「明日からも同じ道」







 ひらり、はらりと桜の花びらが舞う。
 視界を埋め尽くさんばかりに舞い散る薄紅色の花びら。
 そして、それらの大元たる巨大な桜の木。『枯れない桜』と呼ばれる大樹は以前と同じように変わらぬ荘厳さを見せていて、見る者を圧倒する。
 芳乃さくらはそんな桜の大樹のふもとに立っていた。
 胸の中が悲しみで溢れている。
 胸中より生まれでる感情は神経を通じて全身に伝達され、体中がばらばらに引き裂かれるような錯覚を呼び起こす。それ程に、悲しい。
 ――――どうして?
 それと同時に思ったのは疑問だった。
 どうして、自分はこんなに悲しんでいるのか。その理由がさっぱり見当もつかない。
 首を傾げたさくらの視界に一人の青年の姿が映った。
 さくらの真正面に立った青年はさくらを方をじっと眺めている。
 青年の名をさくらは思い起こそうとし、しかし、できなかった。
 ない。
 さくらの頭の中にあったはずの青年の名前は、あとかたもなく消えている。
 ――――おかしい。
 自分は彼のことを知っているはずだ。誰よりもよく知っているはずだ。
 しかし、今の自分の頭の中には青年の名は浮かばない。青年の名が、ない。
 さくらが困惑している間に青年は踵を返し、さくらに背を向けた。そして、歩き出す。
 青年がさくらから離れていく。
 待って、と声を出しても青年の歩みを止めることはできない。追いかけようと思い走りだそうとしたが、しかし、それもかなわず、さくらはその場に立ち尽くした。体が言うことを聞いてくれない。今すぐ息が切れる程の全速力で走り出して青年をつかまえたいのに、指の先に至るまで凍り付いたかのように動かない。
 ――――いかないで。
 さくらは涙が出そうなのを堪えて必死の思いを青年の背中にぶつけた。それが功を奏したのか、青年はぴたり、と立ち止まり、さくらの方を振り向く。
 そうして、その口から言葉が紡がれ……。

「さよならですね、さくらさん」

 その言葉を聞いた瞬間、理解した。自分が何故こんなに悲しんでいるのか、その理由にようやく気付けた。
 ああ、そうだ。
 ボクは■■くんと会えなくなることを悲しんでいたんだ。
 さくらが理解した。その瞬間、青年の体は無数の桜の花びらとなってかき消えた。
 唖然とする。
 行ってしまった。
 消えてしまった。
 彼が、自分の前から去ってしまった。
 もう会えない。
 モウ、アエナイ。

「う、う……うわあああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 誰も聞く者もいない場所。一人の空間で、さくらの絶叫が虚しく響き渡った。



「う……」

 最初に目に入ったのは天井だった。
 見るに見慣れた自分の家の自分の部屋の天井。
 勿論、そこには舞い散る桜の花びらも桜の大樹もない。

「……ゆ、夢……っ?」

 体を起こしながら動揺しきった声が口からもれる。胸に手を当ててみればどくん、どくん、ともの凄いスピードで心臓が脈を打っているのがわかる。頬を触れればそこは涙に濡れていた。
 夢。
 夢。
 夢だ。

「うっ、うう……」

 寝起きなのにどっと疲れたような気分だった。

「はぁ……」

 一息つく。それにしてもなんて夢だろう。ボクと義之くんが二度と会えなくなるなんて。そんなことあるはずがないのに。

「いや、正確には『あった』んだよね……」

 自分の思考に自分で突っ込みを入れる。さくら本人の時間の感覚ではそんなに前の出来事でもないが、この世界の時間に換算すると5年前。さくらは義之の元から去る決意をした。
 『枯れない桜』の暴走を止めるために。
 義之とは二度と会えない。そんな悲壮な覚悟を抱いて、さくらは『枯れない桜』のもとへ赴いたのだ。

「それにしても……」

 今更こんな夢を見るなんて、と自嘲にも似た思いを抱く。
 自分はたしかに義之くんの前から去る決意をした。二度と帰ってこれない決心をした。しかし、帰ってきた。帰ってくることができた。それがつい先日のことだ。
 自分の帰還を祝って風見学園のみんなが開催してくれたお祭りのことは記憶に新しい。これだけ沢山の人に迎えられるなんて、祝福してもらえるなんて自分はこれ以上ないくらいの幸せ者だ、と強く確信した。それからは義之くんとお隣さんの由夢ちゃんと楽しい日々を送っている。
 そんな今になって、何故、こんな夢を見たのか。
 さっぱりわからない。

「うにゅ、まぁ、そんなに昔の話でもないし……そこまで不思議なことじゃないのかな?」

 この世界の時間はともかく、さくらの体感時間では自分が『枯れない桜』のところに赴いたのはそんなにも昔の話ではない。その時の決意が、悲しみが、夢という形でさくらの中に現れてもそこまで不思議なことではないのかもしれない。

