Fuss of White Day



「ん♪」

 露骨に要求するように目の前に差し出された手のひら。サファイアブルーの瞳は期待に満ちて、その頬は緩みに緩む。
 これ以上ないくらいの極上の微笑みだった。

「ん♪ ……じゃないですよ」

 朝一でのさくらの笑顔を前にして、義之は軽く肩をすくめた。

「なんですか、その笑顔は」
「へ? なんですかって、見ての通りだけど」
「そりゃまぁ……わかってますけど」

 わかっているけれども。
 贈り物があって当然。むしろ、ない方がおかしい。
 そう確信しきったある意味では横暴なこの微笑みはこの人らしいといえばそうなのだが、そのことに何か思うものがないわけではない。
 義之は一呼吸おくと、苦笑いしながらその差し出された手のひらの上に丁寧に包装された小箱を渡した。

「はい。先月はどうも、ありがとうございました」
「にゃはは、ありがと〜、義之くん!」

 金色のツインテールが嬉しそうに跳ねる。
 そんな自分の保護者の笑顔を見ながら、義之はやれやれ、と楽しげに苦笑いした。
 朝の日差しが差し込む縁側での穏やかな光景。初春の返礼祭。
 それを、

「うー……!」

 恨めしげに盗み見ている人間がいることには義之もさくらも気づかなかった。


「はぁ……」

 アイシアは茶碗をコタツの上に置くと、息をはいた。
 朝からなんだか気分が乗らない。いや、原因はわかっている。
 居間のどの位置からも見やすいよう奥の位置にある液晶テレビに映し出された朝のニュースバラエティーを眺める。番組は昨日、熱愛が発覚したとある俳優のカップルのことを取り上げていた。
 カップルが揃っての記者会見の映像が流れ、記者たちのに質問に、俳優2人はそわそわとした様子で答えていく。ドラマや映画の中での堂々たる演技はどうしたんだ、と言いたいくらいの初々しさだった。そんな初々しい2人を見ていると、自分と恋人である彼の姿が重なる……と言いたいところだったが。

「……くっ、さくらめ」

 アイシアの脳裏に浮かんだのは、朝の2人の姿だった。

「もー、義之くんったら……奥さんを差し置いてなにやってるのよ」

 朝一番。目が覚めると同時に愛しの恋人のところに行ったアイシアだったが、そこで彼女が見たのは、その恋人がにっくき姑にプレゼントを渡している場面だった。
 いきなりプレゼントを渡すという脈絡のなさ。一体、なんだというのか。
 軽く憤慨しながら、睨むようにしてテレビを見る。記者会見での俳優2人はなんとも仲が良さそうだった。

「うー……」

 そう。なによりも気に入らないのはそこだ。朝の義之とさくらはなんとも仲が良さげで、それこそ、彼の恋人であるはずの自分が入ることすらためらわれるくらいだった。そのことが一番、アイシアを不愉快にする。
 しかし、それを追求する事は出来ない。
 追求しようかと思っているうちに義之は学園に行ってしまった。学園長であるさくらもまた同じように学園に行き、隣家の姉妹も義之と一緒に登校しており、アイシアは1人、芳乃家に取り残される形になってしまった。
 残ったのは、登校直前に義之が淹れてくれたこの緑茶だけだ。
 アイシアは両手で茶碗を掴む。漂う茶葉の香りに強張っていた感情が少しだけ緩んでいくことを感じながら、それに若干の傾斜をかけて、口元に運んだ。
 もう暦の上では春といっていい季節とはいえ、まだまだ冬の寒さが残っており、特に朝は寒い。そんな朝の寒さに震える身体にとって、この喉を落ちる緑茶の熱はありがたかいものだった。

「んー……行っちゃおうかなー、学園……」

 普段なら、こうやってテレビでも見ながら、大人しく留守番をしているところなのだが、今日という日にあってそれは我慢がならない。
 朝は結局、訊ねることができなかったが、あのプレゼントは一体なんだったのか、自分には訊く権利がある。
 学校が終わって、彼が家に帰って来るのなど、待ってはいられない。

「うん♪ 行っちゃおう、風見学園!」

 アイシアは自分に言い聞かせるように呟くと、コタツから足を抜き、立ち上がった。1度、そうだ、と決めてしまえば、それはこれ以上ないくらいの妙案に思えた。
 善は急げ、とばかりにアイシアは音をたてて居間を出ると、そのまま、玄関口へと駆ける。テレビが点けっぱなしになっていることは完全に忘れていた。
 テレビの中では記者会見の中継は一時中断し、丁度、CMに入ったところであり、

 ――恋の返礼祭、ハッピー・ホワイトデー・キャンペーン♪

 映し出されたCMからそんな言葉が流れたが、それがアイシアの耳に届く事は無かった。


 初音島の中心に位置する風見学園への道のりは近いとはいえないが、そう遠い距離でもない。
 昔からある住宅街を抜けて行き、桜公園を横手に見ながら桜並木に入り、そのまま道沿いに沿って歩いていけば、その姿が見えてくる。
 ――風見学園。
 そう書かれた看板の隣、すなわち、正門の前に立ったアイシアは学園の様子に違和感を覚えた。

(あれ?)

