1月11日(火)「光明」







 ――結論なんて最初から出ていた。
 初音島に住む大勢の人々。
 その人たちが危機に陥っている。
 ならばその原因を取り除かなければならない。
 それを放っておくわけにはいかない。
 だから、そのために一人の人間が犠牲になるというのなら、それは大局的に見て正しいことだ。
 一人の人間か、初音島に住まうそれ以外の全ての人々。
 どちらが大事かなんてことは問うまでもない。
 その一人の人間が大事だからって、初音島の人々を危機に陥らせるなんてことは絶対にあってはならなことだ。
 だから、あの人の下した決断は間違っていないのだろう。
 あの人もまた、我が身を差し出すという決断に、納得している。
 だから自分がそれに異を唱えるなんてことは、間違っている。
 『枯れない桜』の暴走を止めるためにはもうあの人が犠牲になるしかないのだということを。
 理性では理解できる。
 全く持ってあの人の決断は正しい。
 あの人を失いたくないという自分の考えは、自分勝手なものに過ぎない。
 そんな自分勝手な感情を振りかざしてもあの人に迷惑をかけるだけだ。
 犠牲になる一人と、初音島に住む人々の中で前者が自分の顔見知りで、大切な人だということから生まれている考えに過ぎない。もしかしたら、これから先、初音島で事故や事件が起こり続ければその犠牲者に自分の知り合いが含まれる可能性もないわけではない。
 そう、理性では理解できる。
 だが、感情が納得できない。
 いくら初音島の人々のためとはいえ、あの人が、他の誰でもないさくらさんが犠牲にならないといけないなんて、そんなことは絶対に納得できない。
 感情が、そう吠える。
 しかし、他に方法はない。さくらさんが犠牲にならなければ、初音島に住まう、この大好きで大切な故郷に住む大勢の人たちが危機にさらされる。もう、さくらさんが犠牲になるしかこの危機的状況を解決する手段はない。
 理性が、そう抑える。
 感情と理性のせめぎ合い。
 その果てに得られるのは――――無力感。
 これだけ状況が悪化しているというのに自分には何もできないという無力感。
 自分では初音島で起こる事故や事件を防ぐこともできないし、『枯れない桜』の制御もできない、ましてやさくらさんがやろうとしているように『枯れない桜』と完全に融合するなんてことも無理だ。
 何がさくらさんを助けたい、だ。
 そんなこと、できない癖に。
 何もできない無力な学生風情が一丁前に一人前の顔をして、あの人に好意を抱いた。
 なんて、滑稽。
 そんな資格、自分にはない。
 守られるだけの立場でしかない自分には、あの人を助けることもできないし、好意を抱く資格もない。
 自分にできることはあの人が犠牲になってほしくないと子供のように駄々をこねることくらいだ。
 それがわかってるから、あの人の決断を理解した。ここで自分が駄々をこねてもあの人を困らせるだけだということがわかっているから。理性では、あの人が言っていることが正しい、と理解しているから。
 そう思ったからこそ、頷いた。あの人の決断を、肯定した。そうするしか、なかったから。
 でもやっぱり納得なんてできなくて、結局、自分への無力感だけが生まれる。
 自分が一人前の魔法使いなら。和菓子を出すなんてくだらない魔法だけじゃない、もっと色んなこともできて、『枯れない桜』の暴走も止めることができるくらい凄い魔法使いだったなら。
 そんな意味のない仮定が、いや、妄想が、脳裏に染みついて離れない。――くだらない。ヒーローに憧れる子供と何も変わりのない、幼稚な思考だ。
 無力感――それをも通り越して失望の念すら抱く。自分はこんなにもちっぽけな存在だったか、何もできない子供だったか。商店街のゴミ拾いのボランティアの時、さくらさんはちっぽけな存在なんかじゃないと言った。しかし、現実にはどうだ。今の自分は初音島はもとより大切な人一人救えないちっぽけな存在でしかない。
 ――俺にもっと力があれば。
 ――俺にも何かできることがあれば。
 ――俺にあの人が救えれば。
 望みは虚しく、冬の空に散っていく――



