「After return」





 気付いた時には、そこに立っていた。
 雪と桜の花びらが舞う不思議な夜。見上げた視界を埋め尽くすほどに広がる桜の大樹。その麓でただ、立ち尽くしていた。
 ――何故、そこにいたのか。
 ――それまでどこで何をしていたのか。
 ――自分の家族はどこへ行ってしまったのか。
 何も思い出せなかった。肌身を裂く極寒の寒さの中を、呆然と立ち尽くすしかなかった。
 そんな夜の空の下。降り注ぐ雪と、桜の花びら。肩に積もり、混ざり合う純白と薄紅色。
 その不思議さに思わず目を奪われていた。その不思議さに思わず天を見上げていた。何が不思議なのか、それすらも、わからないまま。
 そうして、しばらくの間、見つめていた。世界の全てを塗りつぶしてしまったかのような漆黒の空と、その漆黒を遮らんとばかりに広がる桜の枝木たちの薄紅色の天井。そのコントラクションの隙間をぬって、降り注ぐ雪と花びら。自分は夢の中にいるのではないかと錯覚させられるほどの幻想的な光景をただ、見つめ続けていた。
 だから、すぐには気付けなかった。自分の傍に立った人の気配を。

「…………誰?」

 その人は――――その女性はやさしげに彼を見つめていた。
 白と薄紅色の雨に彩られた、漆黒の世界の中で、宝玉のように碧い瞳と金色の長髪は、彼の意識を惹くのに充分すぎるもので、彼は思わず口に出して訊ねていた。
 警戒心や疑惑といったものがなかったわけではない。ただ、それを越えて素直な疑問が最初に外に出た。
 彼の問いに対して、彼女は答えることはせず、ただ口許に笑みを浮かべた。

「こんばんは」

 見上げているだけで、こっちまで暖かい気分になってくるかのような、あたたかい笑顔。「はじめまして」と続いたその声は、やさしげな響きをおびていた。
 しかし、彼はその声に答えなかった。いや、答えることができなかった。
 彼女の微笑みは冷たい世界の中で、独りで凍えていた彼にとっては何よりも衝撃で。その衝撃に口を開く事が出来なかった。彼女の暖かさの前に何もいえなくなってしまった。
 だから、見ていた。自分を照らす笑顔を、ぼんやりと眺めていた。遠くにある太陽を見つめるように、ぼんやりと。凍り付いていた自分のココロが少しずつ氷解していくことを感じながら。
 そんな彼の様子をどう思ったのか、彼女は困ったように「う〜ん……」と呟く。そうして、しばらく何かを考え込んだ後、再び笑顔になって、彼女は言った。

「サクライヨシユキ」

 その単語が何なのか、彼には一瞬、理解できなかった。捕捉するかのように続いた彼女の言葉を聞くまでは。

「キミの名前だよ」

 そうだった、と碧い瞳を見ながら思った。その言葉を聞いて初めて気付けた。思い出せた。自分が何なのか、ということを。

 自分は――――サクライヨシユキだ。

 彼女の言葉に彼はこくり、と頷いた。
 自分の名前を知っているこの人は、自分のことを知っているのだろうか? 自分を迎えに来てくれたのだろうか?
 そんなことを考える。けれども、そんな思考は彼女の声に掻き消された。

「寒くない?」

 彼女はしゃがみ込み、目線の高さをあわせて、やさしげに問い掛けてくる。
 その様子に彼はぼんやりと思った。この人に甘えてもいいのだろうか、と。この凍りつくような冷たい世界を出て、彼女にすがってもいいのだろうか。
 本心で言えば、甘えてしまいたかった。だけど、それをしてはいけないような気持ちがあって、相反する2つの感情が彼の中で交錯した。
 胸の中に残る警戒心という名の氷の礫。彼女の暖かさの前に融けかかっていたその感情が最後の最後で鎌首をもたげる。

