12月30日(木)「かえがえのない存在」
玄関から響いた物音に思わず立ち上がる。
数刻の間もおかずに「おじゃましま〜す」という声が続き、彼はいよいよもって玄関に向かって駆けだした。
――あの人が来たんだ。
仕事で忙しくてたまにしかこれないけど、その分、来た時にはたっぷり自分を可愛がってくれる。ココロの中をあったかい気持ちで満たしてくれる。
あの人が来たんだ。
少年は嬉しさに胸が弾むのを感じ、自然、笑顔を浮かべていた。
「いらっしゃい、さくらさん!」
弾んだ思いのまま玄関に着くとその気持ちがそのまま言葉となって出る。期待通り。玄関には金色のロングヘアをもった小柄な来訪者の姿があった。
少年の歓迎に来訪者はおおいに喜んでくれたようだった。
「うん♪ 久しぶりだね、義之くん! いい子にしてた?」
満面の笑みから放たれた問いに少年は「うん!」と元気よく答える。
「ぼく、いい子にしてたよ!」
「にゃはは、そっか〜♪ 義之くんは偉いなぁ〜」
なでなで、と。
小柄な来訪者はそれよりもさらに小さな少年の頭を撫でる。少年は少しだけ気恥ずかしい思いを抱きつつもそのあたたかい感触を喜んだ。
「いらっしゃい、さくら。今日は仕事も早めに終わったんだね」
「さくらさん、いらっしゃい」
「こんばんは、さくらさん」
飛び出てきた少年に少し遅れ、この家の家主とこの家に暮らす二人の少女が顔を出す。来訪者はまぁね、と笑った。
「さくらさん、今日は泊まっていくよね?」
少年は期待を隠しきれずに尋ねる。来訪者はうーん、と少し考えるそぶりを見せた後、
「そうだね♪ こんなに可愛い義之くんもいることだし今日はここの家に泊まらせてもらおうかな。いいよね? お兄ちゃん」
「ああ、勿論。大歓迎だとも」
「にゃはは、ボクが一緒で嬉しい? 義之くん」
来訪者の微笑み。少年もそれに負けないくらいの満面の笑みを浮かべる。
「うん! もっちろんだよ! 今日は一緒に寝ようね、さくらさん!」
「にゃはは、そうだね〜。お風呂も一緒に入ろっか?」
「うん!」
そうして笑い合う。穏やかで心あたたまる時間。
金髪のロングヘアを揺らし、たまに訪れる来訪者。毎日あるわけじゃないけど、それだけにこの時間の大切さは少年にも幼心で理解できていた。
「にゃはは、義之くんは本当に可愛いな〜」
ギュッと、抱きしめられる。とてもあたたかな感触。それを全身で感じ、ぼくは幸せだ、と少年は思った。

今日も初音島は朝から厳しい寒さに襲われていた。
ベッドの上で布団にくるまりながらでもわかる冬の寒さ。
義之が目覚めとともにそれを感じ取り、布団から出る気にもなれずにいると、ばたん、と大きな音をたてて部屋の扉が開いた。
「おっはよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
次いで声。否、大声。
何事かと義之が思う間もなく、声の主は義之の方へと突進する。
「ぐえっ!?」
「義之くん、朝だよ! 朝、朝!!」
布団ごしに馬乗りになられ、思わず義之の口から苦悶の声が漏れるが、そんなことには構わず襲撃者は楽しげな声を弾ませる。
「ほらほら、起きた起きた! 今日から付属3年3組の『やりすぎちゃってごめんなさい、反省してます補習合宿』が始まるんだから〜」
「お、起きてますよ……!」
義之の声ににゃは、とさくらは笑った。
「ささっ、さっさと布団から出る出る。若い者がいつまでも布団でぐーたらしてるのはよくないよ」
「っていうかさくらさんがどいてくれないと起き上がれないじゃないですか……」
「あ、そっか」
指摘され、初めて気付いた、という風にさくらはきょとんとした顔になると義之に馬乗りになっていた体をベッドから下ろす。ようやく自由になった義之はあくびをしながらベッドから起き上がった。
「はいは〜い! さっきも言ったけど本日から『やりすぎちゃってごめんなさい、反省してます補習合宿』が始まりま〜す! 嬉しいでしょ!?」
朝っぱらから相変わらずのハイテンションっぷりに辟易しながら義之は「なんです、そのネーミング……」とだけ言葉を返した。
「勝手に変な名前つけないでくださいよ……」
「ううん。それがこれが正式名称になっちゃったんだな〜。主にボクのゴリ押しで」
「…………」
もはや言葉も出なかった。
最強の学園長には誰も逆らえなかったということか。
