12月31日(金)「運命の大晦日」





 冷ややかな寒さが意識を覚醒へと導いた。
 ――――天井が高い。眠りの世界から醒め、瞼を開いた義之はそんなことをぼんやりと思った。普段、見慣れた自室の天井ではない。自分の部屋の天井はこんなに高くはないし、広々ともしていない、とそこまで考えてようやく今、自分がいる場所が自室ではないことを思い出した。
 今、自分がいる場所。そこは芳乃家の自室ではなく、風見学園の体育館だ。成る程。ならばこの高く、広々とした天井にも納得がいく。やや遅れて、今、自分が補習合宿の真っ最中だということも思い出す。
 そうだ。昨日は商店街のゴミ拾いのボランティア活動を終えて、学園に帰ってきてから男子は宿泊施設となるこの体育館の掃除、女子は夕食であるカレー作りを命じられて、何故か義之は男子なのに掃除ではなく、女子と共にカレー作りに参加することになって、そうして夕食を終えた後、皆の布団をこの体育館まで運び込み、風呂代わりに学園長室のシャワーを交代で使って、就寝時間になっても夜遅くまで皆とトランプをしたりしながら過ごして、眠りについたんだ。
 しかし、体育館で眠り、朝を迎えることになるとはなんとも貴重な経験だ。避難訓練か何かかと思ってしまう。

「グーテンモルゲン、桜内」
「うぉわっ!」

 布団から体を起こしたところにいきなり声をかけられて驚く。
 寝間着のジャージ……ではなく既に学生服に着替え終わっている杉並がいた。

「杉並か……朝から脅かすなよ」
「フッ、何……我が同志の目覚めが遅いのでな。こうして起こしてやったという訳だ」

 目覚めが遅い、と言われて辺りを見渡す。たしかに。体育館一面に敷き詰められていた布団はそのほとんどが片付けられて、そこにいる生徒も多くは制服に着替え終わっていた。未だ寝間着姿で眠っていた自分は目覚めが遅い方になるのだろう。

「茜や委員長は?」

 何の因果か自分の両隣で眠る羽目になってしまっていた二人の名前を出す。義之の布団の両隣にあったはずの布団は既に無くなっており、そこで眠っていた二人の姿もない。

「とっくに布団を片付けて着替え済みだ。貴様も早くするのだな」

 杉並は腕を組み、そう言った。相変わらず無駄に偉そうだったが、今回に限っては杉並の方が正しい。さっさとこの布団を片付けて学生服に着替えよう……そう思った義之のところに新たな声がかかった。

「よ〜し〜ゆ〜き〜」
「……渉か。おはよう。……気持ち悪い声出すな」
「おっす、おはよ。しかし、気持ち悪い声はひでえなぁ」

 そう言う渉は何故か涙目だ。「どうしたんだよ。朝っぱらから辛気くさい顔して」と義之が問うと、

「朝だったんだ」
「は?」
「だから、朝だったんだよ〜!」

 よくわからないことを言う。今は朝だ。それは疑いの余地もない事実だ。だが、それがどうしたというのだろう?

「夜中に起きて女子たちとあんなことやこんなことしようと思っていたのに、気付いたら朝になってったんだよ〜! ちくしょおおおお!」

 ああ、そういうことか、と納得する。
 と、同時に何も問題が起きなくてよかった、と安心する。

「あっそ……」

 そういえば昨夜はやたら早くに渉のいびきが遠くから――義之たち友人一同はトランプなどをするため近くに集まっていたのだが渉だけ遠くで眠る羽目になったのは杏曰くいびきのうるささをはじめその他諸々の懸念事項を考慮した結果だ――聞こえてきた気がする。寝付きは良い方で、しかもじっくり熟睡できたのだろう。

