1月3日(月)「残酷な真実」






 さくらさんにここ最近頻発している事故や事件現場にあらわれるという金髪の少女のことを、ひいては年越しの時のことや看板の落下事故のことを訊ねる。
 そう決めたはいいものの、その日のうちに実行することはできなかった。
 1月2日は由夢の誕生日である。当然、芳乃家では豪勢なパーティーが開かれ、和気藹々とした雰囲気に包まれていた。そんな中で島で起きている事件や事故といった場の空気も冷えるような話題を出すことは憚られたし、祝われているのは由夢とはいえさくらもパーティーをおおいに楽しんでいるようで、その満面の笑みを前にしてはとてもではないが深刻な話ができるような雰囲気ではなかった。自分の言葉でさくらの笑みを消したくなかった。
 そして、一晩明けて本日、1月3日。

(……よし)

 ベッドから起き上がり普段着に着替えると義之は気合を入れるように両頬をパン、と手で叩いた。そこまで気張ることでもないだろうという思いもあるが、義之が今からさくらに訊ねようとしていることは、おそらくはさくらからしてみればあまり聞かれたくない類のことだ。それを聞くというのだから少しは気負いもあるし、気合を入れておかないとやっていけない。一体、さくらの口からどんな真実が明かされるのか、案外、初音島の事故や事件の現場にあらわれるという金髪の少女はさくらとは別人で年越しの時に『枯れない桜』のところにいたことや看板の落下事故でショックを受けていたこともたいしたことではないのかもしれない。
 だとすればこうして気張る必要もないわけだが、拍子抜けして終わるなら、それはそれでいい。
 元旦のやりとりを考えてもさくら本人があまり話したくないようなのだから、それを訊ねるのは野暮なことかもしれないという思いもある。だが、さくらが何かで苦しんでいる、何かで悲しんでいる。その可能性がある以上、義之としては訊ねない、という選択肢を取るわけにはいかない。
 自室を出て、階段を下り、一階。廊下を進み、さくらの部屋の前で足を止める。

「おはようございます、さくらさん。義之です」

 そうして、扉越しに声をかける。
 返事は――――ない。

「さくらさん?」

 いぶかしむような声が出る。再度、呼びかけてみるが、やはり返事はない。
 最初はまだ眠っているのかと思ったがもしやと思い玄関を見てみるとさくらの靴がなくなっていた。おそらくは義之が眠っているうちに仕事に出て行ってしまったのだろう。

「なんだ……」

 気合を入れてきただけに拍子抜けする。なんという間の悪さだろう。義之が起きる前にさくらが家を出ることは珍しい話ではないが、今日くらいは早起きをしておくべきだったか。それにしても、まるで自分から逃げるかのような姿の消しっぷりだ、と思ってしまうのは自意識過剰だろうか。
 さて、どうしたものか。
 さくらに訊ねるという方針は変わっていない。問題はそのさくらがいないことだ。夜まで待てば帰ってくるかもしれないが、さくらは一晩中帰ってこないこともよくある。

(まぁ、待つしかないか)

 電話で話す、ということも考えたが事が事だけにやはり直接対面して話したい。一応、さくらの携帯に電話をかけたが留守電だった。「話があります」とメッセージだけを残し、義之はさくらの帰宅を待つことにした。



 そうして、夜。
 日が落ちても、夕食を食べに来た隣家の朝倉姉妹が帰っても、さくらは帰ってこなかった。
 既に時計の時刻は午後11時を示している。もうすぐ日付が変わる時間だ。この時間まで待って帰ってこないのであればさくらは今日は帰ってこないのだろう。
 ならば今日は話を聞くことは諦めて、明日以降に聞けばいい。そう考えるのが普通だ。しかし、義之の考えは違った。

(……なんつーか、嫌な予感がするんだよな)

 自分は一刻も早くさくらさんに話を聞かなければならない。そうしないと大変なことになる。本能的なそんな危機感が胸の中にくすぶっている。夕食時につけていたテレビのニュースでは今日も不審な事故が初音島で起きた、ということが報じられていた。それもまた嫌な予感を助長する原因の一つだ。今回の事故現場にも杉並の言うところの『金髪でリボンをつけた小柄な少女』はあらわれたのだろうか? また、「ごめんね」と謝罪の言葉を呟いていたのだろうか? また悲痛な表情を浮かべていたのだろうか?

