにやにやしているんですか。兄さん」
「いや、俺は別に……お前こそテレビ見てたんじゃないのか」

 素朴な疑問を口にしただけだったのだが、何故か由夢の頬が赤くなる。

「な、私は別に兄さんを見ていたわけじゃありませんよ。お姉ちゃんたちの様子を見ていたら一緒に視界に入って――」
「?」

 何を慌てているんだろう、と思った。最も、この妹が自分にはわけのわからないことで不機嫌になったり、慌てたり、照れたりするのはよくあることなので、あまり気にはしない。

「っと、3人とも、お疲れさま」

 最後に流しで手を洗い、台所から出てきた3人に義之は労いの言葉をかけた。芳乃家の家事は当番制だから、今日の当番でない自分はくつろいでいてもいい、ということはわかっているが、それでも、少しだけ申し訳なさがあった。
 3人が入ってきて、一気にコタツが狭くなる。それぞれがミカンを取ったり、テレビを見たりと。年末年始らしい、まったりとした雰囲気が流れる。このまま、新年までくつろぎたい。ところだが。
 まだ1つ、やらなければならないことが残っていた

「どうする、大掃除は?」

 その名詞を出した途端、場の空気が一気に重くなる。
 大掃除。年末年始のあまりありがたくない一大イベント。
 例年通りなら、芳乃・朝倉家ではクリスマスの直後には済ませてしまうのだが、今年は音姫の生徒会や義之とアイシアのバイトなど様々な都合が重なって、大晦日まで先延ばしになってしまっていた。
 さすがに今日中には済ませないとまずいが、まだ朝食の直後だ。少しのんびりして昼からはじめるというのも、ありかもしれない。特に3人は後片付けを行った直後だ。
 そう思って、義之はたずねた。

「うーん、そうだねー」

 義之の言葉に、皆を代表してか、音姫が考え込む。

「お姉ちゃんとしては、朝のうちに済ませちゃおうと思っていたんだけど……さくらさんたちはどう思います?」

 音姫が視線を向けると、アイシアが大げさに頷いた。

「あたしはそれでいいと思うよ。早いうちに終わらせた方がすっきりするし」
「だね♪」

 さくらもアイシアに続き、笑顔で頷く。

「わかった。んじゃ、さっさと終わらせちまおう」

 その様子を見て、義之は茶碗を置き、コタツから立ち上がった。
 そうと決まったのなら、行動あるのみ、だ。アイシアの言うとおり面倒事は早いうちに終わらせるに限る。気合を入れるように、思いっきり背伸びをすると、

「……当然、お前にも手伝ってもらうからな。由夢」

 コタツの中で息をひそめている由夢に向かって呟いた。

「や、兄さん。そんな人聞きの悪い」

 ガタリ、と音をたてて由夢が慌ててコタツから這い出てくる。

「まるで人がさぼろうと考えてたかのような言い方はやめてくださいよ。ねえ、お姉ちゃん」
「あはは……」
「どうだかな」

 義之と音姫は2人揃って苦笑いし、さくらとアイシアもくすりと笑った。


 年の瀬の夜は、穏やかに過ぎていく。
 芳乃の居間には静かな時間が流れていた。
 あれから、使っている部屋から使っていない部屋まですべての部屋を掃除して、今年最後の買い物に一緒に行って、お蕎麦を食べ、黄白歌合戦を観戦して……。
 流れ行く時は今日もあっという間に過ぎていき、後は年を越すだけだ。

「…………」

 みんなコタツに入り、蜜柑を食べたり、お茶を飲んだりしつつも、特に会話らしい会話もなく。時折、壁にかかった時計や、テレビの中に映し出されたカウントダウンのタイマーを眺める。
 年越し番組というお題目で、大勢集められたレポーターや芸能人を見ながら、こんな時まで仕事で大変だなぁ、なんてどうでもいいことを義之は思った。
 そんなどうでもいいことを思うくらいに、静かで、穏やかな時間。驚くほどに部屋の中があたたかなのは、多分、コタツや暖房のだけのおかげではない。
 このあたたかさは、きっと。