「義之、義之……」

 声が、する。
 それは肌と肌が触れ合うような至近距離から聞こえてきているようでもあり、遠くから呼びかけられているようでもあった。「んあ……」と声をもらしながら、まぶたを開く。どうやら、また考え事に没頭してしまっていたようだった。
 場所は風見学園の付属3年3組の教室。自分の机。義之に声をかけてきた主は不安げな表情でどことなく怯えるようにして義之の様子を伺っていた。
 小恋だ。

「なんだ小恋」
「なんだ……はひどいな〜。どうせまた居眠りでもしてたんでしょ? もう授業終わってるよ」
「そうか……」

 返事にも覇気がない。居眠りしていたわけではなく考え事をしていたわけだが、たいした違いはない。小恋の言葉を訂正することもなく、義之は一つ、あくびをした。

「……それで、次の授業はなんだっけ? 移動教室だっけか?」
「は?」

 呆然とした目で見られる。なんだ? 自分はそんなに変なことを言ったか?
 義之が疑問に思っていると、小恋の後ろで控えていた二人――雪月花の残り二人も義之の元へと身を寄せる。
 義之の顔を見て開口一番、「これは重症ね」と言ったのは杏だ。

「何言ってるの義之。今日の授業はもう終わりだよ〜」

 小恋が呆れた声で言う。ああ、そうか……そう言えば今日の授業はもう終わりだっけ……。
 それを聞いて元々力が抜けていたのがさらに力が抜けた。ぼーっと両肩を落とし、椅子の背もたれに体をゆだねる。硬質な感触が無気力な体を受け止めてくれた。

「義之、どうしちゃったの? 朝からずっと変だよ?」
「朝からっていうか補習合宿終わってからだよね? みんなで遊ぶ時も義之くん、こんな感じだし……」

 心配そうに小恋と茜がそう言う。今日――1月11日は冬休み明け、新学期の始まりだ。あの日――さくらから義之が真実を聞いた日から早くも一週間以上が経過している。その間も初音島では事故や事件は止まず、さくらが家に帰ってこない日も多かった。きっと『枯れない桜』の制御を必死にしているのだろう。まださくらは『枯れない桜』と完全に融合したわけではない。そのことを義之が肯定する代わりにその日が来たら教えてくれるように頼んである。まだ準備中で、決行はされていないはずだ。
 しかし、真実を聞いてからというものの、さくらが犠牲にならないといけないという非情な現実と己の無力さを憎む日々は気持ちの良いものではなかった。貴重な冬休みの残り時間の殆どは現状の再確認と己の無力さを憎む思考に明け暮れ、絶望感と脱力感に支配された無為な時間の過ごし方をした。この雪月花を始めとする友人たちと遊びに出た時も心から楽しむことはできなかった。

「……補習合宿の肝試し前、義之が合宿を抜け出す前もひどい顔をしていたけど、今はそれ以上ね。まるで何もかもに絶望しているかのようなひどい顔をしているわ」

 杏の冷静な分析が耳に突き刺さる。絶望は、しているだろう。『枯れない桜』の真実に、さくらが我が身を犠牲にしようとしていることに、義之自身の無力さに。
 今でも思う。どうして、さくらさんが犠牲にならないといけないのか? 他に方法はないのか? 自分にできることは何かないのか? そんな自分自身への問いかけもまた何度も繰り返してきたことだ。しかし、その答えはいつも同じ。他に方法なんてない。無力な自分にできることなんて何もない。さくらさんが犠牲になるしかない。考える度に非情な現実を再認識して、絶望する。そんなことを繰り返してきた。

