第一話 12月23日(木)「クリパ開幕!」



 体育館が震えていた。
 勿論、実際に震えているわけではない。しかし、体育館に集められた全校の生徒たちの熱気がそう錯覚させる。今日という日に備えて、体育館の内装はすっかりクリスマス仕様になっており、随所がイルミネーションで飾り立てられている。
 普段と様変わりした体育館は今日からはじまる祭典に対する生徒たちの期待感から沸き上がる熱気に包まれており、その中にいれば誰であれ否が応にもクリスマスのお祭り気分を煽り立てられる。今日という日を迎え、元々身の内にあった熱は周囲の熱気に感化されさらにその熱さを増し、温度の上がった熱は身からこぼれ、それがまた別の人間の熱を増大させる。生徒から生徒へ伝染しどんどんその熱さを増していく熱気は体育館全体を脈動させていると錯覚させるに充分すぎるものだ。
 今日は12月23日。待ちに待ったクリスマスパーティーの初日であり、開会式が行われる日だった。

「――ということで本日の14時からクリスマスパーティーが開催されます」

 壇上に立つ学園長・芳乃さくらの開会の言葉兼注意事項がマイクを介して体育館中に響き渡る。

「パーティーには一般のお客さんなど学園外からの来訪者も多数訪れます。なので風見学園の学生として恥ずかしくない行動をするように心がけてください」

 こういう通達があるとますます場はクリパだ、という雰囲気を帯びてくる。期待感にざわついた雰囲気の中にあって、義之は自分自身の気持ちも高ぶることを感じた。

「おい、義之。お前、今日のクリパはどうすんだ?」

 そんな中で前に立っていた渉が声をかけてくる。

「どうするって、きっとSSPで大忙しだぞ?」

 目を離しておけばさぼりかねない悪友に釘を刺す意味も込めて、義之は言った。
 そんな義之の思惑を知ってか、知らずか渉はけらけらと笑う。

「そりゃ、わかってるって。でも休憩時間があるだろ? その貴重な休憩時間をどう使うか、ってことよ」

 目配せしてくる悪友を前にそういうことか、と義之はその言葉に込められた意図を察した。しかし、貴重な休憩時間とはいうものの……。

「特に予定はないなー」

 別段、誰と一緒にクリパを見て回るとかそういう約束はしていない。
 だいたい、どのくらいの時間をもらえるのかもわからない休憩時間をあてにして予定をたてることもできない。そんな義之の素っ気ない態度に渉は「馬鹿か! お前は!」と声をあらげた。

「せっかくの彼女ができるチャンスなんだぞ、今日、頑張らなくって、いつ頑張るってんだ!」

 拳を握りしめての気合いの入った言葉。そう言われても、義之としては彼ほど恋愛に対して積極的な姿勢は持ち合わせていない。

「ま……お前はいいよな〜」
「何がだよ」
「ラブルジョワだから余裕ってことなんだろ」

 渉が横目で言う。誰がラブルジョワだ。『ラブルジョワ』というのはこの男が作った造語で、義之としては不本意だが、義之自身のことを指しているらしい。彼の言うところによると周りに女性が常にいるから、ラブルジョワ、ということだ。
 しかし、周りに女性がいるといっても朝倉姉妹やさくらは家族のようなものだし、雪月花の3人も友人の仲だ。彼が言うような関係ではない。

「別に余裕ってことはないけど。ってかその創造名詞はやめろ……」

 勿論、恋愛事に関して完全に興味がない、ということはない。しかし、今回のクリパでどうこうということは考えもつかない。今日のところは初日ということもあり、おそらくはSSPでへとへとになるまで働いて、その後は家に帰るだけだろう。
 家……。

(そういえば)

 そう思った義之の脳裏に1人の女性の姿が浮かんだ。

(さくらさん、今日も帰って来られないのかな)

 イヴの日は仕事で帰るのは無理だ、と聞いている。しかし、今日はどうだろう?
 イヴの日にパーティーが無理なら今日にでも家でパーティーとしゃれ込むのもいいかもしれない。さくらさんは喜ぶだろうし、音姉も由夢も喜ぶだろう。無論、自分も嬉しい。やはり、家族で過ごす時間というものは大切にしたかった。
 義之がそう考えていると、渉は何故か薄ら笑いを浮かべて義之を見ていた。「ふ〜ん。お前の中には候補がいそうな感じだな」などと意味の分からないことを言う。

「候補って、なんのだよ」

 義之が訊ねると、間髪入れず「決まってんだろ、恋人候補だよ」との声が返ってきて「なっ!?」と思わす体が震え、声もひっくり返る。恋人候補? さくらさんが?
 ……馬鹿馬鹿しい。そんなことあるはずがないというのに。

「バ〜カ。そんなんじゃないって」
「へぇ、真剣そうな顔してたからてっきり誰かのこと考えてるのかと思ったよ」

 目配せしてみせる渉を見て、案外鋭いヤツだ、と思う。たしかに誰かのことを考えてはいた。しかし、ただ自分は家族のことを考えていただけだ。恋人候補、なんて言葉とは全くの無縁の。

「ったく」

 義之が少しだけ不機嫌そうに息をはくも、渉は相変わらずのんきな笑みを浮かべ続けていた。その脳天気さが少しだけ羨ましくもある。
 そんなやりとりをしているうちに開会式は閉会の言葉を迎えていた。式の最中も生徒たちのおしゃべりがなかったわけではないが、閉会の言葉が終わると堰を切ったように一気にあちこちが騒がしくなる。談笑はさらなる熱気を体育館内に立ち上らせ、まるで体育館内におさまりきらなくなった熱気がその出所を求めるかのように生徒たちは一斉に外に向かって歩き出した。「義之ー、これからどうするよ」と出口を指す渉に対し、義之は「ああ、ちょっと用事」と言うと先に行ってくれ、と身振りで示した。渉から離れて、出口へ向かう生徒たちの流れを逆走し、前へと向かう。そうして、職員たちが立ち並ぶ場所に一際小柄な影を見かけ、「さくらさん」と声をかけた。彼女はとくに驚いた様子もなく、義之の声に振り向いた。

