透き通るような青の色を求めて、空を見上げてみても、視界に映るのはうんざりするような黒々とした灰色だけだった。分厚い雲が空一面を覆い、太陽の光を遮っているせいで昼間だというのにあたりは薄暗い。身体にまとわりつくような湿気と相まって、身も心も憂鬱な気分にさせられる。
 初音島の桜並木は相変わらず、この時期にしては多すぎる量の桜の花におおわれていたが、その薄紅色の花弁も、連日続いているこの天候の下ではどこか元気がないように見えた。

「いやな天気だなぁ」

 鬱々とした曇り空を眺めて、少年はため息をついた。
 130センチをようやく越えようかという小さな体躯には面倒くさそうに背負っているランドセルがよく似合う。子供らしく短く切りそろえた黒髪は跳ねることもなく綺麗に纏まっている。活発そうな顔たちながら、前髪の隙間からちらりとのぞく大きな黒い瞳から女性的な印象を受けるのはその目の周りを鋭く長いまつげが縁取っているせいだろう。
 子供ながらに端正、といっていい顔立ちだったが、生憎と現在はこの悪天候を前にくしゃりと崩れてしまっていた。拗ねるように瞳を細めているせいで、眉と眉の間に浅い皺が生まれ、不機嫌さがにじみでているかのように唇はへの字に結ばれている。
 少年はひとしきり空を見つめると、視界を正面に戻し、周囲にただよう湿気を払うかのように、右手に持っていた傘を振った。それは結構強い勢いで、驚いたのか隣を歩いていた少女が小さな悲鳴をあげる。

「義之! あぶないよー」

 少女は一瞬だけすくんだように足を止め、両肩を狭めて縮こまったが、すぐに元の肩幅に戻ると、不服そうに頬をふくらませて、少年を追った。背中にかけられた声に少年――桜内義之は軽く鼻をならす。

「別に当てたりしないって」
「それでもそんなことしちゃだめだよ。先生にも言われてるでしょ」

 うんざりしたように義之は再び眉をしかめると、足を止めて、声の方を振り向いた。そこには見るに見慣れた顔がある。
 義之とほとんど同じか、少し高い身長。明るい茶色の髪は控え目に短くまとめられているが、そんな中、一房だけが髪留めにとめられてチョコンと跳ねている。斜めに下がった眉と押しの弱そうな瞳は、なだらな肩とあわせて相変わらず気弱そうな印象を受けるが、今ばかりは怒ったように妙な迫力があった。

「なんで小恋がそんなこと言うのさ」
「友達が悪いことしてたら、注意するのが当たり前でしょ? それに、義之のお姉さんも同じこと言うと思うよ」
「う……」

 それを言われると、弱い。彼女の言う通り、多分、姉も自分が傘を振り回しているところを見れば、同じことを注意するだろう。
 普段から素行がいいとは決して言えない義之だが、姉の前では背筋ものびるし、「できる限りはいい子でいよう」と思う。姉を困らせたくないという思いも勿論あるが、それ以上に姉に怒られるのは苦手だった。
 ふてくされるようにして義之は目線をそらした。

「そこでお姉ちゃんを出すのはずるいよ、小恋」
「そうかな?」

 小首をかしげた幼馴染みにそうだよ、と心の中で呟く。

「でも、悪いことはだめだよ。やっぱり」
「傘ふりまわすくらいだれでもやってるよ」
「そ、そうだけど……みんながやってるからいいってわけじゃないでしょ?」

 さっき名前を出されたせいだろうか。叱り付けるように言う幼馴染みの姿が、姉の姿と重なって見える。なんとなく気まずい感じを覚えて、義之は頭を掻いた。

「あーもう、わかったよ。……ごめん。もうしません」

 そして、視線を向けることなく、ぶっきらぼうに言う。見なくても、彼女がどんな顔をしたかはわかる。大方、ホッとしたような笑顔になっているのだろう。

(小恋って、いつもおどおどしてるくせにたまにこうだから不思議だよなー)

 義之は横目でちらり、と幼馴染みの横顔を盗み見た。
 月島小恋。義之が小学校に入学した時に、一緒のクラスで隣の席だった少女。
 小学校に入ってから最初に話をした相手で、すぐに友達になった。それから何度かクラス替えがあったけれど違うクラスになったことはまだない。席替えはそれ以上の回数があったけど、不思議なことによく隣の席になる。隣ではなかったときも勿論あるが、それでも何故か近い位置だ。
 小恋は気弱な性格で、いつもおどおどしていて、自分の言いたいことをなかなか言えない。そのせいで男子たちにからかわれたり、いじめられたりすることもよくあったが、そのたびに義之は小恋を助けていた。
 それなのに、何故か時たま、こういう風になる。義之がしたことについて、はっきりとした口調で注意をしたり怒ったりすることがある。まるで、姉のように。

「……小恋ってたまにお姉ちゃんみたいになるよね」
「え?」

 義之が何気なく呟いた言葉に、小恋は驚いたようだった。

「そ……そうかな? ぜんぜん、違うと思うけど……」
「さっきの言い方とかお姉ちゃんそっくりだったよ。いつもそんな風ならいじめられたりしないのに」

 からかうようにそう言ったものの、そのことは義之にとっては本当に疑問だった。そう言われて、小恋は何かを考え込むように「うーん」と呟いたが、ややあって、気弱な笑みを浮かべた。
 その見ているだけでなんだか力が抜けてしまうような弱々しさは、さっきまでの調子とは全然、違う。いつものいじめられっ子、月島小恋だった。

「だ、だって、義之だし。ほら、義之はほかの男の子とはちがうから……」

 ほら、なんて言われて笑いかけられても、さっぱりわからない。なんで自分に対してできることを他の男子に対してできないんだろう、と義之はますます不思議に思った。

「ぼくも、男だけど?」
「そ、そういうことじゃなくて……」

 小首を傾げてたずねた義之の言葉にまた小恋が一段と慌てた様子になったときだった。冷たい感触が義之の頭の上で跳ねて、思わず声が出た。

「あ……」

 1つ、2つ。水滴が空から降ってきて、あっという間に雨になる。雲から舞い落ちた水の礫たちが舗装された道路やその脇に立ち並ぶ桜の木の花びらにぶつかって、跳ね返って音をたてる。
 義之は慌てて右手の傘から留め具を外すと、手早くそれを展開した。頭や服に雨がしみる不快な感触は消え、代わりにビニールの屋根が雨を跳ね返す音が間近に響く。雨はどちらかと言えば小雨で、傘さえさしておけば大丈夫そうだった。
 この分だとすぐに上がるかもしれない。そう思いながら歩き出そうと思った義之だったが、なんとなく嫌な予感がして幼馴染みの方を見た。

「小恋。傘は?」
「あ、あはは……」

 幼馴染みは困ったような笑顔を浮かべて、雨に打ちひしがれていた。

「忘れちゃったの?」
「そ、そういうわけじゃないんだけど……ほら、同じクラスのユミちゃんが忘れちゃったみたいだったから貸してあげたんだ。ユミちゃんの家、学校から遠いでしょ。雨降ってきたら大変だと思って……」

 苦笑いする小恋を前に義之は嘆息した。

「お人好しだなぁ。何回目だよ……それ」

 こんなことは一度や二度ではない。しっかり者の小恋は傘を忘れることなんてほとんどないのだが、一本しか持ってきてないのに傘を忘れた他のクラスメイトに貸したりして濡れ鼠になって帰る姿を何回か見ている。

「う、うう〜、そんなこと言わないでよぉ。義之のいじわる〜」

 いじわるも何も、事実じゃないか、と思ったが、涙目になった小恋にそれを言う気にもならなかったので何も言わなかった。
 そんなやりとりをしているうちに小雨、だと思っていたはずの雨は義之の予想に反して、どんどん勢いを増してきて、それを跳ね返すビニール傘にも小刻みに軽い衝撃が走る。小恋はどうしよう、と言うようにおどおどして、すがるような目線を向けてくる。その髪が徐々に雨水に染まっていくのを見て、義之はもう一度ため息をつくと傘を小恋の方へと差し出した。

「え?」

 小恋はきょとんとして義之を見返してくる。
 え? じゃないよ。と義之は内心で舌を打った。そして、ぶっきらぼうに言い放つ。

「ほら、さっさと入れよ。置いていっちゃうぞ」
「あ……えと、あいあいがさ、いいの?」

 小恋は金魚のように口をぱくぱくさせる。それがなぜか、義之にはわからなかった。

「いいよ、べつに」

 別に傘に一緒に入ることくらい気にしない。勿論、ひとりで傘を使うよりは濡れてしまうかもしれないけど、隣の小恋をほったらかしにして、ひとりだけで傘を使うということの方が気が引けた。
 ほら、と促すように傘を彼女の側にさらに寄せると、小恋はようやく傘の中に入ってきた。

「んじゃ、行くぞ」

 確認するように言って横目に小恋を見ると、彼女はなぜか頬を真っ赤にして、うつむいていて、義之はまた不思議な気分にさせられた。
 歩幅をあわせて歩き出したものの、小恋はそのままうつむきっぱなしで、義之もなんとなくおしゃべりする気分にもならなかったので、お互いに無言のまま、ひとつの傘の下を歩いた。その間も雨はどんどん激しくなってきて、小恋のいる右側に傘を差し出しているせいで左肩にはぽつぽつと水がかかってくる。こんなことなら子供用の小さな傘じゃなくて、大人用の傘を持ってくればよかったな、と義之は思った。

「なぁ、小恋。もっとくっつけよ」

 何気なく義之が呟いた言葉に小恋は「ふえ!?」と奇妙な声をあげた。見てみると、また金魚みたいに口をぱくぱくぱくぱく小刻みに動かして、目を丸くしている。
 どうしたんだろう? 義之は大きな黒い瞳を動かして、小恋を観察したが、そうやって様子を伺ってみても理由はさっぱりわからない。

「く、く、く……くっつくって……?」
「そう。もっと肩よせてよ」
「え、え、ええええ〜〜!!」

 また素っ頓狂な叫びがあがる。

「で、で、でも……義之……」
「くっつかないと、濡れちゃうだろ、雨に。小恋だって、濡れてるじゃん」
「そ、それは……そうだけど……で、でも、いいの?」
「なにが?」
「くっついても」

 顔を真っ赤にして言う幼馴染みの言葉がいまいち理解できない。いったいぜんたい。さっきからどうしちゃったんだろう?