 妙に静かだと思ってしまうのは、グランドを誰も使っていないからだろうか? 加えて単に静かというだけではなく、校舎の中から純粋に人気というものが感じられないのだ。
 誰にも呼び止められなかったのでそのまま正門から入ってみると、それ以外にも奇妙なことはあった。正門から昇降口まで向かう通路の所々に露店のような物が見える。
 露店ではなく、『のようなもの』だ。テントが組みたて途中の物もあれば、テントは組みあがっていても中には何も置かれていないもの。テントも何もなく、ただ折りたたまれたテーブルとパイプ椅子が置かれているだけだったり。
 祭の準備中。
 そんな言葉がアイシアの脳裏を過ぎる。
 昇降口までやってきたが、やはり、人の気配はない。中を除いてみれば、下駄箱は使用されているようで、今日、この学園に生徒たちが登校してきたというのは間違いなさそうだが、これは一体どういうことだろうか?
 アイシアは不思議に思っているときだった。

「ちょっと、貴方。何をやってるの」

 急に飛んできた、声。思わず身体がびくりと反応する。
 足音が響き、その声の主と思われる女性が傍に寄ってくる。その女性は眼鏡のレンズの奥にある瞳を不審そうに細めながら、アイシアを見た。

「うちの生徒……ってわけじゃなさそうね」

 あちゃー、と思った。ここの制服を着てくるべきだった。アイシアは後悔したが、それはもう後の祭りだった。第一、仮に制服を着てきても誤魔化せるとは限らない。

「え、えと……あの……」

 養護教諭だろうか? 白衣に身を纏ったその姿は普通の教師には見えない。そして、何故かアイシアは彼女の顔に見覚えがあるような気がした。

「うちは自由な校風で知られてるけど、流石に教師でも生徒でも関係者でもない人間が自由に立ち入れるほどフリーダムじゃないわよ?」

 ピシャリ、と言い放たれる。こう言われてしまっては返す言葉も何もなかった。

「あ、はい。す、すみません……」

 アッシュブロンドの髪を揺らして、アイシアは頭を下げた。
 怒られる、きっと、怒られる……。胸の中が不安で染まっていく。しかし、そんなアイシアに眼鏡の女性教師はフッと、笑いかけた。

「さては日を間違えたわね」
「え?」

 アイシアの口から思わず、素っ頓狂な声がもれる。日を間違えた?

「うちの名物行事、卒パは明日よ。お嬢さん」
「え、え? 卒パ? どういうこと……ですか?」
「あれ?」

 今度は教師の方が不思議そうな声をもらす。

「あら、貴方。卒パを見に来たんじゃないの? うちの卒業式とその後のパーティー……卒パは明日だから、出直しておいで、って言おうと思ったんだけど」

 困ったような教師の言葉を聞きながら、アイシアの頭の中に徐々に思い浮かぶものがあった。
 そういえば、そうだ。義之の通う風見学園は、他の多くの学校がそうであるように3月上旬の今、丁度、卒業式のシーズンを迎えている。お祭り好きの風見学園は学園祭を年に何回も行うのだが、その中でもクリスマスに行われる『クリパ』と並んで特に規模が大きなお祭り、それが『卒パ』だ。
 文字通り、卒業式の後に行われるそのお祭り。ここ最近は毎晩のように、義之やさくら、朝倉姉妹の間では楽しみだ、と卒パへの期待感の滲み出た会話のやり取りがあったし、自分にも聞かされた。

「あ、は、はい! 知ってるよ……じゃなくて、知ってます、卒パ! だって、あたしはここの……じゃなくて、義之くんから聞いていたから」

 自分はここに通っていたことがあるから、卒パという行事があることは知っている。そう言おうとしたがすんでのところで踏みとどまった。
 事実ではあるが、それを言えば、またいらぬ説明の手間がかかることは間違いない。
 それなら人から聞いた、ということにしておいた方がずっといい。

「義之くん? それって、桜内義之くん?」

 驚いたような声。どうやら、この教師は義之のことを知っているようだった。

「はい! 桜内義之くん! あたしの旦那様です♪」

 思わぬところから出た愛しい人の名前に、アイシアの頬が緩む。喜色に満ちた声でそう言い切った。
 教師はアイシアの言葉を一瞬、何を言ったのか理解できていない風だったが、数テンポ遅れて、

「あらあら。隅におけない男ってのはわかっていたけど、あの桜内くんにこんな可愛いお嫁さんがいたなんてね……」

 と肩をすくめた。
 『お嫁さん』。そう呼ばれて、悪い気はしない。アイシアはますます上機嫌になった。

「そうそう♪ あたしは義之くんのお嫁さんなんです。それで、今日ちょっと、義之くん、忘れ物をしちゃって。その忘れ物を届けにきたんですけど……いま、どこにいるのかわかりますか?」
「ああ。桜内くんなら体育館……っていうか、今、明日の卒業式のリハーサルをやっててね。生徒は全員体育館なんだ」

 なるほど、とアイシアは納得した。だから校舎からもグランドからも人気が感じられなかったのか。
 しかし、リハーサル中となれば彼と会うことは多分、できないだろう。それくらいはアイシアにもわかった。

「何時くらいに終わりますか?」
「うーん、卒業式のリハーサル自体はあと30分もすれば終わると思うけど……しばらくは桜内くんとは会えないと思うわよ」
「え?」
「だって、その後、明日の卒パの準備があるから」

 そう言って、彼女は昇降口の外を示した。

「ほら、外にあったでしょ。組み立て途中のテントとか。生徒たちはあれを完成させないと」
「そうですか……それじゃあ」

 しょぼんと肩が落ちる。
 せっかく、ここまで来たものの、素直に出直した方がよさそうだった。彼には聞きたいことがあるが、だからといって、仕事の邪魔をするわけにはいかない。
 出直してきます。
 そう言って、向き直ろうとした時だった。脳裏にハッと閃いたことがあった。

