12月27日(月)「異国の少女」



 ――――雪降る中、手を引かれて歩いていた。

「どこに向かってるの?」

 目の前にあるのは金色の髪。ふさふさと揺れる金色の房を見上げながら問いかけると、彼女は微笑みと共にこちらを振り向いた。

「いいところだよ。あたたかくて、賑やかで、ご飯がいっぱい食べられるところ」

 ご飯。その単語に思わずお腹がぐー、となる。それを見て彼女は「あはは」と楽しげに笑った。

「お腹すいた? もうすぐだからね」

 にっこりと笑うあたたかな笑顔。やさしげな碧い瞳。

「えっと、あの、その……」

 周囲が薄闇に包まれた中、輝いているように見えるその笑顔を前にして、彼女の名を呼ぼうとして、言葉に詰まった。お互いにさっき自己紹介をすませたばかりだ。名前は覚えていた。ただ、なんとなく気恥ずかしくて、それが言葉にならなかった。
 そんな彼を見て「さくらだよ。芳乃さくら」と彼女は自分の名前を口にしながら、ぐっと顔を覗き込んでくる。碧い瞳が至近距離で、真っ直ぐに自分を見る。それが恥ずかしくて彼は思わず目をそらす。

「…………」

 その行為が過ちだと彼はすぐに気付いた。彼女がとてもさびしげな顔をしたからだ。
 しまった、と思った。後悔した。さくらさんにそんな顔をしてほしくなかった。繋いだ手からあたたかさが伝わってくる。最初に出会った時からずっと繋ぎっぱなしの手。雪降る中、一人でいたぼくにあたたかさをくれた人。ぼくを救ってくれた人。そんな人にこんな顔をさせてはいけない。
 彼はそう思い、ひとかけらの勇気と共に、

「……さくらさん」

 朱色をおびた顔で、その名を呼ぶ。雪に溶けていくかのようなか細い声。しかし、その声にハッとしたように碧い瞳が驚きに見開かれた。一瞬の驚愕の表情の後、彼女はすぐに満面の笑みを浮かべる。

「うん♪ やっと名前、呼んでくれたね」

 嬉しげな声と共にさわさわと頭を撫でられる。その感触にますます気恥ずかしさが彼の胸の中を埋め尽くしたが、嫌ではなかった。何よりも、さくらさんが嬉しそうなのが、嬉しかった。
 ――――こんな簡単なことだったんだ。

「じゃ、行こっか」

 笑顔で頷きかけてきた彼女に「うん」と頷き、隣に並ぶ。そうして二人一緒に歩き出す。雪の降り注ぐ中、気温は低く、吹き抜ける風も相変わらず冷たく、吐き出す息は真っ白に染まる。
 だけど、彼の心の中は不思議とあたたかくて、そして、穏やかだった。



 12月27日。
 聖夜を挟んで3日間に渡って続いたクリパも終わり、いよいよ冬休みがやってきた。
 冬休みの朝。いつもと違い、どれだけ惰眠をむさぼっても遅刻の心配はなく、ベッドの上で昼まで過ごすも良し。漫画を読みふけたり、ゲームをやったりしてもいい。のんびりと思う存分にくつろぐことのできる心地よい朝。……そのはずだった。

「はぁ……」

 台所で朝食のハムサンドを作りながら、義之は思いっきりため息を吐いた。居間の方ではぐーたらモードを全開にした由夢がコタツで丸まってその心地よい熱気に至福の表情を浮かべている。
 壁にかけられた時計は午前9時を指し示している。今日は昼までたっぷりと睡眠を取ってやろうと思っていたのに、あろうことかこの妹は自室にまで押し掛けてきて、夢見心地の兄に向けて「お腹すいたから兄さんごはん作って〜」などとのたまったのだ。
 音姉は? と問いかけるとどうやら姉は生徒会の仕事があるらしく、家にはいないらしい。冬休み中でも忙しなく働く姉に敬意を、それとは真逆のぐーたらっぷりを見せる妹に呆れの感情を覚えつつも、放っておくわけにもいかず、結局、予定していた時間よりもはるかに早く寝床から離れ、こうして朝食の支度をするハメになっている。