「……小恋って、たまに変なこと言うよね」

 結局、義之には呆れたようにそう返すしかなかった。その馬鹿にした響きにムッとしたのか、小恋は怒ったように頬をふくらませる。

「わ、私が変なんじゃないもん! 義之がお子様すぎるんだよ〜!
「ぼくが子供? どうして?」
「男の子と女の子はあまりくっついたりしたらだめなのー!」

 一段と強い口調で言われて、義之は少しひるんだ。そういうものなんだろうか?

「そうかな?」
「そうだよ! くっついてもいいのは……そ、その、こいびとだけで……」

 首をかしげた義之に対して、小恋の返答は最初はハッキリとした声だったが、そこからどんどん尻すぼみに縮んでいってしまって、義之にはよく聞き取れなかった。

「よくわからないや」

 義之はそう言うと、小恋の方に身体を寄せた。肩と肩が接触し、小恋が小さく声をあげる。そうやってくっついてみれば、二人分の身体はうまい具合に傘の中に納まった。よし、これで雨に濡れずにすむ。

「さっさと帰ろうよ、小恋」

 義之が促すと、幼馴染みは赤い顔のままこくり、と小さく頭を下げて、頷くのだった。


「ごめんね、義之。ここまで来てもらって……」

 『月島』と表札のかけられた門の前に立って、申し訳なさそうに小恋はそう言った。
 義之の家と小恋の家は近いものの、完全に同じ方角にあるわけではない。学校からの帰り道の道中にどちらかの家があるわけではなく、途中で別れることになる。並木道を抜けたところにある十字路でいつもなら、また明日、と言って別れるところなのだが、そこについた時点ではまだ雨は降り続いており、結局、義之は遠回りになるものの小恋の家までやってきたのだった。

「別にいいよ。今日はみたいテレビもよみたいマンガもないし、宿題もないから」

 気にした風もなく、義之は笑った。

「うん、……ありがと。でも珍しいね。義之が傘持ってるなんて」

 思い出したようにくすり、と小恋が笑う。それを見て義之は緩んでいた口許をムッと結んだ。

「どういう意味だよ、それ」
「あはは……どういう意味って言われても」

 義之の一睨みもまるでこたえていないのか小恋は楽しそうに続ける。
 彼女が何を言いたいのかはわかっていた。普段からあまり天気予報を見ない義之は朝の時点で晴れていれば安心して、傘なんて持たずに学校にやってくる。そのせいで帰りにはずぶ濡れになることも珍しいことではない。特にこの梅雨の季節にあっては。

「でもそのおかげで助かっちゃった。本当にありがとう、義之」
「なんかしっくりこないなぁ……ま、いいけど」

 少しだけ納得がいかなかったものの、お礼の言葉は素直に受け取ることにした。

「それじゃ、また明日」
「うん。また明日ね」

 お互いに笑顔で挨拶を交わす。雨は随分とその勢いを弱めていた。この分だと近いうちにあがるだろう。明日は晴れるといいな。義之がそう思って、踵を返そうとしたときだった。

「…………」

 小恋がジッと自分のことを見ていることに気づく。その瞳は様子を伺っているようでもあり、どこか心配そうでもあった。お別れの挨拶はしたはずなのに、なんだろう?

「なに?」
「え!?」

 そんな風に見られることへの居心地の悪さからちょっと口調がトゲっぽくなってしまったかもしれない。声をかけられて、小恋は驚いたように声をあげたが、しかし、すぐに落ち着いたようで相変わらずの遠慮がちな態度ながら、気弱さを無理やり押し殺したような意思の強さを秘めた声を出す。

「ねぇ、義之」
「うん」

 これはまた説教かな、と義之は思った。何かやったっけ? 傘を振り回してからは、何もやっていないはずだけど。
 しかし、小恋の口から出たのは義之がまったく予想しないことだった。

「いきなりで、変なことかもしれないんだけど……」
「だからなんだってば」
「義之……調子、悪いの?」

 幼馴染みの不安そうな瞳に、胸の中を見透かされたような気がして、義之はどきり、とした。しかし、それを察されるのもいやだったのでぶっきらぼうに返す。

「調子悪いって? どういうこと?」
「うーん……なんていうかね、なんか、今日の義之。変っていうか、元気がないような気がして……」

 小恋はその後、気のせいかもしれないんだけど、と付け足した。おどおどした不安げな態度は、自分のことを気遣っているからだろうということは子供の義之にもわかった。小恋は自分に何かあったんじゃないかと心配で、不安なのだ。

「義之、ほんとに大丈夫?」

 すべてを見透かされてしまっているような錯覚に義之は思わず言葉を失った。しかし。

「何が心配なのかは知らないけど、ぼくは別になにもないよ」

 平坦な声を返す。そうして、気軽な口調で続けた。

「気のせい、気のせい。いつもどおりさ」
「そうかな? なら、いいんだけど……」
「まったく。小恋は心配性だなー」

 馬鹿にするようにけらけらと軽い笑い声をあげると、小恋はムッとしたように眉を寄せた。

「そ、そんな言い方はないでしょ! わたしは義之が心配で……」
「ああ、わかってるって。ありがと、小恋。でも、ぼくは大丈夫。なんともないから」

 大丈夫、大丈夫。と繰り返して言う義之にようやく安心したのか、小恋の顔色からは安堵の色を見ることができた。
 それを確認して義之は片腕をあげた。

「それじゃ、今度こそまたな、小恋!」
「うん。明日、学校で」

 お互いに手を振って、別れる。笑顔でのさよなら。義之と小恋の間で、小学校に入学したときから、今に至るまで、繰り返されてきたことだ。
 それだけに。

(……普段はどんくさいのに、変なところでするどい……)

 幼馴染みは気づいてるかもしれない。そう思いながら、義之は月島家を後にした。


 夏の天気は変わりやすいと、あの人は言っていたけれど、まったくもってそのとおりだと義之は思った。小恋の家から出て、しばらく歩いたあとには雨はすっかりあがっていた。もっとも、空を分厚い雨雲が覆い続けている以上、いつまた降り出してもおかしくはない。
 義之はぐっしょりと雨水の染み込んだ傘から水気を払うために、何度か広げたりとじたりしてみて、その後、傘を完全にたたむと、それをベンチの端にかけて、ランドセルを肩から下ろした。
 まだ水が乾ききっていないベンチに自らも腰掛けて、あたりを見回せば、たっぷりと雨水をあびて、少しだけしおれた風になっている薄紅色の花びらが嫌でも目に入る。立ち並んだ桜の木。中央にある大きな噴水。ここは桜公園だ。
 小恋と別れてから真っ直ぐに家に帰るような気分でもなく、ふらふらしているうちにたどり着いてしまった。
 背もたれに思いっきり体重をかけて、息をはく。自分でもだらしない姿だってことはわかっている。姉に見つかれば、「おじいちゃんや由夢ちゃんじゃないんだから」なんて小言を言われるだろう。

「小恋のヤツ、心配性なんだから……」

 ぽつり、と口から出た言葉は、どこか自嘲めいた響きを帯びていた。そうして、ランドセルを開き、一枚のプリントを取り出す。今日の朝に学校でもらったプリントだ。
 ランドセルの耐水性はたいしたもので、中に裸で入れておいたわら半紙が濡れることもない。だから、そこに書かれた文字が読めなくなることもなく、こうして広げてみれば、いやみなまでにデカデカと印刷されたタイトルが当然のように視界の中央を占める。

 ――――授業参観のお知らせ

「授業参観かぁ」

 誰に向けることもなく、義之は呟いた。このプリントは当然、同じクラスの小恋も今日、もらっている。今は隣の席だから、そのときの自分の顔もひょっとしたら見られていたのかもしれない。
 さっきはあんな遠まわしな言葉で聞いてきたけど、実は小恋はすべてわかってるんじゃないだろうか、と義之は思った。それでも、それを直接的に言うのは自分に悪いと思って、だからといって落ち込んでいる自分をほうっておくこともできずにあんな風な聞き方になった。なんとなく、そんな気がする。

「ま、別に気にしてるわけじゃないんだけどね」

 そう言って、一人で笑ってみる。桜公園には義之以外には人はおらず、雨の臭いがまだ色濃く残った空気の中、どことなく笑い声は虚しく響いた。
 そうしていると、視界の片隅に青い花が見えた。桜の木々が堂々と立ち並び、その薄紅色の花を満開に咲かせるこの公園の中で少しだけ肩身が狭そうに花壇の中に生えているその花は。

「でもやっぱり、誰も来てくれないのは……ちょっとだけいや、かな」

 紫陽花の花が滴を落とす。義之はいまだ雲に覆われたままの空を見上げて、ため息をついた。


 誰かに呼ばれたような気がして、芳乃さくらはあたりを見渡した。
 放課後の時間帯、風見学園の食堂はお昼時の喧騒が嘘のように人気がなく、まばらに生徒達の姿が見えるだけだ。そして、その数少ない利用者たちも、数人のグループでのおしゃべりに夢中で自分のことなど気にかけている様子はない。
 気のせいだろう。そう思い、さくらはテーブルに向き直った。
 テーブルの上にはチーズケーキと紅茶が並んでいる。風見学園の食堂は放課後にはお昼時とは打って変わり、がらりと趣を変え、一種の喫茶店のようになる。お茶とお菓子をメインに取り扱い、意外と豊富なメニューを取りそろえている。味も悪くなく、値段も良心的だ。女子生徒たちも同じことを言っていたので多分、さくら自身の身内贔屓が入った評価ではないと思う。
 さくらはここを気に入っていた。学園での業務の傍ら、時間があいた時や、息抜きをしたいときにはよく利用させてもらっている。学園の外を散歩したりするのも嫌いではないし、外の喫茶店などを利用することだって勿論あるが、ここにいれば生徒たちの姿を間近で見ることができる。
 ちらり、と再び食堂を見渡す。やはり、女子生徒が多い。間近にひかえた期末テストのことだとか、そのさらにあとの夏休みのことだとか、あるいはもっと身近な今週の休日のことだとか。話している内容はまちまちだったが、みんな一様に楽しそうな顔をしていて、学園生活を満喫していることが見て取れた。
 他の教師たちはどうかは知らないが、さくらにとってはやはり、生徒たちのそういった姿を見ることが何よりの喜びで、自然と口許も緩む。

「それにしても、舞佳ちゃんが卒業してからさびしくなっちゃったなぁ」

 ティーカップを手に取りながら、さくらはかつての教え子の名を呟いた。
 この学園において、生徒たちとは概ね良好な関係を築いていると思っているが、かつての教え子である彼女のように極端に仲の良い生徒というのは今の世代にはいない。この場で一緒にお茶を飲んで他愛のない話をしたり、学園長室に招待して鍋を食べたりといった行為ができるほど気心の知れた生徒は。
 どの生徒たちも自分には好意的に接してくれてはいるが、やはりそこには生徒と教師との立場の違いによる線引きを感じる。舞佳ちゃんみたいに、自分に対して遠慮もなく接してくるのはやっぱり少数派なんだろうな、と思う。それをどこかさびしく感じてしまうのは自分のわがままだろうか?

