Yellow Celebration


「おーい、義之ー! 来たぞ〜っ!!」

 一日を締めくくるホームルームが終わり、担任の講師が出ていくのと入れ替わりに教室に響いた声。
 声音を抑えることを知らない子供のように、無邪気無遠慮な甲高い声は、空気を震撼させ、思わずクラス中の人間が声の方を振り向く。教室前方の入り口。しかし、そこにあったのはまったく悪びれた様子のない満面の笑みで、教室の中から視線の集中砲火を浴びてもそれは微動だにしない。
 小さな身体で妙に堂々と胸を張っていて、喜色に輝く表情を見ると、すぐに誰もがあきらめたようにゆっくりと視線を元に戻す。

「失礼します!」

 やはり大きな、しかし、先ほどよりは気持ち控えめのボリュームで言い、来訪者は教室の中に足を踏み入れる。丁度、入り口のそばにある机に集まっておしゃべりをしていた女子の一群が「どうぞどうぞ」だの「いらっしゃい」なんて言ってその無垢な来訪者を出迎えていた。
 ホームルームも終わりあとは帰るだけという状況。クラスの中にあった弛緩したムードがさらに緩む。
 微笑ましそうに、あるいはからかうように自分に向けられている視線に気付いているのか、いないのか。来訪者は肩で風を切りながら、軽快な足取りで机と机の間を抜けて、あっという間に目的の人物に到達する。

「来たぞ、義之!」

 目の前に仁王立ちして飼い主のもとに戻ってきた犬のように大きな声。またクラスの視線が集まるのを感じて、桜内義之は片手で目頭をおさえた。

「二回も言わなくていい……」
「む、そうか」

 軽い頭痛を感じながらも、口から漏れた呟きに来訪者――天枷美夏は子供っぽい大きな瞳をさらに大きく見開く。

「わかった。今後は気をつける」

 そうして、すぐに笑顔になると共に義之の言葉に頷いた。
 その素直さには感心するものの、額面上の注意だけを受け取り、言葉の裏に込められた感情や、動作が何を意味しているのか、といったことをまったく察していないこともまた見て取れて、義之は再び頭を抱えた。

「なぁ、美夏。こうして毎日、クラスまで来てくれるのは嬉しいんだけど」

 ちらり、と教室を一瞥しながらの含みを秘めた言葉に美夏が目を瞬く。言外に含まれた意味を察してくれたのかと思ったが、どうやらそうではないようだった。

「ふむ。義之は美夏が来ると嬉しいか?」
「そりゃ、当たり前だろ」

 ふいに問われた言葉。嬉しいに決まっている。決まっているが、それにしても、もう少し周りの目というものを――。

「ふふ、義之がそう思ってくれるなら美夏も嬉しいぞ」

 にっこりと、美夏の表情が和らぐ。
 続けて小言の一つ二つを言おうとした義之だったが、目の前に広がる無邪気な笑みを前にして、そんな無粋な言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。

「……そ、そうか。そりゃあよかった」

 開きかけた口を誤魔化すように歯切れの悪い相槌を打つと、美夏は笑顔のままで少しだけ首を傾げる。

「『だけど』なんだ?」
「あ、いや……」

 美夏が教室まで迎えに来てくれることはとても嬉しいことだ。……なら、それでいいか。

「なんでもない。いつも来てくれてありがとな、美夏」

 得心すると、義之は笑みを浮かべて、最愛の恋人を歓迎した。「別に礼は必要ない」と言って美夏は得意げに腕を組む。その笑顔にはこれくらいは当たり前だ、と書いてあった。

「いらっしゃい、美夏」
「天枷さん、やっほ〜♪」

 そんな折、どこからともなく気楽な調子の声がかかる。
 見れば、風見学園入学当時からの友人であり、風見学園にいられる最後の年の今年になって、再びクラスメイトになることができた2人が、義之と同様に美夏に向けて歓迎の笑みを浮かべていた。

「杏先輩! それに花咲! 今日も来たぞ!」
「ええ。待ってたわ」

 慕いに慕っている先輩に迎えられ、美夏が発した声は、義之に向けるのとはまた別種の嬉しさを秘めていた。

「ありゃりゃ。天枷さん、私はオマケ?」
「む、そういうわけではないが……」

 茜がその隣で瞳を丸くして、戸惑った様子を見せると、美夏は言葉に詰まった。が、すぐに茜はその表情を引っ込めると、あっけらかんと笑う。

「なんちゃって。冗談冗談♪ 天枷さん、杏ちゃんのこと本当に慕ってるもんね、義之くん」
「そうだな」

 何故自分に向けるんだ、と思いつつも義之は相槌を打った。

「正直、少し嫉妬するくらいだ」

 冗談、ではあるが、多少は本気でそう思う。今も昔も、杏に対する美夏の慕い方、というよりなつきっぷりは尋常ではない。嘘でも誠でも、杏の言うことならなんでも信じる。そんな勢いだ。
 そして、杏の方もまた、あの『卒業』から2年後、再び風見学園に舞い戻ってきた後輩を大いに可愛がっているふしがある。
 「嫉妬?」と美夏の素っ頓狂な声が響く中で、杏は含みのある薄ら笑いを浮かべて、細めた瞳を義之に向けてきた。

「嫉妬、ねぇ。それならお互い様よ。私の大事な後輩を奪っていった罪深い男……」
「そいつは悪かったな」

 どうやら冗談に乗ってくれるようだ。義之もにやりと笑みを浮かべて杏の視線に答えた。

「そう思うのなら返してくれないかしら、この泥棒さん」
「そいつは無理な話だ」
「そう? それじゃあ、強攻策ね。義之の見ていないところで勝手に美夏にあんなことやこんなことをしちゃおうかしら……」
「その発言はドラム缶にコンクリ詰めになって初音島のビーチに流れ着く覚悟があると判断していいんだな」

 お互いにからかいの目と言葉がぶつかり合って奇妙な火花が散る。

「おろろ、これはこれは天枷さんをめぐってどろどろの三角関係が勃発〜♪」
「花咲。義之と杏先輩はなんの話をしているんだ?」

 楽しげに声をあげた茜の隣で、美夏が純心な瞳で問いかける。茜はそんな美夏に対して、からかう、といよりも無垢な子供を見るように微笑ましげに笑うと「大人の話、かな」などと意味深に言い、ますます美夏が首を傾げたのが視界の片隅に見えた。

