1月12日(水)「二者択一」








 生きている、というのはどういうことだろう。
 朝、起きて、顔を洗って、朝食を食べる。学校に行き授業を受けて、昼休みに昼食を食べて、友人たちと他愛もない雑談に花を咲かせる。放課後には友人たちと遊びに行って、そうして自宅に帰ってきた後は夕食を食べて、ゴールデンタイムのテレビを見、風呂に入り体を洗って、眠る。そして、再び朝、起きて、同じことを繰り返す。多少の違いはあれど学生ならそんな日々の繰り返しだ。
 そんな、当たり前のこと。それを人は生きている、生活をしている、人生を送っている、存在している、と言うのだろう。
 では生きていない、存在していない――死ぬ、消える、というのはどういうことか。
 それは……きっと『当たり前』の消失。
 それまで当たり前だと思っていた、他愛もない、と思っていた日々の消失。永遠に続く、変わらないと思えていた日々の消失。何よりも大切で、かけがえのない日々の消失。
 消える、ということはそういうこと。他者との繋がりは絶たれ、その人間が世界にいた場所は空白になる。日々を過ごせない、人生を送れない、嬉しいと思うことも、楽しいと思うことも、苦しいと思うことも、悲しいと思うことも、何も無くなって、喜怒哀楽も関係無くなって、独り、世界から弾かれる。
 感情はおろか、自分を自分だと認識することすらなくなり、意識は消え、独り、虚無に帰る。
 それが、死――消えるということ。
 それは嫌だ、と義之は思う。
 嫌だ。絶対に嫌だ。そんなこと想像するだけでおそろしい。そんなことが我が身にふりかかるなんて絶対に避けたい。本能的に、消滅への恐怖が、死への恐怖が胸に沸き起こる。
 ――――だけど。
 だけど、もし。
 そうすることで大切な人が救えるのなら?
 この世界の誰よりも――自分よりも――大切な、大好きな人を救うことができるのなら?
 受け入れて、いいかもしれない。
 そう思う自分もまた、たしかに心のなかに存在していて、あの人も多分、こんな気分なんだろうな、とぼんやりと思った。



 ――――ひどく、ぼんやりとしている。
 意識はどこかうつろ。思考はゆらゆらとしていて自分のことについて考えているはずなのに、まるで他人事のよう。
 無力感はない、焦燥感も、絶望感もない。
 ただ、ボーっとしていた。

 『枯れない桜』の消滅は、自分自身の消滅。

 そのことを聞いてから一晩明けたというのに、いまだその事実を受け入れきれていない。あまりに現実味のない、その真実に、心が追い付いてこない。自分自身の消滅という想定すらしていなかった真実に、思考がぼやける。真実を飲み込めない、咀嚼できない、嚥下できない、消化できない。
 ひどくぼんやりとした気分で、義之は昨日の出来事を思い出そうとした。



「――そこから先は、ボクが話すよ」

 悲痛な面持ちで『枯れない桜』の前に現れたのは芳乃さくらだった。

「……さくらさん」

 義之がさくらを見る。さくらはなんとも気まずげに視線をそらした。

「……気付いちゃったんだね、義之くん。『枯れない桜』を枯らせば、全てが解決するってことに……そういう手段もある、ってことに……」

 まいったなぁ、と言わんばかりのさくらの声。その声音から、さくらはやはりこの方法を知っていて、それでもその方法を取ることを選択しなかったのだと察する。はい、と義之は頷いた。

「『枯れない桜』を枯らす。……そうすれば初音島に働いている魔法の力も消えて、今、初音島で起こっている事故や事件も起きなくなる。そして、何より、さくらさんが犠牲にならずに済む。……最良の方法だと、俺は思うんですけど……」
「そうだね。『枯れない桜』を枯らせば、全部の問題は解決する……」

