幕間2




 大晦日の初音島は極寒の冷気に包まれていた。気温が低いのは勿論ながらそれに加えて身を切るような風が吹きすさび、外を出歩いている人間に襲いかかる。闇色の空からはぽつぽつと雪も降り注ぎ、まさに極寒という他なかった。こんな極寒の中、外を出歩いている人間は余程、奇特な人間だろう。
 年越しを間近に控えて風見学園を出たのがついさっきのこと。年越しという一大行事を迎える今晩も普段と比べて多くの人の願いが集中する夜であり、『枯れない桜』の管理はかかせない夜だった。そのため、仕事を早めに終わらし、『枯れない桜』がある桜公園に向かって足を進めているがこうも寒いと本当に自分が大馬鹿者に思えてくる。年越しという一大行事、普通の人は暖房の効いた家にこもり家族と共に厳かに新年を迎えるものだ。それを何をどうしたのか野外で迎えようなどとは。それも神社で二年参りなんて風流なものではない。公園の、桜の木の麓で。事実、大馬鹿者か、と思う。これも全ては自分で蒔いた種が原因なのだから。今頃、補習合宿で体育館にいる付属3年3組の生徒たちは、義之くんたちは大はしゃぎで新年のカウントダウンでもしている頃だろうか、と思い、それには少し早いか、と思い直す。まだ日にちが、年が変わるまでは少し余裕がある。杉並くんと杏ちゃんが許可を求めてきた肝試し大会でもやっている最中に違いない、と思った。それは、いいことだ。独りで新年を迎えるようなものは自分のような愚か者一人でいい。みんなは、義之くんは気心の知れた仲間たちと共に賑やかに、幸福に新年を迎えるのがいい。
 義之くん。彼の顔を思い浮かべると胸が一つ大きな脈を打った。
 いつからこうなったんだろう、と思う。彼のことを思うと胸が高鳴る。以前はこんなことはなかった。息子のような存在として、家族として、大切に思ってはいた。だけど、彼のことでここまで胸が高鳴ることはなかった。彼の何気ない表情が愛おしい。彼が自分のことを心配してくれるのがこれ以上なく嬉しい。彼が自分のことを特別だと思ってくれることが何よりも幸福感をもたらす。最初に出会った時の女の子とも見まごう幼い顔たちはいつしか立派な少年の顔たちとなり、端正に整ったその表情が胸をかき乱す。その表情が笑顔を浮かべているのを見ると胸が高鳴る。その笑顔が、その視線が、自分に向いているのを感じるとそれだけでもうどうなってもいいと思える自分がいる。この感情は何だろう、と考えてきた。以前はこんなことはなかった。それが今ではどうだ。彼一人に心をかき乱されている自分がいる。そうだ、クリパだ、とさくらは思った。クリパを一緒に回ったのをきっかけに彼に対する思いがどんどん強まっているのを感じる。だけど、だめだ、と本能が訴える。この感情は許されざるもの。それはわかっている。それでも、それでも。

(義之くんが……愛しい……)

 その感情は抑えることができず、胸の中で暴れまわる。補習合宿中に何かと理由をつけて義之に会いに行っていたのもそのせいだ。彼の顔を見たかった。彼と会話していたかった。彼のそばにいたかった。いつも通りに振る舞えていた、と思う。冗談交じりの他愛もない会話をして彼に対して家族愛以上の特別な感情は抱いていないように、これまでのように、保護者……母親として彼に接することができたと思う。それでも、彼がそばにいるということはそれだけで自分の胸の中に幸福感をもたらす。いつまでこの感情を押し殺していられるのか、わからない。ふとしたきっかけさえあればポロッとこぼれ出てしまいそうになる。もう、わかっている。この感情の正体。自分はどうしようもない愚か者だけど、この感情が何なのか、それがわからないくらい愚かではない。この感情、ボクが義之くんに向けたこの想いの正体、それは――――、
 一陣の冷風が吹き抜けた。風は身を切り、ツーサイドアップにして纏めた金色の髪がもて遊ばれ、宙空に揺れる。

(ボク……義之くんのことが好きだ)

 厳然たるその事実。自分は彼のことが好きだ。好きになって、しまったんだ。
 わかっていた。これまでもずっと、自分が彼に好意を抱いていること。一人の女として、彼を一人の男として見ていること。母親が息子に向ける視線ではない。母親が息子を思う感情ではない。別の視線で彼を見て、別の感情で彼を思っていた。それはクリパを一緒に見て回ったのをきっかけにどんどん強まっている。だけど、認められなかった。認めるわけにはいかなかった。何故なら、この感情は許されざるものだからだ。自分は母親なのだ。血が繋がってる訳でもない。自分でお腹を痛めて産んだわけでもない。それでも自分は母親で、彼は自分の息子なのだ。そんな関係なのに、彼に恋心を抱いてしまった。それだけでも許されるものではないというのにそれに加えて自分は大罪人だ。私利私欲のために罪を犯した、否、現在進行形で罪を犯し続けている。とてもではないが、人を好きになっていい立場ではない。それなのに、決して許されるはずはないというのに、人を愛する資格もなければ逆に愛される資格もない。それを誰よりもよく自分はわかっているというのに、この胸の高鳴りはどうしておさまってくれないのか? どうして自分はこんなにも彼が、義之くんが愛おしいのか?