「義之? 杏先輩?」

 これ以上、茜にたずねてもまともな解答は得られない、と判断したのか、美夏が助けを求めるように名を呼んでくる。義之は杏と一瞬、瞳を見合わせて「冗談、終わり」とアイコンタクトを取ると、2人同時に戯語を楽しむ時とはまた違った笑みを浮かべて美夏を見た。

「いや、美夏はかわいいな〜、って話さ」
「ええ。その通りね」
「…………さっぱり、わからんぞ」

 美夏は全く要領を得ない、と言うように不服そうに口許をへの字に結ぶ。
 怒っている、というよりは拗ねるような態度。からかわれているということは察しているのだろうが、そこに悪意がないこともわかっているのだろう。
 そして、天枷美夏という少女は細かいことにこだわる性格でもない。微妙な表情をしていたのもわずかな時間のことで「まぁ、いいか」と気を取り直したように口を開いた。

「ところで、杏先輩、花咲。今日は何か予定はあるか?」

 言葉と共に美夏が2人を見る。

「私は何も」
「ん〜、私も特に予定はないけど……」
「そうか! 今日は義之と一緒にどこかに寄って行こうと思っていたのだが、杏先輩と花咲も一緒にどうだ?」

 答えを聞き、美夏の瞳が喜色に輝いたが、何故か茜はにやり、と笑う。

「あはは、天枷さん。今日『は』じゃなくて今日『も』でしょ〜」
「む……」
「昨日も一昨日もたしか義之くんと天枷さん一緒だったよね」
「わ、悪いか?」
「ううん。別に〜。仲がいいようで何より何より♪」

 囃し立てられて、美夏は頬を朱色に染めて、決まりが悪そうにうつむいてしまう。そうやって派手に反応するから、ますますからかわれるってのに。恋人の純情さに義之は内心で苦笑した。

「それで美夏。さっきの提案なんだけど……」

 真っ赤になってしまった後輩に助け船を出そうと思ったのか、そうではないのかはわからないが、杏がそう言って話題を元に戻すと、「ああ」と必要以上に大きい声で美夏は頷いた。

「ど……どうだ、杏先輩? い、一緒に『花より団子』にでも寄って行かないか。そ、それに、おいしいカレー屋も見つけたんだ!」

 嘘がつけない性格ゆえか、声は明らかに上擦っていて、誤魔化しているのは義之からでも見え見えではあったが。

「そうね……ありがたい申し出だけどやめておくわ。私が一緒に行ったら嫉妬深い彼氏さんに何をされるかわかったものじゃないから」
「冗談だっての」

 流し目で見られ、義之は肩をすくめる。しかし、茜もまた杏の言葉に相槌を打った。

「そうだね。やっぱり、天枷さんに悪いしね」
「そ、そうか? 美夏も、義之も別に気にしないぞ」
「ああ。遠慮するなって」

 見るからに残念そうな顔になった美夏の言葉に、義之も賛同して2人を促す。しかし、多分、何を言っても2人の考えは変わらないだろうな、とわかっていた。

「まぁ、それはまたの機会に」
「そうそう。お邪魔虫はこれにて退散するので、お二人はゆっくりじっくり恋人同士の甘いひとときをどうぞ〜」

 茜の言葉に、美夏がまた頬を赤くする。
 必要以上に気を使われてもそれはそれで気が引けるんだけどな。そう思いつつも、せっかくの好意だ。素直に受け取くか、と義之は思った。
 美夏に目配せをすると、彼女もまた同じことを思ったようで義之の視線に対して小さく頷いてみせた。

「悪いな」
「わかった。ありがとう、杏先輩。花咲」

 口だけでお礼を言った義之の隣で、美夏は律儀にも頭を下げて礼を述べる。
 それじゃあ、と2人は締めくくるように言うと、それぞれの席に戻り、帰り支度をはじめた。これから2人してどこかへ行くのか、一直線に家に帰るのかは知らないが、ここでお別れ、ということだろう。

(みんなで茶店に入って他愛もない雑談をするのも悪くはないと思っていたんだけどな)

 そう胸中で惜しむ一方で恋人との2人きりの時間を確保できたことへの喜びも義之の中にはたしかにあった。

「では、美夏たちも帰るか」
「ああ」

 変わらず傍らに立つ美夏の言葉に義之は頷く。彼女は既に荷物一式を持っている。自分もさっさと帰り支度をするか、と義之が机にかけていたバックを取った時。

「ところで義之」

 耳元でささやかれる声。いつの間に忍び寄ったのか、杏が再びそばに来ていた。
 思わず口からこぼれかける驚きの声を堪えつつ、心変わりでもしたかと思い瞳だけを動かして彼女の方を見ると、杏は意味深な笑みを浮かべた。

「さっきの言葉、わりと本気だから」
「へ?」

 今度は堪え切れなかった。思わず義之の口から声がもれる。

「さっきって、どの辺り?」
「美夏にあんなことやこんなことをしたいってあたり……」

 驚いて席から立ち上がるも、杏は相変わらずのポーカーフェイスを崩さない。あんなことやこんなことって……。

「ど、どういう意味だ……」
「あら。私は美夏にゴスロリ服をコーディネイトしてあげたい、って思っただけなんだけど、何を動揺してるの?」
「…………」
「ひょっとして渉みたいに変な想像でもした?」

 くすり、と杏は不敵に笑う。そうか、戻ってきたのはからかいが足りなかったからか。
 胸の中を渦巻く敗北感と共に、友人の真意を悟り、奇妙に納得した。小恋が本島の方に引っ越してしまってからというものの、鉄板のいじられ役が不在になってしまったからか以前にも増して、自分がその役にされてしまうことが多い気がする。
 義之は薄笑いをして、軽く肩を落とした。