「ほら、食事できたぞ」

 居間に戻ると共に義之が呼びかけると「ふぁい」と気の抜けきった声が返ってきた。ほれぼれするほどのぐーたら姿。学園で彼女のファンだという連中に見せてやりたい。

「ったく。せっかくの休みの朝になんだって妹の世話をしなきゃいけないんだ」
「や、兄が妹の面倒を見るのは当然でしょ?」

 鬱憤した感情を込めながら愚痴を言うも、由夢は平気な顔で言い切る。
 相変わらずの義妹にやれやれ、と思いながらも、これもまたいつものことなので改めて文句を言う気にもならず、机の上に朝食を並べていく。
 サンドイッチとコーヒー、おまけのデザートの切り盛り。この家にしては珍しい洋風のモーニングだ。保護者であるさくらの影響か何かと和風を好む義之なのだが、立ち上るコーヒーの芳香を前に、こういうのもたまにはいいな、と思った。勿論、冬休みの朝に無理矢理厨房に立たされたことによる気だるさから普通に和食を作るより手抜きができる、ということもあってのチョイスなのだが。
 そうして、二人きりでやや手広に感じられる居間に「いただきます」の二重奏が響く。

「ん、美味しい……。相変わらず料理だけは一人前ですね……」
「だけは、ってなんだ。だけ『は』って」

 ハムサンドをついばみながらの由夢の言葉に秘められた微妙なトゲに、眉をしかめながら義之はテレビのリモコンを手に取った。適当にチャンネルを回し、ニュースバラエティで止める。平時は見ることなど到底敵わない朝9時台のニュース番組。世の奥様向けの内容は義之の趣向にはいまいちあわないものの、ああ、冬休みだ、と思わせてくれてる分には悪くない。

「だいたい、サンドイッチなんて誰でも作れるだろ。パンを適当なサイズに切って、中にハムなり野菜なり挟むだけだぞ?」

 義之の言葉に、由夢の顔が困ったように硬直する。

「…………そういうのを上から目線って言うんです」

 か細い声がしたかと思えば由夢は怒ったようにそっぽをむいてしまった。別に嫌味などではなく本心から思っての言葉だったのだが。

「だいたい、その適当なサイズに切るのが難しいんだよ……」
「前に音姉に包丁の使い方教えてもらってただろ? その通りにやればいいんだって」
「それはそうだけど……」

 彼女が所謂、料理下手であるのはたしかだが、それを本人が強く意識しすぎているせいでまずチャレンジする段階に至れていないフシがある。何事も挑戦していかなければうまくなれないのに。

(まぁ、俺は別に由夢が料理上手でも料理下手でもどっちでもいいんだけど)

 妹のぐーたらっぷりを呆れる思いはあるものの、彼女が料理をしないこと――料理は自分と音姉の二人の交代制という現状にそこまで不満があるわけではない。自身もハムサンドをかじりながら、そんなことを思っているとテレビから聞き慣れた単語が流れてきて、思わず義之はそちらを振り向いた。

「ん……初音島?」

 義之の言葉に由夢もテレビの方に視線を動かす。一年中桜が咲いているという特異さから初音島がテレビに映ることはそこまで珍しいことではないのだが、やはり自分の住んでいる土地が話題にあがっていれば気になってしまうものだ。義之も由夢も一旦食事の手を止めてテレビに見入った。
 見慣れた桜の木々が映ったかと思えば、すぐに住宅街の方へとカメラが映る。どうやら、とあるオフィスの1フロア内でそこにいた人間が次々と倒れたらしい。幸いにも全員が命に別状はないらしいが、原因は不明とのことだった。
 とはいえ、状況から考えてガス漏れの可能性が高い、とリポーターは締めくくっていた。