 最良の、最も正しい解決策が目の前にあるというのにさくらの表情は晴れない。

「……でも、ダメだよ。その方法は取れない。ボクが犠牲になる以外に方法はないって言ったあの時の言葉は嘘じゃないよ」

 そうだ。さくらはたしかに言った。さくらが犠牲になる以外、問題を解決する方法はない、と。やはり『枯れない桜』を枯らすことは何か問題があるのか、それとも、枯らすことそのものができないのか。それとも……。

「それでもその方法を取らないってことは、アイシアが言った『枯れない桜』を枯らすと俺が消えちゃうってことが関係しているんですか?」

 正直、訳が分からない。何故『枯れない桜』を枯らすことで自分は消えてしまうのだろう。因果関係がさっぱり分からない。

「『枯れない桜』を枯らすと俺が消滅する、って……どういうことなんです?」
「…………」

 義之の言葉にさくらは苦悶の表情で黙り込んだ。
 ――しかし、しばらくすると、意を決したように口を開いた。

「……いつかはこんな時が来ると思っていたけど、今がその時なんだね」

 ついにきたか、と言わんばかりの態度。その表情を見ていると、これまで避け続けてきたことに真っ向から直面した時、人はこんな顔をするだろうと思えた。その様子は悲しそうであり、諦めと覚悟の感情が混じっているようでもある。さくら、とアイシアが声をかける。

「……ボクが『枯れない桜』を咲かせたっていう話はしたよね?」
「はい。それは聞きました」
「でも、なんで咲かせたか、その理由については言ってなかったと思う」

 そうだ。あの夜は親しい人物が『枯れない桜』を咲かせた張本人ということに驚愕し、考えが至らなかったが、魔法の桜をわざわざ咲かせたのならそこには何か理由があるはずだ。そのことはここ数日、義之の中で気になっていたことだ。まさか島の観光事業のためではあるまい。

「ボクは『枯れない桜』にかなえてほしい願いがあった。だから、『枯れない桜』を咲かせたんだ」
「かなえてほしい願い……?」

 義之の言葉に、そう、とさくらは頷く。そして、一拍の間の後、

「それが君だよ」

 さくらは碧い瞳で、真っ直ぐに義之を見て、言った。

「は……?」

 意味がわからない。『枯れない桜』にかなえてほしい願い。それが……自分?
 困惑する義之に構わず、さくらは言葉を続ける。

「『枯れない桜』を咲かせて、ボクは願ったんだ。……ボクにも家族がほしいです、って」
「家族……」

 かちり、と。頭の中で何かが噛み合った音がした。『枯れない桜』を枯らせば自分は消える。そして、『枯れない桜』は魔法の桜。その『枯れない桜』にさくらさんが願ったことは、家族。一つ一つのキーワードが頭の中で繋がっていく。

「その願いから生まれたのが……義之くん、君だよ」

 ざあ、と風が吹いた。風は『枯れない桜』を揺らし、薄紅色の花びらが舞い散る。

「君は『枯れない桜』が創りだした存在。本来はこの世界には存在しない、魔法の力によって生み出された存在」

 だから、と義之の背後にいたアイシアが言葉を継ぐ。

「『枯れない桜』が枯れて、魔法の力がなくなってしまえば、君はこの世界には存在できない」
「『枯れない桜』がなくなれば、君はこの世界から消滅する」
「…………ッ!」

 絶句する。衝撃が、大きかった。何の変哲もない普通の人間だと思っていた自分が、実は『枯れない桜』に生み出された存在、魔法の力で生み出された存在だなんて。

「俺が……そんな……」

 義之は驚愕しつつも、どこか納得していた。ああ、そうか。だから、『枯れない桜』を枯らせば自分は消えるのか、だから、さくらさんはこの方法を選択しなかったのか。それならばあの雪の日、『枯れない桜』の下でさくらさんと出会った日。あの日以前の記憶が自分にはないことにも納得がいく。覚えていない、のではない。始めから記憶なんてなかったんだ。おそらくは、自分はあの雪の日に『枯れない桜』の力でこの世界に生み出されたのだろう。