「…………」

 やはり話さなければならない。思い返してみれば昨日、話しておくべきだったのだ。いくら由夢の誕生日パーティーを台無しにしたくないといってもこれもまた同じくらい大切なことなのだから。しかし、後悔は先に立たず。後の祭り、との言葉が脳裏をよぎる。昨日、パーティーで楽しげな笑顔を見せるさくらさんを見て、今話す必要はないか、と判断したのは自分なのだから。さくらさんの笑顔にはそんな魔力というか、人を安心させる力があった。今日もさくらさんと会って、さくらさんがいつもの笑顔を見せればこんな野暮な事、聞く必要はない、と思ってしまうかもしれない。だが、やはり話は聞かなければならない。あの笑顔の裏に、悲しみに彩られた悲痛な表情が隠れているかもしれないのだ。とはいえ。

「どうしたもんかね」

 携帯にかけても留守電、さくらからの返事もなく、彼女がどこに行ったのかなんてわからない。話をしようにも彼女の場所がわからなければ――いや、待て。

「まさか……」

 義之には一つ、心当たりがあった。午後11時。日付が変わるか変わらないかの境目の時刻。この時間帯にさくらを外で見かけたことがあるではないか。

「『枯れない桜』……」

 その場所の名を口にすれば不思議なことにさくらは今日も、今晩も、そこにいるという確信が胸の中に芽生えてくる。間違いない、さくらさんはあそこにいる。
 あの場所で独り、孤独に何か大切なことをしているに違いない。

(今度こそは何をしているのか、聞かせてもらわないとな)

 仕事、と偽って『枯れない桜』の下にいたさくら。その理由は義之には想像もつかないし、さくらが義之に本当のことを話さないのも義之のことを気遣ってのことなのだろう。しかし、今となっては真の理由を聞かなければ引き下がれない。家族として、彼女に想いを寄せるものとして。

「行こう、『枯れない桜』に」

 決意を口に出す。行ってさくらさんに会う。そして、話をする。そこでどんな真実が待っていようとも全てを受け止める覚悟で。

 ――さくらさんを助けたい。

 アイシアは言った。自分の想いに正直に行動すればいいと。ならば、この想いを胸に彼女のもとに向かうだけだ。



 結論から言えば義之の考えは正しかった。
 芳乃さくらは、桜公園の奥、『枯れない桜』の下にいた。
 今回は隠れて様子を伺うなんてことはしない。前に出て、声をかける。

「また、ここにいたんですか」

 義之の声は森閑とした広間にやけに大きく響いた気がした。
 『枯れない桜』に背中を預けていたさくらはびくり、と体を震わせ、そしてゆっくりと振り向いた。

「……義之くん」
「……こんばんは、さくらさん」

 さくらの表情にいつもの笑顔はない。どことなく怯えているような表情。絶対に見つかってはならない場面を見つかってしまった、とでも言うように。

「どうしてここに?」

 さくらが問う。義之の真意を探るようなその言葉。怯えているような表情は消え、真剣な碧い眼差しが真っ直ぐに義之を見る。その瞳は嘘や誤魔化しは許さない。そう言っているようであった。ならば義之としても話は早い。単刀直入に聞きたいことを聞くだけだ。

「訊ねたいことがあってきました」

 言いながら、義之は一歩、距離をつめる。さくらは真摯な表情のまま、そんな義之を見つめる。

「ここ最近、初音島で続出している不審な事故や事件……その現場では共通して金髪にリボンをつけた小柄な少女が目撃されているらしいんです」

 そう言うとさくらは明らかに動揺した。長年、一緒に過ごした家族だ。そんな心の変化なんて、すぐにわかる。

「……さくらさん、なんですか?」

 違う、と言ってほしい、と思った。その少女はさくらだとほぼ確信している義之だったが、それでも一縷の可能性にすがった。さくらは事故や事件とは無関係で、今ここで『枯れない桜』の傍にいるのもとるに足らないこと。義之が思っているような深刻な事態を抱え込んでいるなんてことは妄想で実際はさくらはそんなものは背負ってない――そうであれば、どれだけよいか。
 しかし。
 さくらは観念したように息を吐くと、義之を真っ直ぐに見据え、ゆっくりと言葉を返した。

