「第三話 音姉の帰還」




 杏に呼び出され、「映画を撮る」などという衝撃の通知をされた2日後。今日もまた暑い日だった。
 連日続く猛暑は本日も衰えることなく、憎たらしいまでに元気いっぱいに輝く太陽から発せられる熱線は存分に地表を熱気で覆い、道行く人々を苦しめる。何も予定がなければわざわざ外を出歩く気などかけらも起きない気候の中であったが、義之たち芳乃家一行――さくらはどうしても外せない仕事があったらしく残念ながらこの場にはいない――は今日、外出していた。
 その理由は簡単なことで、大切な人の帰りを迎えるためである。
 現在地は港。海から来た風が吹き抜け、義之の肌身を撫でる。海特有の潮気を含んだその風は冷たく涼やかで、この猛暑の中にあって、一服の清涼剤といえた。

「お姉ちゃん、まだかな?」

 港に到着したフェリーから続々と人が下船してくるのを眺めながら由夢が呟く。期待感にあふれた妹の言葉に義之は「もうすぐだろ」と返しながら人々の列を眺めた。その中に見知った、待ち望んだ顔はあいにく見つけることはできなかったが。
 そう今日は由夢の姉であり義之の姉代わりでもある大切な人、朝倉音姫が留学先のロンドンから初音島に帰ってくる日なのである。

(こんな立場になるなんて思いもしなかったなぁ)

 姉が初音島を出て行き、そしてたまの休暇に帰ってくるのを出迎える。こんなこと姉が学園を卒業して留学するまでは思いもしなかった未来図だ。
 いずれは自分も初音島を出て行く日が来て、今のようにたまに帰ってきては家族たちに出迎えられる立場になるのだろうか? そんな未来のことをぼんやりと思う。

「あ! 義之くん、由夢ちゃん、見てみて! あそこあそこ!」

 義之の思考を断ち切るように不意にアイシアが声をあげる。「どうした」と言いながら彼女が指差ししている先を義之が視線で追うと、今し方フェリーから降りてきたばかりなのだろう下船する人々の列の後ろの方にいながら、こちらに向かって手を振っている女性の姿が見えた。

「音姉……」

 見間違えるはずもない。それは義之たちが待ち望んでいた家族の姿、朝倉音姫その人に違いなかった。


「弟くーん! 会いたかったよ〜〜!」

 開口一番。義之たちと合流すると共に音姫はそう言い放つと義之が避ける暇も与えず、思いっきり抱きついてきた。
 ぎゅっと密着する姉の体はやわらかい。そして、相変わらずいい匂いが漂っていてそれが義之の鼻先を撫でる。わきではアイシアが目を見開いていて、由夢が呆れたようにため息をついているのが見える。体面上、姉を振り払うことが正解なのだろうが数ヶ月ぶりに会う少しだけ大人びて見える姉に対しそんな乱暴なことをするのは忍びなく、姉の全身全霊のハグを享受しながら「お、音姉……」と苦しそうな声だけをもらすのが義之には精一杯だった。

「……こ、こんなところでみんな見てるって」
「大丈夫♪ お姉ちゃんはそんなこと気にしないよ」
「俺が気にするんですが……」

 そんなやりとりをしているうちにもアイシアの表情がどんどん不機嫌そうに歪んでいく。そろそろやばい、と義之が思った時、

「もう、音姫ちゃん! あたしの義之くんに何してるの〜〜!」

 アイシアが爆発した。烈火のごとく怒りの炎を身にまとい音姫に抗議する。

「何って、久しぶりの弟くんの感触を堪能しているんですよ」

 しかし、そんなアイシアの怒りを身に受けても音姫はまるでこたえた様子はなく、ぎゅっとさらに義之を抱く腕の力を強くする。「む〜」とさらにアイシアは不機嫌そうに口許を結んだ。

「そりゃ、久しぶりなのはわかるけど……だからって抱きつくことはないでしょ! 抱きつく以外にも色々あるじゃない!」
「アイシアさんがそれを言いますか……。しょっちゅう、兄さんに抱きついてばかりじゃないですか」