「なんにせよ、嫌な事は忘れちゃうに限るね♪」

 自分を元気づけるためわざと明るい声を出す。そうだ、こんな嫌な気持ちすぐに忘れられる。彼の、義之くんの顔を一目見るだけで……。
 義之くんのところへ行こう。
 そうと決めたさくらは早速布団を抜け出すと寝間着のままで自室を出た。廊下を歩き、階段を上り、二階にある義之の部屋へ。部屋の前にたどり着くと、こんこん、と申し訳程度にノックをする。返事は……ない。おそらくはまだ寝ているのだろう。今日は土曜日。休日の朝は眠れるだけ眠る、というのがいつもの義之だ。社会人となってからというものの、土日の午前はもっぱら睡眠時間にあてて休眠を取ることが基本になっている。それだけに起こしちゃったら悪いな、とさくらは思いながらも義之の部屋の扉を開けた。

「むにゃむにゃ……すぅすぅ……」

 予想通り。
 義之はベッドの上で掛け布団を被って休みの日の朝の休息を貪っている。
 さくらは物音をたてないように気をつけながらそろりそろり、と歩くとベッドの脇で足を止めた。
 そうして、じっくりと義之の寝顔を眺める。
 さくらが初音島から消える以前に見ていた頃はまだ少年のあどけなさを残していた顔たちは今ではもう少年とはいえない、立派な青年の顔になっている。しかし、それでもさくらにとっては何よりも愛おしい。

「にゃはは。可愛い寝顔しちゃって」

 可愛く、そして、幸せそうな寝顔だった。
 胸中の曇りが一気に晴れていく。胸の中にあった嫌な気持ち、不安や悲しみが消えていく。義之の寝顔にはそれだけの力があった。自然、さくらの口許がほころぶ。
 つんつん、とさくらは義之の頬を指でつついてみた。

「ん……むにゃ……」

 しかし、義之は微動しただけで一向に起きる気配を見せない。

「こうしてずっと寝顔を見ているのも悪くないんだけど……」

 それだけで幸せな気分になれる。だからいつになるかわからない義之の目覚めまでこうしているのも悪くはない。こういうのを親馬鹿って言うんだろうか? とさくらは一人、苦笑いした。
 こうしているのも悪くはない、悪くはないが……。

「おじゃましま〜す♪」

 楽しげに言うとさくらは義之のベッドにその身をもぐりこませた。義之に占有されていたベッドのスペースの中に割り込むように小さな体を入れ、掛け布団を一緒に被る。そうして、義之の体に自分の体を押しつけるようにした。ぴったりと体と体を密着させると、人肌のぬくもりが、義之のぬくもりがさくらを包んだ。自分にかかる負荷が増えたことに義之の寝顔が一瞬、不快そうに歪んだがそれも刹那のこと。すぐに元の寝顔に戻り規則正しい寝息をたてはじめる。

「うん……? すぅ……すぅ……」

 なんだろう? すごく安心できる。

「にゃはは♪」

 安息のあまり、笑い声が口をついて出る。さくらの体を包む安堵感。何も不安に思うことはない。義之くんはここにいる。もうボクと義之くんが離れるなんてことはない。そのことを何よりも強く実感できる。朝の夢は悲しかったけれど、夢は所詮、夢だ。もうあの夢は現実にはなり得ない。

「そうだよ……ボクも、義之くんも……ここにいるんだから……さ」

 最愛の息子のあたたかさを間近で感じながら、さくらの意識は徐々に安息の中に落ちていった。



「……さくらさん!」
「あ……」

 それは何度目の呼びかけだったのだろうか。
 自分を呼ぶ声にさくらはまどろみの中にあった意識を覚醒させた。
 ぼーっとする頭で体中を包むあたたかさを感じる。さくらは寝ぼけ眼で現状を把握しようとした。
 現在地は……ベッドの上。目の前には義之くんの姿が見える。そして、自分はそんな義之くんにもたれかかるように体を預けて、二人一緒にベッドで横になっている。
 寝ぼけた頭でも思い出すことができた。そうだ。朝、義之くんの顔を見に来て、ベッドの中にもぐりこんで、そうして……おそらくは眠ってしまったのだろう。

「やっと起きてくれましたね……」
「にゃはは〜……」

 ほんの少しの批難の籠もった義之の声にさくらは誤魔化すように笑う。先に起きたのはいいが、さくらがくっついていたから動くに動けなかったのだろう。義之は「じゃあ、起きたいからどいてください」と続けるが、

「い・や」
「……『いや』ってなんですか?」
「言葉通りの意味だけど?」

 呆れたような義之の表情にさくらはにやりと笑う。

「もうちょっとこうして義之くんとくっついていたいんだ♪」

 そうして、義之の体を抱きしめる。義之は迷惑そうに「はぁ」ともらしたが、おそらくは本心ではそこまで迷惑に思ってもいないだろう。さくらの性格を義之はよく知っている。それでも少しだけ不安になりさくらは「ダメ……かな?」と声をかける。

「……ダメってことはないですけど……まぁ、さくらさんの気の済むまでそうしていて結構ですよ」
「にゃはは♪ ありがとう、義之くん♪ それじゃ、お言葉に甘えまして……」