「あっそ……はねえだろ! ちくしょう! こんな機会、滅多にないってのに! ああ、もう、俺のバカ〜〜〜!!」

 とりあえずこの自他共に認めるバカは放っておいて自分もさっさと布団を片付けて着替えることにしよう。
 義之はそう思うと、布団の片付けから取りかかった。



 義之が布団を片付けたり、着替えたりしている内に補習授業開始の時間になった。昨日とは違い今日はさくらは遅れることなく教室に姿を見せた。

「グッ、モーニング! みんな、よく眠れたかな〜?」

 ――――自分はもしかしたら。芳乃さくら。風見学園の学園長で自分と共に暮らす自分の大恩人にして、保護者のような人。そんな人に対して、自分は――もしかしたら。
 昨日の今日、ということもあり義之は自分が胸に抱いた想いをたしかめようと思わずさくらの顔を目で追ってしまう。そんな義之の視線にさくらは気付いたようだった。うにゃ? と一瞬、不思議そうな顔をしたかと思えば、その表情はすぐに笑顔に変わった。

「にゃはは、どうしたの義之くん。ボクの顔、じーっと見たりして」

 ドキリ、とした。
 そして同時に自分にハッとする。ちょっと顔を眺めるだけのつもりが無意識の内にじっくりと見てしまっていた。

「……あ、いや、その」

 なんと言い訳しようか。そんなことを考えていると、

「あ、わかった! 昨夜はみんなと一緒に寝て、ボクと一緒に寝られなかったからボクが寂しくなっちゃったんでしょ? いつもは一緒に眠ってるのにね〜♪」

 なんて、とんでもないことをさくらは口走った。
 ざわ、と教室中がざわめき出す。驚愕半分疑惑半分のざわめきだ。おい、マジかよ。空気がそう言っていた。

「よ、義之……お前……」
「えーっ! ち、違うよね、義之……」

 渉と小恋も目をまんまるにして義之を見る。言い訳も何もなかった。いきなり何を言い出すんだ。この人は!

「合宿が終わったらまた一緒に寝られるから、それまでは我慢してね♪」

 衝撃も冷めやらぬ中、さくらはさらに追加の燃料を投下する。再び教室中に走るざわめき。
 マジかよ。まさか。そんな。

「さ、さくらさん! 何、変なことを言ってるんですか!」

 教室中からの視線を感じ、思わず義之の口から上擦った声が出る。にゃはは、とさくらはいつもの笑い。

「あのー、芳乃学え……先生、そろそろ授業を始めてもらえますか?」

 そんな状況を救ったのは委員長の麻耶だった。ちなみに学園長、と言いかけて先生と言い直したのは昨日の授業の際に今回の補習授業の間はそう呼ぶようにとさくらから言われているためである。

「そうだね。それじゃあ、冗談もほどほどにして今日の授業、始めちゃおっか♪」

 さくらはそう言うと教壇に立つ。助かった、と義之は麻耶にアイコンタクトを送るも、麻耶はそっぽを向いた。
 他愛のない冗談を飛ばすさくら。いつものさくらさん。その姿を目にしても昨日のような胸の高鳴りは感じられなかった。
 ――――やはり、気のせいだったのだろうか?
 自分にそう問いかける。それは何度目かの問い。あの人の姿に胸が跳ねる度に気のせいだ、と思う。何度も思う、否、思おうとした。今度も自分はそう思い込もうとしているだけではないのだろうか? あの人への思いを否定したいだけではないのだろうか? だとしたら、
 ――――何故、否定したい?
 何故だって? そんなの当り前だ。自分があの人にそういう思いを抱くなんて……。

「はーい、昨日は量子論におけるヒュー・エヴェレットの多世界解釈について授業をしましたが……」

 さくらの声に思考に埋没していた意識を引き戻される。ぼんやりとした思惟は雲散霧消し、現実を目の前にハッとする。さくらさんはまた何か難しいことを言った。まさか今日も昨日のような難解授業が始まるというのか!?
 だが、そんな義之の危惧は杞憂に終わった。

「……残念なことに難しかったよー、という声が多かったので今日はもう少しやさしめの授業にしようと思います」

 一気に教室全体の空気が弛緩したことを感じる。やはり、昨日の授業についていけなかったのは義之だけではなかったようだ。

「それじゃあ今日は……数学にしようかな? はーい、口頭で問題を言うのでみんな、ノート出してね〜」

 さくらは片腕をあげ、笑顔でそう言う。義之はノートとシャーペンを取り出した。

「ん〜と、ね〜、マサオくんは300km離れたところにあるお店にリンゴを3個買いに行きました。マサオくんは一時間に80km歩くことができます。さて、リンゴを買ってくるのにどれだけかかるでしょうか?」

 ……………………。
 思わず凍り付いた。
 そして、突っ込みが怒涛のように溢れてくる。

(ど、どこから突っ込むべきだ……!?)

