「ポーカーフェイスの裏側で」
「ほら、杏」
風見学園の校舎の中にあっても、外界との往来箇所である昇降口にはひんやりとした寒威が漂い、心身を冷やす。苛ぐ指先で恋人の外履きを手に取った義之は笑顔と共にそれを恋人の前に差し出した。杏は「ありがとう」と短く返事を告げると代わりに手に持った上履きをこちらに向ける。
「でも義之、いくら私でも自分の靴箱を忘れたりはしてないわよ?」
「そりゃ、わかってるさ」
ポーカーフェイスの口許がすねるように動く。その微かな動作を読み取りながら義之は肩をすくめ、彼女の上履きを靴箱にしまうと、自分の靴箱に向き直った。
小柄な恋人よりも一歩先に昇降口に辿り着いた身。単純に気を利かせただけで他意はなかったのだが、たしかにそう取れないこともないか。なんでもかんでも忘れていると思われるのは不服だろう。
彼女の些細な心の動きにも配慮するのが彼氏の役目。今度からは気をつけるか、と思いながら自身も靴を履き替えた義之は「おーい!」と自分たちを呼ぶ声を聞いた。
「杏先輩! 桜内! 探したぞ!」
忙しなく靴音を立てて、階段を駆け下りてきたかと思えば、自分と杏の前で足を止め、にかっと笑顔を見せる。「美夏」と杏の双眸がやさしげに緩んだ。
「探したっても教室に来てくれりゃいいのに」
義之が不思議そうにそう言うと、美夏は気恥ずかしげに笑った。
「なはは……いやな、今日は生徒会がないのをすっかり忘れていてな……。一直線に生徒会室に向かったんだ」
「おいおい……」
「そしたら杏先輩も桜内も花咲もいなくて……慌てて走ってきたぞ」
「ふふっ、美夏らしいわ」
物忘れが激しいわけでもないのに変なところでせっかちでドジな後輩に呆れた声を出した義之の隣で、杏が微笑ましげに笑う。
年中忙しない風見学園の生徒会といえども、さすがに試験期間の最中とあれば話は別だ。試験勉強と生徒会の激務の両立はできず、他の部活動などと同様に休みになっている。
「ともかく! 合流できてよかった!」
上履きから外履きに履き替えながら美夏は弾んだ声を出す。合流できてよかった……ねぇ。無邪気な物言いに義之は含みを持たせた視線を美夏に向けたが、その時には既に、彼女はこちらを見ていなかった。「杏先輩!」と再び尊敬する先輩の名を呼び、
「チョコレートだ!」
鞄から取りだした小箱を差し出した。
「ふふっ、ありがとう。美夏」
勢いよく前に出された小箱をゆったりとした動作で受け取り杏は口許に笑みを浮かべる。そんなやりとりを義之はぼんやりと眺めていた。
「…………」
「何か言いたそうね。それとも義之のことだから淫らな想像でもしているのかしら」
「誰がするか。友チョコってやつだろ、それ」
いや、この場合は『友』ではなく『先輩』チョコか? 受け取った小箱を指しながら義之が言うと、美夏は満足げに頷いた。
「うむ! 杏先輩への日頃の感謝の証だ!」
女同士でチョコレートを渡すなんて今時、珍しい話でもない。むしろ、男に対して渡すよりも一般的になっているくらいだ。以前にも雪月花の面々がチョコレートの交換会のようなことをしている光景を何度か見ている。そんな風に義之が思考を巡らせていた時だった。
「おい、桜内」
ぶっきらぼうに自分を呼ぶ声に「ん?」と顔を上げる。見れば美夏が――先ほど杏に渡した物と同じような――ラッピングされた小箱を持ち、こちらを見ていた。義之が不思議そうに視線を向けると、
「か、勘違いするな! 義理だ! 義理チョコだ!」
あたふたと声を荒げた美夏に「お? おう……」と相槌を打つ。
「なんというか……その、杏先輩だけでなくお前にも色々と世話になってるからな。……一応、くれてやる」
意外と言えば、意外だった。朝倉姉妹や雪月花といった女性の知人も多い身、バレンタインデーのこの日に義理チョコを貰うことは多かったが、まさかこのロボット少女から貰えるとは。
「……サンキュ」
