「第六話 波乱の撮影開始」





 それは義之にとって全くの未知との遭遇だった。
 風見学園の付属の女子制服。
 それ自体は見るに見慣れたものである。付属から本校に進級してからというものの見る機会が少なくなったのはたしかであるが、同じ学園の中だ。付属制服に身を包んだ下級生の姿を見ることは多々ある。
 それだけに付属制服だけではこれだけの衝撃を義之に与え得ない。問題はその制服を着ている人間である。
 そう、例えば学園の長が生徒用の制服を身にまとっていたとしたら。
 そう、例えば自分の家族で保護者で母親のような人が自分より下級生であることの証を身にまとっていたとしたら。
 その衝撃はどれだけのものだろう。
 つまるところ――――。

「にゃはは……この制服を着るのも久しぶりだな〜」

 風見学園の付属制服を身にまとった芳乃さくらが義之の目の前にいた。





 最初に映画を撮ると告げられたときと台本を皆に配った時と同様。呼び出しは唐突だった。
 『撮影の準備がととのったわ』
 その一文。後は簡潔に撮影スケジュールが記されたメールが杏から届いたのは。
 撮影日は短期間に集中・連続していて一気に全編を撮ってしまおうという杏の算段が見え隠れしていた。そして、その判断は正解だと思う。初音島にいる時間が限られている小恋や音姫。仕事がある義之やさくら。他の面々だってそれぞれ用事などが全くないわけではないだろう。皆の事情を考えれば短い期間で一気に撮影を済ませてしまおうというのは至極、当たり前のことだ。
 早速、義之がスケジュールをさくらに見せて確認をとったところ返ってきた答えは良好。まるで問題なし、とのことだった。
 だが、しかし、義之の方に問題はあった。
 撮影予定日の何日かがバイトの出勤日と重なっていたのだ。杏に予定日を変えてもらうしかないかな。そう思いながらも一応、自分とアイシアに休みをもらえないだろうかとバイト先に連絡を取ってみた。電話口に出た店長に休みの理由を聞かれ仕方がなくみんなで映画を撮るんですと事情を説明すると、

「アイシアくんがメインヒロインを勤める映画だって! それはいい! シフトの心配をする必要はない、何日でも休んでくれたまえ! ただし完成したあかつきには是非とも私にも見せてくれよ」

 と、オーケーをもらえてしまった。相変わらずの店長に感謝するやら呆れるやらで芳乃家一行は撮影スケジュールに問題なし、という連絡を杏に送り、そして現在に至る。
 一同は風見学園に集まった後、まずは撮影のための衣装合せを行った。
 とはいえ、メンバーの多くは風見学園の生徒役だ。特別に服を用意する必要はなかった。数少ない例外をのぞいては。
 その例外の一人がさくらである。彼女に割り振られた役柄は義之の妹――いまだに義之はその配役に納得しかねているが――つまり風見学園の生徒である。生徒である以上、制服を着なければならない。そうして風見学園付属の制服を身にまとったさくらが義之の目の前に立っている。少しだけ恥ずかしそうににゃはは、と笑う。

「どうかな、義之くん。似合ってる?」
「………………」
「義之くん?」

 やっぱり、あり得ない。
 彼女が自分の妹というのもあり得ないが、彼女が風見学園の制服を着ているなんて、そんなこと。そんな姿、想像したこともなかったし、そんな姿が見られる日が来るなんて思ってもいなかった。
 義之の困惑をどうとったのか、さくらは少しだけ悲しげに瞳を伏せた。

「やっぱり似合ってないかな……」

 その言葉にハッとした。

「そんなことはありませんよ! すっごくよく似合ってます! ただ……ちょっと驚いただけで……」

 思わず声が上擦ってしまったが、嘘はない。風見学園の付属制服はさくらにとてもよく似合っていた。この困惑はその姿が義之の想定の外にありすぎたことに対する困惑に他ならない。だから決して、さくらに制服が似合ってないなんてことはないのだ。
 むしろ似合いすぎている。今のさくらを風見学園の学生と言っても疑う者は誰も居ない、そして、風見学園の学園長だと言っても誰も信じてくれないだろう。

