第二話 12月24日(金)「さくらさんとクリパ」




「ふあ〜あ……」

 義之はベッドから起き上がり、カーテンを開く。冬場の朝日が昇りきるにはまだ早く、外は闇が晴れきれず、薄明かりの中にある。あともう少しすれば完全に日も昇るだろう、と思いながら義之はあくびをした。両手を天井に突き上げての大仰なあくびだ。
 それで寝覚めの眠気はすべて吹き飛んでくれた。残り火のように体の中に滾る眠気はない。すっきりと気分が冴えている。爽やかな寝覚めだった。
 枕元の時計に視線を落とし、少し驚いた。現在の時刻は、午前6時前。日も昇りきらない訳だ。学園があることを考えても早い時間である。

「なかなか眠れなかったと思うんだけどなぁ」

 自嘲気味に笑う。
 昨夜はなかなか寝付くことができなかった。何度も寝返りを打って、何度も眠ろうと瞼を閉じて、水を飲みに1階まで降りていってさくらと会って少し話をして。戻ってきてからもなかなか寝付くことができず、このまま朝まで過ごす羽目になるのでは、とも思ったがそこは人間、うまくできているもので、結局、いつの間にか眠りの世界に落ちていたようだ。
 不思議なことに夜更かしの感触はなく、すっきりとした寝覚めを迎えられている。
 すっきり……。義之はそう考えてみて、その言葉に語弊があることに気づいた。すっきりしている、という割には妙に心音が大きい。それでいて嫌な気分はしない。これは。

(わくわくしてる……のか? 俺)

 そうに違いなかった。胸が騒いでいる。

「そんなにも楽しみなのかね、クリパ」

 自嘲めいた言葉は自分自身への問いかけ。だが、そこにもまた嘘がある。楽しみなのはクリパだけではない。クリパだけなら、こんなに胸が騒いだりはしない。おそらく、この胸の騒ぎの原因は――。

「さくらさんとクリパ、か」

 確認するように義之は呟いた。金色のロングヘアと碧い瞳を瞼の裏に思い浮かべる。
 芳乃さくら。自分の保護者である彼女と二人でクリパを回る。こんなこと何年ぶりだろう、と思う。自分がまだ幼かった頃は彼女に手をひかれてお祭りなどを一緒に回ったこともあったが、ここ最近は自分が大きくなったこととさくら自身の多忙さもあって、めっきりそんな機会はなかった。
 この歳になって、保護者のような人と一緒にクリパを見て回るということへの照れ臭さも勿論ある。だが、それ以上にこの貴重な機会を楽しみに思える気持ちの方が義之の中では大きかった。
 ――さて、どんな一日になることやら。義之はそう思いながら、着替えるためにクローゼットに手をのばした。



 一階に降り、洗面場で顔を洗い、居間に行くと既にさくらがいた。
 さくらも義之と同様、着替え終わっているようでいつもの私服姿で、コタツの中に入っている。彼女はすぐに義之に気付いたようでニッコリと花開くように笑顔を見せて、振り向く。

「義之くん、おはよ〜♪」
「おはようございます。さくらさん」

 義之もまた笑顔で応じた。

「早いですね」

 半分感心半分驚きを込めて言うと、さくらはにゃはは、と恥ずかしそうに目を伏せる。

「えへへ……楽しみで目が覚めちゃったんだよ」
「なるほど」
「胸がわくわくして、ついつい、ね。だって、今日は義之くんと一緒にクリパを回れるんだもん。自然とわくわくしちゃう、っていうか……」

 一呼吸置いて、さくらは続ける。

「わっくわくの、どっきどっきだよ♪」

 その笑顔はいつも通りのもの。見ているとなぜだか、安心する彼女の笑顔。

「そういう義之くんもずいぶんと早いじゃない?」

 にやり、とさくらは目を眇めて義之を見た。からかっているような視線に義之はどきりとして言葉につまる。どう答えようかと思ったものの、結局、この碧い瞳の前で嘘はつけず「……目が覚めちゃいまして」と苦笑いまじりに言った。

「どうして目が覚めちゃったのかな?」
「そりゃ、クリパですよ。風見学園の生徒が、クリパを楽しみじゃないわけがないじゃないですか」

 さくらは何がおかしいのかにやにやと笑みを浮かべると、なるほどなるほど〜、なんて呟く。

「義之くんはボクと一緒にクリパを回るのが楽しみで楽しみでたまらなかった〜、と」
「そ、そこまでは言ってないですよ」
「言ったよ〜」

 義之は思わず声を荒げたが、ただ笑い声が返ってくるだけだった。それに、そもそも否定できない。楽しみで、こうして目が覚めてしまったことは本当なのだから。
 だけど、それを認めることも、なんだか恥ずかしかったので、

「ま、俺はガキですから。特別なことがある日には、はしゃいじゃうんですよ」

 結局、こうひねくれた言葉で誤魔化すしかない。

「にゃはは。ボクだって、同じだよ」

 しかし、そんな屈折した態度を受け止めるさくらの表情は穏やかで、やさしかった。

「楽しいことがある日は気分がいい。ついついはしゃいじゃう。それって大人とか子供とか関係ないと思うけどな」
「そうでしょうか……」
「うん。きっと、根本的にそうなってるんだよ」

 人間っていうものはね、と静かに笑う。

「…………」

 かなわないなぁ、この人には。義之は息を吐いた。
 この人の前だとつまらない意地だとか虚勢だとか、張っている方がばかばかしくなってくる。そう目の前の人に感心と敬意の念を持った瞬間だった。

「だーかーら、ボクみたいな魅力溢れる女性と一緒にクリパを回れることに、義之くんみたいな年ごろの男児がわくわくどきどきしちゃうのは、仕方がないことなのです♪ にゃははっ」

 真面目そうな顔から一変し、破顔一笑。居間に響き渡る笑い声。「あはは……」と義之は肩の力が抜け落ちることを感じながら苦笑いした。

「そういえばね、義之くん。さっき天気予報でやってたんだけど、今日、雪が降るかも知れないんだって!」
「へぇ、雪、ですか」

 冬場に雪が降るということは初音島では珍しいことでもない。しかし、今日。12月24日。クリスマスイヴに雪が降るかもしれないというのはやはり喜ぶべきことだろう。

「もし降ったらホワイトクリスマスですね」

 義之が言うと、さくらは「うんうん!」と金髪を揺らして大仰にうなずく。聖夜に雪が降る。その特別性は認めつつも、そこまで少女趣味ではない義之としては、降ればいいなぁ程度にしか思わないのだが、年齢不詳の彼女にとってはやはり今日という日に雪が降るのと降らないのでは相当違うのだろう。