「杏先輩が美夏の服を選んでくれるのか!」

 そんな義之の思いも知らず、美夏は嬉しそうに声を張り上げる。相変わらず素直な後輩に杏はどことなく嬉しそうに微笑んだ。

「そうね。また今度一緒に行きましょう。でも、ふたりっきりで行くのはだめね。そんなことしたら、私が義之に何をされるか……」
「しつこいっての」

 元々は自分からふった冗談ながら義之は苦笑いした。

「しっかし、美夏にゴスロリ服、ねぇ」
「あら、不服? 結構、似合うと思うけど」
「うんうん。私も杏ちゃんの意見に賛成〜」

 腕を組んだ義之に、杏は挑戦的に言い放ち、同じようにいつの間に戻ってきていた茜もその隣で頷く。

「まぁ、私たちの見立てなんて、文字通り、頭の上からつま先の先まで知り尽くした彼氏様のお眼鏡とは比べるべくもないんでしょうけど」

 いちいち卑猥なヤツめ。何を言い返す気にもならず義之は閉口した。美夏が頬を微かに赤らめているのが視界の片隅に映る。
 杏はそんな美夏を一顧すると、それを潮にしたように口許にフッと笑みを浮かべた。杏は「とにかく」と前置きをし、真っ直ぐに視線がこちらに向く。

「私の可愛い後輩を泣かせたりしたら、いくら義之でも許さないからね、ってことよ」
「ああ。わかってるさ」

 間髪おかず、そう答える。泣かせるつもりなんてない。自分と彼女は共に歩いていくと決めたのだ。

「まぁ、義之なら大丈夫って信じてるわ」

 義之の返事に満足そうに杏は頷くと踵を返す。

「それじゃあ、また明日」
「義之くん、天枷さん。まったね〜っ」

 今度こそ杏と茜は2人して教室を後にした。また、ひょっこり顔を出すのでは、と警戒し、そんな2人をにらむように見送っていた義之だったが、その後姿が入り口を出て廊下の奥へと消えていったのを見ると、さすがにもう戻っては来ないだろうと判断して身体中の緊張を緩めた。

「ったく。相変わらず騒がしい奴らだ」
「……義之が人のことを言えるのか?」

 肩をすくめて義之が言うと、隣から呆れた声。そう言われるとどうにもコメントしづらい。ごもっとも、と義之が笑うと美夏もこたえるように笑った。

「それじゃ、帰るか。美夏」
「おう!」


 すっかり早くなった夕焼けの空が、通い慣れた商店街に緋色の帷を下ろす。
 思わず襟元をきつく締め直してしまうひんやりとした風が店と店の間を吹き抜けていき、道路の所々に植えられた街路樹を揺らす。音をたてて揺れる枝木には花や葉の一枚もなく、傍らにあるオモチャ屋の店頭に置かれたオモチャのクリスマスツリーが人工の葉を人工の光で輝かせているのを背にして、樹はその堂々たる体躯と、落ちるものが全て落ちてこざっぱりとした枝で、天から注ぐ暁光を受け止めていた。
 そんな寂しげだが自然な冬の景観も、3年目ともなればいい加減、見慣れたもので、再び一陣の風が吹き抜けたことを契機にして、義之は視界の片隅に映った街路樹から、隣を歩く恋人へと意識を戻した。

「すっかり冬だなぁ」

 義之の視線を受けてか、トレードマークである真紅のマフラーを風にたなびかせながら、美夏は呟く。

「そうだな。もう冬……コタツでミカンな季節だ」
「ふむ。コタツでミカンか。あれは美味いな」

 美夏の言葉にだな、と頷きながら、そういえばそのミカンが切れかかっていたことを思い出す。
 近所からのお裾分けで大量にもらったのだが、一気に冷え込んできた気候にあわせて芳乃家の居間にコタツが引っ張り出されると共に、その消費速度は爆発的に加速し、あっという間に食べきってしまっていた。

「丁度いいし、今日の帰りに買って行くか」

 質問するというよりも確認するような口調で義之が呟くと、美夏はちょっとだけ眉を寄せた。

「そのことに異論はないが……バナナではだめか?」
「バナナ?」
「ああ。なにもコタツで食べるのはミカンでないといけないということはないだろう」

 やけに強い口調で言われる。ミカンの美味しさは認めるが、バナナには勝らない、ということか。
 コタツでバナナ。義之の中でこれまで培ってきた日本人としての感性が奇妙な違和感を覚えないこともなかったが、美夏の言いたいことは、ようはバナナが欲しいということだ。

「ホントにバナナが好きだな、お前」
「ふん……」

 相変わらず自分からバナナを求める美夏の姿には違和感が付きまとう。天枷美夏といえばバナナ嫌い。そのイメージが義之の脳裏には根深く残っている。それを義之が指摘するたびに「美夏がバナナ嫌いで通していたのは最初の一ヶ月だけだろう」と彼女は怒ったように返すがその一ヶ月のインパクトがありすぎた。
 とはいえ別に断る理由もない。そういえば、美夏が毎日のように芳乃家に顔を出すようになってから、意識して買い置きしておくようにしていたバナナも今は切らしていたな、と同時に思い出す。今日の帰りにミカンとセットで買っていくか。
 そう、思ったのだが。

「んー、そうだな〜」

 義之は勿体ぶった口調で言うと、にやり、と口の端をつり上げた。

「あいにくと、この国では冬場のコタツではミカンを食べないといけないって法律で決まってるからな」
「そうなのか!?」

 軽い調子で言うと美夏は仰天して声をあげる。

「そうなのさ。ぬくぬくのコタツはミカン様の独壇場。それ以外の果物は駆逐しておかないといけないんだ」
「美夏のデータベースにそんな法律はなかったが……」
「最近、制定されたばかりの新法なんだ。長いこと眠っていたお前が知らないのもまぁ無理はないけど」

 ふむ、と美夏は頷いた。どうやら信じ込んだようだ。

「別に美味いからってだけで規定されたわけじゃないぞ。ミカンのビタミンCは風邪の予防に効果覿面。つまり、寒い冬場で国民が風邪をひかないようにってことだ」
「成る程……理にかなっている」
「他にも現代人がかかりやすい動脈硬化や脂質異常の予防効果があるってことも、必須果物になっている大きな理由だ」
「ふむふむ……」

