「9月4日」








 芳乃さくらが目を覚ますと、肌寒い朝の感触がさくらを襲った。
 9月に入り、一応は暦の上では季節は、秋。昼間の内はまだまだ残暑が厳しいものの朝と夜に限っては秋という季節を意識させられる寒気が感じられるようになってきた。寒すぎず、暑すぎず。朝晩は過ごしやすい環境だ。願わくば太陽が登っている昼間もこのくらいの気温であれば良いのだが。そんなことを思いながら布団から抜け出す。先月まではタオルケット一枚でよかったが、9月になると流石に掛け布団がなければ寒い。布団をたたみ押入れに直す。その間、さくらの脳裏をよぎっているのはこの家の二階で、おそらくはまだ寝ているであろう家族のことだ。
 桜内義之。今年の春からこの家で暮らすようになった誰よりも大事なさくらの家族。彼のことを思うとそれだけであたたかい気持ちになれる。彼がこの家で待っていてくれると思うとそれだけで仕事も頑張れる。朝から仕事があるが、時間にはまだ少し余裕がある。ちょっと顔を見ておこう。そう思い、さくらは部屋から出ると寝間着から着替えることも、寝ぼけ眼を洗うことも、髪の毛を整えることもせず、階段を登り、二階にある彼の部屋へ向かう。「お邪魔しま〜す」と申し訳程度に呟き扉を開けると、案の定。ベッドの上で穏やかな寝息をたてる義之の姿があった。
 側に行ってジッと眺めてみる。端正な顔たちが規則正しい寝息をたてている。端正、だと思う。身内贔屓が入っているかもしれないが、義之の顔は整っていて、女性のような美しさと男性の頼もしさを同居させている。その端正な表情が無防備にも自分に寝顔をさらけ出している。そのことにさくらは嬉しさを覚える。

「にゃはは、可愛い寝顔しちゃって♪」

 初めて彼と会った時から早十数年。すっかり大きく、そして、立派になった彼だが、今、さくらの目の前にある無防備な顔は出会った頃のような幼さと可愛らしさを感じさせるに充分たるものだった。やはりいくつになっても子供は子供だ。可愛い、ボクの子供。そんなことを思い、彼の寝顔を見ているだけで幸せな気分にひたれる自分に気付き、さくらは苦笑する。こんなことを考えているなんて、彼に知られたら彼はきっとご立腹だろう。俺はさくらさんが思っている程、ガキじゃありませんよ、なんて言ってくるに違いない。

「ちょっと悪戯しちゃってもいいかな? いいよね?」

 誰も返事を寄越すことのない疑問を口に出し、それを免罪符にさくらは目の前の寝顔にそっと手をのばす。その頬をツンツン、と伸ばした人差し指でつつくと、彼は「ん……」と声をもらした。触った頬の輪郭のたくましさに少し驚く。まだまだ子供っぽく、そして、女の子っぽい顔たちをしていると思っていたが、頬から顎にかけて形成されるラインは立派な青年のたくましさを秘めていて、硬い感触をさくらの指に返した。ツンツン、ツンツン、と何度かつつく。その度に彼は「んあ……」だの「んぐ……」だの言葉にならない声を返す。どうしよう。すごく、楽しい。ただ寝顔を無許可でさわっているだけだというのにそのことがこれ以上なく幸福感を自分に与えてくれる。自分は単純な人間だな、と呆れる思いもないではなかったが、楽しく、嬉しいものは嬉しいんだから、仕方がない。彼の寝顔にはそれだけの魅力があった。ジッと眺めても、頬をつついてみても、彼は一向に目を覚ます気配のない。さくらの中の悪戯心がさらに刺激された。

「にゃはは♪ おっきろ〜〜!」

 そう言い、ベッドの上で横になる彼の上に布団越しに馬乗りになる。容赦も手加減もなく、思いっ切りだ。ドン、と音が響き「ぐえ!?」と彼がうめき声をあげたのはそれと同時だった。寝ぼけ眼が一気に開かれ、自分に何が起こったのか、訳がわからない、という風に困惑した瞳の色をさくらに見せる。義之は混乱した瞳で自分に馬乗りになっているさくらを見ると、しばらく、呆然とし、そして、ややあって困ったような、呆れたような表情を見せた。