「ガス漏れかぁ。俺たちも気をつけないとな」
「そうですね」

 身近で起きた事件にひんやりとしたものを覚えつつも、いまいち現実感がわかない。由夢に向けた声も、由夢の相槌もどことなく気楽さが漂うものだった。

「まぁ、こんなことそうそうあるもんじゃないと思うけど……」

 なんにせよ、気をつけないとな。そんな思いを抱きながら義之はハムサンドの残りを口の中に放り込んだ。



 そうして、朝ご飯も、その後片付けも終わり、芳乃家の居間にはまったりとした空気が漂っていた。片付けを少しも手伝おうとしなかった由夢は相変わらず猫のようにコタツでぐてーっとくつろぎ、義之もまた半身をコタツの中に埋め、その心地よさにひたっていた。
 昼からどうしようかなぁ。一日中家にいるか。いつもの連中を誘って適当に遊びに行くか。いや、それ以前に昼食はどうしよう? コタツの熱気に浮かされながら義之がそんなことを考えていると、軽快なメロディが居間中に響き渡った。
 発信源は義之のズボンのポケットだ。「兄さん、携帯鳴ってるよ」と言う由夢の声に急かされるまでもなくポケットの中に手を突っ込んで携帯を取り出す。ディスプレイを見てみれば、そこに表示されていたのは『芳乃さくら』という五文字だった。
 さくらは今は家にはいない。学生にとっては冬休みでも学園長という身分には関係のない話なのだろう。少なくとも義之が由夢に起こされた時には彼女の姿はこの家になかった。

「もしもし……」

 何の用だろう? そう思いながら携帯を耳に当てると、「あ、もしもし。義之くん?」と電話越しに声が返ってきた。

「はい。義之ですけど……」
「よかった〜。ちゃんと起きてたんだね」

 電話越しに安堵した雰囲気が伝わってくる。本来ならまだ寝てるはずだった、と思うと少しの気まずさが義之の胸元を掠めた。

「あはは。まぁ、冬休みだからってあまりぐーたらしてるわけにはいきませんからね」
「うんうん。偉い偉い」
「それで何か用ですか?」

 「私が来なければまだ寝てた癖に」と言わんばかりの視線を送ってきた由夢は無視し、問いかける。「それがね」とさくらは続けた。

「今日は学園で会議があるんだけど……ちょっと忘れ物しちゃったんだ」
「忘れ物……ですか?」
「うん。書類なんだけどね」

 彼女が何を言いたいのかだいたい読めてきた。義之は先を促す意図を込めて「はい」と呟く。

「多分、ボクの部屋の机の上にあると思うんだ。悪いけど、学園まで持って来てくれないかな?」
「机の上ですね。わかりました」

 やはりそうか。そう思いながら義之はさくらの言葉に頷いた。「ごめんね」と続けられた声に「気にしないでください」と返す。

「それじゃ、すぐに持って行きますから待っててください」

 義之はそう言うと電話を切り、由夢の方に向き直った。

「悪いな由夢」
「え?」
「ちょっと急用ができた。今日の昼ご飯は自分でなんとかしてくれ」

 露骨に不満そうな顔で「え〜!」と悲鳴に近い文句を叫んだ由夢には構わず、義之は立ち上がると、おそらくは忘れ物の書類が置かれてあるであろうさくらの部屋に向かった。



 冬休みに入ったからといって辺りの景色が一変することはない。相変わらず桜の木々は身もだえする寒さにも構わず薄紅色の花びらを広げて初音島を鮮やかに飾り立てている。
 寒風に煽られて空を舞う桜の花びらをぼんやりと眺めながら義之は桜並木を歩いていた。ここに来るまで冬休みということもあってか人々の往来は普段より多く、ここ桜並木も心なしか行き来する人が増えているような気がする。見ているだけで心が癒される薄紅色の花びらに囲まれて、綺麗に整備された道路を持ち、桜公園まで繋がっているこの道筋は散歩コースとしてはもってこいだ。
 右の脇腹にしっかりと挟んだ封筒の感触をたしかめる。さくらが忘れていったという書類の入った封筒。中身がどういったものなのか知るよしもない(そして、知りたいと思う気持ちもない)が、これを学園にいるさくらの元に届けなければならない。桜公園に続く分岐は無視して一直線に風見学園に向かって足を進めていた。
 そんな折、
 ――――ドン。
 胸に感じる微かな衝撃。「きゃっ」という声が続いて響く。

「うわっ、ごめん、大丈夫?」

 どうやら桜の木々を見上げて歩いていたら誰かと正面衝突をしてしまったようだ。しかし、胸に感じた衝撃は軽く、子供か誰かかと思いつつ、視界を落とすと、

「あいたたた〜」

 そこにいたのは異国の少女だった。アッシュブロンドの髪にルビーのような赤い瞳。そして真っ白な肌。どう見ても日本人ではない異国の少女。それもとびきりに可愛い。背丈の低さもあってまるでお人形さんのような少女はお尻をおさえながら立ち上がった。「ごめん。脇見してた」と義之は頭を下げる。

