「第一話 芳乃家の朝」






 目覚めの感触は心地よかった。
 眠りの世界、夢幻のまどろみの中で誰に邪魔をされることもなく、たっぷりと休息を貪っていた精神は、際限のない安らぎを提供してくれるその世界にしがみつこうとあがくこともなく、すんなりと現実の世界へと帰還することができたようだ。
 桜内義之は自身の胸の中の、涼やかに澄んだ感覚をもって、そのことを知った。
 ゆっくりとまぶたを開けば、見るに見慣れた自室の天井が夢の世界から現実の世界に戻ってきた義之を出迎えてくれる。

「ふああ……朝か」

 軽いあくびをもらしながら義之は仰向けに寝ていた体をゆっくりと起き上がらせると、窓を覆っていたカーテンに手をかけ、一気に開いた。
 小気味の良い音と共にカーテンは開かれ、その布地に遮られていた朝の陽光が一気に部屋の中に差し込み、部屋中を明々と照らす。
 寝ぼけ眼を刺す朝日の眩しさはむしろ心地よく、窓の外から聞こえてくる小鳥のさえずりもまた耳を和ませてくれる。
 小鳥のさえずりに紛れてセミの鳴き声が窓と壁越しでも十二分に部屋の中に響き渡り、その自己主張の強さを少し煩わしく思わないでもないものの、今日のように寝覚めの良い日はこれもまた季節の風物詩、と受け止める余裕がある。
 ベッドから降りた義之は心持ち強く感じる太陽の光を全身にあびながら、思いっきりのびをした。全身の筋肉が引っ張られ解きほぐされていく感触が体の中に微かに残る眠気も払う。
 目覚めた直後ながら頭の中は比較的冴えていて、体の方にもだるさはない。心身共に充足感にあふれている。たっぷりと睡眠がとれた証拠だ。
 毎夜ごとに『他人の夢を見させられていた』あの頃の自分では到底かなわないであろう快適な睡眠、快適な目覚めだった。
 こういう寝覚めのいい日には何かいいことがありそうな気がする。そんなことを思いながら義之は何気なく壁にかけられたカレンダーに視線を向けた。
 7月の下旬。一学期の終業式を終えて、夏休みに入ってから一週間と経っていない現在の月日を確認する。セミの鳴き声と強い日差しが特徴の季節、薄紅色の花びらに代わって、瑞々しい緑の葉が桜の木を覆い尽くす季節。
 そう、今は夏休み。世の学生たちが待ち望んでやまない夏の長期休暇だ。平日であっても学園に通う必要がないこの期間。喜びこそすれど嘆くことなどありえない。
 今が夏休み。その事実を確認し元より良かった機嫌がさらに上機嫌になった義之は次いで時計に視線を移した。
 時計の長針と短針が指し示す現在の時刻は午前8時を少し過ぎたところ。学園がある日ならば今のように余裕でいられる時間ではなく、大慌てになるところだが、夏休み中である今では普段より少し早起きといっていい時間だ。
 休みの日は携帯の電源も切って眠れるだけ眠る。そう心に決めている義之ではあるが、元来、朝に弱いわけでも寝覚めが極端に悪いわけでもない。こんな風に休みの日であっても早めに目が覚めてしまうこともたまにはある。

(たしか今日はバイトも休みだったな)

 2年程前にはじめ、未だに続けている喫茶店のバイト。夏休みで学園が休みになってもバイトは普段通りあるわけだが、今日はたしかそれも休みの日だったはずだ。
 学園に行く必要もバイトに出る必要もない一日。名実共にフリーダムな一日だ。そんな日にこうも気分良く、朝を迎えることができるというのはやはり何かいいことがありそうな気がする。

「さて、そんじゃ今日の朝飯はちょっと気合い入れて作りますかね」

 誰に向けることもなくそう言うと寝間着から着替えるべくクローゼットに向かう。
 今は2058年の7月。風見学園本校3年の夏休み。――――気がつけばあの冬から2年半もの月日が流れていた。