「降るといいね〜、雪」

 さくらの瞳は、期待にきらきらと輝いていた。
 そんな無垢な色の瞳をされてしまっては、自然と義之の方にも期待が伝染してしまう。義之はうなずいた。

「ええ。降ってほしいですね」

 その光景を思い浮かべてみる。クリパ2日目。イルミネーションで飾られた校舎に、訪れた大勢の人々。流れるジングルベルのメロディと、その上に降り注ぐ、純白の結晶。それは、きっと素敵な光景だろうな、と思った。

「それで義之くん。今日のことなんだけどね」

 義之がホワイトクリスマスの幻想に思いを馳せていたとき、思い出したようにさくらが言った。

「今日、ボク結構、早くに出ないといけないんだ。それで、合流なんだけど」
「俺の方の都合は気にしないでください。さくらさんにあわせますよ」
「うん。それじゃあね、放課後……そうだね、終業式が終わってしばらくした後、3時……うんにゃ、3時半くらいかな」

 3時半か。義之は少し考えた。
 それなら、丁度いい。その時刻ならSSPの方を一切手伝わずに抜け出す、ということはない。義理立てはできるだろう。

「わかりました。それじゃ、3時半に昇降口のところで落ち合いましょう」
「おっけ〜♪」

 確認をすると、義之はコタツから立ち上がった。
 彼女は今日は朝は早い、といった。ならば、早いうちに朝ご飯の準備をするべきだろう。

「朝ご飯、作りますけど、リクエスト、ありますか?」

 台所に向かいながらの義之の言葉にさくらは満面の笑みをたたえて、「じゃ、スクランブルエッグをお願いしまーす♪」と言うのだった。



 風見学園においてクリパ2日目とは2学期の終業式も兼ねている。
 長かった2学期が終わり、明日からは待ちに待った冬休み。そんな浮かれに浮かれた気分の時におとずれる聖夜の祭典の第2日目。当然、生徒たちの熱気も最高潮に達するというものだった。
 そんなわけでクリパの中で最も盛り上がる日が2日目である。
 義之たちのクラス、付属3年3組もその例にもれず、昨日以上の盛況っぷりに襲われていた。

「お客様、こちらへどうぞー!」
「はい。タマゴできました!」
「小恋ちゃん、次、カッパ巻きお願い!」

 応対をする女子たちの声はもはや悲鳴に近い。
 盛況なんて言葉の枠を超えた大盛況。そう多いとはいえない席数を巡って、文字通り客たちは寿司詰めになり、外の廊下では順番待ちの列がぐるりと並んでいる。
 表向きは喫茶店としている以上、表だってSSPとしての宣伝をすることはできず、集客は口コミによる噂に頼ることになるのだが、おそらくはその口コミが広まったのだろう。1日目の忙しなさなんてかわいく思えるくらいの大盛況っぷりだった。
 新しくきた客を列の最後尾に案内しながら、義之はなんともいえない気まずさに眉をしかめた。これだけ忙しい中で自分一人が抜け出すということへの気まずさだ。
 別段、無断で抜け出す、というわけではない。裁可は仰いである。
 昨日、さくらがSSPから退席した後に義之は杏と麻耶の2人と交渉し、今日のことについて概ね話はつけてある。ずばり、明日にまとまった自由時間をくれないか、という要求をしに行ったのだ。そのことに最初は渋った顔をしていた2人だったが、

「仕方がないわね、ま、今日は呼び込みから列整理、果ては園長先生の相手までしてくれてたんだし……。いいわ、明日は最初だけで後は自由時間にしてあげる」

 と、杏がオーケーのサインを出し、つられる形で麻耶も同意し、義之は今日の自由時間の獲得に成功していた。しかし。

(あんときはこんなに客が来るなんて……)

 誰も予想できなかったはずだ。
 客の勢いは昨日の比ではなく、その中で主力スタッフの1人である自分が抜けるのはいかがなものか。義之がそう思っていると、

「義之」

 不意に自分の名を呼ばれた。
 振り向けば、そこにいたのは杏。パジャマ姿のままで外に出てきたため周囲の視線が一斉に集まるが、彼女はまるで気にした風もなさそうだった。

「お疲れ様、そろそろあがってもいいわよ」
「いや、でもさぁ」

 義之は身振りで周囲の客たちを示した。

「大丈夫。代わりの男子ももう帰ってくるし。園長先生と約束してるんでしょう?」
「それは、そうだけど……」

 遠慮はいらないわ、と杏は相変わらずのポーカーフェイスで言う。洞察力というものとは無縁の身。彼女の真意は読み取れないが、不機嫌ではなさそうだった。

「こっちのことは気にせず、園長先生とクリパをエンジョイしてきなさい。……ただし、後でパフェの1つくらいはおごりなさいよ?」

 ニヤリ、と。ポーカーフェイスが崩れ、広がる不敵な笑み。
 義之は肩をすくめた。

「わかった。じゃ、後のことは任せるぜ?」
「ええ。じゃんじゃん稼いであげるから、安心しなさい」
「無茶はしないようにな」

 最後の言葉は挨拶ではなく、本当の懸念事項だ。なんとなとくだが、杏の瞳を見ていると何か、とてつもないことを企んでいるような気がしてならない。
 そんな義之の心配が伝わったのか、伝わらなかったのか、杏は再び笑みを浮かべる。

「それじゃ、任せた!」

 義之は片手をあげて、杏に感謝の意を示すと、そのまま廊下を駆けた。
 目指すは一路、さくらの待つであろう約束の場所、昇降口だ。
 義之が廊下を早足に駆けていると大勢の人間とすれ違った。風見学園の生徒が多いが、それ以外にも外部からのお客さんたちの姿も少なからずある。すれ違う人たちは例外なく楽しそうな顔をしていて、廊下を駆け抜けるだけでも祭の喧騒、祭の熱気を肌身で感じ取ることができ義之の気分を高揚させてくれた。

(これぞ、風見学園ってとこだな)

 義之はそんな学園の様子を微笑ましく思った。
 お祭り大好き、風見学園。今の状況はまさにその言葉の体現だ。
 そうして廊下を抜け、階段を降り、昇降口へ。下駄箱が立ち並ぶその一角に彼女はいた。
 目立つタイプか、目立たないタイプか。その二つで大別するのなら芳乃さくらという女性は間違いなく、前者だ。遠目にもわかる金色のロングヘアと海の色を映し出した宝石のような碧い瞳。そして。

「あ、義之くーん。おぉ〜〜い! こっちこっち〜〜! はろはろ〜!」

 このハイテンションぶり。目立たないわけがない。義之が彼女の姿をとらえた時、彼女もまたこちらに気づいたようで、ぶんぶん、と派手に手をふって、自分の存在を示す。
 当然、昇降口は無人という訳ではなく、周りの人間の視線が集まるのを感じ、義之は少し気恥ずかしい思いを味わいながらもそれを表には出さずさくらの前に立った。