「ふあ〜〜あ……」

 穏やかな沈黙を破って、アイシアが大きな口を開けた。

「まだ〜?」

 目をしょぼしょぼさせて、机の上に顎をつく。
 先ほどからも彼女が眠たそうにしていたのは、義之にもわかっていたが、ついにそれを抑える気にもならないほど、眠気が強くなったようだ。
 あくびを連発するアイシアを横目に、音姫が頬を緩めた。

「あはは。あとちょっとですよ、アイシアさん」

 がんばってください、と。眠気覚ましにか茶碗に新しいお茶を注ぎ、彼女に差し出す。

「あと20分、ですね」

 そう言う由夢も欠伸を噛み殺しているのが傍目にも見て取れた。
 義之自身もうっすらと目蓋が重くなってきたのを感じたが、普段から、遅寝遅起の不健全な生活を送っている身としては堪えれる範疇だ。

「うう〜、あたし、もう限界だよ〜」
「にゃはは、アイシアはお子様だな〜。別に眠たいのなら、寝ちゃってもいいよ?」
「うーん……」

 どうしようかな、と半分は閉じかけた赤い瞳が言っていた。
 たしかに、年越しなんて言っても、所詮は普通の夜と変わりない。除夜の鐘の音が聞けたり、テレビ番組が特番だらけになってるくらいで。無理をしてでも迎えようとする価値もないかもしれない。
 義之は内心でさくらの意見に頷きながらお茶をすすった。ここまで来て眠っちゃうのはちょっと、勿体無い気もするけれど。

「ただし、義之くんと一緒に年は越せなくなっちゃうけど、ね♪」
「…………それは、絶対にいや」

 挑発するように唇に指を当てたさくらに対し、眠たげに、しかし、はっきりとした拒否の声音でアイシアは言った。

「こんな眠気なんかに負けて、義之くんと新年を迎えられないなんて……」

 ガバッと、顔を上げて、瞳を見開く。

「絶対にイヤ!」

 そのまま、先ほどから音姫が差し出していた茶碗を手に取ると、一気に喉に流し込んだ。
 音姫の表情が固まり、由夢やさくらも呆然とした顔になる。それは、そうだろう。だって、あの茶碗の中に注がれているのは冷たいお茶ではなく――。

「〜〜〜〜!!!」

 あっつあっつの、緑茶なんだから。
 恋人の見ている手前、飲み込んだ物を噴き出すわけにもいかないのか、アイシアは喉を両手でおさえて、そのまま畳に転がり悶絶する。

「ア、アイシアさんっ!」
「う、うわー。アイシア、大丈夫!?」

 みんなの裏返った声が響いた。年越しのこんな時まで、相変わらずだ。
 義之は愕然としつつも、どこか微笑ましい気持ちだった。
 お人形さんのように整った顔たち。北欧に降り積もる雪のように真っ白な肌。煌くアッシュブロンドの髪。黙っていれば、何もしないでいれば、肖像画の中から飛び出てきたような美少女なのに。何かやるたびに。