「……うん、そうだよ。多分、それはボクのこと」

 淡々と、さくらは真実を告げた。

「ボクにはわかるんだ。この初音島で不審な事故や事件が起こりそうな場所が。だから、そんな予感がする度にその場所に行って大事に至らないか確認していた。……直接、この目で見ないと不安で不安で堪らなかったから」

 それで元旦の時も急に商店街の方へ向かったのか、と義之は納得する一方、新たな疑問も芽生えた。何故、さくらはそんなことがわかるのか。

「……どうして、さくらさんにはわかるんですか? 事故や事件が起こりそうな場所が」
「……うん、それはね」

 さくらは一旦、言葉を区切ると『枯れない桜』を見上げた。

「……義之くんは知ってるかな? この『枯れない桜』の噂」

 知っている。『枯れない桜』の噂。主に風見学園の女子たちの間でささやかれるそれは『枯れない桜』は願いを叶える魔法の桜だ、というものだ。初音島ではかなり広く知られている噂で実際に願掛けに来る人もいるらしい。「噂ってこの木が願いを叶える魔法の木ってことですか」と義之が返すと、さくらはゆっくりと頷いた。

「あれは決して事実無根の噂なんかじゃない。この『枯れない桜』は本当に人の願いを叶える魔法の桜なんだ」

 そんな馬鹿な、と思った。そんな不思議なものが、そんな都合のよいものが、この世に存在していい訳がない。しかし、義之の思いを否定するように淡々とさくらは言葉を続ける。

「この桜の木はね、沢山の人たちから思いの力を集めて、奇跡を起こす。そんな力を持っているんだ」
「そうなん……ですか……」

 正直、信じられない。しかし、『枯れない桜』は本当の魔法の桜だと告げるさくらの表情は真剣そのもので、とてもではないが、嘘を言っているようには見えない。ならば、本当のことなのだろう。
 義之は無理矢理にでも自分を納得させようとした。

「でも、それがどうしてさくらさんがあちこちで事故や事件が起こることがわかることに繋がるんですか? 仮に『枯れない桜』がそんな不思議な桜でも事故や事件とは関係ないじゃないですか」

 そう問うと、さくらは悲痛な表情になった。そして、「関係あるんだよ」とぽつり、と呟いた。

「この『枯れない桜』は今、暴走状態に陥っている」
「暴走状態?」

 オウム返しにした義之に「そう」とさくらは頷く。

「願えば叶う。一人一人の力は小さくても大勢の人の想いの力を集めればみんなをハッピーにできる。……それが本来のこの『枯れない桜』の役割だった。だけど、今は違う、良い願いも悪い願いも無作為に叶えるようになってしまっている」

 そこまで聞いて、まさか、と義之は思った。良い願いも、悪い願いも叶える魔法の桜――、

「じゃあここ最近、初音島で頻発する事故や事件は……!」

 思わず声も大きくなる。さくらは表情を悲しみに染め、頷いた。

「そう。この『枯れない桜』が原因。この『枯れない桜』が無作為に願いを叶えた結果が今、初音島で起こっている不審な事故や事件だよ」

 平和な初音島でこれだけ事故や事件が頻発するのはおかしいと思っていたが、まさかそんな真相があったとは。あまりの事態に義之は呆然としたまま言葉も発することができなかった。