「さくらさん。お待たせしました」
「ううん! ボクも今、来たところだよ」

 ツーサイドアップに纏めた金髪を揺らして、さくらは笑顔を見せる。
 小柄な体躯の隣に並び、義之もまた口もとをほころばせた。
 さくらさんとクリパ。祭の熱気に沸き立つ学園の中、こうして合流してみればそれまで予定として認識しておきながらもどこか現実味の沸かなかったことが一気に現実の出来事だという実感が伴ってくる。
 本当にこの人と一緒にクリパを回るんだなぁ。見るに見慣れた保護者の瞳を見ながらそんなことをぼんやりと思う。保護者のような女性、そして、自分の学園の長。そんな人と一緒にクリパを見て回る。気恥ずかしさは依然、義之の胸中で燻っている。しかし、それよりも、

「それじゃ、いきましょうか」
「うん♪」

 義之がそう頷きかけると、さくらは楽しげな声で頷く。
 気恥ずかしい。しかし、その感情を超えて、嬉しい、と思うココロがある。彼女はどう思っているんだろうか。そんなことを思いながら義之はちらり、とさくらの横顔を盗み見たが、そこにあったのはいつもの微笑みでその裏側を義之に見通すことはできなかった。
 けれど、ひとつだけわかったことがある。

(さくらさん……楽しそうだな)

 それだけは間違いのない事実だ。そして、自分と一緒にクリパを回るということに楽しいという感情を抱いてくれているのなら、それは悪いものでもない。
 そんな風に思いながら、義之はさくらの足取りにあわせて、昇降口の外へ向かって足を踏み出した。



 地上の喧騒は想像以上のものだった。
 クリパには風見学園の学生以外にも近隣の住民たちも参加している。特に地上……正門から昇降口へと続く道順には単純に入り口近くということもあるが、フランクフルト屋やクレープ屋といった模擬店の多くが並んでいることも加わって、特に人が多い。人混みに酔って歩くにはこのあたりが最適の道だ。

「みんな楽しんでるね〜」

 道行く人たちを見渡して、さくらはそう笑った。

「こうして生徒のみんなが楽しそうにしているところを見るとね。このお仕事をやっててよかった〜、って思うんだ」
「そうなんですか」

 満足そうに笑う彼女に対して相づちを打つ。

「うん! やっぱり教師にとっては生徒のみんなが笑顔でいてくれることが何よりのご褒美だからね。こうして、みんなが楽しんでくれてるのなら、みんなを笑顔にすることができたのなら、それが何よりも嬉しいんだよ」
「俺たちがこうやって騒げるのもさくらさんたちのおかげですからね」

 彼女だけではない、多くの教師たち、そして、クリパを取り纏めようと尽力する生徒会のメンバー。たくさんの人たちの助力があって、このお祭りは成り立っている。義之は頭の下がる思いだった。

「そうだよ〜、だから思いっきり楽しんでくれないと」

 そんな義之を見、さくらは笑う。

「ええ。言われなくてもそうさせてもらいますよ」

 義之もまた笑顔で応じた。自分たちが楽しむことで、お祭りに参加することで少しでもさくらさんが喜んでくれるのなら、さくらさんに感謝の思いを伝えることができるのなら、いくらでもそうする。最も、そんなことは関係無しに自分の性格上、お祭りを楽しむな、という方が無理な話なのだが。

「でも、さくらさんこそ、今日は楽しんでくださいよ。今はさくらさんもお祭りを楽しむ身分……運営者じゃなくて参加者の一人なんですから」
「にゃはは、そうだね、こんな機会はあんまりないんだから、思いっきり楽しまないとね♪ それじゃあ何からまわろっかなぁ」

 さくらは期待に輝く瞳であちこちを見渡す。そんな横顔を見ていると、ふと思いついたことがあった。

「そうだ、さくらさん。せっかくですし今日は俺がおごりますよ」

 義之の言を聞き、さくらは最初は「え?」という顔をしたが、すぐに、

「けど、そんなの悪いよ?」
「いえ、さくらさんには普段からお世話になってますからね、今日くらいは」

 そんな彼女を前に気にしないでください、と義之は笑ってみせた。最初のうちは遠慮をしていた風の彼女だったが、

「うーん。それじゃ、お願いしようかな♪」

 やがてニッコリと、笑みを浮かべて義之の提案をのんだ。

「いっぱい飲んじゃうぞ〜、食べちゃうぞ〜。義之くん、覚悟しといてね〜」
「あはは……」

 ほどほどにお願いしますね。義之はそう言って、頭をかいた。
 そんな折、さくらは声をあげる。

「あ!」

 がばっと金髪を揺らして、彼女が見た先。義之が彼女の視線を追うとそこには。

「綿菓子だ〜」

 一件のテントとその下で大仰な重低音を響かせて動く綿菓子機。彼女の言う通り、紛れもなく綿菓子屋だった。
 いつの時代も綿菓子といえばやはりお祭りの定番なのか、店の周りには多くのちびっこたちがわいわいと群がっている。

「よっしゆっきくーん、綿菓子食べようよ♪」

 はしゃぎ声と共に、そんなちびっこの中に飛び込んでいくさくら。子供ばかりの空間に足を踏み入れるというのは義之にとっては結構、勇気がいるものなのだが、さくらにとっては別段思うことはないのか、その仕草にはためらい、というものは一切ない。迷いのない機敏な動作だった。

「さくらさん! 待ってくださいよ」

 彼女は意外に軽快だ。小柄な体躯もあるのかもしれないが、急に飛び出されてしまってはその後を追うのは少し手間取る。人混みをかき分けて、子供たちの群れもかき分け、義之はようやくさくらに追いついた。

「いらっしゃいませ〜……って、学園長!?」

 綿菓子屋を運営しているのは勿論、学園の生徒だ。自分の学園の長の顔は誰でも知っている。
 目の前にあらわれた学園長に店員は驚き、声をあげたが、さくらは構わずに注文をした。

「おもいっきり、おっきいの2つ、お願いしま〜す♪」
「は、はい……少し、お待ちください」

 慌てた様子で綿菓子を作る店員。そのせいか、義之が大丈夫かな、と心配してしまうくらいに手元はおぼつかなかったが、いざ出来上がってみれば、ちゃんとした綿菓子ができていた。

(デカっ……)

 差し出されたそれには、さくらの要望かなってか、超特大サイズのものだった。その大きさの前では見ているだけで口の中に甘みが広がってくる。そんな錯覚を感じながら義之はサイフから硬貨を数枚取り出した。

「えっと、ふたつで400円、と」
「まいど〜」

 硬貨と交換で義之は店員から特大綿菓子を2つ受け取ると、その片方をさくらに手渡した。

「にゃはは。ありがとう、義之くん」

 周りのちびっこたちと同様に綿菓子を手にし、はしゃぐさくら。
 子供の中に違和感なくとけこんでいる自分の保護者の姿に、自然と義之の胸中に微笑ましい思いが浮かぶ。

(うーん、こうして見ると……)

 義之は金色の髪を見下ろした。子供たちと一緒に並んだ彼女の姿を見れば。やはり――。

(さくらさんって、ちっちゃい……)

 そんなことを思ってしまう。普段はこんなことは思わない。しかし、こうして、比較対象というものが側にあると、どうしても頭の中をよぎってしまうのだ。

(……って、何を考えてるんだ、俺は!)