「さ、義之くん。早くボクのご飯作って〜」
「そうくると思った……」
ご飯作って〜、はさくらが珍しく義之を起こした時の決まり文句だ。
義之は嘆息すると今日の朝食はどうするかで頭を働かせるのだった。

「はい、めしあがれ」
義之は自分とさくらの分と、そして当然のように訪れていた音姫と由夢の分の朝食を居間のコタツの上に並べ終わるとそう告げた。
「わあ、今日も美味しそう。いただきます」
「うんうん♪ 流石は義之くんだね。いっただきまーす!」
音姫とさくらは素直に賞賛の言葉をあびせる。しかし、由夢だけは様子が違った。
「…………いただきます」
何気ない風を装ってはいるが隠し切れない機嫌の悪さがにじみ出ている。義之は自分も「いただきます」というとコタツに足を入れた。
「今日からなんだよね。例の合宿」
由夢の声。やはりそれはどことなく不機嫌そうで。
「ああ。悪いな、年末年始留守にする羽目になっちゃって」
その不機嫌さの理由を薄々察していた義之はそう言って妹に詫びた。自分の機嫌の悪さを兄が感じ取ったことに少し驚いたのか由夢は一瞬、意外そうな顔をし「悪いな……じゃないよ」とやはり不機嫌そうに続けた。
「年末年始に家にいないなんてサイテー。年越しは家族みんなでする。これが決まりだったでしょ?」
不満たらたらの由夢の言葉。別に厳密に決まりがあったわけではないと義之は思いつつも由夢の言わんとしていることがまるで理解できないわけでもなかった。しかし、もう補習合宿は決まってしまったのだから、義之としては謝罪するしかない。
「普段の素行が悪いから補習なんて受ける羽目になるんだよ」
「だから悪かったって言ってるだろ」
「誠意がこもってない」
完全にすねている。そうすねられても反応に困るのだが。
「お姉ちゃんだってそう思うよね?」
と、姉に同意を求める。
何を言っているのか。人間ができている音姉がこの程度のことで気を悪くするはずがないというのに。義之はそう思ったが、
「うん。私も残念だな〜。弟くんと一緒に年越しそば食べたかったのに」
どうやら姉もまた妹同様、年末年始に自分がいないということには文句が大ありのようだった。
だが、だからといってどうすればいいというのか。困り果てた義之に助け船を出したのはさくらだった。
「にゃはは。二人とも、あんまり義之くんを責めてあげないで。義之くんたちのクラスの処分を決めたのはボクなんだからさ」
「さくらさん……」
「…………」
流石にさくらにこう言われてしまってはそれ以上は追求できないのか音姫も由夢も黙り込む。
「あはは、さくらさんにそう言われたら、何も言えないね。弟くん。でも、帰ってきた後、しっかりこの埋め合わせはしてもらうからね?」
「ああ、了解した」
埋め合わせ。すなわち買い物に付き合ったりしろということだ。その程度で怒りがおさまってくれるのなら安いものだ。
「補習合宿って、補習授業とボランティア活動だっけ?」
「ああ」
由夢の言葉に頷く。
「ボランティア活動なんて、兄さん、絶対さぼるよ」
「お前ね、兄を少しは信頼しろよ……」
そりゃあ、さぼることを全く考えなかったわけではないが。妹の辛辣な言葉と自分の信用のなさに思わず肩を落とす。そんな二人を見て、さくらは笑顔で「大丈夫だよ」と言った。
「ボクの監督の下でのボランティア活動なんだから、義之くんはさぼったりしないよね?」
そうして純粋で無垢な碧い瞳で、真っ直ぐに見られる。疑いなど微塵も抱いていない。この純粋な信頼。これを裏切ることなど義之にはできるはずもなかった。
「ええ。さくらさんの顔にどろをぬるわけにはいきませんからね。誠心誠意、ボランティアに励ませてもらいます」
「弟くん、えらい!」
冷静に考えてみれば罰としてボランティア活動をやる羽目になったのだからそれに真面目に取り組むことは当たり前のことで褒められることでもないような気もするのだが姉は「えらい、えらい」と義之を褒め称える。
「ま、そこまで言ったのなら流石の兄さんもさぼりはしないでしょう」
妹もまた得心したようだった。
そうだ。さぼるわけにはいかない。さくらさんが見ているんだ。さくらさんをがっかりさせるわけにはいかない。さくらさんの信頼を裏切るような真似はできない。
さくらの前だと『いい子』になってしまう自分に少し呆れに近い感情を義之は覚える。
――――ぼく、いい子にしてたよ!