「ああ、義之くん。ちゃんと開会式に参加したんだね」
「さすがの俺も開会式をさぼるほど不真面目じゃありませんって……」

 えらい、えらい、と笑うさくらに対し、義之はため息をはいた。

「それで、何かな? ごめんね。今ちょっと忙しいんだ」

 困ったように言うさくらに対し、義之は「すぐに済みます」と前置きすると、

「今晩なんですけどね、家に帰って来られますか? 明日は無理っていう話は聞いていましたけど……」
「今晩?」

 目を丸くしたさくらに、うなずく。そんな義之にさくらは笑みを浮かべると「うん。大丈夫、今日は多分、家に帰れると思う」と言った。

「本当ですか」

 思わず喜びの声をあげてしまった義之だが、「といっても……」と少しだけさくらの語気が弱まる。

「結構、遅い時間になっちゃうと思うんだ。だから、パーティーとかはちょっと」
「ああ、そうですか……」

 自分がパーティーなんてどうだろう、と考えていたことはこの長年の付き合いのある保護者には見透かされていたようだ。
 残念だとは思う。が、それも仕方がないことだ。仕事で遅くなるのはしょうがないし、家族同然とはいえ、隣家の朝倉姉妹はいつまでもこっちの家にいるわけにもいかない。あまりに遅すぎる時間にパーティーというわけにはいかないだろう。
 それでも。

「まぁ、帰ってこれるだけでも」

 それだけで喜ぶべきことだろう。
 義之は気を取り直すと、さくらに笑顔を見せた。「お夜食とか、用意しておきますね」と言うと、さくらも満面の笑顔になる。

「うん♪ 楽しみにしてるね」

 その時、様子というかタイミングを伺っていた風だった職員の1人がさくらに何事かを話しかける。それを聞くと、さくらはうなずき、そして、義之に向き直った。

「ごめん義之くん。ボク、そろそろ」
「はい、わかりました。時間を取らせてしまってすみません」
「それじゃ、また後でね♪」

 さくらは脳天気な笑みを浮かべると、手を振って、どこかへと消えていく。義之はそれを見送ると、体育館の出口に向かって方向転換をした。



 教室、いや、いまとなってはその呼称を用いてもいいものかと疑問が残る。完全にSSPの会場と化したその場所。円形椅子を多く有した巨大なカウンターを中心として、その後ろにテーブル席が並ぶ。壁は全面的に赤系統のカーテンで覆い尽くされ、部屋全体が朱色を帯びている。
 なんともいかがわしい……いや、幻想的な雰囲気だ。
 これが義之たちのクラス、付属3年3組の今年のクリパでの催し物、SSPの会場だった。
 SSP、正式名称はセクシー・寿司・パーティ。そのいかがわしい響きに負けず劣らず、内容もぶっ飛んだもので女子がパジャマ姿になり、お寿司を握り、お客に出すというものだ。パジャマ姿の女子が生の手で寿司を握る、という点が最大のセールスポイントであるらしく、これに惹かれない男児はいない、とは渉の弁。
 問題点なんて探せば山ほど出てくる。健全な学生が運営するには明らかに問題のある催し物だが、この企画が通って、準備までこうして完了してしまった今となってはこれで押し切るしかない。
 時計の時刻は14時を目前に示している。14時から始まるクリパ。開店直前といったところだ。そこに控えたクラスの面々の顔には緊張感と微かな期待感があった。

「いよいよね……」

 委員長、沢井麻耶が言う。その服装は打ち合わせ通りにパジャマだ。
 麻耶だけではない女子は全員パジャマ姿だ。杏が着ているぶかぶかのシャツ――本人の弁によるとこれがいつもの寝間着らしい――なども中にはあったが、おおむね普通のパジャマを着ている。普通とはいえ、パジャマだ。男子達は普段通り学ラン姿だというのに、女子達はパジャマ姿。そのギャップが生み出す異質さ。教室内は普通ではない異質な空気をまとった空間と化しており、女子達が普段見慣れない格好をしていることに男子達は大なり小なりの差はあれど浮つき気味だ。義之としてもなんだかとても不謹慎なことをしているような気分になる。いや、実際、不謹慎なのかもしれないが。

「外の様子はどう?」

 麻耶に言われ、義之はそっとカーテンを開けて部屋の外を伺った。前評判が高かったのか、廊下には数え切れないばかりの人の数。「おお、並んでる、並んでる」と思わず声がもれた。ほとんどが男性客だが、中には物珍しさ目当てが女性客の姿も見えた。

「すごいな……」

 正直、これほどとは思わなかった。
 表向きには喫茶店ということになっている以上、おおっぴらな宣伝などはできなかったため、口コミや杉並が発行している非公式新聞などを介して、裏のルートで宣言をしていたのだが、これほどとは。
 その杉並だが、当然のように姿はない。おおかた、裏でSSP以上の表沙汰にできないようなことをやっているのだろう。姿の見えない悪友の謀略に巻き添えを食らわされなければいいけど、と懸念していると、「列の整理はお願いね」と杏の声が耳朶を打ち、ハッと思考が目の前のこと、SSPのことに引き戻される。

「ああ。ローテ通り、最初は俺と渉だな」

 義之が確認すると杏は頷いた。「へっ、まかせとけってんだ!」と渉が気負いのない気楽な顔で笑う。その様子を見るにとりあえず頼りにして良さそうだと義之は判断した。

「頼んだわよ。あまり待ちの客が多くて捌ききれないならすぐに言って。援軍を出すから」

 杏は2人を見て、満足げにうなずくと、麻耶の方を向いた。

「じゃ、開店するわよ。委員長。号令、よろしく」

 麻耶に宛てた杏の声が響くと、待機していたクラスメイトたちも一斉に彼女に注目する。急に話をふられたからか、麻耶はきょとんと目を丸くした。「わ、私? ご、号令って何よ?」とあたふたと困惑の声をもらす。

