幕間1




 太陽が西の空に完全にその姿を没した後となれば学園長室の窓から見渡せる外の景色はすっかり夜の帳が下りた漆黒の色だった。そんな寂しさを思わせる漆黒の闇の中であったが、月光に照らされた桜の木々が咲かせた薄紅色の花々やぽつり、ぽつり、と降り注ぐ粉雪が陰鬱な光景を少しは鮮やかに飾り立ててくれる。祭の喧騒はすっかり過ぎ去り、風見学園はもうはしゃぐ者もおらず森閑とした沈黙に包まれている。夜の帳が下りた頃には生徒会にも学園にも無断で杉並が屋上から打ち上げ花火を放ち、派手な花火の光で学園を照らし、クリパ2日目の喧騒は最高潮に盛り上がったものだが、その盛り上がりも今となっては過去のものだ。
 芳乃さくらは学園長室でコツコツと溜まりに溜まった事務仕事に精を出していた。仕事をしながら、さくらは今日の出来事を脳裏に思い返し、

「楽しかったな」

 そう、ひとりごちる。義之くんと二人きりでクリパを見て回る。そんな幸運に恵まれた我が身を思えば、今の仕事のつらさもまるで気にならない。手芸部から借りたドレスは返却し、今のさくらは学園長室に用意してあった予備の私服に着替えている。あのドレスは気に入っていたが流石にいつまでもあれを着ている訳にはいかない。ドレスを失うことでまるでそれまで自分にかかっていた魔法が解けるかのような感覚を味わいつつも、義之と共にクリパを過ごすという幸福の時間の終焉を告げるようにドレスを返却し、すっかり元通りのいつものさくらの姿に戻っている。楽しかった。本当に楽しかった。
 お祭り大好き風見学園の二つ名の通り、風見学園では年がら年中、お祭り騒ぎが企画され、その度に生徒も教師も程度の差はあれどはしゃぐものだが、今回は特に別格だった。なにせ義之くんと一緒にクリパを見て回ることができたのだ。そんな幸運、これまでになかった。これまでも教師として祭に参加することはあれど、義之くんと一緒に、二人っきりで祭を楽しむことなんてことはなかった。二人で他愛もない話に花を咲かせながら、色んな催し物を巡り、二人で楽しむ。これ以上ないくらいの幸福だった。その残滓がいまだに胸の中には強くある。胸を満たす幸福感。それは何よりも強い歓喜の感情を呼び起こし、気が付けば口元をほころばせている自分がいる。
 しかし、義之と別れてからというものの、平穏無事、という訳ではなかった。さくらと別れてそのまま帰路についたであろう義之はおそらく知らないだろうが、義之たちのクラス、付属3年3組の企画したSSP――セクシー・寿司・パーティーは生徒会の突入を受け、一斉検挙。その時、行われていたVIPルームなる催し――なんでも杏と麻耶がパジャマを通り越して、水着姿で寿司を握り、法外な価格で売りつけていたという――もとても看過できたものでもなく、クラス全員はその場で生徒会のお説教。そして、首謀者……主犯格とされた杏と麻耶は教師たちの前に来て処分を言い渡されたのだ。無論、義之と別れたばかりのさくらもその場に同席し、処分の程を話し合った。停学処分にすべし、と強硬な意見を声高に騒ぎ立てる教頭に対し、さくらが付属3年3組と教師たちの間に入る形で年末年始の補習合宿を提案し、その場を丸く収めた訳だが、はたして義之はそのことを知っているのか。さくらとしてもそれ程大きな処分をする必要はないと思っての判断だった。多くの生徒は風見学園の付属から本校へ、エスカレーター式に進学するが、全員がそうという訳ではない。他の学校に進学する生徒にとって、ここで停学処分などという重い処分が下されれば履歴に隠し切れない大きなキズが付いてしまう。それを思っての補習合宿の提案だった。案の定、石頭の気がある教頭は渋い顔をしたものの、学園長のさくらがこう言う以上、挟める口はなく、付属3年3組は年末年始、学園に泊まり込みで補習授業を受ける、それで後はお咎め無し、ということで処分は決定した。
 付属3年3組の生徒たちのためを思っての提案だった、とさくらは思っているし、事実、この軽い処分に収めたことはその通りではあるのだが、さくら本人の願望がなかった、と言えば否定せざるを得ない。処分が決まってからある程度時間が経った今だからさくらも思うことだが、自分は寂しかったのではないだろうか? さくらは年末年始は風見学園に泊まり込みで仕事をすることが決まっている。一人で学園にいるのが寂しくて、それで付属3年3組の生徒たちに――特に義之くんに一緒にいてほしい、と思っての提案だったのではないだろうか? そんなことを思う。