ふと今朝の夢に出てきた幼少期の自分の言葉が頭の中で反響した。

それから朝倉姉妹と別れ、さくらと二人で義之は風見学園に登校した。
昇降口のところでさくらと別れ、一人、教室へ向かう。冬休み中だというのにこうして学生服を着て登校するというのはなんとも奇妙なものだった。不思議な感覚を抱きながら義之が付属3年3組の扉を開けると中には見知ったクラスメイトたちの姿があった。
冬休み中だというのにこうしてみんなして教室に集まっている。ますます奇妙な気分を覚えながら義之は見知った顔の一人に声をかける。
「おっす、委員長」
「桜内……おはよう」
委員長、沢井麻耶は頭痛でもするのか額を手でおさえていた。どうしてこうなってしまったのか、そう顔に書いてある。
無理もない。品行方正な優等生でこれまで通してきたのがここにきて問題児軍団の仲間入りをしてしまったのだ。さぞ頭の痛いことだろう。
「はぁ……」
吐き出されたため息がその感情を表しているようだった。
「まぁ、そう気落ちするなって。元気出せよ」
そんな委員長を見ていると柄にもないのに元気付けるような言葉が口をついて出る。
「今回も委員長は巻き込まれただけなんだろ? こうなったのも杏や茜の暴走が原因で……」
「……そうでもないのよ」
「へっ?」
麻耶の意外な言葉に義之は目を丸くする。今回も彼女は問題児軍団である自分たち――自分で問題児というのもなんだか――に巻き込まれただけだと思っていたが、違ったのだろうか?
「……認めたくないけど今回は私も主犯格の一人なのよ。なんせ水着を……」
「水着?」
「……ああ、いや、なんでもない……思い出したくもない……うう」
きょとんとした義之に構わず麻耶はやはり頭が痛いのか額を手でおさえるとそのままがっくりとうなだれた。
今は一人にしておいた方がいいかもしれない。そう判断した義之は自分の席へと向かった。
「みんなーー、おっはよーー!」
義之が自分の椅子に座るのと時を同じくして教室の扉から騒がしい声と共に茜が入ってくる。続いて杏、小恋、渉。
「あれ〜、なんだかみんな元気ないねぇ」
「元気なくて当然だろ、なんたって補習なんだからさ」
不思議そうな顔をした茜に渉が肩を落として言う。むしろどうしてお前はそんなに元気なんだ、という思いが見て取れたし、義之としてもそれは渉に同感だった。
「義之くん、おっはよー!」
「……おはよう。元気だな、茜」
「えへへ〜、お褒めにあずかり恐縮至極です」
別に褒めてない。
「これから補習なんだぞ?」
「それはわかってるよ〜、でも、みんな一緒なんでしょ? 朝も昼も夜も。それって旅行みたいで楽しいじゃない?」
「まぁ、そう思えないこともないけど……」
かといって茜のように元気100パーセントで楽しむ、ということができるほど義之はプラス思考ではない。
「ふふふ、夜は楽しみにしててね……とっておきのパジャマ。選んできたから」
杏がにやり、と妖艶な笑みを浮かべて言う。「茜さんのセクシーなパジャマ、たっぷり堪能してね♪」とそんな杏に茜が続く。
「パジャマならSSPで散々見た。だいたい夜は学園指定のジャージで寝ることになってるだろうが……」
はぁ、とため息が一つ。そもそもパジャマが原因で問題になったのだ。パジャマなんて許してくれる訳がない。
「えへへ〜、そうでした」
「残念ね、小恋。エロエロなパジャマで義之に夜這いをかけるチャンスだったのに」