 いつもの私服に着替えて、階段を下りる。
 ここ芳乃家において二階と一階では世界が違う……と言うほどのことはないが、階段を境に雰囲気は少し変わる。義之の部屋がある二階は洋風の作りになっているが、一階は全面的に和風の作りになっている。板張りの廊下に、襖や障子で仕切られた部屋群。台所などを除けばどの部屋にも畳が敷き詰められており、日当たりの良い縁側からは広い庭が一望できる。
 一階に降り立ち一直線に台所へと向かおうとした義之だったが、その前に玄関の方に足を進めた。
 玄関の扉にはしっかりと鍵がかかっており、そこに並べられている靴はこの家の住人のものだけだった。
 家族同然のお隣さんが今日はまだ来ていないらしいことと、この家の住人は皆、外出していないことを確認する。この家の家主は自分が眠ってる早朝から仕事に出ることもあるのだが、今日はそうではないようだった。
 いつお隣さんが来てもいいように玄関の鍵を開けておくと――最もわざわざそんなことをしなくてもあちらは合い鍵を持っているのだが――義之は踵を返して台所に向かった。その間、脳裏をよぎるのは在宅を確認したこの家の住人二人のことだ。
 もう起きているのか、それともまだ眠っているのか。微妙な時間帯だ。
 この家において朝のルールのようなものは存在しない。早起きしたからといって他の人間を起こすかどうかは日によるし、誰かが誰を起こさないといけないということもない。義之も起こす側に回ることも起こされる側に回ることもある。朝ご飯を作るのも当番制などではなくその日その日で気が向いた人間が作るといったところだ。
 まぁ、とりあえずこのまま台所に行って朝ご飯を作ってからその後に部屋まで呼びにいけばいいか、と結論付ける。起きているのなら一緒に朝食をとればいいし、眠っているのならせっかくの休みだ。寝たいだけ眠らせてあげてご飯は後で起きた時に温め直せばいい(お昼を回りそうになるとさすがに起こしにいくが)。そもそも、呼びに行く必要もなく今この時間、二人そろって居間でくつろいでいるか、先に朝ご飯を作っているかもしれない。
 そんなことを思いながら廊下を歩いていると台所の方から物音が義之の耳に届いた。

(やっぱ先客がいたか)

 決まりはないとはいえ、ご飯に関してはなんだかんだで義之が作ることが多い。少しは意外に思うものの、そこまで驚くべきことでもない。
 自分より先に台所を使っているのはこの家の自分以外の二人の住人のうちどちらなのか。そんな小さな疑問は台所にたどり着くまでもなく、台所につながる居間に足を踏み入れた時点で氷塊した。

「やったぁ。だし巻き卵、かぁんせ〜い♪ メインディッシュのブリの照り焼きはできてるから、後は汁物としてお味噌汁を作れば完璧っ!」

 居間にまで響く楽しげな独り言。その声を聞いて義之もまた心持ち微笑ましいような気持ちになった。

「こうしてきっちりと朝ごはんを並べて、それから義之くんを起こしに行くんだ〜。義之くんをゆすって起こしてあげて〜、そうして義之くんが下に降りてきた時にはすっかり朝ごはんの準備が整っている。うん、あたしって最高の奥さんだよね〜♪」

 悦に浸った様子で一人でうんうんと頷いている小さな背中。楽しそうな後ろ姿が台所に入った義之の視界に映る。
 その姿に胸の中が満たされていく。そう、今、台所を占有しているのは紛れもなく義之の思い人に違いなく、彼女の声は朝の澄んだ気分を更に清々しいものに変えてくれる。
 義之はそっと彼女の隣に並んだ。

「楽しそうだな」
「うん。このお味噌汁ができたら義之くんを起こしにいくんだ……って」

 楽しげに綴られていた言葉がピタリ、と静止する。一瞬の間の後、

「もう起きてるーーーーー!!?」

 少女は驚愕の声をあげて、義之を見た。
 ルビーのような赤い瞳。少しウェーブのかかったアッシュブロンドの髪。陶器のように真っ白な肌。日本人離れした外見を持つ妖精のように可憐な少女。
 驚愕に瞳を見開いていて、少し間の抜けた仕草を取っていてもその美しさはそこなわれることはない。むしろ、逆にそれが、その外見からともすれば浮世離れしてみえる少女に親しみやすさを抱かせ、見る者の胸を穏やかに溶かす。微笑ましい思いを胸に秘めながら義之は「おはよう、アイシア」と少女の名を呼んだ。
 自分の名を呼ばれ、アイシアは一瞬、表情を穏やかにふやけさせかけ――。

