1月1日(土)「暗雲」
ごーん、ごーん……。
一年の終わりと一年の始まりを告げる除夜の鐘の音が遠方から鳴り響く。この鐘が打ち鳴らされているであろう胡ノ宮神社には今は二年参り目当ての参拝客であふれていることだろう。
それはさぞにぎやかなことだろうな、と思う。
風見学園の体育館でも肝試し大会を終えてみんなして楽しく年越しを迎えていることだろう。一人の生徒――自分だ――が抜けて出ていることが気がかりだが、一応、小恋にメールは送ってある。
そんな風な、にぎやかで、楽しい年越し。
それとは無縁の光景が義之の眼前には広がっていた。
(どういうことだ……?)
脳裏を埋め尽くすのは疑問の言葉。
風見学園の正門を出た後、さくらは桜並木に足を向けた。それだけなら驚くことでもない。並木道を抜けて市街地の方に出て、そこで仕事があるんだろう、と義之は考えていた。しかし、さくらが並木道を抜けて向かった先は桜公園だった。
いくら初音島住民の憩いの場となっている桜公園といえど、こんな時間、それも大晦日に人気があるはずもなく、森閑とした桜公園をさくらは抜け、高台の方に出たかと思えば、桜公園にある初音島の数ある桜の木の中でも最も大きな桜の木――通称、『枯れない桜』――の前に腰を下ろすと、桜の木に背中を預けた。そうして、既に数時間もの時間が経過している。
(さくらさんは何をやっているんだ……?)
その様子を気付かれないように遠目で観察しつつも、疑問しかわいてこない。仕事がある、と言った。ならば、これがその仕事だというのだろうか? そんな馬鹿な。こんなところで一人、桜の木につきっきりでいる仕事なんて、あるわけがない。
(…………)
そして、そんな疑問と同じくらい胸を埋め尽くすのは目の前に広がるただひたすらにさびしい光景への寂寥感だった。
年越しでみんなが浮かれてる中、さくらは独りこんな野外の、底冷えする寒さの中、桜の木に背を預け、孤独に年越しを迎えてる。それは、とてつもなくさびしい光景で、普段の明るいさくらには全く似合わなかった。貴方はこんなところにいるべき人ではない。そんな思いが義之の喉元まで出かかる。
一体、さくらは何をしているのか。知りたければ簡単だ。出て行って訊ねればいい。しかし、尾行するような形でこっそり後をつけてここまで来たうしろめたさからそれもできず、出るタイミングを完全に失い、数時間、こうしている。そろそろ寒さも厳しくなってきた。……いい加減、帰るべき、だろうか?
(いや、さくらさんを放って一人だけ帰るわけにはいかない)
そうだ。
こんなさびしいところに、彼女を独りで置いていける訳がない。
知らなければ、それでもよかった。何も知らなければ自分はきっと今頃、体育館でクラスの仲間たちと一緒に年越しを迎えていただろう。だが、知ってしまった。さくらさんが独り、何をやっているのかは知らないが、こんなところで年越しを迎えている。そんなさくらさんを放って一人だけ帰って、年越しに浮かれるなんて、そんなこと、できるわけがない。
「…………」
やっぱり訊いてみよう、と思った。さくらさんの前まで行って今、何をしているのか、この年越しという誰もが浮かれる時間に貴方は独りきりで何をやっているのか。それを本人の口から直接確かめよう。そうしなければ義之としても帰れるものではない。意を決して義之は前に出ると『枯れない桜』を背にしているさくらの元へと歩き出す。驚かれるかな。何を言えばいいんだろう、と思考を巡らせる。しかし、そんな心配は無用に終わった。
「さくらさん? ……え?」
返事はない。驚愕に義之の顔が染まる。さくらは意識を失っていた。『枯れない桜』に背中を預け、もたれかかるようにしながら瞼は閉じられ、義之がそばに行っても微動だにしない。当然、義之の言葉に対する返事など返ってくるはずもない。一瞬、慌てるが、さくらが息をしているのを確認し、一安心する。その様子はまるで、眠っているようで、
「…………」
あるいは、まるで、『枯れない桜』に意識を吸い取られているようで。
いずれにせよ、普通ではない、ということだけはわかった。
「どうなってるんだよ……」
そんなぼやき声を聞く者はいない。この場にはさくらと義之しかいなくて、そのさくらも意識を失っている。