「熱〜〜〜〜〜い!!!」

 ……こうなる。
 のた打ち回るアイシアの姿を見て、思わず口元が緩んだ。

「に、兄さん! 穏やかに笑みなんて浮かべてないで!」

 必死な声に呼びかけられて、義之はハッとした。

「あ……そうだった! 水だ、水!」

 指示するように言いながらも自分で立ち上がり、台所まで走る。洗い場に置かれていた、洗浄直後のコップを取り、乱暴に蛇口を開き、水をたっぷりといれて、Uターン。

「げほっ、げほっ! あっつ〜い……」
「大丈夫か? 全く。そそっかしいんだから」
「義之くん……。ううー、舌が痺れちゃったよ〜」

 火傷でもしたんじゃないかと心配したが、この能天気な声を聞く限りでは、大丈夫そうだ。水を飲ませてあげながら、義之は安堵の息をはいた。

「とりあえず目は覚めた、みたい、ですね」
「……ですね。見ているだけの私も眠気なんて吹っ飛んじゃいました……」
「にゃはは……」

 少し、いや、だいぶと無理のある朝倉姉妹のフォローにさくらが苦笑いする。

「なんか、あんまり嬉しくない……」
「ははは……」

 義之としても、頬を膨らませる恋人の隣で苦笑いをもらすしかない。ただ、たしかに、2人の言うとおり、眠気はなくなったようで、コタツに戻ったアイシアは先ほどと比べると格段にハッキリとした目をしていた。
 彼女の視線を追って、テレビを見ると、番組の中のカウントダウンタイマーは既に10分を切っている。本当にもうすぐ……600秒後には年が明ける。

「今年も色々なことがあったね」

 感慨深そうに音姫が呟く。

「だな」

 頬杖をつきながら、義之は相槌を打った。そうだ。今年は特に色んなことがあった。
 傍らのアイシアを見る。さっきの出来事をすっかり忘れ去ったかのように、お気楽な笑顔で、流れ行くカウントダウンタイマーの数字を、過ぎ行く時を見つめている。この切り替えの早さが、アイシアだ、と義之は思う。
 アイシア。芳乃家の新たな住人。今年から一緒に暮らすようになった、新しい家族。
 彼女との春夏秋冬は時間が流れるのが本当にあっという間で。妙に短い1年だったように思える。小さな幸せの積み重ね。そんな毎日が何よりも尊くて、嬉しくて。
 そして、今。
 そんな、大切な人と一緒に、年を越せるということを。この幸せの時間を、嬉しく思う。
 義之が最愛の人の横顔に目を奪われているとき、ふいに視線を感じた。

「なんですか?」

 蒼い瞳が自分をじっと見つめていた。先ほどまで自分がアイシアに向けていたような瞳。
 義之の問いかけにさくらは楽しげに口元をほころばせた。

「ううん、なんでも♪」

 そういうと、グッと、肩を寄せてくる。

「あ、こら、さくら!」
「さくらさん、ずるいですよ!」

 さくらの行動を見逃さず、アイシアと音姫が同時に声をあげた。
 が、さくらは全く意に介した様子はなく、さらに、身体を寄せてくる。鮮明な金色の髪が首筋をこすり、くすぐったかった。
 その感触に、ああ、そういえば、と今更ながら気付いた。

「さくらさんと一緒に年を越すのって、久しぶりですね」

 ぴったりと身体をくっつけてきて、微笑むさくら。その横顔はいつものように、ふざけているようでもあったけれど。

「……うん、そうだね」

 透き通る蒼玉のような瞳は、一瞬。
 どこか、なつかしむように、遠くを見た。
 こうして、一緒に年を越すのは、義之が風見学園に入ってからでは初めてのことだ。ここ数年は多忙ゆえに年末年始だろうと、彼女はまともに家に帰ってこれなかった。
 31日の夜に出かけて、2日の朝に帰って来るというのがここ数年の基本パターン。
 今となってはその要因は学園長としての仕事以外にあったのではないかと、義之は思うことがあるが、そのことを追求するつもりはない。
 何故なら、それは、もう過ぎ去ったことだから。
 今は、こうやって。