「おはよう。もー、義之くん。どうして起きてるの」

 不機嫌そうに口元を結んだ。

「いや、どうして起きてるのって」

 いきなり理不尽なことを言われる。朝に起きてないことを責められるのならわかるが、起きていることで責められるというのは全くもって理解できないことだった。そう目で訴えかけると、「まだあたしが起こしにいってないのに〜〜!」とアイシアは不満そうに続ける。

「うー、あたしが思い描いていた朝の情景が……。あたしの旦那様ならあたしが起こしにいくまで眠っててよ〜」
「んな無茶な」

 義之の口から思わず苦笑いがもれるが、アイシアは不服そうだった。

「まったくもー。義之くんは女心……ううん、お嫁さん心がわかってないんだから〜」

 ぷい、と顔を背けて発せられた言葉に義之は「はぁ」と生返事を返す他ない。

「なんだかよくわからんが……まぁ、悪かった」

 軽く頭を下げたものの、アイシアはそっぽを向いたままだ。本気で機嫌を損ねているわけではなさそうだが、どうしたものか、と義之は考え、

「それよりいいのか。今日の朝の……ほら」
「朝のって……」

 一瞬、アイシアは何を言われたのかわからないようだったが、すぐに思い当たったのか、「あ……」と口からこぼれた言葉と共に頬に赤みが差す。

「アイシアがこっち向いてくれないとできないぞ」
「うう、義之くん。ずるいよ……」

 悔しげなことを言いながらも、しかし、アイシアは心持ち赤くなった顔をこちらに向けてくれた。その理由は説明するまでもない。毎朝、恒例のことをするためだ。

「……まったくもー、義之くんったら」

 呆れているようでその声音はどこか楽しげだ。アイシアの表情からは拗ねているような色は消え去り、代わりに期待感が溢れ出ている。
 大きなルビー色の瞳がゆっくりと閉じられる。背丈の違いを少しでも埋めようと背伸びをして自分を待ついじらしいその姿は毎朝見ているものとはいえ、何度見ても可愛い、と義之は思う。
 華奢な体を義之は抱き寄せるようにすると、その唇に自らの唇をそっと触れさせた。

「んっ」

 柔らかくて、甘くて、愛おしい感触。アイシアの唇の感触が胸の中を満たしてくれる。義之もまた瞳を閉じ、ただ唇を介して伝わってくるその感触に身を任せた。
 彼女と付き合うようになってから、もう何度行ったかもわからない行為。何度やっても飽きることのない行為。二人の間で毎朝の恒例となっている朝の儀式。おはようのキス。

「んんっ」

 感触を確かめ合っただけでは終わらない。唇と唇でお互いの心を、想いをたしかめるように。お互いの全てを知り尽くさんかのばかりに貪欲に行われるそれは終わりが見えない。
 微かに唇と唇を離し軽く息継ぎをし、再び唇を密着させる。いつまで続けていようか、とぼんやり考えるも、唇が感じ取る甘みの前にあってはそんな思考も雲散霧消する。義之はアイシアを抱き寄せている腕の力を強めさらに彼女と体を密着させた。
 その時だった。

「おっはよーーーーーーーーー!!!」

 義之のものでもアイシアのものでもない大声が台所に響いた。
 その声に一瞬、義之の頭の中は真っ白になった。

「んんっ!?」

 直後、義之がハッと瞳を見開くと、眼前にあるルビー色の瞳もまた、驚きに見開かれるのが見えた。ほとんど条件反射同然で、義之は慌てて体を引いて、アイシアから離れると、声の方へと向き直った。

「……さ、さくらさん」
「にゃははっ。義之くん、グッモーニング♪」

 そこにあったのは脳天気な笑顔。普段はツーサイドアップで綺麗に纏められた金色の髪はぼさぼさ気味に全て下ろされ、その身に纏うのは寝間着だ。その姿から察するに目が覚めてすぐにこの場所に来たに違いない。
 彼女が何を思って台所に最初に来たのかはわからないが、先ほどの自分とアイシアの行為は、しっかり目撃されてしまっただろう。
 それを思えば気恥ずかしい思いが義之の足下から立ち上り全身を痺れさせる。明るい朝の挨拶に対しても「お、おはよう……ございます……」と返すだけで精一杯だった。

「アイシアもグッモーニング♪」
「…………」

 キスしている姿を見られてしまったことへの羞恥か、あるいはキスを中断させられてしまったことへの怒りか。顔を真っ赤にしたアイシアは挨拶を返すこともなく、キッとさくらに鋭い視線を向ける。
 しかし、そんな視線を受けてもさくらはひるむことも動じることもなく、どこか楽しむように笑みを浮かべる。