わからないことだらけだ。仕事に行く、と言って学園を出たはずのさくらが何故、桜公園の『枯れない桜』のところに来たのか、それからの数時間、『枯れない桜』を背に何をやっていたのか、そして、今、どうして意識を失っているのか。わからない。わからないことしかない。だが。
「…………」
独り。『枯れない桜』にもたれかかっているさくらはひどく寒そうに見えた。この大晦日の夜だ。寒くないはずはない。実際、義之も寒い。
「ちょっと隣、失礼しますよ……」
どうせ聞こえていないのだから言葉に意味はないのだが、義之は一言、そう断るとさくらの隣に腰を下ろした。そして、同じように『枯れない桜』に背中を預ける。『枯れない桜』は太い巨木だ。二人の人間がもたれかかっても十分に余裕がある。
「失礼、します……」
しかし、義之はその体をさくらのそばにおいた。理由は簡単だ。二人の人間が離れていると単純に寒いのだ。さくらが風邪をひいたりしたらいけないのはもちろんのこと、義之も風邪をひくわけにはいかない。ならばくっつきあってお互いをあたためあった方がいいだろうという判断だった。こんなわけのわからない状況だというにも関わらず、さくらがそばにいる。自分と体を密着させている。そう思うと、バクバク、と心臓の鼓動が早くなり、ああ、俺はこの人のことが好きなんだな、と義之は再確認した。
触れ合った体からはさくらの熱が伝わってきて、極寒の中にあってそれはとても尊いあたたかさを義之に伝えてくれる。不思議なことに『枯れない桜』に身を預けると寒さがそれまでよりやわらいだような気がした。
(…………)
触れ合う体と体。密着する熱と熱。それが真冬の極寒に負けないくらいのあたたかさを生み出す。時間の感覚がひどく曖昧だ。こうしてさくらの隣に腰かけてから一分も経ってないような一時間も経ったような気がする。そんな曖昧な感覚の中、眠気が義之の体の奥底から這い上がってきた。この寒空の下で眠くなるなんて、そんな馬鹿な、と思う。しかし、確実に眠気は義之の体をとらえてはなさない。なんとなく、自分の意識もまたこの『枯れない桜』に吸われていっているような、そんな錯覚を抱く。
現実感がどんどん消えていく、ひどく曖昧になっていく意識の中、義之はさくらの顔を見た。さくらの寝顔は何かを堪えるように苦悶の表情を浮かべていて、どうしてそんなに苦しそうな顔をしているんだろう、とぼんやり思う。何がこの人を苦しめているんだろう。
そんなことを思いながら、同時に思ったことがあった。わからないことだらけだ。なんでさくらさんがこんな極寒の中、『枯れない桜』のところにいるのかもわからないし、それから数時間何をしていたのかもわからない。そして、何故、今、意識を失って苦しそうな顔をしているのかも当然、わからない。だが、もし、なにかが、この人を苦しめているのだとすれば、
(……この人を、守りたい)
さくらさんには笑顔が一番似合っている。こんな苦悶の表情なんて似合わない。この人を苦しめる何かが存在するのだとすれば、その苦しみを取り除いてあげたい、と強く思った。

――夢を、見た。
否、それは夢ともいえない程に抽象的な何かだ。
多くの人の思い、願望、希望が渦巻いている。願いがあふれている。自分のための願い、他人のための願い。願いの中身に一貫性はなく、百人いれば百通りの願いがある。それらすべてが渦を成し、空間を形成する。そんな中に一人。義之は立っていた。夢の中だというのにめまいがする。あまりに膨大な人の願い、思いの奔流に押し潰されそうになる。
他人の夢を見させられる、義之の持つ特殊な
これは、明らかに異常だ。いつもの他人の夢を見させられているのとは規模も、性質も、何もかもが違う。これはもっと別の何かだ。そんな風に冷静に考察する余裕もあふれる思いの奔流に飲まれては吹き飛んでしまう。初音島中の全ての人の思いが頭蓋に流れ込んでくるようで、
「う、うわああああああああああああああああああっ!!」
両手で頭を押さえ悲鳴を上げたのと、目を覚ましたのは同時だった。

「義之くんっ!」