「園長先生、きっと義之は園長先生に見惚れていたんですよ」
「そうですよ〜。すっごくキュートですし」

 雪月花の雪と花がからかうようにそう言う。監督兼脚本で映画には出演しない杏、出演はするが風見学園の生徒の茜。二人ともいつもと変わらない学園の制服姿だ。
 杏の言葉に気をよくしたのかさくらは嬉しげな表情になると「にゃはは」と笑った。

「そっかそっか〜、義之くんはボクに見惚れていたんだ〜」
「い、いや、そういうわけでもないんですけど……」
「照れなくてもいいよ義之くん。にゃは、ボクの制服姿、可愛い?」

 そう言ってさくらはくるり、とその場で一回転してみた。ひらりとスカートが舞う。

「可愛い?」
「あ、えと、その……」
「可愛い?」
「…………」

 期待に満ちた蒼い瞳が義之を見上げてくる。脇に目をそらせば雪月花の二人がにやにやと面白がるような視線を送ってきている。

「……ええ、可愛いです。すごく」
「にゃはは、ありがとう義之くん♪」

 さくらは満足げに笑った。

「っていうかさくらさん。わざわざ俺に聞かなくても渉やななかが散々可愛いや似合ってるって言ってたじゃないですか」

 そう。さくらが制服に着替えてこの教室に入ってきた途端、渉やななかが早々に反応しさくらを取り囲み、可愛いだの似合ってるだの、それこそ怒濤の勢いで言葉をあびせたのだ。
 だからそんなことは今更自分が言う必要もないことだろうに。そう義之は思ったのだが、さくらは「ううん」と首を横に振る。

「ボクは義之くんに可愛いって言ってもらいたかったんだよ。なんたって義之くんはボクの特別な人だからね♪」

 太陽のような満面の笑顔だった。
 そんな恥ずかしいことを言われては返す言葉もない。義之は自分の顔が赤く染まっていくのを自覚した。そして、当然、そんないじりやすそうな美味しい獲物を茜と杏が見逃すはずもなく、

「おお、熱烈なラブコールですなぁ」
「そうね。義之も義之で恥ずかしがってるように見えてまんざらでもなさそうだし」
「アイシアさんという人がいるのにね〜」

 好き勝手なことを言う。お前らなぁ、と義之が二人に声をかけようとした時だった。

「義之くん!」

 アイシアの声が響いた。
いつの間に来たのか部屋の中にアイシアはいた。その姿はいつか見た風見学園の付属制服姿だ。アイシアも義之の妹役で下級生という立場なのだからその姿は当然だが。

「ア、アイシア……アイシアも着替え終わったんだな」
「着替え終わったんだな……じゃないわよ!」

 何が気に入らないのか。アイシアは声に怒気をはらませ眉をつり上げルビーの瞳で義之を見る。

「さっきの様子、こっそり見てたけどなによ、さくら相手にデレデレしちゃって!」
「み、見てたのか……ってかデレデレなんてしてないって!」
「ううん、してたよ」

 アイシアは首を横に振る。そうして視線をさくらの方に送り、

「さくらの制服姿がそんなによかった?」
「いや……その……そういうわけじゃ」
「えー! そういうわけじゃって、ボクに言ってくれたさっきの言葉は嘘だったの?」
「い、いえ、それも違いますけど……」
「じゃあやっぱりさくらに見惚れてたんじゃない!」
「い、いやっ、そういうわけでもなくてだな……」
「義之くん! はっきりしてよ!」
「そうだよ、義之くん。正直にボクに見惚れてたってアイシアに言ってあげなよ」