「な、何やってるんですか……さくらさん」
「にゃはは、グッモーニン♪」

 さくらはそんな義之に笑いかける。「グッモーニン……じゃ、ありませんよ」と彼が呆れた声をもらす。「なんで上に乗ってるんですか?」と続けられた当然の疑問に、

「そこに義之くんがいたから」

 笑顔で答える。至極単純、至極当然のことだ。だが、そんなさくらの返答に「はい……?」と義之は困惑した声を返す。

「いや、訳がわかりませんから。なんで俺がいたからって、俺の上に乗ることに繋がるんですか?」
「え、だってそんなの当たり前じゃない」

 キョトンとさくらは首を傾げる。

「義之くんがボクの目の前で穏やかな寝息をたてて横になってたんだよ? だったらちょっと上に乗って義之くん分を補給しつつ、義之くんを起こしてあげようって考えるのは当然じゃない?」
「いや……全然、当然じゃありませんから。俺は乗り物じゃありませんし……っていうか義之くん分って何なんですか」
「義之くんがボクに与えてくれるエネルギーのことだけど?」
「…………」

 呆れ果てた目で見られる。ややあってその表情は呆れから諦めのものに変わった。

「いや、まぁ、いいんですけどね……さくらさんがそういう人だっていうのはよくわかってますから……」
「む、義之くん。今ちょっとボクのことバカにしなかった?」
「いえ、別に」

 義之のことをジト目で見ながら義之の体から降りる。義之は上半身を起こすと「ふあ〜あ」と思いっ切りあくびをした。背伸びをしながらの豪快なあくびにさくらが苦笑していると、義之はベッドから降りる。そして「着替えるんで、出て行ってもらえますか?」と申し訳無さそうに言ってくる。

「うん! ボクも着替えないといけないしね。でも、そ〜の〜ま〜え〜に」

 ニヤリ、とさくらは笑った。かと思えば義之の体を思いっ切り抱きしめた。「さ、さくらさん!?」と義之の慌てた声。「にゃはは♪」と笑い声をもらしながら、さくらは義之の体の感触を思いっ切り堪能する。大人に近づいている立派な青年の体躯。まだまだ子供だと思っていたけれどしっかり成長しちゃって。なんてことを思う。

「な、何してるんですか!? は、離れてくださいよ……」
「充電〜、充電〜、芳乃さくらは義之くん分を充電中で〜す♪」
「……だから義之くん分って何なんですか……?」

 困惑する義之には構わず、その体をさらに深く抱きしめる。それだけで元気のエネルギーが体の中に流れ込んでくるような感覚を抱く。ずっと、こうしていたい。そんなことすら思う至福の時間。だが、それは唐突に終わりを告げた。不意に義之の部屋の扉が開く音をたてる。

「弟くん、おはよう〜! ほら、起きた起き……」
「うにゃ?」
「あ」

 そこにいたのはお隣さんの朝倉家の長女、朝倉音姫だった。音姫は室内の様子を見、最初、訳がわからない、という風にポカンとした顔を浮かべ、次いで、

「さ、さ、さ、さくらさん!? 弟くんと何してるんですか〜〜!!」

 と、大きな声を発した。こうなってはもうこの体勢を維持していることもできない。名残惜しいものの、さくらは義之から離れると「見ての通りだよ♪」となんら悪びれない声を出した。

「寝起きにちょっと充電していたんだよ」
「充電って……そんな羨ましいこと……」

 困惑、次いで、ムッとしたように音姫の眉がひそめられる。「弟くん!」と音姫は義之のことを呼び、義之は「は、はい!」と電撃でも受けたかのように素早く姿勢を正す。大方、さくらに抱きしめられていた姿を見られ、何を言われるのか、気が気でなかったのだろう。

「な、何でしょう……?」
「お姉ちゃんも弟くんで充電する!」
「え、え、え〜〜!?」

 音姫はそう宣言するとバッと両腕を広げ、義之に差し出す。

「さ、弟くん。お姉ちゃんがハグしてあげるよ♪ こっちに飛び込んできて♪」

 満面の笑みでそんなことを言う。一方で義之の方は完全に困り切った顔で助けを求めるようにさくらを見た。義之としては自分にハグされるのも、姉にハグされるのも、どちらも同じくらい恥ずかしいのだろう。その真意を読み取ったさくらだったが、素直に義之に助け舟を出してあげる程、性根が真っ直ぐという訳ではなかった。むしろ、悪戯心がどんどん刺激された。