「やっぱ、こういうのは委員長が適任でしょ」
「で、でも……なんて言ったらいいのか……」
「セクシー寿司パーティー、ファイト、オー……とかでいいんじゃない?」

 杏の出した助け船にも麻耶は「そ、それって恥ずかしくない?」と渋い顔をした。

「今更……パジャマ姿で接客する時点で十分恥ずかしいでしょ? はやくしないとお客が待ってる」

 そう言われてもまだ麻耶には踏ん切りがつかないようだった。そんな麻耶を見かねてか、茜が声をあげる。

「じゃあじゃあ! 私が言っちゃってもいい?」
「ど、どうぞ」

 これこそ真の助け船だった。
 一も二もなく、麻耶はうなずき、茜はすぅ……と大きく息を吸う。

「セクシー寿司パーティー! ファイッオーーーー!!」

 彼女の声にあわせて、クラスが一丸となり声をあげる。そこには奇妙な結束感があり、心地よさを義之は感じた。丁度、時計の時刻が14時を指す。2055年度、風見学園クリスマスパーティーの幕開けだ。

「義之、渉。扉を開けて。セクシー寿司パーティー……開店よ」

 にやり、と笑い杏が入り口の扉を示す。言われるまでもない。セクシー寿司パーティー。問題大ありの企画だが、ここまで来てしまったのだ。どうせなら、稼げるだけ稼いでやろう、楽しむだけ楽しんでやろう。それこそがお祭り好きな風見学園の学生の気風というものだ。

「おう!」
「合点承知!」

 義之と渉は互いに笑みを交わしあうと、入り口のところまで行き、扉を開く。途端、今か、今かと待ち構えていた観客たちが一斉に室内になだれ込む。SSPの開幕だった。



「いらっしゃい、いらっしゃい! 風見学園名物、セクシー寿司パーティーはこちらですよ〜」

 女子がパジャマ姿で接客、というのはやはり相当な武器となるようだった。勿論、学園行事で寿司屋という物珍しさも手伝ったのだろう。
 最初からお客は多い方だったが、やはり口コミが次々に客を呼ぶのか、時間がたつにつれてその数はどんどん増えていった。
 お客の入りぶりだけを見るなら、SSPは盛況といって差し支えないにぎわいっぷりだった。
 常に席は満席。外には順番待ちの列。
 接客役の女子たちも、ほぼフル動員体制で対応しているのだが、それでもとても手が足りないほどだった。

「桜内くん。交代だ」
「ん? もうそんな時間?」

 外で列整理をしていた義之は同じクラスの男子、ヤマダに声をかけられ、そして時計を確認してハッとした。時刻は午後3時半。
 あまりの忙しさに実感がなかったが、開店から1時間以上も働き詰めていたことになる。
 そう思えば、体に染みついた疲れが痛みとなって筋肉をきしませた。

「そっか、じゃあ少し休ませてもらおうかな。渉は?」

 義之が声をかけると列の最後尾の方でひらひらと手が振られるのが見えた。

「俺はもうちょい大丈夫だぜ。義之ー、先に休んでてくれ」
「大丈夫か?」

 渉も義之と同様に開店から働き詰めだ。不安に思ってたずねてみるが渉はどうってことはない、と言うようにけらけら、と笑う。「なぁに、あとちょっとは持つさ。俺もすぐに休むよ」と渉は列の隙間から同様にしてもう一度手を振ると、そのまま列整理に戻っていった。普段はさぼるだなんだといっておいても有事には真面目にになるその悪友の義理堅さに感謝しつつ、「んじゃ、悪いな、先に休むわ」と声を残し、義之は休息を取るため教室の中に入った。
 一般客用の入り口から入ってみて圧倒される。SSPの会場は人々の喧騒で埋め尽くされていて、どこの席も埋まってしまっていて、あいてる席などなかった。これだけ人が多くなってしまっては集団客同士であっても、相席当たり前だ。
 スタッフ用の区画を通り、カウンターの中に入る。

「義之、お疲れ様」

 同じように小休止というところだったのか、杏がスタッフの休憩用にもうけられた座席の1つから声をかけてきた。「どうよ、具合は」と、挨拶代わりに義之も訊ねる。もっとも、この店内の様子を見るにそれは聞くまでもないことだが。

「見ての通り、大盛況よ。正直、ここまでお客が来るとは思ってもなかったわ」
「だよな〜。ってかお前ら、大丈夫か?」

 自分たち裏方組も疲れたが、接客をしたり寿司を握る彼女たちの疲れはその比ではないだろう。
 義之の言葉に、杏は相変わらず変化に乏しい表情で微笑んだ。

「ええ。ちゃんと交代で休憩取ってるから、今みたいにね」
「それなら、いいんだが……」
「あ、杏ちゃん。次、お願い〜」

 茜の声が聞こえると共に、杏は席から立ち上がっていた。

「じゃ、ちょっと行ってくるわ。ポットにお茶があるから、適当に飲んどいて」
「おっけ〜。頑張ってな」
「ええ。義之もしばらく休憩だから、クリパを見て回ったりしてもいいのよ」

 杏はそれだけ言うとカウンターの前に立ち、再び寿司を握り始めた。
 彼女は以前の麻耶の寿司の握り方講座に参加していない。しかし、本人の弁によると他の女子たちの握り方を完全に記憶して、その動作をトレースすることで寿司を握っているらしい。
 信じがたいことだ。しかし、杏の記憶力の良さは――雪村式暗記術、と本人は自称している――普通の人間と比べ群を抜いている。だからこそ、そんな人間離れした芸当も可能なのだろう。
 義之は深々と腰をおろすと、息を吐いた。