(ま、それが教師って職業だよね)

 仲の良い生徒ができてもいずれは別れのときがやってくる。教師は辞職しないかぎり、教師であり続けられるが、学生は時が来れば学生ではなくなるのだから。
 ぼんやりと窓を眺めながら、彼女の卒業式のことを思い出す。桜の季節、卒業証書を手に学園を去る舞佳をさくらは笑顔で送り出し、舞佳もまた、そんなさくらに笑顔……というより相変わらずの不遜不敵な笑みでこう返したのだ。

「今度は教師として風見学園に戻ってきますから。そのときはまた面倒かけますよ、学園長」

 そんなどこまで本気かわからない別れの言葉。ロボット研究に携わる職業に就きたいと夢を語り、ロボット工学を専攻する大学への進学も決定した身で何を言うのやら、と話半分に聞いておいたが、本当に戻ってきてくれると嬉しいな、と淡い期待を抱いてしまうものだった。

(うーん、ボクってやっぱりさびしがり屋さん、かも)

 自嘲の思いに苦笑いしながら、紅茶をすする。そんな風に窓を眺めていると、ふと気付いたことがあった。相変わらず空は気落ちするような黒い雲に覆われているが、いつの間にか降り出した雨は、いつの間にかあがっていたようだ。本当にこの季節の天気は移り気だ。

「義之くんたち、大丈夫かな?」

 雨にあっていなければいいけど、と思いながら時計を見る。ついこの間、小学校に入学したばかりと思っていた彼らも、いまではもうすっかりランドセル姿も板についてきた。特に一番年長の音姫は高学年と呼ばれる年代だ。今は下校中か、あるいはもう家についた頃だろうか?
 さくらは義之、そして音姫と由夢の姉妹のことを少し心配し、そして、すぐに大丈夫だろう、と思い直した。

(大丈夫だよね、昨日。言っておいたし……)

 昨晩のことだ。さくらは朝倉家に招かれて夕食をごちそうになったのだが、その際にさくらは子供たちに「この季節の天気は変わりやすいから、朝は晴れてても傘を持って行った方がいいよ」と声をかけておいた。
 義之はヤンチャだが、素直な子だから言うことはしっかり聞くだろう。由夢もまた最近は反抗期なのか昔の純朴さが嘘のような捻くれたところを(特に兄に向けて)みせるようになってはいるが、やはり根は素直なままだし、音姫はそもそもそんなことを言う必要すらないくらいのしっかり者だ。傘を忘れているということはないだろう。
 雨があがったことを契機にしたのか、食堂から徐々に人が減り出す。ティーカップの中身もからになり、そろそろ仕事に戻ろうとさくらは立ち上がった。最後に、とばかりにもう一度窓の方へと視線を向ける。今度は上ではなく、下へ。食堂の窓から見下ろせる位置にある花壇。そこには、この時期を象徴するような青紫色の花がその大きな花弁を広げていた。



The person like mother





 初夏の長くなったと実感できる日照時間を越えて、ようやく夜も更けた時間帯。
 朝倉家のお風呂場、その洗面場で義之は身体から湯気を立ち昇らせながら、パジャマに着替えていた。

「いいお湯だったな〜」

 パジャマのボタンをかけながら、呟く。じめじめとした湿気混じりの空気が身体にまとわり続けるこの時期の不快さは夜になってもやわらぐことはなかったが、それでもお風呂に入ればだいぶとマシになる。たっぷりと熱されたお風呂のお湯を頭から浴びれば、シャンプーや石鹸と一緒に、身体にこびりついた湿気を洗い流してくれるようで、気分が良くなる。
 鏡を見ると、そこに映るもう1人の自分はほんのりと赤い肌をしていた。大雑把にふいたからか、髪の毛にはまだ水気が残り、眉目を覆い隠さんばかりに下がった前髪からはぽつりぽつりとまだ暖かい滴が落ちていた。
 パジャマに着替え終わり、ほでった身体で洗面場から廊下につながる扉に手をかけたとき、姉の声が聞こえた。

「……うん、わかった……それでね」

 最初、それは自分に向けられたものだと思ったが、すぐに違うとわかった。姉は廊下で誰かと話をしているようだった。
 誰だろう? 義之が不思議に思いながら、扉を開くと、

「……え、ほんと? あ、弟くん」

 目に映ったのは、嬉しそうな顔で受話器を頬に当てている姉の姿だった。電話をしていたんだ。それなら納得だけど……誰からだろう?
 誰からの電話か、訊ねる意図を込めて、小首を傾げて姉を見るも、姉はしっ、と弟を諫めるように指を唇の前に立てた。ごめんね、今、電話中だから、と瞳が語っていた。会ったばかりの頃に義之に向けられていた冷たい表情は、もう痕跡すら残さず、やさしげな微笑がそこにはある。

「うん、弟くん。そう。今お風呂からあがったの……えっと」

 姉はこの場に現れた義之のことを気にしつつも、やはり電話の方が気になっているようで、気まずそうな笑顔で義之の方を見る。義之としては自分の質問を保留にされた形になってしまったが、別段、それで嫌な気分になることもなかった。電話中の相手に無理に話しかけようとするくらい子供ではない。

「リビングにいってるね」

 別に自分は気にしてないから。という気持ちを姉にアピールする意味もあって、笑顔を向けると、音姫はごめんね、と言いながら頷いた。

(だから気にしてないってば)

 それからも受話器に向かって話しかける姉を背に義之は苦笑しながらリビングに向かった。
 扉を開いて中を見ると、由夢が眠たそうに目をこすってソファにもたれかかっていた。ちっさいくせにドラマなんて大人っぽいもの見るからそうなるんだよ、と思ったが口には出さず、隣に座る。

「由夢。お風呂、あいたよ」

 声をかけられてはじめて、義之が来たことに気付いたようだった。というより半分眠っていたのかも知れない。由夢は慌てたように上半身を背もたれから話すと、瞳をぱちくりとさせる。

「お兄ちゃん……驚かせないで」
「まだお風呂に入ってないんだから、寝ちゃだめだよ」
「そんなこと……」

 言われなくてもわかってる、と唇を尖らせる妹に義之は眉をしかめた。本当にもう、どうしてこんなに生意気になっちゃったんだろう?

「あ、そうだ。純一さんは?」
「部屋に戻っちゃった。みんなが出たあとで入るって」
「そっか。それじゃあ、由夢も早く入っちゃえよ。もうドラマは終わったんだろ?」

 いいながら、テレビの方を見る。テレビ画面には明日の天気が映し出されている。地図の初音島の部分には晴れマークと曇りマークがスラッシュで区切られて表示されている。並んで表示された降水確率も低く、この時期にして、珍しく明日は晴れるようだった。明日は週末なのでたぶん、よろこぶ人は多いだろう。

「終わったよ……それじゃ、いってきます……あふ」

 小さなあくびをしながら、由夢はリビングを出る。その背を見送った義之はソファに思いっきり身体を沈み込ませた。
 天気予報は番組と番組の間に放送された短いものですぐにコマーシャルに切り替わった。新聞を手にとってテレビの番組欄を見てみるものの、これから先に見たい番組もなかったので、義之は机の上に置きっぱなしにされていたリモコンを手に取るとテレビを切った。
 そうして、まだ熱い身体でクッションの感覚を味わっているとそれで安心したのか、身体の奥底から睡魔がわき出てきて、意図せずに口がふにゃりと開く。

「ふあ……」

 眠気に瞳を細めながら、由夢が出て行った扉の方に再び視線を走らせる。そろそろかな、と思って見たのだが、姉が戻ってくる気配はない。まだ電話をしているのだろうか。
 義之は、先にお風呂に入ってリビングに戻ってきた音姫と入れ違いに浴室に向かったので姉が電話を受けたのは義之が入浴している間だろう。だから、どれくらい電話をしていたるのかはわからないが、その時間は短くはないような気がする。

(いったい誰からだろ?)