「ううん、謝らなくてもいいよ。脇見していたのはあたしも同じだしね」

 しかし、異国の少女はなんら気にした様子もなさそうにあっけらかんと笑う。

「それにしてもここの桜はやっぱりすごいね〜、思わず見とれちゃう」

 そう言って少女は桜の木々を見上げる。枯れない桜目当ての観光客か何かだろうか、と義之は思った。

「君は観光か何かでここに?」

 義之の言葉に少女は「え?」ときょとんとした顔をしたがすぐに、

「ううん、違うよ〜。旅行者と言えば、旅行者なんだけど、観光目的ではないかな」

 ちょっと意外な答えだった。観光目的ではない、ならば何故、この初音島にわざわざ異国から――勿論、日本に住んでいる外国人という可能性もあるが――訪れているのか。
 義之が疑問に思っていると、少女の方が先に口を開いた。

「あたしはね、旅人、なんだ」

 旅人。
 その言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。「決まったところにとどまらずにあちこちを渡り歩く根無し草」と少女が続け、そういうニュアンスを込めての『旅人』という言葉か、と義之は得心した。
 では、何故この見た感じ幼そうな女の子がそんなことをしているのか、という疑問が胸の中に湧いたが、それを口に出すのはなんとなく野暮な気がして義之は「へぇ、大変だね」と答えるだけにとどめた。

「えへへ、そうでもないよ〜。ま、楽ってわけでもないけどね〜」

 少女はそう言って笑った。

「そう言う君は風見学園の学生さんかな?」

 次いで、少女の口から出た言葉に義之は驚いた。正解だ。しかし、今の自分は私服姿で学生服など着ていない。それにこの桜並木はいろんな場所に繋がっていて自分が風見学園を目指していたことなど読み取ることは不可能のはずだ。

「そうだけど、どうしてそれを?」
「あ、やっぱり〜? 若い男の子だったからもしかしたら風見学園に通ってるのかな〜、って思ったんだ。この島には学校はいっぱいあるけど、やっぱり風見学園が一番大きくて有名だからね」

 そういうことか。まぁ、たしかにその推理はそこまで無理のあるものではない。

「っていうことは君はあたしの後輩にあたるわけだ」

 少女はそう言って含みのある笑みを浮かべた。

「後輩? それじゃあ……」
「うん♪ あたしも風見学園に通っていたことがあるんだ〜。随分前の話で少ししかいなかったんだけどね」

 少女は楽しげに笑う。幼い外見から年下かと思っていたがその実、外見に似合わずそれなりの年齢なのかもしれない。幼い外見をした年齢不詳の自分の保護者のように。

「ここで会ったのも何かの縁かな? あたしの名前はアイシア」
「アイシアか、俺は桜内義之」

 そうしてお互いに自己紹介をかわす。

「桜内義之か〜、それじゃ、義之くん、って呼べばいいかな?」
「ご自由に。俺はアイシアさん、って呼んだ方がいいかな? 俺の先輩ってことは俺より年上ってことなんだし」
「ううん。アイシアでいいよ。敬語も使わなくていいから」

 「その方が気楽だしね」とアイシアは笑う。

「あたし、商店街の方でおもちゃのお店を開いているんだ。だから気が向いたら来てくれると嬉しいな♪」

 見ているとなんだか安心する笑顔。その笑顔はなんとなくあの人に似ている気がした。

「ああ。必ず行くよ」

 自然と義之も笑顔になる。

「それよりいいの? その封筒何か大事そうだけど……」
「あ……」

 そうだ。アイシアと話していてすっかり忘れていた。自分はこの封筒をさくらさんに届けないといけないのだ。

「そうだった。俺の保護者みたいな人の封筒でね、会議に必要なものらしいんだけど、持って行くのを忘れちゃったみたいで、今、届けに行く途中なんだ」
「そうなんだ。うっかりさんなんだね、その人」
「基本的にはしっかり者なんだけどね。ごくまれにもの凄くずぼらな面があるんだ」

 義之はそう言って笑うと、アイシアもつられて笑った。

「でも、それじゃあこんなところで道草食ってる暇はないんじゃない?」

 まさにその通り。

「そうだな。それじゃあ、悪いけどこの辺で失礼するよ」
「うん。気をつけてね〜」

 義之がアイシアの隣を通り過ぎると、アイシアはぶんぶんと手を振ってそんな義之を見送ってくれた。少し恥ずかしい思いを感じつつも義之は手を振り返すと、学園に向けて急ぐのだった。