「ボクはこの『枯れない桜』の管理をしているんだ。だから、『枯れない桜』の力が作用しそうな場所がわかる。事故や事件の現場がいつもわかるのもそのおかげ……ううん、そのせいだよ」
「それじゃあ、年越しの時とかにさくらさんがここにいたのも……?」
「うん。ボクが『枯れない桜』と同調して『枯れない桜』の制御を行っていたんだ。『枯れない桜』の暴走を少しでも食い止めるように。悪い願いは叶えないように、良い願いでも短絡的なものではない、本当に必要な願いだけを叶えるように。より深く深く『枯れない桜』と同調する……『枯れない桜』と一体化すると意識を一時的に失っちゃうんだけど、その時のことは義之くんも知ってるよね?」

 知っている。あの年越しの時、さくらはまるで『枯れない桜』に意識を吸い取られるように、眠っていた。あれは『枯れない桜』を制御していたのだろう。そして、さくらが直々に制御する必要があるからこそ年越しの時や今のように、真冬の真夜中だというのに『枯れない桜』の下をさくらは訪れていたのだろう。

「あの時、義之くんも『枯れない桜』の下で眠っていたけど、あの時は本当にあせった。義之くん、『枯れない桜』に意識を飲み込まれかけていたから……」

 義之はその言葉に元旦の朝、見た夢を思い出した。島中の全ての人の願いが自分の中に押し寄せてくるような不思議な夢。あれもまたこの桜の所為だというのか。
 何故、さくらが事故や事件の現場にあらわれるのかはわかった。そして、年越しの時に何故『枯れない桜』の下にいたのかもわかった。しかし、まだわからないことはいくつかある。

「……なんで、さくらさんがそんなことをしないといけないんです? 『枯れない桜』の制御なんて……」

 そうだ。さくらさんの語りには肝心なことが抜けている。さくらさんが『枯れない桜』を管理しているといった。それは何故か? 何故、さくらさんが管理する必要があるのか。
 義之の問いにさくらはしばらく押し黙った末、ぽつり、と声をもらした。

「……責任、かな」
「責任?」
「うん。この『枯れない桜』を植えたのは、咲かせたのは、……ボクだから」

 またしても衝撃的な真実だった。見るに見慣れた『枯れない桜』。それがさくらが植えたものだったとは。
 衝撃的な真実の連続に思考がついていかなくなりかける。最近、初音島で頻発している不審な事故や事件は全て『枯れない桜』の暴走によるもので、さくらさんはそれを防ぐために『枯れない桜』を制御していて、そもそもの『枯れない桜』もさくらさんが植えたもので……。
 全ての真実が予想を遥かに超えることばかりで軽いパニックに陥りそうになる。
 しかし、そんな混乱する思考の中でも明瞭に気になったことはあった。

「……で、でも、だったら変じゃないですか? さくらさんが『枯れない桜』の制御をしているのなら事故や事件なんて起こりっこないんじゃ?」

 その言葉にさくらは泣き出しそうな顔になる。自分の言葉がさくらさんにこんな表情をさせてしまったことに義之は胸が締め付けられる感覚を覚えた。絞り出すようにさくらは「ダメなんだよ……」と声を出した。

「『枯れない桜』の暴走はもうボク一人じゃ制御しきれないレベルにまで達している。お正月の商店街の看板の落下事故、覚えてるよね? あれは多分、カツアゲにあってる男の子が『この場から逃げ出したい』って願ったことで起きた事故だと思うんだけど、そんな短絡的な願いさえも即座に叶えてしまうくらいに『枯れない桜』は暴走している。……情けない話だけど、正直、もうボクでも手のつけようがない」
「そんな……」

 そう告げたさくらの表情は絶望に染まっていた。その表情を見て、本当にもうどうしようもないんだ、ということが訳が分からないなりに義之にも理解できて、義之の心もまた暗鬱とした気分になる。