 由夢のツッコミを受けて、アイシアは「んぐ」とみぞおちに一撃を食らったかのように言葉を止めた。しかし、すぐに立ち直り、顔を上げると、

「あ、あたしはいいの! だってあたしは義之くんの彼女で恋人で奥さんなんだから! あたしには義之くんを自由にハグする権利があるの!」
「それなら私だって弟くんのお姉ちゃんなんですから! 抱きつく権利くらいあります!」

 どうやら両者一歩も譲るつもりはないようだった。二人の視線がぶつかり合い、火花を散らしたような錯覚が義之には見えた。
 しかし、アイシアの方から義之の方を向いた時には姉の表情は一変して至福の表情になっていて、「弟くん、大好きだよ♪」と告げると最後にもう一度、義之の体をぎゅっと抱き、義之の元から離れた。

「由夢ちゃんも久しぶり、元気にしてた?」
「うん、久しぶり、お姉ちゃん。まぁ、何事もなく元気に過ごせてるかな」
「アイシアさんもお久しぶりです」
「……久しぶり」

 そうして、何事もなかったかのように音姫は由夢とアイシアに笑顔を振りまき、再会の挨拶をする。由夢はひねくれ者らしらかぬ本心からであろう微笑みを浮かべて、アイシアは先ほどのことが尾を引いているのか歯切れの悪い再会の挨拶を返した。

「うーーん、やっぱり初音島はいいね……なんていうか、心が落ち着くね」

 音姫は初音島の空気を、雰囲気を堪能するかのように思いっきりのびをするとそう言った。

「別に今の留学先に不満があるわけじゃないんだけどね……こうして帰ってくるとやっぱり私の居場所はここなんだーって思うかな」

 そして、笑顔を見せる。旅行以外で初音島を離れたことのない義之だが彼女の言わんとしていることは、なんとなくわかる気がした。自分が生まれ育った故郷。そこに特別な思いを抱かない人間はいないだろう。同じく初音島を離れている小恋もまた同じようなことを言っていた気がする。

「まぁ、なんにせよ……お帰り、音姉」

 先ほど抱きつかれたなごりか、少し気恥ずかしい気持ちはあったものの、義之は笑みを浮かべて、長く故郷を離れていた姉を迎える言葉を口にする。

「うん。ただいま、弟くん。ただいま、初音島」

 姉も同じように満面の笑みを浮かべて、そう言うのだった。


 それからまずは音姫の荷物を置くため、一行は寄り道せず一直線に家に帰った。何をするにしても荷物を抱えたままでは不便だ。
 家に到着すると、姉は並び立つ二軒の家、芳乃家と朝倉家をなつかしそうにじっくりと眺めてから「帰ってきたんだね〜」と穏やかな笑顔で言い朝倉家の方へと入っていった。
 無論、義之たちもそれに続き、姉が荷物を自室に置いてくる間、義之は少し台所を借りて全員分の冷たい麦茶を用意した。炎天下を歩いてきた後となればやはり冷たい飲み物はかかせない。

「相変わらず弟くんは気が利くね〜」

 荷物を置き終え、リビングに戻ってきた音姫はテーブルの上に並べられた麦茶入りのコップを見て、やさしい微笑みを浮かべた。
「美味しいね〜」と言いながら麦茶を飲む姉の姿を見ながら、長旅の疲れもあるだろうし、今日は久しぶりの自宅でゆっくりくつろぐつもりだろう、と義之は思っていたのだが、その予想は外れることになった。

「さて、と」

 みんなが麦茶を飲み終わり、積もる話もとりあえず一段落といったところで音姫は不意に口を開いた。なんだろう、と義之が思っていると、

「それじゃあ弟くん。久しぶりだし、お姉ちゃんとデートしよっか♪」

 衝撃の発言が飛び出した。

「え〜〜〜〜っ!!」
「ぶっ! ごほっ、ごほっ!」

 アイシアが驚愕の声をあげ立ち上がり、義之は危うく飲み干した麦茶を噴き出しそうになる。由夢だけが一人、いつも通りの平然とした表情だった。
 音姫はそんな義之とアイシアの反応に何を思ったのか、「どうしたの?」なんて言って小首を傾げてみせる。

