「第五話 二人が妹で、俺が兄で」





 我が目を疑った。
 何かの見間違いではないかと思い、目をこすり、再び問題の箇所に目を落としてみるも、願望虚しく、無情にもそこに記された文字が変わることなかった。
 主人公? 俺が? しかもアイシアとさくらさんが義妹だって!?
 呆然とする義之の隣で音姫が「わぁ、私、先生役だって〜。私にできるかなぁ」などと不安がる言葉とは裏腹にうれしげな声を出し、小恋は「わたしは義之の幼なじみ役かぁ……って現実そのまんまじゃない!」などとセルフ突っ込みをかます。

「ふむ。美夏も桜内の幼なじみ役か。幼なじみとなると普段とは少し勝手が違うな」
「主人公に恋する後輩……わたしは兄さんに片思いしている設定ですか」
「ななかは義之くんのクラスメイトで友人だって。私は小恋と同じで現実通りだね♪」

 おのおのが与えられた役柄に対し感想を述べる。そんな中、義之は叫んだ。

「ちょ……ちょっと待てぇぇぇぇぇ!」

 突然、発せられた大声に場はしん、と静まりかえる。杏は何か文句でもあるの、と言わんばかりの冷たい視線を義之に向けてくる。
 ああ、文句あるさ。おおありだ。

「俺が主人公ってどういうことだよ。しかもアイシアとさくらさんが妹だって!?」
「そうよ」

 杏は平然として答える。今更何を言い出しているの、とでも言うように。

「義之もこの映画に参加するって言っていたのは今の私の記憶力でも覚えているけど」
「いや、たしかに映画には参加するとは言ったけど……」

 たしかに言った。自分も参加する、と。だけどそれは、適当な脇役Bでもこなすつもりで言ったのであって主人公だなんて、しかもアイシアとさくらさんの兄貴役なんて聞いていない。義之が言葉に詰まっていると杏は「この物語、ラブリー☆シスターズは……」と解説を始める。

「鈍感な主人公とそんな主人公のことが大好きな二人の妹を中心に繰り広げられるどたばたラブコメなの。園長先生とアイシアさんのダブルヒロイン形式にしたい、というのは言ったわよね?」
「ああ」
「二人がヒロインなら主人公は義之。貴方以外に誰がやるっていうの?」

 じっ、と見据えられる。なんなんだその理論は。そう思ったものの言い返すことはできず、なんとなく居心地が悪くなり義之は視線をそらした。

「ア、アイシアやさくらさんだって嫌だよな? 俺の妹役なんて……」

 逃げるようにアイシアやさくらに話題を振った義之だったが、

「ううん♪ 全然オッケー。にゃはは、ボクが義之くんの妹かぁ〜♪」
「奥さん役じゃないのとさくらとも姉妹って設定なのがちょっと気になるけど、あたしも特に不満はないよ。あたしが義之くんの妹、うん、面白そうじゃない」

 返ってきたのは満面の微笑み。二人はこの配役で全く不満はないようだった。
 それを見て杏は満足げに頷くと、意地悪そうな視線をアイシアに送る。

「どうしても義之が嫌って言うのなら主人公は渉あたりにやってもらうことになるけど……アイシアさん、渉に抱きついたり、キスしたりできる?」
「えー! いくら演技でもそんなの無理だよ! 義之くん以外の男の人にそんなことできないよー!」