(やっぱり、だめだ……!)

 この感情は決して許されざるもの。その確信が無慈悲にも胸の中に下りる。この想いは許されざるもの、この想いは封印するべきもの。わかっている。わかっていた。だからこれまでクリパの後も義之くんを前にしてもそういうそぶりは見せないようにつとめてきた。自分の好意を表に出さないように、騒ぐ胸の中身とは裏腹に、いつも通りを演じてきた。いつも通り、これまで通り、彼の保護者の芳乃さくらを演じ続けてきた。この想いは外には出してはいけない想いなんだとわかっていたから。

(ボクは義之くんの母親……そうだ、そうなんだ……)

 自分自身に言い聞かせる。この想いは決して表に出してはいけないものなんだと。これまで通り、自分は彼の母親でいよう。母親として、家族として、彼を見守ろう。これまでと同じように、それ以上の一線を超えることはなく、彼のそばにいよう。
 そう思うとぎゅっと胸が締め付けられるような苦しみを覚える。何よりも強い想いが胸の中で出口を求めて暴れまわる。だけど出口にフタをする。どれだけ強い想いでも、その想いは決して表に出してはいけないものだから。
 そんなことを思いながらも足は進んでいて、気が付けば桜公園の入り口に着いていた。頭を切り替える。これから自分は『枯れない桜』の管理を行う。他のことを考えている余裕なんて無い。そう、自分に言い聞かせながら桜公園の奥へと進んでいく。桜公園の奥にある開けた空間。『枯れない桜』を中心に桜の木々が立ち並んだ広間に出る。『枯れない桜』の太い幹に背中を預け、座り込む。さあ、夢の、願いの選別の始まりだ。
 義之への想いを胸に秘めたままさくらは自分の義務を果たすべく神経を集中させる。相変わらず頭の片隅には義之の顔がチラついていたがそれも願いの選別に神経を注ぐ内に薄れていってくれた。『枯れない桜』の管理は全神経を注がなければいけない大仕事だが、それを初めてありがたいとさくらは思った。これをやっている内はしばらくは胸に芽生えた感情、義之くんへの想いを忘れられる。忘れていいものではないという思いもあったが、今は忘れておきたかった。みのらない想いを胸に抱き続けることほど、つらいものはないのだから。
 そんな淡い恋心を忘れたいという願いは期せずして叶えられることになった。

「――――ッ!?」

 『枯れない桜』と神経を接続して、瞬間、流れ込んできた願いの多さに思わず声を上げそうになる。年越しだからとはいえ、ここまでとは……クリスマス・イヴの時よりも多い。様々な願いが氾濫している。そこまで考えて、いや、違う、とさくらは思った。願いが多いだけならこんなことにはならない。ここまでひどい状況になっているのは『枯れない桜』自体のせいだ。
 この魔法の桜は暴走している。良い願いも悪い願いも何もかもを取り込んでいる。以前は違った、良い悪いだけではない、短絡的な願いは拾わず、ほんとに必要な、重大な願いだけを集めていたはずだ。しかし、今は違う。良い願いから悪い願いまで、短絡的な願いから深刻な願いまで、何もかも別け隔てなく集めてしまっている。愕然とする。この桜が暴走しているのはわかってはいたが、まさかここまでひどくなっているとは。これだけの願いの量、『枯れない桜』の暴走、果たして自分一人で制御し切れるものか……。少し考えて不安になりながらも、大丈夫、と思い直す。制御し切れるのか? ではない。制御するんだ。それが、この桜を植えた、『枯れない桜』を咲かせた自分の責任なのだから。さくらはそう思い直すと決意をあらたに、『枯れない桜』との意識の接続を再開した。しかし、もう、この桜はどうしようもなくなっているのではないか、もう手の施しようがない程まで状態は悪化しているのではないか、自分一人では抑えきれないところまで来てしまっているのではないだろうか、そんな嫌な予感が頭の中にこびりついて離れない。もし本当にこの桜がどうしようもなくなってしまっているのならその時は……。
 その時、自分が取るべき行動を考えると、恐怖心が込み上げてくる。だが、『それ』をやるしかないという思いも同時に湧き上がってきて、『それ』をするべきだ、と訴える。もし本当にこの桜がダメなら、『それ』をするしかない。我が身可愛さにこの桜の暴走を放っておくなど、それこそ許されることではないのだから。本当はやりたくない、だが、自分がやるしかないことだ。そう、思う。そんな義務感とも責任感ともとれる思いを抱きながら、『枯れない桜』の管理を続ける。本来ならおめでたいはずの大晦日の夜、そんな夜に独りぼっちで、さくらは義務を果たす。めでたくもなんでもない。孤独な年越し。そのことを寂しいと思わないと言えば嘘になる。だが、仕方がない。

(これがボクの背負っている罪……その罪に対する罰だからね)

 そう、自分に幸福な新年を迎える資格などないのだ。極寒の夜空の下、さくらはそう自分に言い聞かせて、『枯れない桜』の管理を続けるのだった。



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