 たかがリンゴ3個買うために300kmも離れたお店に行くのは何故なのか? 時速80kmで歩くことができるマサオくんは何者なのか? というか、そもそも――

(なんですか、さくらさん。その問題は!? 小学生レベルじゃないですか――――!)

 その後も、終始、同じようなレベルの――小学生レベルの――問題が続き、補習合宿二日目の授業は終わりを告げたのだった。



 補習授業も終わり、体育館で昼食も――お弁当が用意されたのだが杏が言うにはかなり高い弁当らしい――食べ終え、ボランティア活動の時間になった。
 義之たちは風見学園を出て、桜並木を歩き、桜公園に集められていた。
 年も変わろうとするこの時期にあっても桜公園はいつもと変わらず、無数に立ち並んだ木々が薄紅色の花びらを満開に咲かせ、そして、舞い散らせている。
 そんな桜公園に集められ、そして、大量に用意された箒やチリトリを目にすれば自分たちが何をやらされようとしているのは明白だった。
 しかし、認めたくなかった。
 一年中、桜が咲くこの初音島において舞い散り、地面に積もった桜の花びら程、厄介なゴミはない。特に桜の木々で溢れたこの桜公園においてその量は半端なく、清掃業者も「桜公園がある限り安泰だ」と言っている程だ。
 そんな無限と言っていい量の花びらを――。

「なぁ、委員長。まさか……」

 義之がおそるおそるといった調子で麻耶に声をかける。麻耶は軽くため息をつくと、そこに集まったクラスの一同を見渡して言葉を放った。

「はーい、みんなにはこれからこの公園の掃除をしてもらいまーす」

 えー、と声が上がる。まさか、とは思っていたが本当にそうだとは。

「おいおい、委員長。冗談だろ? キリがないぜ?」

 渉の言葉はクラス一同の気持ちの代弁だった。
 この桜公園の溢れる無数の花びらを箒とチリトリだけで対処しようというのは無理極まる話だ。砂漠の砂をスプーンですくうようなものである。
 麻耶はそんな一同の気持ちも解るのか再びため息をつくと、

「正直な話、私もこの仕打ちはどうかと思うのですが、学園側としては清掃業者さんのありがたみを知ってもらうことが目的のようです。なので皆さん、時間いっぱい、頑張ってみてください」

 「え〜!」と一同から不満の声があがる。しかし、麻耶はそれ以上何も言うことはなく、箒を手にした。
 やるしかない、のか。文句や不満の声をあげるのは簡単だ。しかし、それで状況が変わるとは思えない。ならば不毛なことはやめて目の前に与えられた役目を全うする方が余程建設的か。義之は覚悟を決めた。
 そんな思いで義之が箒を手に取ると声が聞こえた。

「この公園を掃除すればいいんだな? 杏先輩」

 その声の主は義之もよく知っている。天枷美夏だ。

「ええ、そうよ。頑張ってちょうだい、美夏」
「任せておけ! 美夏がいる限り、この公園の塵芥[ちりあくた]に明日はない!」

 気合十分。美夏は意気込んでそう言うと箒の一つを手に取った。
 美夏は付属3年3組の生徒ではない。だから本来はこんなボランティア活動に参加する必要も、義理もないはずだ。なのに何故美夏がここにいて、クラスの一同の中でも特にやる気を見せているかといえば、それは杏の謀略による。