 元々、近かった義之との距離をさらにぐっと詰める。義之は少しだけ照れ臭そうにしながらも、しかし、さくらを拒むことなく、受け入れてくれた。

「ねぇ、義之くん」
「……なんですか?」
「幸せだね♪」

 さくらの唐突な言葉に義之はぽかんとした。だから、さくらは言葉を続ける。

「こうして義之くんがそばにいてくれる。義之くんと同じベッドで横になれる。義之くんのぬくもりを感じられる。義之くんとお話ができる。……ボク、すっごく幸せだよ」

 満面の笑みで告げる言葉。それらは全てさくらの本音だ。最愛の義之くんがそばにいてくれる。言葉を交わすことも、お互いのぬくもりを交換しあうこともできる。別れのさびしさとは無縁の穏やかで心休まる時間を共に過ごすことができる。これ以上、幸せなことはない。
 その言葉に義之はぽかんとしていた顔を穏やかな笑顔に変えると、

「……そうですね。俺もさくらさんがそばにいてくれて幸せです」

 そう、言葉を返すのだった。



「うにゃ!? もうこんな時間?」

 芳乃家の居間の壁にかけられた時計を見上げ、さくらは驚きの声を上げた。時計は昼の1時を示している。

「ちょっとベッドでごろごろしすぎましたね……」

 そう言って義之もまた苦笑いを浮かべる。
 あれからベッドで二人、他愛もない、けれどまったりとした幸せな時間を過ごし、そうしてようやくベッドから抜け出し、それぞれの部屋で着替えを済ませてみればこの時間だ。
 朝起きて、義之の部屋で二度寝をして、それから起きてさらにゆっくりしたのだからこのくらいの時間になっていてもおかしくはないのだがそれでも我が目を疑ってしまう。

「うにゅ〜。どうりでお腹もすくわけだよ。ちょっとゆっくりしすぎちゃったかなぁ?」
「そうですね」

 さくらの言葉に再び義之は苦笑する。普段、土日の目覚めは遅い義之としても流石にこの時間までベッドにいたことは珍しいことなのだろう。

「由夢ちゃんは今日、来ないのかな?」

 ふと気になってお隣さんの名を出す。

「この時間になっても顔を出さないってことはしばらくは来ないでしょうね。晩飯の時間になったら来るかもしれないですけど」

 義之はもう一度、時計を確認して答えた。お隣さんの由夢は平日休日問わず朝からこちらの家に来ることは珍しくない。来るのならとっくに来てもおかしくはない時間なのだが、この時間になって尚、来ないということはしばらくはこっちの家には来ないのだろう。

「そっか。しばらくは由夢ちゃん来ないんだ」

 今朝の悪夢のせいもあり、なんとなく今日は義之を独り占めしたい気分だったさくらとしては好都合である。それが声にあらわれていたのだろう。

「来ないことを喜んでたって後で由夢に知られたらあいつ、すねますよ」

 と、義之に突っ込まれてしまった。
 勿論、さくらは由夢のことは嫌いではない。とはいえ、たまには義之と二人で過ごしたい時があるのもたしかだ。義之の指摘にさくらは「にゃはは〜」と笑って誤魔化した。

「それより朝飯……兼昼飯はどうします? 何かリクエストがあるなら応じますけど……」

 当たり前のように義之は台所に向かいながらさくらに声をかけてくる。さくらは笑顔で、

「目玉焼き! 目玉はダブルで半熟とろとろでお願いしま〜す♪」
「わかりました。ハムエッグにポテトサラダ、味噌汁ってところでいいですか?」
「うん♪」

 それだけ聞くと義之は台所の方へと消えていった。



「はい。召し上がれ」

 十数分後。テーブルの上には見事な朝食兼昼食が並んでいた。
 リクエスト通りたまごを2つ使った目玉焼きは目玉の部分が半熟のとろとろで、味噌汁から出る香りも食欲をそそる。「今日の味噌汁は自信作ですよ」と言う義之の言葉にも期待が持てるというものだ。

「にゃは、すっごく美味しそう♪ ありがと〜、義之くん」
「いえいえ」
「いつも悪いね。ご飯作らせちゃって」
「あはは。まぁ、いつものことですから」

 今の義之は天枷研究所の契約社員であり、仕事に忙殺される日々を過ごしている。一方のさくらはと言うと風見学園の学園長を辞めてしまい復職もしていないのでフリーの立場だ。お互いの忙しさを比べれば食事くらいさくらが作るべきなのかもしれないが、長年の習慣というやつか義之が作る日の方が圧倒的に多い。たまの土日でもこのように義之に任せる有様だ。……と、そこまで考えて1つの悩みがさくらの胸中に浮かび上がった。

「う〜〜ん」
「どうしたんですか? そんな難しそうな顔をして」
「いや、ね。ボク、何もしていないなーって」

 そうなのだ。
 初音島に帰ってきてからこの方、自分は何もしていない。学園長は辞めてしまっているし、『枯れない桜』の管理も『枯れない桜』が普通の桜に戻った今となっては必要ない。今の自分はこうして家でのんびりして、たまに出かけるという悠々自適な日々を送っている。これはつまり……。