「見て回ったりしてもいいって言われてもな」

 クラスの皆がせわしなく働いている中、そういう気にもなれない。勿論、みんなが常に働いているわけではない。ローテーションで休憩を取っており、その休憩時間のうちに他の出し物を見て回ったりしている者も大勢いるのだろうが。
 ぎし、と椅子にもたれかかる。休憩の間、ここでくつろぐだけにしておこうか。そう思った、時だった。「た、た、大変だ〜〜〜〜!」と声。派手な音をたてて、扉が開く。見れば、渉が血相を変えて教室に入ってきたところだった。

「渉?」
「どうしたのよ、騒がしいわね」

 カウンターのところにいた杏と麻耶が真っ先に反応する。遅れて義之も休憩場所から外に出た。慌てふためいた様子の渉を前に「なんだ、まさか生徒会に見つかったんじゃ……」と訊ねる義之の声にも真剣味が帯びる。生徒会の視察が入る。それは絶対に避けなくてはならないことだ。しかし、渉は首を横に振った。

「いや、そういうわけじゃあない……ないんだが……」

 それでもその顔は危機感の一色。生徒会の視察よりもおそろしいことでもあったというのだろうか。「と、とにかく、来てくれ!」と渉は言うと、再び、部屋の外に出た。どうしたものか、と義之は杏と麻耶と顔を見合わせる。

「どうするよ?」
「あの様子……冗談ってわけじゃなさそうね」

 杏は人差し指を顎に当てて、思慮の顔になる。真剣そうなその顔を見ながら義之は「俺、ちょっと見てくるよ」と言い、入ってきた時と同様にスタッフ用の通路を通って、カウンターの外側に出る。杏もまたそれに続いた。

「私も行くわ。なんだか、嫌な予感がするし……。委員長、茜。ちょっと、任せるわね」

 杏の言葉に麻耶と茜はうなずいた。2人ともいまひとつ何が起こっているのかわからない風だったが、ただならぬ事態ということは察したようだった。

「って、杏。お前その格好で外に出るのか?」
「あ、そっか。ちょっと待ってて」

 杏はハッとしたような顔になる。彼女はSSPの衣装のままだ。もし外にいるのが生徒会のメンバーかそれに準じる立場の人間だったとしたら、誤魔化しがきかなくなる。

「どうすんだ? 制服は休憩室の方だろ?」

 女子たちの制服は彼女らが着替えるための休憩室に置かれている。そして、そちらの部屋に行くには一端、教室の外に出て廊下を通らなければならない。しかし、義之の問いかけに「大丈夫」と杏は平気な顔で頷いた。

「急な事態に備えるために私の制服はこっちの部屋に持って来ておいたの」

 そう言って杏はカウンターのさらに奥、カーテンが張り巡らされた箇所を示す。そこは女子用の簡易の休憩室、と聞いていたが――成る程、あそこでなら着替えを見られることもない。

「私も着替えたらすぐに行くわ」
「わかった。んじゃ、先に出とくからな!」

 返事はなかった。しかし、異論はないだろう。そう判断して、義之は渉を追って、入り口から外へ出た。
 ……と。

「あ! 義之くん! やっほ〜〜」

 外に出たばかりの義之を脳天気な声が襲った。
 一瞬、義之は自分の耳を疑い、次に目を疑った。廊下には相変わらず長い行列。その、最後尾に。

「…………さ、さくら……さん」
「Hi♪ 義之くん。あっそびにきたよ〜〜」

 義之の保護者であり、この学園の長の姿があった。渉がなんともいえない顔で義之を手招きする。どーすんだよ、と。その顔に書いてあった。

「…………」

 義之も思わず、言葉を失う。
 生徒会のメンバーに来られたらどうしようと恐れていたら、学園の長がやってきたのだ。どう反応すればいいのか、まったくわからない。

「ここが義之くんたちのクラスのやってる催し物なんだよね?」
「…………ええ、まぁ」
「大盛況だね〜。すっごいな〜」

 さくらは純粋に行列の長さに驚き、感動しているようだった。
 そんな時、再び教室の扉が開き、杏が顔を出した。身にまとっているのはパジャマ――ではなく、普通の制服だ。

「お待たせ……あれ、園長先生」
「杏ちゃん、やっほ〜」

 さくらの姿を確認すると、杏は若干ながらも目を見開いた。しかし、それも一瞬。すぐにいつものポーカーフェイスに戻る。

「いらっしゃいませ、園長先生。私たちの拙い催しなどにわざわざ来てくれて恐縮至極です」
「そんなことないよ〜」

 どうする、と義之は杏に視線で問いかけた。しかし、杏は相変わらずのポーカーフェイスのままだ。「おい、杏」ともう一度、呼びかけると今度は反応があった。「大丈夫」と小声で囁きかけてくる。

「園長先生なら多分、大丈夫よ。私たちのことも大目に見てくれると思う」
「そりゃ、俺もそうだろうとは思うけどさ……」

 堅い人間かそうでないか、と聞かれたら、さくらは後者だ。SSPのことを知っても、おそらくは笑ってお咎めなしだろうと思う。しかし、それでも、仮にも学園長という立場の人間だ。どういう火種になるか、わかったものではない。

「どんなに時間がなくても義之くんのクラスの催し物だけは行っておこうって楽しみにしてたんだ〜♪」

 そんなこちらの思惑も知らずにさくらは無邪気に笑う。言葉に二心はなく本当に楽しみにしていたのだろう。この笑顔を追い返すというのはなんとも胸が痛い。
 杏はチラリ、とさくらの横顔を一瞥すると、

「園長先生、こちらへどうぞ」

 やたらと芝居がかった動作で彼女を手招いた。それは並んでいる客たちから外れる方向への手招きだ。
 適当な理屈で追い返す気か、と義之は思った。しかし、そうではないようだった。