 とすれば、自然とその相手が気になってしまうものだった。
 電話をしている姉のことを思い返してみる。姉はお風呂場から出てきた自分を見て、電話の相手に『弟くん』が来たということを言っていた。ということは、少なくとも電話の相手はこの家のことをよく知っているのだろう。
 かといってそれだけで見当がつくはずがない。考えてみるものの、いまひとつ浮かぶこともなく、結局、途中でそれにも飽きて、ただ時計の針が動く音だけを耳に、ソファのやわらかい感触を身体で傍受をするだけになった。
 もう先に部屋に戻って眠ってしまおうかな、とも思ったが、なんとなく、ここまで来たら姉が電話を終えて帰ってくるのを待っていないといけないような気がして、それもできなかった。
 何度目かのあくびを義之がしたときだった。がちゃり、と扉の開く音がして、夢うつつだった義之の意識はハッとリビングに引き戻された。

「あ、お姉ちゃん。もう電話はいいの?」
「うん。ごめんね、弟くん」

 別に謝ることはないのに、姉は殊勝にも申し訳なさそうに言う。

「それで、誰からだったの?」

 義之が聞くと、姉はうん、と頷き、軽快に隣のソファに腰掛けた。なんだかそんな動作の1つ1つが楽しげに見えた。いつも笑顔の姉ではあるが、今はそれに輪を掛けて上機嫌だ。頬が紅潮しているのはたぶん、お風呂上りのせいということではないだろう。
 小学校も高学年になってから、どんどん、大人っぽくなっていっているその横顔にはやや不釣合いな、子供っぽくはしゃいだ笑み。それほど、楽しい電話だったのだろうか。それとも、何か嬉しい報告でもあったのだろうか。
 そんなことを思っている義之の視線を笑顔で受けながら、姉は嬉しそうに言った。

「お父さんからの電話だったんだ」
「お父さん? ……おじさんから!?」

 思わず声を荒げてしまった義之に音姫は笑顔で頷く。おじさん――朝倉姉妹の父親で、普段は仕事の都合で海外にいる。そのせいで、朝倉姉妹や純一と比べると、あまり面識はないが、会ったことがないわけでもない。微かにある記憶に残るその姿は、純一によく似た雰囲気を持っていた。
 なるほど……と義之は妙に納得した気持ちになった。先ほどの電話口に対して嬉しげに語りかける姉の姿を思い出す。自分にはいまいちわからない感覚だが、滅多に会えないお父さんから電話がかかってくれば、それがとても嬉しいことだと言うのはわかる。小恋のお父さんも普段は仕事で家を離れているらしいが、そのお父さんから手紙が来たり、電話で話したりしたことを小恋はいつも楽しげに話してくる。

「そっか。おじさんからの電話だったんだ。由夢とも話したの?」
「今はおじいちゃんと話してる。由夢ちゃんはお風呂からあがった後かな。国際電話だから、あまり長電話しちゃいけないんだけど……」
「しょうがないよ。おじさんから電話なんてめったにないんだし」

 しかし、どうやらそれだけではないようだった。まだ話し終えてないとでも言うように、音姫ははずんだ声で続ける。

「あのね、弟くん」

 そう嬉しそうに勿体ぶってから、

「来週、お父さん帰ってこれるんだって」

 発せられた姉の言葉。その内容を頭が理解するまで少し時間がかかった。ぽかんと、目を開き、硬直する。嬉しげに満面の笑顔を浮かべた姉を前にして呆然とする。
 今、お姉ちゃんはなんて言った? ……帰ってくるって? 誰が? 姉の言った言葉を理解した瞬間、自然と声のボリュームが上がっていた。

「ええっ、おじさんが!? 初音島に? ほんと?」
「うん! ほんとのほんとだよ。お父さん、帰ってくるんだ」

 これに驚かずに何に驚けというのか。普段、海外にいて、そこで仕事をしているということはそう簡単に帰って来られないのだと、子供の義之でもわかることだ。年末年始やお盆にだって帰れないことの方が多いのだから。
 そんなおじさんが、帰ってくる。

「おじさんが、帰ってくるんだ……」

 幼い頃からこの朝倉家に暮らしているからこそ、事のすごさがよくわかる。呟いた声に含まれた感情は姉とは違い、喜びよりも、驚きの方が強かった。

「よかったね、お姉ちゃん」
「うん! 由夢ちゃんも喜ぶと思う」

 由夢ちゃん、と義之が由夢のことを呼び捨てるようになった代わりのようにいつからか、姉が使い出した妹に対するやさしげな呼び名が響く。義之はそれに頷いた。
 きっと、そうだ、と思う。近頃の由夢はなんだか変なところがあるけれど、お父さんが帰ってくるとなれば素直に喜ぶだろう。昔のように純粋無垢な笑顔で。それにしても。

「来週ってことは……」

 義之は呟くと、壁にかけられたカレンダーに視線を向けた。

「どうしたの? 弟くん?」
「ちょうど授業参観だなー、って思って」

 ああ、と姉は頷く。

「うん。そのことをお父さんに電話で話したんだけど……」

 そうして、これ以上、嬉しいことはない、とでも言うように肩を振るわせた。

「授業参観、お父さんが来てくれるって!」
「ほんと?」
「うん! 電話でね、授業参観のことも話したんだけどね……来てくれるって!」

 喜色に満ちた声がリビングに響き渡る。そのビッグニュースに義之は驚きをも通り越して唖然とした顔になった。
 うれしさが溢れ出ている、という様子でいつもの数割増しの笑顔を見せる姉の姿が、目の前にあるはずなのにどこか遠くに感じた。

「そっか。おじさんが……来てくれるんだ」

 呆然として間抜けに開かれた唇の隙間からもれた声は自分でも驚くほど平坦としたものだった。

「私と由夢ちゃん、それともちろん弟くんの教室も。お父さんが順番に見てくれるって! その後、みんなで一緒にお食事にいこうか、って」
「そ、そうなんだ。……やったね」
「うん! すっごく楽しみだね、弟くん♪」

 嬉しいこと……のはずだ。けれども、胸の中は氷が張ってしまったかのようだった。それが何故なのかは、義之にはわからなかった。

(そうだよね。お姉ちゃんと由夢には、お父さんがいるもんね……)

 自分とは違う。そんな思いがちらり、と頭の中を過ぎり、胸の中で嫌な音がなった気がした。その奇妙な感覚が理解できず、義之は首を傾けた。


 梅雨の季節にあって、空模様は珍しく快晴だった。青い空には太陽が堂々とその姿をさらし、ちらほらと千切れ千切れになった薄い雲が浮かんでこそいるものの、雨の降り出しそうな気配は感じられない。むしろ、遮るものもなく、地上に降り注ぐ太陽の光を厳しく感じた。鬱陶しい湿気こそないものの、その分、ストレートな暑さが肌身をこがす。
 ここ最近は毎日のように降り注ぐ雨のせいで、常に水気をおびて、頭を垂らした印象のあった桜公園の桜もここぞとばかりにその薄紅色の花弁を青空へ向けて広げている。久しぶりの稼ぎ時とあって展開されたチョコバナナやアイスクリームの屋台には多くの子供が列をなして群がり、当然、彼らを連れてきた親たちも隣に立つ。そんな様子を義之は公園の外周、植え込みの傍らに置かれたベンチに腰掛けて、ぼんやりと眺めていた。
 うだるような暑さにもかかわらず桜公園は多くの人々で賑わっていた。今日は休日で、この季節では貴重な晴れの日が重なったのだから、当たり前のことなのだが。

「それにしても、あっついなぁ」

 たまに晴れたと思ったら今度は暑さに苦しむことになるなんて。本当にこの時期は最悪だ。
 地面が太陽の光を跳ね返し、立ち上る温度の中で義之は喉の渇きを覚えて、ポケットの中に手を突っ込んだ。指先はすぐに硬質な感触にぶつかり、取り出してみると、それは鈍い銀の輝きを帯びた百円玉だった。

(アイス、買おうかな)

 ポケットの中をあさってみたものの、ほかにお金は見つからなかった。けれど、たぶん、1番小さなやつのひとつくらいなら大丈夫だろう。
 そう思ってふらり、とベンチから立ち上がった義之だったが、屋台の方を改めて眺めて、足を止めた。
 今日は、親子連れが多い、と熱に浮いた頭でぼんやり、と思う。今日は子供だけのグループで遊びに行くことを禁止でもされているのだろうか? なんてありえないことを思ってしまうくらいに、公園の利用者は親子が多かった。

「…………なんだろ」

 口をついてでた短い呟きは自分への疑問だ。何をいやな気分になってるんだろう、と思う。何も気にしていないはずなのに。

「変なの。胸の中がちくちくしてる」

 義之は額の汗をぬぐうと公園の外周にそって歩き出した。特に目的地などはなかったが、立ち上がった以上、もう1回座り直すのもなんとなく癪だった。
 商店街の方に行けばよかったかな、と少し後悔しながら行く当てもなく足を進めていると義之の瞳に見覚えのあるモノが映った。外周部分にそうように配置された植え込み。踏み荒らされたりしないように小さく柵と壇で囲われたその中にあって、草木と花の間から突き出ている真っ白な尻尾で、それを見た瞬間、思わず声を出していた。

「はりまお?」

 その後ろ姿はよく知っている犬(らしき生物)のものに違いなかった。
 義之の声に反応したのか、先だけ突き出ていた尻尾がぴくり、と揺れる。そして、その尻尾がくるり、と円を描くように回転し、代わりに前に現れた饅頭のように丸々とした顔が義之のことを見上げて「あん!」と軽快な鳴き声をあげた。
 その行動は自分の言葉に対する返事のように思えて、義之は口許を緩めた。

「どうしたんだ、こんなところで」

 しゃがみ込んで、訊ねてみても、はりまおは短い鳴き声をあげるだけだ。別に犬を相手にまともな返事を求めるほど子供でもなかったが、ちょっとだけ肩すかしだった。

「はは、やっぱりわかんないか」

 足下でじゃれつくはりまおを見下ろしながら、義之はちらり、と植え込みの方へと視線を移した。強く意識したわけではなかった。なんとなく自然と瞳が動いていた。この時期、雨の季節に咲き誇るあの花の姿を求めて。

「…………」

 義之の視線の先で、強い日差しをあびて、透き通るような青紫色が輝く。その儚さと美しさを秘めたような薄い色。豊かな包容力にあふれるように、大らかに広がった花弁。雨の季節に咲き誇る花。あの人が好きだった花。
 写真でもなければ、絵でもない。たしかに目の前に存在する紫陽花を前に、思わず身体が固まった。そんな行動を不思議に思ったのか、はりまおが短く鳴き声をあげ、見上げてくる。
 紫陽花。