「ダメダメ〜。義之くんで充電するのはボクの特権なのです〜」

 さくらが笑みを浮かべて言ったその言葉に「そんな!」と音姫は反応する。

「さくらさんだけずるいです!」
「にゃはは、諦めなよ、音姫ちゃん」
「う〜! 弟くん、さくらさんは良くて私はダメなの〜?」

 完全に涙目になった音姫はすがるように義之を見る。「い、いや、そういう訳でもないけど……」と義之は焦りの滲みでた言葉を返す。

「さくらさんにされるのも、音姉にされるのも、どっちも同じくらい恥ずかしいんだってば……」

 困り果てた表情での言葉だった。

「でも、さくらさんとはさっきやっていたじゃない?」
「そ、それはいきなりの不意打ちというか、事故というか、とにかく、あれは俺の本意じゃない」

 音姫の追求に義之は抗弁する。しかし、その言葉はさくらにとっては聞き捨てならない言葉だった。

「え? 義之くん……ボクにハグされるの、嫌だった?」

 シュンと落ち込む。自分としては至福の時間だったが、彼は嫌がっていたのだろうか? ひょっとして自分のことが嫌いなのだろうか? そんなことを思い出すと声音も悲しみの色を帯びたものになる。だから「あ、いや、嫌って訳じゃないですよ!」との言葉が耳朶を打った時は跳びはねるくらい嬉しかった。「そっか♪」と笑う。

「義之くんはボクにハグされて嬉しくて嬉しくて、堪らなかった、と」
「そ、そこまでは言ってません!」
「う〜、やっぱりお姉ちゃんも弟くんをハグする〜」

 朝。義之の部屋での混乱はますます加速する。「そ、それよりも!」と義之が誤魔化すような声を出した。

「さくらさん、今日、家に帰ってこれそうですか?」

 唐突な話題の転換にさくらだけではなく音姫も目を丸くする。「弟くん、どうしてそんなことを?」と音姫が当然の疑問を口にすると、「ほら」と義之が音姫に意味ありげに目配せをする。それを見て音姫は何かを思い出したかのようにハッとした表情を浮かべると「そうですね、さくらさん、今日、お仕事とかありますか?」と義之の質問と似た質問をさくらに投げかけてきた。
 なんで今日に限ってそんなことを訊くんだろう、と不思議に思いながらもそこまで変な質問でもない。さくらは「う〜ん、ごめんね」と前置きすると、質問に答えた。

「今日も仕事があって学園長室にこもりきりになるんだ。多分、家には帰ってこれないと思う」

 それを聞くと義之は見るからに落胆したように表情になる。「そう、ですか」と答えた声に思わず「ほんとにごめんね」と言葉を付け足す。

「あ、いえ、お仕事なら仕方がないですよ」

 そう言って義之は笑った。

「それならたっぷりエネルギーをたくわえて行かないといけませんね。気合入れた朝食を作るので少し待っててください。音姉も手伝ってくれるかな?」
「もっちろん♪ 弟くんと一緒にご飯を作れるなんて大歓迎だよ♪」

 義之の言葉に音姫も笑う。どうやら今日の朝食は期待していいようだった。それにしても、

「…………」

 仕事で家に帰れない、と告げた時の義之の落胆したような顔を思い出す。今日、何かあったっけなぁ……?




 その晩。さくらは朝、宣言した通り、学園長室で仕事をこなしていた。9月に入り、太陽が西の空に沈むのも大分早くなった。窓の外を見渡せば、すっかり夜の帳が下り、見慣れた和風の学園長室には電気の明かりが灯り、その中で一人、さくらはコツコツ仕事をこなす。客人はおらずひとりきりの時間が静かに流れていく。物寂しい、と言えば物寂しい光景だったが、さくらはそうは思わなかった。少なくともアメリカにいたあの頃と比べれば雲泥だ。あの頃と違い、今のさくらには帰りを待ってくれている家族がいる。家族――――義之くん。彼のことを思えばこの程度の仕事、大したことのないようなものに思えてくる。家族がいるということはそれだけで大きな力を自分に与えてくれる。自分は恵まれた人間だ。さくらがそんなことを思いながら仕事に一区切りついた時だった。コンコン、とノックの音が学園長室に響き渡った。
 来客の約束はないはずだ。誰だろう? と思いながら「はい?」と声を入り口の方に向ける。「さくらさん、義之ですけど」との返事が来たのはすぐだった。
 義之くん? 一体どうしてこんな時間に彼がここを訪れたのか? さくらの頭の中は疑問で埋め尽くされる。しかし、その疑問に解答を出す暇もなく「今、大丈夫ですか?」との声が続いて響いた。