「杏、お前、今日のボランティアの内容知ってて天枷を誘い込んだだろ?」
「さあ、どうかしらね」

 義之が杏に耳打ちするも、杏は相変わらず何かをたくらんでいるような不敵な笑みを見せただけだった。
 そう。教室でさくらの補習授業が終わり、体育館でお昼の弁当を食べた後、美夏はやってきたのだ。陣中見舞い、と本人は称し、お菓子やジュースなどをいくつか持ってきたのだが、そのまま挨拶だけして帰る、というのは杏が許さなかった。杏は美夏にまだ帰らないで、今日のボランティア活動を手伝ってほしい、と告げ、美夏は敬愛する杏の言葉に逆らえなかったのかボランティア活動、つまり、大嫌いな『人間たち』に無償で奉仕する、ということに若干の抵抗感を見せつつも、帰ることはなく、こうして一緒にボランティアに参加してくれている。義理堅いというか、なんというか。その立ち振る舞いには義之としても感心してしまう。それも嫌々やっているような様子はなく、やる気は充分でなるほどこれからの終わりの見えない清掃作業をするにあたってこれ以上なく心強い戦力であると言えよう。

「んじゃ、俺たちも始めますかね。天枷だけに任せるわけにもいかねえし」
「そうね。義之、私は小恋や茜と一緒にするつもりだけど、義之も一緒に、どう?」
「せっかくのお誘い、ありがたいけど……今回は遠慮しておくよ」

 義之がそう言うと杏は相変わらず感情の読めないポーカーフェイスで「そう」とだけ呟くと小恋や茜がいる方へと歩いて行った。
 さて、それでは自分もまた掃除を始めるとしよう。

「まずはこの辺りから掃いていくかな」

 桜公園の地面は舞い散った桜の花びらで溢れている。掃く場所、掃く物がなくて困る、ということはない。最も、それが幸いなのか不幸なのかは非常に判断しづらいことではあるが。
 義之はせっせと地道な作業を開始するのであった。



 そうして掃除を始めてどれくらい経っただろう。チリトリに桜の花びらを掃いて入れてそれが満杯になれば公園の中央に置かれてある大きなゴミ袋に入れ、また空になったチリトリに桜の花びらを入れる。その回数、三回目。義之が少し疲れを感じていると、不意に声がかかった。

「Hi♪ 義之くん、ボランティア、がんばってるかな〜?」

 明るい声。振り返るまでもない。そこにいるのは自分の家族。自分が今、複雑な思いを抱かされる羽目になっている原因。そして、もしかしたら自分が■きであるかもしれない人。

(………………)

 箒で掃く手も止まる。どんな顔をして振り向けばいいか、それがわからない。朝の補習授業の時はよかった。あの時は教室に自分以外のクラスメイトが大勢いて彼女の視線が自分だけにそそがれる、なんてことはなかった。しかし、今は違う。広い桜公園にクラスメイトたちは散らばって清掃作業をしていて、今、この場にいるのは自分一人。さくらさんとは一対一で向き合う形になる。
 それが気まずい。――――いや、待て、何故気まずい?
 気まずいという感情は少し、違う気がする。この感情は気まずいというより――

「よ〜し〜ゆ〜き〜く〜ん?」

 再度、呼びかかられる。今度は少しだけ不満そうな声。義之は慌てて振り向いた。直前までの思考は保留にし、すみません、と謝罪の言葉と共に。

「ちょっと考え事をしていて……」
「うにゃ? そうなの?」

 まさか目の前の人物について思考をめぐらせていたとは言えず、義之は曖昧に笑った。

「ちゃーんとボランティア活動はしているみたいだね♪」

 義之の持つチリトリにたまった大量の桜の花びらを見てさくらは満足げに頷く。

「そりゃあ勿論。さぼったりなんかしませんよ」
「うん! えらいえらい♪」
「それよりさくらさん、どうしたんですか?」

 義之の記憶がたしかなら朝の補習授業以来、さくらの姿は見ていない。昼食時も、このボランティアの始まりの時も。その疑問に対して、さくらはすぐ答えてくれた。

「うん。お仕事をしていたんだけどちょっと時間が空いちゃってね。それでみんなの様子を見に来たんだ」

 さくらの言葉にそうだったんですか、と頷く。

「見たところ、みんな思った以上に熱心にやってくれてるみたいだし、ボクも学園長として鼻が高いよ」

 さくらはそう言うと満面の笑みを見せた。とくん、と義之の胸の奥がかすかに跳ねる。
 照れ、だ。
 先ほど保留にした疑問に義之は答えを出した。さくらさんと会うのが気まずいわけじゃない。ただ、自分は照れている。さくらさんと会うことに、こうして話をすることに。照れているんだ。
 ――――これまで、そんなことはなかったというのに。
 これじゃあ、まるで。

