「ハッピー・バレンタイン」





 今日の喫茶店は盛況だった。
 勿論、普段からしてそんなに閑静としているわけではない。そこそこの人の入りに、そこそこの売り上げ。大いに繁盛しているわけでもなければ、切迫しているわけでもない。義之のバイト先である喫茶店は――女性店員が皆、メイド服を着ているということを除けば――そんなどこにでもあるような普通の喫茶店だ。
 しかし、今日の人の入りはすごい、という他にない。今日が平日である都合上、義之は学園が終わった後からの出勤になったのだが、店に顔を出した時、人の多さに圧倒された。休日でも祝日でもなく、朝のモーニングタイムも昼のランチタイムもとっくに終わっている平日の夕方の今の時間帯でほとんどの席がお客で埋まっているなんて光景はそうそう見られるものではない。
 ここでのバイト歴も4ヶ月近くになり、いい加減慣れ親しんできたはずのバイト先、のはずなのだが桜内義之はまるで異界に入ったかのような気圧されるような思いを味わっていた。
 そして、人の多さは元より店全体を包んでいる雰囲気もまた普段とは異なるものだった。人数の多さだけが原因ではない。奇妙な熱気が店全体を包んでいる。義之が真に気圧されて感じているのはまさしくその熱気だった。

「……にしても今日は随分とお客さんが多いですね」
「ふっふっふっ、私の狙い通りだよ。桜内くん」

 半ば感心、半ば困惑の思いを口にすると、店長が得意げに笑みを見せる。そんな時、「すみません」と客席の一つから店員を呼ぶ声が響いた。反射的に義之は注文を取りにいこうとし、その瞬間、店長に静止された。

「いや。あのお客さんは多分、例のものを頼むつもりだろう。相原くん、いってくれるかい?」
「は〜い、わかりました」

 店長の言葉に同僚のウェイトレスの一人が笑みを浮かべて頷くと小さな体を翻して呼ばれた方へと向かう。

「お待たせしました。ご注文はいかがなさいましょう?」
「あ、えっと……」

 まぶしいばかりのスマイルを浮かべて注文を取りにきたウェイトレスに客は少し戸惑ったような、恥ずかしがるように言葉に詰まった末、

「ホットコーヒーと……その、これをお願いします」

 品目名を声に出すことはなく、指さすことで注文した。

「わかりました。アメリカンホットコーヒーとメイドさんの愛情チョコレートですね」

 ウェイトレスは笑顔を浮かべて注文の正式名称を復唱すると身を翻して帰ってくる。お客さんは一瞬、羞恥心を顔にあらわしたものの、次の瞬間には何事もなかったかのような顔をして椅子に座り直すと誤魔化すようにお冷やに手をつけた。
 そう、これこそが喫茶店を包む奇妙な雰囲気の正体であり、原因。
 店長の発案により実施されることになった本日限定メニュー、バレンタインフェアとしてのサービスメニュー『メイドさんの愛情チョコレート』だ。
 元々、可愛らしいメイド服に身を包んだウェイトレスさんたちはこの店のウリの一つではあったが、今回はそれを全面的に大々的に押し出した形だ。数週間前からチラシ配り――義之もバイトの一環として配らされた――やインターネットのサイト上での宣言などに精を出していたかいあってか、いざ当日を迎えてみれば盛況も盛況。バレンタインフェアは大盛況を迎えていた。
 そんな店内を見渡して他のウェイトレス同様、メイド服に身を包んだアイシアが「みんなチョコレートがほしいんだね♪」と邪気のない笑顔で言う。

「あはは……これはなんか違う気がするけどな……」

 アイシアの言葉に対しての義之の小声での返事は苦言めいた響きを帯びていた。
 元々、この喫茶店はチョコレートを販売している店ではない。『メイドさんの愛情チョコレート』は手作りでもなんでもなく大量に買った市販品を店の印付きの箱に移し替えただけのものなのだが。
 そんなものでもメイド服のウェイトレスさんに手渡しで渡されたお客さんは心底、幸せそうな顔をしてそれを受け取るのだ。義之としては今ひとつ理解しがたい感覚だった。

「でも、あたしの渡したチョコでお客さんが幸せそうな顔をしてくれる……ううん、幸せになってくれるのならそれはそれであたしもちょっと嬉しいかも」

 アイシアがサンタクロースらしいことを言う。まぁ、たしかに妙な熱気ではあるが、今、この店を包んでいるのは幸せな熱気、と言っていいだろう、と義之は思いながら、同時に胸の奥底に形容しがたいもやのような感覚を味わった。