「うん。仕事も一区切りついたところでこれから休憩しようかな〜、って思っていた時だから大丈夫だけど……どうしたの?」
「それはよかった」

 安堵したような声。それから間もなく、学園長室の扉が開かれる。え……? とさくらは驚いた。学園長室に入ってきたのは義之一人ではなかったからだ。音姫、由夢の朝倉姉妹に小恋、杏、茜の雪月花三人娘、渉、杉並という義之の悪友。それらがゾロゾロと学園長室に入ってくる。いきなりのことに当惑する。「み、みんな……一緒になって、どうしたの?」との声を必死で絞り出した。みんなは意味ありげな笑みを浮かべて何を企むような表情を浮かべている。「いえ、ね」と義之が笑い、

「お誕生日おめでとうございます、さくらさん!」

 笑顔の義之がそう言い、それを皮切りにしたようにこの場に集った皆が次々に「おめでとうございます!」と祝福の言葉を発する。それを聞いて、さくらはハッと気付いた。そうだ。今日は9月4日。他の誰でもない、自分の、誕生日ではないか。「え、あ、う……」と照れに照れた声がもれる。

「本当は家で盛大に祝いたいところだったんですが、さくらさん、今日はお仕事があるって言うじゃないですか。だったら、迷惑かもしれないけど、こっちから押し寄せてお祝いしようかな〜、って思いまして。すみません。驚きましたか?」

 義之が悪戯を成功させた子供のような笑みを浮かべて説明する。驚いた。驚きに驚いた。まさかみんな揃って自分をお祝いに来てくれるなんて……。「びっくりしたよ〜」と言葉を返せば「すみません」との言葉が返ってくる。そうか、そういうことか。今日は自分の誕生日だ。そして、義之がさくらの家で暮らすようになってから初めてのさくらの誕生日である。おそらく本来は義之としては家で盛大に祝いたかったに違いない。気合を入れた料理を作って、ケーキを注文して、盛大なパーティーを開きたかったに違いない。しかし、自分は自分の誕生日も忘れて今日は仕事を入れてしまった。そんな自分をわざわざ彼らは祝いに来てくれたのだ。
 正直な話、嬉しかった。この年にもなると誕生日のことなんて忘れがちになってしまい、事実、今日も忘れていたが、誕生日というものは本来は盛大に祝うべき特別な日だ。そんな日を自分はありきたりな、他の何事もない日と同じように過ごそうとしてしまっていた。しかし、義之はそんなさくらを思いっ切り祝おうとしてくれたのだ。目頭が熱くなるのをさくらは感じる。

「みんな……ありがとう」

 涙を堪えながら感謝の言葉を口にする。みんなはそんなさくらの言葉を笑顔で受け止めてくれた。「さくらさん、ご飯食べましたか?」と音姫が笑顔で訊ね、「まだだけど……」とさくらが返すと「それはよかった」と由夢が笑った。

「タッパーに詰めて色々持ってきたんです。流石にできたてホヤホヤという訳にはいきませんが……」

 義之はそう言うとおそらくは手料理が詰まってるであろうタッパーを次々に取り出し、机の上に並べる。タッパーの中身は赤飯に鶏のもも肉の照り焼き、カツオのたたき、サーモンサラダ等々、誕生日を祝うに相応しい豪勢な料理の数々のようだった。