 まさに板挟み。さくらとアイシアの二人に囲まれ義之はわたわたと言葉を濁すしかない。

「両手に花も大変ね」
「ですな〜」
「あはは……義之、ちょっと可哀相だね……」

 杏、茜、小恋の雪月花三人組がそんな様子を見てくすくすと笑う。彼女らにとっては全くの他人事だった。
 小恋は本校の制服を着ているが、付属卒業と同時に本島の学校に転校してしまった彼女が本校制服を着ているのを見るのは初めてになる。なかなか新鮮だった。

「全く。いつものことながら兄さんには本当に呆れます」

 義之の後輩という設定上、久しぶりに見せる付属の制服姿の由夢はそう言ってため息をついた。

「だいたい制服ならあたしだって着てるのになんでさくらの時と違って反応薄いのよ」

 むー、と頬をふくらませるアイシア。それは違う、と義之は思った。
 前に一度見たことがあるとはいえアイシアの貴重な制服姿に義之とて思うことがないわけではない。しかし、衝撃はより大きな衝撃に掻き消される。さくらの制服姿。そのインパクトが強すぎてついついアイシアに対する反応が素っ気ないものになってしまったのだ。とりなすように義之は「アイシアも可愛いよ」と言った。

「ふーんだっ、そんなとってつけたような感想なんていりませーん」

 しかし、その言葉だけでは不機嫌になってしまったアイシアには不十分のようだった。

「いや、ほんとに可愛いよ」

 が、義之としてはこう言うしかない。だって実際にすごく可愛いのだから。他に言いようがない。
 言葉に秘められた真摯さを感じ取ってかアイシアは不機嫌そうな表情を少し崩し、「……ほんと?」と大きなルビーの瞳で義之を見た。

「ああ、前も思ったけど、すっごくよく似合ってる」
「えへへ……そうかな」

 続けた義之の言葉にアイシアはついに笑顔を見せた。まんざらでなさそうに笑う。

「さくらよりもよく似合ってる?」
「そ、それは……二人ともすっごくよく似合ってるから比べられないよ」
「むー」

 さくらのことを気遣った義之の答えに再びアイシアは不機嫌顔になる。

「でもアイシア、すっごく可愛いよ。それだけは自信を持って言える。こんな可愛い彼女……映画では妹か、……がいるなんて俺はすごく幸せ者だ」

 そんなアイシアに対し、義之は思ったままのことを再び口にした。

「……うん! ありがとう、義之くん♪」

 その言葉にアイシアは再び不機嫌顔を崩し、笑顔を見せてくれた。

「映画の中でさくら以上に可愛いところを見せてあげるんだから!」
「にゃはは、ボク、そう簡単には負けないよ? 義之くん、可愛い妹、芳乃……じゃない桜内さくらの活躍。期待しててね♪ ボクの演技で義之くんはメロメロだよ」
「ふ〜ん、だ。義之くんはあたしの恋人なんだから、あたしの演技にメロメロになることはあってもさくらなんかにメロメロになることはないもん!」
「それはどうかな〜♪」

 さくらは不敵な笑みを浮かべ、アイシアは頬をふくらませる。止めるべきか、静観すべきか義之は迷った。しかし、その時、新たな来訪者が教室に訪れた。
 足音に振り向けば、黒のレディーススーツを完璧に着こなした音姫がそこには立っていた。
 真っ黒なジャケットに胸元から首筋にかけて白いブラウスが覗く。下はジャケットと同色の膝元まであるスカートに足を覆うのは黒のヒール。先生というよりはどこかのやり手のキャリアウーマン、と思わんばかりの着こなしぶり。身内の義之でなくても眼を奪われてしまっても仕方がないだろう。「音姉……」と思わず声が出る。