 休みともあれば街はにぎわうものだが、それと反比例するかのように風見学園には人気が感じられなかった。せっかくの冬休みだというのにわざわざ学園に顔を出す物好きはそうそういない。
 冬休みでも熱心に活動している運動系の部活動の生徒たちの姿がグランドにちらほら見えるだけで、校内は静まり返り、いつもはある生徒たちの喧騒も今はなく、まさに休み中といった景観が広がっている。
 どことなくもの悲しいような、それでいてすっきりしたような気分を味わいながら義之は学園の廊下を歩いていた。冬休み中でも出勤している教員はさくら一人ということはないのだろうが、そういった人たちとすれ違うこともない。目指す先は勿論、さくらのいる学園長室だ。
 通いなれた道順を通り、学園長室というプレートが上に掲げられた馴染みの扉の前に立つ。

「さくらさん、義之です。入りますよ」

 声をかけながら扉を開く。鍵はかかっていなかったが、学園長室の中を見渡した義之は「あれ?」と首を傾げるはめになった。
 いつも通り、純和風の装いを見せる風見学園・学園長室。中央に鎮座するコタツも、壁の掛け軸も、何も変わりはなかったが――。

「さくらさん?」

 肝心のさくらの姿がどこにもなかった。部屋の主の姿を求めて今一度部屋を見渡してみるものの、やはりいない。

「どっかに隠れてる……なんてことはないよな」

 あの人の性格を考えればそれもあり得る。が、そういうわけでもなさそうだった。
 ここに彼女の姿はない。どこにったんだろう、と義之は思考をめぐらせた。
 電話の内容から学園にいないということはないはずだ。おそらくはなんらかの理由で一時的に席を外しているだけだろう。ならば、どうするか。

(こっちから探しに行くか)

 彼女の行き先に全く見当がつかないわけでもない。ただ待っているよりこちらから探しに行った方が早いだろう。そう考えて、義之は学園長室から外に出ると、人気のない廊下を歩き出した。



 そうして、義之が最初に訪れたのは生徒会室だった。姉が朝から出かけているということは生徒会もまた休みを返上で活動しているはずだ。生徒会の活動は学園全体の活動に繋がっている以上、そこに何らかの用件があってさくらが訪れているということも十分あり得る。
 音姉がいるといいんだけど、と思いながら生徒会室の扉の前に立つ。身内がいれば話が早くなる。どうしようかためらった挙句、義之がその扉をノックしようとしたときだった。「ありゃりゃ〜」と愉快そうな、それでいてどこか疑念のまじった声が義之の耳朶を打つ。それは聞き覚えのある声。思わず義之は声の方向を振り向いた。

「ま、まゆき先輩……ども」
「弟くんじゃない。冬休み中だってのに、どうしたの」

 それは生徒会副会長・高坂まゆきの声だった。廊下の奥から歩いてきた彼女は生徒会室の前に立つ義之を一瞥すると、あからさまにあやしむそぶりをみせた。

「弟くんは何の部活動にも参加してなかったよね? それなのに休み中に学園にいるなんて……」

 推定有罪、とでも言わんばかりに睨むような目を向けてくる。今回に限っては自分は何も後ろめたいことはしていないのだが、その威圧に義之は体を縮み上がらせた。

「今度は何の悪巧みかな〜?」
「悪巧みも何もありませんよ」
「それもよりにもよって生徒会室の前でだなんて」
「だから違いますってば」

 もはや完全に黒と決めてかかっている勢いに気おされながらも義之は必死で首を横に振った。いつも思うが、自分はそこまで問題児だと認定をされているのだろうか?