「……だから『枯れない桜』を枯らす訳にはいかない」

 毅然とした表情でさくらは言った。彼女がこの方法を選択しなかった訳、『枯れない桜』を枯らすことで発生する問題。それが自分だとは夢にも思わなかった。

 ――君は、ボクが守る。

 あの言葉に秘められた真の意味を、今になって理解する。
 さくらは義之を守るために。義之が消えないために自分を犠牲にしようとしているのだ。
 『枯れない桜』を枯らす。
 最善の方法だと思えた。これをすることで全ての問題は解決する、そう、信じられる思いつきだった。
 だが、それをすれば、

(……俺は、消える)

 膝から崩れ落ちる。あまりに現実味のない真実に力が抜けた。無様にもその場にへたり込み、呆然とするしかなかった。それくらい『真実』は義之の体を貫き、絶大な衝撃を与えていた。
 さくらさんが消えるか、自分が消えるか。結局のところ『枯れない桜』が引き起こしている問題を解決するにはその二者択一しかなかったということだ。なんて残酷な真実、なんて残酷な二者択一。

「この前も言ったけどボクが『枯れない桜』と一体化することでこの問題は解決させる。……だから義之くんが消えることはないんだ」

 この状況においても、さくらは笑顔を浮かべていた。初音島に住まう大勢の人々のために、そして、義之のために、自らを犠牲にせんとするその悲壮な決意。恐怖も当然、あるはずだ。『枯れない桜』との一体化、ということはすなわち、自己の消滅に他ならないのだから。しかし、そんな恐怖を微塵も表に出さず、義之たちを安心させるために、笑顔を浮かべる。なんて強い人だ、と思う。

「……でも、そうしたらさくらは……!」

 茫然自失の状態の義之に代わってアイシアが声を出す。さくらは「自分で蒔いた種だからね」と自嘲めいた笑みを浮かべた。

「ボクが発端になって巻き起こっている事態なんだから、ボクがケリをつけないと。……大丈夫、義之くんは何もしなくてもいい。全部、ボクに任せてくれればいいから」

 再び笑顔。見ているだけで安心するはずの、さくらの笑顔。しかし、今回に限ってはそうはいかなかった。義之の胸の内を悲しみが埋め尽くす。なんて強くて、そして、悲しい人だろう。自分一人で全てを背負って、助けを求めることもない。その小さな体で、一体どれほどの重みを背負ってきたというのか。
 ――――この人を、救いたい。
 そう、あらためて思う。さくらさんが独りで背負っている重荷を少しでも肩代わりしてあげたい、さくらさんの苦しみを少しでもやわらげてあげたい、さくらさんが心から笑えるように自分にできることならなんでもする。そのつもりだった。だけど、命まで差し出すとなると流石に話が違ってくる。
 『枯れない桜』を枯らせば、さくらさんは救える。だけど、それをすれば、自分が消える。

「……もうすぐ準備も終わる。そうすればボクが『枯れない桜』と完全なる一体化をして、『枯れない桜』の暴走も止める。それで何もかも元通り。……だから義之くん。早まったことはしないでね」