「えへへ……弟くん、どうかな?」

 照れ臭そうに音姫は笑った。

「わー、音姫先輩カッコいい〜」とななかが褒めれば「すごくよく似合ってますね」と茜が続く。

「凄いよ、音姉。すごく大人っぽく見える」

 義之もまた賛美の言葉を口にした。

「ふふ、やっぱり配役に間違いはなかったようね」
「音姫先輩、本物の先生みたいだね」
「音姫先輩! 素敵っす!」
「お姉ちゃん、綺麗〜」

 杏と小恋、渉、由夢もまたスーツ姿の音姫を絶賛する。「そんなに似合ってるかな……?」と音姫は謙遜したように笑みを浮かべた。

「うん。音姫ちゃん、すっごくよく似合ってるね」
「うう……たしかにすっごく似合ってる……」

 さくらは笑顔で、アイシアはどことなく悔しそうに、しかし、二人とも音姫のスーツ姿を絶賛した。

「あーもう、義之くんったらまたデレデレしちゃって……」

 思わず姉のスーツ姿に目を奪われていた義之をアイシアは睨んだ。

「こうなったらあたしも音姫ちゃんみたいに大人の魅力を義之くんに見せつけて……」

 ぐっ、と握り拳を作ったアイシアだったが、そんなアイシアを見、さくらは「うーん」と唸った。

「アイシアにはちょっと無理じゃないかな」
「どういう意味よ!」
「言葉通りの意味だけど?」
「まるであたしが大人の魅力とは縁遠いみたいな言い方じゃない!」

 さくらの言葉にアイシアはうー、といきり立って言葉を返す。

(アイシアが大人の魅力……うん、たしかにちょっと無理だな)

 二人を見ながら義之はそんなことを思った。たしかにアイシアは可愛い。それには異論の余地はないのだが、大人の魅力となるとまた少し話が違ってくる。とりあえず小、中学生と見まごうようなその小柄な体では獲得できない種類の魅力だろう。

「ところで雪村嬢、皆の衣装のお披露目会も良いがそろそろ撮影に移ってはどうだ?」

 そんな中、杉並が言葉を発する。その格好は渉やななかのような学生服姿ではなく私服だ。口許に付け髭を付けている点がいつもと異なる点である。杉並の出番はかなり後半になってからなので今日の撮影分に杉並の出番はない。故に今日、わざわざ顔を出す必要もないのだが、こうして衣装合わせに参加してくれていた。変なところで律儀な奴である。

「そうだな。杏先輩。映研部も演劇部もそろそろ準備が整った頃だと思うぞ」

 美夏の言葉に「そうね」と杏は頷く。

「それじゃあ早速、シーン1の撮影に入りたいと思うんだけど、みんな台本は覚えてきた?」

 そう言って皆の顔を見渡す。とても覚えていないなんて言えない雰囲気だった。

「完璧……とまではいかないがなんとか」

 義之がそう答えると、他の面々も頷く。

「うん。月島も多分、大丈夫だと思う」
「ななかもしっかり台本、読んでおいたよ」
「時間は充分ありましたしね」
「美夏は完璧だぞ!」

 そんな一行の様子に杏は満足げな笑みを浮かべると「そう」と呟いた。

「園長先生とアイシアさんは?」
「ばっちりだよ! 杏ちゃん」
「あたしも、あたしも〜。合法的に義之くんといちゃいちゃできるんだからすぐに覚えれちゃった!」

 さくらとアイシアはそう言って自信ありげに頷く。
 とはいえ初めての映画撮影だ。緊張もたしかにあるだろう。それは義之とて同じことだった。ここにいるのは素人の集まりだ。台本通りに動けないこともあれば、台詞を間違うことだってあるだろう。最も、杏もある程度は織り込み済みで致命的なミスさえなければ小さなミスは見逃しそうではあるが。
 なんにせよ、初めての映画撮影。

(さて、どうなることかな)