「わわ! 今のボク、何もしてない! ひょっとしてニート!? 義之くん、どうしよう!?」
「……どうしようって言われましても……」

 義之が困ったように笑う。そして、「いいんじゃないですか」と言った。

「さくらさんはいなくなる前が忙しすぎたくらいですし、今、ちょっとばかり休んでも」
「そうかな〜?」
「ええ」

 義之は笑顔で言う。

「のんびりしてください。俺も由夢も、他の誰だってそのことに文句をつけたりはしませんよ」

 それは、本心からの言葉に思えた。

「それにさくらさんは何もしていないって言いますけど家で待ってくれている人がいるっていうのはそれだけで嬉しいことなんですよ」

 その言葉はさくらにもわかった。風見学園の学園長として仕事をしていた頃。家に待ってくれている人がいる。自分の帰りを待つ家族がいる。その事実はそれだけで大量の仕事にも取り組む気力が沸いてくるし、疲れも癒やせるものだった。かつてはさくらが仕事をし、義之が家で待つという日々。今はそれが逆転してしまったが、自分の存在が義之の仕事に取り組む意欲を生み出したり、疲れを癒やしたりできているのだろうか?

「にゃはは、そっか。いつの間にか養う側から養われる側に変わっていたんだね」
「ええ。ですから、さくらさんは別に現状を気にする必要はないですよ。さくらさんが家にいてくれる、こうして一緒に食事をすることができる。それはそれだけで他の何ものにも代え難いことなんですから。さっきさくらさんも言っていたじゃないですか、そばにいてくれるだけで幸せだって。さくらさんが俺のそばにいてくれる。それだけで充分ですよ」

 それでこの話題は終わりだった。

「ささ、そんなことより早く食べちゃいましょうよ。どんな料理も冷めると美味しくないですよ」

 義之の言葉にさくらは注意をテーブルの上に並べられた料理に向け直した。

「うん! 義之くんの作ってくれた料理、冷ましちゃったら悪いし……」

 そうして、二人そろって手をあわせる。

「いただきます」
「いただきま〜す♪」

 芳乃家の随分遅い朝食兼ちょっと遅い昼食の時間はそうして始まった。



 食事も終わり芳乃家の居間にはまったりした空気が流れていた。
 さくらと義之は二人そろって居間でごろごろと横になり液晶テレビに流れる暴れん坊な将軍様が活躍する時代劇の再放送を見ている。再放送とはいえどうやらさくらが初音島にいなかった時期に放送されたものの再放送のようで、さくらにとっては初見だった。
 休日のお昼の平穏なひとときに思わずさくらの口から「平和だね〜」と声がこぼれる。義之も「そうですね」と相槌を打った。
 平和。なんて素晴らしい言葉だろう、とさくらは思う。初音島は今日も平和だ。バスが不自然な交通事故を起こすこともなければ、看板が落下することもない。初音島では何の事件も起こることはなく平穏な日々が過ぎていく。そして、その平穏な日々を自分も享受する事ができる。朝、見た悪夢のように義之くんと離ればなれになることもない。彼と共に休日のお昼を満喫できる。
 まるで『当たり前』にように。さくらの日々は平穏に流れていく。その『当たり前』がどれだけ稀少なものかさくらには分かる。自分がこんな風に『当たり前』のように幸せな日々を過ごすことができるなんて『あの時』は夢にも思わなかった。決意を秘め枯れない桜のところへ赴いた『あの時』には。

「にゃはは〜」

 夢みたいに幸せな現実がここにある。それを実感するたびに思わずさくらの口許には笑みがこぼれてしまうのだった。

「どうしたんですか、いきなり笑って」
「うにゃ? いやー、テレビが面白くてね」
「?」

 さくらに不自然な言葉に「たしかに面白いですけど、笑うシーンでしたか?」と義之の顔には疑問符付きで書いてあった。自分でも不自然だと思う。でも、仕方がない。これだけ幸せなんだから。
 そうこうしているうちに時代劇の再放送は終わり、別のドラマの再放送へと番組が切り替わったところでさくらはテレビを切った。

「いや〜、面白かったね♪ やっぱり暴れん坊な将軍様は最高だよ!」
「そうですね、あの破天荒さには男として惹かれるところがあります」
「ボク、このシリーズ、最近のは微妙だな〜って思ってたんだけど、これは評価を改めないといけないかもね〜」

 そう言って義之と時代劇の感想を言い合いながら笑い会う。他愛もない、けれども、幸せなひととき。
 ふと思いついたことがありさくらは義之に問いかけた。

「ところで義之くん、これから予定ある?」
「あったらこんなにのんびりと時代劇鑑賞なんてしてませんよ」
「にゃはは、それもそっか♪」

 義之の返答に安心する。多分そうだろうと思ってはいたが、やはり本人の口から聞くと安心できる。

「せっかくの休日、こうやってお家でごろごろして過ごすのもいいんだけどさ、どこかに出かけない?」
「出かける? 俺とさくらさんの二人で、ですか?」
「うん♪」

 満面の笑顔で頷く。考えてみれば自分と彼は一緒に住んでいるが二人だけで出かけるということはあまり多くない。珍しく由夢ちゃんのいない休日だ。たまには二人きりでどこかへ行くのも悪くないかな、と思ってのことだった。