「順番待ちは結構です。案内します」
「うにゃ? 順番抜かしするのは悪いよ」
「いえ、園長先生はVIPですから……」

 杏はそう言って、前へと誘導する。前へ、前へ。教室の入り口よりも前へ。杏の意図がさっぱりわからず、義之は渉と顔を見合わせた。

「どういうつもりだ……?」
「さぁ? とにかく、義之。さくら先生のことはお前と杏に任せていいのか?」
「あ、ああ……」

 正直、自分も杏の思惑はわからないのだが、渉の言葉に義之はうなずいた。

「じゃあ、桜内くん。ここは僕たちに任せて」

 ヤマダの言葉に後押しされ、義之は杏とさくらの後を追った。3年3組の教室の隣の教室。そこで杏は立ち止まった。
 義之がついてきていることを確認すると、再び杏は義之の側に寄り、何やらを耳打つ。

「……実はもう1部屋借りておいたのよ」
「へ? マジか?」
「ええ」

 こんな使い方をすることになるとは思わなかったけど、と杏は苦笑いに近い笑みを浮かべる。
 SSPの会場用の部屋。そして、女子達が着替えるための部屋。その2部屋を借りているということは知っていたが、もう1部屋というのは全く聞かされていない。

「VIPルームってことにしておきましょう。義之。園長先生の接客、任せていいわよね?」
「あ、ああ……」
「ね〜、この部屋でいいのかな?」

 そんなひそひそ話を気にとめた様子もなく、さくらは微笑む。

「……で結局、義之くんのクラスは何をやってるのかな?」

 悪戯っぽい微笑み。義之はその笑みになんだか全てを看破されているような錯覚を抱いたが、気のせいだろう、と思うことにした。
 さて、どう答えたものか。ここまで来てしまっているのだ喫茶店という嘘をつくのも無理がある。しかし、セクシー寿司パーティー、とそのまま真実を告げるわけにもいかない。

「……お寿司屋さんです」

 迷った挙げ句、義之はそれだけを告げた。喫茶店と嘘をつくわけでもないが、『どんな』お寿司屋さんかを告げたわけでもない。中途半端な折衷。

「お寿司? 変わってるね♪」
「あはは……」

 しかし、さくらは疑う様子もなくそう言って笑った。そんなさくらに杏が、「こちら、VIPルームになります。園長先生には我がクラスの誇る最高峰の料理人、桜内義之が専属でお寿司を披露します」と大仰に言い放つ。いつ、俺は最高峰の料理人になったんだよ。そんな突っ込みが喉元からこみ上げてきたが、声にはせず飲み込んだ。
 杏の言葉を聞くとさくらの表情がいつにもまして輝いた。

「やった〜! 義之くんがボクにお寿司を握ってくれるんだね♪ しかも、専属。うれしいな〜」
「はい。園長先生は先に中でお待ちください。すぐに具材を運びますから」
「うん!」

 さくらはロングヘアを揺らしてうなずくと、VIPルーム……とされた教室の中に消えた。その後姿が見えなくなったのを確認し、杏は「……大丈夫。元々、使う予定だったから、カウンターとか椅子とか調理器具はそろってるわ」と義之に囁いた。

「任せたわよ」
「けど俺は……」
「委員長からお寿司の握り方、レクチャーしてもらったんでしょ?」
「ど、どこからそれを」
「小恋と茜に聞いたわ」

 したり、と言ってのける。たしかに自分は委員長からお寿司の握り方を教わった。だが、それは準備中に時間があいたからというものと今後、家で寿司パーティーなんかやってもいいかな、と好奇心からの軽い気持ちで教わったもので他の女子達と比べると充分にレクチャーを受けたとは言い難い。「教わったっても他の女子と比べるとちょっとしか……」ともらすも、「充分よ」と杏は言う。

「園長先生の相手は任せたから」

 反論も許されそうにない調子でそれだけを言うと、杏はさっさと元の教室へと戻って行ってしまった。「まさか……こんなことになるとはなぁ」とひとりごちる。まさかSSPで寿司を握らされることになるとは思ってもいなかった。それも。

「さくらさん相手だなんて……」

 軽く肩をすくめる。自分に彼女の相手が務まるのか? 自分ごときが握るお寿司で彼女を満足させることはできるのだろうか? 不安も懸念も尽きない。しかし、ぼやいていてもしかたがない。義之はそう自分を納得させると、VIPルームの扉に手をかけた。



「わ〜、思ったより本格的だね」

 VIPルームの中でさくらは声をあげる。
 このVIPルーム。義之は今の今まで存在自体を知らなかったのだが、驚くべきことに十分な機材がそろっていた。カウンター席しかないものの、十分に寿司屋と言い張れるだけのものがある。
 どういう用途で使うつもりだったのか、興味はつきないが……。

「それじゃ、ご注文をどうぞ」

 今は、目の前のこの小さなお客を相手にすることが先決だ。
 両手をしっかり水で洗うと義之はカウンターの前に座るさくらに向かって声をかけた。

「トロ! タマゴ! え〜っと、あとはタコ!」
「そんなに一気に無理ですって! 素人なんですよ!?」
「頑張れ♪」

 満面の笑顔。しかし、世の中には頑張ってもどうにもならないこともある。

「トロだけでいいですよね? まずは」

 義之は隣の教室から運び込まれていた酢飯を手に取り、それを握りにかかる。練習はした、といっても1回2回やそこらでサマになるわけもない。拙い手つきで、シャリの形も乱れる。

「はい。トロ一丁です」
「わーい!」

 それは、本職の寿司屋のものとは天と地……なんて言葉すらおこがましいくらいに不格好な物だった。しかし、さくらは満面の笑みを浮かべて喜びを表現する。「いっただきまーす」と楽しげな声をあげるとお箸を手に取り、それを口に運ぶ。