そんな思いがにじみ出た呆けた声で礼を述べると、義之は美夏から小箱を受け取った。
「……ん? なんだ、杏?」
その時、ふと視線を感じ、振り向くと杏が瞳を細めてこちらを睨むように見ていた。
「……別に。なんでもないわ」
「そうか? それならいいんだけど……」
杏の返事に煮え切らないものを覚えた義之だったが、追求の声は「それじゃあ!」と不意にあがった美夏の声にかき消された。
「美夏はこのあたりで失礼するぞ!」
美夏の高い声に相変わらず、いちいち大袈裟な奴め……と思いながら義之は「ああ」と応じる。
「んじゃ、またな。天枷」
「…………さようなら、美夏」
どうやら、美夏は本当に義之と杏にチョコレートだけを渡しに来たようで軽く会釈をすると、そのまま振り返ることなく一直線に外へと走り去っていった。彼女が最初に顔を見せた時、今日はバレンタインデーなんだから空気読んでふたりっきりにしてくれよ……などと思わないこともなかったのだが、そのあたりはちゃんと弁えてくれていたらしい。
「それじゃあ俺たちも帰るか、杏」
「…………」
「杏?」
隣で同様に美夏の後ろ姿を見送っていた杏の方に義之は視線を向ける。いつも通りのポーカーフェイス。が、その表情はどことなく怒っているような気がした。義之の言葉にハッとしたように杏は目を見開き、
「そうね……帰りましょうか」
ポツリと呟き、義之より一歩先に踏み出すのだった。

そうして昇降口の外に出た義之たちだったが、正門までの道を歩き始めた矢先、「桜内先輩!」と背中にかけられた声に足を止めた。義之が振り返って見てみればそこにいたのは義之たちと同じく生徒会に所属している後輩の女子生徒だった。やや遅れて杏が振り向く隣で「よっ」と片手をあげる。
「お久……ってほどでもないけど。どうしたの」
声をかけてみるが、女子生徒は「い、いえ……その」などと口ごもる。まさか天枷ではないのだから、今日も生徒会があるなどと勘違いしていることはないだろうが。試験終了後の仕事の確認か何かだろうか?
そう思い義之が不思議そうに彼女を見ると、女子生徒は意を決したように深呼吸し、
「こ、これ……よかったら受け取ってください!」
後ろ手に持っていた小箱を正面に差し出す。不意をつかれ、呆気にとられたのも一瞬。「ああ」と義之は応じた。
「サンキュ。嬉しいよ」
義之の言葉に女子生徒は安心したような顔をし、しかし、横目で杏のことをこわごわと見た。そんな視線を受けつつも、杏は何も語らず、普段通りのポーカーフェイスで観察するように義之が受け取った小箱を眺める。
「…………」
「す、すみません。桜内先輩と雪村先輩がお付き合いしていることは知っていたんですが……桜内先輩には日頃お世話になっているのでその気持ちを伝えておきたいって……」
「わかってる、わかってる」
義理チョコ、いや、ここは感謝チョコといった方が適切か。気楽な調子で義之は笑うと杏の方をちらりと見た。
「それくらい杏も気にしないって。なぁ、あん……」
「そうね」
義之の言葉を遮るように杏は平坦な声を重ねた。
「別に気にしなくてもいいわ」
その言葉に女子生徒は再び安堵した様子だった。
「まぁ、うちの会長はそんな器量の小さい女じゃないってこった」
「……ええ、そういうことね」
「はい。すみません……変なことを考えてしまって。てっきり雪村先輩はもっと……」
「もっと?」
義之が疑問の声を向けると女子生徒は慌てて「なんでもないです!」と首を振った。
「それじゃ、桜内先輩。雪村先輩。また試験あけに」
ふたりきりでいるを邪魔しているのが悪いと思ったのか、女子生徒はそう言うと先ほどの美夏と同様にさっさと走り去ってしまった。
「何を言おうとしたんだろうな」
義之が軽く肩をすくめると、杏は「さぁ」とぶっきらぼうに返す。
「随分、大事そうに抱えてるのね」