「けど珍しいですね、さくらさんの方からそういう風に誘ってくるのって」
「え〜、そうかな〜?」

 そうかな、と言いながらも、たしかに珍しいかもしれない、とさくらは思った。いなくなる前は仕事の忙しさもそうだが、義之には自分なんかより同級生の友人たちと遊んでいる方がいいだろうという遠慮もあり、あまり積極的に義之を誘うことはなく、帰ってきた後もなんとなくさくらから彼を誘うということは少なかった。

「それで、答えは? ボクからのデートのお誘い、受けてくれるかな?」
「デートって…………まぁ、特に予定もありませんし、別に構いませんよ」

 さくらの問いかけに義之は苦笑を浮かべながら頷いてくれた。



 初音島で出かける場合、基本的に行く場所は限られてくる。娯楽施設としてはさくらパークという遊園地があるにはあるが、遊園地というだけあり入場料もアトラクションを楽しむためのお金も決して安くはなく、休日に気分でふらっと出かけて、気楽にいける場所ではない。そういうわけで出かけるとなれば、喫茶店・服屋からゲーセン、カラオケボックスなどが色々な店がそろっている商店街か、並木道から続く散歩コースとしての定番であり、自然に彩られた桜公園かのどちらかになる。
 そして、さくらが選択したのは後者だった。
 芳乃家から徒歩十数分。桜公園の入り口に立ち、さくらは思いっきりのびをした。

「とうちゃーーーっく! やっぱり自然のあるところはいいねぇ、癒やされる〜♪」
「そうですね」

 桜公園はその名の通り、公園中に桜の木々が植えられている。少し前までは薄紅色の花を満開に咲かせていたそれらは5月の中旬の今では緑混じりの葉桜を咲かせている。休日の真っ昼間、この場所にはさくらと義之の他にもお爺さんやカップルの姿もちらほらと目にすることができた。

「どうします、奥の方まで行きますか?」

 ざっと桜公園を一望し、義之がそう言う。この公園の奥にはひらけた空間があり、そこに一際大きい桜の大樹、通称『枯れない桜』もある。ここまで来たのだ。一目その威容を目にしておくのも悪くはない、悪くはないのだが。

「うーん、それもいいんだけどね。ボクはそれより先にやっておきたいことがあるかな」
「やりたいこと? なんです?」

 義之が問いかけてくる。さくらはちらり、と公園に停車している移動販売のトラックを示した。

「あれが食べたいなー、なんて」
「ああ、クレープですか」

 そう。トラックで販売されているのは四季を問わずお菓子の定番、女性に大人気のクレープだ。その甘みはさくらも勿論、嫌いではない。目の色を変える……程ではないにせよ食べられる機会があるならそれを逃す手はない。

「それにしてもクレープが欲しいってさくらさんもやっぱり女の子なんですね」

 今、すごく失礼なことを言われた気がする。

「義之くーん、今の言葉、どういう意味〜?」
「あっ、いえ。別に深い意味はないですよ」
「ホントかな〜」

 さくらの一睨みにたじたじになった義之には構わずさくらは言葉を続けた。

「ボクだって立派なレディーだからね。クレープは大好きだよ」
「そ、そうですよね。すみません」

 平謝りしてくる義之。

「まぁ、いいや」

 元々そんなに本気で怒っていたわけではないのでこの辺で許してあげることにした。

「それより早く行こうよ。ボクの胃袋がクレープ食べたーいって訴えてるんだよ!」

 さくらは義之を急かしたてクレープ屋の方へと駆け出す。義之がその後ろを慌てて付いてくるのをちらり、と確認しながら。
 さくらがクレープ屋の前に到着すると「いらっしゃい」と店員が声をかけてくる。

「どれにしようかな〜、色々メニューがあって迷っちゃう」
「クレープってなんでこんなに無駄に種類が多いんでしょうね」

 義之がさっぱり理解できないという風に言う。しかし、さくらとしてはそれに頷くことはできなかった。

「無駄なんかじゃないよ〜。女の子の好みは多種多様なのです♪」

 にっこりと笑顔で言う。義之はそれでもいまひとつ納得がいってないようで「そういうものですか……」と困惑気味に呟いた。

「うーん、決めた! ボクはイチゴカスタードをお願いします! 義之くんはどうする?」
「俺はなんでもいいですよ」
「それじゃあボクが決めていいかな?」
「ええ。お願いします」
「うーんと……。それじゃあベリーチョコレートをお願いしまーす」

 さくらの注文に店員は頷くと慣れた手つきで2つのクレープを作った。さくらが財布を取り出そうとすると義之が「俺が払いますよ」と言ってさくらを制した。自分で払う気どころか義之の分まで払う気満々だったさくらとしては虚を突かれた気分になり「でも、悪いよ」と声が出る。

「いいですって。これくらい。ここで女の人にお金を出させる程甲斐性無しじゃありませんよ、俺は」
「にゃはは。そっか、それじゃあ義之くんにおごってもらおうかな」
「ええ」

 結局、2つ分のクレープの代金は義之が出し、二人はそれぞれのクレープを受け取る。
 それにしても、義之がさくらの分まで代金を出す、と言い出したのには驚いた。そんな気の利かせ方のできる子だとは思っていなかったが、いつの間にか成長していたのだろう。
 親としては子供のクレープ代くらい出してあげたいのが本音だったが、義之がわざわざこんな気の利かせ方をしてくれている以上、彼の顔を立てる形で彼の言葉に甘えた結果だ。