 あたしは義之くんの恋人なんだからー! とアイシアは首を横にぶんぶんと振る。その隣でさくらも「そうだね」と同意の声を出した。

「ボクもそういうことするならやっぱり相手役は義之くんがいいな〜。渉くんのことが嫌いなわけじゃないけどね」
「ちくしょう……やっぱり義之は特別かよ……」

 アイシアとさくらの言葉に渉ががっくりとこうべを垂らす。

「……と二人はおっしゃているけど?」

 杏が不適な笑みを義之に向けた。

「ほらほら、二人とも義之くん相手じゃないとダメだって言ってるよ〜」
「覚悟を決めるのだな、桜内」

 茜と杉並もそう言って笑う。

「このラブルジョワ野郎が! さくら先生やアイシアさんにここまで言われてるのにそれを無下にして断るなんてこの俺が許さねえぞ!」

 こうべを垂らしていた渉も顔を上げたかと思うと鬼気迫る表情で義之に詰め寄る。
 逃げ場なし、か。義之は諦観の思いで息を吐いた。

「はぁ……わかったよ。やるよ、主人公役……アイシアとさくらさんの兄貴役」
「ふふ、物わかりがよくて助かるわ」

 満足げに言った杏に「けどよ」と義之は言葉を続ける。

「演技力なんてもん、俺はにはないぞ? それで主人公なんて大役をやっていいのか?」
「うにゃ、ボクもちょっと自信ないかも……」
「あたしも……」

 義之たちは演劇部でもなければこれまで何かを演技するといった経験などない。主人公にメインヒロイン。果たして自分たちにそんな大役が務まるのか。義之の言葉に続けて、不安げにさくらとアイシアも言葉を発する。
 しかし、そんな義之たちの心配をよそに杏は「大丈夫ですよ」としたり顔で笑う。

「義之も園長先生もアイシアさんもいつも通りにしていてくれればいいだけですから」
「いつも通りって?」

 さっきも言ったけど、と前置きして杏は続けた。

「この物語は主人公と主人公のことが大好きな二人の妹を中心に繰り広げられるどたばた劇なの」
「ああ」
「妹二人は大好きなお兄ちゃんを渡すまいと常にお兄ちゃんの取り合いをしているの。で、そのお兄ちゃんが義之で妹二人が園長先生とアイシアさんでしょ。ほら、現実と全く変わらない構図じゃない」
「ああ……」

 言われてみればたしかに。恋人と母親が二人の妹に。立場の違いこそあれどやることは現実と全く変わらない。「そう言われてみればそうかも〜」「多少の違いはあれどこれも基本的には現実そのままですね」などとななかと由夢が呟く。

「園長先生とアイシアさんはいつも通り義之の取り合いをしていてくれれば結構ですよ」

 ちらり、とさくらとアイシアに杏は視線を移す。
 最初は言われていることの意味がいまいちわからないのかぽかんとしていた風のアイシアだったが、

「そっか〜。言われてみればたしかにそうだね。あたしは現実通り義之くんが大好きで義之くんとイチャイチャらぶらぶしていればいいんだね〜」

 そう言って楽しげに笑う。

「む? 映画の中ではアイシアは桜内の恋人ではなく妹なのだからそれは少し違うのではないのか?」
「同じようなものだよ、美夏ちゃん。義之くん、映画の中でもらぶらぶしてようね♪」

 アイシアは美夏の突っ込みに対し笑顔で答えると挑むようにさくらの方を見つめた。

「映画の中でもさくらには負けないんだから!」
「にゃはは、それはどうかな? 義之くんの妹っていう立場ならボク、普段以上に義之くんに甘えちゃうよ?」

 アイシアの挑発にさくらはにやり、とした笑みで答える。そんな中、

「う〜〜、さくらさんとアイシアさん、ずるいです!」

 さくらとアイシアを心底うらやましがっている様子の音姫の声が響く。

「弟くんの妹役! 私もやりたかったのに〜」
「なんだよ、音姉。先生役、まんざらでもなさそうだったじゃないか」
「そ、それはそうだけど……、うん、別に先生役が嫌ってわけじゃないよ。でも、それとこれは話が別。私も弟くんに甘えたいのに〜〜!」