「ねっ、義之。授業も終わったことだし、一緒にどこか遊びにいかない?」

 小恋が明るい声を出す。つとめて明るくしようとしてるのだとわかった。

「そうそう! 小恋ちゃんの言う通り! パーッと遊べば悩み事なんて吹っ飛んじゃうよ!」

 茜も小恋の勢いに乗りハイテンションな声を出す。本当にありがたことだ。こんなにも気にかけてくれる友人が、仲間が、自分にはいる。
 しかし。

「……悪い、せっかく誘ってくれたのに申し訳ないけど、今はそんな気分じゃないんだ」

 心から申し訳なく思う。だが、そんな気分でもないのはたしかだ。冬休みの間も雪月花や渉たちから遊びの誘いを受けたことはあったが、沈痛な顔をした自分が行っても逆にみんなを困らせるだけだということがよくわかっている。
 場を明るくしようとしていた小恋も茜も、義之にこう返されてしまってはどうすればいいのかわからないのか、気まずい沈黙が一同を包んだ。

「……ま、義之が何に悩んでいるのかは知らないけど」

 そんな中、場の空気など知ったことかとばかりに杏が口を開く。

「個人的な意見を言わせてもらうなら少しはアテにして欲しいわね。相談くらいには乗るわよ?」

 どことなく拗ねるような響きで杏がそういう。そうそう、と茜もそれに追従した。

「義之くんが何に悩んでるのかは私もわからないけど、一人で抱え込むのはやっぱりよくないって!」
「うん。わたしも相談に乗るよ、義之……」

 茜と小恋の言葉が身にしみる。本当に自分のことを心配してくれているんだということがよくわかり、義之は胸の中が熱くなった。

「……ありがとう、小恋、杏、茜」

 口をついて出た言葉は心からのお礼の言葉。
 ――相談、しよう。そう思った。さくらさんには魔法の桜のこともさくらさんが我が身を犠牲にしようとしていることも、決して他言してはならないと口止めされている。だけど、この問題はもう自分一人だけで抱え込める限界を超えていることだという思いもまたある。もしかしたら、相談することで自分やさくらさんだけでは見えてこなかった光明が見えてくるかもしれない。妙案が浮かぶかもしれない。

「……じゃ、お言葉に甘えて、ありがたく相談させてもらう」

 そう言うと、言葉と共に肺の中から濁った空気が全て外に出て行くような錯覚にとらわれた。問題を一人で抱え込んでいたことによって生まれた重みのようなものだと思った。

「……ってもここじゃなんだしな。商店街の喫茶店にでも行くか」

 三人に異論はないようだった。立ち上がり、おごるよ、と言うと、やった、と茜は見るからに嬉しそうに笑い、杏も笑みを浮かべ、「せっかくだからムーンライトのジャンボパフェをもらおうかしら」と言う。

(ったく。真剣な話をしようってのにこいつらときたら……)

 少し呆れる。しかし、その明るさに救われているところがあるのも事実だ。
 先ほどより少しだけ気楽になった感覚を抱きつつ、義之は帰り支度を始めた。



 場の空気は静まり返っていた。
 あれから場所を学園の教室から商店街の喫茶店に移し、各々が頼んだものが運ばれてくるとともにそれらに口をつけるのもほどほどにして義之は自分があの日、さくらとの話で知り得たことを雪月花の面々に話した。
 『枯れない桜』が人の願いを叶える魔法の桜であること、その『枯れない桜』が暴走状態に陥っていることが最近、初音島で頻発する事故や事件の原因であること、それらの問題を解決するためにさくらが身を捧げようとしていること。義之のさくらへの恋心については黙っておいた。それは今、話題にあげるほど重大なことではない。
 それらを義之が語り終えた後に待っていたのは、――沈黙。
 訳が分からない、という顔をして呆然としている小恋。信じられない、という顔で訝しむ様子を見せる茜。いつものポーカーフェイスながら何かを考え込んでる様子の杏。

「……冗談、だよね……?」

 長引く沈黙を嫌ったかのように茜がそう口にする。笑おうとしたのだろうが、笑いきれておらず半笑いのような中途半端な表情になっている。
 冗談。そうであれば、どれだけよかったことか。義之は息を吐いた。