「あ、できたみたいだから持って行ってくるね」

 奇妙な感覚に義之が眉根を寄せたが、アイシアはそれに気付かなかったようで自分が受けていた注文の分を手に取るとお客さんのところへと向かう。手に持ったトレイの上にあるのは紅茶とチョコレート。
 何もないところでもつまずいて転ぶ。この店の名物にもなりつつあるアイシアのドジだが、今日はご機嫌さからかあぶなっかしいところはなく、持つトレイも一つだけということで途中で派手に転倒するようなことはなく、アイシアはちゃんとお客さんのところまで辿り着いた。その背中を複雑な思いで見送る。

「お待たせしました〜♪ ホットレモンティーと愛情チョコレートでーす。ご注文は以上でおそろいでしょうか?」

 咲き誇る花のような笑顔でアイシアが差し出したチョコレートをお客さんは嬉しそうに受け取る。先ほどから何回か見ている光景。面白くなかった。

「ん? 桜内くん、どうかしたかい?」
「……いえ、別になんでも。暇だな、って思いまして」

 店長の問いかけに首を横に振る。何でもないことはなかったが、暇なのも事実。メイドさんの愛情チョコレートを自分が持っていくわけにはいかない。自分が持って行けばその時点でそのチョコレートは何の価値もない量販品に成り下がる。それくらいはなんとなくわかった。
 注文取りの段階でもできることならウェイトレスさんに任せることになっているため、男性店員である義之としては肩身の狭いことこの上なかった。
 どうしたものかな、と複雑な思いを抱いた心身を所在なさげにしていたその時、新たな来客を告げる鐘が店全体に響き渡った。もはや条件反射的に義之は「いらっしゃいませ」
と声を出そうとし――、

「なんだ。お前らか」
「なんだ……って。ず〜いぶんと酷い対応じゃないの義之くぅん」
「そうだよね〜。せっかく来てあげたのに」

 義之の冷淡な対応に渉が笑い、それに茜も続く。

「この店はお客にそんな態度を取るのかしら」
「無礼だぞ、桜内」

 次いで、杏と美夏の声。そう、いつもの風見学園ご一行様のご来店だった。

「……これは失礼しました。いらっしゃいませ、お客様」

 義之は頭を軽く下げると、畏まった声を出し厄介な集団客を店の中へ案内する。

「俺、いつもの席がいいな。ほら、あの窓際の」

 渉が店の奥を指さす。いつもの席、とは元々はこの大騒ぎすること間違い無しの面々を周りから隔離するために義之が案内した奥の席なのだが、何度も何度もその席で食べたり飲んだりしている内にどうやら気に入ったようだった。
 ちょうど、その席も空いており――というより他にこれだけの大人数が座れる席はなかった――断る理由もなく、義之は彼らを奥の席に案内した。

「聞くところによると面白いことをやっているみたいね」
「うんうん。バレンタイン特別フェアだって?」

 杏と茜が楽しげに笑う。やっぱりか、という思いが義之の胸の中を抜けていった。そうだろうさ。バレンタイン・フェア。そんな面白そうなことをこの連中が見逃すはずがない。

「あ、みんな! 来てくれたんだね〜、いらっしゃいませ〜♪」

 嬉しげな笑みと共にアイシアが駆け寄ってくる。義之としては風見学園ご一行がこの店に来店することは気恥ずかしかったり、面倒事を増やされたりであまり喜ばしいことではないのだが、アイシアは違うようで、素直に喜びをあらわにする。

「いやぁ、アイシアさん。今日も可愛いっすね〜」
「やっほ〜、アイシアさん」
「ふふっ、元気そうね」

 おのおのは各自、アイシアに挨拶を返し、席についていく。
 義之は人数分のお冷やを持ってくると「それで、注文は」と素っ気なく告げた。

「ったく愛想のない店員だぜ」
「アイシアさんを見習ったら?」
「うるさい。こっちも忙しいんだからさっさと決めてくれ」

 義之があくまでも無愛想に返すと渉はまいったように「へいへい……」と頷き、

「俺はこれ! メイドさんの愛情チョコレート! これ一択だ!」
「はぁい。お飲み物はいかがいたしましょう?」
「ん〜と、コーラで!」

 渉が笑顔でアイシアに注文する。「わかりました」とこちらも笑顔でアイシアは応じた。

「ま、それを注文すると思っていたよ……」

 相変わらずの悪友に呆れた視線をそそぐと次いで義之は他の女性陣を見た。

「んで、お前たちはどうする? お前たちもメイドさんの愛情チョコか?」
「そうね……」

 杏は指をあごにあて、少し考えた素振りの末、

「私はこれね。執事さんの愛情逆チョコレート」
「…………」
「飲み物は紅茶。ストレートティーで」
「わー、こんなメニューもあるんだ〜。それじゃ、私もこの逆チョコで♪ オレンジジュースとセットでね」