 口から出る完全な出任せにあわせて、いちいち彼女は神妙そうに頷く。言葉の一つ一つに疑うそぶりもなく、全て受け入れるその素直さ、その反応に満足してから、

「……まぁ、大嘘なんだけどな」

 義之はなんてことはなさげに言った。美夏は一瞬、ぽかんとして、それから数刻の後、眉をつり上げて義之を睨んだ。

「義之〜っ!!」
「あはは、悪い悪い」
「むう……お前はどうしてそうくだらない嘘や冗談が好きなんだ」

 理解できん、というように美夏は腕を組んで唇をとがらせる。そういう反応をするお前が可愛いから、などとはさすがに当人の前では言えない。

「っても全部が全部が嘘ってわけじゃないぞ。風邪の予防とかに効果があるのは事実だし」
「ふん。根っこの部分が嘘ではどれくらいが嘘でも変わらん」
「あはは……ごもっとも」

 平謝りした義之を見ても、美夏はご立腹のようだったが、

「ま、機嫌直せよ。ちゃんとバナナも買ってやるからさ。たまにはコタツでバナナってのもいいかな」

 バナナ。そのフレーズを聞くやいなや、不機嫌に結んだ口許が一気にほころいだ。

「本当か!」
「ああ。たくさん買って帰るぞ。ただし、その代わりに今日はチョコバナナはなしだ」

 嬉しげに花開いた笑顔も、言葉の後半部分を聞くにつれてぴたりと凍り付き、微妙な表情になる。それを見て義之は慌てて冗談だ、と付け足した。

「義之ぃ〜」

 不満そうな、というよりは泣きそうな目で見上げられて、義之は悪かったって、ともう一度頭を下げた。憮然とした様子で美夏は唸り声をあげて見上げてくる。

「うう〜!」
「悪い悪い。反省してる」
「本当にそう思ってるならそのにやけた笑いはなんだ」

 見せつけるように美夏がため息をつく。冬場の寒さにあたりそれは真っ白にそまった。

「……まったく、お前というヤツは本当にどうしようもないヤツだな」
「そうかもな」

 義之は笑い声を混ぜた気楽な相槌を打った。
 どうしようもないヤツ、と言いながらも美夏の表情と声からはまったくトゲは感じられなかった。出会ったばかりの頃なら、こんなことを言う時はそれこそ心底から見下した目と冷淡な声を向けてきたものだが。

「お前みたいなどうしようもないヤツの相手がつとまるのはこの美夏くらいだろうな」

 それが今では。こうやって、得意げな笑みを浮かべて身体を寄せてくる。今となっては罵りも軽口の一つ。親愛を確かめる儀式だった。

「はは、違いない」

 その身体をさらに引き寄せて、肩と肩を触れあわせれば、冬の寒さも幾分か和らぐ。単純に体温と体温を重ね合わせただけではない、心と心の繋がりが生み出すあたたかさ。そこに人間とロボットなどという区別は些細なものだ。
 再び、寒風が吹き、頬を撫でていったが、その程度でこのぬくもりが消えるはずもない。
 寒天の下、わざわざ出歩こうという人は少ないのか見る限り、周囲に人影は見えなかった。冬の商店街の時間は、微かに響くクリスマスソングの音色だけを残して静かに流れていく。

「美夏」

 自然と彼女の名前が口をついて出た。
 名を呼ばれ、改めてこちらを振り向いた美夏の瞳。純朴な悦にそまっているその大きな瞳を、含みを込めた視線で見つめれば、純朴さの中に微かに艶っぽい色が宿る。
 意思が伝わったのか、美夏は口許をむすぶと、唇を突き出すようにして、首を微かに傾けた。
 あからさまにすぼめられた唇と朱色にそまった頬は相変わらず『レディ』という表現を用いるには程遠いもので、内心で苦笑するものの、この子供っぽさも嫌いではない。恥ずかしさからか瞳を覆っている瞼の、長い睫毛が醸し出す優麗なカーブを視界に据えながら義之は美夏の背中に腕を回し、さらに強く、そして近くに抱き寄せた。

「んっ……」

 そうして、唇と唇がゆっくりとふれあう。そこまで深いものではない。お互いの体温を確かめ合うだけの浅くて、ほんのりとしたキス。そう長くない時間の末に、身体を離すと、美夏が不満そうに上目遣いを向けてきた。

「もう……終わりか?」
「ここじゃあな。ちょっと場所が悪い」
「むぅ……」

 義之自身、名残惜しくはあったが場所が場所だ。今は人気が少ないがいつ誰が来るか、わかったものではない。
 少し距離を取ってから、改めてお互いの瞳を見ると、美夏は夢見心地のように瞳をぼんやりとさせながらも、照れくさそうに笑っていた。

「……勝った」

 そんな仕草を相変わらずかわいいなぁ、と思いながら義之は短く呟いた。
 唐突な宣言を怪訝に思ったのか美夏はぼんやりとした瞳のまま、不思議そうに眉を寄せる。

「なにがだ」
「今日はチョコバナナに勝った」
「はぁ?」

 素っ頓狂な声。何を言っているんだ、お前は、というように呆然とした顔になった美夏に構わず義之は続けた。

「いつもチョコバナナの後だっただろ。俺とのキス」

 美夏は、やはり呆然とした表情のままではあったが少しずつ言わんとしていることがわかってきたのか「ああ……」と呆れたように相槌を打つ。
 美夏が帰ってきて、正式に付き合いだすようになってからもう半年以上。彼女と口づけをすることは別に珍しいことでもないのだが、そのほとんどはチョコバナナの味のキスだった。帰り道でチョコバナナをかじって、その後に、というのが2人の間で定番になっていた。
 だから、今日のようにそれ以前――本当の美夏の唇の味を感じられる機会は、珍しい。
 とはいえ、本気でチョコバナナと争っているようなつもりはなく半分以上、冗談の言葉だったが。