「ちょっとさくらさんを探してまして。学園長室にはいなかったからこっちに来てないかな〜って」

 そう言うとまゆきの瞳の中にあった疑惑の色が少し薄くなった。

「学園長を?」
「ええ。忘れ物を届けようと」

 本当にそれだけですよ、と念を押す意味もあって、抱えた書類を示してみせる。
 まゆきは疑惑の念を払えないのか、いまだ訝しむように腕を組みつつも、「学園長ねぇ……」と自分の中の記憶を探るように呟いた。

「まゆき先輩は知りませんか? さくらさんがどこにいったか?」
「うーん。ごめん、あたしは今日、学園長の姿は見てないなぁ」
「そうですか……」

 いきなり居場所がわかるなんて都合のいいことを期待していたわけではなかったが、落胆がないわけでもない。義之は肩を落とした。

「でも、うちの役員の誰かが知ってるかも」

 まゆきはそう言うと義之を押しのけて扉の前に立ち、扉を開く。扉の中から「まゆき、おかえり〜」と響いてきた声は音姫のものに違いなかった。

「ねぇ、音姫。今日、学園長見なかった?」
「さくらさん? ううん、私は見てないけど……どうして」

 そんなことを……と言いかけたところで音姫はまゆきの隣にいる義之の存在に気付いたようだった。

「あっ! 弟くんだ。いらっしゃ〜い」

 朗らかな笑みを浮かべて嬉しげな声をあげる。

「どうしたの? 生徒会に何か用事かな?」
「いや、ちょっとね」

 部屋の中にいたのは生徒会長である音姫一人ではなく、数人の生徒会役員の姿もあった。微かにプレッシャーを感じつつも義之は一歩前に出ると、事の次第を姉に説明した。

「……ってわけなんだ」
「そっか。それでさくらさんのことを探していたんだ」

 義之の説明に納得がいったのか姉はそう言うと、生徒会の面々を見渡した。

「みんな、さくらさんがどこに行ったか。知ってる人いないかな?」

 凜と通る生徒会長の声が生徒会室に響き渡る。ざわ、とわずかに生徒会室にざわめきが走り、その内、一人の役員が「あの〜」と声を出した。

「学園長ですか? もしかしたら間違ってるかもしれないんですけど……学園長なら多分、食堂だと思います」
「食堂?」
「はい。さっき食堂近くの階段の踊り場ですれ違いましたから。食堂にいるところを見たわけじゃないんですが、あのあたりだと行き先は食堂じゃないかと……」

 どうやら、直接さくらが食堂の中に入るところを見たわけではないらしい。どことなく自信なさげなのもそのせいらしかった。だが、食堂の近くにですれ違った、という情報だけでも義之にとっては充分なものだ。

「ってことらしいけど、どうする。弟くん?」

 こちらを見たまゆきの視線に促される必要もなく、義之は「わかりました」と答えた。

「食堂の方で見たってだけで充分です。情報、ありがとうございます。それじゃあ俺、さっそく行ってきます」

 軽く頭を下げると、すぐに踵を返す。

「それじゃあ、音姉、まゆき先輩。仕事がんばって」
「うん。弟くん。まったね〜」
「今回は何事もないことを祈ってるわ」

 そうして、笑顔の姉といまだ訝しむ様子で腕を組むまゆきに見送られて義之は生徒会室を後にした。



 学園長は食堂にいる。その不確かな情報を信じる根拠が義之の中にはあった。
 さくらはこの学園の食堂を気に入っている。平時も放課後などでよく食堂にいる彼女の姿を見ることができた。理由は気晴らしだったり、息抜きだったり、生徒達の様子を見るためだったりと様々のようだが、話を聞く限り、ここの食堂自体を相当気に入っている様子だった。
 今は冬休み中で食堂は運営されておらず、何も食べることはできないが、休み中だからといって、施錠されてるわけでもなければ、テーブルや椅子が撤去されているわけでもない。窓から差し込む陽光も窓から見える風景に違いがあるわけもなく、気晴らしや息抜きの場所としての価値は休み前とあまり変わりはない。

(一休みでもしてるのかな)

 食堂へと続く廊下を歩きながら義之はそう思った。朝からの仕事で疲れて、会議までの合間の時間を利用して、少し羽根をのばすために食堂でくつろいでいる。おそらくはそんなところだろう。
 と、廊下を歩く義之の前を見慣れた影が横切った。