「ありがと〜、義之くん♪ 義之くんもレディーとの接し方をわかってきたんだね」
「あはは……それは、まぁ、朝倉姉妹や雪月花の面々に鍛えられましたからね」

 苦笑を見て理解する。成る程。隣家の姉妹や学園の女子の友人たち、彼女たちと一緒にクレープを買いに来ては義之一人がお金を払わされるということが多々あった末の気の利きようか、とさくらは納得した。

「なるほどね〜、それじゃあ早速食べよっか♪」
「ええ」

 それぞれクレープを手にしたままクレープ屋から離れ、手頃なベンチを見つけるとさくらと義之はそこに腰掛けた。

「それじゃ……いっただきまーす♪」

 かぷり、と手元のクレープにかじりつく。カスタードクリームの甘みがスライスされたイチゴの味と混じり合い、絶妙なハーモニーを形成して、口の中で溶ける。美味しい。素直にそう思えた。

「うーん、美味し〜い♪ 義之くんの方はどう?」

 ちらりと隣に座っている義之へと目線を向ける。義之もクレープをひとかじりしたところのようだった。さくらの問いかけに義之は「ええ、美味いですよ」と答えた。

「チョコレートの一癖ある甘みがいい感じですね」
「ふーん、そっか〜、そっちも美味しいんだ」
「……?」

 含みのあるさくらの口ぶりに義之が怪訝そうな顔をする。

「いただき!」

 言うや否や、さくらはひょい、と椅子から降りると義之の目の前に猫のようなすばしっこさで回り込み、義之の反応を待たず、その手元にあるクレープにかぶりついた。

「もぐもぐ……うん、たしかにこっちも美味しい♪」

 満足げに頷くさくら。突然のことに呆然としたまま手元のクレープに視線を落としていた義之だったが、ハッとしたように顔を上げた。

「さ、さくらさん!」
「うにゅ? どうしたの義之くん。そんなに慌てて……」
「そんなに慌てて……じゃないですよ!」

 義之の慌てぶりが理解できず、さくらは首を傾げた。ちょっとクレープを貰っただけなのに何をそんなに慌てているんだろう?

「勝手に人のクレープを食べないでください!」
「にゃはは、ごめんごめん。でも、そんなに怒ることでもないでしょ?」
「それは、そうかもしれないですけど……」

 義之はどこか煮え切らない態度だ。ちょっと貰うくらいいいかな、と思ってのことだったが悪かったのだろうか? ひょっとして一人で全部食べるつもりだったのかもしれない。それなら悪いことをした。

「うーん、でも食べちゃったものは戻せないし……」

 さくらは思案し、そして、思いついた絶好のアイディアに「そうだ!」と声をあげた。

「代わりにボクのクレープも少しあげるからそれでチャラにしてよ♪」

 そう言ってさくらは手に持つ自分の食べかけのクレープを義之の方に差し出してみせる。すると義之は困ったような表情を浮かべる。

「どうしたの? 食べていいよ?」
「いや……そう言われましても……」
「?」

 挙動不審な義之の様子にさくらはピンと閃くものがあった。これは、まさか……。

「あ、ひょっとして義之くん。照れてる〜?」

 さくらはからかうように笑った。「う……」と義之が声をもらす。

「これ食べたらボクと間接キスになっちゃうもんね。だから食べないんだ〜」
「そういうわけじゃ……!」
「ないの?」
「ない……わけでもないですけど……」

 もごもごと言葉に詰まる義之。その様子からさくらの思った通りなのは確実だった。

「照れなくてもいいのに〜。可愛いなぁ〜♪」

 照れる義之がこれ以上なく可愛くさくらには見える。ほらほら、とさくらはもう一度、手に持つクレープを差し出してみた。

「一口食べてみなよ、美味しいよ」
「…………」
「にゃはは、やっぱり恥ずかしい?」

 こくり、と義之は頷く。

「このくらいで恥ずかしがるなんてことないよ。ボクたちは家族なんだからさ」

 さくらが続けてそう言うと義之は観念したかのように、じっとさくらの方を見ると、

「わかりました、いただきます」

 そう言い、かぷり、と差し出していたクレープにかぶりついた。「どう、美味しい?」とさくらが聞く。

「……ええ、カスタードクリームがいい感じですね、とても美味しいです」
「そう、よかった♪」

 義之の感想にさくらは満足げに頷くと、元の座っていた場所に座り直し再びクレープに口をつける。その隣では義之がやはり恥ずかしそうにしながらもさくらがかじりついたベリーチョコレートのクレープに口をつけるのだった。



 そうしてクレープも食べ終わり、その後、桜公園の奥の一際巨大な桜の大樹の元も訪れ、高台の方に出て港の景色も堪能した。初夏の自然に彩られた公園でのんびりまったりと過ごすことができた。澄み切った気分だ。自然とそろそろ帰ろうか、という雰囲気になってくる。

