幕間3






 そして、義之は去り、『枯れない桜』の下には再び静寂が訪れた。空には漆黒の帳が下り、闇色の空の下、さくらは一人、『枯れない桜』に背中を預ける。そして、ふぅ、と息を吐いた。さっきまでの問答は義之にとっても気を張る時間だっただろうが、さくらにとってもそうだった。これまで隠していた真実。それをついに義之に話したのだ。独りで抱えていたことを誰かに話せたという点では気が楽になったという面もあるものの、やはり、誰かに話すことはしたくない、特に彼には話したくはなかったことだった。

「バレちゃった……なぁ」

 自嘲するようなそんな呟きも極寒の夜空に溶けて消える。この『枯れない桜』が願いを叶える魔法の桜であるということ、そして、それが今、暴走状態に陥っているということ、そして、それを止めるためにさくらが我が身を犠牲にしようとしていること。全て、本来ならばさくら一人で背負わなければならないはずのことだ。間違っても最愛の人である義之を巻き込んで彼にまで苦悩させることなどあってはならないことのはずだった。

「義之くん……悩むかな? 悩むよね……」

 自分で確認の言葉を口にする。彼は心優しい少年だ。そんな少年が『枯れない桜』が初音島に数々の事故や事件をもたらしていることや、それを止めるために自分が我が身を犠牲にしようとしていることを知れば、当然、悩むだろう。特に後者に関しては何としても止めたい、と思うことだろう。しかし、止める方法はない。さくらは『枯れない桜』の堂々たる威容を見上げた。この『枯れない桜』は完全に狂ってしまっている。もう小手先の修正ではなんら効果がないところまで来てしまっている。手段は一つしかない。自分自身が犠牲になり『枯れない桜』の欠陥を埋める。ずっと前からわかっていたことだった。いつかはこういう日が来るだろうと薄々覚悟していたことでもあった。それでも、いざ、現実にその場面に直面すると体は恐怖に震え、足がすくむ。義之くんの前ではそんな態度、見せなかった。見せる訳にはいかなかった。自分は『枯れない桜』との融合に納得していると恐怖など抱いていないと思わせておかなければならなかった。そうでないと彼は何がなんでも止めようとするのは明白だ。こんな風に不安と恐怖にガタガタ震える姿は彼に見せる訳にはいかなかった。怖い、と思う。『枯れない桜』との融合。死ぬ訳ではない。ただし、人間・芳乃さくらはこの世界から消えてなくなる。そのことを思えば恐怖が足元から立ち上ってきて喉元まで込み上げてくる。怖い、やりたくない。情けない話だが、それがさくらの本心だった。だが、やらなければならない。それがこの『枯れない桜』を咲かせた自分の責任であり、義務だからだ。一番最初に『枯れない桜』を咲かせたあの夜からわかっていたことだった。

「…………」

 さくらは『枯れない桜』の幹に手をつきながら、しばし考える。他に方法はないと義之には言った。しかし、あれは嘘だ。他に方法はある。一つだけ方法がある。それも自分が『枯れない桜』と融合するという不確実要素の絡んだ解決策ではなく、確実に『枯れない桜』を止めることができる方法が。だが、それをすれば――

 ――――桜内義之は、消える。

 だからそんな方法は取るわけにはいかない。比喩でもなんでもなく命よりも大事な義之くんが消えるなんて方法は絶対に取るわけにはいかない。それがさくらの思いだった。優しい彼のことだ。この方法を知れば、確実にそれを行おうとするだろう。自分の代わりに犠牲になって『枯れない桜』の暴走を止めようとするだろう。だから、彼にこの方法を知られる訳にはいかなかった。
 桜内義之。誰よりも愛しい少年の顔たちを思い起こせば自然と心が安らぐ。決して表には出せない感情ながらその感情で彼のことを思うことで救われている自分がいるのもたしかだ。義之くんが、愛おしい。彼のことを思うだけで自然と胸はバクバクと脈動する。彼が自分を見てくれる、自分のことを心配してくれると思うとそれだけで胸は歓喜に踊りそうになる。彼の一挙一動が愛おしい、彼が苦しんだり、悩んだりしている姿を見るとそれだけで我が事のように身を引き裂かれるような気分にもなる。彼にはそんな悲しい顔や苦しい顔はしてほしくなかった。だって、彼の笑顔を見ればそれだけで自分も笑顔になれるのだから。愛する彼が元気でいてくれれば他には何もいらない。それがさくらが『枯れない桜』との融合という自己犠牲を受け入れようとしている理由の一つでもあった。間違っても彼を犠牲にするなんてことをする訳にはいかない。犠牲になるのは自分一人で充分だ。彼には幸せな日々を、仲間たちと共に幸せな時間を過ごして欲しい。そこに自分がいないのは残念だけど、元より自分のこの恋心は表に出せない禁忌のものだ。彼には自分などより相応しい相手が、女性がいる。例えば音姫ちゃん、由夢ちゃん、小恋ちゃん。彼女らがそばについてくれていれば義之くんは大丈夫だ。幸せな日々を過ごすことができるはずだ。そこまで考えてチクリ、と胸が痛むのをさくらは感じた。どうして? と不思議に思う。彼には相応しい相手がいて、その相手と一緒に幸せな日々を過ごす。その未来図を思い浮かべただけなのに何故、心が痛むのか? これじゃあまるで、