「あれれ? ひょっとしてお邪魔だったかな?」
「邪魔! ものすっごく邪魔だったから!!」

 小首を傾げておどけるように発せられた言葉にアイシアは烈火のごとく怒りの言葉を返した。しかし、そんな怒声もさくらにとってはどこにふく風なのか「にゃははっ、これは失礼〜」と全く悪びれた様子もなく笑う。

「いや〜、それにしても2人ともラッブラブだね〜。こんな朝っぱらからイチャイチャしちゃって、2人が幸せそうで何より何より♪」

 自身も羞恥に染まる胸中を自覚しながら義之が「……楽しそうですね」と言うと、さくらは当たり前だよ、とでも言いたげな笑顔を向けてくる。

「2人が幸せそうな姿を見るとボクも幸せな気分になってくるからね」
「そういうものですか?」
「そういうものだよ」

 満面の笑みで告げられた言葉に嘘はないのだろう。楽しげでそれでいてどこか満たされたように頬笑むさくらを見ていると、そう思える。だからといって恋人とキスをしている姿を見られて平気、ということでもないが。

「あ、なんなら続きやってもいいよ。ボクのことは気にしないで。ほら、いちゃいちゃちゅーちゅーやって♪」

 妙案を思いついた、とばかりのさくらの態度。しかし、そうは言ってもそんなことできるわけがない。

「勘弁してください……」

 義之は再びため息をついたが、アイシアの方は違うようだった。

「……うう、こうなったらいっそのこと。さくらの見ている前であたしたちのラブラブっぷりを見せつけて……」
「おいおいアイシア……」

 何やら不穏なことを言い出すアイシアの声を義之は遮った。保護者が間近で見ている前でそんなことを堂々とやってのける程の度胸は自分にはない。人前の羞恥心は持っているというか、いちゃつくにしてもTPOはわきまえているつもりだ。
 そんな思いが表情に出ていたのか「えー」とアイシアに不満げな目で見られたが、できないものはできない。

「もう、義之くんのいくじなし!」

 そう言ってアイシアは再びそっぽを向いてしまった。そんなアイシアの姿に義之は困ったように頭を掻く。さくらは「にゃはは」と笑うと、碧い瞳で上目遣いに義之を見、

「……なら、代わりにボクとイチャイチャしようか? 義之くん」

 突然ささやかれた言葉に理解が追いつかず、義之の口から「へ……?」と間の抜けた声がもれた。さくらは「ボクの方はいつでも準備オッケーだよ♪」などと満面の笑みを浮かべて両腕を広げるようにして義之の方へと差し出してきている。まるで自分の胸に飛び込んできて、とでも言うように。
 そんなさくらを前に義之はどう対応すればいいのか。迷う……暇はなかった。

「さくら! 何やってるのよ!」

血相を変えたアイシアが鳴り散らしたからだ。

「まだ何もしてないけど?」

 差し出していた両腕を下ろし、なんてこともなさげに、否、楽しげにさくらは笑う。右手の人差し指と中指を唇の前で立てた挑発的なしぐさで。

「っ……! じゃあ、何しようとしていたのよっ!?」
「ハグハグ♪ 朝一番で義之くん分を充電しようかな〜って」
「だめ! 奥さんであるあたしを差し置いてそんなことするなんて絶対に許さないんだから!」

 アイシアの言葉にそれまで笑顔を浮かべ続けていたさくらの表情が少し渋る。そうして、二人してにらみ合う姿勢になり、これはまた長引きそうだな、と義之が思った時だった。
 がらり、と。
 玄関の扉が開く音が微かに耳に届いた。そうして誰かが板張りの廊下を歩いて、こちらに近付いてくる音と気配。「おじゃまします」と心持ち控えめな声と共に居間に踏み行ってきたのは、たしかめに行くまでもない。家族同然であるお隣さんである、朝倉由夢だ。
 無人の居間とその奥にある人の気配からこの家の住人がそろって台所にいるということを察したのだろう。居間を通り抜けて由夢が台所に顔を見せる。

「皆さん、おはようございます……って」

 最初こそ笑顔で朝の挨拶をした由夢だったが、台所の状況を把握すると共にその表情は硬直し、そして、あきれ顔に変わった。にらみ合うようにして対峙するアイシアとさくらを見た後、