「残念ながら、冗談でもなんでもない。俺が話したことは全て事実だ。……っても俺自身ですらまだ信じ切れていないんだからその反応も無理はないけど」

 義之の返答にこれが冗談でもなんでもないということを感じ取ったのだろう。茜は押し黙ると思案顔になる。つまり、と杏が口を開いた。

「ここ最近の事故や事件は『枯れない桜』が原因で、園長先生はそれを解決するために我が身を捧げようとしている。……そして、義之はそれを止めたい?」

 最後のことは義之が口にしなかったことだ。しかし、義之とさくらの仲を知る者であれば察しの良い杏でなくともわかることだろう。

「……ああ、止めたい。初音島で起こる事故や事件。その大元を解決するのも大切だけど、だからってさくらさんが犠牲になるのは嫌だ」
「かといって『枯れない桜』の暴走も放っておけない?」
「ああ」

 杏の言葉に義之は頷いた。『枯れない桜』の暴走も放っておけない。けど、さくらが犠牲になるのは嫌だ。その矛盾がこの一週間、義之を苦しめてる大元だ。

「……ま、都合のいいことを言ってると思うだろうけどな」

 義之の自嘲めいた笑いに、そんなことないよ! と小恋が声を荒げた。

「義之にとって芳乃先生は大切な人だもの。いくら島のためとはいえ、そんな人が犠牲にならないといけないなんて絶対に間違ってるよ!」

 グッと、握りこぶしを作って、そう断言される。

「……他に何か、方法はないの? 芳乃先生が犠牲にならなくても済んで、『枯れない桜』の暴走も食い止められるような方法……」
「俺もそれがないかと思って、ここ一週間、考えていたんだけどな……」

 残念ながら、そんな都合のいい方法は見つかっていない。
 そもそも『枯れない桜』がどういうメカニズムで人の願いを叶えているのか、どうして暴走しているのか、その詳細も義之にはわからないのだ。それらに熟知しているであろうさくらが他の方法はない、と言った以上、他の方法なんて思い浮かぶはずがない。

「……他の方法がない以上、園長先生が犠牲になるのを黙ってみているしかない」
「そんな! そんなのひどすぎるよ……!」

 杏が淡々と言った言葉に茜が涙目になって反応する。

「……けど杏の言う通りだ。さくらさんは正しい。初音島の全ての人が危険に晒されているんだ。それを放っておくわけにはいかない。さくらさんに犠牲になってほしくないなんてのは俺のエゴに過ぎないわけだし……」
「エゴなんかじゃないよ! わたしだって、芳乃先生がいなくなるのは嫌だよ!!」
「私も!」

 小恋と茜が声を荒げ、一瞬、喫茶店中の注目が集まる。

「小恋、茜、落ち着いて。本当に叫び出したいくらいつらいのは義之なのに貴方たちが感情的になってどうするの」

 杏はそう言って二人をたしなめた。

「……けど、さくらさん本人は納得しているんだ。自分が犠牲になることに。……なら、そこに横から俺が口をはさむのも間違っているような気もする」

 そうだ。いくら自分が彼女が犠牲になるのが嫌だと言っても彼女本人はそのことを納得している。自分自身と初音島全体の住民の命を秤にかけて、その上で後者を選ぼうとしている。なら、そこに自分が異を唱えるのはおかしいのではないか。それが、あの日、あの人の決断を肯定した理由の一つでもあった。

「……ま、個人的な意見を言わせてもらうとすると義之は決して間違ってないと思うけどね」
「じゃあ杏はさくらさんが間違ってるって言うのか?」
「それも思わない。どっちも正しいのよ。自らを犠牲にして島を救おうとする園長先生も、大切な人が犠牲になるのを見過ごせないでいる義之も。……どちらも正しいから困ったことになってる」

 杏は至極冷静に続ける。

「園長先生と義之がこの件について話したところでどちらかが折れるまでお互いの主張は平行線のままで絶対に和解には至らないでしょうね。だって、どちらも正しいんだもの。ま、現状は義之が折れて、園長先生の決断を尊重する方針になってるみたいだけど」