 勘弁してくれ、と義之は思った。アイシアとさくらさんが自分の妹役をやるというのだけでもぞっとしないのに音姉まで妹となるともうわけがわからない。

「ねぇ、雪村さん。私も弟くんの妹役っていうのはやっぱりだめかな?」

 と、音姫は視線を杏に送るも杏は「すみません。音姫先輩」と頭を下げた。

「この映画は園長先生とアイシアさんの二人を軸にした映画なので……」
「そっか……それなら仕方がないよね」

 音姫は少し肩を落としたものの、それ以上追求することはなかった。元々、本気で配役を変えてもらおうという気はなかったのだろう。

「それより杏〜」

 一段落、といったところで小恋が口を開いた。

「この台本、役の名前が書いてないよ?」
「そういえばそうだね」

 小恋の隣でななかもうんうん、と頷く。「まだ決まってないのか?」と渉も続いた。

「まさか本名のままやるってことはないよな?」
「そのまさかよ」

 杏の返答にへらへら笑っていた渉の表情がへ? とかたまった。

「私たちの卒業を記念する映画なんだもの。役名なんて必要ないわ」
「ちょ……待て、マジか?」
「ええ〜〜!?」

 渉の焦ったような声に小恋の悲鳴が続く。本名にままで映画に出る。杏の口から発せられたその事実に杏、茜、美夏を除いた――茜と美夏はあらかじめ聞いていたのだろう――その場にいた全員が驚きに目を見開いた。一人、杉並は「ふむ。なるほど、なかなか面白そうな試みだな」などと言って腕を組み、不適に笑っていたが。

「たしかに記憶には残る気はしますが……」
「わたし、恥ずかしいよ〜」
「おいおい、勘弁してくれよ」

 困ったような由夢と小恋の言葉に義之は続けて抗議の声を出す。

「別にいいじゃない。むしろ本名の方が変に演技する必要もなくて気が楽でしょ?」
「そうだよ、義之くん、小恋ちゃん。何も恥ずかしがる必要はないって」

 杏と茜の持論を曲げる気の一切、感じられない言葉に「それは、そうかもしれないけど……」と義之は言葉を濁す。
 その場にいる面々の困惑にも構わず杏は「これはもう決定事項だから」と言って話をまとめようとする、と、その時、思い出したように「あ、そうだ」と声を出した。

「基本的には本名だけど園長先生とアイシアさんに限っては役の関係上、義之と同じ名字ということになるんですが、よろしいでしょうか?」

 そう言ってさくらとアイシアを見る。

「ボクは桜内さくらかぁ〜。んー、さくらさくらって重なっててなんだか妙だね」

 にゃはは、とさくらは笑い、

「あたしは桜内アイシア……。桜内アイシア、桜内アイシア、桜内アイシア……うん、素敵な響き♪」

 いずれその名前になるんだから今から体験しておくのも悪くないね、とアイシアはうっとりとした表情を浮かべる。

「ま、ボクたちは義之くんの妹なんだから仕方がないね」
「あたしは全く問題ないよ、杏ちゃん」

 二人の答えに杏は満足げに頷くと、

「それじゃあ、今日はこれで解散。撮影のスケジュールはまた追って連絡するからそれまでにみんな台本を読んでおいてね」

 そう言って、解散宣言を告げた。



「思った以上に面倒なことになったな」

 帰路。相変わらずじりじりとした暑さの中、並木道を歩きながら義之はそうひとりごちる。
 映画。俺たちが風見学園で過ごした日々の総まとめとして作られる杏主導の映画。それに参加することを決めたのはつい先日の話ではあるが、ここまで面倒なことになるとは思ってもいなかった。まさか自分が主人公でそして、

「にゃはは、面倒なんてことはないよ」
「そうだよ、義之くん」

 独り言のつもりの言葉を拾って笑う二人の少女。さくらさんとアイシア。まさかこの二人が自分の妹で、自分がこの二人の兄なんて。そんなあり得ない事態、そんなあり得ない役柄を演じる羽目になるなんて、思ってもいなかった。