「チョコバナナと張り合ってどうする」

 呆れきった口調で美夏が言う。

「いや、お前のバナナ好きは尋常じゃないからな。彼氏としちゃあ、ついつい嫉妬の一つもしちまうさ」
「食べ物相手に嫉妬するとは、人間というのは奇妙……いや、難儀な生き物だな」
「俺の中の嫉妬機能は対象の種類を問わないんでね」

 理解できない、というように眉をひそめる美夏。これは冗談だとばらすタイミングを失ってしまったかな、と義之が思った時、

「そういえば、さっき教室で杏先輩にも嫉妬すると言っていたな」

 思い出したように美夏が呟く。

「そうなのか?」
「ん……まぁ、どっちかと言われれば、しないこともない、かな」

 美夏と杏の仲がいいのは周知の事実で、その理想的な先輩後輩の関係は義之も好ましく思う。しかし、時折、美夏の彼氏である自分でも踏み込めない領域が形成されていることにほのかな寂しさを覚える時もある。ならば、これは嫉妬しているということなのだろう。
 歯切れの悪い義之の言葉に美夏はふむ、と頷くと、

「別に張り合ったりしなくても、美夏が一番好きなのは義之だぞ」

 それは、本当にさりげなく。当たり前のことをただ確認しただけというような口調だった。

「たしかにバナナは好きだ。チョコバナナも、バナナパフェも大好きだ。杏先輩も大大大好きだし、花咲や白河も嫌いではない。……だが、美夏は世界で一番、義之が好きだ! 大大大大大好きだ!」

 こちらを真っ直ぐに見据えてのハッキリとした笑み。

「だから、よけいな心配はしなくてもいいぞ」

 照れに顔を背けることもなければ、言いよどむこともない。臆面も何もない恋人の純心さに撃ち抜かれ、思わず義之は言葉を失った。
 不意打ち、だった。

「…………」

 本当にもう。どうしてこいつはこういうことを恥ずかしげもなく堂々と言い放つことができるのか。
 わかっていた。美夏の、恋人の気持ちくらい、義之にはよくわかっていた。しかし、やはり、改めて口に出されるというのは胸に迫るものがある。再確認という行為は一見、無駄なようであるが、人間にとって何よりも大切なことなのだ。そして、多分、ロボットにとっても。
 感情の再確認、感情を確かめ合う行為。それをしたいから恋人たちは。

「義之? どうしたんだ、そんな顔をして」

 不思議そうに美夏が言う。
 嬉しさのあまりかたまっていたなんてことは言えない。誤魔化すように義之はかぶりを振った。

「……いくらなんでもダイダイ言い過ぎだっての」
「む、本当にそう思っているのだから仕方がなかろう……義之?」

 怪訝な顔をする美夏にも構わず、義之は再びその背中に腕を回すと、小柄な体躯を抱き寄せる。少し慌てた声をあげた美夏に構わず、その唇に自分の唇を再度、重ねた。
 再び重なる体温。唇を介して伝わってくるほのかな熱。
 本当、ダイダイ言い過ぎだ。大丈夫。それだけ大袈裟に言わなくても、お前の気持ちくらいわかってるからさ。苦笑いする思いで胸中を和ませながら、美夏の唇の味を堪能する。
 彼女の言葉はまさに子供の言い回しだ。臆面もなく大声で「大好き」と宣言する。それだけだ。とにかく大好きだと、愛していると伝える手段を美夏はそれしか知らないのだ。なんて子供っぽいんだろう、と思う。なんて素直なんだろう、とも思う。
 思えば普段の強気な態度も、最初に出会った頃のつっけどんな態度も全てはそのせいなのだろう。彼女はどこまでも純心なのだ。だからこそ、魅かれた。
 いつまでそうしていたか。先ほどよりも随分と長いキスになってしまった気がする。

「……強引だぞ」

 微かに唇を離し、息継ぎをするように美夏はそう呟く。呆れた声音に口許を撫でられ、義之は「悪い」と小声で呟くと、両腕を離し、彼女の身体を解放した。その時点で思った以上に強く彼女を抱きしめていたことに気付く。ひょっとしたら痛かったかもしれない。

「ちょっと場所が悪い……じゃなかったのか」
「あはは、悪いな。我慢できなくなっちゃって。強引さに失望したか?」

 義之は自嘲っぽく言って美夏を見た。美夏は間を置かず「いや」と呟くと、

「……手荒に扱われるのも美夏は嫌いではない」

 そう言って、恥ずかしげに眼をそむけた。真紅のマフラーが冬の風に吹かれて揺れる

「それに義之の唇はバナナより美味いしな」
「バナナ?」

 これはバナナに嫉妬すると言った自分への気遣いなのか。それとも本気でそう思っているのか。無垢な彼女とは違い世俗にそまった自分の心ではそれがわからない。結果、そのバナナより美味しいらしい唇の隙間から「なんじゃそりゃ」と声が漏れた。

「う、うるさい。本当にそう思ったんだ」

 美夏は一瞬、こちらを睨むように見て、目元から頬までを真っ赤にそめてそっぽを向いてしまった。

(ま、どっちでもいいか)

 自分を気遣ってくれたにせよ。自分の唇を「美味しい」と言ってくれたにせよ。どちらにしても、彼氏としては喜ばしいことだ。義之が意識せずに口許に笑みを浮かべた時、商店街全体に漂っていたクリスマスソングとは異なるメロディが耳に響いた。
 ハッとして義之と美夏は互いに目をあわせる。音の発生源は義之のズボンの右ポケット。間が悪いなぁ、と思いながら、義之は手を突っ込んで、持ち主の思惑など考えずに単調にメロディを流し続ける携帯を取り出した。

「もしもし……」

 せっかくいい雰囲気だったんだけどな。そんな思いが滲んだちょっとだけ気張りのない声を携帯に寄せると、そんな自身の声と対比するように「兄さん」と張りのある声が電話越しに耳を打った。

「ああ……由夢か」
『む、なんですか。その物言いは』
「いや、なんでも」

 答えながらちら、と美夏の方を見る。なんだ? とばかりに自分のことを見返してきた瞳は、先ほどの熱を微かに残してはいたが、平常の色に戻りつつあった。

『例の物、ちゃんと取ってきましたよ。一応、ご連絡しておこうかと』

 妹の報告にそうか、と頷く。お前もマメになったなぁ、と思う反面。その律儀さに今はちょっとだけ文句をつけたくなる。

「わかった。ありがとう、由夢」
『いえ。このくらいはなんてことはありませんよ。……今、天枷さんと一緒ですか?』
「ああ」
『それじゃあ、帰りはもうちょっと遅くなりますね』