 期待と不安を胸の中に同居させて義之は杏の指示を待った。





 夏休みの真っ只中というのに教室は生徒たちでいっぱいだった。その殆どは杏が部長を務める演劇部の部員たちである。
 教室の中での授業中の1シーンを取るのだ。それなのに教室にいるのが義之たちだけではあまりに不自然すぎる。そこでモブの生徒役を演劇部の部員たちがやってくれるという話になっていた。撮影を担当する映研部のカメラマンも同じ教室にスタンバイしている。映研部は映画撮影の際、演劇部から部員を借りることが多く、その普段からの借りもあって杏に弱い。それもあって今回の映画撮影において杏にていよく顎で使われる羽目になっている、と美夏が義之に説明してくれた。
 物語の始まりは学園での授業中だ。そこで居眠りをしていた桜内義之が教師である朝倉音姫に注意されるところから物語はスタートする。
 義之は割り振られた席に腰を下ろした。メインの登場人物の席は近くにかためられている。義之と同級生で友人という設定の小恋やななか、美夏や渉、茜も義之の近くの席に座っている。
 黒板には数学の方程式がびっしりと書かれており、生徒たちはみんな、数学の教科書とノートを机の上に広げておいてある。持ってきておいて、と指示されていたので義之も教科書とノートは持参してある。それを机の上に広げた。授業中という設定上、当然のことだった。

「それじゃあ撮影を始めるけど、みんなそう意識して気張ったりしないでね。大げさな演技より自然体でいて頂戴。それが何よりも大事なんだから」

 雪村杏監督の言葉がしん、と静まりかえった教室に響き渡る。自然体、自然体。義之はそう自分に言い聞かせた。なんてことはない。自分が授業中に居眠りをしているなんて演技するまでもなくいつものことだ。なんら難しいことはない、はずだ。
 音姫が教卓の前に立ったのを杏は確認すると、映研部のカメラマンに視線を移した。

「それじゃあ準備が整ったみたいね。撮影……スタート」

 杏のその言葉を合図についに映画撮影が始まった。





「これをこっちに移項すれば前に教えた公式に当てはめることができますね。この方程式の解き方は以上です。何か質問のある人はいますか?」

 チョークを黒板に走らせて、朝倉音姫先生は教室全体を見渡した。質問者、なし。そう判断した音姫は次の問題に移ろうとする。

「それでは次は……あ」

 そこではたと、音姫は言葉を止めた。理由は簡単だ。教室の中の一角。そこで許しがたい光景を見たからだ。音姫はチョークを一旦置き、かつかつかつ、と教室の中を歩き、とある席の前で足を止めた。そう、居眠りしている不良生徒の席の前で。

「桜内くん!」

 音姫の一喝が教室に響き渡る。それを聞くと義之は机の上に突っ伏して寝ていた体を起こした。

「は、はいっ!!」

 慌てて飛び起きるように台本に書かれていたのでできる限りの慌てた演技はしたつもりだが杏監督からオーケーを貰えるかはわからない。一秒、二秒。演技の都合上、視線は向けず、しかし教室の外で撮影を眺めている杏の様子を伺う。何も言われない……ところを見るとオーケーということだろうか。

「授業中に居眠りするなんて何事ですか!」
「す、すみません! 音姫先生!」

 音姫の叱責に平謝りする。これは演技ではない。音姫が初音島に居た頃は何かにつけて怒られることが多かった。その実体験があるからこそ自然にできた行動だ。最も、呼び名は当然、『音姫先生』ではなく『音姉』だったが。
 音姫先生。予想していた程の違和感はなく、意外としっくりくる呼び名だった。それだけ普段から彼女が先生らしいということなのだろう。

「全くもう! もうすぐテストなんですよ! 授業はしっかり聞いておかないと。赤点を取って補習を受けるのは桜内くんだって嫌でしょう?」
「すみません……」

 とはいえ、『桜内くん』という呼び名に関してはやはり違和感がつきまとっていたが。

「はい。カット」

 そこで杏の声が響き、教室内のどことなく張り詰めていた空気が一気に弛緩する。とりあえずこれにて物語の冒頭のシーンの撮影は終了だ。

「みんな、お疲れ様。なかなかいい演技だったわよ」
「これでいいのか? 杏」
「ええ。いい演技だったわよ」
「そりゃ、俺が音姉に怒られることなんてよくあることだったしな」
「そうだね。私もいつものノリで弟くんを叱っちゃった」