「……寒い」

 そのせいか、返事の声はどこかそっけなくなってしまった。声の後で彼は小さな身体を震わせる。

「お腹は?」
「……すいた」

 言葉に合わせて彼のお腹が音をたてて鳴り、彼女は「そっか」と小さく笑った。そして、彼に向かって、ゆっくりと片手を差し出した。ぱぁっと。花開くように拡げられた手のひら。
 目の前に差し出されて思わず、彼はその手を取る。彼女の手はあたたかくて、その感触の前に最後まで残っていた警戒の心は完全に氷解した。

「それじゃあ、温かくてご飯の食べられるところに行こっか」

 やさしげに笑う彼女の表情につられるようにして、彼は口許を緩めて笑みを浮かべると、ゆっくりと頷いた。

「えーっと、ボクは……さくら。芳乃さくら」

 彼女はよろしくね、と笑う。自らの名を名乗った彼女に対して、彼はもう1度、無言でこくりと頷いた。すると、何故か彼女は不満げな顔をしたが、それも一瞬のことですぐに笑顔に切り替わると、彼の手をぎゅっと握り締める。

「じゃあ、行こうか」

 そう言って闇夜の中、金色の長髪を翻して彼女はゆっくりと歩き出す。これからどこへ向かうのか。彼は少しだけ疑問に思ったが、それは口に出さなかった。この人が連れて行ってくれるなら、きっと素敵な場所だろう。そんな直感があったからだ。
 雪の舞う夜空の下。彼女に手をひかれて、彼は歩き出した。



 幸福な夢を見た。
 朝。目を覚ましてみて、つい先ほどまで自身の意識が埋没していた世界のことを思う。
 それは幾度となく見た夢だ。
 何故ならその夢は自分の中にある原初の記憶。決して忘れることのない全てのはじまりにして、最も大切な記憶。
 それだけにこれまで何度も何度も見た夢。そして、その夢を見られた日は胸の中が透き通るように爽快で、最高の気分で寝覚めを迎えることができる。
 これまで、ずっとそうだった。その夢には、その記憶には、それだけの価値と意味がある。
 ――――だというのに、

「……俺、泣いてるのか?」

 桜内義之は自室のベッドの上で上半身を起こしながら、困惑の声をもらすとともに自分の目元に手を当ててみた。錯覚、などではない。たしかに自分の目尻からは涙がこぼれ落ちて、頬を微かにぬらしていた。

「…………」

 なんともいえない気分になりベッドの上に再び体を倒し、見慣れた自室の天井を見ることもなくぼんやりと眺める。そうして、少し思考を走らせる。先ほど、見た、夢について。
 あの夢は間違いない。自分とあの人が最初に出会った夜の記憶。それが映し出された夢だ。
 自分が抱いている記憶の中でも最も大切だと思う記憶。あの雪の夜、桜の木の下で独り凍えていた自分にあの人が話しかけてくれたこと。自分の手をあの人が取ってくれたこと。その手のぬくもり、その言葉のあたたかさは終生忘れることはないだろう。
 そんなあたたかい夢を、幸せな夢を見て、どうして自分は涙を流しているのだろうか?
 枕元においてあった携帯を手に取り、開く。そうして、アドレス帳を呼び出し、スクロールして進める。

 ――芳乃さくら。

 この数年、使われていない、電話の発信も受信も、メールの送信も受信もされていないプロフィールを呼び出して、やはりなんともいえない気分のまま義之はしばらくそれをぼんやりと眺め続けた。