「ん? ああ、チョコか? せっかくプレゼントしてもらったものを粗末に扱うわけにはいかないだろ」
「…………」
「杏?」
奇妙な雰囲気を察し、義之は恋人に問いかける視線を注ぐが、杏はその視線を払うようにぷいと顔を背ける。
「なんでもないわ。勉強もあるし……さっさと帰りましょう」
そうして、どことなく雪の冷たさを秘めた声で言い放ち、すたすたと先に歩き出してしまい、義之は慌てて小箱を鞄にしまい、その後を追うハメになった。

かつては試験期間中は早々と終わる学校に自由時間が増えたと試験勉強などせず、遊びほうけていた義之だったが、流石に生徒会の役員になってからはそういうわけにもいかない。
徹底して勉強をするという程ではないものの、全校生徒たちの模範となるべき生徒会役員が試験勉強をさぼるわけにはいかず(義之が生徒会に入ったことを知った姉から特に強く言い聞かされたことだ)今日、こうして杏と二人で帰るのは一緒に勉強をする約束があるからだ。
しかし、その帰り道。隣を歩く恋人の横顔にはどことなく違和感があった。
「…………」
雪村邸に向かって歩く足取りは止めず、ちら、と伺う視線を向ける。学園を出てからと言うものの、口数が妙に少ない。恋人である自分とふたりっきりという状況にしては、少なすぎる。
(ひょっとして……)
義之は鞄の中にしまい込んだ小箱を脳裏に思い浮かべた。まさか、この程度のことで、とは思うが、それ以外に理由が見当たらない。
「なぁ、杏」
「……何かしら」
返事は意外と早かったが、その声は冷たかった。
「もしかして怒ってる?」
目線だけをこちらに向けた恋人に対して、恐る恐る問いかける。一拍の間。思案顔になった杏はやはり平坦な声で、
「別に怒ってはいないわ。ただ、義之が私以外の女になびくなんて予想外だったから驚いてるだけ」
からかうような言葉だったが、その表情は意外と本気で怒っているようだった。拗ねるように自分に浴びせてくる視線に義之は首を横に振る。
「なびいてない、なびいてないから」
「しっかりチョコレートを貰っておいてよく言えたものね」
「それは……せっかくくれるって言ってるのに受け取らない方が失礼だろ。だいたい全部義理チョコだっての」
「だといいんだけどね」
冷たく言い放った杏に「お前なぁ」と思わず呆れの声がもれる。メチャクチャ怒ってるんじゃないか……。
「別に気にしない、とか言ってた癖に」
「そんなこと言ったっけ? 覚えてないわ」
「…………」
嘘つけ、と胸中で呟く。本当に忘れてしまったのかどうかは顔を見ればわかる。
「何度も言うけど別に私、怒ってるわけじゃないから」
冷ややかなポーカーフェイスをこれ見よがしに浮かべて、飄々と言ってのける。どうしたものかなぁ、と義之は頭を抱えた末に「それよりもさ」と切り出した。
「何?」
「俺……待ってるものがあるんだけど」
状況が状況だけに伺うような口調になってしまう。いや、どんな状況でもそれは変わらないだろう。男子にとって、今日という日。貰えるだろうとわかっていながらも不安になってしまうものなのだ。
微かな照れがにじみ出た問いかけ。が、返って来た言葉は冷たかった。
「補習通知?」
「違う! そんなものは待ってないし、欲しくもない! だいたい、まだテスト期間中だ!」
「未来……もしくは過去から届くかも」
「それじゃSFだ……」
必死の否定にも「そう」とだけ短く呟いた杏を前にがっくりとうなだれる。
「生憎。知っての通り、私、忘れっぽいから。義之の方から言ってくれないと」
「男に言わせるのか……?」
それはなんだかもの凄く哀れというか。何かに負けてしまうような気がする。
「ふふ……」
杏の口許に微笑が浮かぶ。義之がすがるような視線で懇願すると、杏は鞄の中に手を突っ込み、一つの小箱を取り出した。「杏……!」と思わず喜びの声をあげた義之だったが、杏は小箱を手に「どうしようかしら、これ」とだけ呟く。