 義之と音姫は二人、そう言って笑い合う。

「今のシーンの後に編集でタイトルロゴを出すから」

 杏はそう説明する。まさに始めの始めのシーンの撮影だったというわけだ。

「その後のシーンも教室が舞台だから撮っておきたいところだけど……みんな、大丈夫?」

 杏はそう言って、教室中を見渡した。

「……大丈夫そうね。園長先生とアイシアさん、いよいよ次のシーンから出番ですけど、準備はいいですか」

 杏に水を向けられアイシアは「待ってました!」と声を出す。

「準備は万全だよ、杏ちゃん」
「ボクもボクも〜」

 二人は出番が待ちきれないといった様子だ。そんな二人に杏は満足げに頷く。この映画の主役二人。その出番は次のシーンから始まる。

「わかりました。それじゃあさっそく撮影を始めましょう」

 杏の言葉に皆はおのおの移動を開始する。次の場面は放課後、ホームルームが終わった後だ。そんな時間帯に生徒全員がそろっているのは妙なので何人かは教室から退室し、放課後に談笑をしているという設定の義之たち友人グループは小恋の机を中心に集まる。

「それじゃあ、スタート」

 杏の言葉を合図にカメラが動き出す。そのレンズが捉えるのは勿論、義之たちだ。
 義之たちはおのおの演技を開始する。

「ふぅー、さっきはびびったぁ」

 小恋の机の側に立った義之がため息と共に声を出す。びびった、というのは数学の時間。音姫先生に居眠りを見つけられ怒られたことだ。

「義之が悪いんだよ、居眠りなんてしてるから」
「それはそうだけどさぁ」

 小恋の言葉に頭を掻く。なんだか現実でもあったようなやりとりのような気がして、演技しているという気がしなかった。自分が居眠りをし、その後、それを友人たちにとがめられる。全くもって現実通りではないか。

「午後の授業って飯食った後だろ? もう眠くて眠くてさ」
「あー、わかるわかる」

 義之の言葉に渉が頷く。渉の設定も現実通り。義之と同級生で友人だ。

「けどよぉ、音姫先生の授業で寝るのはないだろ。他の教師ならともかく」
「む? 何故、音姫先生の授業だと寝ないんだ?」

 渉の不可解な言葉に美夏が疑問を呈する。こちらは現実とは違い義之と同学年という設定だ。ついでに小恋同様、幼馴染みという設定もある。

「だってよぉ、音姫先生だぜ!? あの見目麗しいお姿を見ていると自然と眠気なんてはれるって! っていうか、居眠りなんてしてそのお姿を見る機会を失うなんて勿体なさ過ぎる!!」

 どうやら渉はそのキャラも現実通りのようだった。鼻息荒く答えた渉に美夏が呆れたようにため息を吐く。どちらも演技にしては真に迫っている。素でやっているのかもしれないな、と義之は思った。

「いくら音姫先生が綺麗でも数学の授業って時点で俺はダメだな」
「あはは、そうだね。数式と睨めっこしてると眠たくもなるね」

 義之の言葉にななかが相槌を打つ。

「ふん。よく言う。義之が居眠りをするのは数学の授業に限った話ではないだろう」

 美夏は腕を組んで言い放つ。義之。義之はその呼び名に違和感を覚えたが幼馴染みという設定上、下の名前を呼び合うくらいは親しい仲だろうという杏の脚本通りだ。義之の方からも『天枷』ではなく『美夏』と呼ぶように指示を受けている。