「え、え〜!? 月島はそんなことしないよ! パジャマだって普通のだし……」
からかいの矛先を義之から小恋に変え、杏が笑う。
「ま、体操服で夜這い……っていうのもニッチでいいかもね。小恋、頑張って」
「頑張れ、小恋ちゃん!」
「だからそんなことしないってば〜!」
朝っぱらから小恋の悲鳴が教室に響く。補習合宿、とあってもいつも通りの雪月花であった。
「月島のエロエロなパジャマ姿……体操服姿……いかん、想像したら鼻血が……!」
「渉、お前もやめい」
そんな雪月花を眺めながら妄想の世界へと旅立とうとする悪友に義之はさらにため息をついた。
「おっと、いかんいかん。あっちの世界にいっちまうところだった。……へへっ、俄然、この補習合宿が楽しみになってきたぜ」
単純な奴だ……と義之は呆れた。
「夜のイベント大歓迎! いやぁ、早く夜にならないかなぁ〜!」
「渉。私たちはあんたとは離れたところで寝るからね」
「なんでさ!?」
「下心が見え見えだからだろ……」
冷や水をぶっかけるかのごとく冷たい言葉をはいた杏に、有頂天から一気に絶望の表情に染まった渉。
「渉くん、サイテー」
「あそこまであからさまなのはちょっと引いちゃうよねぇ……」
「つ、月島に茜まで……俺、あからさまじゃないよ! ぜぇんぜぇん、やましいことなんて考えてないよ! 紳士だよ!」
つい先ほど、「夜のイベント大歓迎」などと言っていた人間が言っても説得力は皆無だった。
「だいたいなんでこうして補習合宿を受ける羽目になったか考えろよ……夜のイベントなんてあったらほんとに洒落じゃ済まなくなるぞ」
まぁ、杏にせよ、渉にせよ、冗談半分で言っているのはわかっているが、義之としては一応、釘を刺しておく。
「残念ね」
杏は静かに笑い、
「ほんっっっと! 残念だぜ!」
渉はどことなく本気でそう思っているかのように言う。
(まぁ、なんにせよ、こいつらと四六時中一緒だと退屈はせずにすみそうだな)
不安半分期待半分で義之はそう思った。

それから、いざ、補習授業の開始時間を迎えても教師がやってくることはなく、あまりの遅さ――それでもおしゃべりに興じたりする生徒はおらず皆、静かに待っていたところを見るにのっけから反省してます、という姿勢を崩すつもりはないようだ――に委員長の麻耶が職員室に問い合わせに行こうと席を立ちかけた、ところで教師は現れた。
付属3年3組の補習授業を担当するその教師は、なんとさくらだった。
さくらは今でこそ風見学園の学園長を務めていて教壇に立つことはないが、かつては一般教師として教壇に立っていた……ということは義之も知っていたものの、まさかさくらの授業を受けることになるなど想像もしていなかっただけにこれは義之も驚いた。さらに麻耶が何の授業をするのかと尋ねてみればさくらはほぼ全ての科目の教員免許を取得しているらしく「どんな授業がいい?」と逆に尋ねられる始末である。
結局、どちらかと言えば理系が得意であるらしいさくらの判断で理科の授業をすることになったのだが、その授業のレベルは義之たちの頭脳レベルを遙かに超えていた。
『ハイゼンベルクの不確定性原理』なる聞き慣れない単語に始まり、『特殊相対性理論』『一般相対論』『ラプラスの悪魔』に『シュレーディンガーの猫』etc…。