 最後にあの人の姿を見たのはいつだったか。桜並木を歩きながら、そんなことを思う。
 午前のまだそう高くない太陽の下、春の穏やかな気候の元で並木道の両脇に立ち並んだ桜の木々はその薄紅色の花びらを満開に咲き誇らせ、義之を迎えてくれた。
 あれから、寝間着から私服に着替え、一階に降りて適当に顔を洗って、寝癖を直して、居間に出てきたものの、芳乃邸からは人の気配が感じられなかった。
 どうやら今日は来ていないようだった。最愛の人の顔を思い浮かべながらそう思った。彼女はほとんど毎日のようにこの家を訪れてくるが、たまには来ない時もある。それもまたここ数年の生活で心身になじんだ日常の1ページ、バリエーションに過ぎない。
 広々とした和風建築の中で人の気配が自分以外に感じられないというのは若干のさびしさを覚えないでもなかったが、こういう日もあるだろう。
 一人分の朝食を用意し、適当にたいらげて、用済みになった食器を洗うと共にこうして外に散歩に出てきた。
 今日は休日だ。かといって特に予定があるわけでもない。風見学園時代なら休日ともあれば友人グループの中の誰かがメールを出して、それが瞬く間に皆の間に行き渡り、喫茶店で駄弁るなり、カラオケに行くなりしていたものだが、風見学園を卒業すると共に、そういったことも少なくなっていた。
 そう、毎日が楽しくて楽しくて、永遠にも続くのではないかと錯覚していた風見学園。その日々は既に終わりを迎えている。付属・本校と6年間続いた楽しい日常は終わり、今ではみんなそれぞれの道へと歩み出している。初音島の学校に進学したやつもいれば、島外の学校に行ったやつもいる。大学に行ったやつもいれば、専門学校に行ったやつもいる。それぞれがそれぞれの道を歩み出している今、昔のように休日ともあれば集まって馬鹿をやるというのは少し難しいことだった。以前のような頻度で会うのは風見学園の付属3年の冬のあの時期に結ばれた彼女くらいのものだ。
 そのことをさびしく思わないことはないものの、これも仕方がないことだ。ずっと変わらないでいるものはないし、そんなことはできない。何事も、物事は変わりゆくものだ。そのことに最初に気付いたのは、たしか――。

(あの人がいなくなった時だったな)

 最後にあの人の姿を見た日。そうだ、たしかあれは付属3年生の冬の時だった。義之の家族で、日常の象徴で、ずっと一緒にいられると思っていた人が自分の前から姿を消したのは。

(…………)

 視線の先。舞い散る薄紅色の花びらを眺めながら、思う。
 あの時、どうして自分に相談してくれなかったのか。あの時、どうして自分は気付けなかったのか。あの時、自分にももっと何かできることがあったのではないか。
 あの人の家族として、そんなことを猛烈に後悔したこともあった。自分の無力さを嘆いたこともあった。今でもそんな思いが胸の中にないと言えば嘘になる。
 だけど、今の義之の心は平静だった。この心の状態は諦観に近いものがあったが、そうではない、と義之は思っていた。諦めたのではない、決めたのだ。自分はただ待つ、と。
 あの人は自分の前から姿を消してしまった。だけど、いつかは必ず帰ってくる。だから、ただ待とう。あの人が帰ってきた時に笑顔で迎えられるように。
 信じて、待つ。それがこの数年間の、あの人がいない日々の中で義之が決めたことだった。
 今、義之は本土の大学に通っている。登校手段はもっぱら初音島からのバスだ(初音島には電車はないが本土への橋は通っている)。学生寮のある大学に入るという手もあったし、そんなことをしなくても大学近くのアパートを借りるという手もあった。だけど、義之はそれをしなかった。経済的な理由ではない。あの人が自分に残してくれたお金は人一人が普通に生活して学校に通う分には十分すぎる額がある。
 だけど、多少、不便であっても初音島を、芳乃の家を離れたくなかった。何故なら、自分まで家を出てしまえば芳乃の家には誰もいなくなってしまう。そうなってしまってはあの人が帰ってきた時にあんまりだ。出迎えてくれる人間がいないというのはあまりに可哀相だ。
 自分はあの人を待ち続ける。それがいつまでになるかはわからない。大学を卒業するまでか、もしくはどこかの会社に就職して働き出した後までか、もしかしたら自分が生きているうちには帰ってこないかもしれない。それでも、義之はあの人のことを待つ、と決めていた。
 今年も桜並木はその可憐な薄紅色の花を変わらず咲かせている。子供の頃から見るに見慣れた、だけど、あの冬以来、春にしか見られなくなった光景に思いを馳せていると、ズボンのポケットに入れていた携帯から音楽が鳴り響いた。手にとって確認してみると、義之の最愛の人からの電話だった。