「あ……さくらは?」
「え?」

 教師の目が丸くなる。それこそ『義之』の名を聞いた時とは比較にならないくらいに。

「さくらって……学園長のこと?」
「はい! 芳乃さくら!」
「貴方、学園長とも知り合いなの」

 いぶかしむような声。それはアイシアがさくらと知り合いだということを疑うような響きだったが。

「あ、いや……桜内くんと知り合いなら、当然か」

 暫くして、そうひとりごちた。
 それで納得したのか、教師は警戒の色を消して、笑みを浮かべる。

「うん。学園長もたしか卒業式のリハーサルに参加してるはずよ」
「う、そうですか……」

 考えてみれば、当たり前だ。学園長が出なければ卒業式にならないではないか。
 アイシアがガックリとうなだれたのを見て、教師は慌てて「けど」と続けた。

「リハーサルが終わった後はしばらくは学園長に予定はないと思うわ。午後は一緒にお茶しない? とか私を誘ったくらいだし」
「本当ですか!?」
「ええ」

 それなら、大丈夫だ。お茶をするくらい余裕があるのなら、朝のことを問い詰める時間は充分にある。

「それじゃあ、30分待って、さくらのところに行って来ます♪ どうも、ありがとうございました〜」

 ピッとアイシアは左手を額の上に掲げて敬礼のようなポーズを取ると、そのまま、向きを変えて、昇降口から出ようとした。そのところで。

「あー、ちょっと待ちなさい」

 思い出したかのような教師の声につかまれた。

「部外者がうろちょろするのはやっぱ、まずいのよね」
「あ……やっぱりー……」

 冷や汗が垂れ、アイシアは苦笑いを浮かべる。誤魔化して行こうかと思ったが、そうはいかないようだった。
 どうしようかと思っていると、目の前に何かを突き出された。なんだろう、とそれを手に取ると。

「来客証明よ。それを首からさげときなさい」

 そう言って、レンズの奥の瞳がアイシアに向かってやさしげにウインクをした。

「ま、学園長の知り合いなら、オッケーでしょ。来客扱いで」
「あ、ありがとう! ……じゃなくて、ありがとうございます!」

 大げさに頭を下げるアイシアに対して、教師は穏やかな笑みを浮かべると、足音を響かせその場から去っていた。



 卒業式のリハーサルは滞りなく終了した。
 学園長として風見学園に勤めてから日が長いさくらにとっては毎年恒例の行事であり、最早、手順を確認するまでもないことだが、やはり卒業式があると初めて春がやってきた、という気分になる。
 そのほとんどが本校に進級する付属の3年生たちはともかく、本校の3年生たちにとってはこれは本当に本当の卒業であり、彼らはこの春をもって、風見学園から巣立っていくことになる。それが嬉しくもあり、寂しくもあった。
 そんなことを思いながら、リハーサルを終えた生徒たちの横顔を眺めていた時だった。さくらが不審者の姿を見つけたのは。

「あれは……?」

 生徒たちの隙間を縫うようにして歩く不審な影。手近なところにある柱だの、草むらだのの影にその身を隠しながら、少しずつ移動していく、その不審者は誰かを探しているのか、視線はきょろきょろとあちらこちらを行ったり来たりで一貫しない。

「…………何やってんだろ」

 さくらは肩をすくめると、足早にその不審者の下へと駆け寄った。

「ね、アイシア、こんなとこで何してるの?」
「ひゃっ!?」

 その不審者――アイシアは自分に声がかけられたと知るや、小柄な身体をびくりと震わせた。

「って、さくら! 驚かせないでよ」

 しかし、声の主がさくらと知るとふてぶてしくも向き直り、怒ったように頬を膨らませる。

「にゃはは、それはボクのセリフだけどね。まさか、学園でアイシアの姿を見るなんて」
「けど、ちょうどよかった。さくらのこと、探してたんだ」
「ボクを?」

 なんでこんなところにいるのか、という疑問は一時的に棚に上げておくとして、自分を探していた?
 嬉々に染まるルビー色の瞳を見ながら、さくらはいぶかしんだ。

「義之くんじゃなくて?」

 その言葉にアイシアは肩を落とす。

「ううー、できることならあたしも義之くんがいいよー。けど、義之くんはこれから仕事があるんでしょ?」
「丁度、あそこにいるけど?」

 へ? とアイシアの顔が拍子抜けしたように緩んだかと思いきや、一転。さくらの指差した方角をすさまじい勢いで振り向く。
 さくらの指し示す先、そこにあったのは桜内義之と、生徒会副会長・高坂まゆきの姿だった。





「やっぱり手伝わないとだめですか?」

 ダメモトで義之は言ってみた。
 相手は鬼の副長と恐れられる風見学園の生徒会副会長、高坂まゆきだ。自分の提案など、一刀のもとに無慈悲にも切り捨てられる、ということはわかっていたが、言わずにはいられなかった。
 しかし、案の定。

「だーめー」

 まゆきは爽やかな笑顔で、義之の言葉を一蹴した。

「弟くん。冬のスキー合宿にはしっかり参加しておいて、卒パの手伝いを抜けようなんてのは虫が良すぎると思わない?」

 そう言ってすごむ彼女の言葉は事実だ。事実なのだが。

「しっかり参加しておいてって言われても。あれは半ば無理矢理……」
「ムリヤリでもなんでも、楽しんだんでしょ?」
「そりゃ、楽しみましたけど」

 年末年始に生徒会が行ったスキー合宿。当人の意思はともかく、それに義之が参加したことは曲げようがない事実だった。
 仮に、参加させた理由の1つに『卒パを手伝わせるための口実を作る』ことがあったにせよ、冬の山々でのスキー旅行を存分にエンジョイした。そのことに違いはない。

「……これっきりですからね」

 諦めたように義之は呟いた。

「ま、そう言わずにさー、今後も助っ人として手伝ってよ。あたしも音姫も来年は3年生。色々と忙しくなると思うし」

 そうは言われても、生徒会の仕事というものはやはり性にあってない、と思う。どちらかと言えば自分は取り締まるよりも、取り締まられる側の方がしっくりくる。
 が、まがりなりにも先輩に、こう真正面から要求されてしまってはきっぱり断るという行為もなかなか難しい。
 結局、義之は無難な答えをしてしまうのだった。それが後々に尾をひくことになる、というのは自分でも薄々わかっているが。

「……考えときますよ」

 オッケー、と言って笑うまゆき。
 彼女の真意を義之が測りかねていた時、1つの声が間に割り込んだ。

「高坂先輩。そろそろお時間ですよ」
「ん、エリカ。了解了解〜」

 声は付属1年生、エリカ・ムラサキのものだった。彼女は昨年の年末に学園に転入してきて、すぐに臨時の手伝いとして生徒会にやって来た身だ。生徒会に所属してから、まだ日は浅いがすっかりまゆきの右腕としての仕事ぶりが板についてきている。
 エリカはまゆきを見た後、視線を義之に向けた。その眼光は鋭い。