「ん、はりまおじゃないか。奇遇だな」

 その正体をすぐに見て取った義之は足元に向けて呼びかける。「あん!」と元気のいい鳴き声が返って来て、はりまおは足を止め、こちらを見上げてきた。

「お前も食堂に向かってたのか?」

 言いながら頭をなでる。仮にはりまおが食堂を目指していたとするのなら、ますますそこにさくらがいる、と確信できる。「くぅーん」と返って来た鳴き声を肯定と受け取った義之は、「んじゃ、一緒にいくか」と言い足を進めた。
 やや遅れてはりまおもついてくる。日頃、和菓子をプレゼントしているかいがあってか、なんだかんだでこの犬(?)は自分にそれなりになついてくれている。
 そうして、はりまおと共に食堂の前に辿り着く。これまで通ってきた廊下と同様に人気は感じられない。冬休みの学生食堂は森閑とした静寂の中にあり、ガラス窓から取り込まれた陽光が利用者のいないテーブルや椅子を照らしている。あまりの静けさに戸口をくぐりながら、もしかして、さくらさんはここにはいないんじゃないか、なんてことを思ったが、その考えはすぐに杞憂に終わった。

「あ……」

 食堂の最奥。窓際の席に見慣れた金色の髪が見える。テーブルに体をつっぷしているため遠くからでは顔がよく見えないが、あの金髪と小柄な体躯はまぎれもなくさくらその人だった。ご主人様の臭いを嗅ぎ取ってかはりまおが「あん!」と嬉しげに吼えた。義之も「さくらさん」と名を呼び、彼女の方へと向かう。

「まったく。電話しておいて部屋にいないんだから。探しましたよ……って、あれ……?」

 その途中、異変に気付いた。もう義之の声もはりまおの鳴き声も聞こえているだろうに彼女からの返事はない。代わりに「すー、すー」という規則的な吐息が返ってくる。

「さくらさん?」

 もしやと思いながら側に来てみると、やはり思った通りだった。テーブルの上につっぷして、両腕を枕代わりにしてさくらは眠っていた。差し込む陽光が穏やかな寝顔を照らし出し、緩んだ口許から寝息がもれている。
 食堂の中はうっすらとした寒さがあるものの、窓際のこの席は窓ガラス越しに太陽の光がほのかなあたたかさを運んできており、たしかに居心地は悪くない。休憩をしていたところ、ついついうたた寝をしてしまったのだろう。

(やれやれ……)

 静かに寝息をたてているその無防備な姿を前に少し肩をすくめる。小柄な体躯はさらに小さく丸まり、こうして見ると本当に年下にしか見えない。自分の保護者であり、この学園の長とはとても思えない姿だ。すやすやと寝息をたてて眠るさくらの穏やかな寝顔。

(やっぱりさくらさんって綺麗な顔してるな……)

 こうして見てみると、そう思う。幼さが残るものの、どことなく外国の血筋を思わせるその端正な顔たち。陽光に照らされたその横顔は身内贔屓なしで綺麗と表現するに充分すぎるもので、食堂の机で居眠りをしているだけだというのにその寝顔にはまるで絵画かなにかのような高貴さすら感じてしまう。
 「くぅーん」と鳴き声がして、義之はハッとした。どうやら、さくらの寝顔に見入ってしまっていたようだ。見慣れたというほどではないにせよ、長年の付き合いのある身、彼女の寝顔なんてそこまで珍しいものでもないというのに。
 何やってんだか。少しだけ気恥ずかしい気分を抱きながら、足元に視線を下ろせば、はりまおが自分のことを見上げている。まるで「どうするの?」とでも問うかのようなそのしぐさ。十中八九、彼のご主人様のことだろう。幸せそうなさくらの寝顔を前に、義之はどうしたものかと悩んだが、

(ま、ほっとくわけにもいかないか)

 このままそっとしてあげた方がいいのかもしれないが、今日は会議があると電話で言っていた。もし寝過ごしてしまったら大事だ。義之はさくらに声をかけた。

「さくらさん、起きて下さい」

 言いながら、軽く背中をゆさぶる。「うにゃぁ」と声にならない声が返ってきて、微かにさくらは体を動かしたが、その瞳が開くことはなかった。

「さくらさん、起きて下さいってば」

 もう1回、2回とその体をゆさぶる。はりまおも「あん!あん!」と飼い主の目を覚まさせようと声高に吼える。すると、

「うにゃ……」

 碧い瞳がうっすらと開かれ、その瞳がこちらを向く。相変わらずテーブルを枕にしたままで横向きの目。まだ眠気を引き摺っているのだろう。その碧い色はパッとしない。

「あ、あれ……? 義之、くん……?」
「おはようございます……ってのも変ですけど。とにかく、おはようです」
「う、うにゃあ〜」

 現状を把握できていないのか呆気にとられたような声をもらすさくらに、はりまおが再び吼える。すると、飼い犬の鳴き声にハッとしたようにさくらはゆっくりとテーブルの上から体を離した。「ああ……」と自分自身に言い聞かせるようにあくび混じりで呟く。