少なくとも義之にはさっぱり訳が分からない単語が並び立てられた。自分たちは物理の基礎も習っていない、という麻耶の抗議――物理に関係する単語かつどういう授業をするのかが分かるだけ委員長は凄い、と義之は思った――も虚しく、「どうせなら普段やらないような授業の方が面白いでしょ?」とさくらはそのまま授業を進め、この『難しいお話』は60分にわたり続けられた。
「あれ? もうこんな時間? それじゃあ今日のところはこの辺りにしておこうかな」
思う存分、自らが得意とする理系の講義をして、さくらは満足げな顔をして教室を後にしたが、
「……も、燃え尽きたぜ…………」
そんなさくらの後ろ姿を見送りながら義之はがっくりと机に上半身を突っ伏した。

「ああ、頭痛い……ほとんど理解できなかった」
そう言って額を手でおさえているのは委員長の麻耶だ。杉並や杏といった特殊な人間を除けばおそらくこのクラスで一番頭がいい彼女にこう言わせるのだから自分が馬鹿だったわけではなくさくらさんの授業の難易度はそれだけ高かったということだろう。気付けば「お疲れ様、委員長」と声をかけてた。
「さくらさんの授業、難しかったな」
「多分、大学の講義レベルの内容よ……4割くらいしか理解できなかったわ」
「俺もそんなもんだ」
本当は3割くらいしか理解できなかったのだが、ここは見栄を張ってみることにする。
「真面目な物理学の授業かと思ったら運命決定論だとか分岐する未来だとか言い出すし……訳が分からなかったわ」
「さくらさん、そういうファンタジーっていうか、メルヘンっていうか、そういうのが好きだからなぁ」
「明日以降もこんな授業が続くのかしら……」
それは義之としても危惧していることだった。正直、今日の基本――らしい――ですら訳がわからないのにこれを発展・応用させた内容の授業なんて考えるだけで恐ろしい。
「あら、別にいいじゃない。園長先生の話、面白かったし」
「ふむ。ここは雪村嬢に同意しておこう。なかなかに楽しい時間だったな」
そんなことをしたりと言ってのけるのはこのクラスにおける特殊な二人、杏と杉並だ。
「杏……お前、さくらさんの授業、理解できたのかよ?」
「全部を理解できたわけじゃないけど……園長先生の言った言葉は一言一句違わず覚えているわ」
にやり、と杏が笑う。
「杉並、お前は?」
「あの程度、基本だろう。このくらいで根を上げられてしまっては俺の同志は務まらんぞ? 桜内」
務めたくもない。
どこまで本当かわからないが、杉並はさっきのさくらの授業が理解できているようだった。それは余裕の微笑みからも伺うことができる。おそらく、見栄でもハッタリでもない。
「ま、お前らは特殊だからな……」
義之としてはこう言って嘆息するしかない。
「いたって普通よ」
「フッ、このくらいは普通だろう」
普通、という言葉の定義を考えたくなる返答だった。
あの授業が理解できているのが普通ならこのクラス中を満たす疲れ切った雰囲気は一体何だというのだろう。ところが。
「そーだな、俺もいつも通りの授業だったと思うぜ」
「私も、私もー。いつも通りの授業だと思うけどな」
そんな杏と杉並の意見に同意するように渉と茜が声をあげる。「え?」と驚きの声をもらしたのは義之、麻耶だけではなく、小恋もだった。
「渉くん、茜、すごーい。月島、ほとんど理解できなかったのに」
「おっ、月島にすごい、って言われると気分いいな」
もっと言って、もっと、と渉はにやける。しかし、今回ばかりは小恋に同意せざるを得ない。渉と茜、ひょっとしてすごく頭がいいのか?