「そう言う美夏は居眠りなんてしないんだろうな?」

 挑発的に義之は言う。正直、危ないところだった。天枷に『義之』と呼んでもらわなければうっかり『天枷』と呼んでしまいNGを出してしまうところだった。

「当然だ。美夏は義之と違って真面目だからな」

 美夏が誇らしげに胸を張る。その時だった。教室の扉が、がたん、と音をたてて開いたのは。
 義之たちは「ん?」と扉の方を見る。そこには。

「「お兄ちゃん!!」」

 義之の二人の妹。アイシアとさくらが教室に飛び込んできたところだった。二人は嬉しそうに声を上げ、義之のもとに駆け寄る。お兄ちゃん。その言葉を聞いた義之の体がぴしり、とかたまった。

「お兄ちゃん、会いたかったよ〜!」

 そんな義之には構わずアイシアが飛び出し、義之に思いっきり抱きつこうとした。が。

「あいたっ」

 その場で華麗に足をもつれさせ教室の床に向かってダイブする。
 案の定。やるんじゃないかとは思ってはいたことながら。いつものアイシアのドジ。それはこの撮影の場においてもおおいに発揮されてしまったようだった。周囲に「あちゃ〜」という雰囲気が広がる。当然のことながらこうなってしまっては撮影どころではない。カット、と杏の静かな声が響いた。