「……まさか、くれないのか?」
「どうかしらね。でも、たしかに。これは自分の立場を弁えていない飼い犬に立場というものを思い知らせるための道具にはなるかも」
ひらひらとおそらくはチョコレートが入っているのであろう小箱を揺らして杏は笑う。
「やっぱり怒ってるんじゃないか……」
ため息は如月の寒気にあたり、真っ白に染まる。やれやれ、と義之はかぶりを振った。
「これが欲しいなら態度でしめしてくれないと」
「態度、ね……何をすればよろしいので?」
軽く肩をすくめ、かしこまった口調で言ってやる。杏は義之に観察の視線を注いだ後、にやり、と笑った。
「別にたいそれたことをしろってわけじゃないわ。……そうね、単に言葉にして欲しいだけよ」
「言葉?」
「そう……義之が思っていることを」
じっと見つめてくる。男の方からチョコレートをくれ、と要求するなんてみっともないにも程がある。が、彼女の些細な心の動きにも配慮するのが彼氏の役目。それを怠った自分への罰、ということか。
胸元からこみ上げてくる恥ずかしさに目をそらしたくなったが、おそらくそれでは杏は満足しまい。なんとか羞恥心を飲み込み、真っ正面に杏の顔を見据えたまま、男の面子を放棄する声を出した。
「頼む、杏。俺にチョコレートをくれ」
「あら、義之。チョコレートならもう沢山もらってるじゃない。それに家に帰ったらまた貰うんでしょ? それで充分じゃないの」
「…………」
また意地の悪いことを言う。こんなことをわざわざ言う杏の狙いは明白だ。自分に何を言わせたいのかは明白だ。義之は内心でため息をついた。しかし、逆らえない。理由は単純な話。
そう。何をしてでも目の前にいる彼女から、恋人からのチョコレートが欲しいのだ。その程度には俺は杏に心を握られてしまっている。
我が身の弱さを再確認しつつも、義之は降参の意味を込めて嘆息した。
「あー、なんていうか……俺が本当にチョコレートを欲しいのはお前だけだよ、杏」
「美夏やあの娘から貰った時も結構、喜んでたみたいだけど?」
「そりゃ、俺だって男だ。他の女の子から義理チョコでも貰えたら嬉しい……けど、俺がチョコを貰って本心から喜ぶのはお前だけだ。お前から貰えないと今日っていう日の意味がないんだ。だから……頼む!」
拝むように両手をあわせて頭を下げる。自分でも情けない限りだとわかるその姿を見て杏が何を思ったのかはわからない。しかし、しばらくの後、「ふふ……よろしい」とどことなく楽しげな彼女の声が耳に届いた。
「今回は許してあげる。はい……お手……」
その言葉に、やっぱりチョコを貰ったことに怒ってたんじゃないか、なんて文句を言う暇もなく、義之は顔を上げると両手を出した。杏の小さな手に握られた小箱が置かれる。
「ありがとう、杏」
思わず口許が緩んでしまうことを自覚しながら言うと、杏の顔にも満更でもなさそうな笑みが広がった。
「ったく。こっぱずかしいこと言わせやがって……」
「義之が悪いのよ。これに懲りたら、今後はあまりデレデレしないことね」
「そもそも、俺はデレデレしてないって……うわ、っと」
鞄の中に貰ったばかりの本命チョコをしまっていると、不意に片腕に体重がかかった。見れば、杏が左腕に両手を絡めてしがみついてきていた。「歩きにくい……」と思わずもらしたぼやきに「これも罰だと思いなさい」と杏が声を重ねる。
「はいはい……」
嘆息する。片腕にかかったそう重くはない体重とほんのりとした体温を感じながら、結局、俺は本当にこいつのことが好きなんだな、などと思いつつ。
「それじゃ。帰りましょうか、義之」
そして、同様にこいつも本当に俺のことが好きなんだろう。ポーカーフェイスの裏側で、一丁前に嫉妬してしまうくらいには。
自分の腕を取りご満悦といった表情を浮かべる杏の前では何の不満も形にはならず、義之は満更でもない自分の心身を確かめながら、「了解」と笑った。