「もし由姫さんが生きていたら、来てくれたかな……」

 響いた言葉は僅かに湿気をはらんだ大気を揺らす。そして、別にそのせいではないだろうけども紫陽花の花が揺れた。
 あの人はもういない。それだけにばかばかしい考えだ。けれど、もし、あの人が今生きていれば。自分の授業参観に来てくれただろうか?
 そんな疑問に対する答えは考えるまでもないことだった。

「来てくれたよね、きっと」

 それだけは間違いないと言い切れる。きっと、おじさんと一緒に。姉と妹と義之の教室を順番に回って、3人もの教室を見て回るのは2人で分担しても大変だろうけど、間違いなく来てくれた。
 だけど。それをうれしく思いながらも、

「でも、由姫さんも、おじさんも……ぼくの本当のお母さんやお父さんってわけじゃないんだよね」

 そんなことをちょっとだけ考えてしまう自分が嫌だった。イヤな子だ、と思う。
 義之はどこか後ろめたい気分になると、紫陽花の花から目をそらすように、足下のはりまおを見た。向けられた視線に対してはりまおが小さく吠える。
 その動作は義之には首を傾げているようにも、自分に向けて何かをたずねているようにも見えて、思わず返事をしていた。

「……別に気にしてるわけじゃないよ」

 はりまおに向けて、苦笑い混じりに呟いた言葉。そこに嘘はない。
 そんな小さなことを気にするほど、自分は不幸せなわけではない。最初に朝倉家に来た頃はそのことを強く気にしていたような気もするけど、朝倉家で暮らしているうちに、あまり気にならなくなった。
 少なくとも『自分の実の両親』とは義之にとって頻繁に気にする疑問ではなくなっていた。

「ただ、こういうことがあると、ちょっとだけ考えちゃうんだ」

 言いながらはりまおの頭を撫でる。何を言われているのか、わかっているのか、わかっていないのか、はりまおはくすぐったそうに、「あおーん」と間延びした鳴き声をもらす。

「ぼくの本当のお父さんやお母さんは、ぼくの授業参観があるって知ったら来てくれるのかな」

 そんなことを告げる自分の声に強く違和感を覚える。
 今の自分はちょっとおかしい、と思った。本当の両親のことなんて、自分の中ではたいした疑問ではない。なくなっていたはずだ。
 義之にとっては実の両親のことを考えるというのはこの島の桜の花はどうして一年中咲いているんだろう、と考えるのと同じようなことだった。
 不思議に思わないことはない。けれど、強く知りたいと思うわけでもない。
 ぼんやりと考える謎はどこか現実感の欠けて宙ぶらりんになっているような奇妙な感覚がある。それはおそらく物心ついたときからずっと、それが当たり前だったから。不思議に思いつつも、その不思議の中にずっといたから強く疑問に思うこともない。
 一年中咲いている桜の中でずっと生きてきたから、枯れない桜のことを気にしながらも、強く意識はしない。同じように、実の両親がいない中でずっと生きてきたから、親のことを気にしながらも、強く意識はしない。
 その疑問はうっすらと心の中にあっても、それが表に出てくることは少ない。義之自身、子供心にぼんやりとそんな風に理解していた。

「普段はこんなこと気にしないのにね。なんか、この間からちょっと変なんだ」

 昨日、小恋に言われたとおりだ。やっぱりこんなことで気落ちしている今の自分はおかしい。
 多分、授業参観ということ。おじさんからの久しぶりに初音島に帰ってくるということ。二つのあまりない、そして『親』というものの存在を強く意識させられる出来事が重なったから、ちょっと、おかしくなっているんだ。
 義之は子供なりに、そう自分のことを考えてみた。そう考えるとなんだか、少しだけ気が楽になった。こんな気持ちはすぐにおさまる。いや、おさめないといけない。
 はりまおは相変わらず何を考えているのかさっぱりわからない澄んだ黒い目で義之のことを見上げてくる。動物らしい純粋無垢なその顔を見ていると段々気まずくなってきて、義之は誤魔化すように笑った。

「あはは……ごめん。お前にこんなこと言ってもわからないよな。ぼくの親のことなんて。ぼくの親のこととか、そもそもどこにいるのかなんて、お前だってわからないだろうし」

 自分は何をやっているんだろう、と思った。はりまおを自分の勝手で聞き役にしてしまっていることについて、ちょっとだけ罪悪感と自己嫌悪に眉を寄せたとき、ふいに、はりまおが大きな声で吠えた。
 きょとんとして、はりまおを見る。すると、はりまおはその小さな前足で催促するように義之の靴を叩くと、すぐに方向転換をして駆けだした。

「はりまお? おい、どうした? ……おーい?」

 突然のことに呆気にとられる義之にも構わず、はりまおは小さな四足を存分にふるって桜公園の中を走る。義之は慌てて、その揺れる尻尾を追った。
 植え込みのある方から離れて、ソフトクリームの屋台や、噴水の隣を抜ける。かといって、入り口から公園の外に出るわけでもなく、白い影は入り口とは真逆の方向へ向かっている。そして、そのまま桜公園の最奥の――――海に面した小高い丘。桜の木が一面に立ち並ぶ一角に入った。その足取りは小さな姿から想像する以上に速く、見失わないように義之は必死で走った。

「ど、どうしたんだよ……いきなり……」

 靴裏で感じる地面の触感が、ところどころに雑草を生やしながらも、基本的には整地された砂地のものから、全面的に芝や雑草に覆われたものに変わると同時に義之はいったん、足を止めた。
 急に走り出したせいで心臓がバクバクと激しく震えていた。膝に両手を置き、視界を落としたまま肩で息をしていると、促すかのようにはりまおの鳴き声が耳に響く。
 なんなんだよ、とぼやきながら、義之は頭を上げると、自分をここまで引き連れてきたその犬の名を呼んだ。

「「はりまお?」」

 しかし、そのときに辺りに響いた声は義之のものだけではなかった。はりまおを呼ぶ義之の声に誰かの声が被さった。
 この声は……? 義之はぽかんとして前を見た。目の前にあるのは、はりまおの白い小さな身体、そして、そのさらに先。周囲を円環するように立ち並ぶ桜の木の中心に位置する桜公園一、いや初音島一の巨大な桜の木のふもと。はりまおを中間点として、自分と一本の線で結ばれた場所に立っていて、こちらを振り向いているのは――。

「って、あれ? 義之くん?」

 声と共に彼女が首をかしげれば長い金髪が揺れた。碧い色の瞳が驚いたように見開かれている。だけど、驚いたのは義之も同じだった。

「さくらさん!?」
「義之くん、やっほ〜♪」

 さくらは瞬く間に口元をほころばせ、手を振ってくる。呆気にとられつつも、義之は疑問の声を出した。

「どうしたの、こんなところで」
「うーん、と……散歩、かな」

 草の根を踏みしめて歩く音が響く。彼女は返事をしながらはりまおを拾い上げ、いつものように頭に乗せると、そのまま義之のすぐ側に来て、正面に立った。
 最初に出会ったときと比べて、大分と差の縮まった背丈だけど、まだ彼女の方が高い。義之は少し顔を上に向けて、彼女の瞳を覗いた。

「奇遇だね。公園で遊んでたのかな?」
「うーん……そんなところ。珍しくいい天気だし」

 本当はそういうわけでもなかったけれど、穏やかに微笑むさくらを前にしていると自然と彼女の言葉に頷いていた。義之は、ほら、と空を指し示した。濁った雲を一面に浮かべて、常に黒々としたイメージのある梅雨の空だが、今日はそういった黒雲たちは風に流され露と消え、空一面は透き通るような青い色をしている。

「うん。いい天気だね」

 義之の言葉にさくらも空を見上げる。その瞳もまた空の色と同じように綺麗な碧の光を発していた。

「もうすぐ梅雨明けかな? 今日みたいな日は気兼ねなく外を歩けるからいいね」
「うん。 ……でも、その代わりちょっとあつい」

 両肩をだらしなく落とした義之を見て、さくらは笑った。

「こっちの方は海風が入ってくるからまだマシな方だけど……たしかにあっついね〜。でも仕方がないよ。晴れてるってことは、それだけお日様が頑張ってるってことなんだから」
「それもそうなんだけど……」
「じゃあ、義之くんは雨降ってる方がいい?」
「うーん」

 ちょっとだけ意地悪な物言いに考え込む。晴れているけど、暑いか。雨が降っているけど、涼しいか。どちらがいいかと言われれば……。

「やっぱり晴れてる方がいい。家の中よりも外で遊びたいから」
「うん。それが男の子の答えだね♪」

 雨が嫌なことに、別に男も女も関係ないんじゃないかと義之は思ったが、何故か嬉しそうなさくらを前にしてはそれを言うのもなんだか悪い気がしたので言わなかった。

「それに雨降っててもあついときはあついし」
「あははー、それもそっか。前提が成り立ってなかったね」

 義之の指摘にさくらは頷くと、あたりを見渡した。
 そして、あれれ……と少し不思議そうな顔になる。何だろう、と思ったが、その理由はすぐにわかった。

「今日は音姫ちゃんや由夢ちゃんとは一緒じゃないの?」
「え?」

 彼女は義之が音姫や由夢と一緒に遊びに外に出てきたと思っていたようだった。それにしては周囲に義之以外の姿が見当たらないことを疑問に思ったのだろう。

「……う、うん。そうだよ」
「じゃ、学校のお友達と一緒?」
「ううん」

 単に1人で出歩いているだけで、別に悪いことをしているわけではないのだが、なんとなく背中のむずがゆさを感じる。問いかけに対し、義之が首を横に振るとさくらは「そっか」とだけ言った。

「……だめ、かな? 1人だと」

 思い切って義之が訊ねるとさくらは驚いたように目を丸くした。

「あ、ごめんね。別にそういう意味じゃないんだ。ただ、珍しいな〜、って思って」
「そうかな? そんなこともないと思うけど」
「義之くん。ちょっと前まではいつも音姫ちゃんや由夢ちゃんと一緒だったから」