「ん? どうしたの? 義之くん。朝もそうだったけど、ボクの顔に何かついてるかな?」

 さくらが不思議そうに首を傾げる。そんなに彼女の顔をじっくり見てしまっていたのだろうか。
 これじゃあ、まるで。

「……あ、いえ、そんなことはないんですが……」

 ――――まるで、好きな人を前にした時の子供みたいじゃないか。
 視線をそらしながら、義之は何か話題がないかと思考を回転させた。このままでいるのはまずい。何がまずいのか、自分でもよくわからないが、このまま会話もないままさくらさんと正面きって向かい合っているのはまずい。何か、話題を――。

(あ……!)

 そう考えて、思い当たったことがあった。昨夜から気になっていたこと。

「そういえばさくらさん。昨夜はどうしていたんですか?」
「昨夜?」

 さくらが不思議そうな顔をする。
 そう。気になっていたことというのは、それだ。昨夜、さくらさんはどこで何をしていたのだろう? 学園長室のシャワールームを使った時も彼女は学園長室にいなかった。そして、体育館に顔を出すこともなかった。一体、どこにいっていたのだろう。
 そう説明すると、さくらはあー、と困ったような顔になった。

「……そうだね、うん。ちょっと、お仕事」
「仕事ですか? あんな遅い時間に?」

 一体、どんな仕事があったのだろう。普段から彼女がどんな仕事をしているのかは謎といえば謎ではあったが、今回は特に気になった。

「外でのお仕事があってね。昨夜は学園から離れていたんだ」

 みんなのところに顔を出せなくてごめんね、とさくらは申し訳なさそうな顔になる。

「あ、いえ、別に謝ることじゃないですよ。仕事だったのなら仕方がないですし……」

 義之はそう言いながらも、どことなく彼女の言葉に違和感を覚えていた。疑念、というレベルまではいかない。具体的に何が気になっているのかを言語化もできない。しかし、どことなくさくらの言葉には違和感があった。
 おそらくは、以前なら見逃していたであろう、些細な違和感。
 それが今の義之には気になった。
 だが、

「それじゃ、さくらさん。俺、そろそろボランティアに戻ります」
「あ、うん! 声かけて手、止めさせちゃったね」

 ごめんね、とさくらは笑う。その笑顔に義之は安心感と、それ以外のモノを覚えた。

「……はい、それじゃあ、また」
「うん! それじゃあね♪」

 さくらはそう言うと、手を振り、立ち去ろうとする。ふと、その時、思いついたことがあり、義之はさくらの名を呼んでいた。

「さくらさん!」
「……んにゃ?」

 既に体の向きを変えていたさくらは義之の声に振り返る。

「そういえば今日、大晦日じゃないですか」
「んにゃ。そういえばそうだね」
「一緒に年越しとかってできそうですかね?」

 年末年始も、さくらさんは学園で仕事があると聞いている。
 しかし、今は補習合宿中で自分たちも学園にいる。ならば一緒に年越しを迎えたりすることもできるのではないか。
 年越し、という行事そのものをそこまで特別なものだとは思わないが、やはり、どうせ迎えるなら家族と一緒に迎えたい。そう思っての義之の言葉だったが……。