自分の叫び声で目が覚めた。そして眼前、吐息のかかるような距離には心配そうな――今にも泣き出しそうな――表情のさくらの顔があった。普段ならドキリとしてしまう距離の近さも、今見た悪夢が脳裏を渦巻いている現状では反応する余裕もなく、「さ……くら、さん……」と苦悶の声をもらすだけにとどまった。
「大丈夫っ!? 頭とか痛くない!? 気分が悪いとか、ない!?」
さくらは必死の形相で義之に詰め寄る。義之は片手で頭を押さえつつも「……大丈夫、です」と声を返した。額の汗をぬぐう。べっとりと前髪が額に張り付いている。しかし、それも納得だ。それだけの悪夢だった。散々、他人の夢を見させられてきた身だがあんな夢はこれまで見たことがない。
「本当に大丈夫? 無理してない?」
「ええ……大丈夫ですよ、さくらさん」
いまだ心配なのか、食い下がってくるさくらに笑みを返す。それでようやく安心したのかさくらはほっとした様子になった。正直、完全に大丈夫、と言える状態ではない。今でも頭はずきずき痛むし、夢の中であった多くの人の思いが流れ込んでくるような感覚に体がふらつく。しかし、この人を心配させたくなかった。
見れば、深夜の闇は消え、太陽が桜公園を照らしている。昨夜、さくらさんを追って桜公園に来てからというものの時間の感覚が曖昧になっていたが朝の時間帯になっているようだ。
「そっか、よかった……」
さくらは心底安心した、という様子だ。そんなさくらの姿を見ていると義之の胸中に昨夜からつきまとっている疑問を訪ねるのがとても申し訳なく思えてくる。しかし、訪ねなければいけない。さくらに好意を持っているから、ではない、それ以前に家族として知っておかなければならないことだ。
「それよりさくらさん。どうしたんですか、こんなところで?」
「それはこっちの台詞だよ。どうして義之くんがここに?」
そう問われると答えにくい。あまりおおっぴらに言える手段を用いてここに来たわけではないのだ。だが、ここで誤魔化しても仕方がない。義之は正直に話すことにした。
「昨夜、さくらさんが学園から出て行くところを見まして。どこに行くんだろうって気になって、ちょっとついていきまして」
「尾行してきたの?」
さくらは少しムッとした顔になる。すみません、と義之は頭を下げていた。
「ほんの好奇心からだったんです。この大晦日にさくらさんがどこでどんな仕事をしているのか気になって。最初はそれだけ確かめたらすぐに帰るつもりだったんですよ? そうしたらさくらさん、桜公園なんかに来て『枯れない桜』の前で座り込んで何時間もいるじゃないですか」
そう言うとさくらはどことなくつらそうな表情になった。
「仕事だっていうのは……嘘だったんですね?」
間があく。義之とさくらの間に気まずい雰囲気が漂う。しばらくの時間の後、さくらは「うん」と頷いた。
「ごめんね、嘘をついちゃって」
「いえ、それは別にいいんですけど……こんなところで何をやっていたんですか?」
再びの問い。さくらは沈痛な面持ちになった。そして、再び静寂。静寂を打ち破ったのはさくらの苦しげな声だった。
「……ごめん。今は話せない」
そういう答えが返ってくるだろうということは薄々は予想できていたことだった。「そう、ですか……」と義之の口から声が漏れ、さくらは本当に申し訳無さそうに「……ごめんね」と言う。その表情は悲痛なもので、
「…………っ」
さくらにこんな申し訳なさそうな、悲しそうな顔をさせてしまったことにずきり、と、義之の心が痛んだ。 さくらが一体何をやっていたのか、気にならないと言えば嘘になる。しかし、彼女がこう言う以上、今ここで聞き出すのは無理だろう。
「わかりました。今は、とりあえずそれでいいです。でも、いつかは本当のことを教えてくださいね?」
これ以上彼女につらい表情をしてもらいたくはなく、義之は話題を打ち切るようにそう言った。義之の言葉にさくらは少しの沈黙をはさみ、その末に「……うん」と頷いてくれた。
「それじゃあ、いったん学園に戻ろうか、義之くんも補習合宿に合流しないといけないし……」
それが話題を変えるように言った言葉だというのは明白だった。「そうですね」と頷いた義之だったが、ハッと言い忘れていたことに気づき、
「あけましておめでとうございます、さくらさん。今年もよろしく」
そう新年の挨拶をした。
さくらは一瞬、何を言われたのかわからなかったのか目をパチクリとさせた後、