 不意にぶんぶん、と首をふった義之にさくらは小首をかしげた。

「うにゃ? 義之くん。どーしたの?」
「あ、い、いえ。なんでもないです。はい」
「?」

 まったく。義之は自分自身に憤慨していた。

(さくらさんをそこいらのちびっこと同じに見るなんて……)

 彼女は数々の博士号を持ち、風見学園の学園長も務める才女だ。
 いくら背が低くて、少し性格に幼いところがあるとはいえ、子供と同列に扱うのは失礼すぎる。
 自分自身の非礼を恥じれば、自然と頭も下がる。

「変な義之くん♪」

 そんな義之を見て、さくらは相変わらず脳天気に笑うと、手にした綿菓子をひとかみした。

「はむはむ……うん! おいしい〜」

 先ほどの義之の奇妙な行動など口の中に広がる甘味の前に忘れたのか、頬を落とさんばかりの勢いで声をあげる。

「義之くんも食べてみなよ」
「は、はい……」

 碧の瞳の微笑みにうながされ、視線を手元に落とす。そして、ひとかみ。
 ふわりと、雲を噛むような実感の薄い食感と共に、うっすらとした甘みが口内に染み込んでくる。

「どう?」

 見上げてくる大きな瞳は、興味津々に輝いている。自分の綿菓子も彼女の綿菓子も味が違うはずはないというのに。

(…………)

 この底なしの好奇心。溢れんばかりの興味の渦。
 年頃の男子として一丁前に捻くれて、物事を斜めに見る自分にとってはそれがどこから来るのか、不思議だった。
 けれど、それを嫌に思う気持ちはない。
 義之は口許を綻ばせた。それが、綿菓子の甘みのせいか、それ以外のせいなのかは、わからない。

「ね、おいしい?」

 答えを促すようなさくらの言葉。
 義之がうなずいてみせると、彼女はさらに満面の笑顔になるのだった。



 その後も、義之はさくらと一緒に学園を見て回っていた。
 グランドに設置された特設ステージを使った音楽系の部活のライブや、漫才。射的など。食べ物屋以外の模擬店も多くあった。しかし、所詮は学生の考えたもの。準備期間も限られている。どこのお店も一般的な観点からみれば、極端に面白いということはない。
 しかし、お祭りというものは不思議なもので、義之はそれでも十二分に楽しめていた。さくらの方も同様のようで、思う存分に楽しんでいるように義之には見えた。
 自分たちは出し物そのものではなく、その場にいる人々の喧騒を楽しんでいる。祭りの熱をみんなで共有しているのだ。
 隣を行くさくらの満足そうな横顔を見ながら、義之はそう思った。

「次はどうします?」
「そうだねー」

 イルミネーションで飾り立てられた廊下を歩きながら、義之が問いかけると、さくらは人差し指をあごに当てた。

「うーん、今日も行こっかな。エス・エス・ピー!」
「……勘弁してください」
「にゃははっ、冗談だよ。義之くんはどこかに行きたいとことかないのかな?」

 義之が肩を落としたのを見て、さくらは楽しげに笑う。

「特にはないです」
「そっか。……そうだな〜、ちょっと喉がかわいちゃったかな?」
「飲み物ですか? それなら」

 そう言うと、義之はクリパのパンフレットを広げ、目を通した。探してみると、今いる場所から近い位置に一件の飲食店を見つけることができた。本校の1年がやっている喫茶店だ。

「喫茶店に行きますか」

 おっけ〜、とさくらはロングヘアを揺らし、賛同の意を表す。
 それを確認し、義之は歩き出した。
 喫茶店は階段を1階降ったところにあった。何の変哲もない、普通の喫茶店だ。趣向を凝らした様子は見当たらない。拍子抜けして思うところがなかったわけではないが、あちこち回った分、体には少し疲れがたまっており、普通なくらいが丁度いいか、と思い直した。
 その普通さのおかげで客足も多い、ということはなく、待つことなく席に座ることもできそうだった。

「いらっしゃいませ〜」

 店の中に入ると、見るからに不慣れ、といった様子のウェイターに頭を下げられる。学園祭のウェイターなので不慣れも当然なのだが。

「えー、2名様……でしょうか?」
「は〜い♪」

 元気よく返事をしたさくらに一瞬、喫茶店内の店員とお客の視線が集まる。学園長? 皆の目は、驚きをはらんでいたが、

(もう、慣れっこだな……)

 義之はひっそりと苦笑いした。クリパを一緒に回っているうちに、いつしかそういう反応にも慣れてしまっている自分がいた。

「えっと、こちらにどうぞ」

 ぎくしゃくとした動きに案内をされ、義之たちは窓際の席についた。それぞれ対面の席につく。

「ご注文をどうぞ」
「うーんと、ボクは……」
「えっと……」

 義之とさくらが共に紅茶を注文すると、ウェイターはやはりぎくしゃくとした動作でそれをメモし、その場を去った。

「わ〜、外のライブ、まだ盛り上がってるね〜」

 あからさまに慣れていないウェイターを他人事ながら心配しながら、その後ろ姿を見送っていると、さくらの声が聞こえ、義之は彼女の方に視線を向けた。
 さくらは席から身を乗り出して、階下を見ている。案内された席はどちらかといえば『いい席』といえるもので、窓に視線を向ければ、グラウンドの様子を一望することができた。
 義之がつられて、窓から外を見下ろすと、たしかに彼女の言うとおりのようだった。もう日が沈みかけてきて夕焼けの茜色が目にまぶしい時刻だというのに、観客の数は多く、遠目にもわかるくらいに盛り上がっている。

「祭りの熱気は冷めやらずって感じですね」
「だね〜」
「そういえば、体育館の方のミスコンがそろそろ終わる時間か……。そっちのお客が合流したのかも」
「ああ、なるほどね〜」