「デ、デ、デ……デートぉ!?」

 アイシアが口をぱくぱくさせて音姫を見る。対する音姫は何をそんなに慌てているのか、不思議でたまらない、といった様子で、

「そうですよ。私と弟くんのデート♪」

 にっこりと笑顔を見せる。

「久しぶりの初音島だしね。あちこち見て回ろうと思うんだ。だから弟くん、ちょっと付き合ってよ」

 姉の言葉を聞き義之は納得がいった。要するに散歩したり、買い物したりするのに付き合ってくれ、ということだ。それ以外の、それ以上の意図はない。……だというのに。

「ううう〜! ダメダメダメー! 義之くんとデートしていいのはあたしだけなの!」

 何故、それをデートと言うか。
 そんなことを言ったばかりにこうしてアイシアの反発を招いてしまう。アイシアを挑発するように狙って言っているのか、それともただの天然か。おそらくは後者だろう、と義之は思った。
 アイシアの必死な反発に音姫が微かに眉根を寄せる。

「え〜、なんでですか、アイシアさん。私が初音島にいない間、アイシアさんは何回も弟くんとデートしたんでしょう? だったらたまに私が帰ってきた時くらい私に弟くんを譲ってくれてもいいじゃないですか」
「ダメなの! 義之くんはあたしの物なんだから!」
「そんなのずるいですよ〜! 前々から思っていましたけどアイシアさんは弟くんを独占しようとする悪癖があります!」
「悪癖って……恋人として義之くんを独占するのは当然でしょ!」

 目の前で繰り広げられる二人のやりとりに思わず義之は苦笑をもらした。
 と、気がつけば由夢が何かをうったえるようにこちらを見ている。その呆れ果てたジト目の意味はおそらく「仲裁しろ」ということだろう。「まぁまぁ」と義之はいまだ言い争いを続ける二人の間に割って入った。

「二人とも落ち着けって」

 義之の呼びかけに二人は同時に義之の方を振り向く。

「まずアイシア。デートだなんて言っても音姉は単に俺に買い物や散歩に付き合ってほしいってだけだって。それくらいなら別にいいだろ?」
「うーん、あんまりよくないかも……」

 説得のための義之の言葉だったが、いまいち効果が薄いのかアイシアは不満げな表情を崩さない。

「男女がふたりっきりで散歩やお買い物ってそれって完全にデートじゃない」

 そうして不満そうな顔のまま告げる。たしかにそうともとれるかもしれないが……。

「いや、違うだろ。俺と音姉は姉弟で家族なわけだし、家族が一緒にあちこち見て回るのはデートじゃないだろ?」

 なぁ、と同意を求めるように義之は朝倉姉妹を見た。

「うーん、お姉ちゃんとしてはデートのつもりなんだけどなぁ」
「……まぁ、たしかに『家族』で行くのならデートとは言わないかもしれませんね」

 姉はどこか残念そうに、妹はもうどうだっていいです、と言わんばかりの投げやりな態度。だが二人とも義之の言葉を肯定したようだった。

「しかし、音姉。ついさっき初音島に着いたばかりだろ? 疲れてるんじゃないか?」
「大丈夫! 弟くんの顔を見たら疲れなんて吹っ飛んじゃったよ♪」
「そ、そうか……」

 その言葉に嘘はなさそうだった。姉の笑顔からは旅の疲れを見つけることはできない。

「んじゃ、まぁ、俺はちょっと音姉に付き合ってあちこち回ってくるよ。いまからいく?」
「うん。私はそれで問題ないよ」

 それならいくか、と義之が立ち上がりかけた時、

「やっぱりだめ〜〜〜〜〜!!!」

 アイシアの大声が朝倉家のリビングに響き渡った。一同はぎょっとした顔でアイシアを見る。

「やっぱりだめなの〜。義之くんがあたし以外の女の子とふたりっきりで買い物なんて、そんなのだめなの〜」
「もう、またその話ですか。アイシアさん」
「ううう〜」

 ちょっとだけ怒ったような顔をする音姫に対し、拗ねるように頬をふくらませるアイシア。このまま、また話がこじれてしまい、堂々巡りになってしまうのか。そんな危機感を義之が抱いた時だった。「……だからあたしもついていくの」とアイシアは言った。

「え?」
「アイシアさん、今なんて?」

 義之と音姫がそろって聞き返す。

「だーかーらー、あたしもついていくって言ってるの。義之くんと音姫ちゃんの買い物に。それならふたりっきりにならないでしょ?」
「ま、まぁ、それはたしかにそうだが」

 ちらり、と義之は音姫の方に視線を向ける。なんだかんだ言ってもこの姉は自分と2人きりになりたがってるように思える。そんな姉からすればアイシアのこの提案は納得できるものなのだろうか。