「……そうかもしれないね」

 だとしたら我ながらなんて身勝手だ、と苦笑する。口では生徒のため、と言いつつも、その実、自分のための提案だったのではないか? その思いは胸の奥底でうずいて消えない。義之くんと一緒に年越し……なんて贅沢は言わないが、そばにいてほしいという気持ちは、やはり、あったのではないか?
 桜内義之。自分の息子のような存在で今日一日、クリパを一緒に過ごした大切な人。彼のことを思うと胸が熱くなる。胸がドクン、ドクン、と大きな脈を打ち、頭もボーっとしてくる。それは未知の感情だった。以前はそんなことはなかった。彼を家族として大切に思う気持ちはあっても、それ以上はなかった。それ以上……たとえばずっと一緒にいたいと思ったり、彼のことを思うと胸が高鳴ったり……、クリパを一緒に見て回りたいと思ったり……。クリパを一緒に回った時の彼の顔を思い出す。ドレス姿になったさくらに対して反応に困りながらもそれでも、一緒にいてくれた彼の姿。自分なんかと一緒でもクリパを存分に楽しんでいたと思える、彼の笑顔。それを思い起こすと胸の中がドキドキと高鳴る。クリパ。そう、クリパだ。ついさっきの出来事、だけどそれは一生ものの思い出となって胸の中に残っていることを感じる。彼と一緒にクリパを回れた。彼が自分と一緒にクリパを回ることを楽しんでくれた、喜んでくれた。その事実が何よりも強い歓喜の感情となって胸の中を騒がせる。クリパをきっかけに彼への想いが強まっていることを感じる。

 ――――それでね……義之くんさえよかったら、ボクと一緒にクリパを回らない?

 そもそも自分から彼を一緒にクリパを見て回らないかと誘うこと自体、これまでならあり得なかったことだ。彼には自分なんかより一緒にクリパを回るに相応しい相手が沢山いる。それらを押し退けてまで自分がそのポジションにつきたいなど以前なら絶対に考えることはなかったはずだ。それどころか音姫ちゃんや由夢ちゃん、小恋ちゃんといった彼に相応しい女性が一緒に彼とクリパを回れるように手回しをしたはずなのだ。しかし、しなかった。今回のクリパでは自分から彼を一緒に見て回らないかと誘い、それが時間がないという理由でおじゃんになりかけても、彼の提案――

 ――――はい。今日が無理なら明日、一緒に回りませんか。クリパ。

 今日が無理なら明日、つまり今日24日に一緒にクリパを見て回らないか。その提案に乗って、一緒にクリパを回ることを快諾した。それ自体、これまでなら絶対にありえなかったことなのだ。これまでの自分なら誘われたことを嬉しく思いながらもやんわりと断っていたはずなのだ。祭の熱気に浮かされていた? 今、思い返してみても自分でもよくわからない。自分が彼と一緒にクリパを回るなど絶対にあり得ないことだったのだ。
 だが、現実にはそれは『あった』ことだ。自分は今日、彼と一緒にクリパを回り、それどころかはしゃぎにはしゃいでドレス姿になるなんて真似までした。
 そんな絶対にあり得なかったことをさせてしまったこの感情は一体何なのか……。
 今日のクリパを彼と一緒に過ごしたことは、何かの――名状しがたいことだが――何かの変換点になった。そんな予感だけは強く、強く、さくらの心の中に芽生えていた。
 そんなことを思いつつ、さくらは本日分の事務仕事を終えた。

「……さて、これでおうちに帰れる……ならよかったんだけどね〜」

 残念ながらそうではない。学園での仕事は終わったが、自分にはまだ大切な仕事が残っている。今日はクリスマス・イヴ。聖夜を迎える、この日は人が特に強く願いを込める日。当然、いつも以上の願いがあそこには集まる。その場に自分がついていない訳にはいかないのだ。

「…………」

 自分が背負っている罪、業を再確認させられたような気分になってさくらは少し気落ちする。そうだ。自分は罪を背負っている。自分がしでかしたこと。自分が責任を取らないといけないこと。それをほっぽり出す訳にはいかないのだ。このまま家に帰って彼と一緒にクリスマス・イヴを祝いたいという気持ちを抑えこむ。自分には、そんな資格はない。口元をかたく結び、さくらは意を決して立ち上がる。自分には罪があり、使命がある。それは自分個人の感情などより余程、優先しなければならないことだ。
 家族のために、生徒たちのために、この島の住人たちのために。自らに課せられた使命を遂行するため、さくらはその場所へと向かうのであった。
 彼のことを思うと高鳴る胸の鼓動を不思議に思いながら。



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