そんな疑問は義之だけではなかったようで……。
「あんたたちさっきの授業が理解できたっていうの……?」
麻耶がそう言って渉と茜を見る。その視線には驚きと疑惑が半々に混ざっている。
「いや、全っ然、理解できなかったぜ!」
「私もー」
しかし、渉と茜は笑顔でそんなことを言ってのけ、思わず「は?」と義之と麻耶、小恋はかたまる。
「どういうことだよ……?」
義之の呟きに茜は「だーかーらー」と答える。
「普段の授業もちんぷんかんぷんだからね。今日の授業も普段と変わらなかったってことだよ」
「そゆこと」
茜の言葉に渉は笑って同意する。義之としては絶句するしかない。
「……ま、そんなことだと思った」
「はぁ……」
「なーんだ……」
義之、麻耶、小恋がそろって呆れのため息をつくも渉と茜は気にした風もなくあっけらかんと笑っていた。

そして午後。
場所は風見学園の教室から移って商店街の中。師走のこの時期、商店街は人であふれている。そんな人々の間をぬって義之たち風見学園付属3年3組の面々は集合していた。
補習合宿の一環のボランティア活動。どうやら今日はこの商店街でゴミ拾いをするらしい。
ゴミ拾い用のビニール袋を手渡され、義之たちは監督役であるさくらの説明に聞き入っていた。
「……という訳で組合の方には既に話は通っているので拾いまくってくれて問題ナッシング!」
さくらはにこやかな笑みで説明をした。
「組合の人たちも今時、感心しますなー、ってみんなのこと褒めてたよ」
にゃはは、といつもの笑い。
まぁ、感心できないことをやったからこんなことをしているわけだけど、とさくらの言葉に義之は野暮な突っ込みを心の中でいれた。
「はいはーい、それじゃあみんな指定の場所についてゴミ拾いを始めちゃってくださーい! しっかりね〜♪」
さくらのその言葉を合図に一同に集合していた面々はそれぞれに割り振られた場所に散っていく。義之もまた、そんな生徒の一人だった。
とはいえ、指定の場所、といってもおおまかに決められているに過ぎない。義之はやや所在なさげな思いで商店街をふらふらと歩き回り、ゴミを見かけると手元のビニール袋に入れる、という行為を繰り返していた。
「義之」
そんな義之に声がかかる。顔を上げてみれば雪月花三人組がいた。「ん、どした?」と返した義之に杏が言葉を続ける。
「せっかくだし、一緒にゴミ拾いやらない?」
杏の言葉に少し考え込む。杏の後ろにひかえている小恋と茜も笑顔で、杏の提案に異論はないようだった。
雪月花と一緒にゴミ拾い、か。たしかに一人でゴミ拾いをする、ということに少しのさびしさを覚えていたのは事実だ。その点、この騒がしいメンツと一緒にいれば退屈は感じないだろう。しかし。
「いや、せっかくの誘いだけど、やめとくよ」
「あら、どうして?」
杏は首を傾げる。
「この往来の中、四人でかたまって動くってのは他の人に迷惑だろ?」
そう、そうなのだ。師走の時期、ということもあって商店街には買い物客が溢れている。一人で行動していても誰かとぶつかりそうになるくらいなのだ。そんなところで四人もの人間がかたまって動いていては間違いなく通行の妨げになってしまう。それに落ちているゴミは多いとは言え、あまり大勢の人間が一緒にいてもゴミはそんな一カ所にかたまって落ちているわけではない。集団行動は非効率的だろう。今回に限っては。
杏は自らの唇に指を当てると少し考え込み「それもそうね」と呟いた。
「義之と一緒に行動できないのは残念だけど今回はまぁ、諦めておくわ」
「ほんっと、ざんね〜ん!」
「それじゃあ、義之もゴミ拾い頑張ってね」
杏に続き茜、小恋がそう言うと雪月花三人組は義之の側から去って行った。
(さて、そんじゃ俺もゴミ拾いを続けますかね)
目の前の作業に集中し、黙々とゴミ拾いを続ける。自分でも不思議なことにさぼろうという気分は起きなかった。さくらさんが監督している、ということはやはり大きいのだろう。
「っと、すみません」