「うん! すっごく美味しい♪」
「自分で言うのも何ですが、たいして出来はよくないと思いますが……」
「ううん。そんなことないよ」

 義之の言葉にさくらは首を振る。そして、片割れだけになった残りのトロを指し示した。
得意顔で「これはね、義之くんが、ボクのことを思って、握ってくれたお寿司なんだよね?」と訊かれ、「まぁ、そうなりますね」と義之は頷いた。未熟者ではあるが、彼女のためを思って握ったということは事実だ。
 なら、とさくらはやはり満面の笑顔で続ける。

「それだけでボクにとってはどんな高級なお寿司より価値があるものなんだよ♪」

 満面の微笑み。それはその言葉がお世辞でもなんでもなく、義之がさくらのためを思って握ったお寿司。そこに込められた思いがあれば味や多少の見栄えの悪さなんて全く問題にならない程、大切なものを秘めているのだと本心からそう思っての言葉だということを物語っていて、少し、照れくさくなり義之は「そいつはどうも……」とぶっきらぼうに返す。さくらは残りのトロに手をつけたところだった。

「……あ、タマゴできました。次はタコですね」
「ありがと〜」

 タマゴ、タコと続けて差し出す。
 さくらはやはりそれらも笑顔で、美味しそうに食べていく。
 自分の作った物を食べて、そんな顔をしてもらえれば、悪い気分になる人間はいない。自然と義之の口許にも笑みがこぼれた。

「いっぱい練習したんでしょ?」

 追加注文のマグロを口にしながらのさくらの言葉に義之は苦笑い混じりで首を横にふった。

「あはは……実はあんまりなんですよね」
「そう?」
「時間がなかったもんですから」

 口に出す言葉は嘘だ。そもそも自分は握ることは本来予定になかったことだ。女子たちが寿司を握る練習をしている現場に行き、好奇心から委員長に教えてもらえるように頼んだが、それも数回だけ。それなりに満足のいく形のが握れると同時に部屋から追い出されてしまった。そんな練習不足にも程がある拙い手さばきで今、握ってみて、下手くそなりにも握ったものがなんとか寿司の体制を保てているのは奇跡的と言えた。

「お茶お願いしまーす」
「はいはい」

 VIPの注文に応えて、お椀にお茶を注ぐ。淹れられたお茶を持ちながら、さくらはふと思い出したように「そういえば、義之くん」と言った。無邪気な笑みを浮かべたまま無邪気な声音で「ここって、セクシー寿司パーティーって名前らしいね」と衝撃の言葉を発する。
 義之は握りかけたシャリを取りこぼしそうになった。

「ど、どこで……それを」
「さっき。順番待ちをしていた人たちが話してたよ」
「そ、そうですか……」

 背筋が凍り付く。聞かれてしまった。知られてしまった。義之は冷や汗がにじみそうになるのを必死でこらえた。
 そんな義之の気を知らず、さくらは相変わらずのんきにお寿司を堪能している。「セクシーってことはただのお寿司屋さんじゃないんだよね?」とニヤニヤ笑いで問いかけてくる。非常に答えに困る質問だった。

「セクシーって、どんなことをするの? 義之くんが脱いだりするの?」
「俺はそんなことしませんから! 女子がパジャマで接客するだけですって!」

 つい叫んでしまった直後、義之はハッとした。目の前にあるのは悪戯っぽい微笑み。

「…………」
「あ、いや、その……聞いちゃいました?」
「うん♪」

 しっかりと、と言いさくらはうなずく。

「ふ〜ん。女の子がパジャマでねぇ〜。それはちょっと問題だねぇ〜。だから、ボクを普通の部屋に入れなかったわけだ」
「べ、別に脱いだりとかはないですよ! 普通にパジャマ着てるだけです」
「脱いだりしなくても、ねぇ」

 言葉の割にあまり真剣そうな口調ではなかったが、その後、うーん、とさくらは考え込む。

「ちゃんと生徒会の……ってか音姫ちゃんとまゆきちゃんの許可は取ったのかな」
「そ、それは……」

 今度は少しだけ真剣そうな声。義之は言葉につまった。
 取っているわけがない。セクシー寿司パーティーなんて名目であの2人から許可が下りるはずはない。

「……生徒会には、喫茶店ってことで申請しておきました」

 消え入りそうな声で義之は言った。まるで悪事を母親に見つけられた子供のような気分だった。
 どう反応が返ってくるか、と戦々恐々する。長年の付き合いだからさくらの性格はわかっている。おそらく、彼女としてはパジャマ姿で接客くらい、笑って流せる内容なのだと思う。しかし、問題なのは彼女の立場だ。
 さくらは義之のおびえるような視線を受けて、

「ま、クリパだし。これくらいのおふざけは許容範囲内だよね♪」

 にっこりと微笑んだ。
 その言葉に義之は胸をなで下ろす。

「そ、そうですかっ、よかった……」
「うん! あ、でも、隠してるってことはやっぱり生徒会の人たちに知られたりしたらまずいかな?」
「え、ええ……そりゃあ。こんなこと言うのもなんですけど、できればセクシー寿司パーティーのことはさくらさんの胸の中にだけ納めておいてくれるとありがたいです」

 義之の提案にさくらはうなずきかけ、しかし、途中でその顔が悪戯っぽく歪んだ。

「義之くーん。エビ1つおねがーい」
「へ? は、はい」

 答えもなく、急な注文。
 義之はワンテンポ遅れてから返事をすると、慌ててエビを握った。
 その皿をさくらの前に差し出すと、何故かさくらから代わりとばかりにお箸を手渡される。

「なんですか?」

 その意味が理解できず、箸を手に取り訊ねてみる。

「なんですか、って? そんなの決まってるでしょ」
「決まってるって言われても」

 いったい、なんなのか。
 こちらに差し出された箸とさくらの前に置かれた皿、そしてさくらの顔を交互に眺める。彼女の瞳は何かを期待するように見開かれていて……。
 まさか。