「どうします? この後、喫茶店でも寄ってから帰りますか?」

 義之がそんな提案をしてくる。しかし、さくらは首を横に振った。

「ううん、今日はいいや。このまま真っ直ぐ帰ろうよ。あ、義之くんが何か買い物あるなら商店街に寄ってもいいけど」
「いえ、晩飯の食材はそろってますし、今日は別に買い物に行く必要はないですね」
「そっか。それじゃあ真っ直ぐお家に帰ろっか♪」

 そう言ってさくらは桜公園の出入り口まで先に歩み、そこで足を止めた。くるり、と振り返り遅れてついてきた義之を正面から見る。

「どうしたんですか?」

 そんなさくらの態度に義之が怪訝そうな声を出す。さくらは静かな声で「ね、義之くん」と切り出した。

「手、つないでもいいかな?」
「はい?」
「だから手だよ! 手をつないで帰ろうって思って……」

 自分でも唐突なことだとわかってる。それは本当になんとなくの思いつき。普通に歩いて帰るのもいいが、なんとなく手をつないで帰りたかった。義之のぬくもりを肌で感じて帰りたかった。当然、義之は困惑した表情を浮かべる。

「ダメ……かな……?」

 さくらのか細い声。義之は慌てた様子で「い、いえ!」とかぶりを振った。

「ダメってことはないですよ。ただ突然のことでちょっと驚いただけで……」
「にゃはは、そっか。それじゃあ、いいんだね?」
「はい」

 そう言って義之はさくらの左隣に並ぶと右手を差し出してくる。さくらは左手でその手を握った。大きくて、そして、あったかい手。そのぬくもりに思わず笑みがこぼれる。

「じゃ、帰ろっか」
「は、はい……っ」

 そうして二人、手をつないだまま歩き出す。道中、義之はやはり恥ずかしいのか、少し照れ臭そうにしていた。
 手をつないでいる。ただそれだけのことなのに、安心感がさくらを包む。義之のぬくもりを直に感じられる。自然と歩みも軽快になるというものだ。

「ねえ、義之くん」
「なんですか?」
「ボクたち、どういう関係に見えるかな?」

 隣を歩く義之を見上げ、問う。義之は「そうですね」と暫し考えた後、

「兄妹……じゃないでしょうか」
「えー! なんで兄妹ー?」

 その答えはさくらにとっては納得できないものだった。

「いや、そう言われましても……」

 義之は困ったように言葉を濁す。

「親子には見えないの?」

 そうだ。自分と彼は親子なのだから、親子で手をつないで帰っている。本来、そう見えるのが当然のはずなのだ。

「親子……ですか。まぁ、それが本来の関係なんですけど、その、さくらさん……」

 義之は言いにくそうに言葉を句切った後、

「……小さいですし」

 残酷な事実を口にした。悔しいがその通りだ。さくらの外見は中学生か、あるいは小学生と言っても通用する。そんな自分が高校を出て、社会人になった彼と一緒にいても親子には見えないだろう。義之が口にした通り、せいぜい兄妹が関の山だ。しかも兄妹と言っても自分が下の方で義之が上の方だろう。

「うにゃー、やっぱり、そうなっちゃうかぁ」
「あの、なんていうか、その、すみません……」
「ううん、いいよ。義之くんが謝ることじゃないし」

 ショックだが、仕方がない。現実を受け止めるしかないだろう。
 さくらはそう割り切ると、思考を切り替えるべくにぱっと笑顔を浮かべた。

「それにしてもこうして一緒に手をつないで歩いていると昔のこと、思い出すねぇ」
「昔のこと、ですか?」
「うん! 義之くんがちっちゃかった頃!」

 思い出すとても尊く優しい記憶。あの頃の義之はさくらより背丈が小さくてどこかに出かける時はいつもこうして手をつないで一緒に歩いていた。

「義之くんが小さかった頃はよくこうして手をつないでいたよね。覚えてる?」

 問いかける。あの頃のことはさくらの中ではあたたかい大切な記憶として保管され決して色あせることはないが、義之はどうか。

「なんとなく……ですけど、覚えてます。さくらさんを見上げて歩いていた記憶が」
「そうだね〜、あの頃はボクよりちっちゃかったのに、それがこんなにも背が高くなっちゃって」

 かつては義之を見下ろしていたさくらだったが、今では見上げる側だ。

「にゃはは、そっか。義之くんも覚えていてくれたんだね♪」

 もし仮に忘れていたとしても大昔のことだ。それを責めることはできないが、やはり、覚えていてくれたというのは嬉しい。思い出を自分一人だけではなく、二人で共有できた。その事実にさくらの胸の中はあたたかい気持ちで満たされる。

「さくらさんが俺の手を引いてくれていたから、どんなところに行く時も安心できていたんですよ、俺は。最初に会った時も……そうでしたしね」
「最初に会った時かぁ……」

 それは桜内義之という存在がこの世に誕生した時。凍える寒さの中、さくらは彼の手を取り、朝倉家まで導いた。

「感慨深いなぁ」

 さくらに手を握られても凍り付いたように堅い表情を崩さなかった義之が最初に笑顔を見せてくれた時のことを思い出す。あの時、さくらはこの子のためならどんなことでもできる、と思ったものだ。
 過去の思い出を思い起こしながらさくらは義之と共に歩く。おそらくは義之も過去の記憶を呼び覚ましているのだろう。それからはお互いに黙り込み、会話はなかった。しかし、嫌な沈黙ではない。むしろ心地の良い沈黙が二人の間に漂う。もう少しで芳乃家、というところで義之が不意に口を開いた。