「……うん! あけましておめでとう、義之くん。今年もよろしく♪」
満面の笑顔でそう挨拶を返した。
やっぱり笑顔がいい、と思う。この人にはつらそうな顔も、悲しそうな顔も似合わない。さくらさんにはいつも笑っていてほしい。
朝焼けの桜公園で義之はそんなことを思うのだった。
・
「この時間だともうみんな神社の方に出発してるかもしれないね」
桜並木を歩きながらさくらはそう言った。「神社?」とその隣を歩く義之は訪ねる。
「そ、胡ノ宮神社。1月1日の今日は補習授業はなしでね。朝から夕方まで神社のお手伝いをしてもらうことになってるんだ」
「へぇ、そうなんですか」
「へぇ……じゃないぞ〜、義之くん。うまい具合にさぼろうなんて考えてるんじゃない?」
さくらはからかうように笑って、そう言う。
「……そ、そんなことは断じて」
「ほんとかな〜?」
「ほんとですよ」
楽しげに笑うさくら。
うん、やっぱりこの人には笑顔が似合う。さくらさんも自分も朝から少し調子のおかしかったけど今ではすっかり元通り・いつも通り、いつもの軽快なやり取りができるくらい調子を取り戻している。
一時的に会話が途絶え、沈黙が走る。だけどそれは嫌な沈黙じゃなくて、なんといえばいいのだろう。二人の間には穏やかな空気が流れている。ちらり、とさくらの横顔を見る。
「〜〜♪」
朝の悲痛な表情もどこへやら。すっかりいつもの調子を取り戻したさくらの笑顔がそこにはある。そして、そんな笑顔に義之の胸が跳ねる。この人のことがやっぱり好きなんだ、という確信が遅れてついてきて、そのことを表に出せない現実にまた胸が締め付けられる感覚を味わい、少し表情が苦みに染まる。
「……ん? どうしたの、義之くん? 苦い顔しちゃって」
「い、いえ! なんでもないです!」
「……そう?」
鋭い、と思った。さくらは不思議そうに小首を傾げたが、すぐにいつもの笑顔に戻る。
やっぱり言えるわけがない。貴方のことが好きになってしまった、なんて。
だって彼女は自分の保護者で、母親のような人だ。そんな人に恋愛感情を抱いてしまうなんて本当はとてもいけないことなんだ。だが。
(それでも、やっぱり好きなんだ……)
その想いはたしかに、義之の胸の中で息づいていて。やり場のない感情を処理しきれず、胸がきゅっと痛む。
そんなことを思いながら、ふとさくらの横顔に視線を送った。その瞬間、朝で終わったはずの感情、消えたはずの感情が再び義之の胸に蘇った。
「…………」
さくらの表情に色がない。先ほどまで浮かべていた明るくて、見ていると安心する笑顔は消え、愕然とした硬い表情を浮かべている。何か問題が起きてしまった、とでも言うように。早く対処しなければいけない、という焦りも見え隠れした。それでいて、どこか悲しげな顔だった。全くもって、この人には似合わない表情。
一体、何があったというのか。義之でなくても気になるだろう。そうこうしている内に義之の視線に気付いたのかさくらはハッとして、
「……あ、ごめん義之くん! ボク、急用を思い出した! 悪いんだけど学園には一人で行っておいて!」
「さくらさん!?」
「学園に誰もいなかったら、胡ノ宮神社に行けばいいから! ボクのことは気にしないで! それじゃあね!」
こうして話している暇も惜しい、というようにさくらはそうまくし立てるとそれっきり、義之には構わず駆け出した。方向は――――風見下商店街。
「…………」
そう言われて気にしないでいられるはずなど、あるわけがない。また、何か不吉なことが起こったのだと、本能が告げている。そして、それは、おそらくさくらさんを悲しませること。
――――ならば、放っておけるはずもない。
「待ってください! さくらさん!」
義之もまたさくらの小柄な背を追って、駆け出すのだった。

元旦の風見下商店街は新年初の買い物にと家から出てきた人々でおおいに賑わいを見せていた。当然、商店街側もお客が沢山来ることは想定の内なので大々的にセールなどをおこない一人でも多くの客を呼び込もうとする。三が日ということで閉まっている店も多かったが、ほとんどのお店は開いていて盛況のようだった。そんなこともあって商店街はちょっとしたお祭り騒ぎに近い雰囲気をかもし出している。