「ああ、もしもし」

 答えれば、最愛の人の声が返ってくる。あの人がいなくなった後、義之が普通に日々を過ごしてこられたのは学園の友人連中の力も大きいが、特にこの最愛の彼女がそばにいてくれたおかげだというのは自明の理だった。
 自然、会話は弾む。彼女はせっかくの休日なのに家に行けなかったことを電話越しに詫びてきた。

「別に謝らなくてもいいって。義務でもなんでもないんだからさ。用事があったのなら仕方がない。ん? それでもさびしい思いをしただろうって? んなことないさ」

 ひとりきりの朝を過ごして散々、さびしい思いをした挙げ句、こうして気分転換に散歩にまで繰り出している身だが、義之はそう言って笑った。

「ああ。そんじゃ夜には来れるんだな。サンキュ」

 携帯電話の奥の声に義之は弾む我が心を自覚した。強がりを言った直後でなんだか、やはり、ひとりぼっちというのはなるべく避けたいことだ。
 それから、とりとめのない話で盛り上がり、やっぱり俺はこいつが好きなんだな、という思いを義之は胸中で再確認する。

「ん。それじゃ、またな」

 会話も一区切りついたところで義之はそう言うと通話を終了させた。そして、またな、っていい言葉だな、と思う。
 またな。それは平凡な言葉ながら、再びの会話を、次回の出会いを、変わらない絆を再確認させてくれる素敵な言葉。
 ――あの人とも『また』会えるさ。
 胸中でそう呟く。最愛の人との会話のおかげか朝から胸の中にあった微かなかげりはすっかり晴れていた。
 さて、これからどうしよう、と義之は並木道を見渡した。休日の午前の並木道は義之と同様に散歩をしていると思わしき人々の姿がちらほらと見受けられる。
 朝食を作った時のことを思い返してみれば、たしか冷蔵庫の中身は相当さびしいことになっていたはずだ。夜に彼女が来るのならばそれなりの晩餐をふるまえるように商店街に行って買い物をしておくべきかもしれない。昼食は自前で用意するか、それとも外食で済ませてしまうか。

(まぁ、歩きながら考えるか)

 今日はなんだか桜の花を見ていたい気分だ。そう思うと義之はふらり、と並木道を歩き出すのだった。


 そうして、辿り着いたのはそこだった。
 桜並木を抜けて、桜公園に入り、その奥にいったところにある空間。広々とした場所に桜の木々が円環状に立ち並ぶ空間。その桜の木々の中央にそびえ立つ周りの桜と比べても一際巨大な桜の木。初音島の『枯れない桜』。
 枯れない桜といえばかつては島中の桜の木がそうであったのだが、島の住民にとって『枯れない桜』という名詞を使った時、それが指しているのは桜公園にあるこの巨大な桜のことだ。
 子供の頃からここには何度も来ている。そうして何度来てもこの光景にはやはり圧倒される。
 巨大な桜の木は現実離れした印象を見る者に与える。現実離れした巨大さにやはり現実離れした可憐さと荘厳さ。相反するようなその二つの要素が見事に同居している。天の頂きに向かって伸びて、大きく大きく広がった枝木に咲く薄紅色の花びらはふもとから見上げてみれば、まるで天蓋のように視界を奪う桜の天井で、ここに来てみると世界には自分と、そして、この桜の木しかないんじゃないか。そんな錯覚にすらとらわれてしまう。それだけの魅力と魔力を秘めた、初音島の枯れない桜。
 ここは義之にとってのはじまりの場所。あの雪降る夜、この場所で義之は『桜内義之』になり、そうして、あの人と出会った。
 朝にその時の夢を見たせいだろうか。行く当てもなくふらふらと並木道を歩いていた義之の足は気がつけばこの場所へと向かっていた。
 枯れない桜の幹に手を当てる。自然の硬質さを返してくるようで、それでいてどことなくあたたかい感触。安心感。その感触が胸の中を満たしていくことを義之は感じた。