 杏の目が義之を見る。そのポーカーフェイスを前にしては心の底まで見透かされてしまいそうな錯覚を覚えた。

「……でも、納得はできないでいるんでしょう?」
「……当り前だ。さくらさんが犠牲になるなんて、そんなの納得できるか」

 困ったわね、と言わんばかりに杏はため息をついた。

「……じゃあ、他の解決策を模索するしかないわけだけど……」
「……それが見つからないから、こうして悩んでるんだ」

 はぁ、と義之もため息をつく。結局のところ、さくらが犠牲になる以外で問題を解決する方法はないか? それに尽きる。そして、それがないからこうして悩みを抱き、雪月花の三人に相談しているわけであって。

「結局、振り出しってこと?」

 小恋の言葉が現状を的確に言い表していた。
 三人に現状を話したことを無駄骨だったとは思わない。こうして今、自分が抱えている問題を明かすことで胸中が幾分か楽になった。それだけでも話すだけの価値も意味もあった。しかし、だからといって解決策がそう易々と見つかるはずもない。振り出しに戻る、だ。こうして四人の知恵を突き合わせて、なんとか解決策を探し出すしかない。
 小恋、茜、杏を見る。
 小恋も茜も困り切った表情で唸っている。当り前だ。そう簡単に解決策なんて出てくるはずがない。しかし、杏だけは何かアイディアが浮かんだかのような思案顔を浮かべていた。最も彼女が意味深なのはいつものことなので、何も浮かんでいないのかもしれないが。
 そんなことを思いながら義之は祈るような思いで杏を見ていた。何かアイディアが浮かんだのなら聞きたい。現状を打開する、何かがあるのなら。さくらさんも犠牲にならず、『枯れない桜』の暴走も止める。そんな夢か奇跡のような何かが思いついたのなら。
 義之の視線とそこに込められた思いに気付いた訳ではないだろうが、杏はゆっくりと口を開いた。

「初音島の『枯れない桜』が枯れていた時期があるっていうのは知ってる?」

 なんだ、そんなことか、と一瞬、思った。しかし、その言葉は何か、これまで義之が思いもしなかった真実の切っ先を掴んでいるような気がして、フッと、義之の意識を惹きつけた。

「それくらい知ってる。……っても知識として知ってるってだけで俺の記憶にある初音島はいつも桜が咲いてたから実感としては薄いけど……」
「わたしはうっすらと覚えてるかな……初音島の桜が普通の桜だった時期……」

 義之の言葉に小恋が続く。どちらにせよ、自分たちが物心ついたか、ついてないかの大昔の話だ。今の状況とは関係がない……いや、待て。

「たしかさくらさんは自分が『枯れない桜』を植えた、咲かせた……って言ってたな」
「そう。初音島の桜は魔法の桜。そして、それを咲かせたのは園長先生」

 義之の言葉に我が意を得たりと杏が頷いた。

「初音島の桜が『枯れない桜』であることで魔法の力が働いているというのなら、逆に言えば、初音島の桜が普通の桜であれば魔法の力も働かないんじゃないかしら」

 初音島の桜を普通の桜にする。それはつまり、

「『枯れない桜』を――――枯らす」

 そうだ。『枯れない桜』が枯れていた時期を覚えていない自分には思いつきもしなかったことだ。
 『枯れない桜』を、枯らす。思いついてしまえばなんてことはない。これが最善の対処法、問題を解決する唯一の方法。そう、思えてならない。今、初音島で起きている事件や事故は『枯れない桜』の魔法の力が暴走することで巻き起こされているものだ。ならば、その魔法の力の源をそもそも断ち切ってしまえば? そうすれば、全ては解決するのではないだろうか? 魔法の力さえなくなってしまえば事件も事故も起こらなくなるのではないだろうか? 少し考えてみて、多分、そうだろうという結論に帰結した。『枯れない桜』さえ枯らしてしまえば全ての問題は解決する、と。

「私が図書室で読んだ非公式新聞のバックナンバーを見る限り、この初音島で不思議なことが起きている時期は『枯れない桜』が咲いていた時期に限定されているの。そのことは雪村流暗記術が保証するわ。これも、私の説の根拠になるわね」
「……非公式新聞部のバックナンバーってお前、そんなもの」