 杏と茜の注文に絶句する。もしかしたら注文されるんじゃないかと思ってはいたが、実際にされるとやはり絶句せざるを得ない。
 そう。このバレンタインフェア。男性客の大幅な増員は見込めても女性客へのアピールとしては薄い。そこで店長が考えたのがお菓子メーカーが流行らせようと努力している『逆チョコ』という風習だった。
 今日専用の特別メニュー表に『メイドさんの愛情チョコレート』と並んで記載されている『執事さんの愛情逆チョコレート』。このメニューもまた意外と人気でこれまでに義之も何人かの女性客にチョコレートを手渡しする羽目になっていた。

「む……」

 アイシアのルビー色の瞳が少し揺れ、義之の方を見る。なんだろう、と思いながら義之はまだ注文をしていない最後の一人に声をかけた。

「天枷、お前はどうする? お前も逆チョコか?」
「ふざけるな! 桜内などからチョコレートなど!」

 まぁ、予想できていた返事だった。美夏は他二人と違ってあまり積極的にからかうことはしないし、何より自分などからチョコレートをもらうのは彼女のプライドが許さないだろう。

「そうか、んじゃ飲み物だけか適当なケーキでも……」
「……だ、だが一人だけ別の注文では手間がかかってつらかろう」
「へ?」
「美夏もこの逆チョコというやつを頼む。飲み物はバナナジュースで」
「いや、手間も何も。そんなに影響ないし、それなら飲み物だけ頼めばいいだけじゃ……」
「ええい! うるさい! 美夏はなんとなくチョコレートが食べたい気分なのだ!」

 この話はこれで終わりだ、とばかりに美夏が叫ぶ。
 なんなんだ、と困惑しつつもウェイターの身とあっては従わざるを得ない。

「わかったよ。んじゃ、天枷もチョコだな」
「うむ」

 義之の言葉に美夏は頷く。
義之が伝票を手に席を離れようとすると、

「うー……」

 ルビー色の瞳が相変わらず、何かを訴えるように義之に向けられていた。


「おかえりなさい」

 バイトを終えて、芳乃家の玄関をくぐると笑顔のさくらが出迎えてくれた。
 結局、バレンタイン・フェアはあれからも大盛況で店にはチョコ目当てのお客がひっきりなしに訪れた。義之もアイシアも疲れ切っており、そんな身にさくらの笑顔はありがたかった。

「ただいま〜」
「さくらさん、ただいまです」

 二人そろって挨拶をしながら靴を脱ぐ。そうして居間まで行くと、

「弟くん、アイシアさん。おかえり〜」
「おかえりなさい」

 隣家の朝倉姉妹もまた笑顔で義之たちを出迎えてくれた。

「義之くん。随分、お疲れみたいだね?」
「ええ、まぁ、今日は疲れました」

 気遣うように言ったさくらに今日のことを話して聞かせる。

「へぇ〜バレンタイン・フェアか〜。面白そうだね」
「私たちも行けばよかったですね」
「勘弁してください」

 楽しげな表情のさくらと音姫にがっくりと肩を落とす。

「まぁ、とにかく、お疲れ様♪ はい、これはボクからのプレゼント♪」

 さくらが綺麗にラッピングされた小さな小箱を差し出す。

「弟くん、これはお姉ちゃんからのプレゼントだよ」
「……ま、まぁ、いつも兄さんにはなんだかんだで世話になってますし、これを」

 次いで朝倉姉妹もラッピングされた小箱を取り出す。

「ありがとう、みんな」

 胸の中が幸せな気持ちで満たされていく。過酷な労働で疲労困憊の身としては家族の愛がこもったプレゼントほどありがたいものはなかった。そして――、

「アイシア」

 最愛の恋人の名を呼ぶ。先ほど、台所に向かった彼女の後ろ姿を見た。それがきっと前日に作って冷蔵庫の中に保管してあるものを取りに行ったのだということくらいは義之にも容易に読み取れることだった。
 しかし、帰ってきたアイシアは少しだけ不機嫌そうに「ふん」とそっぽを向く。