 相槌を打つと電話越しの声が少しからかうような響きになる。妹にまでからかわれる我が身に自嘲の思いを抱きつつも、義之はそうなるな、と苦笑いして答えた。

「少し買い物してから帰るよ」

 今日の晩餐に必要なものは昨日のうちに買い揃えているのだが、そのことを由夢に追求されることはない。ここで言う買い物で重要なのは『必要な物を手に入れること』よりも『恋人とふたりきりの時間』。
 それを耳にたこができるくらい五月蠅く言って教えてくれたのは由夢なのだから。

『はい。楽しんできてくださいね』

 猫を被っているわけでもなく、かといって生意気なわけでもない妹の声。「兄さんと天枷さんの仲は全面的に応援します」と公言して憚らないその態度は、時には恥ずかしくも思うが、やはり嬉しく思う。

「ああ。……それじゃ、わざわざ報告、ありがとな」

 いい雰囲気に水を差されてしまったことについて、小さな皮肉をこめての言葉だったが、妹はその意図を理解してはいないだろう。気にしないでください、とだけ声を残すと、電話はぷつりと切れた。

「誰からだ?」

 義之が携帯をポケットにしまうと、ちょっと離れたところに下がっていた美夏がこちらに踏み出してきていた。

「そんなに恐い顔するなって。由夢からだよ」
「別に恐い顔などしておらん」

 美夏は憮然とした声を返すと「それで」と先を促す。どういう用件だったんだ? と瞳が聞いていた。
 そんな美夏の質問の視線を受けながら、どう答えようかと義之は思考をめぐらせた。自分が彼女のように素直な人間であれば、こんなことは考えるまでもないことなのだろうが。

「いや、たいした用じゃなかったよ」

 生憎と。純朴な恋人にくだらない謎掛けをしたり、ビッグニュースはぎりぎりまで隠しておいて驚かせる。そうして恋人が戸惑う姿を見て楽しむ程度にはひねた人間なのだ。
 それに今回のことをぎりぎりまで伏せておくのは由夢の意思でもある。義之がとぼけてみせると、美夏は特に気にした風もなく「そうか」と呟いた。

「相変わらず仲がいいな」
「嫉妬したか?」
「いや。兄妹仲がいいのは良いことだ」

 冗談めかした問いに、間髪入れずに返される。声に動揺はなく、全くもって平然としたもので、本心からそう思っていることがわかった。

(それもなんだかなぁ)

 義之はこっそり肩をすくめた。まぁ、恋人と妹の仲が良くて、悪いことはないか。

「どうした?」
「いや、なんでも。ってか、兄妹仲ねえ……そう言うならお前も美冬さんともうちょっと仲良くしてやれよ」
「美冬か……。それとこれとは話が別だ」

 ちょっと焦ったように美夏は言い放つ。

「だいたいあいつが勝手に美夏のことを『お姉様』などと呼んでいるだけだ」

 微かに頬を赤くして美夏はかぶりを振った。
 美冬というのは天枷研究所で所長の秘書として働いている1人のロボットの名前だ。μのプロトタイプとして作られたらしい彼女は、外見はμそのものなのだが、市販されているμよりも遥かに豊かな感情表現を見せてくれる。
 美冬は美夏のことを『姉』として慕っており、こうも無下に扱われるのはどうかと思うが、美夏も本心では彼女のことを嫌っているわけでもないだろう。おそらくは他の研究所の所員や所長、水越先生に対する態度と同じで自分に向けられるストレートな好意に戸惑い、恥ずかしがっているだけなのだ。

「ま、いいけどさ」

 それなら、自分がとやかく言うことでもないかと思い義之はそれ以上、追求しなかった。

「んじゃ、これからどうする? 先に買い物に行くか、それともチョコバナナ……って聞くまでもないか」

 チョコバナナ、と聞いた途端、輝いた美夏の瞳が夕焼けの光を浴びて眩しい。本当にこいつはバナナが好きなんだなぁ、と義之は苦笑いした。



 純和風建築の趣で彩られた芳乃邸の居間。敷き詰められた畳の緑と、壁の柱、天井の木目が眩しいその中にあって、中心となる大きな机の上に並べられた品目の数々に、美夏は驚きに目をむいた。

「……!」

 それでこそ、煙に巻いたかいがあるというもの。自分でも趣味が悪いと思いながらもひそかにほくそ笑むと、義之はそんな美夏の様子に気付かないふりをして話をふった。

「どうだ、美夏」
「よ、義之……」

 ハッとしたようにして美夏がこちらを振り向く。その視線が先ほどまで見つめていた先、机の上は所狭しと料理で埋め尽くされている。
 それも量が多いというだけではない、丹念に焼き上げた鶏のもも肉が焼き目の隙間から、脂身の香りを立ち上らせ、その隣にはジャガイモを切って揚げたお手製のフライドポテトとサラダが並ぶ。見ているだけで寒さも一気に吹き飛ぶような湯気がわき出ているコーンスープは味噌汁用のお椀に淹れるような惰性は犯さず、銀色の平皿に注ぎ込まれ、添えられた緑葉とあわさりほのかな高級感を放っている。
 他、小皿を埋め尽くすグリーンピースや、主食のご飯とは別に用意されたフランスパンやグラタン等。普段の食事ではあまりお目にかかれない高級感に彩られた料理が色とりどりに並び、眺めているだけで満腹になってしまうような幾何学模様を形成していた。