 そうして、義之が真実を受け入れきれず、呆然としている間に話は終わり、さくらは再び姿を消した。それから何をやったのか、どうやって帰ってきたのかはよく覚えていない。アイシアともどのようにして別れたのだったか。気がつけば衝撃的な真実を聞いた日から一晩が明けていた。
 その間、自分はどのように過ごしたのだっけ? 夕食を食べに来た朝倉姉妹にここ最近落ち込んだ様子が続いていて、そして、今日もおかしな様子の自分のことを心配されたことは覚えているが。
 半ば無意識に体が覚えている日々のパターンをこなすように風呂に入って、寝間着に着替えて、眠って、そうして、朝、起きて、学生服に着替え、登校していた。
 黒板にチョークを走らせ、何事かを告げる教師の声を聞き流しながら、右手を見る。ジッと、見る。親指があって、人差し指があって、中指があって、薬指があって、小指がある。それらの指には爪がついていて、皮膚の色は健康的な肌色。その下を走る血管がうっすらと見える。何の変哲もない、右手。人間の、右手。
 ――だけどこの手は天然の代物ではない。
 魔法。
 この体は親から、人間から、母なる子宮から生み出されたものではなく、魔法によって生み出されたもの。ならば、この手もまた魔法の力で形成されたものなのだろう。自分自身の精神が、肉体が、存在が、超常の力によって生み出されたもの。超常の力によって生み出され、超常の力によって維持され、その力なしでは現存できない人間。なんてバカバカしい話。こんなこと他人に話したところで一笑に付されておしまいだ。だけど、それは真実で。
 ――正直、ショックだった。
 自分は普通の人間だと思っていた。勿論、手から和菓子を生み出したり、他人の夢を見させられたり、普通ではない、超常の力を持っていたのは事実だ。だが、それでも、この心は、体は、他の人――家族たちや友人たちのように普通の人間だと信じていた。否、自分が普通の人間かどうかなんて、普通は疑いすらしない。自分は、人間。それは当たり前の前提だ。人間は何を考えるにあたっても、まずはその前提があった上で論理を組み立てる。そんな当たり前を、常識を、覆された。
 ホムンクルスとかゴーレムとかいった単語が思い浮かぶ。漫画や小説、ゲームで出てくる超常の力で生み出された人間ではない存在だ。自分は人間よりそれらに近いのかもしれない。あるいはμや天枷のようなロボットか。どちらにせよ、普通の人間ではない。『枯れない桜』が生み出した存在、魔法の力が生み出した存在。――本当、今でも信じられない。
 こうして普通に頭は思考し、目は見たものを脳に映し出し、口と鼻は呼吸し、肺には吸い込んだ酸素が流れ込み、心臓は脈を打ち、全身には血液が循環しているというのに。すべからく、普通のことを行っているというのに。それでも自分は普通の人間ではないなんて。本当に他人事のよう。

 『枯れない桜』を枯らせば、自分は消える。

 その事実も、やはり他人事のよう。
 あまりに現実味がなさすぎて、笑いたくなってくる。だけど、これは笑って済ませられることではない。厳然たる――事実。
 『枯れない桜』を枯らさなければ、さくらさんが犠牲になり、『枯れない桜』を枯らせば、自分が消える。ふざけるな、と神様に文句を言いたい。なんだこの二者択一は。
 自分はただあの人に、さくらさんに、笑っていてほしい。さくらさんが幸せであってほしいだけなのに。そのために必要なのは自分自身の犠牲。

(………………)

 ――――決断の刻が、迫っている。
 決断しなければならない。
 そう、思うと、他人事のように思えていた出来事がひどく身近に、じっどりべっとりとした実感を持って感じられて、そのあまりのリアルさに吐き気をもよおした。あまりの非情さに心が苛立った。
 さくらが消えて、義之が残るか。
 義之が消えて、さくらが残るか。
 畢竟ひっきょう、義之はおろか初音島全体を包む問題の解決法はこの二者択一でしかなかったということだ。
 さくらなら必ず前者を選ぶだろう。彼女にとって義之を犠牲にするという選択をするなどあり得ない、否、選択肢自体がそもそも存在していないに違いない。必ず彼女は自分を犠牲にし、義之を、初音島を救おうとするだろう。
 だがそれは、義之には到底、許容できないことだ。
 そう、さくらさんが消えて、自分が残るなど絶対にあってはならないことだ。
 だって、自分は本来この世界に存在しなかった存在なのだから。そんな自分が残って、元々この世界にいた真っ当な人間であるさくらさんが消えるなんて間違っている――ああ、いや、もう、そんな建前はいい。
 自分はさくらさんにいなくなってほしくない、だけだ。ただ、それだけのことだ。大切な家族であり、今となっては大好きな人であるあの人に消えてほしくない。そこに余計な建前は必要ない。さくらさんに消えてほしくない、さくらさんを救いたい。悲しすぎる運命からさくらさんを守ってあげたい。だけど、さくらさんを救うためには『枯れない桜』を枯らさなければならない。そして、そうすれば自分が、消える。
 消えたくは、ない。
 死にたくは、ない。
 俺はもっと、生きていたい。この世界に、存在していたい。
 人間の最も根源的な欲求が、生を求める欲求が、心の中で吼える。
 だけど、それ以上に、