「うーん」

 さくらは声を渋らせた。

「ごめんね。ちょっとむずかしいかもしれない」
「そうなんですか?」
「うん。ちょっと今晩も外でお仕事があってね。学園にはいないんだ」

 さくらは見ているこっちが申し訳なく思えてくるくらい申し訳なさそうに言う。

「だから一緒に年越し、っていうのは……多分、無理だと思う。ほんとにごめんね」
「いえ、さくらさんが謝ることじゃないですよ」

 仕事なら、仕方がない。
 仕方がない、のだが。

「…………」

 やはりそういうさくらの言葉にはかすかな違和感があった。

「まぁ、残念といえば残念ですが、俺も今年は音姉や由夢と一緒に年越しできないでいる訳ですし……世の中、仕方がないことってありますよ」

 しかし、その違和感は本当に些細なものだ。口に出してさくらを問い詰める、ようなことはせず、義之は励ますように明るい声を出した。

「ほんとごめんね」
「いえ、年末年始も俺たちのために仕事でこっちこそすみません。来年は一緒に年越しを迎えられるといいですね」

 気が早いにも程がある発言。義之は笑った。しかし、

「……うん、そうだね」

 何故かさくらは硬い顔をして、どこか気落ちしたようにそう、相槌を打つのだった。



(うーむ)

 そうして二日目のボランティア活動も終わり、前日に引き続き再び女子と共に義之はみんなの晩餐の支度をし、みんなでの食事も終わり、自由時間になった。既に体育館には布団が敷き詰められている。そして、今は12月31日の夜。こうなっては後はおごそかに年越しをするだけだ。普段、というかこれまでは朝倉家で(義之が芳乃家に住むようになったのは今年の春からだ)朝倉姉妹やその祖父である純一、そして、さくらと共に年越しを迎えることが多かった。今年はその場所が芳乃家に変わろうとも、やっぱりいつも通り朝倉姉妹と一緒に年を越すことになるんだろう、と思っていた。それが学園の中で友人たちと一緒に年を越すという珍しい事態になり、胸の中がなんだか変な気分であふれている。
 しかし、それ以上に気になることが今の義之にはあった。

(俺はさくらさんのことが――――)

 胸の中にはあの人がいる。
 あの人のことを考えると胸がぎゅっと締め付けられたように痛くなる。
 あの人の笑顔を見ると胸が跳ねる。
 自分が彼女に特別な感情を抱いているのは明白だ。
 何度も否定しようとした。
 何度も違う、と思い込もうとした。
 だけど、否定しきれない。自分はたしかにあの人に家族以上の特別な感情を抱いている。だが。

(……俺、あの人のことが好きだ)

 ようやく、気付けた。
 それこそが否定できない事実でありこの胸の中のもやもやの真実。

(好きになっちゃったんだ……あの人のこと、さくらさんのことを……)

 自分はあの人に単純な家族以上の感情を抱いている。それを自覚するのにどうしてこれだけの時間がかかったのか。
 簡単だ。それを認めたくなかったからだ。認めたくなくて、何度も何度も否定して、何度も何度も気のせいだと思い込もうとした。だけど、もう、認めるしかない。どれだけ否定したくても、認めたくなくても、この心は正直だ。ひたすらにあの人が好きだ、と訴えている。

(……だけど、ダメだ)

 でも、そんなことはあってはならないことだ。
 芳乃さくら。あの冬の日。桜の木の下でただ寒さに凍えていた自分を拾ってくれて家族のあたたかさを与えてくれた人。自分の大恩人にして家族、もっと言ってしまえば母親のような人。
 そんな人を好きになるなんてあってはならないことなんだ。
 だから何度も否定した、認めたくなかった、認めてはならなかった。だって、この感情は許されざるものなんだから。

(…………)

 ぎゅっと胸が締め付けられるような痛みに震える。
 自覚した自らの感情。そして、それを表に出しては決してならないという戒めに、心が痛む。
 だけど、仕方がない。
 仕方がないことは、ある。
 自分の中に芽生えたこの想いは封印するべきなんだ。
 絶対に表に出してはならない。
 だって、家族を……母親のような人を好きになったなんて、絶対にあってはならないことなんだから。

「せっかくの年越しだっていうのに、なーんか辛気臭い顔をしてるわね」

 声。
 ハッとする。

「杏……」

 声の主は杏だった。相変わらずのポーカーフェイスを少しだけ怪訝そうにして、義之のことをじっと見つめている。
 いつからいたのだろう。気配に全く気付けなかった。それは杏自身が気配を消していたからだけではなく、周りに気を配る余裕がない程、自分が思考に埋没していた、ということだろう。