「桜内。貴方、また余計なことを言って、先輩の手を煩わせていたのね」
「違うっての」

 うんざりしたような声を聞きながら、うんざりする。彼女の中で自分の株価が極端に低いことはわかっているが、こうストレートに嫌悪感をぶつけられるのはなかなか馴れない。

「先輩。こんな下種の相手をしていては時間が勿体ないです。早く行きましょう」
「オッケー。んじゃ、音姫のとこに行こっか」

 生徒会長の朝倉音姫の懐刀である副会長のまゆきと、その副会長の懐刀であるエリカは踵をそろえて歩き出そうとする。その背に義之は声をかけた。

「あ、ちょっと、待って」
「何? 弟くん」
「貴方に付き合っている時間はないと言ったはずですが」
「ま、そう言わずに。2人に渡すものがあるんだ、丁度いい機会だからさ」

 そう言って、義之は懐に入れていたとある物を取り出した。卒業式のリハーサルの後には生徒会での仕事があると聞いていたので、鞄から学ランの内ポケットへと移しておいたものだ。

「はい。これ1ヵ月前のお返し」

 義之が差し出した小包みを見て、エリカはきょとんとした顔をしたが、まゆきの方はすぐに察したらしく、ああ、という顔になる。

「そういえば、今日だったわね。ありがと、弟くん。ありがたくもらっとくわ」
「? 高坂先輩、これは一体どういう?」

 義之からその小包みを受け取るとまるでトロフィーかなにかのように掲げてみせるまゆき。一方でエリカの方はつき返すということはなかったものの、爆弾か何かだとでも思っているのか小包みを表・裏と何度も裏返しては訝しげに見つめる。

「桜内、貴方が私にプレゼントなんて、何を企んでるの?」
「企むもなにも、ホワイトデーだからさ。なんだかんだでお前からも一応貰っていたからな」
「ホワイトデー?」

 ホワイトデー。その言葉に不思議そうにエリカはオウム返した。





「うううう……!」

 隣から漏れ聞こえるうめき声にさくらは碧い瞳を瞬いた。

「よ〜し〜ゆ〜き〜く〜ん〜め〜!」

 見れば、アイシアが紅い瞳を怒りに染めて、今にも噛み付かんばかりの殺気の篭もった視線を義之の方へと送っている。

(???)

 さくらにはそんな彼女のことが理解できなかった。義之くんが、どうしたというのだろう。
 遠目に盗み見ている立場ゆえに詳しくはわからないが、義之が生徒会の2人に何か小箱のような物を手渡しているのはさくらにもわかった。おそらくはホワイトデーのお返しだろう。
 けれど、わからない。

「アイシア、どうしたのさ?」

 単純にホワイトデーということで、先月のお返しをしているだけだと言うのに何故、アイシアはここまで機嫌を損ねてしまっているのか。まさか、ホワイトデーだと言えども、自分以外の人間にお返しをするな、なんていう独占欲に溢れた要求でもあるのだろうか。
 そんなことを思いながら、アイシアに耳打ちをする。

「なんで女の子にプレゼントを渡しているのよ〜」
「なんでって? そんなの、決まってるじゃない」

 何を言っているのか。さっぱり理解できない。
 そのために少し小馬鹿にしたような口調になってしまったのか、アイシアは怒ったような目でさくらの方を向いた。

「決まってるって? 恋人であるあたしという存在がありながら、他の女の子にプレゼントを渡す理由がどこにあるのよ!」

 わなわなと肩を震わせて、アイシアは言い放つ。その様子にさくらはハッとした。まさか。

(……知らないの? ホワイトデーってこと)

 理解した上で、それでも自分以外の人間にプレゼントを渡すということが気に入らない……というわけではなさそうだった。
 今日がホワイトデーということを忘れてしまっているのか。あるいは『ホワイトデー』というものの存在自体を知らないのか。
 そういえば、たしかホワイトデーというものは世界の中でほとんど日本だけの局地的行事だったはずだ。
 バレンタインデーも、日本独自の行事と化してしまっている感はあるものの、あの祭典は一応、元となるネタはあるし、2月14日は贈り物をする日という認識は海外にもある。女性から男性への一方通行で、しかもほとんど贈り物がチョコレート限定なのは日本だけだが。
 だが、ホワイトデーに至っては元ネタもなにもない。言い方は悪いが、日本のお菓子メーカーが利益のために生み出したお祭りだ。
 元々、北欧の出身であり、さらについこの間まで世界を旅して回っていたアイシアが知らなかったとしてもなんら不思議ではない。

(なるほどねー)

 さくらの頬が楽しげに歪む。
 彼女はきっと義之が浮気でもしていると誤解している。それはそうだろう。何の脈絡もなく(と思い込んでいる)、愛しの男性が自分以外の女にプレゼントを渡している光景を見てしまえばそうも考える。

「ま、まさか、義之くん。う、浮気を……?」

 なら、教えてあげるべきだろう。真相を。真実を教えて誤解を解いてあげる。それが自分のすべき行動。
 ――それは、わかっているのだが。
 さくらはアイシアの耳元で囁いた。

「ひょっとして義之くん。アイシアに飽きちゃったのかもね♪」
「はぅあっ!」

 アイシアは派手に身体をのけぞらせた。

「そ、そんなことないもん! 義之くんはあたしに飽きたりしないもん!」
「にゃはは、どうかな? 義之くん、もてるからな〜」
「絶対ないもん!」

 胸倉を掴まれて、ゆすぶられる。
 しかし、それに構わず、さくらは続けた。

「義之くんもまだまだ若いし、ちょっと魔が差しても全然不思議じゃないよねー。まったく困った息子だなー」
「義之くんはあたしにぞっこんなんだもん! そんなの絶対にありえないんだからぁぁぁ!」