「……どうしようも、なんですか……?」

 義之の口からも絶望の声がもれる。『枯れない桜』の暴走により引き起こされる事故や事件。それらは放置しておくわけにはいかない。何も知らない時ならともかく真実を知った今となってはなおさらだ。しかし、その『枯れない桜』の制御をしているというさくらでさえ手のつけようがない、とまで言う程、事態の解決は困難になっている。
 冬の寒風がやけにきつく体をなでていった。重苦しい沈黙が義之とさくらの間に訪れる。
 これが、さくらさんの背負っていたものの正体か、と義之は思った。『枯れない桜』という人の手に余る魔法の管理。このために夜になれば独り、『枯れない桜』の下を訪れて、その制御をしていた。『枯れない桜』の暴走に、悲しみ、胸を痛めながらも、そんなことは微塵も感じさせない笑顔を義之たちの前では見せてくれていた。なんて馬鹿だ、と思う。俺はなんて馬鹿なんだろう。さくらさんがこんなにも苦しんでいるのに、こんなにも重いものを背負っているというのに、そのことに気付くことができなかった。家族なのに。一番近い位置にいた人間なのに。まるで気付けなかった。おそらくは年越しの時にさくらが風見学園を出て行くところを目撃しなければ、後をつけなければ、『枯れない桜』の下での不可解な行動を目にしなければ、ずっとそのまま気付かないままで終わっていただろう。

(何がさくらさんを助けたい……だ)

 自分にそんな資格はない。さくらさんの苦しみや悲しみ、背負っているものの重みに気付かずのほほんと平穏な日常を送っていた自分には。その平穏の裏に何があるのか、さくらさんが身を犠牲にして平穏を支えていたということに気付けなかった自分には。さくらさんを助ける資格も、無論、好きになる資格なんてものもない。
 重苦しい沈黙の中、自分の愚かさ、そして、これだけさくらは苦しんでいるというのに自分には何もできないという無力さを義之は内心で嘆いた。
 そんな時、

「…………方法は、あるよ」

 沈黙を破り、さくらがぽつり、と言った。

「……うん。最初からこうしていればよかったんだ。でも、できなかった、全てボクが弱かったせいなんだ……」
「さくらさん……?」

 悲しげにさくらは笑う。自嘲するように、自分を責めるように。

「安心して、義之くん。これ以上、この初音島で事故や事件なんて起こさせない。『枯れない桜』の暴走はボクが止める」

 その表情は先ほどまでの絶望とは違う。何か、強い想いを心に秘めた、決意の表情だった。

「……できるんですか?」

 しかし、さくらはさっき言ったではないか自分でも手のつけようがない、と。嫌な予感がする。義之はなんとなく寒気が足元から喉元まで這い上がってくるような錯覚にとらわれた。

「――――『枯れない桜』との融合。ボクが『枯れない桜』と一つになってその欠陥を埋める」

 さくらの言葉は最初、意味がわからなかった。『枯れない桜』との融合? 『枯れない桜』と一つになる? それは、つまり――、

「さくらさんが犠牲になるって事ですか!?」

 そうだ。言葉から察するに年越しの時に見せたような一時的な『枯れない桜』との融合とは違う。完全に身を捧げ、『枯れない桜』を制御しようというのだ。――そんなこと許容できるわけがない!

「そんなこと!」
「……仕方がないことなんだよ。これしか方法はないんだから……」
「だからってさくらさんが犠牲になるなんて!」

 義之は叫んだ。島で起こっている事故や事件は放っておけない。だけど、だからといってさくらさんが犠牲になるなんてことは絶対にダメだ!

「他に何か方法はないんですか?」

 問いながらも、そんなものはない、と嫌に冷静に分析している自分がいた。さくらは手のつけようがない、と言ったのだ。他の全ての方法を考えて、それでもダメだから自分が犠牲になる道を選ぼうとしているのだ。誰だってそんな選択肢は選びたくないに決まっている。それでも選ばなければならない程、事態は切迫しているし、他に選択肢はないのだ。
 義之の言葉にさくらは顔をうつむけた。暫しの静寂、そして、

「――――ないよ」

 残酷な真実を、さくらは口にする。

「ボクが『枯れない桜』と一つになって『枯れない桜』の暴走を止める……それが唯一の解決策だよ」

 淡々と紡がれる現実を前に声が出ない。呆然としたまま表情はかたまり、考えることを放棄しようとする。
 初音島で不審な事故や事件が頻発している――わかる。それらの原因は目の前の『枯れない桜』――わかる。その解決のためにさくらさんが犠牲になる必要がある――わからない。
 そんなこと納得できるはずがない。わかるわけがない。落ち着いて考えを整理しようとするが頭の中はパニックに陥っていてまとまった思考ができない。とにかく『さくらさんがいなくなるのは嫌だ』。それだけが脳裏を支配する。その感情だけが胸の中を突き動かす。
 そんな義之を見かねてか、さくらは笑顔を見せた。「そんな顔をしないで」と微笑む。