「………………」

 しばらく幹に手をおいた後、義之は苦笑した。こんなところで自分は一人で何をやっているのか。恋愛成就の願掛けにきた女子でもないのに。
 だが、不思議と胸の中に嫌な感じはなく、あたたかい思いがあふれていた。まるで、あの人の笑顔を見た後のように。胸中にはあたたかさと安心さが同居していて、自然、ほおもほころぶ。
 こんないい気分になれるのなら、わざわざ来るだけの価値はあったかな、と思う。少なくとも休日の朝を家の中で寝て過ごすよりは余程、よかっただろう。義之は最後に枯れない桜の幹を一撫ですると空を見上げた。青い空を遮るように天に広がった桜の花々の薄紅色が強く目に焼き付く。
 数歩、枯れない桜から離れてみれば晴天に浮かぶ太陽はだいぶとその位置を高くしていた。

(そろそろ帰るか)

 結局、買い物に向かわずにこちらに来てしまったのだ。昼ご飯を自前でまかなうのなら商店街に寄っていく必要がある。勿論、晩ご飯の分の材料もセットで買っておかなければならない。
 別に急いているわけではないが、必要以上にのんびりする必要もない。
 踵を返す。枯れない桜に背を向けて、義之は歩き出そうとし――――。

 瞬間。一陣の風が義之の真横を駆け抜けた。

 次いで、かさかさかさかさ、と立ち並ぶ桜の木々がそろって枝木を揺らす音が辺り一面に立ちこめる。
 たったあれだけの風でこれだけの反応が起きるなんておかしいな。少しだけ不思議に思わないこともなかったものの義之は振り返ることなく、真っ直ぐ、桜公園の出口に向かって歩き出そうとして、

「ここは――?」

 不意に。
 とても。
 とても。
 とても。
 なつかしい声が、耳に届いた気がした。
 どくん、と義之の心臓がはねた。

「清隆? リッカ? みんな?」

 声の主は困惑しているようだった。声音からそれがわかる。そして、聞けば聞くほど、その声が耳に馴染んだものであることがわかってくる。
 聞き慣れた声。自分が最初に聞いた声。子供の頃から何度も何度も聞いた声。この数年、聞けなかった声。ここにはいないはずの人の声。

「みんな、いない? それじゃあ成功、したの? じゃあ、ここは……」

 もういてもたってもいられなかった。それまでの落ち着いた気持ちなんて全部、吹っ飛んでいた。義之が振り向くと、そこで、

 ――――ありえない幻を見た。

 ついさっき見た時と変わらない相変わらず巨大で荘厳な枯れない桜。そのふもとに一人の少女がいた。
 首筋までで切りそろえられたショートカットの金髪に、黒いマントを身に纏い碧い瞳を困惑の色に染めた小柄な少女。

「あ……」

 少女の方も義之に気付いたようだった。碧い瞳がゆっくりと義之を見る。困惑、そして、驚愕。信じられない、というように碧い瞳が、少女が震える。
 震えているのは義之もまた同じだった。困惑と驚愕に心身は揺さぶられ、硬直する。信じられない。まさか。ありえない。見間違い? 白昼夢? 幻覚?
 ――いや、そうではない。ぐるぐると頭の中で思考が混迷の渦を描いて回転し、けれども、目の前にいる、自分の両目がとらえている一人の少女の姿を否定することはできず、呆然と少女を見る。

「ああ……」

 少女の表情が驚きから徐々に歓喜へと、微笑みに変わっていく。すがるような目で少女が義之を見る。
 そうして、その唇がゆっくりと開かれ、

 ――義之くん。

 たしかに、少女はそう言った。
 聞き間違いではない。少女はたしかに自分の名を呼んだ。義之くん。義之。桜内義之。自分の名前。あの人が名付けてくれた大切な、大切な自分の名前。
 義之くん。それは、あの人がいつも自分のことを呼ぶ時に使う呼称。その響きがかもしだす親しみに身を震わせながら、義之は数歩、前に足を踏み出すと、枯れない桜のふもとにいる少女の前に立った。
 頭の中は真っ白だった。自分は一体どんな表情をしているのだろう。どんな顔で彼女のことを見ているのだろう。それさえもさっぱりわからない。