「ボク、居眠りしちゃってたんだね」

 ちょっとだけ恥ずかしそうに頬を朱色に染めて、さくらは呟いた。

「義之くんがボクのこと起こしてくれたんだ。ありがと〜」

 そうして、あふれんばかりの満面の笑みを浮かべる。「いえ、たいしたことじゃ」と謙遜した義之の隣ではりまおが元気いっぱいに吼えた。

「にゃはは、はりまおもボクのこと起こしてくれたんだね」

 さくらがそう言ってはりまおの頭をなでてやると、はりまおは尻尾をぱたぱたと振って喜びの鳴き声をあげる。義之がなでてやってもあそこまで喜んではくれない。やっぱり飼い主が一番か。
 さくらはひとしきりはりまおをなで終わると不意に眉根を寄せた。

「うう……なんだか背中がいたぁ〜い」

 そうして、悲鳴のような声をあげる。

「あんな体勢で寝てるからですよ」

 食堂のテーブルで眠っていたのだ。それはそこいらの筋肉がつっぱって痛むことだろう。義之は呆れた口調で言った。授業中は毎回のように机で眠っている自分に言えることではないのだが。いや、だからこそ寝覚めのだるさと体のこわばりぶりがよくわかる。「それはそうなんだけど」と応じたさくらの声に勢いはなかった。

「ここにいると気持ちよくてついついうとうとしちゃうんだよね」
「まぁ、気持ちはわかります」

 一面のガラス窓が取り込む太陽の光は体だけでなく心まであたたかくしてくれるかのようだ。その窓の外には桜の木々が立ち並び、景観も悪くはない。喫茶店としてこの学食の人気がそこそこある理由もわかる気がした。

「それにしたって……ひょっとしてさくらさん、寝不足ですか?」

 義之が問いかけるとさくらは「うにゅ……」と言葉に詰まった。それが何よりの答えでもあった。昨晩、さくらは家に帰ってこなかった。おそらくは学園に泊まり込んで仕事をしていたのだろう。それも自らの睡眠時間を削って。

「仕事が大事なのはわかりますけど、本当、無理はしないでくださいよ」

 義之が本心からの気遣いの声をかけるとさくらは何故か嬉しそうに笑った。

「? なんで笑うんです?」

 義之の言葉に「ううん」とさくらは嬉しそうに首を振る。

「義之くんが心配してくれて。ボクは幸せものだなぁ〜って」
「……前も言いましたけど、心配させないでくださいよ」

 どこまで本気で言ってるのかはしらないが、やれやれ、と義之はかぶりを振った。

「にゃははっ、善処します♪」

 前も聞いた答えだな、と義之は思ったがそれ以上、このことについて追求する気はなかった。一学生である自分と違い彼女は学園長という立場にある身。その仕事の多忙さも重要さも知らない自分にこれ以上突っ込んだことを言えるはずもない。とりあえず今は彼女の言葉を信じることにしよう。

(でも、本当にさくらさんが大変そうだったら……)

 その時は――――どうしよう? 迷いの思考が脳裏を掠める。さくらさんが本当に大変そうな時、自分には何ができるんだろうか?
 フッと、義之が思考の世界に精神を沈めかけた時、

「ところで義之くん。電話で話した書類なんだけど……」

 さくらの声。その声に義之は物思いから立ち直ると、「あ、はい」と頷きながら、小脇に抱えていた書類を差し出す。

「これであってますよね?」
「うんっ。大丈夫だよ。ありがとね、義之くん」

 さくらは笑顔で書類を受け取った。

「ごめんね、わざわざ持って来てもらって」
「いえ、たいした手間じゃありませんでしたし」

 どのみち、家にいても予定はなかったのだ。学園長室にいなくて、ここまで探すことになったのは手間といえば手間だったが、それでもすぐに見つかったのだし、たいしたことはない。

「ありがとう、義之くん♪」

 さくらは満面の笑みを見せる。いつものさくらさんの笑顔。見ていると不思議と安心するその笑顔を前にして、

「…………」

 何故だか、胸がどきりと跳ねた。



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