 納得したようにうなずくさくら。
 その横顔もまた、窓から差し込む夕焼けの色をおびている。

「ね、義之くん」

 黄昏に照らされたさくらの口許がふっと緩む。

「ボクはこの学園が大好きなんだ」

 窓からグラウンドを、学園を一望するその瞳もまたやさしげに緩んでいる。「ええ」と短い言葉を返すと義之もまた口許に微笑みを浮かべだ。

「知ってますよ……っていうか、さくらさんを見ていて、そう思わない人間はいませんって」
「そうかな?」

 この人は何を言っているのか。こちらに振り向きながらのさくらの声に、義之は呆れるような、微笑ましいような思いを抱いた。
 学園に泊まり込んでまで学園のために仕事をしたり、放課後には生徒たちの様子を見に正門に出てきたり。それだけ学園のことを、生徒たちのことを真摯に考えている。そして、今日のように学園と生徒たちが楽しげな色に覆われていると、そのことに溢れんばかりの喜びを示す。
 そんな姿を見せられて、そう思わない人間はこの学園にはいない。
 この人以上に風見学園が好きな人はいないだろう。さくらは「そっか」と言うと再び窓側に視線を向けた。

「クリパとか卒パとかの時の学園を見ると嬉しいんだ。学園が幸せで包まれてる。そういう光景を見ると……うん、あったかくなるんだよね。胸の中が」

 それは彼女らしい。照れも嘘も偽りもない、素直な言葉だった。そんな彼女のことを見ながら、あれ? と義之は思った。不思議と、碧い瞳から目を離せない。
 差し込む夕焼けを帯びた彼女の瞳。自分はそれに――――。

「…………」

 沈黙を気まずく思って、義之が何かをしゃべろうとした、その時だった。

「お、おまたせしましたっ」

 上擦った声が2人の間に入る。
 義之とさくらはほとんど同時にそれに気づき、声の方を向いた。
 見れば、先ほどのウェイターが2つのティーカップを運んできているところだった。しかし、やはりその足取りもどこかあやうい。
 義之が不安げに思った。その次の瞬間、

「うわっ!?」

 緊張のあまり足を滑らせたのか、カップを机に置こうとしたウェイターの手が揺れる。カップの内、片方が傾き、ふわり、と。浮き上がる。斜めに飛んだカップの先には目を丸くしたさくらの姿。

 ――ガチャン。

 硬質な音が教室に響く。幸いにもカップは割れていないようだった。だが、その中身は。

「……にゃっ!? あ、あっちちち〜〜!!!」

 ものの見事に、さくらの体に降り注いでしまっていた。愛用の白い私服がべっとりと紅茶色に染まる。

「さくらさん!」
「うにゃ〜……あついよ〜……」

 義之は慌てて席を立ち、さくらの側に駆け寄った。

「す、す、すみません!」

 ウェイターの男子生徒の言葉はほとんど叫び声に近い。他の店員たちも慌てて駆け寄ってくる。彼らの姿を一瞥して、誰も布の類を手に持っていないことに義之はすぐに気づいた。やはり、本職の喫茶店ではない。突然のハプニングに混乱しているのだ。
 仕方がない。
 義之はポケットに手を突っ込み、中をあさった。柔らかな布の手触りを指先で感じ、ホッとする。そのままハンカチを引っ張り出すと、

「ちょっと、失礼します」

 一言呟き、紅茶のかかった部位をハンカチでぬぐった。こんなこと応急処置にもならないが、それでもないよりはマシだ。

「大丈夫ですか?」

 茶色く変色したハンカチを一端、服から離し、訊ねるとさくらは困ったように笑みを浮かべていた。

「うん、服はべっとりしちゃったけどね……」

 彼女の言うように、服の生地にはたっぷりと紅茶が染み込んでしまっているが、火傷の類はなさそうに思えた。心配に思っていたことだったが、とりあえずは一安心だ。
 そうこうしているうちに店の別のスタッフが大きめのタオルをもってくる。

「早いとこ水で流さないと服、シミになっちゃうなぁ」

 茶色ずんださくらの衣服を見ながら、義之が何気なく呟くと、落ち着きがなさそうに、というよりも混乱気味にたたずんでいた先ほどのウェイターが慌てて頭を下げた。

「ほ、本当にすみません!」
「え? あ、いや、別にそういう意味じゃ……」
「うん。別に気にしなくてもいいよ」

 別段、学園祭での模擬店での出来事だ。ミスの1つ2つくらいはある意味当たり前のことだろう。義之としてもそれをそこまで責めるつもりはないし、さくらも気にしてはいないようだった。
 だが、ウェイターはとにかく自分のミスを責めているようだった。

「クリーニング代は出しますので……」
「ううん。そんなのいいよ」

 申し出をさくらが笑顔で制するも、ウェイターは「そういうわけには……」と首を振る。
 ウェイターは、気にされすぎて逆に恐縮してしまった義之とさくらを差し置いて、慌てた様子で悩み続けていた。

「なんかめちゃくちゃ気にしちゃってるみたいですね……」

 義之が呟くとさくらは苦笑いでうなずいた。

「にゃはは、そうみたいだね。これくらいどうってことないのに」
「けど、そのままにしておくってわけにはいかないでしょう」
「うーん。そうだね」

 さくらは紅茶の跡が残った服に視線を落とす。

「着替えの服がないと……」

 考え込むような言葉。それを聞いてウェイターが声をあげた。

「そうだ! 代わりの服を用意します!」

 その唐突な提案に「へ?」と義之とさくらの声が意図せず重なった。



 聞くところによるとあの男子生徒は手芸部の部員らしい。
 部室には女物の服も多くあるので代わりになる服があるはず、今日の間はそれを貸し出します、という言葉に義之とさくらは最初は遠慮をしたものの、結局、彼の熱意に押し切られる形で厚意に甘えることにした。

「それにしても遅いな……」

 遠くに聞こえる祭の喧騒を耳に義之は携帯で時間をたしかめた。窓から差し込む西陽はさらに赤みを増して廊下を照らしている。
 今、義之が背にしているのは手芸部が所有している部屋のうちの一つ。製作した衣装の保管やミスコンなどの際の更衣室として用いられている部屋だ。さくらがこの部屋の中に入ってから結構な時間が経っている。
 服の見立てをするためか件の男子生徒の他にも何人かの手芸部部員と共に中に入り、そして、どの服にするかは早々と決定したのかさくら以外の人間は早くに外に出てきた。なので今は部屋の中にいるのはさくら一人。代替に決めた服に着替えている最中だろう。
 女性の着替えは長いものだが、それにしても長すぎではないだろうか。義之が廊下の窓越しに沈みゆく西陽を追った、その時。