「さくらさん」
「うにゅ? 何かな」

 そうして、義之の口から出た言葉はさくらの想像を超えていた。

「何か、あったんですか?」
「え?」

 はじめは意味が理解できなかった。

「なんだか今日のさくらさん、どことなく変ですよ。ちょっと悲しそうに見えます」
「…………っ!!」

 気付かれていた!? さくらの表情が驚愕に染まる。何かあったかと聞かれれば、あった。朝。最悪の夢を見た。自分と義之くんが離ればなれになる悪夢。あの悲しみは未だに胸の奥底に残っている。今日一日、義之くんと過ごしている間、決して表には出していないつもりだったが、見抜かれていたというのだろうか? 気付かぬ内に行動に表れていたのだろうか?

「にゃはは、そんなことはないよ。ボクはいつも通りだよ」

 さくらは笑う。嘘だ。いつも通りならこんな風に手をつないで帰ったりはしない。ここまで義之のぬくもりを求めたりはしない。

「本当に、そうですか?」

 さくらの言葉に義之は静かな声を返す。
 なんて鋭い。かつてとは大違いだ。『枯れない桜』が暴走していたあの頃、さくらが自らを犠牲に『枯れない桜』を制御しようとした時はこうではなかった。あの頃もさくらは義之に「なんでもない」と言っていたが、その内に秘めた悲しみや決意を見透かされることはなかった。自分が心情を隠すのが下手になったのか、それとも義之が鋭くなったのか。後者かもしれないな、と思う。さくらがいなくなった後、さくらの真意に気付けなかった事を義之は猛烈に後悔しただろう。だからこそ、今、ほんの僅かな心の痛みでも見逃さないようにしているのかもしれない。
 じっと、義之の瞳がさくらを見る。これは誤魔化せないな、とさくらは思った。

「うにゅ、嘘ついてごめん。実はちょっと悲しいことがあったんだ」
「やっぱり、そうでしたか」
「うん」

 得心がいったという風に義之は頷く。さくらは義之に今朝見た悪夢のことを話した。

「にゃはは、変だよね。現実にはこうしてボクも義之くんも一緒にいるのにこんな夢ごときで不安になるなんて。ボク、自分のこともうちょっと図太い人間だと思っていたんだけどな〜」

 笑い話のノリでさくらは話す。しかし、それを聞く義之の表情は真剣そのものだった。

「そういう夢を見ても仕方がないと思います。なんたって一度は俺とさくらさんは離ればなれになってるんですから。そんな夢を見たのなら悲しくなって、不安になって当然ですよ。俺もさくらさんと離ればなれになるような夢なんて見たらその日は一日中気分が沈んでいると思います」
「そうかな?」
「ええ。ですが……」

 ぎゅっとさくらの手を握る義之の手にぎゅ、っと力が込められる。

「俺はここにいます」

 笑顔で義之はそう宣言した。

「つらい夢だったでしょうけど……夢は所詮、夢です。現実じゃありません。現実では俺はさくらさんが望む限り、側にいます。決してさくらさんの元からいなくなったりはしません」
「うん……そうだね、ありがとう、義之くん」

 義之の言葉にさくらも思わず笑みがこぼれる。

「だからさくらさんも俺の元からいなくなったりしないでくださいよ? 二度目は、嫌ですよ」

 その義之の言葉にハッとする。そうだ、夢の中では義之くんがいなくなったが、現実では逆。いなくなったのは自分の方だ。こうして帰ってくることができたとはいえ、義之くんをおおいに心配させてしまったことに違いはない。さびしい思いもいっぱいさせてしまっただろう。だけど、それも二度目は、ない。

「うん……もうボクは義之くんの元からいなくなったりしないよ」

 さくらもまた笑顔でそう宣言する。そして、ふっとさくらの胸中にわき上がる欲求があった。

「義之くん。ちょっとしゃがんでもらっていいかな?」
「? ええ……別に構いませんが」

 不可解そうにしながらも、義之は一旦つないだ手を離しその場にしゃがみ込む。
 そんな義之の頭の上にさくらはそっと自分の手のひらをのせた。そうして、ゆっくりとやさしく撫でる。いきなりのことに「あ……」と義之の口から声がもれた。

「いなくなったりして、ごめんね。義之くん。ボク、もうあんなことしないから……」
「……ええ、信じてますよ、さくらさん」

 もう一度、よしよし、と頭を撫でる。義之は恥ずかしそうにしていたが、そんなさくらの行動を受け入れてくれた。

「今日も明日も明後日もそれから先も、ずーっと一緒だよ」
「はい。ずっと一緒です、さくらさん」

 さくらの言葉に頭を撫でられたまま義之は頷く。
 そうかつてはあり得たあの悪夢はもう現実にはなり得ない。自分と義之くんはずっと同じ道を歩いて行くのだから。

「大好きだよ、義之くん♪」

 さくらは満面の笑顔でそう告げるのだった。



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