「……もしかして」
「そのまさかだよ♪」

 さくらの口が大きく開いて、そして、閉じる。

「食・べ・さ・せ・て」

 なんとなく、予想はできていた。できていたが。

「……なんでですか」
「なんでって、勿論、ボクが義之くんに『あーん』をやってほしいからだけど」
「………………」

 なんら悪びれないその顔に辟易する。
 どうすればいいんだ? たしかに普段から自分は何かと彼女の世話を焼いているが、だからといって、食事を食べさせてあげる、なんてことはやった覚えがないし、さすがにそれは恥ずかしい。
 義之が頭をかかえていると。

「別に嫌ならやらなくてもいいんだよ」

 と、さくらは少し不機嫌そうに唇を尖らせた。
 その不機嫌そうな表情が義之には救いの女神の顔に思える。彼女には悪いが、やはり避けられるものなら避けたかった。
 喜びかけた義之だったが、その気勢をそぐように、さくらはニヤリ、と笑った。

「ただし、その場合は音姫ちゃんに告げ口しちゃうけどね。ここのこと♪」
「う……」
「さ、義之くん。君はどっちを選ぶのかなぁ?」

 そういうことか、と思った。普段なら絶対に自分が拒否するであろうことを急に要求したのは、弱みを握ったからだったのだ。
 いつもと変わらないさくらの笑顔。だけど、今回だけはそれが何か黒い笑顔に思えてならなかった。

「…………」

 仕方がない。クラスの、ためだ。
 今、ここでこの要求を拒否することは簡単だが、そうすれば10数分後には3年3組の教室には生徒会のメンバーが踏み込んでくる。そうなればSSPは、終わりだ。
 義之は覚悟を決めた。
 受け取ったお箸でエビをつかむと醤油皿につけ、さくらの口元に運ぶ。しかし、さくらは唇を動かそうとはしなかった。

「…………」
「義之くん。無言じゃボクどうすればいいのか、わからないよ?」
「く……」

 あーん、って言って。碧い瞳がそう語っていた。「その……口を開けて、ください」と義之は渋々声を出したが、「それじゃあ、わからないなー」とさくらは意地の悪い笑みを浮かべる。

「……あーん、してください」
「うにゃ、硬いよ〜」

 羞恥心を堪えて言った言葉。しかし、これでもだめのようだった。

(…………)

 仕方がない。本当に覚悟を決めよう。自分の手で握った箸に支えられながら、行き場なく中空で静止しているエビを見ながら、義之は内心に言い聞かせると、再び口を開いた。

「…………はい、あ〜ん」
「もっと、元気良く!」
「……あ〜ん」
「にゃは、あともう一声!」
「あーん!」

 もうやぶれかぶれだ。そんな思いで言い放った義之の言葉にさくらは満足げな微笑みを浮かべると、そのやわらかそうな唇を開いた。そして小さな顎をこちらに差し出してくる。

「あ〜ん♪」

 その様はまるで、親鳥に餌をもらう雛のようであった。義之が唇と唇の隙間にゆっくりとエビを入れると、顎が上下に小さく動いて、次いで、喉がごくん、と震えた。

「もぐもぐ……えへへ〜、これ、前から1回、やってもらいたかったんだ〜」

 気恥ずかしさを感じる義之を余所に、さくらはニッコリとして笑う。

「ね、義之くん、もう1回!」
「…………」
「あ〜ん♪」

 再び口を開けて、ねだるさくら。義之はため息をつきながらも、「はい……どうぞ……あーん」と言い、残った方のエビを差し出した。それも飲み込み、さくらは頬をふにゃりと緩ませる。

「にゃはは、おいしーい♪」

 屈託のない笑顔。この状況を心の底から楽しんでいるんだな、と気恥ずかしさに濡れる胸中で義之は思った。

「それじゃあ、次はマグロで」

 再び煌々と輝く碧い瞳が義之を促す。エビだけやれば終わり、と思っていただけに「ええー」と思わず義之は抗議の声をあげてしまった。

「うにゅ〜、嫌なら別にいいんだよ。でも、その場合は生徒会に……」
「……わかりました、わかりましたよ! マグロでいいんですね!?」

 再び悪戯っぽい笑みを浮かべたさくらの声をかき消すように義之が悲鳴のような声をあげる。
 この弱みを握られている以上、自分に選択肢などあるはずもなかった。言われた通りマグロを握ると、それをお箸で掴み再度、さくらの方へと差し出す。

「……はい、あーん」
「あ〜〜ん♪」

 げんなりする義之に対して、さくらの方は終始、笑顔だった。



「ごちそうさまでした〜」

 SSP会場の前、夕焼けの差し込む廊下の中。沈み行く太陽の光に照らされて金色の髪が茜色を帯びる。
 さくらの満面の笑顔に義之は頭をさげた。

「いえ、お粗末様でした」
「すっごく、美味しかったよ♪ さすがは義之くんだね」
「あはは……」

 頭を掻く。
 自分ではそうたいしたものを握れたとは思わないが、それでも、こう言ってくれるのはありがたかった。

「義之くんはこれから休憩だったりするのかな?」
「え、ええっと……」

 何気なく出たさくらの言葉。その問いに対する答えは、わからない。
 彼女がSSPに訪れる前の自分は休憩に入る直前だったのはたしかだ。しかし、そこで彼女がやって来て自分が接客をすることになってしまい、自分の休憩はうやむやになってしまった。
 答えを探すように義之は頭を右へ左へと動かした、とその時。

「あ、小恋」

 着替え用の教室から出てきた幼馴染に義之は声をかけた。休憩時間だったのだろうか。小恋はパジャマ姿ではなく、普通の制服姿だ。

「義之? あ、芳乃先生……」
「小恋ちゃん、やっほ〜」

 さくらが手を振ると、小恋は恐縮したようにびくり、と体を震わせ、慌てて頭を下げた。そんな幼馴染みに義之は質問を投げかける。

「な、小恋。俺ってこれから休憩ってことでいいのかな」
「え? ……ああ、うん。杏と委員長が言ってたよ。芳乃先生の応対が終わったら休憩に入っていいって」
「へぇ、そうなんだ」