 たしかに、少し前は出かけるときは……いや、それ以外でも、いつも兄弟一緒だった。だけど、最近はこうやって1人で外に出ることも珍しいことではなくなっていた。

「学年も違うし、いっつも一緒ってわけにはいかないよ」

 義之はちょっとだけ唇を尖らせた。さくらの物言いに、なんだかいつまでも『小さな子供』扱いをされているような気がしたからだ。もう小学校にも入ったのに。
 そのことに生意気な性格になってしまった妹はともかく、姉は不満の声をあげているのだが、毎日のように学年の違う自分のクラスの前まで迎えに来られてはさすがに恥ずかしい。

「にゃはは。そうだよね。それで、同じクラスのお友達……小恋ちゃんだっけ? 音姫ちゃんたちと一緒じゃないならあの子と一緒かな、って思っただけなんだ。ボクの勝手な決めつけで勘違いさせちゃったね」
「小恋? 小恋とは一緒に遊ぶことも多いけど、今日はなんとなく1人で居たかったんだ」
「うん、そういう気分のときもあるよね」

 若干の棘をおびて、突き放すように言った義之の声にも、さくらは笑顔で相づちを打った。そんなしぐさに胸の中のゆれた気持ちがおさまっていくことを感じて、義之はそれ以上は何も言わなかった。

「1人でお散歩してたんだ。ボクと同じだね」
「散歩……」

 その言葉に少し考え込む。散歩、とは少し違うような気がする。せっかくの休日だというのに、起きてからなんだか変な気分だった。
 姉や妹と一緒に遊ぼうかとも思って、姉の部屋の前まで行ったものの扉を開けようとしたとき中からもれ聞こえる声に気付いた。どうやら姉妹2人で一緒にいるらしく、話している内容は昨夜に朝倉家にもたらされたビッグニュース、おじさんが帰ってくるということだった。2人ともすごく楽しげな様子で、自分が割っていってはいけないような気がして結局、義之はそのまま扉の前から回れ右をした。
 そうしているうちに、なんとなく家の中に居る気もならず、外が晴れているのをいいことに出てきてしまったのだ。友達に電話を入れればきっと一緒に遊べたとは思うけど、それをする気にもならなかった。
 つまり、1人でふらふらしたかったのだから、これもまた散歩なのかもしれない、と思った。

「さくらさんも散歩してたんだ?」
「そうだよ♪ 今日はお仕事もないしね」

 そうなんだ、と義之は頷いた。この一週間、彼女の姿を見ていなかった。たまっている仕事を片付けるために仕事場に泊り込んでいると聞いていたが、こうして、のんびり散歩をしているということはそのお仕事は終わったのだろうか?
 そんなことを思って義之がさくらの顔を見上げていると、彼女は眉をしかめて、額の汗をぬぐった。

「うにゃ、それにしても、ホントに暑いね……さっきああ言っておいてなんだけど、小雨くらい降らないかなぁ」
「今日のこーすいかくりつは10パーセントだって、昨日のニュースで言ってたよ」
「そっかぁ。それじゃ、あんまり期待できないね……」

 参った、というようにさくらは息をはく。そうして、公園の入り口の辺りに視線を向け、何かを思いついたように声をあげた。

「そうだ! 義之くん。喉かわいてない?」
「のど? うん、かわいてる。何か飲みたいなって思ってたんだ」
「それじゃ、ジュースでも買って一緒に飲もっか♪」

 その言葉をさくらが言い終えたときには義之の左手は彼女に握られていた。返事をする間もなく、身体が引っ張られ、思わず声がもれる。止める間もなくさくらはてくてくと足を進めていって、半ば引きずられるように義之は歩き出した。
 そうやって最初こそ彼女の歩みを追いかける形だったものの、歩いているうちに徐々に足取りをあわせて、その隣に並ぶ。
 それを横目で見たさくらが感心したように呟いた。

「お、歩くの速くなったね」

 そう言われてちょっとだけ照れくさくなる。けれど、同時に誇らしかった。

「当たり前だよ。いつまでも小さいままじゃないもん」
「よしよし」

 照れ隠しも含めて、必要以上に誇らしげに言った言葉にさくらは満足そうに頷き、その頭の上ではりまおが合わせるように「あん!」と軽快に吠えた。
 はりまおも自分のことを褒めてくれたようで義之は嬉しかったが、本音を言うと、このペースで歩くのは少しつらかった。いつもはさくらの方が足取りをあわせてくれる。手を引きながらも、義之の様子を見て、その足の速度に合わせ徐々にペースを落として歩いてくれるのだが、今日はそれをされる前に意識して足を前へ踏み出すことで無理矢理、さくらの足取りに義之が合わせていた。
 しかし、それを知られたくなかった。自分はこれだけ速く歩けるようになったんだ、と彼女に思って欲しかった。
 ちょっと汗をかきながら、いつもより少し速いペースで丘のほうから入り口の方へと戻ってくる。その途上、ある物が義之の視界の片隅に入った。今、向かっているジュースの自動販売機とは反対の方向にそれはある。
 どうしよう、と少し悩む。だけど、気がつけば声に出していた。

「ねぇ、さくらさん」

 ちょっと力を込めて彼女の手を引っ張ると、どうしたの? とさくらが笑顔で振り向く。義之は自由な方の手で先ほど見た方角を指差しながら言った。

「ジュースじゃなくて、アイスクリームでもいい?」

 さくらの表情が一瞬、ぽかんと硬直する。ワガママな子だと思われただろうか? 少しの間が怖かった。だめ、と言われたらどうしよう、と不安が過ぎる。
 しかし、そんな考えが完全に頭の中を埋め尽くすよりも前に、さくらは満面の笑みをみせた。

「もっちろん♪ なんでもオッケーだよ」

 相変わらずの明るい声に胸の中の不安は一気に吹き飛ぶ。「やった」と意識せずに声が出て、そのことに気付いて義之は少し恥ずかしげに頭をかいた。

「何個乗せしてもいいし、なんならクレープでもいいよ。ものすっごくおっきいやつ」
「ほんと!? でも、高いよ」
「にゃはは。そんなの気にしなくていいよ。せっかくだし普段はあまり食べられないおっきいのにしなよ。あ……でもお兄ちゃんにバレたら『あまり甘やかすんじゃない』なんて怒られるかもしれないからナイショにしてね」

 しーっと、さくらは繋いでない方の手の指を唇の前に立てる。

「わかった。純一さんにはナイショにする」
「よろしい♪」

 くすり、と少し悪戯っぽく笑うさくらにあわせて、義之もまた悪戯っぽく口許を緩めると、そんな2人の会話がわかっているかのように、さくらの頭の上にいるはりまおも小さく吼えた。さくらがちらりと頭上に(たぶん、見えないだろうけども)視線を向ける。

「はりまおも内緒だからね?」
「内緒だよ」

 2人そろってはりまおに言うと、再びはりまおが吠える。犬語はわからないけど、とりあえず大丈夫だろう。純一さんも犬語はわからないだろうし。
 それに、なんとなくだけど、はりまおは「わかった」と言ってくれたような気がした。
 そうして、2人と1匹でアイスクリームの屋台の前に並ぶ。
 さっき義之が見たときに屋台の前に展開されていた人だかりは、幾分か少なくなっていて、さして待つこともなく順番が回ってきた。
 義之はバニラとチョコの2つ乗せを頼んだ。本当はこれにストロベリーも加えた3つ乗せにしたかったけど、最後の最後で遠慮の気持ちが働いてしまった。そんな気持ちも見透かしたかのように「遠慮しなくていいって言ってるのに」とさくらは笑いつつ、自分の分である抹茶アイスと、はりまおの分ということでさらにもうひとつストロベリーを注文した。
 2人してアイスクリームを持ち、適当な場所を探すと幸いにも植え込みの側に置かれたベンチのひとつがあいていたので、そこに腰掛ける。

(あれ、この椅子って……)

 座ってみて、そういえばと思い出す。偶然にも昨日の帰り道、小恋の家からさらに寄り道してこの桜公園に寄った時に座っていたところだった。

「どうしたの?」
「う、ううん。なんでもない」

 さくらは不思議そうな顔をしたが、すぐに気を取り直したように手に持つアイスを示して見せた。

「それじゃ、とけちゃわないうちにたべちゃおっか。落とさないように気をつけてね」
「うん! いただきま〜す」

 さくらの注意に義之は頷きながら、目の前のお宝に口をつける。相変わらず、照りつける日差しは熱かったけど、手にしたアイスを一口舐めてみれば、口の中がバニラの甘さと冷たさにあふれて、それを繰り返すたびに甘美な感触が口から顔、身体全体に広がっていくような気がして、暑さも和らいだ。
 夏に食べるアイスクリームはやっぱりおいしい。見ているだけでも涼しさを感じる真っ白なバニラを口に含めば心地いい冷気が舌を麻痺させ、口の中いっぱいに甘美な味が広がる。二口、三口とさらに食べれば、まとわりつくような湿気も一気に吹き飛ぶ。冬に食べるアイスもそれはそれで美味しいけれど、やっぱりアイスを食べるのは夏が一番だ。
 そんなことを思いながら、義之は夢中でアイスにかぶりついていた。

「おいしい?」

 だから。声をかけられるまで全く気づけなかった。隣に座ったさくらが自分のことを、ほほえましげにじっと眺めていることに。
 ハッとして義之はさくらを見て、少しの気恥ずかしさに声を失った。子供っぽいところを見られた、と恥ずかしい思いが身体をつたって、微弱な金縛りとなる。
 それでも、義之はなんとか返事の声をしぼり出した。

「う、うん。……お、おいしいよ」

 頬をうっすらと赤く染めての返事にさくらは満足そうに頷く。
 それからも、さくらは何かと義之の方に視線を向けてきた。そのにんまりとした笑顔に見つめられると、なんともいえない気恥ずかしさがあって、義之はとにかくアイスにかぶりつくことだけに集中して、なるべく彼女の方を見ないようにした。
 そんな仕草を不自然に思ったのかさくらは少し小首を傾げたが、