(さくらさんがいなくなるのは嫌だ……!)

 その思いが強く、胸の中で脈打つ。消えたくない、生きたい、という根源的な渇望すら押さえ込む程に強い思い。
 ――自分の命を差し出すことであの人が救えるのなら。
 犠牲になっても、消えても、死んでも、……いいかもしれない。そう、思う。だけどその一歩が踏み出せない。
 当たり前だ。自分が死ぬとわかっている道を躊躇なく歩き出せる、そんな選択を躊躇なくできる人間なんて存在しない。さくらさんだって、自らの身を『枯れない桜』に捧げるというのは悩みに悩み抜いた末での結論だろう。
 しかし、決断の刻は、迫っている。
 義之はそのことを強く、強く感じていた。



 本日の授業は全て終了した。それがわかるんだから、昨日よりはマシな精神状態だと言える。
 しかし、状況は昨日より悪化している。
 雪月花に相談の末、導き出した『枯れない桜』を枯らすという解決策。その解決策で生じる問題が明らかになったのだから。
 問題――他の誰でもない義之自身の消滅という大問題。

「義之〜」

 小恋が呼びかけてくる。その表情は昨日同様、不安そうなものだった。

「どうしちゃったの? 難しそうな顔しちゃって」
「小恋。……いや、別に大したことじゃないよ」

 大したことはあるのだが、小恋に無用な心配をさせたくなかった。しかし、小恋はおっとりしているが馬鹿ではない。すぐに何事かを察した様子で、

「……ひょっとして、昨日、話したことで悩んでるの?」
「…………」

 鋭いな、と思う。さて、どう答えたものかと義之が思考している内に杏と茜も義之のそばにやってきた。

「昨日の魔法の話は杏ちゃんが『枯れない桜』を枯らすってことを提案して終わったはずだけど……」
「今の義之を見る限り、その方法にも問題があった、ということかしら?」

 困惑気味の茜に対し、杏は冷静に、的を射たことを言う。なんて察しの良さだ。

「…………」

 どうする、か。毒を食らわば皿まで、とも言う。魔法のことについて、『枯れない桜』の暴走のことについて、この三人には既に話している以上、新たに明らかになった真実についても話すべきか、しかし。

「……いや問題ないよ。『枯れない桜』を枯らせば、全て解決する。この島で起こってる不審な事故や事件もなくなるし、さくらさんも無事で済む。そして、『枯れない桜』は枯らそうと思えば枯らすこともできる」

 自分が消える、ということはやはり伏せることにした。「そう?」と杏は訝しげにもらす。

「『枯れない桜』を枯らすことが最上の方法だよ」

 自分自身に言い聞かせるように、義之はそう言い切った。

「……それならいいんだけど。なら、さっさと枯らした方がいいんじゃない?」
「そうだよねー。っていうか、義之。昨日、枯らしに行ったんじゃなかったの?」

 杏と小恋に相次いで疑問を投げかけられる。なるほど。その疑問はもっともだ。『枯れない桜』を枯らすことがベストの解決法なら、一刻も早くそれをやるべきだろう。

「……いや、それがさ。枯らすことはできるんだけど、それには準備がいるんだ。さくらさんにも話してあって、今、その準備をしているとこ」
「それじゃあ、その準備さえ終われば……」

 茜の言葉に義之は頷く。

「『枯れない桜』を枯らすよ。それで全て解決だ」

 笑顔で、大嘘をついた。自分はうまく笑えただろうか? 残酷な二者択一への苦悶や死への恐怖は表に出なかっただろうか?