「……いいのか、音姉」
「うーん」

 音姫は少し考え込むように眉根を寄せた後、

「まぁ、仕方ないかな……個人的にはやっぱり弟くんを独り占めしたかったんだけど……。それで弟くんと一緒にお買い物ができるなら」

 自らの妥協を宣言した。少しだけ名残おしそうな顔を見せたかと思えば、一転、その表情は笑顔に変わる。

「ふふっ、弟くん。お姉ちゃんとの仲の良さをアイシアさんに見せつけてあげようね♪」

 アイシアに視線を送った後、姉は頬笑む。それはさながらアイシアに向けて挑戦状を送りつけているかのようで、それを受けてアイシアは「ふんっだ」と怒ったように唇をとがらせた後、

「あたしの方こそ、義之くんとのラブラブっぷりを音姫ちゃんに見せつけてあげるんだから」

 姉と同様、挑むように笑みを浮かべるのだった。

「やれやれ、これだから兄さんは……はぁ」
「ははは……」

 2人の笑顔と、あきれ果てた様子の由夢を前に自然と苦笑をもらすしかない義之だった。


 結局、総出での外出になってしまった。
 義之に音姫そしてアイシアまでも出て行くということで一人残される羽目になる由夢が「私一人置いていくんですか」と不満げな、それでいてたしかにさびしそうな顔で言ったのだ。お前だけついてくるな、などと誰もいえるはずもなく義之・音姫・アイシア・由夢の四人そろって朝倉家を後にした。
 このクソ暑い中、わざわざ外を出歩くのについてくるなんて物好きな、と思わないでもなかったが、一人だけハブにされるというのは暑さ以上に耐えがたいものがあるのだろう。気持ちはわからないまでもない。以前、さくらさんとアイシアと由夢が三人そろって出かける際、「今日は女の子だけの買い物だから義之くんはついてきちゃだめ」などとさくらさんに言われ同行を拒否され、一人だけハブにされてしまった際に胸中に感じたさびしさが蘇る。仲間はずれはつらいものだ、何事も。
 四人がまずはじめに訪れたのは桜公園だった。
 一年中、島を覆っていた薄紅色の花びらが散ってしまうようになってからといってもこの公園はやはり初音島の象徴のようなイメージがある。薄紅色の花びらに代わり、瑞々しい緑の葉を纏った桜の木々を眺めながら音姫は「なつかしいねぇ〜」と口にしながらも、どこか複雑そうな表情をしていた。
 気持ちは義之にもわかる。桜公園自体をなつかしいと思うことはあるだろうが、そこに並び立つ桜の木々、緑の葉で彩られた桜の木々を見て『なつかしい』という感情は義之の胸中にもわき上がることはない。むしろ、違和感の方が先にある。
 そして、桜公園の奥、島の中でも一際、巨大な桜の大樹、通称『枯れない桜』の前に姉が立つとその複雑そうな表情はどこか達観したようなものに代わる。桜の大樹を見上げながら「桜、散っちゃってるね」と姉は呟く。驚く程に淡々とした声。無感情、という言葉が相応しい。

「ま、夏だしな。っていっても俺もまだ違和感あるけど」

 姉とて初音島の桜がその花を散らしているを見るのはこれが初めてというわけではない。姉が初音島にいた頃、風見学園を卒業する年にはもう初音島の桜は普通の桜と同じように四季に応じてその姿を変えていた。
 しかし、それでも、桜の大樹を見上げている姉に対し、義之はそう言った。
 あの冬の日。自らの消滅を覚悟で義之が枯れない桜を枯らしてからというもののもう数年、見てきた光景ではあるが、初音島に桜の花がないというのはいまだに違和感を覚える。それは義之や音姫に限らず、初音島の全住民の共通の思いなのだろう。

「でも、これが正しい姿なんだよ」

 義之と音姫が二人して複雑な思いを抱きながら桜の大樹を眺めていると、アイシアがそう言った。義之たち同様に桜の大樹を見上げているその顔は普段の子供っぽいアイシアのイメージからはかけ離れる程、大人びていて、義之の胸をどきりと揺らした。