「ふふ、ま、いっか。はい、はりまお。こっちのは、はりまおの分だよ」

 とくに何を言うこともなく笑顔のまま自分のアイスを食べはじめた。
 そうしているうちにあっという間にアイスクリームはその容積を減らしていき、後にはアイスの容器も兼ねていた小麦粉製のコーンを残すだけになる。

「ごちそうさま」

 最後、とばかりに包み紙をはがしたコーンを口の中に放り込むと、義之はさくらに向けて言った。彼女の方も丁度、自分の分を食べ終わったところだったようだ。はりまおだけがベンチの上にしかれたハンカチの上に置かれ、もう半分以上、融けてしまっているアイスを舐め続けている。

「すっごく、おいしかった。ありがとう、さくらさん」
「どういたしまして……って」

 さくらはそんな義之を見て、頷いたが、ちょっと困ったような顔になった。どうして彼女がそんな顔をしたのかがわからず、義之は首を傾げた。

「にゃはは。義之く〜ん」
「な、何?」
「お口のまわり、いっぱいアイスついちゃってるよ」

 義之の顔、というよりも口許を見て、さくらがからかうように笑う。

「真っ白なおひげ、サンタさんみたい♪」

 複数個が積まれたアイスを綺麗に食べるのには少しコツがいる。けれど、そんなことは一切、気にせずに目の前の甘味に惹かれるままかぶりついた義之の口許にはバニラの白やチョコレートの茶がこびりついていた。
 キョトンとしている義之を前にさくらは息をはくと、仕方がないなー、と呟きポケットからハンカチを取り出した。

「はい。ジッとしててね」

 ハンカチを義之の口許に当てながら、諭すように微笑んださくらを前に義之は何も言えず、小さく頷く。ハンカチ越しの手がやさしく口許の肌と唇の上を撫でる。くすぐったい感触と気恥ずかしさに義之は少し身体を震わせたが、気付かなかったのか、それとも気がつかないふりをしているのかさくらが手を止めることはなかった。

「まったくもー、しょうがないなー。そんなんじゃ、女の子にもてないぞ?」

 叱るようにさくらは言うが、その口調は穏やかなもので、それを言う彼女の表情もまたどこか楽しげだった。そんな彼女にされるがままになりながら、義之はぼんやりとその顔を見上げた。

(さくらさんって、なんだか――――)

 自分の行儀の悪さを見て、困ったように笑う彼女の顔が、いや、それ以外にも、手を引いてくれる彼女の後ろ姿。アイスクリームを買ってくれた笑顔。
 何かと自分に対して世話を焼いてくれる、その姿がなんとなく――――。

「はい。おわったよ♪ ん、どうしたの? 義之くん」
「…………」

 胸の中を満たす、あたたかいような、それでいてどこか、焦れるような感覚。なんだろう、と不思議に思う。
 初夏の日差しの下。自分の頬がうっすらと赤くそまっていく。それは多分、ひさしぶりに顔を出した太陽のせいじゃない気がした。



  結局、アイスを食べた後にジュースもごちそうになり、義之が公園から帰路についたのはしばらくたってからのことだった。
 そろそろ帰らないとみんな心配するよ、とさくらに言われて、公園の時計を見上げると既に午後5時を回っていて明々とした風景と実際の時間のギャップに少なからず義之は驚いた。そんな義之を見て、さくらは「夏の日暮れは遅いからね」と笑った。
 彼女の言う通り、もう夕方と言ってもいい時間帯だというのに、相変わらず太陽の光は大地を照らし、空は透き通るように爽快な青の色をしていて、夕方という言葉のイメージが連想させる光景はそこにはない。今日はいつものように視界を遮る黒雲がないからこそ、余計にそのことが目立っていた。
 公園の出口に差し掛かったところで、さくらさんはこれからどうするのかと義之は口に出してたずねてみた。今日は仕事がない、と言っていたが、それは朝から夕方にかけて仕事がない、という意味なのかもしれない。それなら、ここから直接、彼女が仕事をしているらしい『風見学園』というところに行くつもりなのかもしれない。
 ちょっとだけ不安そうに義之がさくらを見上げていると、さくらはそんな彼を安心させるように笑顔を見せた。

「えっと、今日は仕事がないって言ったよね。だから、このままお家に帰ろっかなぁ、って思ってるけど」
「ほんと? それじゃあ――」

 ぱぁっと輝いた義之の瞳にさくらは頷く。

「うん♪ 義之くんさえよければ一緒に帰ろうか」

 そう言われて断る理由なんてなかった。
 義之がさくらと一緒に桜公園の外に出た時、ごお、と空気が震える音が微かに耳に響く。空を見上げてみると広い青空を裂くように一筋の白い線が走っていた。

「飛行機だ」

 目をこらさないとわからないくらい小さく、あっという間に過ぎ去ってしまう飛行機の影とその後ろに追従するかのようにできる飛行機雲。あまり見られるものでもなく、一度見てしまえばなかなか忘れられない光景がそこにはあって、義之は声を上げた。

「あ、本当だ」

 少しの驚きを含んださくらの声が響く。同じように空を見上げならも、長々と空に残るその白い軌跡にちょっとだけむずかしそうな顔をする。そうして、ぽつりと独り言のように呟いた。

「こんなにくっきりできるなんて、やっぱり晴れてても空気は湿ってるのかな……」
「さくらさん?」
「うーん、この分だと明日も雨かなぁ」

 同じ飛行機雲を見ているはずなのに、まるで違うものを見ているかのようだ。
 義之が不思議そうな顔をして、さくらを見上げると、彼女はハッとして義之の方を振り向いた。どうしたの、と問いかけるように見上げてくる自分への視線に対して誤魔化すように笑う。

「飛行機雲が立つときは雨が近いっていうことわざがあってね。義之くんは知ってる?」
「? 知らない」
「そっか。それじゃ、覚えておくといいよ。予報士さんじゃなくてもできる簡単な天気予報の一つだから」

 ホントかな? と思った。けれど、さくらさんが嘘を言うはずがない。

「わかった。やっぱり物知りだね、さくらさん」
「そんなにたいしたことじゃないよ。でも、褒められるのはうれしいかな♪」

 感心して義之がそう言うと、さくらはちょっとだけ照れくさそうに言い、ウインクをする。
 もう一度、義之は空を見上げてみた。くっきりと青い空に刻まれたその線は、まだその跡を残していたが、周囲の青い海に飲み込まれるかのように、徐々に薄くおぼろになっていく。そのちょっとだけ不思議な光景を眺めなていると、そういえば、と思い出したことがあった。

「やっぱり、おじさんも帰ってくる時は飛行機に乗ってくるのかなぁ」

 たぶん、そうだろうとは思いつつも口に出したその疑問にさくらは首を傾げた。

「え? おじさんって」
「お姉ちゃんと由夢のお父さん」
「ああ」さくらは納得したように頷く。「そうだね。帰ってくるとしたら飛行機だろうね。船だと時間もお金もかかっちゃうから……でも、どうして急にあの子のことを?」

 そして、少しだけ不思議そうな顔になる。
 どうして急に? なんて言われるとは思わなかった。たしかに言われてみれば、自分がおじさんの話をすることは殆どなかったような気がする。けれど、今の朝倉家はおじさんのことで持ちきりだ。その話をするのは自分だけではない。
 義之はさくらのことを逆に不思議に思いつつ、何気なく言った。

「だって、おじさん帰ってくるんでしょ? 来週に」

 ふぇ? とさくらの唇の隙間から息が抜けるように声がもれる。あれ、と義之が思う間もなく、次の瞬間には素っ頓狂な声が響いた。

「ええええ! あのトウヘンボクが!?」

 信じられないとでも言いたげに目を丸くし、泡を食ったように口を開けている。普段から表情の変化には富んでいる彼女だが、それにしても、ちょっとだけ間の抜けた顔だと義之は思った。

「それって本当? エイプリルフール、にしては遅すぎるよね」
「う、うん……多分」

 驚いた顔、次いで訝しむような顔になったさくらに詰め寄られ、義之は思わず後ずさった。確認するように何気なく言った言葉で、これだけの驚かれるなんて思っていなかった。義之としてはさくらも当然、そのことを知っているだろうと思っていた。けれど、そうではなかったようだ。

「ほ、ほんとにほんとなんだ……あの手紙の一通も滅多に出さないような気の利かない子が……。お盆でもお正月でもないのに帰ってくるなんて……」
「純一さんから聞いてないの?」
「聞いてないよ〜」

 恨めしげな目で見られ、肩をすくめる。なんとなく今、目の前にいる自分が責められているような気がしてどきどきと心臓が震えた。

「お兄ちゃんめ〜。そんなビッグニュースを黙ってるなんて〜。音姫ちゃんや由夢ちゃんは……当然、知ってるよね。ううー、ボクだけ仲間はずれにされた〜」

 目頭を寄せて悔しそうにうなるさくらを前にどう反応していいのかがわからず義之が困っていると、ふいに、

「ま、いっか」

 と、気楽な声が響いた。おそるおそる見上げてみると、そこにはいつもの笑顔があって、義之は拍子抜けしつつも、内心で安堵の息をはいた。

「いいの?」

 何がいいのか、悪いのかもわからないが、一応、聞いてみると、さくらは小さく頷く。

「こうして、義之くんが教えてくれたしね。どーせ、お兄ちゃんのことだから、わざわざボクに連絡するのもかったるいって思ったんだろうねー。ここ数日は仕事で学園に缶詰だったし」
「……そういえば、純一さん。おじさんが帰ってくるって聞いてもあまり驚いてなかったなぁ」

 純一さんにとっては驚くほどのことでもないことなのだろうか? 義之は頭を捻った。
 なんとなく大人だなぁ、と思う。ああいうのを『達観している』っていうのかな……少し違う気がするけど。