「アイシア?」
「あたし以外の人にあれだけ逆チョコ渡して、それにこんなにチョコレートもらっちゃって、義之くん。相変わらずもてもてだね〜」

 不機嫌そうにふくらんだ頬。あの後、実は杏たちから義之にチョコレートが渡され、そのことも含めて機嫌が悪いようだった。
 しかし、そう言われては義之としても言い返したいことがあった。

「おいおい。自分以外の人間にチョコ渡されたことが嫌って、それなら俺だってそうだぞ」

 ルビー色の瞳が「え?」と不思議そうに義之を見た。

「あくまで接客業のサービスってことはわかってるけど、それでも、アイシアが俺以外の人間にチョコを渡すのを俺がどんな気分で見てたと思ってるんだ」
「……ひょっとして義之くん。……嫉妬、してくれた?」

 嫉妬。そう言われると恥ずかしくなるが、しかし、事実、アイシアがチョコレートを持ってお客さんのところに行く度に胸の中を揺らしたざわめきやもやもやを思うに、その通りと認めざるを得なかった。義之はぶっきらぼうに「ま、まぁな……」と肯定した。
 すると、アイシアの顔色が一気に楽しげな色に染まった。

「そっかそっかそっか〜♪ 義之くん、大好きなあたしが他の男の人にチョコレート渡してるのでジェラシー爆発しちゃったんだね」
「そ、そこまでは……」
「ないの?」
「……あります」

 小首を傾げたアイシアに頷くしかない。「えへへ……」とアイシアはふやけた微笑みを浮かべた。

「嬉しいなぁ。義之くんがそれだけあたしのことを思ってくれてるなんて♪ でも、大丈夫」

 ルビー色の澄んだ瞳でアイシアは義之を真っ直ぐに見据え、

「あたしの本命は、義之くんだけだから」

 そう言って、頬を朱色に染めた。
 可愛い。その笑顔を見てそうストレートに思ってしまう自分の頬もまた同じ色に染まっているんだろうな、と義之は思った。

「それじゃあ、そんな義之くんにご褒美♪」

 そうしてアイシアは手に持った小包を差し出す。

「手作りだからね♪ 愛情たっぷりこもってるからきっと美味しいよ」
「にゃはは、愛情で味が決まるんならボクのチョコレートが一番だね。ボクのも手作りだし」
「む、さくら、それはどういうことよ〜」

 ちゃちゃを入れたさくらにアイシアが眉根を寄せて抗議するも、相変わらずさくらは飄々と「どういうことって言われてもね〜」などと楽しげに笑ってかわす。

「そ、それなら私のが一番です。弟くんのことを思って作った手作りチョコレートなんですから! さくらさんにもアイシアさんにも愛情では負けてませんよ!」
「お、音姫ちゃんまで! 何言ってるの! あたしのが一番に決まってるの!」
「にゃはは、ううん。ボクのがきっと一番だよ♪」

 楽しげに騒ぐ一行を尻目に義之は台所に向かおうとした。

「それで兄さんがこっそり作っていたものはいつ渡すんですか?」
「うぐ……」

 なんでもお見通し、といった妹の言葉が背中から浴びせられ、思わず言葉に詰まる。

「逆チョコなんてお菓子メーカーがねつ造した陰謀には乗らないとか言ってた癖に」
「ふん。……義理逆チョコ渡しておいて本命逆チョコ渡さないわけにはいかないからな」

 アイシアが義之への本命チョコレートを用意してくれていたように。
 義之もまたこっそりと本命逆チョコレートを用意していたのだった。
 同じ台所、同じ冷蔵庫を使っている身としてバレないかどうか、気が気でなかったが、どうやら妹以外にはバレないですんだようだ。
 冷蔵庫の奥の奥。袋で包んだ小包を取り出す。一応、アイシアの分とさくら、朝倉姉妹の分はある。
 お菓子メーカーの陰謀に乗っかってやるのは癪だが、愛する人たちに愛を伝える手段となるのならそれもまた一興。
 このチョコレートを見た時、アイシアはどんな顔をするのかな。本来、女性しか味わえないその楽しみ。それを味わえるのであればお菓子メーカーの陰謀に乗るのも悪くないかもしれない。そんなことを楽しみに思いながら、義之は小包を手にてんやわんやと騒がしい居間に戻るのだった。



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