 本気で涙目になったアイシアの瞳を見ていれば、これ以上、騙しているのも悪いかな、と思う。
 もうちょっと、からかってもいたいが、そろそろ種明かしにしよう。さくらはそう考え、真相を告げようとした。

「にゃはは、ここでネタばらし。実は今日はね……」
「うわーん! 義之くんの馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「ホワイトデーっていう日でね……って。あれ? アイシア?」

 呼び止める声も届かず、アイシアはそのまま生徒たちの間を掻き分けて、何処へと駆け抜けていってしまった。後にはさくらだけが1人残される。

「え、えーっと……」

 冷や汗が金髪に隠された額の上を流れることを感じる。
 どうしよう。アイシアは完全に勘違いをしてしまっている。しかも、その勘違いを助長させたのは自分だ。
 そう思えば、なんともいえない気まずさがあった。

「え、えっと、まぁ、後は若い人同士に任せるってことで……」

 別に誰も聞いてはいないのだが、言い訳をするように明るい声を出す。こういう声を指して白々しい声、というのかもしれない、とさくらは我が事ながら思った。
 けれど、あの2人なら多分、丸くおさまるだろう。なんていったって、2人は愛の絆で結ばれているんだから! …………多分。
 必死で自分に言い聞かせると、さくらはその場を後にした。

「にゃはははは……」

 渇いた笑いを、もらしながら。


 浮気。
 そんな嫌な単語が思考の中にまとわり付いて、離れない。
 勿論、さくらの言ったことなんて、信じてなんていない。しかし、状況証拠というものは無慈悲だった。
 あれから、首からさげている来客の証を盾に、義之のことを尾行してみたアイシアだったが、その行く先々で見たのは義之が女の子たちにプレゼントを渡して回る姿だった。
 生徒会の手伝いであちこちを回っている時、それが一段落ついたのか教室に戻る時、昼ごはんを食べている時。彼は知り合いと思わしき女性を見かけては何かを小包みのようなものを渡すのだ。

(義之くんは浮気なんてしないんだから……)

 浮気なんて言葉は信じない。信じたくない。しかし、となれば今、義之の行ってることは一体、何なのか。さっぱり、わからない。
 何か、プレゼントを渡す理由でもあるというのだろうか? そんなものは好意の証明以外には思い当たらない。まさか、今日、彼からプレゼントを受け取ったすべての子が誕生日などということはないだろうし。
 まるでサンタクロースのようにプレゼントを配って回る行為自体も気に入らなかったが、何よりも腹立たしいのは、大なり小なりの違いはあれども、義之からプレゼントを貰った女性は概ねが嬉しそうな顔をし、そして、そんな顔をして受け取ってもらえたことに、義之の方もまんざらでもなさそうなことだ。
 とくに理由もないのに恋人以外の女性にプレゼントを渡し、悦に入る。これは、浮気としか言いようがないではないか。
 それでも健気にアイシアは義之の後を追い続けた。もう明日の準備は終わったのか、義之は帰り支度を整えて、昇降口から出ようとするところだった

(あ! また……女の子)

 義之の前に1つの小柄な影。
 アイシアは下駄箱の影に自分の身を隠しながら、ルビー色の瞳で鋭く義之のことを睨んだ。





「げ」

 その姿を確認した瞬間、思わず義之の口から苦味に満ちた声がもれた。

「見つけたぞ! 桜内!」

 キン、と前方から声が響く。脳髄を刺激する声。スピーカーからハウリングしてくるようなその甲高い声の主は――。

「天枷……」

 牛柄の帽子に抑えられた外跳ね気味の短髪。風になびく真紅のマフラー。
 案の定、天枷美夏だった。

「桜内。杏先輩から聞いたぞ。今日は男子が女子に貢物をする日らしいな」
「…………」
「ということで、わざわざ貰いに来てやったぞ」

 脇を抜けようとしたその進路を塞ぐように美夏はサイドステップをすると、右手を義之の前に差し出した。
 ――――よ・こ・せ。
 広げられた手のひらにはそんな三文字が映っているかのようだった。義之は肩をすくめると、息を吐いた。

「あのなぁ、天枷。お前、なんか誤解してるだろ?」
「む? 何をだ?」
「ホワイトデーのことだよ」

 ほわいとでー? と美夏は義之の言葉を反芻する。

「ああ。そういえばそんな名前だったな、たしか」

 そして、うんうん、と頷く。
 脱力しそうになった義之だったが、こいつの中にある勘違いは正しておかなければならない、という使命感のような感情でなんとか気を取り直した。

「あのさ、杏からどれくらい聞いたんだ?」

 あの杏のことだ。意図的に美夏に愉快な誤解させるように仕向けてもおかしくはない。彼女は自分を盲信気味に慕う美夏のことは結構、猫可愛がりしているようにも見えるが、ジョークの1つや2つは一種の愛情表現、と考えているような曲者だ。
 そう思っての、美夏の事実認識の度合いを測るための質問だったのだが。

「どれくらいも何も。全部だ。今日が『ほわいとでー』という日で、1ヶ月前に女子が男子に貸した借りを返してもらう日だとな」

 意外にも変に間違った知識を仕込まれたわけではないようだった。

「それがどうした?」
「いや……」

 ホッとするような、拍子抜けするような。美夏は今日という日のことをよくわかっているようだ。
 しかし、それならそれで、新たな疑問が沸いて来る。

「俺。バレンタインにお前からチョコなんて貰ってないんだが……」

 そのことだった。
 何か勘違いをしていて――たとえば、今日は無条件で女子は男子に何かをもらえる日だとか――自分に請求に来ているのならまだしも、ホワイトデーとは1ヶ月前に先に女子の方からの『貸し』がなければ成り立たない日、ということを美夏はしっかりと認識している。だからこその疑問だった。
 義之の言葉に、美夏はムッと眉を吊り上げた。

「貴様! 何を言うか!? チョコなら、ちゃんとやっただろ!!」
「いや、全く記憶にないぞ」

 腕を組んで、少し考え込んでみたが、さっぱり思い出せない。

「チョコバナナをやったではないか! 2月14日に!」
「へ?」

 予想外の言葉に、気の抜けた声が口の端からもれる。チョコバナナ?