「でも、今年は一緒だよ♪」

 さくらが再び義之を見上げる。その瞳は、今度はしっかりと、今を見ていた。

「ですね」

 こうやって一緒に過ごすことができる。ならば、なにも言うべきことなどない。

「義之くんと一緒に年を越せるなんて、ボクは、世界一の幸せ者だな〜」
「大げさですよ」

 肌を撫でる金色の髪の感触はやっぱり、くすぐったい。身も心も、なんだかくすぐったくて、こそばゆい。でも、それ以上に。

「そういえばさくらさん。ここ数年は……」

 音姫と由夢は寂しげに呟いた。

「え、えーっと? よ、よくわからないんだけど、とりあえずさくら、義之くんの傍から……」

 1人、わけがわらないという顔をしているアイシアに音姫が簡潔に説明をする。最初のうちは不機嫌そうな顔をしていたアイシアだったが話を聞くにつれてその顔色が変わった。

「う……」

 ばつが悪そうにさくらを、義之を、見る。
 周りからの重々しい視線に気付いたのか、さくらは慌てて顔をあげると、わざとらしく笑った。

「あ……にゃはは。別にそんなたいしことじゃないから。そんな顔しなくていいのに」

 気にしないで、と肩を離す。

「はい♪ ボクはもう、充電完了したから。アイシアでも音姫ちゃんでも、どっちでも。義之くんにくっついてあげてね〜。年越しの時まであとちょっとだよ?」
「…………」
「…………」

 しかし、2人とも、動かない。
 音姫は、やさしげに微笑み。アイシアはクッと喉をならすと。

「……わかった」
「へ?」
「今回だけは、今年だけはゆずってあげる……」

 それだけ言い、そっぽを向いた。

「アイシア? それってどういう……」

 さくらは最初、何を言われたのかわからないようだったが。

「……うん。ありがとう、アイシア」

 ややあって、静かに頷いた。
 彼女にしては珍しく照れているような表情。そう見えたのは義之の気のせいだろうか。

「もう、勘違いしないでよ。これは貸しなんだから」
「貸し?」

 義之がたずねると、アイシアは頷いた。

「うん、義之くん。今晩はさくらにゆずるけど、代わりに、明日の初詣では、義之くんの隣にいる権利はあたしがもらうからね!」
「えー、アイシアさん。ずるーい、初詣は私が〜」
「む。いくら音姫ちゃんでも、こればっかりは譲れないよ!」
「……1分、切ってますよ」

 不満げに頬を膨らませる2人の機先を制するように由夢が呟いた。

「え?」

 音姫も、アイシアもその言葉にハッとしたようにテレビを振り向く。
 義之も見ると、彼女の言うとおり。カウントダウンのタイマーは60秒を切り、時計も23時59分に差し掛かっていた。
 由夢の言葉を引き継ぐように音姫も呟いた。

「あ、ホントだ。もう30秒だね」
「いよいよだな」

 意識せずとも、期待感が唇からこぼれでて、声音を染める。
 毎年、毎年。このタイミングになると、時計の音がやたらと大きく聞こえてくる。我ながらガキだな、と義之は自嘲した。

「にゃはは。奥さんのOKマークが出たから、存分に甘えちゃうぞ?」

 やわらかい感触に隣を見れば、さくらが自分の右腕を抱きしめていた。ぴったりと身体を密着させる。肌に触れる金色の髪の感触があたたかい。

「25、24、23……」

 そのまま、カウントダウンをはじめる。数字を1つ数えるたびに、彼女の息が頬をかすめていく。静かに微笑む、その横顔を見ていると、意図していないのに、義之の口元に笑みが浮かんだ。彼女に笑顔を呼ばれた。

「20、19、18……」
「20、19、18……」

 自然と声が重なっていた。
 音姫と由夢も声を出して、カウントダウンは合唱となる。

「15……OK。音姫ちゃん。3月の雛祭りで、14! 義之くんにエスコートしてもらう権利でどう?」
「……わかりました。それで手を打ちましょう。明日はお譲りします……あ、13!」
「お姉ちゃん……、12……」

 やれやれ、とでも言いたげな視線を姉に送りながら由夢がカウントし、義之はそれに続き、11、と言った。
 自分のあずかり知らないところで変な予約シフトが組まれているような気がするのは、気のせいということにしておこう。とりあえず。今の段階では。