(……まるで音姫ちゃんたちに嫉妬してるみたいじゃない)

 そうだ。何の引け目もなく、彼の隣にいることができて彼と一緒に幸せになることができる彼女ら、音姫ちゃんや由夢ちゃんや小恋ちゃん。彼女たちに自分は嫉妬しているようではないか。彼女たちが義之くんを幸せにしてくれる。彼女たちがいれば義之くんは幸せに暮らせるのだから感謝こそすれど嫉妬するなんて見当違いもいいところだというのに。しかし、胸の疼きは収まってくれず、さっき思い浮かべたのとはまた違う未来図をさくらは脳裏に思い浮かべた。幸せそうな笑顔の義之がいて、その隣をやはり幸せそうなさくらがいる。二人は手を取り合って、恋人として大切な時間を過ごしている。そんな未来図を思い浮かべてしまい自己嫌悪に陥る。自分は何を考えているのか。たしかに自分は義之くんのことが好きだ。家族の枠を超えて一人の女性として彼を想っている。しかし、自分のこの感情は許されざるものだと何度も確認したではないか。自分に彼の恋人になどなる資格はない。この感情は封印するべきものだと。彼には自分などより相応しい女性が沢山いる。自分が彼の隣にいて一緒に幸せな時間を過ごしたいなどと傲慢もいいところだ。そうだ。彼は自分と一緒になるなどより幸せになれる相手がいる。今の自分にできることはそんな彼が幸せな未来を生きていけるように努力すること――すなわち、『枯れない桜』と融合することで『枯れない桜』を制御し、この島に起きている不審な事故や事件をなくし、この島を平和な島に戻す。そして、この島に住まう大勢の人々を、義之くんを、守る。それが自分に課せられた使命だ。

 ――――さくらさんがいない日常なんて、いつも通りじゃない! そんなのは嫌だ! 俺の日常には、さくらさんが必要なんだ!

 自分が犠牲になる。そのことを告げた後の義之くんの悲痛な表情、叫びを思い出す。自分がいなくなることで彼は悲しむだろう。そのくらいには大事に想ってくれていることに嬉しくなる。それと同時に申し訳なくもなる。自分はいなくなる。彼の前から。

(……だけど、仕方がないことなんだ)

 もうこれ以外に方法はない。自分だって、こんな方法は取りたくない。義之くんの隣にいて、ずっと彼を見守っていたい。だけど、他に方法はないから、仕方がない。それが『枯れない桜』を咲かせた自分の責任であり、罪。何度も何度も先延ばしにしてきたツケを払う時が来たというだけのことだ。
 自分がいなくなって彼は悲しむだろう。でも、大丈夫。彼の周りには沢山の仲間がいる。自分がいなくなったことによる悲しみも徐々に薄れていって、自分ではない誰かと恋仲になって、そうして、彼は幸せな未来を生きていくだろう。そうだ、そうに決まっている。それだからこそ、自分も迷いなく我が身を犠牲にすることができる……。そうすることで彼が、義之くんが幸せになれると信じられるから。頭の中に思い描くのは誰よりも愛しい彼の顔。彼の幸せのために、彼の未来のために、我が身を犠牲にするという決意をかためる。毅然とした顔でさくらは『枯れない桜』を仰ぎ見る。桜の巨木は相変わらず荘厳な佇まいでこちらを見返してきて、まるでさくらの覚悟を問うているようでもあった。覚悟は、できてる。この身を捧げるという覚悟。ギュッと拳を強く握る。そのためにも準備を早く進めなければならない。『枯れない桜』と融合する、そのための準備を。

「ごめんね、義之くん……」

 その謝罪は果たしてどういった意図のものか。義之くんに『枯れない桜』のことを隠していたこと? 『枯れない桜』を咲かせ続けていることで島中を危機に陥れていること? これから自分がいなくなってしまうこと? まだ話していない真実があること? 謝るべきことが多すぎて、何を謝ったかすらわからない。つくづく自分は罪深い人間だ、と思いながらも、その罪を償うべく、この身を犠牲にするという覚悟だけは強く、強くかためるのだった。





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