「そうですね。桜の花が咲くのは春だけじゃないと……」

 音姫のその言葉はまるで自分自身に言い聞かせているかのようでもあった。

「誰が初音島の桜を本来の姿に戻したのかは知りませんが、私はその人に感謝します」

 姉の言葉にドキリとした。初音島の桜を本来の姿に戻した。一年中枯れない桜を普通の桜にした。それは他ならぬ義之自身だ。
 そのことは姉にはまだ告げていない。義之とアイシア、そしてさくらだけが知っていることだ。しかし、姉の言葉は初音島の桜が普通の桜に戻ったことが人為的なものであると知っているような口ぶりで、まるで何もかもお見通しといった風であって、

「ん、どうしたのかな? 弟くん。そんなに真剣な顔しちゃって」

 姉に視線を向けると、姉はとぼけるようににっこりと笑ってみせる。もしかしたらこの姉には全てお見通しなのかもしれないな、と義之は思った。
 それにしても『本来の姿』か。姉の言葉通り、たしかに一般的な定義にのっとれば今の桜こそが本来の姿なのだろうが、初音島にとって『本来の姿』というのは桜の花びらが常に満開な方なのかもしれない。少なくともそう思っている住人は多いだろう。そんな風に義之が思索している時、

「兄さん、喉かわいたー」

 一歩後ろで皆の様子を眺めていた由夢が不意に言葉を発する。その言葉に桜の大樹を前にしてのどことなく重苦しい雰囲気が一気に雲散霧消する。
 義之は脱力する思いを味わいながら、しかし、心のどこかで由夢に感謝の言葉を口にしながら、由夢の方を振り向いた。

「……喉かわいたー、って子供か、お前は。喉がかわいたなら自分で自販機でも行って買ってくればいいだろ」
「え〜、かったるい〜」
「お前なぁ……」

 『かったるい』はもう卒業したんじゃなかったのか。久しぶりに飛び出したかつての妹を象徴する単語に義之は苦笑いした。もしかしたら重くなった空気を由夢なりに察して場を明るくしようと思ってのことなのかもしれない。

「そうだね、私もちょっと喉かわいちゃったかな」
「うん。あたしも〜」

 由夢に続き、音姫とアイシアもそんなことを言って笑う。そして何かを訴えるように三人はそろって義之に視線を集めた。

「あーもう、わかったわかった。そろいもそろってそんな目で見るな! ……適当に買ってくるからその辺のベンチに座って待っててくれ」

 男一人女三人の状況にあっては自分にパシリ役が回ってくるのもまた必然か。根負けしたように義之はため息をはくとジュースの自販機を求めてその場から駆け出すのだった。
 ぎらぎらと地表を照らす太陽の下を駆ける最中、彼女がこの場所に立ち寄ったのはひょっとしたら、単に馴染みの場所を巡るという目的の他にも、確認しておかなければならないことがあったからかもしれない。そんなことをふと思った。


 そうして、桜公園の適当なベンチにそろって腰掛け、義之が適当に見繕ったジュースをみんなして飲んで水分補給兼休憩をした後、一行は商店街を訪れていた。
 初音島において喫茶店、カラオケボックス、ブティック、ゲームセンター、本屋、オモチャ屋等、一通りの店舗がそろっているこの商店街は学生たちに人気のレジャースポットでもある。特に学校が終わった後の帰り道に、寄り道をするとなればそれは十中八九この場所になる。
 姉が初音島にいた頃も何度も何度も一緒に訪れた場所だ。学園帰りに一緒に夕食の材料をスーパーで買い求めたり、休日に朝倉姉妹のウィンドゥショッピングに付き合わされて何件ものブティックを回ったり、何かと思い出深い場所である。
 ウィンドゥショッピングというものは正直、苦手な義之ではあったが、今日は長らく島を離れていた姉が久しぶりに帰ってきた記念すべき日だ。今日に限っては姉が満足いくまでどこまでも付き合ってあげよう、と心に決めていた。
 しかし。