「撮り直しね」
「うう、ごめんね、杏ちゃん。みんな〜。義之くんに飛びつけると思うと嬉しくって……」

 アイシアは涙目になりながらそう言う。そんなアイシアを責められる者などこの場に一人もいなかった。「ま、アイシアさんだしな」と渉が言い、小恋が頷く。

「このくらいのミスは織り込み済みですよ。気にすることはありません」
「そう? そう言われると気も楽になるけど……」

 アイシアは申し訳なさそうに笑うと着衣の乱れを直した。そうして再び元の場所に戻る。

「それじゃあテイク2、いくわよ」

 杏の声に場が再び緊迫感をおびる。スタート、と杏が静かに呟いた。

「「お兄ちゃん!!」」

 再び二人の妹の声。義之の体がぴしりとかたまった。しかし、やはりそんな義之に構うことはなく二人の妹は義之の元に一気に駆け寄り、

「お兄ちゃん、会いたかったよ〜!」

 アイシアが思いっきり、義之に抱きついた。

「ちょっとアイシア、どいてよ。ボクがお兄ちゃんに抱きつこうと思っていたのに〜」
「へへ〜ん。早い者勝ちなのです。わー、お兄ちゃんのぬくもりだ〜♪」

 不満そうなさくらを横目にすりすり、とアイシアは義之の胸でほおずりをする。この後は義之が演技をする番だ。そうなのだが……。

「…………」

 かたまった体は義之の意思に反して動いてくれなかった。沈黙。どうしたんだよ、というムードがその場に広がる。当然だ。演技をするべき人間が動いていないのだから。

「カット」

 見かねた杏の声が教室に響き、撮影は一時中断された。

「どうしちゃったの、義之くん」
「次はお前の台詞だったろ?」

 ななかと渉が不思議そうに義之に問う。当然だ。今の義之の行動はどう見ても不可解だ。

「そうよ、義之。ここは『アイシア……』ってアイシアさんの名前を慌て気味に言って振りほどこうとする場面じゃない」

 台本片手に監督の杏にもダメだしをされる。茜がからかうように「なに〜、アイシアさんに抱きつかれちゃって忘れちゃったの?」と笑った。

「あはは。義之くん。あたしに抱きつかれて演技を忘れる程嬉しかった?」

 いまだ義之に抱きついたままのアイシアもそう言って笑う。「そういうアイシアはいつまで義之くんに抱きついてるのさ」とさくらがアイシアを一睨みした。

「撮影は中断したんだから離れなよ」
「えー」
「えー、じゃないの。ほらほら」

 さくらにそう言われ渋々、といった様子でアイシアは義之のもとから離れた。

「それで結局、どうしたんですか兄さん。まさか本当にアイシアさんに抱きつかれて嬉しくなって演技を忘れた、ってわけじゃないでしょう?」

 まだ出番ではなく教室の外で撮影を見守っていた由夢も中に入ってきて義之にたずねる。

「当たらずとも遠からず……かもしれない」
「え?」

 義之の答えに由夢は意外そうに声をあげた。周囲の視線が自分に集まっていることを感じ義之は所在なく続けた。

「いや、な。アイシアとさくらさんが俺のこと、その、『お兄ちゃん』って呼んだだろ?」
「まさかそれが」

 由夢の言葉に「ああ」と頷く。

「二人に……特にさくらさんに『お兄ちゃん』なんて呼ばれると背筋がこそばゆくてな、体がかたまっちまったんだ」

 そう。そうなのだ。
 自分が二人の兄。そして、『お兄ちゃん』なんて呼ばれている。
 それは、やっぱりあり得ない。
 体が拒否反応を起こしてしまうのだ。
 その言葉を聞くと杏はため息を吐いた。

「困ったわね。義之がこの映画の中で何回『お兄ちゃん』って呼ばれると思ってるの? その度にいちいち、撮影を中断していたらいつまでたっても完成しないわ」
「いや、次はもう大丈夫……だと思う。さっきは初めてで慣れてなかったからで」

 とりなすように言う義之に、

「でも弟くん。家での練習の時には何回も『お兄ちゃん』って呼ばれてたじゃない? それで慣れなかったの?」
「いやぁ、家で単に読み合わせをするのと実際に演技するのではやっぱり違ってさ」

 義之はかぶりを振った。家での読み合わせの時に『お兄ちゃん』と呼ばれるのも結構、こたえるものでそれで自分としては慣れているつもりだったのだが、実際の撮影となるとやはり話は違った。
 お兄ちゃん。そう言って自分を慕ってくる二人の姿に体は硬直してしまった。

「にゃはは『お兄ちゃん』。いい加減慣れなよ。ボクはもうすっかりこの呼び方が馴染んじゃったよ?」
「そう言われましても……」

 さくらはからかうように『お兄ちゃん』と義之を呼ぶ。

「そうだよ、義之くん。呼び方が違ってもあたしたちがイチャイチャらぶらぶしてるのには違いがないじゃない」
「そうですね。園長先生とアイシアさんが義之に好き好きオーラ全開なのはいつもと変わらないですし」

 さくらの言葉にアイシア、杏がそう続く。義之はため息を吐いた。

「はぁー、わかってる。杏、リテイクだ。次はちゃんと演技できる……と思う」
「本当ね?」
「ああ」

 杏は義之の顔を見、少し思案すると、「それじゃあテイク3よ」と言った。

「みんな、準備して」
「わかった」
「義之〜、今度はとちらないでくれよ〜?」

 小恋をはじめとした面々は杏の言葉に頷き、渉がからかい半分真剣半分の声を義之にかける。

「まぁ、あたしは義之くんに抱きつけるなんて役得だから何回やってもいいんだけどね」

 そんな中でアイシアは楽しげに笑った。

「アイシアには悪いが次できっちりやって終わらせるさ」
「ええ、頼むわよ。義之」
「おうよ。アイシアも今度はドジらないでくれよ」

 今度こそは、との思いで義之は頷いた。なんてことはない。アイシアや杏の言う通り、アイシアとさくらさんの二人が自分に好意全開なのはいつものことではないか。ただちょっと呼び名と立場が変わるだけだ。

(その『ちょっと』が大きいんだけどな……っとこんな考え方してたらだめだな)

 また同じミスを繰り返してしまう。義之は必死で自分の頭に言い聞かせた。

(いつもと『ちょっと』違うだけだ……大丈夫、大丈夫……)

 そうこうしている間に撮影の準備が整う。皆、決められた場所に移動済みで義之も指定されたポジションについた。

「それじゃあ、テイク3、スタート」

 廊下の方へ引っ込んだ杏の声が響き、再び撮影が開始された。





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