「みんなと一緒の映画製作すっごく楽しそうじゃない」
「そりゃ、楽しそうっていったらそうだけど……」

 その言葉に嘘はないのだろう。心底楽しげなアイシアに義之は言葉を濁した。
 みんなでの映画製作。アイシアに言われるまでもない。元よりお祭り事は好きな方だ。今回の出来事も楽しみに感じている自分がいるのは否定できない。しかし。しかし、だ。

「アイシアとさくらさんが俺の妹で俺が二人の兄っていうのがなんだかなぁ」

 さっきはみんなの手前、頷いてしまったが、こうして改めて考えるとそれはあり得ない。あり得ないにもほどがある。義之はため息を吐いた。

「なんだ兄さん。まだそのことでしぶってるんですか?」

 呆れた口調で由夢が言う。

「もう決まっちゃったことじゃないですか。それに雪村先輩の言う通りさくらさんとアイシアさんが兄さんの取り合いをしているのなんていつものことじゃないですか」
「それはそうだが……」
「そもそも役に不満があるのはわたしだって同じです」

 そう言うと由夢はむすっとした表情を浮かべる。

「わたしなんて兄さんに恋する後輩ですよ? 全く。なんでわたしが兄さんなんかに……」
「それも現実通りだね」
「なっ――」

 不満を連ねようとした矢先、挟み込まれたアイシアの言葉に由夢は瞳を見開いた。

「な、な、な……いきなりなにを言うんですかアイシアさん! わ、わ、わわ……わたしが兄さんに恋してるなんて……そんなのあり得ませんから!」

 そんなことわかりきっているというのに、由夢は何をそんなに慌てているのだろう。義之は妹の不審な態度に思わず首を傾げてしまった。
 そんな由夢の様子に「由夢ちゃんは素直じゃないねぇ」なんて言って音姫まで何か微笑ましいものを見るような笑顔を浮かべている。
 アイシアも音姉も何を言ってるのやら。義之は困惑を通り越して呆れた。由夢が自分に恋しているだなんてそんなことあるわけがないだろう。それは勿論、家族としては嫌ってはいないだろうが。

「あーあ、お姉ちゃんも映画の中でも弟くん争奪戦に参加したかったなぁ」
「でもでも、音姫ちゃんは先生役でしょ? 結構、はまり役だと思うけどなぁ」

 さくらの言葉にそうね、とアイシアが頷く。

「少なくともさくらなんかよりは音姫ちゃんの方がよっぽど教師っぽく見えるし」
「あー! アイシアひっどいなぁ。ボクはこう見えても立派な教師だよ?」

 むー、と頬をふくらませるその子供っぽい姿は本人には失礼だが、たしかにアイシアの言うとおり教師には見えなかった。

「義之くんまで笑ってるし、まったくもー、失礼だなぁ」

 気がつかないうちに表情に出てしまっていたようだ。「すみません」と言いながら義之は慌てて口許を引き締めた。

「それよりどうします?」

 タイミングを見計らっていたかのように由夢がそう切り出す。

「このまま家に帰りますか? それともどこかで一服していきますか?」
「あー、そうだなぁ」

 由夢の言葉に義之は少し考え込んだ。まだ日は高い。わざわざ外に出てきたのだから一直線に家に帰るより由夢の言う通りどこかで一服していくのも悪くはなかった。それに先ほどもらったばかりの台本のこともある。家に帰ってから読んでもいいのだが、なんとなくどこかでリラックスしながら読んでみたいところだ。となれば、