 少し呆れる。しかし、杏は気にした風もなく笑った。

「いいじゃない。知識はいくらでも頭の蔵書に収納しておきたいものよ。まぁ、非公式新聞部がどこまで信用できるかに関しては少し疑問だけどね」

 杏はくすり、と笑う。が、その表情を少し曇らせ、もっとも、と呟いた。

「魔法のことに関しては全くの素人の私たちでも思いついたことを園長先生が思いつかないでいる、っていうことは少し考えにくいことだけど……」
「そうだよね〜。自分が犠牲にならなくても解決する方法があるのなら、真っ先にそれを実行しそうなものだけど……」

 茜が杏に同意する。それもそうだ。『枯れない桜』を枯らす。それは魔法のことに関しては素人の義之たちにはこれ以上ない最上の方法に思えるが、さくらがそれを実行しないということは『枯れない桜』を枯らすことに何か問題があるのか、もしくは一度咲かせてしまった桜を枯らす、ということがそもそもできないのか。
 だが。

「――それでも、俺にはこれが一番の解決法だと思える」

 義之の胸の中にあるのは確信だった。根拠は、ない。ただ、そうだ、と思う気持ちは何よりも強く義之の胸中に根付き、これでさくらを救えるという歓喜の思いが沸き上がってくる。
 それは錯覚かもしれない。何のアイディアも浮かばなかった状況に一つのアイディアが浮かんだ。それを絶対だと、間違いのないものだと思い込みたいだけなのかもしれない。それでも、

「『枯れない桜』を、枯らす」

 再び口に出して確かめる。うん。やっぱり、これが一番しっくりくる。これが一番の解決法だ。これならば、あの人を――さくらさんを救える。
 魔法の力で咲いている『枯れない桜』を枯らす。それは、とてつもなく困難なことに思える。だが、自分にはそれができる。そんな自信があった。

(俺だって、魔法使いだ)

 手から和菓子を出すことと、他人の夢を見させられてしまうという、何の役にも立たないちっぽけな魔法。それでも、自分には魔法が使える。ならば、魔法の力で維持されている『枯れない桜』に干渉することもできるはずだ。
 絶望と無力感の中で見えた一筋の光明。絶望に沈んでいた心が、活力を取り戻す。目の前にあらわれた明確な目的が精神を透徹にする。グッと、義之は握りこぶしを作った。自分のやるべきことは明白。さくらさんを、救う。そのためにただ自分が正しいと思ったことをするだけだ。

「……生気が戻ったわね」

 そんな義之を見て、杏は笑った。いつもの何かを企んでいるような笑み、しかし、それがどことなく嬉しそうに見えるのは義之の錯覚だろうか?

「うん。やっぱり義之はそういう顔してなきゃ。沈んだ顔なんて、義之には似合わないよ」

 小恋は露骨に嬉しさを満面に出し、そんなことを言う。こうもハッキリと言われると少し、照れくさい。

「うんうん♪ やっと義之くんらしくなったね♪」

 茜もまた嬉しげにそう笑った。
 義之はそんな三人の顔を順々に見ると、明瞭な声で告げた。

「小恋、杏、茜。相談に乗ってくれてありがとう。おかげで妙案が浮かんだ」
「気にしないでいいよ。……っていうかわたしと茜は唸ってただけでアイディアを出してくれたのは杏だしね」
「それでも、だ。……うん。俺にはやるべきことができた。ちょっと、行ってくる」

 毅然とした決意を胸に義之は立ち上がると、歩き出す。大切な家族を救うために、大好きな人を救うために。その背中を雪月花の三人は笑顔で見送ってくれた。



 『枯れない桜』を枯らす。やるべきことが決まった以上、行動は早いほうがいい。そう思い、桜公園――『枯れない桜』の元を訪れた義之を出迎えたのは小柄な影だった。
 見慣れた人物――のはずなのに義之には一瞬、その人物が誰かわからなかった。それくらい彼女が浮かべている表情は硬質で、これまで見てきた彼女の朗らかな表情とは全くもって似ても似つかぬものだったからだ。
 まばたきを一つ。そうして、目の前にいる人物が自分の知る彼女であることを再確認し、義之の口から言葉がこぼれる。