「……今日もやってるんですか、兄さん」

 ジト目は何故かアイシアでもさくらでもなく、義之の方に向けられた。

「俺に言われても困る」

 妹の瞳からは相変わらずですね、とでも言いたげな雰囲気がひしひしと伝わってくるが、そういうことは争っている当人たちに伝えてほしい。
 そんなことを義之が思っているとまるでその思惑を読み取ったかのように由夢は「兄さんが甲斐性無しなのが悪いんでしょう」などとのたまう。

「全く。兄さんはこれだから……」

その様はどことなく不機嫌そうに見えた。


 結局、由夢という思わぬ――といっても彼女が朝からこの家に来ることは珍しくもなんともないのだが――闖入者の来訪により熱が冷めたのか、その場でのアイシアとさくらの対決は一旦、お開きになりみんなそろって朝ご飯を食べることになった。
 居間のテーブルの上にアイシアが作った朝ご飯を協力して並べる。ご飯に味噌汁にだし巻き卵にほうれん草のおひたし。加えてメインディッシュとして魚、ブリの照り焼きまであるなかなか豪勢な朝ご飯だ。こうして眺めているだけで食欲をそそる。このまま定食屋のメニューとして出ていてもおかしくはない、というのは流石に身内贔屓の入った評価だろうか。
 みんなで一斉に手をあわせて「いただきます」をするとおのおのは目の前に並べられた朝ご飯にお箸を伸ばした。

「これ兄さんが作ったの?」

 お味噌汁を一口すすり、由夢が言う。義之はいや、と首を横に振った。

「アイシアだ。今日の朝飯はみんなアイシアが作ってくれた」

 言いながらちらり、とアイシアの方へ視線を向けると、彼女は照れくさそうに「えへへ」と笑った。

「そっか〜。うーん、やっぱりまだまだかなわないなぁ……」

 単純に感心しているようでいながらも、眉根を寄せて、少しだけくやしげな様子の由夢。その反応は一昔前の由夢では絶対になかったであろうものだ。
 由夢は味噌汁にはじまりアイシアお手製の朝食に一通り手をつける一方で「どうして私はうまくできないかな」などと独り言を呟く。
 そんな由夢にさくらが微笑みかけた。

「にゃはは、由夢ちゃんの作るご飯だってすっごく美味しいじゃない」
「いえ……私のなんて兄さんやさくらさん、それにアイシアさんの作ったものと比べたらまだまだです」

 由夢は謙遜しているようなことを言う一方でやはりくやしいのか「うー」と小さくうなる。
 以前はそんな反応をすることはなかった。義之やアイシアの料理に「おいしい」と時には口に出して、時には言外に反応しながら食べることこそあれど、くやしがることなんて絶対にありえなかった。しかし、今はこうして目の前に並べられた料理に感心する一方、くやしさをあらわにしている。
 その理由は由夢自身が料理を始めたためだ。
 以前は何かにつけて「かったるい」を連呼し、ぐーたらと言えば由夢。由夢と言えばぐーたら。そんな感じだったのだが、姉である音姫がここ初音島を離れ、海外に留学してからというものの、何か思うところがあったのか由夢はかったるい病からの脱却を目指すようになったのである。
 生活態度を改めるようになり、これまでは義之たちに任せっぱなしで食べる専門だった料理にも自ら取りかかるようになった。
 かったるい、かったるい、と連呼し、家でひたすらぐーたらと過ごしていた妹のその変化は義之にとっても嬉しいことで、料理の教師役は喜んで自らが名乗り出た。義之だけではなく、アイシアもさくらも暇さえあれば由夢に料理について指導することがあり、三人教師体制である。

「おいおい、そう自分を卑下するなって。俺も由夢の料理はもう十分なレベルだと思うぞ」

 いささか味付けが大ざっぱなきらいがあり、一人で任せる分にはたしかにまだ危なっかしいところがあるのも事実だが、今の由夢が作る料理は以前の、冗談抜きで人を殺しかねなかったレベルの料理と比べると雲泥だ。その成長ぶりは教えている身分としても鼻が高い。
 しかし当人としてはその言葉にいまひとつ納得がいかないのか「そーかなー?」などと言って首をひねる。