「〜〜〜♪」

 姉はご機嫌そうだ。先ほどから何件ものブティックを回り、いろんな服やアクセサリーをとっかえひっかえ手にとっては「似合ってるかな〜」「ちょっと派手すぎるかな〜」などと義之たちに意見を求めては結局、何も買わずに店を出て、次の店に向かう。義之からしてみればやはりいまひとつどこかいいのかよくわからないが、そんなことを繰り返している姉の表情は幸せそうなものでその表情を見ていると「まぁ、いいか」なんて気分にも少しだけなる。しばらく日本から離れていたこともあり、新作の多さに目移りしてしまうらしい。
 楽しそうなのは姉だけでない一緒についてきたアイシアも由夢も音姫同様、いろんな服を楽しそうに物色している。別にそこまではいい。いろんな服を手に、意見を求められてはいちいち「似合っている」と返すのは義之にとってそこまで苦痛ではないし(そもそも朝倉姉妹もアイシアも身内贔屓なしでもとびきりの美女・美少女だ。お世辞ではなく、どんな服も大概似合っているように義之には見えた)、女性陣が物色している間、待たされる時間も苦痛と言えば苦痛かもしれないが、耐えられない程ではない。
 ウィンドゥショッピングであって、実際に買い物をして回るわけでもないのだから荷物持ちをやらされることもない。
 だが。

「それじゃあ弟くん。次の店いこっか」

 姉の言葉に振り返る。見れば、アイシアと由夢もこの店での物色するを終えて、次の店に行く準備を完了しているようだ。……といっても何も買ってはいないのだから、意識を切り替えるだけで準備万全なのだが。

「あ、ああ……んじゃ、いくか」

 義之の歯切れの悪い言葉をきっかけにそろって自動ドアを通り、外に出る。それとほぼ同じくして、

「えへへ……」

 音姫が義之の右隣に寄り添ったかと思えばその片腕を義之の右腕に絡めてきた。ぎゅっと縮まる二人の距離。

「む〜、音姫ちゃんったら、また〜」

 アイシアの不満げな声が響いたと思えばアイシアは義之の左隣に体を寄せ、片手で義之の左手を握る。アイシアの小さな体が義之の体にぴったりと密着した。
 そんな様子を後ろで見ていた由夢がこれみよがしにため息をついた。

「またそのスタイルでいくの?」
「俺に言うな、俺に」

 そう。何よりも問題なのは店から店へと、商店街の、街頭を歩いている間のこのスタイルだ。
 桜公園を出て最初に姉が義之の右腕に自らの腕を絡めたのを皮切りに、アイシアが対抗して義之の左腕に自らの腕を絡めようとしたものの義之とアイシアでは身長差がありすぎたためうまくいかず、腕を絡めるのではなく手をつなぎ、結果、両手を別々の女性二人に取られるという体勢での移動を余儀なくされている。流石に恥ずかしい、と訴えた義之だったが、その訴えは「弟くんは、嫌?」という姉の悲しそうな顔と「義之くんはあたしの恋人なんだからこれくらい当たり前だよね?」というアイシアの笑顔によって却下されていた。
 いや、たしかに。アイシアと二人で歩いている時はこのように手をつないだりすることもある。くっついて歩くこともある。それはそれで気恥ずかしいものがあるものの、まだ見とがめられるわけではない行為の範疇だ。しかし、今のように一人の女性とだけではなく、二人の女性に両脇をかためられ同時に腕を取られるともなれば話は別だ。既に夏休みに入っていることもあり、商店街は人通りも多く、道行く人々の視線が痛い。

「一体、どんな風に見られているのやら……」
「二人の女性を同時にはべらせている魔性の男、といったところじゃないでしょうか」
「うぐ……」

 由夢の言葉が胸にぐさり、と刺さる。

「まぁ、よかったね。兄さん。両手に花で」

 ちっともよかったね、と思っていなさそうな声音。先を歩く義之とその両脇を文字通りかためる音姫とアイシア。数歩遅れて呆れながらついてくる由夢。義之としては不本意にも程があるものの、これが今現在、義之一行が商店街を見て回るスタイルだった。

「なぁ、アイシア……ちょっと離れてくれないか?」
「音姫ちゃんが離れない限りはイ・ヤ♪」

 楽しむように、からかうようにアイシアは笑う。義之は音姫の方を向いた。

「音姉……」
「うー、もの凄く久しぶりに会ったのに弟くんはこのくらいスキンシップも許してくれないの?」

 拗ねるような、悲しげな表情に「いやだ」と言うことなどできるはずもなく、「いや、そういうつもりじゃ……」と義之は言葉を濁した。

「なら、これでいいじゃない♪」
「…………」

 八方ふさがり。二人とも離れてくれる気はかけらもないようだった。

(買い物には付き合うって言ったけど、こんなのは聞いてないぞ……!)