「あ、あ……」

 彼女は自分の名を呼んだのだ。いつまでもこうしているわけには、黙っているわけにはいかない。
 二人の間に流れる静寂の時間。だけど、それすらも心地よく感じる。なんて言おうか。何から話そうか。親しみの情を浮かべて自分を見つめる碧い瞳を前に、散々逡巡した挙げ句、

「……お久しぶりです」

 義之の口から出たのは、内心の動揺を必死に押し殺して無理矢理に平静を装った、ともすれば素っ気なくも聞こえる声だった。

「……うん。ひさしぶりだね」

 そんな義之の内心を知ってか知らずか少女はくすり、と笑う。
 その表情は、少女は――芳乃さくらはあの頃のまま変わりなかった。色鮮やかな金色の髪。宝玉のように輝く碧い瞳。幼さと大人っぽさが同居した太陽のように明るい表情。その微笑みはやはり、義之の胸の中に安心を与えてくれた。

「なんだか、少し背がのびたね」
「そうですか?」
「うん。それに、すっごくカッコよくなった」

 こうして話していてもまるで現実味がわかない。何かの間違いではないかと、幻か何かじゃないかと思う。信じられない。

「ありが、とう……ござい、ます……さくらさんの方は、おかわり、なく……」

 信じられないくらいに、嬉しい現実。それは幻でもなんでもなくて。
 そのことを実感した途端、声が震え出した。平静のふりなんてできやしない。義之の中にあった感情がついに堰を切ったようにあふれ出した。声は次第に涙声になり、くしゃりと表情も崩れ出す。
 感情の氾濫。それは義之だけではないようだった。「まったく。男の子が簡単に泣いちゃだめでしょ」なんて立てた人差し指を口許に当てて、大人ぶった口調で言いながらも、さくらの笑顔もまた次第に涙色を帯びて、端正な表情が歪み出す。

「義之くん……ほんとうに、ほんとうに……ひさしぶり……。ボクは……ボクは……、正直、君とこうしてまた会えるなんて思ってなかった……」

 発せられた声は涙に揺れていた。碧い瞳からぽろぽろと水のしずくがこぼれ、頬をぬらす。

「……俺は、必ずまた会えるって信じてました」

 義之は静かな声で言った。
 彼女が自分の前から姿を消してからの数年間の日々。彼女のいない日々の間、ずっと、信じていた。この時が、この瞬間がかならずやってくると。彼女は必ず帰ってくると。そう、信じていた。信じてずっと、待っていた。

「さくらさん。ずっと待っていました……貴方のことを」

 義之の言葉にさくらは涙のにじんだ瞳を照れくさそうに細める。

「そっか。随分と待たせちゃったみたいだね」
「いえ、いいんです。こうして、帰ってきてくれたんですから」
「にゃはは、ありがとう。それにしても、初音島に帰ってきて最初に会えたのが君だなんて、ボクはラッキーだな〜」

 これまで一体、どこで何をしていたのか。どういった経緯で帰ってくることができたのか。何故、いきなりこの場所に現れたのか。聞きたいこと、胸にわく疑問は山ほどあった。
 だけど、それらすべてはどうでもいいことだ。
 そうだ。彼女は今、自分の目の前にいる。この初音島に帰ってきてくれた。それだけが何よりも重要で、すべてなのだから。
 こぼれ落ちる涙にぬれた自分の顔を自覚しながらも、義之は口許を緩めて、ふっと笑みを浮かべた。これも、決めていたことだ。彼女が自分の前に帰ってくる時が来たのなら、その時は満面の笑顔で出迎えようと。そう、決めていた。だから――。
 義之はあらためて向き直るとさくらを正面から見据えた。あふれる涙を堪えて、笑顔を浮かべる。

「――――おかえりなさい、さくらさん」
「――――ただいま、義之くん」

 ――――季節は春。桜の花びらが満開に咲き誇る中で、そうして、二人は再び出会った。





戻る

上へ戻る