「……お姉ちゃん、驚いてくれるかな?」

 そうして伺うような視線で由夢はそう言った。
 期待と不安がない交ぜになったような言葉。しかし、義之は一も二もなく頷いた。

「ああ。驚くだろうな」
「うんうん。音姫ちゃん、きっとものすごく驚くと思うよ。由夢ちゃんがこんなに料理できるようになっちゃって」

 義之の言葉にさくらの言葉も続く。二人にそう言われてようやく得心したのか、由夢は安堵したような顔で「そっか」と呟いた。

「その音姫ちゃんだけど……たしかもうすぐ帰ってくるんだよね?」

 会話に入り込むタイミングを伺っていたように、会話の途切れ目に差し込まれたアイシアの言葉に義之は頷いた。
 由夢の姉であり、義之にとっても姉のような存在であり、由夢同様、芳乃家にとっては家族同然のお隣さんである朝倉音姫。彼女は風見学園を卒業すると共に初音島を去り、海外へと留学した。
 それは義之にとっては青天の霹靂とでも言うべき唐突にして重大な出来事であり、最初はどうして留学なんか……と困惑したものだが、朝倉姉妹の父親であるおじさんや、さくらから理由を聞いて納得した。
 姉が今、異国の地で通っている学校は普通の学校ではない。魔法使いのための学校なのだという。

「ああ。前に電話でそう言ってた。あっちも長期休暇らしい」

 長年、付き合い続けて、そばにいることが当たり前になっていた人がいなくなるというのは筆舌に尽くしがたい喪失感がある。
 姉弟2人で協力してご飯を作ることもなければ、制服の乱れを世話焼き者の姉に直されることもない。姉が初音島を離れてからしばらくはそんな日々に慣れない思いとさびしさを味わったものだ。
 しかし、何も家出していったわけではないのだ。長期休暇の度に姉は初音島に帰ってきてその変わらぬ姿を見せてくれる。今年の夏もそれは例外ではない。
 姉が帰ってきてくれる。そう思うと胸の中が期待であふれる。

「そっか、音姫ちゃんが帰ってくるんだね……今度は負けないんだから」

 不意にアイシアがぎゅっと握り拳を作ってみせた。

「負けないって、何を?」
「料理!」

 義之が問いかけると元気のいい返事が返ってきた。

「音姫ちゃん。すっごく料理上手なんだもん。音姫ちゃんが島にいる間はあたしじゃかなわなくて結局、勝ち逃げされる形になっちゃったからね……。でも、あれからもあたしの料理の腕前は上達しているし、今度は負けないんだ!」

 そんなアイシアに、さくらはにやにや笑いを浮かべる。

「にゃはは、アイシアー、そんなこと言っちゃって。負けたくないのはホントに料理のことだけ〜?」
「う……」

 さくらの碧い瞳が義之をちらり、と見る。

「義之くんに関してはどうなの?」
「もちろん、そっちでも負けないよ! 義之くんは音姫ちゃんには渡さないんだから!」

 啖呵を切ったアイシアは一拍置くと、「それに」と言葉を続けた。

「……正直なところ音姫ちゃんがいないと、なんだか張り合いがなくて困ってたんだ」
「にゃはっ、そうだね。やっぱり義之くん争奪戦にはボクとアイシアだけじゃなく、音姫ちゃんもいないとね♪」
「よーし、がんばるぞ〜! 音姫ちゃんが帰ってきても絶対に負けないんだから!」

 何やら盛り上がっている2人に由夢はため息をついた。

「……お姉ちゃんが帰ってくるとまた騒がしくなりますね」
「ま、今でも充分騒がしいけどな」

 義之が肩をすくめてみせると、

「その騒動の大元が何を言いますか……」

 やれやれ、と呆れた目で見られる。

「大元ねぇ……」

 そう言われてもどうすればいいのか。
 義之が苦笑いを浮かべた時、不意に「なんなら由夢ちゃんも参加していいんだよ?」とさくらが由夢に声をかけた。

「義之くん争奪戦に♪」
「な――い、いきなり何を言ってるんですか、さくらさん!」
「にゃはは。本当は由夢ちゃんも参加したいんでしょ?」
「そんなことないですっ。私はさくらさんやお姉ちゃんとは違って兄さんなんてどうでもいいんですから!」