(あ、そういや……)

 そんなことがあったような気がする。2月14日の夕方。
 桜公園で1人チョコバナナをかじっていた彼女を偶然見かけて、話しかけてみると。

「もう腹いっぱいだ。後は貴様にくれてやる」

 とかなんとか言って、もう欠片と言ってもいい小ささになったチョコバナナを半ば強制的に手渡されたのだ。返す暇もなく、そのまま彼女は去ってしまい、捨てるのも忍びなかったので食べたが、まさか。

(あれがバレンタインのチョコのつもりだったのか……?)

 だとしたら。どうコメントすればいいものか。

「さぁ、桜内。お返しを寄越せ。仁義を大切にするのは貴様ら人間も同じだろう」

 そう言って、美夏は胸を張る。
 何故、そんなに偉そうなのか。何故、そんなに自信満々なのか。義之にはさっぱり理解できなかった。

(……まぁ、一応用意しておいてよかった)

 もしかしたら必要になるかもしれないと思い、一応彼女の分も用意しておいたのだ。義之は鞄に手を入れると、包装された小箱を取り出す。

「ほら、これ持って飼い主のとこに帰れ」

 義之が差し出した小箱を受け取ると、美夏は満足そうに頷いた。

「ふっ、それでいいのだ。……ん? 飼い主とはどういうことだ」
「いや、別に」

 なんでもないよ、わんこ。と口に出さず言う。
 変なヤツだな……と不審な眼差しを向けてきた美夏だったが、その目が何かを捉えてぱぁっと輝く。

「あ! 杏先輩! おーーい!」

 飼い主を見つけたようだった。
 昇降口に下りてきたばかりの杏は不思議そうに目を丸くしたが、すぐに察したのか。

「その様子だと義之から貰う物は頂戴できたみたいね」
「もらえたぞー! 本当にもらえたー!」

 スキップでもするように、下駄箱のところに駆け寄る美夏。尻尾があったら、きっとぶんぶんと振っているに違いない、とその後姿を見ながら、義之は思った。

「チョコをやった記憶がなくても、適当にいちゃもんつければもらえるって、杏先輩の言う通りだったぞ!」
「ま、義之だしね」

 義之は軽く肩を竦めた。

「いちゃもんだったのかよ……」

 やれやれだった。だからといって、返せ、というほど子供でもないが。

「ところで、美夏。義之。このあたりに誰かいたみたいだけど……知らない?」

 杏の言葉に義之と美夏は顔を見合わせた。

「下りてくる途中に素早く消えた影を見た気がしてね……」
「そうなのか? いや、俺は知らないぞ」
「美夏もだ」
「そう……?」

 義之と美夏の答えに杏は納得がいってない風だったが、すぐに自分の勘違いだと思いなおしたようだった。

「それじゃ、多分、気のせいね。見覚えのあるウェーブの髪を見た気がしたんだけど……」


 夕焼けに照らされた並木道をアイシアはとぼとぼと歩いていた。

「はぁ……」

 ため息は冬の寒さを残した気候にあたって白く染まる。昼の暖かい時間は過ぎて、これから夜にかけて気温は下がる一方だろう。
 西の空に沈んでいく夕日。その落日の光景はアイシアの今の気分を表しているようでもあった。
 挙動不審な動きをしていると、自覚はある。真紅のマフラーをつけた女の子に義之がプレゼントを渡している光景を見ている最中だった、階段を下りてくる人の気配を感じ、アイシアは中庭の方へと逃げたのだが、その後、これ以上、義之の後ろをつけまわす気にもならず、1人、帰路についた。しかし、かといって真っ直ぐに家 へと帰る気分でもなく、学園側の並木道の出口から入って、商店街、桜公園……とさまざまな場所を目的もなく周っては現在に至る。
 目の前にあるのは、風見学園の看板。わけのわからない徘徊の末に結局はここに戻ってきてしまった。

「まったくもー、義之くんったら浮気性なんだから……」

 呟いた言葉は虚しく暁色の空に消えていく。胸の中にすっぽり穴が開いてしまったかのようだった。そういえば、と気づく。今日はロクに彼と話をしていないことに。
 義之は健全な1学生だ。学校がある日にコミュニケーションの機会が少ないことは仕方がないことなのだが、今日はそれを考えてもあまり話せていない。

「朝は朝でさくらといちゃついてたし……」

 思い出しただけでも腹立たしい。
 義之が学園に行くまでの朝の時間は、あのにっくき姑に奪われた。そして、そのまま義之はさっさと学園に行ってしまい、紆余曲折の末になぜか、アイシアは1人、こうして目的もなくうろうろしている。おそらく義之はもうとっくに家に帰っていることだろう。
 そう、考えるとなんだか急にバカバカしくなった。

「…………帰ろ」

 帰って、そして、今日のことで思いっきり文句を言ってやろう。思いっきりふくれてやろう。義之くんを困らせてやろう。彼の手を煩わせていいのは、自分だけなのだ。

「デートの1回や2回くらいじゃ機嫌直してあげないんだから」

 そう思えば、不思議と少しだけ気分が晴れた。アイシアが身を翻し、今、歩いてきた道を戻ろうとしたところで、

「あれ、アイシアさん?」

 聞き覚えのある声に呼び止められた。

「え?」

 この声は……。ウェーブのかかったアッシュブロンドの髪をなびかせて、振り向き見る。そこにいたのはアイシアが居候している芳乃家のお隣さんであり、一種の好敵手の1人、朝倉音姫だった。