「相変わらずトウヘンボクっぷりは親子共通かぁ……。ううん、この場合はあの親にしてあの子あり、というべきなんだろうけど」

 さくらは「困ったなぁ」と呆れるように、それでいてどこか楽しげに言うと、義之に悪戯っぽい笑みを向けた。
 空に走った一筋の飛行機雲はもう完全に消えていて、その代わりというわけではないだろうけれども、どんどん空の色は赤みを帯びてきていた。ちょっと目を離していただけなのにまるで何時間も経った後のようだった。

「夕焼けだ」
「ようやく黄昏時かぁ。日暮れは遅くても暮れるときはあっという間だね。……続きは家で話そっか」

 ちょっとだけ遠いところを見るように目を細めて、さくらは夕暮れの空を眺めると、促すようにそう言って一歩前に踏み出した。さくらの後に続いて、歩き出そうとして、義之は、はたと足を止める。

(…………)

 綺麗な金髪と自分よりも少しだけ高い背丈。さくらさんの後ろ姿。
 先を行く彼女の背中に、戸惑うように視線を泳がせながら、どうしよう、と考える。公園の時から『言いたいこと』があった。けれど、それは。

(うーん……)

 さくらさんはおじさんが帰ってくることを知らなかった。それなら、おじさんが帰ってきて、何をするのかも知らないんだろう。

「義之くん?」

 踏ん切りがつかないでいると、余程長い間そうしていたのか、そのうちに、さくらが先に振り返って義之を見る。
 問いかけてくるような視線を前に、やめておこう、と思った。ここで「なんでもない」と言えば何もなく終わる。それなら、それが一番いいような気がする。けど、それをすると後になって、なんで言わなかったんだ、って後悔するような気もした。

「……ね、さくらさん」

 それなら、何もしないで後悔するより、やってから後悔しよう、と思った。
 口の中がもごもごと綿菓子を突っ込まれたように変な風になっていることを感じつつも、義之は勢いに任せるように言葉を委ねた。

「来週にね、ぼくの学校で……」
「うん。学校で?」
「が、学校で……学校でね」

 風邪をひいたときみたいに、頭があつい。心臓の音がやけに大きく聞こえる。それでも、言葉は止まらなかった。

「じゅ、授業参観があるんだ」
「授業……参観?」
「そう。授業参観。みんなのお父さんやお母さんが授業を見に来るんだ。お、おじさんもお姉ちゃんや由夢の教室に行くんだって」

 しかし、最後まで言い切る前に、その続きを言おうとして、驚いたような顔をしているさくらに気付いた。驚きから一転、悲しそうに瞳を伏せる。その表情を前にして、義之の舌は痺れたように動かなくなった。

「だ、だから……」

 やっぱり、こんなこと言うのは、メイワク、なんだ。
 そう思うと、勢いが急にしぼんでいく。自分がなにかとんでもないことを言っているような気がして、義之の声はどんどん小さくなっていった。

(…………)

 そうして、しゅんと視線を落とし、夕焼けに照らされてのびた自分の影を見る。こんなことはいうのはただの、ワガママだ。こんなこと言っても、さくらさんを困らせるだけだ。ワガママをいっちゃだめだ。
 ――やっぱり、やめよう。

(だめだよね……)

 痺れた舌の上で行き場をなくした言葉未満の感情を義之は飲み込もうとした。

「ご、ごめんなさい。やっぱりなんでもな……」
「なるほどね、授業参観か」

 ぼそぼそとした撤回の言葉。それをいい終えるより先に、穏やかな声が響いた。

「……それで、ボクに来てほしいんだね。義之くんは」

 驚いて義之はさくらを見上げた。
 そこには呆気にとられたような顔はもうなく、かといって悲しそうな顔でもなく、笑顔があった。けれど、その笑顔もいつもの笑顔とは少し違う。
 この初音島で年中、咲き誇る薄紅色の花のように溢れるような満開の笑顔とは少し違う、この季節にしか咲かない青紫色の花のような、ちょっとだけ控えめの微笑があって、思わず義之は、あ、と声をもらした。

「そっか」

 納得したように頷いたさくらの声に、我に返る。しまった。これじゃ、はい、と答えたようなものだ。もうごまかせない。頷くしかなくなって、義之は肯定の言葉を言った。

「う、うん……そ、そういう、こと……なん、だけど」
「だけど?」
「ご、ごめんなさい。ワガママ言って。やっぱり、だめだよ……ね」

 視線を地に落として、義之が謝ろうとした時、ぽん、とさくらの手のひらが頭の上におかれた。そして、くしゃりとなでられる。

「いいよ」

 頭を撫でられながら、聞こえてきたその言葉に、ぽかんとした目で彼女の顔を見上げると、碧い瞳が静かに、やさしく微笑んでいた。

「い、いいの!?」
「にゃはは。あたりまえだよ。っていうか、どうしてダメって言われると思ったの?」
「だ、だって、さくらさん、仕事で忙しいし……。それにさくらさんは……」

 さくらはちょっとだけ悲しそうに表情を歪めたが、しかし、すぐに笑みを浮かべた。

「ボクは行ってみたいな。義之くんの授業参観。義之くんが普段、学校でどんなことしているのか、どんな顔をしているのか。見てみたい」

 そう言うと、瞳を伏せて、何故か申し訳なさそうに義之を見る。

「でも、いいのかな。ボクなんかで。ボクなんかが見に行っても……義之くんは、嫌じゃない……かな」

 悲しげな笑みと言葉。その意味が義之にはよくわからなかった。
 どうしてそんなことを言うんだろう? なんで、こんなにつらそうな顔をするんだろう?

(さくらさん……?)

 そんな彼女の顔を見ていると、胸の中の不安が掻き立てられる。
 さくらさんがどうして悲しそうにしているのか。さっぱり、わからない。けれど、ひとつだけ、たしかにいえることは、答えられることはあった。

「いやなわけないよ」

 義之は澄んだ黒い瞳でさくらを真っ直ぐに見上げた。

「ぼくは授業参観、さくらさんに来てほしいし、さくらさんに見てほしいんだ。だって、さくらさんは……お母さん……みたいな人、だから。だ、だから、来てくれると……うれしい、かな」

 その言葉にさくらは目を丸くして、驚いたように声をもらす。自分の言ったことに後になってから照れくさくなって義之もそのままかたまってしまい、2人の間に気まずいような、気恥ずかしいような、こそばゆい風が吹く。そうして、何秒くらいたっただろう。

「ありがとう、義之くん」

 ふいにさくらはそう言った。

「そういうことなら、ボクの方は断る理由はないかな。授業参観、喜んで行かせてもらうよ」
「ほんと!? ありがとう、さくらさん! ……って、あれ? なんで、さくらさんがお礼を言うの? お礼を言うのはこっちの方だよ」

 ワガママを聞いてもらったのは自分の方で、自分はさくらさんに何一つしてないのに。どうして、お礼を言われるんだろう。義之は首を傾げてさくらを見ると、からかうように、さくらは楽しげに言う。

「ふふ、そうでもないよ」

 その表情はいつもの見ているだけで安心する笑顔に戻っていた。

「??? ……とにかく、ありがとう。さくらさん」
「にゃはは。どういたしまして。それとね、義之くん」

 うん、と義之が返事をすると、また頭の上に手を置かれた。さくらは義之の髪を撫でながら言った。

「何事も謙遜や遠慮が美徳とは限らないんだよ。特にボクの前ではね。
 ……もっと、いいたいこといってもいいんだよ。欲しいものがあるなら、欲しいっていってもいいし、今回みたいに何か……ボクにできることがあるなら、そういってくれれば。ボクはなんでもしてあげるから」
「さくらさん?」
「……なんてね。にゃはは、ボクには似合わないか」

 義之が見上げると、さくらは照れたように笑い、再び黄昏の空を一瞥した。

「遅くなっちゃうといけないね。帰ろっか」
「……うん」

 義之がはにかんだ笑みを浮かべると、さくらは満足げに頷き、金髪を翻して踵をかえす。その隣に義之は並んだ。急ぐようなことを言ったわりにはずいぶんとゆっくりした足取りだった。

「……あ、でも、その前に買い物に寄っていいかな?」
「買い物?」
「うん。今日はボクもそっちの家で晩ご飯食べようと思うから、おかずのひとつくらいは持参しないと。寄り道になっちゃうから先に帰っててもいいけど……」
「寄り道でも別にいいよ!」

 義之は楽しげに声をあげた。せっかくだから、さくらさんに上手な食材の買い方を教えてもらおう、と思った。そして、何よりも。

「さくらさん、今日うちに来るんだ?」

 浮ついた口調で義之がたずねると、さくらはツインテールを揺らして頷いた。

「そうだよ〜、お兄ちゃんに文句言わないとねー。……あ、そうだ! 義之くん。せっかくだし今日はボクと一緒にお風呂にはいろっか♪ たしか前にみんなでお風呂屋さんに行ったっきりでしょ」

 妙案妙案♪ と楽しげに呟くさくらの隣でぴたり、と義之の足が止まる。怪訝そうに振り向いたさくらにかろうじて、義之は声を出した。

「…………。え、えと、もう一人で入れるから……」
「えええ〜!?」

 素っ頓狂な声をあげて、さくらは拗ねるように唇を尖らせる。

「も〜、謙遜と遠慮は厳禁だってば〜」

 ケンソンでも、エンリョでも、ゲンキンでもないのに……。義之は心の中でそう呟いて肩を落とした。妹と一緒のお風呂に入ろうとすれば自分が追い出されるのに、何故か姉とこの人は自分が追い出す側だ。

(はずかしいのに……)

 さくらさんやお姉ちゃんは恥ずかしくないのかな?
 そんなことを考えて足が止まっていたせいか、気がつけば先を歩くさくらとの距離は結構、広まっていた。それに気付き、さくらが振り返って、呼びかけてくる。

「ほら、義之くん。のんびりしてるとおいていっちゃうぞ?」

 そう言いながら、広げた手のひらを義之に向けて伸ばす。黄昏のそらから降りてくる茜色をおびて碧い瞳と金色の長髪が輝き、義之は一瞬、そんな彼女に見惚れるように、ポカンとして、

「……あ、待って。――――さん」

 半ば無意識にそう呟き、小走りに駆け出した。






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