 やけに動揺した様子で声を荒げる由夢。「ほんとに〜?」とさくらはさらに声をかけ、

「……由夢ちゃんの嘘つき」

 追い打ちをかけるかのようにアイシアがぽつりと口にする。

「う、嘘なんてついてません!」

 そう反論した由夢の顔は真っ赤で、何故そんなに必死なのかと義之は首を傾げた。
 さくらさんやアイシアが自分のことで何かと争っているのを冷ややかな視線で眺めているのが由夢の常だ。アイシアたちと違って由夢が自分のことにあまり興味がないなんてことはわかりきっているというのに、どうしてあんなに慌てているのか。
 義之にはさっぱり理解できなかった。

「そ、そ、それよりも……えっと、そうだ、兄さん」
「ん?」

 さくらとアイシアの視線から逃れるように由夢の顔が義之の方を向く。その口から発せられた言葉もまるでなんとかして話題を変えようと急いているかのように余裕がないもので、義之はそれを少し怪訝に思ったが、

「たしか今日、雪村先輩に呼ばれているんですよね?」

 次いで紡がれた思いもよらない言葉に義之の思考は一瞬、停止した。朝食をつまんでいた箸の動きも止まり「……へ?」と間抜けな声がもれる。

「そうだっけ?」

 疑問全開の声を返すと由夢はそれまでの必死な様子から一転。あきれ果てたようにジト目を寄越した。

「そうだっけ……って。昨日の晩ご飯の時に兄さん言ってたじゃないですか」

 ですよね、とばかりに由夢がさくらとアイシアの方に視線を向ける。

「うん。たしかに言ってたよね〜」
「義之くん、忘れちゃったの? ほら、あたしたちがバイトしてる喫茶店で集合っていう話」
「あ――ああ……! 思い出した!」

 アイシアの言葉に忘却の彼方にあった記憶が再び脳裏に浮かび上がってくる。
 そうだ、そうだった。たしかに今日、自分は杏に呼ばれている……否、それは厳密に言えば正確ではない。呼ばれているのは自分だけではないのだ。

「できればボクとアイシア、それに由夢ちゃんも来てほしいんだって?」
「ええ」

 さくらの言葉に義之は頷いた。
 突然の集会。それだけなら自分たちのグループでは別段珍しい話ではない。
 だが、今回はいつものメンバー……渉に杉並、杏、茜といった悪友グループだけではなく、杏が言うにはアイシアや由夢、さらにはさくらさんにまで来てほしいという事で、それは十分に珍しいことといえた。
 その珍しさは義之が疑心を抱くには十分なもので、「杏のヤツ、今度は一体何を企んでいるのか」とそんなことを昨晩の食卓でたしかに口にした覚えがある。

「危ない危ない……完全に忘れてた」

 もしすっぽかしでもしたらどんな恐ろしい目にあってたことか。そう思えば義之の背筋にぞくりと冷たいものが走った。

「それにしてもボクにも来てほしいって杏ちゃん。どんな用事があるんだろうね?」
「……どうせろくでもないことですよ」

 自分にまで呼び声がかかってさくらは楽しげだが義之としては素直に喜ぶことはできなかった。そんな義之に由夢が「兄さんはちょっと勘ぐりすぎじゃないですか」と呆れたように言う。

「おいおい、それじゃあお前はまともな用件だと思うのか?」

 義之が問い返すと由夢は「う……」と返事に詰まった。由夢とて雪村杏という人間が一筋縄ではいかないということくらいこれまでの付き合いでわかっているのだろう。「杏ちゃんだからね〜」とアイシアも困ったような笑顔を浮かべた。

「まぁ、行ってみればわかるよ」

 そんな中にあって、警戒している様子もなくさくらはあっけらかんと笑う。

「来てくれるんですか?」

 以前と比べれば大分とマシになったとはいえそれでも多忙の学園長だ。せっかくの休日、こんないきなりの呼び出しに顔を出してくれるのか、と微かに驚きの念を込めて義之が言うと「うん。今日はお仕事もなくて暇だしね♪」とやはり天真爛漫な笑顔が返ってくる。

「それにこれはボクのカンなんだけど……なんだか、と〜っても面白いことになりそうな気がするんだ♪」

 さくらは笑顔を浮かべたままそう続ける。その声には妙な確信が込められていた。と〜っても面白いこと、か。

(と〜っても面倒なことじゃなきゃいいんだけど……)

 そう言われても雪村杏という人間と長年の友人(悪友)付き合いをした義之としてはやはり疑惑の念をぬぐい去ることはできなかった。

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