「どうしたよ、ガラにもない。誰か、俺の話を聞いてくれ……なんて顔しちゃって」
「俺、そんなにみっともない顔してるか?」
「ええ」

 杏はそう言うと「ねっ? 小恋、茜」と言って振り返る。

「え、あっ……うん、義之、さっきから何か悩んでるみたいに見えるよ」
「それに、なんだかすっごく苦しそう」

 見れば小恋と茜もそばにいて、義之の様子を伺っていたようだった。
 みっともない姿見せちまったな、と頭を掻く。

「別にそんなに大したことじゃねえよ」

 それは精一杯の強がりだった。苦しい。胸が痛い。自覚した恋心と、それを表に出してはならないという事実が胸を締め付ける。

「大したことないようには見えないけど……」

 杏が言う。よく他人をからかう彼女だがどうやら今回は本当に心配しているようだった。

「そんなことはないって」

 義之は笑った。自然に笑えた、と思う。しかし、雪月花は怪訝そうな表情を変えることはなかった。

「……ふむ」

 杏はどこか得心した、とばかりに頷く。

「これは、恋の悩みね」

 ぎくりとした。

「えーっ! そうなの!?」
「うわぁ、相手は誰? 私たちの知ってる人!?」

 小恋と茜の表情が驚きに染まる。

「き、決めつけるなって! そんなんじゃねえよ!」

 大慌ての上擦った声で否定をしても説得力などあるはずがなかった。
 杏は全てお見通し、と言わんばかりに冷静な瞳で義之を見る。

「じゃあ違うの?」
「……違う」
「本当に?」
「…………」

 じっと見られ、返事に窮する。くすり、と杏は笑った。

「素直になった方がいいと思うけれど」
「そうそう。杏ちゃんの言う通り。この茜さんにどーんと悩みをぶつけてきなさい」

 杏の隣で茜もそう言って笑顔を見せる。

「…………」

 小恋だけはどこか複雑そうな表情をしていたが。

(全く。こいつらは……)

 普段は人を玩具にしてからかって遊ぶ癖に、こういう時は誰よりも頼りになる。杏も茜もいつもの他人をからかような表情を浮かべてはいるが、こちらが本気で悩みをぶつければ真摯に対応してくれるだろう。勿論、小恋もだ。それがわかる程度にはこいつらとの付き合いは長い。頼りになる親友。そう言っていいだろう。
 ……相談して、いいのだろうか?

(…………)

 いや、先ほど自分で思ったことじゃないか。この想いは絶対に表に出してはならない、と。

「いや、心配してくれるのはありがたいけど、やっぱ今はいいや」
「悩みがあることは否定しないのね」
「否定するだけ無駄だろ?」

 義之が言うと杏はくすり、と笑った。

「まぁ、いいわ。義之がそれでいいのなら」
「ああ、すまんな。小恋も茜も」
「ふぇっ!?」

 急に水を向けられ小恋が素っ頓狂な声をあげる。あー、うー、と困ったような声が続き、

「……うん。わたしは別にいいよ。義之がまた話したい時に話してくれれば」
「でもでも、義之くんのことは私たち雪月花がいっつも気にかけてるってことは忘れないでね?」
「ああ」

 本当にありがたいことだと思う。義之は万感の思いで頷いた。
 そうして義之は立ち上がった。

「義之? どこ行くの?」

 小恋の問いに「ちょっとトイレ」と答える。

「もうすぐ杉並と私プロデュースの肝試し大会が始まるからそれまでには戻ってきなさいよ」
「肝試しってなんじゃそりゃ?」
「ふふふ……風流でしょ?」

 杏の言葉に肩をすくめる。こんな真冬に肝試し。風流も何もない。

「クリパでお化け屋敷の企画がお流れになってしまった時から考えていたのだがな。フッ、こんなに早く機会がめぐってくるとは思わなかったぞ」
「うおわっ!」

 いつの間にか。杉並がそばに来ていてそんなことを言ってのける。

「お前、いつからいた?」
「さて、な。俺が把握しているのは同志桜内が恋愛に関する悩みを抱いているということくらいだ」

 つまり最初のうちからいたということか。本当に神出鬼没な奴、と義之は思った。
 年越し間近、とはいえまだ日付が変わるまでは時間がある。その時間の使ってイベント、というのは悪い話でもないか、と思う。冬に肝試しというチグハグさは気になるが。