 結局、義之は胸中でそう愚痴るしかなかった。
 願わくば知り合いに遭遇したりしないことを。そんなことを考えながら、楽しげに道を行く二人にほとんど引っ張られるようになりながら商店街の往来を歩いていると、

(う……)

 イヤな予感は当たるものだ、と思った。見知った顔が義之の視界の隅に映った。あちらはまだこっちに気付いていないようだったが、それも時間の問題だろう。万が一あっちがこっちに気付かなかったとしても彼女の姿を目にとめれば音姉は間違いなく声に出して名を呼ぶ。

「あ……あれ、まゆきじゃない。まゆき〜! やっほ〜!」

 案の定。義之にやや遅れてその姿を視界にとらえた姉が名前を大声で呼び、あいている方の腕をぶんぶん、と振って自らの存在をアピールする。これだけされれば気付かない人間はいない。視線の先、高坂まゆきはおっ、と驚いたように目を見開き、次いで笑顔を浮かべながら義之たちのところに駆け寄ってきた。
 流石に音姫も義之の腕に絡めていた自らの腕を離して、義之より数歩前に出てまゆきを出迎える。

「音姫じゃん。久しぶり〜」
「うん、まぁね。まゆきも久しぶり。元気だった?」

 かつては風見学園の生徒会長と副会長を務めた二人。生徒会の飴と鞭、まさに相棒と言える関係だった親友二人は共に笑顔で再会を祝いあう。二人が親しげに言葉を交わす様子を義之たちは一歩離れたところで見ていた。
 そうして、会話も一段落、といったところなのだろうか、会話を打ち切るとまゆきは義之の方に含みのある視線を向けた。

「それにしてもすごい光景みちゃったかな〜」

 やはりスルーしてくれないか。義之は内心でため息をついた。

「見たわよ、弟くん。さっきの。まさに両手に花じゃない」
「……忘れてください」
「いやぁ、あのインパクトのある光景はなかなか忘れられないかな〜」

 意地の悪い笑みが返ってくる。

「音姫が帰ってきて早速アイシアさんと弟くんの取り合い……ってところかな?」

 まゆきの言葉に「そんな感じです」と由夢が肯定する。

「全く。兄さんったらずっとデレデレしちゃって……本当にもう少し自重してほしいです」
「だから俺に言うなって……」

 それにそんなにデレデレはしてない、と思う。義之はいまだ左手を握っているアイシアの方を見た。

「自重してほしい、だってさ」
「イヤ」

 即答だった。楽しげにアイシアは続ける。

「だってあたしが自重する理由なんてないも〜ん。あたしは義之くんの彼女さんなんだから♪」
「だったら私も自重する理由なんてありませんよ。私は弟くんのお姉ちゃんなんですから!」

 アイシアの笑顔に、音姫は少し眉根を寄せると、再び義之の右隣に駆け寄ってきて、その腕を絡めてくる。先ほどと全く同じまさに両手に花の状態が再現され、まゆきと由夢はそろってため息をついた。

「まぁ、音姫が変わってないってことはわかったわ。……相変わらず弟くんが大好きなのね」
「うん♪」

 苦笑交じりのまゆきの言葉に満面の笑みを返す音姫。

「でも、あたしは音姫ちゃん以上に義之くんのことが大好きだもんね〜」

 対抗するようにアイシアが言うと「そんなことありません!」と音姫は返す。

「弟くんのことをいっちばん好きなのは私だもんね? 弟くん♪」
「ううん。義之くんのことが世界で一番好きなのはあたしだもん。ねっ、義之くん♪」

 同意を求められても困るのだが。姉が初音島を離れる以前とまるで変わらない張り合いを始めた恋人と姉を前に義之は苦し紛れの苦笑いを浮かべるしかなかった。
 そんな二人の対決をまゆきだけは面白がるように笑っていた。

