プロローグ「前夜」
ひらり、はらり。
桜の花が、舞う。
そこは世界から切り離された場所だった。
日の光の届かぬ薄闇の中、開けた空間に桜の木が何本も、何本も立ち並んでいる。一際大きな桜の巨木を中心に、円環を描くように桜の木々が立ち並んでいる。どの木も枝木に薄紅色の花々を満開に咲き誇らせ、見るも荘厳な姿を薄闇に浮かび上がらせている。
空に太陽はなく、月もない。
にも関わらずこの空間はうっすらとした明かりに照らされ、先が見えないということはない。ところせましと植えられた桜の木々たちを、その美しい姿をじっくりと観賞することができる。
だからきっと、この場所は普通の場所ではないのだろう、と少年は思った。
人気、というものが存在しない、ただ桜の木だけが並ぶ空間に少年は立っていた。ここには少年以外誰もいない。
いつからここにいるのだろう、と少年は思う。ずっと前からいるような気もするし、ついさっき来たばかりのような気もする。ここでは時間の感覚がひどく曖昧で、また時間という概念自体、意味のないもののように思える。先程から脳裏をちらついて仕方がない違和感の正体を突き止めようとして、少年は気づいた。
――――俺は、誰だ?
少年は自分の名前を忘却していた。名前だけではない。少年は自分にまつわる全てのことを覚えていなかった。忘れてはいけない、大切なもの……だったような気がする。だけど、今の少年にはそれがない。
途端、自分の存在がひどく曖昧に少年には思えた。ここに存在しているのに存在していないような不可思議な感覚。自分という存在が世界から浮かび上がっているかのような寄る辺のない孤独感。
少年は再び視界を立ち並ぶ桜の木々に、舞い散る桜の花びらに移した。少年が何をしようとこの空間は変わらない。少年の一挙一動に意味はなく、少年が何を思おうと、何をしようと、ただ桜の花びらが舞うだけだ。そう思えば、自分という存在に意味はなく、自分という存在は何も生み出さない。ならばその存在は、存在していると言えるのか? ……言えないような気がした。
ああ、そうか、と少年は思う。俺は、存在していないんだ。
思考こそできるものの、その中身はからっぽ。何も記憶はなく、自分の名さえ思い出せない。やりたいことも、やるべきこともない、この身に課せられた使命などない。他人から何かを期待されることはなく、そもそもこの世界にはその他人がいない。少年一人だけの世界。独りだけの世界。そんな世界で自分にできることはただ、桜の花びらを、舞い散る薄紅色の花を見て、綺麗だ、と思うことだけだ。
綺麗だ。本当に、綺麗だ。
少年はこのままこの空間に埋もれてしまうのもいいか、と思った。だって、そうだろう? 自分という存在には何もない。自分という存在が、存在する意義なんて何もない。ただ舞い散る桜の花びらを綺麗だと思うことしかできない存在。ならばそんな存在はこの世界――――桜の花にあふれた世界の中に飲み込まれて、消えてなくなる方が自然だ。
その時、
―――― くん。
声が、聞こえた気がした。
誰かが何かを言った気がした。
それはとても……とてもとても大切な人が言った、とてもとても大切な言葉のように思えた。
そういえば、と少年は思い出す。自分には大切な人がいた気がする。共に未来を歩んでいこうと決めた、大切な、大切な人。そんな人が自分にはいた気がする。
―――― くん。
また、声。
その声が聞こえる度に少年は自分の中に何かが湧き上がってくるような感覚にとらわれた。声がする度に自分が自分になっていく。自分という存在が明確になっていく。そんなような気がする。
少年は顔を上げる。声のした、その方角へ、視線を向ける。
そこには――――、

なかなか寝付けない夜だった。
桜内義之はベッドの中に入ってから何度目かの寝返りを打つと共に息を吐いた。枕元に置かれた時計に目を向ければ時刻は午前2時を示している。午前2時、草木も眠る丑三つ時、すなわち、深夜だ。