「ちなみに学園長の許可も既にもらってある。余計な心配など無用。貴様はただ肝試しを楽しめばいい」
「わかった。まぁ、ちょっとトイレ行くだけだからすぐに戻ってくるよ」

 そう言うと義之はトイレに向かって歩き出すのだった。



「うう……寒……」

 体育館の外は真冬の寒さだった。大晦日なのだからそれも当り前なのだが、凍える寒さが身を切る。闇夜に人の気配はなく、自分がたてる靴音以外には音もない。トイレは済ませた。さっさと体育館に戻って肝試し大会とやらに参加しよう。そう思い、体育館に戻ろうとした義之だったが、「あん!」と鳴り響いた犬の鳴き声に足を止めた。
 明かりもない森閑とした学園の中、急な音に一瞬、ドキリとするもその鳴き声の主を見つけ「なんだお前か」と安堵の声が出る。

「どうしたんだ、はりまお。校内のパトロール中か?」

 そこにいたのは、はりまおだった。あちらも義之を見ると、とてとて、と近寄ってくる。「くぅん」と鳴き声をもらしながら義之の靴をちょんちょん、と前足でつついた。
 また和菓子が欲しいのか。そう思った義之だったが、すぐにその考えが間違いであることに気づかされることになった。はりまおは義之の靴をつついたかと思えばすぐに方向転換し、別の方向に駆け出した。そして、しばらくしたところで再び義之の方を振り向き、「あん!」と吠える。
 その様子はまるで義之を呼んでいるようで……。

「ついて来い……って言ってるのか?」

 義之が口に出すと、それを肯定するようにはりまおは「くーん」と吠える。
 そうしてはりまおはとてとてと走り出す。どうしたものか。一瞬、迷ったものの、なんとなくついていかないといけないような気がして義之はその小さな体躯を追った。

「全く、なんだってんだ」

 誰に言うこともなく声をもらす。皆の待つ体育館からはどんどん離れていって中庭、そして、そこも抜け、風見学園正門前に――、

「あれ?」

 そこで義之は足を止めた。はりまおもここまで連れてくるのが仕事だった、とばかりに足を止めている。しかし、今度は鳴き声をならすことはなかった。
 義之が足を止めた理由は簡単だ。義之の視線の先、そこには見慣れた後姿があった。

(さくらさん?)

 さくらは義之に背を向け、風見学園の正門から外に出て行こうとしている。こちらに気づいた様子はなかった。今夜も仕事がある、と昼のボランティアの時にさくらは言っていた。ちょうど、今、仕事に出かけるところだったのだろう、と義之は思った。
 ならば別段気にすることもない。これからさくらさんは仕事に行くのだからそれを見送ろう。せっかくその場に立ち会えたのだから一声くらいかけたいが別に声をかける必要もないだろう。そう冷静に考える自分がいる。
 しかし、

(…………)

 なんだか胸騒ぎがする。
 逃してはならない絶好の機会に巡り合えたような、そして、そのチャンスをふいにしようとしているような、危機感。この機は逃してはならない、と本能が訴える。この機を逃せば後々、後悔することになる。さくらさんがどこに行くか、見届けなければならない。そんな合理的とは程遠い非合理的な声が頭の中に響く。
 はりまおが自分を案内するようにここに連れてきたのもさくらさんが出て行くところを見せるためだったのだろうか?
 偶然かもしれない。しかし、今はそれが事実であるかのように感じられてならなかった。
 さくらさん。ついさっき恋心を自覚した。自分の好きな人。その人の動向が気になるのは、恋をしているのだから、当り前、だろうか?
 「あん!」とはりまおが吠える。それは、まるで、

「……追っかけろ、ってか」

 まるで、そう囃し立てられているようで。
 そこから先は考える暇はなかった。義之は駆け出し、正門を出ると、さくらの後姿を、見失わないように、それでいて、気付かれないように少し距離を開けて追いかけるのだった。





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