「おっまたせ〜♪」

 さくらの声が響いた。義之は遅かったですね、と返そうと頭を上げて、その言葉は言葉にならなかった。

「さ、くらさん……?」

 ――――純白、だった。
 純白のドレス。まるで結婚式で花嫁が着るような白亜の衣裳を身に纏って、さくらはそこに立っていた。
 金色のロングヘアと並んだ純白の色は美麗な調和を形成し、西陽の茜色に慣れた目に眩しく映る。半袖のドレスの肩口からは健康的な肌色をした彼女の二の腕があらわになり、そこから先は肘まである白亜の手袋。腰から下、足首まで覆い隠すロングスカートの随所には可愛らしいフリルが備え付けられている。
 どうしてドレス? 代わりの服を用意するにしてももう少し普通のものはなかったのか? そんな思いも何も、目の前にある美麗さ。今の彼女を前にしてしまっては声にならず霧消する。
 目の前にいるのは自分の保護者である女性。少しだけ子供っぽくて、でも、芯はやっぱり大人で。数多くの博士号も持っていて風見学園の学園長を務めている才女。自分にとっては大きすぎる存在。幼い頃、何もなかった自分に全てを与えてくれた人。でも、そんな事実も今は全て忘れて、義之は目を見開いて、眼前に立つ少女に見惚れた。

「にゃはは、どうかな。義之くん?」

 さくらはあっけらかんと気楽に笑う。その笑顔はやはり子供の頃から見慣れた彼女の微笑みで。
 ――やっぱり、さくらさんだ。その笑顔を前にして、義之は少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。

「さくらさん……すごいですね……それ……」
「えへへ……ボクもちょっと恥ずかしいって言ったんだけどね。せっかくの厚意だし。学園長にはこれが一番似合いますよーなんて言われちゃったから……」
「あはは……」

 そういえば、風見学園の手芸部とは自分たちの作ったドレスを女性に着て欲しいがためにミスコンを主催するような連中だ。このくらいのことは想定しておくべきだったのかもしれない。思い返せば、先だって外に出てきた手芸部員たちは妙に含みのある顔を――ふってわいた幸福を噛み締めているような顔していたような気もする。
 しかし、代わりの服を用意しますといってドレスを用意する方も用意する方だが、頷く方も頷く方だ。義之は半ば呆れ半ば感心の気分を味わっていると、さくらはどこか不満げな顔をこちらに向けていた。

「えーっと、あのさぁ、義之くん。他に何か言うことは?」
「え?」
「ないの?」

 なんだろう、と思っていると途端、さくらの表情が不機嫌そうになる。そうして、呆れるように、

「……このドレス、ボクに似合ってるかな?」

 その言葉に義之はハッとした。

「あ! す、すみません……」
「もう〜。デリカシーがないんだから。……それで、どうかな」

 さくらは少しだけ頬をふくらませ、しかし、それも一瞬。にっこりと満面の微笑みで義之を見る。似合っているのか。なんて考えるまでもないことだった。

「すごくよく似合ってますよ」
「本当に?」
「ええ。こう言ったら失礼かもしれませんが……」

 目の前に立つ純白のドレスを纏った彼女に対して率直な感想を話す。

「なんていうか、かわいい……です」

 言って後悔した。かわいいはないだろう、と。自分の保護者で目上の人である彼女に対してなんて言いようだ。だが、

「にゃははっ♪ そっか。かわいい、かぁ。うん! ありがとう、義之くん!」

 さくらは嬉しげに笑うとくるん、と体を一回転させた。ドレスの各所に備え付けられたフリルが揺れる。その姿はまるで、妖精のようで。『かわいい』という表現はやはり間違ってないな、と義之は思った。失礼なことにも勿論、違いはないのだが。

「それじゃ、義之くん。いこっか」

 そう言ってさくらが義之の隣に立つ。

「まだ時間はあるよ。あちこち見て回ろうよ」
「その格好で、ですか?」

 苦笑い交じりの義之の言葉に「そうだよ」とさくらは返す。何を当たり前のことをいってるの、とでも言いたげな態度で。

「ボクとのデートはまだ終わってないでしょ」

 デート。おそらくは冗談で紡がれたのであろうその単語が胸の中に波紋を起こすことを感じながら、義之は先を歩くさくらの、純白のドレス姿を追った。



「服を着替えると周りの景色まで違ってみえるね♪」

 さくらは白亜のドレスに身を包んだわが身を恥ずかしがることもなく、むしろ、堂々とさらしながら学園の中を闊歩していた。
 大勢の人でごったがえしているクリパにあってもさすがにドレス姿の人間はいない。彼女一人が明らかに人の群れの中で浮いている。制服姿の人間をはじめ、外部からのお客も学園祭ということで砕けた格好をしている人が大半の中、その姿は異常なまでに浮いてしまっている。
 そして、問題なのがその格好があまりに似合いすぎているということだ。こればかりはドレスを選んだ手芸部の人間の手腕をたたえるしかないのだが、純白の衣はまさにさくらのために作られたといってもおかしくないくらいに彼女の小さな体を飾り彩っている。長くのばした金色の髪とドレスの白のマッチングはそれこそ、どこぞの舞踏会から抜け出してきたお姫様といった気品を放っており、視界にその姿が入れば思わず視線を向けてしまう。通り過ぎる人すべてにいちいちぎょっとした視線を向けられ、当人はまるで気にした様子もなかったが、付き添っている義之も気にしないかといえばそんなはずはない。「やっぱりその姿で出歩くのはやめましょうよ」と義之は何度も言ったもののその申し出が通ることはなかった。

「そういうものでしょうか……」

 持つかな、自分の羞恥心。そんなことを思いながら、義之はげんなりとした声でさくらの言葉に応じた。

「うんっ。なんていうか雰囲気が一気に変わったような、そんな気分」
「雰囲気……ですか」

 仮にもし雰囲気が変わったのだとすれば、それはおそらくさくらさんのせいだ。と思った。単なる学園祭の空気をどこかの舞踏会にでも塗り替えるつもりですか、貴方は。

「あっ、義之くん! 次はこっちに行こうよ」

 そんな義之の気も知らずさくらはパンフレットを指差した。その時、「おーい!」と大きな声が廊下に反響した。義之がその声に顔をあげると、見覚えのある茶髪が視界に映り、思わず心臓がどきりとはねた。