「あはは。妹くんもこれじゃあ大変だ。いっつもこんな感じなの?」
「まだマシな方ですよ高坂先輩。この二人にさくらさんまで混ざると本当に収拾がつかなくなります」
「これでマシな方なのか〜。そりゃすごい。弟くん、愛されてるね〜」

 まゆきは心底、楽しげに笑った。

「笑いすぎですよ、まゆき先輩」

 別にそれを不服に思ったわけではないのだが、ついツッコミの言葉が義之の口をついて出た。「ごめんごめん」とまゆきは笑いをかみ殺しながら謝罪の言葉を口にする。

「でもね、あんたたち見てるとなんだか笑えてくるんだ」
「……それはつまり俺たちがそれだけ滑稽ってことですか?」
「いやいや、そういうわけじゃないよ」

 手をひらひらと振って義之の言葉を否定する。

「あんたたちほど幸せそうな人もそうそういないからね。なんだか見ているだけでこっちまで幸せな気分になってくるのよ」

 そうして、まゆきは笑顔のまま、そんなことを言った。

「幸せそう……そう見えますか?」
「うん。これ以上なく、ね。弟くんのことが大好きでたまらない音姫やアイシアさん。そんな二人にはさまれてちょっと困ってる弟くん。それを後ろで見守る妹くん。なんていうか、みんな幸せオーラ発しまくりなのよ」

 幸せオーラ。その謎単語はなんなんだ、と思ったが、言いたいことはだいたい理解できた。
 そうか、自分たちは傍目にはそんな風に見えるんだ、と義之は思った。

「学園長もいたらさらに、なんでしょうね。兎に角、あんたたちはそれだけ幸せを満喫してる風に見えるって話」

 それだけ言うと「さてと」とまゆきは踵を返そうとする。

「ちょっと長話しすぎちゃったかな。まぁ、音姫、初音島にいるんならまた適当な時にでも二人でゆっくり話したいわね」
「そうだね。私もまゆきとはもっと色々話したいことがあるかな。またメールするね」
「ん、それじゃあ、またね。音姫に弟くん、それと妹くんにアイシアさん」

 まゆきはそう言って最後に気軽な笑顔を残すと片手を上げてその場から去って行った。
 幸せを満喫してる、か。言い得て妙だ。その言葉は間違っていないと、義之には思えた。
 アイシアに音姉に由夢。それに今この場にはいないけどさくらさん。そして、集まって馬鹿騒ぎできる友人たち。親愛なる家族や友人に囲まれて過ごす何気ない日常。そのありがたみは、かつてそれを捨てようとした身からすればこれ以上ないくらいに実感できる。それがどれだけ幸せなことかも。

「ねっ、弟くん」

 ハッとする。思考を断ち切るような姉の声。

「そろそろいい時間だし、お買い物は次のお店で最後にしようと思うんだ」
「そうだな。晩飯の支度もしないといけないし」
「あ、そうだ。晩ご飯のお買い物もしないといけないのかな?」

 思い出したような姉の言葉。しかし、義之は首を横に振った。

「大丈夫。今日の晩飯の分の材料はもう買いそろえてあるから。音姉が帰ってきた記念日なんだから音姉の好きなものをそろえているよ」
「ほんと!? やった〜! 弟くん、ありがと〜! お料理するのは私も手伝うね」
「お姉ちゃんは主賓なんだからそんなことしなくても……今夜は私や兄さん、アイシアさんで準備するから大丈夫だよ」

 妹の思わぬ言葉に音姫は一瞬、驚き、しかし、すぐに得心したような顔になった。

「そっか〜。由夢ちゃんもちゃんとお料理するようになったんだったね、えらいえらい」
「そ、そんなにたいしたことじゃないよ。まだまだ兄さんやお姉ちゃんたちにはとてもかなわないし……」

 音姫が心底、感心するように言った言葉に由夢は照れくさそうに顔をそむけた。

「ま、そういう訳だから音姉は今日はゆっくりして料理ができるのを待っててくれよ」
「あたしたちでぱぱっと用意しちゃうんだから」

 義之、アイシアが次いで言うと姉は「うん」と頷いた。

「それじゃあ、今日はお言葉に甘えちゃおうかな。みんなが作ってくれる料理楽しみだな〜♪」

 夏場の遅い夕焼けに照らされて、幸せそうな笑顔が眩しかった。




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