 小恋の言葉に返事をしたのは、何故かさくらだった。

「小恋ちゃんもこれから休憩?」
「は、はい……」

 さくらの言葉に小恋はいちいち、ガチガチに肩を強張らせて反応する。そこまで緊張しなくてもいいと義之は思うが、さくらを前にした時の小恋は何故かいつもこんな感じだった。

「じゃ、義之くんは小恋ちゃんと一緒にクリパを回るんだね♪」

 にやりとしたさくらの笑顔。義之は小恋と同時に声を上げた。

「え!?」
「は!?」
「にゃはは、隠さなくてもいいよ。それじゃ、邪魔者はどっかに行くので、2人仲良くデートしてね〜」

 手をひらひらと振って、踵を返そうとするさくら。その背中に義之は声をかけた。

「デ、デートなんて……そ、そんなことはないですよ! なあ、小恋?」
「へ? あ、う、うん……じゃなくて、はい。わたしたち別にそんな約束は……」

 焦り故か、しどろもどろになってしまった2人の言葉にさくらは足を止める。

「あれ? 違うの?」

、ゆっくりとこちらを振り向いたさくらは呆気に取られたような表情をしていた。心底意外だ、というような声に「違いますよ」と義之が再度、否定する。

「……あ、それじゃあ、音姫ちゃんか由夢ちゃんと約束してるんだね」

 呆気に取られたような表情は、しかし、すぐに引っ込み、再び楽しげな笑みを浮かべる。
 そうに違いない、とでも言いたげな自信に溢れた口ぶり。しかし、残念ながら、その質問に対する答えもまたノーだ。

「いえ、そういうわけでもないですけど」

 義之はため息をつきたい思いで首を振った。全く、この保護者は。何故、いつも発想がそういう方向に向くのだろう。

「別に約束なんかないですって。そりゃ、1人で適当にあちこち冷やかして回ろうかとは思ってますけど」

 義之のその答えにもさくらは意外そうな顔になる。

「勿体ないなぁ〜、せっかくのクリパなのに」

 渉みたいなことを言う。別にクリパだからって女子と一緒に回らなければいけないという決まりはないだろう。

「……そっか、ひとりで……」

 そう言った後、さくらは少しだけ小首をかしげる。その仕草が何かを言おうか、言わないでおこうか。そんなことを迷っているように見えたのは、夕焼けの光がもたらした錯覚だろうか?

「……あのね、義之くん」

 しばらくの間の末にさくらはゆっくりと口を開いた。

「ボクももうちょっとクリパを見て回ろうと思うんだ」
「はい」

 碧い瞳が真っ直ぐに義之を見る。

「それでね……義之くんさえよかったら、ボクと一緒にクリパを回らない?」
「え?」

 それは意外な誘いだった。
 1人でクリパを回ろうとは思っていた。そして、1人なのもなんなので、誰か連れがいればいいかな、とも思っていた。
 だけど、彼女と一緒にクリパを回る、という発想は不思議と頭のどこにも存在していなかった。

「あ……」

 思わず言葉につまる。かけられた言葉があまりにも想定の外すぎて。
 そんな義之の様子にさくらは少しまぶたを伏せ、遠慮がちな微笑みを浮かべた。ちょっとだけ悲しげな表情。

「あ、うん。別にいやならいいんだよ。やっぱり――」
「いいですよ」

 そんな表情を見ていたくなくて、思わず、彼女の声を遮る。義之は微笑んだ。

「一緒に回りましょう。クリパ」

 その時のさくらの表情をどう形容していいのか、義之にはわからない。ぽかんとしたような、うれしそうな、おどろいているような。
 自分から誘っておいて、何故、そんな不思議な表情をしているのか。それも、わからなかった。
 しかし、そんな表情も刹那のこと。

「うん♪」

 すぐにさくらは満面の笑みを浮かべた。その笑顔に「それじゃ、これから……」と呼びかけた義之だったが、さくらは思い出したように時計を見て表情を曇らせた。

「って、うにゅ〜……もうこんな時間だ……」
「? どうしたんですか」
「う〜ん、まだもうちょっと余裕があると思ってたんだけどなぁ。SSPに長居しすぎちゃったかな……」

 笑顔が一転。みるみるうちに涙目に変わっていく。

「うう……ごめん、義之くん。もう仕事に戻らないといけない時間だった。今日のフリータイムは、もうおしまい……」

 そう言って、よよよ……、と芝居がかった動作で胸に手を当てる。義之は、はぁ、と相づちを打った。

「そうなんですか……それじゃあ仕方がないですね」
「うん。こっちから誘っておいてごめんね……」

 言いながらも、心底残念そうなさくらの顔。
 そんな彼女を見ているとフッと思いついたことがあった。

「あ、じゃあ」

 義之の言葉に床下に落としていたさくらの視線が上がる。

「明日はどうでしょう?」
「明日?」
「はい。今日が無理なら明日、一緒に回りませんか。クリパ」

 さくらは少し考える仕草を見せた。

「うーん、明日かぁ……。明日も見て回る時間くらいはある……かな? うーん、午前は無理だけど午後は……夜までの時間なら……」

 しかし、徐々にその瞳が喜色に染まっていく。
 さくらはニッコリと笑顔になると、向き直り、義之の瞳を一直線に見上げた。

「うん! それじゃ、明日、一緒に回ろう、クリパ♪」

 そう言って、ばんざいでもするように、嬉しげに体を揺らす。
 そんな彼女の姿を瞳の中にとらえながら、

「はい、さくらさん」

 義之もニッコリと笑みを浮かべた。


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