「どっかの喫茶店でも行くか」

 義之の言葉に異議を唱える者はいなかった。



【さくら】 お兄ちゃん、あーん、して。
 さくら、お弁当をお箸で一つまみし義之に差し出す。
【義之】 いや、でもさ……ちょっと恥ずかしい……
【さくら】 いいから、いいから、あーん。
【義之】 あーん……
【さくら】 美味しい?
【義之】 もぐもぐ……ああ、すごく美味しいよ、さくら。
【さくら】そう? よかったぁ、お兄ちゃんに喜んでもらおうと思って頑張って作ったんだ。
【アイシア】 あー、さくらばっかりずる〜い。あたしの作ったお弁当も食べてよお兄ちゃん。はい、あーん。
 アイシア、お弁当をお箸で一つまみし義之に差し出す。
【義之】 あ、あーん……もぐもぐ。
【アイシア】 どう? 美味しいでしょ。
【義之】 ああ。アイシアのお弁当もすっごく美味しい。
【アイシア】 えへへ……ありがとう、お兄ちゃん。
 アイシア、さくらのお弁当をちらりと見る。
【アイシア】 さくらのお弁当とどっちが美味しかった?
【さくら】 ボクのお弁当の方が美味しいに決まってるよね?
【アイシア】 ううん、あたしのお弁当の方が美味しかったよね? お兄ちゃん。
【義之】 え? そ、そんなの決められないよ、どっちもすっごく美味しかったし……



「………………」

 そこまで読み終えると義之は一旦、台本を読むのを中断した。
 現在地は喫茶店『ムーンライト』。おのおのが注文した飲み物なりパフェなりをつまみながら台本を開いて中身をチェックしているところだった。
 今、読んでいた箇所はハイキング中の1シーンだ。二人の妹と共に主人公・桜内義之はハイキングに出かける。桜公園の奥、初音島の海が一望できる高台で三人は昼食をとる。さくらもアイシアもそれぞれ今日のためにお弁当を作ってきていて、それを義之に食べさせてあげる、という流れである。
 しかし、

「こ、これを演じないといけないのか……」

 滅茶苦茶恥ずかしい。二人に『あーん』をされるなんて。こんなことをしているところがカメラで撮られ全校生徒の前で公開されるなんて、正直なところ勘弁してほしかった。
 他のページに書かれたエピソードも大半もこんな調子のものばかりだ。それらを全て演じなければならないと考えると今から恥ずかしさでいっぱいになる。
 やっぱり引き受けるべきではなかっただろうか。義之が頭を抱えた。

「んー、義之くん。どのページ読んでたの?」

 興味津々といった様子で義之の隣に座っているアイシアが身を乗り出して義之の台本をのぞき見る。ちなみにそれぞれの席の配置は義之を中心に右隣がアイシア。左隣がさくら。対面に音姫、由夢というかたちだ。なお、この配置は義之の隣の座を巡って激しい争い――まぁ、ジャンケンなのだが――が繰り広げられた結果である。本来4人用のボックス席に5人で座っているので義之の側は少し窮屈感がある。

「ああ、そこか〜」
「どこですか?」
「三人でハイキングに行ってあたしとさくらがお弁当対決をするところ」

 由夢の問いかけにアイシアは笑顔で答える。

「ああ……その部分ですか」

 ぱらぱら、と台本をめくる由夢の返事は素っ気ない。

「恥ずかしいも何もいつも通りじゃないですか」

 やれやれ、と肩をすくめての由夢の言葉。

「い、いや……いくら二人だって普段はここまでは……」
「しないんですか?」
「…………」

 するかもしれない。杏は現実通りに自分の取り合いをしていればいい、とアイシアとさくらさんに言っていたが、たしかにこれは現実通りと言えるかもしれない。
 台本に一通り目を通したのか、由夢は呆れるようにため息を吐いた。

「まったく。兄さんったら最初から最後までデレデレしっぱなしで、最低ー」
「文句を言うなら物語の中の桜内義之に言え、現実の俺に言われても困る」
「でも、現実でも普段からデレデレしてるじゃない。さくらさんとアイシアさんにかこまれて」

 してないって。そう言った義之の声が届いたのか届いていないのか由夢は再び手元の台本に視線を落とす。

「うーん、やっぱりお姉ちゃんが弟くんとイチャイチャするシーンはないかぁ」

 心底残念そうに音姫が言う。先生と生徒という役の関係では音姫の望むようなシーンは台本のどこにも存在していなかった。
 それにしてもおそろしいのはこの台本だ。
 この台本は完全に音姫が参加する前提で書かれている。音姫の参加が決まり、そのことを杏に伝えたのは昨日だというのに。製作時間を考えるに台本は明らかにそれ以前に書いたものだろう。もし、音姫が断ったりしたらどうするつもりだったのやら。義之としてはその剛胆さに呆れるやら感心するやらだった。
 「残念だったね、音姫ちゃん」とさくらが笑う。