「おう、義之! こんなところで奇遇だなぁ」

 けたたましく駆けてくる渉。その後ろには「ちょっと渉くん。待ってよ〜」などと言いながら追従する小恋の姿もある。やばい……。

「よ、よう。渉……小恋」

 冷や汗をかきながら返事をすると、どうしたの、とばかりにさくらが振り返る。そうして、フリルを揺らしながらドレス姿のままで義之の前に立つ。

「何してんだ〜……って!」

 義之の隣に立ったさくらの姿を見て、渉は硬直した。が、それも一瞬。

「うっひょお〜! さくら先生……そ、そ、その格好は!」

 すぐに鼻息あらく声を出す。そんな渉の様子を怪訝そうな目で見ていた小恋だったが、彼女もやや遅れてさくらの衣装に気づいたらしくぽかんと目を丸くする。見つかった。よりにもよってクラスメイトに見つかってしまった。

「えへへ……渉くんに小恋ちゃん。どうかな、この格好」

 頭蓋に響いた痛みに思わず義之がひたいを手でおさえるのにもかまわずさくらは意気揚々とドレス姿のわが身を二人に見せて笑いかける。「すんげえ似合ってますよ! さくら先生!」と間髪入れず渉が大声をあげた。

「……芳乃先生、もしかしてミスコンに参加したんですか?」

 渉の隣であっけにとられていた様子の小恋がそんなことを言う。ミスコンに参加、たしかに今のさくらの格好を見ればそう思うのも無理はない。
 説明することの面倒くささを考えればそういうことにしておこうとも思った義之だったが、そんな嘘をついてもすぐばれる。面倒くさいが本当のことを話すことにした。

「にゃはは。違うよ、小恋ちゃん」
「ああ。これは……」
「義之くんがボクにプレゼントしてくれたんだ♪ 今日のクリパは是非、これを着てくださいって」

 どういった経緯でこうなったかを説明しようとした義之をよそにさくらはあっけらかんととんでもないことを言い放つ。ぎょっと小恋と渉の目が驚愕に染まった。

「よ、義之……」
「お前……」
「違うからな!」

 表情に疑念の色を滲ませた二人を前に義之が先手を打ってそう言うと「だ、だよねぇ」と小恋は安堵の息をもらした。が、その隣で渉は何故か不満そうに口許を歪める。

「なんだよ〜、違うのかよぉ。せっかく、いい趣味してるなぁ、さすがは我が盟友よ! ……って思ったのによぉ」
「だれが、盟友だ。だ・れ・が」
「もちろん。よっしゆっきくぅんに決まってるじゃねえか」

 気味の悪い声を出され背筋の震えを覚えた義之は渉から目をそらすようにさくらに視線を向けた。

「……さくらさんもいい加減なこと言わないでくださいよ」
「にゃはは。ごめんなさ〜い」

 そうして改めて義之が経緯を説明すると渉と小恋は納得したように「なるほど」と言った。

「そういうことか。まぁ、ここの手芸部ならやりそうなことだぜ」
「でもいくらなんでも代わりの服にドレスなんて……」

 楽しげに腕を組む渉の隣で小恋が一般的な感想をもらす。

「ななかが手芸部の人たちからいつも逃げていた気持ちがちょっとわかったかも……」
「そういや、いつも追い掛け回してるな……」

 そんなにまでも自分たちのドレスを誰かに着てほしいのだろうか? 生憎と服を作った経験はないので義之にはわからない。

(まぁ、たしかに俺も料理を作ったら誰かに食べてほしいとは思うけど……)

 それと似たようなものか? などと義之が思っていると、さくらの「にゃはは」という笑い声が耳に届いた。

「ボクは別に強制されたわけじゃないよ。せっかくの機会だし、こういう服を着るのもいいかなぁ〜って思って」
「はぁ……」
「義之くんもせっかくのデートなんだからボクにおめかししてほしいって思うでしょ?」

 デート。その響きにさくらを除くその場にいた全員の顔色が変わった。

「デ、デ、デ、デ、デートーーーーーーー!?」
「ほー、なるほどな義之の本命はさくら先生だったのか」

 廊下中に響くんじゃないかってくらいの大声を出した小恋の隣で渉が含みをもった視線を向けてくる。

「いやいやいや! 違う、違うって! そんなんじゃない!」

 大慌てで首を横に振る。まったく、さっきいい加減なことは言わないって言った癖に!

「デートなんかじゃないって。俺とさくらさんの関係はお前たちも知ってるだろ」
「う、うん、一応」

 自分にとっての彼女は、保護者――親だ。親とデートなんて、そんなことは。

「お互い時間があいてるみたいだから一緒に家族でクリパを回ろうかって話になっただけだよ」

 そう。それだけだ。デートなんかじゃない。義之の言葉に「そ、そうだよね」と小恋が安堵した様子で胸を撫で下ろす。渉は元より冗談のつもりだったのか相変わらずへらへらと笑っていたが。そして最後の一人。

「うにゅ〜、ボクとしてはデートのつもりだったんだけどな〜」

 さくらは何故かがっかりしたように小首を傾げていた。おそらくは冗談で言ってるのだろうが。まるで、はかれないさくらの感情を推察することは諦め、義之は話題を変えようと渉たちを見た。

「それよりSSPの方はどうだ? 大丈夫か?」
「おう。順調も順調、大順調だぜ。俺が出た時も客席は満員だったからなぁ!」

 自分が抜けてしまって大丈夫だろうか、という意味で聞いたのだが渉は単純に売り上げのことだけをたずねているように聞こえたようだった。

「満席って……そんな中でお前らまで抜けていいのか」
「ん? いや、俺たちは仕事中だぜ。デート中のお前と違ってな、ほら」

 だからデートじゃないってのに。そんな義之の抗議の視線にもかまわず、渉は手に持ったビニール袋を持ち上げて示して見せた。

「それは?」
「へっへっへっ、これぞSSPの切り札! 決戦用秘密兵器、ソーセージだ! これさえあれば鬼に金棒! いや、SSPにソーセージだ!」

 SSPにソーセージ? 疑問の視線を渉、小恋にそそぐと、小恋は何故か顔を赤くしてうつむいてしまった。誤魔化すように「渉くん、そろそろ帰らないと」と小恋が声をかける。