品行方正とは到底言えない生活を送っている義之にとってこの程度の時間まで起きていることは別段、珍しいことではないのだが、今夜は夜更かしをするつもりはなかった。日課になっているエルニーニョ絵梨奈のラジオ『明日の目覚まし予報』を聞きながら部屋の電気を落としたので、床についたのは午前0時。なので、それから2時間もの間、悶々と寝返りを打ち続けていたことになる。早々に寝ようと思っていて、ここまで寝付けないのは珍しいことだった。
時計の秒針が時を刻む音が耳に届く度に早く眠らないと、と思う。明日はクリパ2日目だ。遅刻などするわけにはいかない。しかし、そう思えば思うほど、その目は冴えてきて、どんどん意識もハッキリしてくる。
遠足前の小学生じゃあるまいし、と自嘲めいたことを思うが、気分はまさしくそれだった。明日のクリパを目前にして胸の中がばくばくと騒いでいる。
いや、それは正確ではない。クリパだけなら、こんなに落ち着かない気分になったりはしないだろう。その理由は――――。
(よっと)
そこまで考えたところで、義之はベッドから上半身を起こした。逸る気持ちをムリヤリに抑えて眠ろうとしても寝付けそうにない。なら、水でも飲んできて、気分を冷やそう。
そう思うや否や、ベッドから下り、静かに部屋の扉を開いた。
冬場の深夜。部屋から一歩、外に踏み出せば、家屋全体を覆っている寒気が肌身を襲う。
上着を羽織ってくればよかった、と少しだけ後悔しながら冷たい階段を足早に駆け下り、一階に降り立った義之はそこで思わず足を止めた。
(あれ?)
この時間帯。階段も廊下も夜の闇に包まれている。シン、として肌身を凍えさせる暗闇に覆われた芳乃家の一階。しかし、その中にあって一筋の光がうっすらと廊下の木目を浮かび上がらせていた。それが階段や玄関口に備え付けられた電灯ではなく、どこかの部屋からもれているのだということは光の当たり方を見ればすぐにわかる。光のもとをたどって義之が視線を動かすと、光は1階の奥にある冬用の居間から漏れ出してきていた。閉ざされたふすまとふすまの隙間から電気の光がこちらに差し込んでいる。
これは――。義之は少し考え込んだ後、当の居間に向かってゆっくりと歩き、そのふすまの前に立った。
そうして、一気にふすまを開く。
「やっぱりか……」
その中にあったのは、義之が思い浮かべたとおりの光景だった。
芳乃家の冬用の居間。その中心に置かれたコタツに体を預け、すやすや、と穏やかな寝息をたてている一人の女性の姿が目に入る。普段はツーサイドアップにしてまとめられている金髪も今はすべておろされ、昼用の黒いリボンとは異なる青いリボンがその尾先を纏めている。立ってみても義之の胸元までしかない小柄な体躯を、寝間着で包みその上にちゃんちゃんこを羽織った彼女は。
「さくらさん」
義之はそばまで寄ると机に突っ伏されている彼女の上半身を揺すぶった。体を揺さぶされるたびに彼女の唇の隙間から吐息以上言葉未満の声がもれるが、なかなか起きる気配がない。
「さくらさん、起きてください。こんなところで寝ていたら風邪を引きますよ」
ふと机の上を見れば『大岡裁き 黎明編』と書かれたディスクがずらりと10巻は並んでいた。全てレンタル屋のマーク付きだ。夜更かしをしての時代劇観賞、といったところか。義之は苦笑すると、もう一度、さくらの背中をゆすった。
「う、うにゃあ……?」
再び唇の隙間からもれる声。しかし、今度はその中に意志のようなものを感じ取ることができた。この声は無意識に発されたものではない。たしかな自我の元に発した声。案の定、それからたいした間もなく、かたく閉じられていたまぶたはうっすらと開き、その中に隠れていた宝玉のような碧い色の瞳があらわになる。まだ夢心地なのか、焦点のあってない目。
「……義之くん?」
その目が義之の目とあうと共に吐息のような声が発せられる。ようやく起きてくれた。義之は一息つきたい気分で「はい」と答えた。