通りすがりの買い物客にぶつかりそうになり慌てて謝罪の言葉と共に頭を下げる。幸いにも相手は特に気にした風もなく通り過ぎていった。
(……にしても)
人が多い。見渡す限り、人、人、人……という程ではないにせよ商店街は人で溢れている。その数を数えきることなど到底できない。商店街だけでこれなのだ。初音島全体にはもっと沢山の人がいて、住んでいて、人生を送っている。それは到底、想像もできない数で、想像もできない数の人生がある。初音島だけではない日本列島全体には初音島の数十倍以上の人たちがいて、そして世界にはそんな日本の人間よりさらに沢山の人たちがいる。
その中には良い人もいれば、悪い人もいる。幸せな人もいれば、不幸な人もいるだろう。これから先、この初音島で人生を送るにせよ、島の外に出て行くにせよ、義之と関わりになる人間なんてそんな大きな枠組みの中で考えればほんの少し、ごく僅かな数だけだろう。ほとんどの人間とは接点のないまま義之は生きていく。それは至極、当たり前のこと。
自分一人ができることなんてたかがしれている。自分一人で世界中の人を幸せにすることなんて到底、できないし、逆に不幸にすることもない。自分が幸せにできる人間なんて数えるくらいしかいなくて――それも凄く難しいことだ――、逆に自分がいることで不幸になる人間だってそう多くない。
(うーむ)
なんだか哲学的だ。こんなことを考えるのは自分のガラじゃない。だというのに何気なく思いついてしまったことが気になって仕方がない。そんなことを思っていると、
「こーらー、手が止まってるぞ〜?」
声。それは聞き慣れた、耳心地の良い声。
振り返ってみれば、さくらが怒っている、というよりはからかうような笑みで義之を見据えていた。
「しっかりしないとダメでしょ〜?」
「すみません、さくらさん。ちょっと考え事を……」
「考え事?」
興味深そうにさくらは首を傾げる。
その表情を見る。
あの日、感じた胸の高鳴りはもうない。
やはりあれは何かの気の迷いだったのだろう。
当然だ。
自分がこの人に家族以上の感情を抱くことなんてあり得ないのだから。
義之はそう得心しつつ、『考え事』を話した。
「人間ってちっぽけな存在だな、って思いまして」
さくらは一瞬、碧い瞳をぱちくりとさせた。
「……どうしてちっぽけだって思うの?」
そう問いかけるさくらの表情からは先ほどの人をからかうような笑みは消えていて、どことなく真剣さが溢れていた。
どうしたんだろう、と少し疑問に思いながらも義之は道行く人たちを示した。
「いやだって、この商店街には今、これだけ多くの人がいるわけじゃないですか」
「うん、そうだね」
「でも、こんなに沢山の人がいるのに、俺はそのほとんどの人にとってはどうでもいい存在で何もしてあげることもできない。幸せになる手助けも不幸にさせることも何もできない。こんなに沢山の人がいるのに、俺はそのほとんどの人に影響を与えることができない」
義之は言葉を発しながら、何を当たり前のことを言っているんだろう、と内心で自分に苦笑した。こんなこと当たり前のことだ。わざわざ口にすることでもない。そう少なくともボランティア活動の手を止めて、自分の保護者みたいな人の前で堂々と口にすることではない。
「……ね、ちっぽけな存在でしょ? 俺っていう人間は」
自嘲めいた笑みがこぼれる。そう、商店街、初音島、日本、世界……そんな大きな枠組みの中では自分なんて本当にちっぽけな存在だ。
当たり前のことを言っただけのつもりだった。一人の人間にできること、一人の人間にできないこと、一人の人間の限界。誰もが自覚していること。それを口に出したつもりだった。しかし。
「……ちっぽけなんかじゃないよ」
さくらはそう言って義之の言葉を否定した。
その碧い瞳は真剣な色をおびたまま、真っ直ぐに義之を見る。
「義之くんはボクにとってかけがえのない大きな存在だよ」
自分だってさくらさんのことはかけがえのない大きな存在だと思っているが、こうストレートに言われると照れ臭くなってしまう。「……どうも」とだけ義之は返した。