「さ、みんな、あと10秒だよ!」

 さくらが楽しげに合図をして、全員の声が重なる。

「9……」

 今年も色々なことがあった。

「8……」

 といっても、そのほとんどは他愛のない、ありふれた毎日。
 朝、起きて学校に行って、夕方に帰ってきて、夜に寝て。

「7……」

 友達と一緒に学食を食べたり、遊びに出かけたり。
 家族と一緒に団欒の時間を過ごしたり。

「6……」

 特別なことなんて、稀な話。
 日々は普通に過ぎていく。
 なんてことはない平穏で、普通の日々。

「5……」

 けれど、それは、全てが幸せの積み重ねなんだと思う。
 この世界で、平穏な日常ほど、尊いものはありはしない。

「4……」

 大切な人たちと一緒の時間を過ごせる。
 大切な人たちと一緒に笑いあえる。

「3……」

 繰り返される普通の日々の中に大切な人がいる。

「2……」

 それを、きっと。

「1……」

 人は『幸せ』っていうんだから。

「0!」

 ゆっくりと時計の針が動き、長針と短針が同時に頂点を示す。0時0分00秒。

「「「「「あけましておめでとうございます!!」」」」」

 みんなが一斉に声を上げた。
 それを合図としたかのように、部屋全体を包んでいた奇妙な緊迫感は一気に晴れて、和気藹々としたムードが広がる。
 年が、明けた。

「義之くん、あけましておめでとう!」

 アイシアが元気いっぱいにそう言うと、立ち上がり、どこに持っていたのか、クラッカーを炸裂させた。彼女の声と共に、小筒から七色の糸が飛ぶ。

「今年もよろしく♪」
「ああ、こちらこそ」

 年が明けてすぐだというのに相変わらず天井知らずのハイテンション。それを義之は微笑ましく思った。けれど。

「……なにも、顔面めがけてぶっ放すことはなかったんじゃないか?」

 七色のワカメヘアーを振って、義之は怒ったように呟いた。

「す、すごく、よく似合ってますよ、兄さん」
「頬がひくついてるぞ、こら」
「ううん、由夢ちゃんの言うとおり、ほんとに似合ってるよ、うん」
「あはは、義之くん、ごめんね〜」

 みんな、好き勝手なことを言って、人を笑いの種にする。

「ま、新年を奥さんの隣で迎えなかった罰ってことで……」

 ひとしきり笑い終えた後、アイシアはジト目でささやいた。
 OKサインが出ていたような気がするのは気のせいだろうか。そう義之がたずねると、

「気・の・せ・い、だよ♪」

 完全完璧に断言された。

「…………ああ、そう」

 新年早々、やれやれだ。
 絡みついたカラフルな糸を払いながら、義之はかぶりを振った。この分じゃ今年も、相変わらずの1年になりそうだ。
 そのことに、悪い気は全然しないが。

「それじゃ、改めて……あけましておめでとう。弟くん。今年もよろしくね」
「おめでとうございます、兄さん」
「ああ。おめでとう、2人とも」

 交わされるやり取りはいつものもの。いたって、普通で平穏な、新年の挨拶。

「義之くん」

 義之の隣で、金色の髪が揺れた。

「HAPPY NEW YEAR! あけましておめでとう♪」
「おめでとうございます。さくらさん」

 広がるのは、満面の笑み。蒼い瞳は、楽しげに輝く。多分、自分も同じ顔をしているんだろうな、と思う。
 さくらは改まるように、ぺこり、と小さく頭を下げると、義之の瞳を自らの瞳で見据えた。

「にゃはは、今年もよろしくね」
「俺の方こそ、よろしくおねがいします、さくらさん」

 義之も、頭を下げた。
 新年。
 今、また1つの区切りが生まれ、これまでの日々が過去のものになり、新しい日々への道が開けた。
 こうやって、いったい、どれだけの年月がこの先、流れていくんだろう。自分たちはどれだけの日々を過ごしていくんだろう。そんな疑問が脳裏を過ぎったが、そのことに対する答えは出なかった。だけど。
 音姫、由夢、アイシア、そして、さくら。義之は、みんなの顔を順番に見渡した。

「改めて、今年もよろしくな、みんな」

 この家族と一緒ならば、その日々はきっと、楽しいものになるだろう。
 それだけは間違いないと。
 そう、思えた。



戻る

上へ戻る