「アイ……シア」
「……こんにちは、義之くん。まだあたしのこと覚えていてくれてるんだね」

 そんなに長い付き合いがあるわけでもないが、これまで義之が見てきた天真爛漫な彼女とは思えない。まるで、何か重要な使命を帯びているかのように、その表情は真剣そのものだった。

「……何しに、来たの?」

 淡々とアイシアが呟く。透徹したルビーの瞳は、全てお見通しだと、語っているようでもあり、その威圧するような雰囲気に一瞬、飲まれそうになる。だが、義之は気を取り直すと、

「……桜を、枯らしにきた」

 声に力を込める。普通の人が聞けば何を馬鹿なことを言っているんだ、と一笑に付される言葉。しかし、アイシアにはそれで意味が伝わる。そんな確信があった。アイシアは『枯れない桜』が魔法の桜であることも、それが今、暴走状態に陥っているということも、多分、全部知ってる。そう、思った。「やっぱり……」と少し表情を悲しげに歪め、呟かれたアイシアの言葉は義之の考えを裏付けてくれた。

「どうして、枯らすの?」

 淡々とした問い。しかし、この問いから逃げることは許されない、と本能が告げていた。自分を真っ直ぐに見つめるルビーの瞳を真正面から受け止め、返事をする。

「大切な人を守るために。それに……それが正しいことだと思うから」
「……そうだね。あたしも、そう思う。きっと、それは正しいこと」

 自分は正しいことをしようとしている。そして、またアイシアもそれを肯定してくれている。だが、何故かその肯定の言葉を告げた顔は悲しみに染まっていた。
 それっきり、会話は途絶えた。アイシアが口を閉ざしたからだ。義之が何かを言えばいい、気心の知れた、とはいかないまでもそれなりに親交のある自分とアイシアだ。いつものように気楽な言葉の一つや二つでもかけてやればいい……いいのだが。

「…………」

 何故か悲しみを噛みしめるようにしているアイシアを前にしては言葉が出てこなかった。今、話しかけてはいけないような気が義之の中を駆け巡った。
 嫌な沈黙が二人の間に降りる。
 ややあって、意を決した、というようにアイシアが悲しげな表情のまま、口を開いた。

「桜を枯らそうとする義之くんは正しい。この島を覆っている魔法は、全てこの桜が巻き起こしたもの。だから、この桜さえなくなれば魔法は消えて、問題は全部、解決する。うん、正しいんだけど……これだけは先に言っておかないといけないと思うから……言うね」

 淡々と、悲しみと苦しみと同情を噛みしめて、まるで死病の患者に余命を宣告する医者のような態度。次いで、告げられた言葉は義之を驚愕させるには十分なものだった。

「桜を枯らせば――――君は消える」

 一瞬。アイシアが何を言っているのかわからなかった。

「『枯れない桜』の消滅は、君自身の消滅だよ」

 義之は呆然とした。ポカン、と。見るも滑稽な表情を浮かべていたと思う。
 アイシアは何を言っているんだ? 桜を枯らせば消える――消滅する、誰が? 俺が? そんな馬鹿な。そんなことがあるもんか。桜を枯らすだけなんだぞ? この島を覆っている魔法を無くす。ただそれだけなんだぞ? どうしてそれが自分が消えるなんていう話に繋がるんだ?

「どういう……ことだよ……」

 混乱する思考から漏れたのはその呟きだけ。
 アイシアは再び悲痛な表情で義之を見、口を開こうとして、

「――そこから先は、ボクが話すよ」

 割って入った第三者の声にかき消された。ハッとして義之が振り向く。そこにいたのはアイシア同様、悲痛な表情を浮かべた一人の少女。

「……さくらさん」

 ――さくらだった。





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