「きょ、今日はやけに手が込んでるな……どうしたんだ」

 あれからチョコバナナをかじりながら義之たちは商店街をぶらぶらと巡遊し、当初の予定通りスーパーでバナナとミカンを買ってから芳乃家に帰ってきた。
 買い物の最中、「今日の晩ご飯はどうするんだ?」と美夏に聞かれてもはぐらかし、家に帰ってからも夕食は由夢と2人で準備するから、とだけ言い、美夏には居間で待ってもらっていた。そうして、昨日のうちから下準備していたこれらの料理を仕上げ、今し方、由夢と2人で机の上に運んだところだ。
 手伝うぞ、と幾度となく提案したもののそれをやんわりと断られ続け、居間で大人しく待っていた美夏だったが、調理中に台所から漂ってくる香りから、今日の晩餐は普通ではないということは察していただろう。しかし、さすがにこれほどのものは予想外だったと見え、その表情は驚きに染まっている。
 義之はお箸やフォークといったものを机の上に3人分並べると満足げに笑った。

「今日はちょっと特別な日だからな」

 冗談めかして言うと、台所から居間の方へと、この机に並べる最後のメニューを運んでいる途中の由夢が「そうですね」と声だけを返してくる。
 さっぱりわからない、というように義之の言葉をオウム返しした美夏だったが、

「特別な日……?」
「はい、天枷さん」

 台所から現れた由夢がその手に持っているものに目をとめ、顔色を変えた。

「そ、それは!?」

 由夢に両手で大事そうに抱えられたお皿の上にあるのは、ケーキだ。
 全身から嗅覚をなでる穏やかな香りを放ち、ふっくらとふくらんだ丸っこい姿。そのところどころにホイップクリームの白や、茶色のこげをまといながらも、その下地は黄色い色。美夏が大好きな、バナナの色。

「そのケーキは……!」
「はい。バナナケーキです」

 テーブルの中央にケーキを置きながら、由夢は笑顔を美夏に向けた。

「今日の帰り、由夢に取ってきてもらったんだ」

 注文しておいたバナナケーキ。妹にはそれを取りに行く役を担ってもらった。
 別に自分で取りに行くことをかったるい、と義之が思ったわけではない。むしろ、自分で取りに行こうとしたのを由夢に止められた形だった。
 昨晩のこと。自分がケーキを取りに行く、と提案してきた妹の顔が脳裏に浮かぶ。その申し出に「別にケーキくらい自分で取りにいくけど」と渋った義之に対して彼女は。

「えーっ、それじゃあダメだよ、兄さん。いくら天枷さんでも、さすがにケーキを買ってる姿を見ればわかっちゃうよ。やっぱりこういうのって直前まで秘密にしておいたほうがいいと思うし」
「だったら明日は美夏とは帰りを別にして、後から家に来てもらえば……」
「それは絶対にだめです! 彼女との時間は大切にしないと」
「そ、そうか……」
「もう、本当に兄さんは女心がわかってないなぁ……。ケーキは私が取りに行きます。兄さんは明日も、天枷さんと2人でゆっくり放課後を楽しんでください。それが、彼氏の義務だよ」

 美夏と一緒にいることが彼氏の義務。そう言い切った時の由夢の妙にさっぱりとした笑顔からは以前の「かったるい病」からは考えられないくらいの気配りが感じ取れて兄としては感無量な気分にもなったものだ。

(ったく変に気を回しやがって)

 気遣いをありがたく思いながらも背筋がむずかゆくなる。少し前なら、由夢がこんな態度を取ることもなければ、それに素直に感謝する自分もいなかっただろう。夕食の準備の手伝いだって、以前の由夢からすれば到底考えられないことだ。
 今年の春、美夏が帰ってきてからというものの、由夢はどこか素直になった。まるで何かを吹っ切ったかのように。長年、兄妹として共に生きてきた身としては、何か裏があるのでは、と勘ぐってしまうくらいの気配りで自分と美夏の仲を応援してくれる。
 いや、自分と美夏のことを応援してくれるのは由夢だけではない。今は初音島にいない姉や、小恋。相変わらず学園でバカ騒ぎをする悪友連中。それに――。
 みんな自分たちのことを応援してくれて、心から祝福してくれている。
 だからこそ、今日という日に意味がある。義之は改めて得心すると、美夏を見た。

「バ、バナナケーキ……それもこんなに大きな……」
「喜んでくれるのは嬉しいがよだれが出てるぞ」

 義之が苦笑いすると、美夏はハッと口許を隠した。「天枷さん」とこちらもやはり苦笑交じりに呼びかけた由夢の手にはいつのまにかハンカチが握られていて、美夏は慌ててそれを受け取ると、口許をぬぐった。

「と、と、とにかく! ありがとう2人とも!
 ……しかし、どうしたんだ、いきなり? こんな豪勢な料理にケーキ、ただ事ではないぞ」
「どうしたもこうしたも、なぁ」
「ええ」

 義之が笑いを堪えるようにして、由夢に頷きかけると由夢もくすり、と微笑で口許を緩めながら相槌を打つ。そんな2人に美夏はきょとんと首を傾げた。

「今日は特別な日と言っていたな……はっ、まさかクリスマスパーティーか! クリスマスは延期しました、というやつか!?」
「んなわけないだろ。ってか、仮にこれがクリスマスパーティーだとしてもそれは『延期』じゃなくて『前倒し』だ」
「うぐ……それくらいわかっている。わかっていて、わざと間違えたんだ」

 子供っぽく唇を尖らせた美夏に対してそういうことにしておいてやるか、と義之は笑った。

「しかし、いったいなんなんだ……皆目検討がつかん……」

 美夏は腕を組むと、頭から煙が出るのではと思うくらいに唸り声をあげて考え込んでしまった。そんな姿も相変わらず可愛いな、と思う。

「さぁて、なんだろうな」
「うーむ……教えてくれ義之。さっぱりわからんぞ」

 ねだるような目に見られる。義之としてはもう少し困った様子の彼女を観察していたかったのだが、そんな義之の思いを見抜いてか、由夢が口を開いた。

「ね、兄さん。そろそろ教えてあげようよ」
「俺としてはもうちょっと美夏が困っている顔を見ていたんだが」

 冗談めかした返事に由夢は呆れたようにジト目になる。
 相変わらず妹のその目に射貫かれるとなんともいたたまれない気分になるもので、決まりが悪くなってしまい義之は逃げるように視線をそらした。