それだけ人があふれていても死角はある。本筋からそれた脇道に入ってしばらくの先、誰の目にもつかないような建物と建物の間の場所。
そこで、
「なぁ、坊主。俺たちにちょこっとだけお金貸してくれへん?」
「そ、そんな……無理です……」
「ちょっとだけだって。すぐに返すからさ〜」
今まさにカツアゲが行われていた。
行っているのは高校生くらいの男三人、被害にあっているのはまだ小学生くらいの男の子だ。おそらくはお年玉をもらい勇んで買い物に来たところを目をつけられてしまったのだろう。
義之はさくらの隣に並び、その光景を見ていた。
「あいつら……!」
胸の中が怒りで溢れてくる。いたいけな子供を餌に自分の私腹を肥やそうなんて、なんて奴らだ。さくらもまた怒りの感情を覚えているようだった。
「さくらさん、俺ちょっと行ってきます」
すぐにやめさせないと。相手は三人。少し分が悪いが見て見ぬふりなどできない。
「ボクもいくよ。大丈夫、あんな奴らに遅れはとらないよ」
さくらはそう言って毅然とした態度で前に出ようとする。義之がさくらの後を追いかけてきたことに気付いた時はさくらは義之にこなくていい、と言ったが何度言われようとも一緒に来るのを見て諦めたようだった。
「でも、あぶないですよ、さくらさん」
さくらの実際の年齢が何歳なのかはしらないが、その小学生のように小さな体躯では荒事には向いていないようにみえる。ならば自分一人が出ていて止めた方がいいのでは、義之がそんなことを考えた時、『それ』は起こった。
「え……」
目の前に起きた事態を飲み込めず呆然とした声がもれる。
まず恐怖に耐え切れなくなったのだろう「うわああああああ!」と男の子が叫んだ。次の瞬間、カツアゲをしていた男三人の頭上にあった看板が派手な音をたてて落下、男三人を下敷きにした。
――まるでこの場から逃げ出したいという男の子の願いを叶えたかのように。
なんの前触れもなく看板は落下した。
「…………」
呆然とする。――何が、起こった? 義之の目の前で起きた唐突な事故。その事態が飲み込めない。男の子は涙を流しながら悲鳴を上げてその場から走り去っていく。その背中を見送りながら義之は目の前の事態を飲み込もう、と必死になった。
とりあえず、助けなれば。いくら子供相手にカツアゲしようとした最低な連中といえど放っておくわけにもいかない。看板をどかして助けなければ。そのためには自分一人では無理だ。男子学生一人の力ではあの看板はビクともしない。
「さくらさん! 人を呼んできてください! あの看板をどかさないと!」
そう言ってさくらを方を見る。さくらは凍り付いたように絶望の表情を浮かべ、愕然と落下した看板を見つめていた。その表情に心が痛む。単に目の前で急な事故が起きたから、事態が飲み込めないでいる、慌てている、そんなのとは違うような気がした。まるで何度も同じような現場を見てきているかのような、予想はしていたけど、これ程ひどいとは思わなかった、とでも言うように驚愕と絶望の入り混じった表情を浮かべている。ああ、そうだ。最悪を想定していたけれど、それを上回る最悪の最悪を見た時、人はこんな表情を浮かべるんじゃないだろうか、と義之は思った。
「さくらさん!!」
「……あ」
もう一度、呼びかける。さくらはそこでようやく義之がその場にいることを思い出した、とでも言うように義之の方を見開いた瞳で見る。
「ごめん。ちょっと呆然としちゃって……」
「いきなりの事故ですからね……仕方がないですよ。とりあえず人を呼んでこないと……」
しかし、その必要はなかった。看板が落下した時にたてた轟音を聞きつけ、商店街の表通りから人がわらわらと集まってきているところだった。集まった人たちは一刻も早く落下した看板をどかそうと義之とさくらに構わず先に行く。
「これだけの人数がいれば持ち上がりますね。さくらさん、ちょっと俺も手伝ってきます」
さくらからの返事はなかった。しかし、さくらの震える唇が微かに動いたのを義之は見逃さなかった。
――ごめんね。
さくらはそう言っているように、義之には思えた。その悲痛な顔を脳裏に刻み込みながら、義之は落下した看板をどけるべく集まってきた人たちと共に力を込めるんだった。