「ボクは幸せだった。義之くんや音姫ちゃん、由夢ちゃん、そして、お兄ちゃん。こんなにもあたたかい家族に囲まれて、幸せな日々を過ごすことができた。ボクなんかには勿体ないくらいにね」

 そう言うさくらの表情は本当に楽しげで、幸せが内からあふれ出ているようであった。

「だから、いいんだ。この身が犠牲になるとしても……ここで芳乃さくらという存在が消えてなくなってしまっても、ボクは後悔しない。十分過ぎるくらい幸せな日々を過ごせたんだから」
「さくら……さん……!」

 気が付いたら、抱きしめていた。さくらの小さな体。それは放っておいたら今にも消えてしまいそうなくらい儚くて、思わずその体を思いっきり抱きしめいていた。さくらは驚くこともなく、そんな抱擁を受け入れてくれた。

「貴方はそうやって全てを背負うんですか……誰の助けも借りずに、求めずに、全てのことを独りで背負って、そうして、解決しようとする……」
「それは違うよ、義之くん。誰かの助けなんて、借りられる立場じゃないんだ。全てはボクが元凶、ボクが始めたことなんだから、ボクが後始末をつけるのは当然なんだ」

 ぽたり、と。義之の瞳から涙がこぼれる。

「……そんなの、間違ってる……」
「間違いなんかじゃないよ。……これが、正解。最善策なんだ」

 いいや、違う、と思った。さくらさんが犠牲にならないといけないなんて、そんなことが正しいなんて絶対に違う。間違っている。

「……準備にもう少し時間がかかるけど、大丈夫。ボクが全てにケリをつける。全て、終わらせる。……だから、義之くんはもうこのことを気にする必要はないんだ。いつも通りの、日常に戻って……」
「さくらさんがいない日常なんて、いつも通りじゃない! そんなのは嫌だ! 俺の日常には、さくらさんが必要なんだ!」

 義之は叫んだ。それは聞き分けのない子供が駄々をこねているようでもあったが、義之にとっては真理だった。
 義之の言葉にさくらは呆けたような顔をし、

「……ありがとう」

 満面の笑みでお礼を述べた。そのお礼の意味がわからず、一瞬、義之もまた呆然とする。

「……なんで、ありがとう、……なんて……?」
「ううん、ありがとう。ボクのことをそんなにも大切に思ってくれて。義之くんにそんなにも大切に思われて、やっぱりボクは幸せ者だ」

 だから、と。やはり笑みを浮かべたままさくらは続ける。

「君は、ボクが守る」

 ギュッとさくらが抱き返してくる。そして、
 頬にやわらかくて、あたたかい感触が触れた。

「さくら……さん……?」
「えへへ……」

 さくらは少し照れ臭そうに笑う。頬に軽く唇で触れるだけのソフトなキス。まるであの日――クリパの日のように。義之がさくらのことを意識するようになった全てのきっかけの日のように。

「大丈夫。君は強い子だから。ボクがいなくても生きていける」

 幼い子供に言い聞かせるように。さくらはゆっくりと、やさしげに言葉を紡ぐ。

「君のこれからをボクが見られないのは残念だけど、これまで君がボクに与えてくれたものは計り知れない程、大きくてあったかいものだから、ここでボクが犠牲になる選択をしてもそこに悔いなんてない」

 それはまるで、聖母のようで。

「だから、義之くん。ボクを見送ってくれないかな。『枯れない桜』との融合を。肯定してくれないかな。そうすることでこの島の全ての人々、そして、義之くんが救われるんだから……」

 さくらの言葉が少しずつ胸にしみていく。暫しの沈黙。その末に、

「…………はい」

 義之は子供のように、素直に頷くのだった。





上へ戻る