「ま、まぁ、あまり時間をかけると料理も冷めちまうしな」

 口調もついつい言い訳じみたものになってしまうが、しかし、いい加減、種明かしの時間か、という思いは義之の中にもあった。

「美夏。今日はなんの日だ」

 義之がそう言うと、美夏はキョトンとした顔になった。

「今日? 今日は、えーっと……えーっと」

 眉根を寄せて考え込むものの、なかなか思い当たることがないのか、焦ったような声が響く。
 すぐに思い出せなくても無理はないな、と義之は思った。今日という日は少なくとも世間的には何のイベントもない平凡な日だ。
 義之にとってもそうだった。今日という日を示す数字の並びは、一年のなかで24時間おきに区切られる単位のうちの一つ。それ以上のなんでもなく、この日に思いを馳せることもなければ、わざわざケーキや気合いを入れた料理を用意する特別な日でもない、否、なかった。3年前までは。
 あれから、もう3年か。あの時は。3年前の冬の日は、まだ初音島の桜は一年中咲いていたっけ―――。

「あ!!」

 義之が随想の光景を思い浮かべていると、美夏の高い声が居間の空気を震わせた。

「そうか、今日は……」

 なつかしむように瞳を細めた美夏に対して、義之はそう、と頷き今日の日付を告げた。
 今日は12月16日。3年前の今日の昼休み。義之は杉並に連れられて学園を抜け出した。そうして行った先、あやしげな洞窟の奥底に美夏は眠っていた。

「……美夏が起動した日」
「ああ。眠っていたお前が目を覚まして、俺とお前が初めてあった日」

 最初は何かの冗談かと思った。あやしげな洞窟があって、その奥に進んでみれば物々しい機械と共に置かれたカプセルの中で女の子が眠っていて。しかも、その女の子がロボットで。
 その時はただ目の前で起こった出来事を現実と理解するのに精一杯で、後に自分がそいつの面倒を見る羽目になって、ましてやそいつと今のような関係になるなんて。恋人同士になるなんて、まったく想像していなかった。

「そうか……それで……」

 たしかめるように美夏は呟くと、机に並べられた料理の数々を、次いで義之と由夢の顔を交互に見、そして、そのまま沈黙した。まさか気分を害した、ということはないだろうが、居間に降りた静寂の波にちょっとだけ不安になる。

「誕生日みたいなものだと思って、こうして兄さんとお祝いの準備をしたんですけど……えっと、もしかして、余計なことでしたか……?」

 それは由夢も同じだったようで、少し尻込みしたように言う。ハッとして美夏は顔をあげると「いや!」という大声と共に首を横に振った。

「そんなことはないぞ! そんなことはない……ないのだが……」

 しかし、その言葉も徐々に尻切れトンボになっていく。

「美夏?」
「そ、そ、その……なんだ。へ、変なのだ。色々と! なんだか胸の中がぽわーっとなって、頭の中が……」

 心配そうに見る2人の視線から逃れるように美夏はうつむいて表情を隠した。

「う、嬉しすぎて……オーバーヒートしてしまいそうだ……」

 再びあがった顔。その頬は真っ赤に染まっていて、目尻には涙までにじんでいた。どうやら、心配はただの杞憂で、喜んでもらえたようだった。いや、少し喜びすぎか。

「バカ。泣く奴があるか」
「だ、だって……」

 義之が呆れたように言うと、美夏は指で目をこすりながら、訴えるように言う。

「美夏はこういうことになれてないのだ、仕方がなかろう……」
「それじゃあ、喜んでもらえましたか?」
「それは……もちろんだ!」

 由夢が微笑みかけると、美夏はまだ涙の跡が残った瞳を煌々と輝かせ、満面の笑顔で頷いた。

「義之、由夢。……ありがとう!」

 そうして、神妙に深々と頭を下げる。相変わらず何事にも大袈裟なやつだ、と義之は苦笑いしながらも、そんな美夏のことがやっぱり好きだ、と思った。
 美夏は頭をあげると確認するように壁にかかったカレンダーに目を見やる。

「もう12月なんだな。本当、月日が流れるのは早いな……」
「そうですね。天枷さんが帰ってきてからもう一年なんですね」
「正確には八ヶ月だな」

 細かい突っ込みに由夢は「広義的には一年でいいじゃないですか」と抗議するように睨みを向けてきたが、義之は笑って流した。

「まぁ、あっという間だったからな。実は俺もあんまり実感がない」
「義之もか?」
「ああ」

 頷くと、美夏は「そうか」と楽しげに笑った。
 今年の4月の頭。美夏が風見学園に帰ってきてからというものの、月日が流れるのは本当に早かった。毎日のように一学年上の義之の教室まで美夏はやって来た。昼休みになると一緒に食事をして、放課後になると一緒に帰り、チョコバナナやバナナパフェを食べて、場合によってはそのまま芳乃家までやって来て、晩ご飯も一緒に食べる。そんな2人の仲を杏や茜にからかわれたり、由夢や委員長に応援されたり。
 文化祭を一緒に見て回ったこともあれば、体育祭で互いの得点を競ったこともあった。
 それはとても楽しくて、彼女がいなかった2年間の空白を補って余りあるくらいに充実した日々だった。

「もう冬なんだな……」

 そうして気がつけば、季節は再び、冬。最初に彼女と出会った季節。嬉しいことも悲しいことも、色んなことがあった季節。
 だけど、あの時とは決定的に違うことがある。

「もう離さないからな」

 義之が美夏を見ると、美夏は最初、何を言われたのかわからないようにぽかんとした顔をしたが、すぐに意味を理解したのか、ほのかに頬を赤らめながら笑みを浮かべた。

「ああ……美夏も二度と義之のそばを離れるつもりはない」

 そして、手のひらを差し出してくる。

「これからもよろしくな、義之」

 見せつけてくれますね、とでも言いたげな由夢の楽しげな視線にも構わず、義之はその手を取り、ぎゅっと握った。あの時と違って、今度は彼女と共に冬を越して、春を迎えることができる。
 これから先、移り変わる季節の中、俺は美夏とずっと一緒にいるのだろう。

「ああ。よろしくな、美夏」

 握り合った手のひらの感触が、あたたかかった。



戻る

上へ戻る