「こんな時間にどうしたんですか?」
「音姫ちゃんの方こそ」
「ああ、私は生徒会で」

 音姫の言葉にアイシアはハッとした。
 そうだ、彼女は風見学園の生徒会の長なのだ。卒業式と卒パを明日に控えた今日という日にあっては仕事は多いことこそあれど、少ないということはないだろう。

「こんな時間までお仕事……? 大変だね」

 気遣うようなアイシアの言葉に音姫はそうでもないですよ、と笑った。

「好きでやってることですから」
「偉いなぁ。今から帰るの?」

 それなら、一緒に帰ろうかな、と思っての問いかけだった。
 しかし、音姫は首を横に振る。

「いえ、まだあとちょっと仕事が残ってまして」
「うっひゃあ……」
「あはは。ですからそんな心配そうな顔をしないでください。私は大丈夫ですから」

 音姫は静かに笑う。大丈夫というのは、嘘ではなさそうだった。
 が、その表情に疲れの色がないわけでもない。若干だが、たしかに疲労の様子がうかがえる。

「うーん……」

 凄い。
 彼女への素朴な賞賛の声が胸の中から湧き上がる。
 多くの生徒たちが楽しく学園日々を過ごせるように身を粉にして働いている。彼女もまた同じように生徒という身分であるというのに。

「あ、ちょっと、いいですか?」

 音姫はそう言いながら、鞄を取り出した。なんだろう、と好奇心を惹かれ、アイシアは彼女の隣に身を寄せると背伸びをして、肩越しに鞄の中を覗き込もうとする。

「お菓子か何か?」
「えへへ……ちょっとお腹すいちゃいまして。休憩時間のうちに食べちゃおうかなぁ、って」

 推測は図星だったらしい。音姫は少しだけ恥ずかしそうに眉を下げると、鞄の中から小箱を取り出した。

「あはは、音姫ちゃん。食いしん坊〜」
「いいじゃないですか」音姫は少しだけムッとした。「それに、これは弟くんがプレゼントしてくれたものなんです。あまり放っておいて、痛ませたりするわけにはいきませんよ」
「なるほどー、義之くんがプレゼントしてくれたんだー……え?」

 音姫の笑顔につられるようにして、笑みを浮かべたアイシアだったが、その笑顔が凍りついた。

「そっかー、義之くん……音姫ちゃんにも、プレゼント、渡してたんだ……」

 忘れかけていた怒りの感情が蘇り、全身の神経を刺激する。

「あの浮気者め……色情魔め……あたしという者がいながらぁ……」

 わなわなと拳を震わせて、ぶっそうな言葉を呪詛のようにぶつぶつと述べるアイシアの様子に、ただごとではないと察したのか音姫が慌てたように口を開く。

「ア、アイシアさん……? ど、どうしたんですか?」
「いいよねー、音姫ちゃんやさくらは。義之くんからプレゼント貰えてー」

 気遣うような声に対し、アイシアは淡白な声を返した。

「あたしは何も貰ってないのに……」

 最後まで言い終わるのを待たずにため息がもれ、肩が落ちる。アイシアの言葉に音姫は唖然としたようだった。

「ええ!? 弟くん、アイシアさんにお返しを渡してないんですか?」

 お返し?

「うん……何も貰ってない。みんなは貰ってるみたいなのに……」

 聞きなれない単語に違和感を抱きつつもアイシアは頷いた。音姫は眉根を寄せて怒ったような顔をする。
 自分の悲しみを理解してくれる人がいる。その事実にアイシアは安心感でいっぱいになり、そして、義之への怒りもまたふつふつと沸騰していく。

「酷いですね」
「うん、酷いでしょ……」
「今日はホワイトデーなのに」
「うんうん、せっかくのホワイトデーなのに! ……ホワイトデー?」

 きょとんとした声がもれる。

「何、それ?」

 アイシアがルビーの瞳で音姫を見れば、音姫もまた「え?」と呆然としたような目をして、アイシアの方を見返した。


 芳乃さくらが家に帰ってきた時には時計の指し示す時刻はもう夜の10時を回っていた。

「たっだいまー!」

 少し近所迷惑かな、と思いつつも家中に響き渡るような大声を出して、廊下を進む。仕事の疲れはあったが、こうして家族が待ってくれている家に帰ってみればそれも吹き飛ぶ。障子を開き、意気揚々と居間に踏み入るも。

「あ、おかえりなさい。さくらさん……」
「………………」

 さくらを包んだのは和気藹々とした家族団欒の雰囲気……ではなく、氷のように張り詰めた空気だった。
 コタツに足を入れて、困ったように苦笑いする義之。そして、テレビの中に映し出されているニュース番組。ここまではいい。ここまでは。問題は――。
 チラ、とさくらは先ほどから威圧のオーラを発し続けている彼女の方を見た。

「……おかえり。さくら。何か用?」

 アイシアは身体の大部分をコタツの中に突っ込んでいて、唯一、コタツの外に出た頭が寝返りと共にこちらを向いた。冷ややかなルビー色の視線がさくらを射抜く。

「う、うにゃ……別になんでもないけど……」
「あっそ」
「…………」

 もう1度彼女は寝返りを打ち、ニュースの方を向く。
 さくらはとりあえず荷物を置くと、コタツ布団に、義之の左隣に入り、ひそひそ声で彼に訊ねた。

「ね、義之くん。あ、アレ、どうしたの?」
「ずっとあの調子なんです……」

 義之の言うところによると帰ってきてからずっとアイシアはこうなのだと言う。
 皆目見当がつかない、というように義之は首を振るが、さくらには心当たりがあった。

(あのことだよね……やっぱり)

 なんとも気まずい感じを覚えて、口元が苦笑いに歪む。
 アイシアが不機嫌なのは、おそらくは、自分のせいだ。

「あ、あのさー、アイシア」
「…………」

 やはり氷のようなルビー色の瞳。怖気づきつつも、さくらはやはり自分が彼女の誤解を解かなければならない、と自らを奮起させた。

「ひ、昼間のことなんだけどね……よ、義之くんは浮気なんてしてないよ」

 浮気、と聞いて義之の頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。

「ごめん、アイシアのことちょっとだけからかおうと思って……。今日はさ、ホワイトデーって言う日でね。多分、日本だけの風習だと思うけど、バレンタインのお返しをしないといけない日なんだ。義之くんはそれで」
「知ってるもん」
「へ?」