「おっとそうだった。んじゃ、俺たちはSSPに戻るぜ!」
「義之、芳乃先生。さようなら」

 そうして、義之の疑問に答えが返ってくることはなく、そのまま二人して立ち去ってしまった。その後ろ姿を眺めながら「どうしたんだろうね」とさくらが口を開く。

「お寿司屋さんでソーセージを使うメニューってあったっけ?」
「さぁ……大方、ロクでもないことを企んでるんでしょう」

 だいだいどんな用途で用いられるのか。その想像がついてしまう自分の汚れた煩悩に軽く自己嫌悪を抱きながら義之は息を吐いた。

「それよりさくらさん、次はどこへ行きましょう」
「んー、そうだね。次は……」

 義之の呼びかけに、さくらは再び笑顔になると、もう一度、パンフレットに目を通すのだった。



 そうして、それからも色んなお店を回って、気がつけば夜。傾いて黄昏の光で地表を照らしていた太陽もすっかり西の空に沈み、天は暗闇に覆われている。

「綺麗だね」

 学園の中庭。そのベンチに座って小休止を取っていた義之は隣でささやかれたさくらの言葉に顔を上げた。同じくベンチに座り、アイスクリームを片手に持った彼女の視線がそそがれているのは学園の校舎。校舎中に飾り立てられたイルミネーションの各々が光を放ち、闇夜に煌々と幻想的な情景を映し出している。まだ運営している模擬店もあるのだろう。教室の窓にも多くの明かりを見取ることができた。
 それは、ただ明るいだけではない。その明かりの下にはクリパを楽しむ人々の喧騒がある。運営する側も参加する側も。人々の熱意。それらすべてを照らし、内包した光はたしかに綺麗で。

「ええ、ほんと綺麗ですね」

 義之としても頷くしかなかった。

「…………」

 ちら、とさくらを見る。中庭のベンチに座りその明かりを浴びる彼女は相変わらずドレス姿のままだ。
 純白のドレスを身にまとい金色の髪と碧い瞳を持った彼女はさながら妖精のような非現実的な美しさを秘めていたが、

「ぷっ……」

 ある一点を見つけてしまい、義之は思わず噴き出してしまった。

「? 義之くん、どうしたの?」
「あ……いえ、すみません」

 さくらがこちらを見る。その左のほっぺたにはアイスクリームの白がべっとりと張り付いてしまっている。ドレス姿。金髪碧眼。照らしあげるライト。と、これだけ幻想的な要素がそろっていても、その一点のせいで全てが台無しだった。

「ちょっと失礼しますね」

 義之は一言ことわるとさくらの頬に指を走らせた。唇の斜め上からバニラの白をめくりとる。一瞬、ポカンとした顔になったさくらだったが、すぐに何をされたのかがわかったのか、「うにゃ……ありがと」と、ちょっと照れくさそうに言った。

「いえ、これくらいは」

 義之は言うと、そうやってぬぐいとったバニラがこびり付いた指を自分の口の中に入れる。すると、さくらが何やら含みのある視線で自分を見ていた。

「えへへ〜」
「……なんですか?」
「ボクのほっぺたの味がした?」
「ぶっ!?」

 思わず口内に含んだバニラを噴き出しかけた。

「……するわけないでしょう」
「にゃははっ、そっか。でも、なんなら舌でなめとってくれてもよかったのに」

 いい加減、変な冗談はやめてくださいよ。そんな思いを込めた視線でさくらを見つめるも、彼女はただ楽しげに笑うばかりだった。そんな態度を取られてしまっては何も言えなくなってしまう。

「…………」

 そうして2人してぼんやりと校舎を眺めていた時、「あっ!」とさくらがうれしげな声をあげた。

「見て、義之くん! 雪だよ! ほら、雪〜!」

 ベンチから飛び跳ねて、両手を広げて中庭を駆けるさくら。空を見上げればたしかに。彼女の言うとおり純白の結晶が地表に舞い降りてきていた。

「ホワイトクリスマスだね♪」

 得意げな顔をしてさくらは言う。義之は頷くと、そんな彼女に習いベンチから立ちあがった。
 そうして彼女の隣に立てば、笑顔がこちらに向けられる。純白の粉雪が降り注ぐ中、純白のドレスに身を包んだその四肢が校舎のイルミネーションの光に照らされて浮かび上がる。

「義之くん。今日はありがとう。すっごく、楽しかった」

 そう言う彼女の表情は本当に言葉のとおりに明るく輝いていて、見ているだけでこちらまで楽しさが伝染してくる。義之もまた口許をほころばせた。

「ええ。俺もすごく楽しかったです」

 こんなに楽しいクリスマスは何年ぶりだろう? 今日という日をここまで楽しむことができたのも、さくらさんがいてくれたおかげだ。

「ところでさくらさん」

 そのことに感謝の念を抱きながらも、義之は改めて、さくらのドレス姿を見た。

「着替えの服のことなんですけど、わざわざ用意してもらわなくても、実は学園長室に替えがあったんですよね?」
「にゃはは、バレた〜?」
「やっぱり……」

 悪びれた風もなく笑うさくらを前に義之は肩を落とした。学園に泊まり込むことも多い彼女にとって、学園長室は自宅と並ぶ、活動の拠点だ。予備の服の1着や2着くらいあるだろうとは思っていた。

「なのに提案を断らなかったのは……」
「さっき小恋ちゃんの前でも言ったでしょ? ボクが着てみたかったからだよ♪」
「……でしょうね」

 そういう性格だ。この人は。そう義之が再確認していると、「義之くんは嫌だった? ボクのこの格好……」とさくらが伺うようにこちらを見上げていた。少しだけ不安げな碧い瞳。

(………………)

 たしかに気まずかった。ドレス姿の女性と一緒にあちこちを回るなんて自分にはまだ早すぎる。しかもこんな学園祭の中にあっては場違いすぎる格好だ。しかし、

「嫌じゃ……ないですよ」

 ぽつり、と言いながら、義之はさくらの姿を見た。彼女を飾り立てる白い衣装。改めて見ても、やはりそれは似合い過ぎていて、ケチなんてつける気も起きなくなる。

「そっか♪」

 義之の答えにさくらは楽しげに笑った。

「ねっ、義之くん。……ちょっとだけ目をつぶってくれるかな?」
「はい? まぁ、いいですけど……」

 なんだろう? と思いながらも、義之は言われた通りにまぶたを閉じた。
 ややあって、甘い香りが間近に迫ったかと思えば、何かやわらかいものが頬に触れる感触。「へ……」と気の抜けた声をもらしながら義之はハッとして目を開いた。さくらを見ると、彼女は頬を少しだけ朱色に染めながら笑う。

「えへへ……感謝の気持ち、だよ」

 キス、された? 呆然とする義之に構わずさくらは義之から体を離した。

「今日は本当に楽しかったよ! ありがとね、義之くん♪」

 そして、雪がぽつりぽつりと降る中、くるくると体を躍らせる。雪片の舞う夜空の下。絹のように流れる金色の髪が揺れ動き、煌めく。少女のような純粋さをたたえた大きな双眸は磨き上げられた宝玉の如く碧い色。小柄な体躯を飾り立てるのはフリルに溢れた白亜のドレス。その姿はやはり妖精のようで。とても――。

(…………)

 ――――とても、綺麗だ。義之は純粋にそう思い、その姿に息をすることも忘れて見惚れている自分に気付くことができなかった。




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