あとはもう義之の助けは必要なかった。さくらは数回まばたきをすると、むくりと上半身を机からはがす。その勢いのまま、後ろに仰向けに倒れこんだときはまた眠るつもりか、と義之はあわてたもののそういうこともなく、さくらは再び体を起こすと義之を見た。
「ふあ……おはよ、もう朝……? すっごく早かったね……」
小さなあくびをしながらの言葉に義之は肩をすくめた。
「なに言ってるんですか。まだまだ夜ですよ」
言いながら義之は時計を示す。さくらはまだぼーっとしているのか、「え?」と不思議そうにつぶやいたが義之の指し示した先を見て、ああ、と納得したような声をもらした。
「そっか。ボク、眠っちゃったんだ」
その言葉と共に初めて碧い瞳に明瞭な意思の光が灯る。ようやく現状を把握したようだった。
「こんなところで寝ちゃって……何をやっていたんですか?」
問いかけというよりも確認の意味合いが大きい義之の言葉にさくらはにっこりと口許を綻ばせると、
「見ての通りだよ♪」
なぜか、やたらと上機嫌に机の上に並べられた時代劇のディスクを示す。その機嫌の良さを不思議に思いつつも義之は、はぁ、とため息をついた。
「夜更かしをして時代劇を見ていたら、そのままコタツで眠りこんでしまった、と」
「にゃはは……」
義之の指摘をさくらは乾いた笑いで誤魔化す。夜更かしも、そのままコタツで眠ってしまうことも褒められたことではない。しかし、姿形は子供のようでもさくらはれっきとした大人だ。自分で責任を持てるのなら、それは問題はないのだろう。ないのだろうが。
「明日は学校があるのに、いいんですか? こんなに夜更かしして」
家族として義之は苦言を言った。
こんな時間まで眠れないでいる自分に人のことをとやかく言う権利はないのだがそのことは今は脇に置いておくとする。義之の言葉にさくらは「ねむれなかったんだよ」と唇を尖らせた。
「ボクだって、今晩は早いうちに寝ようと思ったんだよ? でも、なんだか眠れなくて。それでちょっと時代劇でも見ようかなーって思ったんだ」
「まぁ……気持ちはわかります」
早めに寝ようと思って、こんな時間まで眠れないでいるのは自分も同じだ。義之がさくらの言葉にうなずくと、さくらは「でしょ?」と嬉しげに頷いた。
「明日はクリパですしね」
お祭り大好き風見学園の冬の祭典であるクリスマスパーティー。明日はその中でも一番盛り上がるといわれている2日目だ。楽しみに思ってしまうのも無理はない。それに。
「うん! だって、明日は義之くんと一緒にクリパを回れるんだよ? それを考えると楽しみで、楽しみで!」
さくらの言葉に義之は一瞬、かたまった。そう、そうなのだ。
明日のクリパ2日目。義之は目の前にいる人、自分の保護者である人、芳乃さくらと共に、クリパを見て回る約束をしている。どういった因果か。どうしてこうなってしまったのか。今でもよくわからない。何かの冗談か夢ではないかとすら思う。しかし、当の本人にこう言われている以上、これは現実で事実なのだろう。
「義之くんも楽しみだよね?」
ふにゃりと目の前で緩んだ笑顔。その笑顔を前にすれば、照れが義之の全身を痺れさせる。思わず沈黙しかけてしまった舌を鼓舞して義之は精一杯の照れ隠しを言った。
「……眠れなくなる程、楽しみにすることでもないと思いますが」
なんて言い様だ、と思った。しかし、さくらは嫌そうな顔をすることもなく少し首を傾げただけだった。
「そうかなー? ボクにとってはそんなことはないよ。最近、忙しかったからあんまりこういう機会もなかったじゃない」
「それは、まぁ、そうですけど……」
「だから、義之くんとのんびりお話できて、しかも、一緒に遊べるなんてすごくハッピーなことだよ♪」
そう言って、さくらは溢れんばかりの笑顔を浮かべてみせる。