 予想外の言葉にさくらの口がぽかんと開いた。

「1ヶ月前のチョコのお返しをして回ってたんでしょ。それくらい知ってるわよ。音姫ちゃんから聞いたから」
「そ、そう……」

 じゃあなんで? そう言って、さくらはアイシアと義之を交互に見た。義之がさあ、と言いかけた時、

「じゃあなんで? それはあたしのセリフよ!」

 アイシアが爆発した。
 震える義之とさくらの2人を横目にコタツの中から飛び出すと両の手を握り締め、頬を風船のようにぷっくり膨らませて、2人のことを――否、義之のことを睨む。

「義之くん! なんでこのあたしにお返しがないのよ! あたし、ちゃんと1ヶ月前にチョコ渡したよね?」

 怒っているというよりはどちらかといえば涙声といえる声。

「え、義之くんが他の女の子にプレゼントを渡していたから怒ってたんじゃないの……?」
「そっちはいいの……。あんまし、よくないけど……それよりも、どうしてあたしだけにプレゼントがないのよ!」

 まさか、渡していないのか? アイシアに渡すのを忘れている? さくらは驚いたように碧い瞳を丸くして、義之を見上げた。
 義之は暫くの沈黙の後、表情をしかめる。そして、

「うーん……」
「義之くん! ちゃんと、説明してよね! どうしてあたしには……」
「アイシアの部屋の枕の下」

 ぽつり、と。
 なんでもないことを言うかのように、呟いた。

「本当は自分で気付いてほしかったんだけどなぁ……」

 少しだけ残念そうに苦笑いする義之。その表情にさくらはああ、と納得した。


 最初は何を言われたのか、全くわかっていない風だったアイシアだが、すぐにハッとしたような顔になると、畳を蹴った。そして、ウェーブのかかったアッシュブロンドの髪を揺らして、居間から飛び出していった。
 義之はそんな彼女の姿を見送りながら、肩をすくめた。

「やれやれ……」

 隣を見れば、お疲れ様、と言うようにさくらが微笑みかけてくる。

「あはは、今日は大変だったね。みんなにプレゼント配ったり、アイシアに勘違いで拗ねられたり」
「まったくですよ」
「義之くん。もてるからなぁ〜。あ、朝のホワイトチョコ、すっごく美味しかったよ♪」
「そりゃよかったです」

 義之もまた笑った。
 その時、再び障子が開いた。

「あははは……さっきはごめんね、義之くん……。ホワイトデー、ありがとう!」

 見れば、そこには満面の笑みをたたえたアイシアの姿。その手には義之が夜中に彼女の部屋に忍び込んで、枕の下に置いておいたもの。ホワイトデーのお返しの品が握られていた。

「ったく、なんで気付かないんだよ。昨夜のうちから入れておいたのに」

 ちょっとしたサンタクロースのつもりだった。けれど、そのせいで言うに言えなくなってしまったのだ。
 義之の言葉にアイシアは答えず、代わりにえへへ、と笑った。

「夜から? ってことは、さくらより先なんだ?」
「ああ、まぁ」
「やったーーーーっ!! あたしが一番最初なんだ!」

 アイシアは両手で小箱を抱え上げると、その場で飛び跳ねた。
 そのまま、くるり、と一回転すると、さくらの方を見て、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「子供だなぁ」
「あはは、おかあさま。負け惜しみですかー」
「む……負け惜しみじゃないもん」

 ニコニコと笑ってアイシアは義之の右隣に入る。そして、その身体を思いっきり、密着させてきた。

「んっ♪」

 ご満悦、といった表情。自分の贈ったプレゼントでそんな顔をしてくれるのなら、義之としても嫌な気分はしない。義之も自然と表情を綻ばせた。

「むー……」

 左隣から聞こえるうめき声。何だろう、と思ってみれば、さくらが拗ねるように頬を膨らませていた。が、その怒ったような表情も一転、すぐに笑顔に変わると、

「えいっ♪」

 アイシアと同様にして、肌身を密着させてくる。
 両サイドから寄り掛かられる小さな身体の小さな感触。いい匂いがして、義之は自分の頬が赤くなることを感じた。

「さくらぁ……!」

 ムッとアイシアは唇を尖らせる。

「にゃはは、何か文句でも?」
「ちょっと、くっつきすぎじゃない?」
「アイシアにそのセリフを言う資格はないと思うけどなぁ」
「あたしは奥さんだからいいのです。お・か・あ・さ・ま」

 自分を間に挟んで、左から右、右から左へと2人のやり取りが交わされる。
 どうしたらいいものか、と思ったが、この姿勢では下手に肩をすくめるわけにもいかず、仕方が無く、義之は視線だけをうろうろとさせた。
 ただ、今日はこれ以上、気を揉む必要はないだろう。義之にはそう思えた。何故なら、文句を言っているようでありながら、アイシアの顔はどこか楽しげだったからだ。相当、上機嫌と見える。

「ま、今日は幸せ二等分ってことで♪」
「もぅ、しょうがないなぁ……」

 さくらの笑顔につられて、アイシアの顔に再び笑みが戻る。

「義之くん。ホワイトデー、本当にありがとね♪」
「ああ、ま、喜んでくれたのなら何より」

 アイシアはルビー色の瞳を嬉々一色に染めて、義之を見上げ、義之もまたそんな彼女の瞳を真正面から見つめ、笑った。
 冬も終わり、春の入り口に差し掛かった初音島。身を凍えさせる寒風が、暖かい春風に変わり、桜の木がその薄紅色の花を咲かせる、そんな恵みの季節を迎えて。
 芳乃家は、今日も平穏安泰だった。





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