「けど、それはさくらさんにとってのことで他の大多数の人間にとっては俺なんてどうでもいい存在でしょ?」
「うん、たしかにそうかもしれない。だけど、だからって義之くんがちっぽけな存在になるのかと言われればそれは少し違うと思うな」
生徒を説き伏せる教師、というよりは子供に何かを言い聞かせる母親のようにさくらは言葉を続ける。
「どんな人間も自分の世界をもって生きている。家族、友人、といった限定された世界だね。それは世界……この地球全体から見れば凄く小さなものかもしれない。けどだからってその人の世界に価値がないってことはないんだよ。それは決してちっぽけな存在なんかじゃない。ううん、ちっぽけな存在なんてこの世界には存在していないんだとボクは思うな。どんな人間でもその人の世界があって、それが数多に連なることで大きな世界を形成している……誰一人でも欠けちゃいけないんだよ。誰もが誰かに必要とされている、誰かを必要としている。この世界に住む人、一人一人がかけがえのない存在なんだからさ」
さくらの表情は聖母のようにおだやかでやさしいものだった。とくん、と胸が跳ねる。美しい、と思った。
「そういうもの……でしょうか」
「うん♪ 義之くんはボクにとってかけがえのない存在で、義之くんの存在がボクを幸せにしてくれる。それがきっと回り回って世界のためにもなる。そう思うよ」
「俺は、さくらさんを幸せにできてるんでしょうか?」
義之がそう問うと、さくらはきょとんとした顔をした。何を当たり前のことを聞いているの、とでも言うように。
「それはそうだよ。義之くんがそばにいてくれて、ボクは幸せ、ううん、すっごく幸せだよ♪」
笑顔。満面の笑顔でつむがれたその言葉に嘘があるはずはなく。
「ボクだけじゃないよ。義之くんは音姫ちゃんや由夢ちゃんも幸せにしている。義之くんがいることでボクたち家族は幸せになれる。それは、誇っていいことだと思うけどな」
「それなら、いいんですけど……」
自分が彼女たちを幸せにしている。それはあまり実感のないことだ。だけど、この人が言うからにはそれは多分、真実なんだろう。……あれ?
(…………)
気がつけばさくらの表情から目を離せなくなっていた。そんな自分に気付き、唖然とする。一人一人の人間が世界を形成していると言った時の美しい顔、義之の存在が自分を幸せにしてくれると言った時のまぶしい笑顔。それらから目が離せないでいる。
とくん、と、また胸が跳ねた。
「だから、義之くんはちっぽけな存在なんかじゃないよ……ってどうしたのかな?」
義之の視線に気付いたのかさくらが怪訝な顔をする。「ボクの顔に何かついてる?」と首を傾げた彼女にいいえ、と首を横に振り義之は否定する。
「はい! それじゃあ、お話タイムはこれでおしまい♪ 義之くんはゴミ拾いに戻ってね♪」
そんな義之の不審な仕草を特に気にすることはなかったのかさくらはそう言うと身を翻してその場から去って行った。
その後ろ姿を眺めながら義之は、
(……ほーんと、どうしちまったのかねぇ、俺は)
自分の中に起きている変化を、未だ認められないでいた。
あの人の真剣な瞳、あの人のおだやかでやさしい顔、あの人の天真爛漫な笑顔。それらの全てが胸の中に波紋を起こす。
やっぱり、もしかしたら、自分は――。
自分はあの人に単なる家族以上の感情を抱いているのでは――。
自分はあの人のことを――。
(バカバカしい)
義之はそこで思考を断ち切った。ボランティア活動をしていることをありがたいと思った。ゴミ拾いに集中していれば少なくとも考え事が、変な考え事が脳裏をよぎらずに済む。
そう思い義之はゴミ拾いを再開するのであった。
――――義之くんがそばにいてくれて、ボクは幸せ、ううん、すっごく幸せだよ。
自分がいることであの人を幸せにできている。その事実に歓喜を覚えていることには義之本人はついに気付くことができなかった。