「ボクとアイシアは義之くんとイチャイチャしまくりだね。うん、杏ちゃんの言う通りこれなら現実通りだ。うまく演じられそう♪」

 さくらは何が楽しいのか台本をめくりながら明るい表情を浮かべる。義之にとっては恥ずかしいシーンばかりで読んでいてとても楽しい気分にはなれなかったのだが、彼女にとっては違うようだった。

「でも現実と違ってさくらさんは俺の保護者じゃなくて妹ですよ?」
「にゃはは、大丈夫だよ、義之くん。母親も妹もたいして変わらないよ。立場がなんであろうとボクはただ義之くんに甘えるだけだし」

 にこにこ笑顔のさくらに対してアイシアが不満そうにむー、と唸った。

「ふんっだ。さくらなんかよりあたしの方が義之くんに甘えてやるんだから」

 そう言ってそっぽを向く。その横顔を見ながら甘えるも甘えないも台本次第なんだけどなぁ、と義之は苦笑した。まぁ、杏のことだ。台本にないことをアイシアやさくらさんがやってもそれが面白ければOKサインを出しそうではあるが。
 義之がそんなことを考えていると「ねえねえ」とさくらが呼びかけてきた。

「せっかくだし読み合わせやってみない?」
「読み合わせ……ですか?」

 そうそう、とさくらは頷く。

「なるべく早く台本を覚えないといけないからね」
「それはたしかにそうですが」
「まずは……さっき話に出たお弁当のページがいいかな」

 言いながらさくらは台本をめくる。そうして手元のスプーンでテーブルに置かれた自分のパフェをひとすくいするとそれを義之の方に向けた。

「それじゃあはじめようか……えーっと」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」

 義之は思わず言葉を荒げた。お弁当対決のシーンの読み合わせ。単なる台詞の確認だけでなく、そのシーンでとる動作まで確認しようというのか。

「あ、このパフェのこと? 今手元にお弁当がないから代用だよ」
「い、いえ、そういうことじゃなくて……」
「……?」

 さくらは首を傾げる。差し出されたスプーンとさくらを交互に見て義之は続けた。

「お、俺に『あーん』をしろって言うんですか?」
「そうだけど」

 それがどうかしたの、とでも言いたげな様子のさくら。

「い、いや、そんな。こ、こんな場所で……」

 義之は周囲を見た。夏休みの真っ昼間の喫茶店。客の入りはそこそこで、こんな場所で『あーん』なんてやったら確実に誰かの目に入る。

「にゃはは、義之くん。今更何言ってるの。本番はカメラで録画されてもっとたくさんの人がいる中で上映されるんだよ?」
「それはそうなんですが……」
「なら、このくらい問題ないじゃない♪」

 問題大ありだ、と義之は思ったがさくらは全く気にした風もなく笑う。

「アイシアもいいよね?」
「あたしはオッケーだよ。早いうちに練習しておかないと杏ちゃんに悪いしね。何よりさくらだけに抜け駆けはさせたくないし」

 水を向けられたアイシアも何も問題はない、と言うように頷くと、さくら同様、手元のパフェをスプーンでひとすくいする。
 それを見届けたさくらはくすり、と笑い、

「それじゃあ、いくよ……『お兄ちゃん』」

 何が楽しいのかそう言ってにやにやと目を細める。
 楽しげなさくらとアイシアの表情。私もやりたい、と言わんばかりに羨ましそうな音姫の表情。ほら、やっぱり現実もそうじゃないですか、と言いたげの呆れた様子の由夢の表情を見ながら、義之は覚悟を決めるのだった。




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