義之は頭を掻いた。何事も思ったことをストレートに言い表すのが芳乃さくらという人間だ。それはわかっているが、自分のことでこうも真っ直ぐに喜びをあらわされてしまってはやはり、照れ臭い。
いや、わかっているからこそ照れ臭いのだ。彼女の言葉に嘘はない、とわかっているからこそ。
本当は義之も嬉しかった。こうして、夜眠れないくらいには楽しみでたまらない。明日のクリパをこれ以上ないくらいに心待ちにしている自分がいる。
だけど、自分は彼女ほど素直ではない。その喜びを認め、ましてやそれをストレートに外にあらわすなんてことはとてもできない。だから。
「ま、そういうもんでしょうか」
相変わらず、口から出た言葉は本心とは真逆の拗ねたようなものになってしまった。
「そういうもんだよ。楽しみだね、義之くん♪」
そんな義之の気持ちを知ってか、知らずか。さくらは相変わらず天真爛漫に微笑む。
その純真な笑顔を前にしては捻くれている自分がどうしようもなく下らないものに思えてくる。相変わらず気恥ずかしい思いは抱いたまま、しかし、先ほどと比べると幾分か素直な言葉が義之の口をついて出た。
「え、ええ……俺も楽しみです」
「うん♪」
さくらは満足気に頷く。明日のクリスマスパーティーを彼女と一緒に過ごす。それは、楽しみだ、と。素直にそう思えた。
やっぱりこの人にはかなわないな。義之が感心の念を抱きかけた時、
「あ! そうだ! ねぇねぇ、義之くん。せっかくだし今からボクと一緒に『大岡裁き』見ていかない?」
机の上に放り出されていたリモコンを手にしながらさくらがそんなことを言って微笑みかけてきて、義之はがっくりと肩を落とした。
「今、何時だと思ってるんですか……」
「え~っ、ちょっとぐらい、いいじゃない。眠れないんだし」
「さっき思いっきりここで寝ていたじゃないですか」
すねるような上目遣い。しかし、それに騙されはしない。
「まぁ……俺はいいんですけどね。さくらさんが明日寝坊しちゃったり、風邪をひいてしまったりしてクリパ2日目に参加できなくても」
ちょっと意地悪な口調で義之がそういうとさくらは参った、というようにしょんぼりとこうべをたらした。
「は~い……わかりましたー。明日のために早寝します」
もう早寝とは到底いえない時間なんだけどな。と義之は思ったが、口には出さず「そうしてください」とうなずく。
最後にさくらは名残惜しむようにちらり、とテレビを見た後、義之を見る。そうして、穏やかな笑みを浮かべた。
「それじゃあ、義之くん。おやすみなさい」
この微笑みを見ていると不思議と心が落ち着く。なんとなく、これで今夜は眠れそうだと義之は思いながら、
「はい。おやすみなさい……さくらさん」
そう挨拶を返す。さくらは満足げにうなずくと、腰までおろした金髪を揺らして、居間を後にしていった。
そうして一人、残されれば居間から物音は消え、ただ時計の秒針の動く音だけが静寂の中にこだまする。義之は誰に向けることもなく「ふう」と一息つくと、もう誰も利用者のいなくなったコタツに体を沈ませた。
さくらの対して早く寝るようにと言った手前、自分もすぐに戻ってベッドに入るのが筋なのだろうが、少しだけ考えを落ち着かせたかった。コタツに足を差し込むと同時にムッとした熱気があふれてくる。どうやら、電源はつけっぱなしになっていたようだ。これは自分が気付かなければ朝、ひどいことになっていたな、とゾッとする。
(さくらさんとクリパ、か……)
コタツの外のひんやりとした寒さと少し熱すぎるコタツの中の両極端な気温に挟まれながら、明日への思いをめぐらせる。思考を埋め尽くすのは当然、さくらが口にしたこと。自分と彼女は、明日――――2人で一緒にクリパを回る約束をしている。
どういった因果だか。なぜ、こうなったのか。自分でもいまだ半信半疑ではあるのだが。
(どうしてこうなったんだっけか)
今でも信じられない。その約束事について、ちょっと暑すぎるコタツの熱に浮かされた頭で義之は記憶を呼び起こそうとした。