「そしてこれがお誕生日には欠かせないもの……ケーキです」

 最後に義之は小さな箱を取り出した。その箱にはさくらも見覚えがあった。たしか商店街で美味しいと評判のケーキ屋だ。「私たちが義之くんに紹介したんですよ〜」と茜が笑い、「ここなら芳乃先生も喜んでくれると思って」と小恋が引き継ぐ。成る程。雪月花の入れ知恵か。
 箱を開けるとショートケーキが1ピース入っていた。一本のロウソク付きだ。「うわあ」と思わずさくらの口から声がもれる。

「ありがとう! 義之くん!」
「いえ、たいしたことじゃないですよ」
「ううん! たいしたことだよ!」

 嬉しくて堪らない。自分でも忘れていた自分の誕生日。それを覚えていて、ケーキまで用意して祝ってくれる家族がいる。これ以上嬉しいことはない。さくらは歓喜の声を上げた。

「それにどの料理も美味しそう。これは義之くんと音姫ちゃんが作ってくれたのかな?」
「そうですね。私と弟くんで」
「そっか♪ それじゃあ、美味しいに決まってるね♪」

 机の上に並べられた豪勢な料理の数々にケーキ。これだけでも充分すぎる程のものだったが、義之たちがさくらに用意したものはまだあるようだった。渉と杉並がまず前に出る。

「さくら先生、これは俺からのプレゼントっす」
「フッ、そしてこれが俺からのものだ」

 渉と杉並が綺麗に梱包されたプレゼントを差し出し、次いで雪月花三人娘が前に出る。

「芳乃先生、これはわたしから」
「拙い物ですが、喜んでいただければ幸いです」
「そんでもって、これは私からのプレゼントで〜す♪」

 雪月花三人娘もそれぞれプレゼントを差し出す。

「さくらさん、これは私からです」
「こっちはわたしから。喜んでもらえるといいんですけど……」

 次は朝倉姉妹の番だった。やはり綺麗に梱包されたプレゼントを音姫と由夢も差し出す。

「最後は俺ですね。はい……これが俺からのプレゼントです。いつもありがとうございます。さくらさん」

 そして最後に。義之がプレゼントを差し出す。それらを受け取ったさくらは胸の中があったかい気持ちで満たされていくことを感じた。独り、孤独に仕事をこなすだけのはずだった夜がほんの数分で一気に様変わりしたような気分だ。胸の中は幸福感で満ち、これ以上なく嬉しさが喉元まで込み上げてくる。今度こそさくらは目頭が熱くなるのを抑えられなかった。「さくらさん!?」と義之が驚きの声を発する。さくらの碧い瞳からはポタポタと涙がこぼれていた。

「ううん、心配しないで。あんまりに嬉しかったものだから、つい、ね。嬉し泣きだよ……!」

 さくらは自分の目を拭う。そんなさくらに義之はハンカチを差し出してくれた。受け取り、涙を拭う。机の上には所狭しと並べられた料理にケーキ、そして、プレゼントの山。どれにも人の想いがこもっていて、見ているだけであったかい気分になれる。そう。今日は誕生日。ボクが生まれた日。それを祝ってくれる人がこんなにもいっぱいいる。祝ってくれる家族が知人が、いる。それがどれだけ尊いことか、それがどれだけありがたいことか。そのことをさくらは痛いほどよく知っている。歓喜極まってさくらは声を出した。

「みんな、本当にありがとう! 最高の、最高の誕生日だよ!」

 夜の学園長室に響き渡ったさくらの声。みんなはそれを笑顔で受け止める。「いえ、そんな感謝されるようなことは……」と義之がみんなを代表して謙遜の言葉をもらす。

「改めて言いますが、お誕生日、おめでとうございます。さくらさん。今日からの一年がさくらさんにとって幸せな一年であることを願ってます」

 義之の笑顔。家族の笑顔。それは何にも代え難いもの。
 今日からの一年。果たして自分に訪れる運命はいかなるものか。
 自分に課せられた役目を思い起こす。『枯れない桜』の欠陥は加速度的に増している。いずれ制御不能になることは目に見えていた。そうなれば我が身を犠牲にする覚悟で事にあたらなければならない。幸せな一年にはならないかもしれない。この先、自分を待ち受けるのは苦難の道かもしれない。その予感はある。それでも、それでも。

「うん! ありがとね、義之くん! みんな!」

 こうして自分を祝ってくれる家族が、みんながいる限り、自分は大丈夫。そう思える。そう信じることができる。そんな誕生日だった。



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