「……そっか、よかった」
「私の助言が役に立ったのならなによりね」
「義之くん、やったね♪ 大切な人を守れて」

 ……どうやらうまく笑えたようだ。雪月花三人組は疑うことなく純粋に喜びの言葉を告げる。小恋は安心したように、杏は得意気に、茜は嬉しそうに。
 三人に嘘をついた。三人を騙した。義之とさくらのことを本気で心配して相談にまで乗ってくれた三人を裏切っている。その事実が義之の胸を突いたが、表情には出さなかった。

「……ああ。これでさくらさんは消えずに済む」

 その代わりに、自分が消えるが。
 滑稽だな、と思う。今の自分は、自分が消えてしまうという問題点を無視して、ひたすらに『枯れない桜』を枯らすことの正しさを並び立てている。それはさながら逃げ道を自ら塞ぐ行為だ。自分が消えるという結末から逃げ出したいと思っている自分を叱咤激励するかのように、『枯れない桜』を枯らさないという自分が助かる選択肢を潰し、自分が消えてしまう選択肢を選ぶように仕向けている。まるで、自殺の準備をしているかのような錯覚におちいりそうになる。

「『枯れない桜』を枯らせば事故や事件はなくなるし、さくらさんも無事。万々歳だ」

 言霊を並べて決意を固める。正直、命は惜しい。消えたくないという強い思いもある。だが、自分が存在していることであの人が犠牲になってしまうというのなら、この命を差し出すこともいとわない。桜内義之にとって芳乃さくらという存在は、自分の命以上に大切な存在だ。
 『枯れない桜』は、枯らす。あの人の幸せのために、この命を差し出そう。そう、決心した。未練は、ある。あの人への恋心を自覚してからというものの、『枯れない桜』の騒動で未だ思いを告げることすらできていない。願わくば、あの人に思いを告白し、そして、一緒に日々を過ごしたかった。だけど、仕方がない。あの人を救うためには、自分が消えるしかないのだから。
 ただ、一つだけ気がかりなことがあった。

 ――果たして、桜内義之のいない世界で芳乃さくらは幸せなんだろうか?



 夜。芳乃邸の自室にてベッドで横になり、義之は思案していた。
 どうしても自分が消えた後の未来。その世界でさくらが幸せでいるという光景(ビジョン)を思い浮かべることができない。
 さくらが消えて、義之が残った世界では義之は幸せでないように、義之が消えて、さくらが残った世界でも同様にさくらもまた幸せではないのではないか?
 それくらいさくらの中では義之の存在は大きいもの、という自覚が義之にはある。思い上がりと笑われるかもしれない、自意識過剰と呆れられるかもしれない。だが、少なくとも義之が犠牲にならないために、さくらは我が身を犠牲にしようとしている。その程度にはさくらの中では義之は大切なのだ。義之がさくらを大切に思うことと同じように、あるいは、それ以上に。
 自分が消えることでは、さくらは幸せになれない。
 それは――困る。
 義之はさくらが幸せになるために我が身を犠牲にしようとしているのだ。さくらが不幸になるのでは犠牲になった意味がない。生きていてくれるだけで幸せだ、というのは義之にとってのことであり、義之の自己満足に過ぎない。義之が消えれば、さくらは嘆くだろう、絶望するだろう。それを無視してまで行動を起こすことなどできない。
 畢竟、自己犠牲の矛盾がそこにはあった。他人のために命を投げ出したのに、それが他人のためにならない。犠牲になる本人はいいだろう。自分が犠牲になることで自分以外の大勢の人は救われると信じて、満足して、逝ける。だが、残された人間がどう思うか、どう感じるか、ということを考えれば自己犠牲など到底できない。
 だからといって、さくらが犠牲になる選択肢を選ぶというのも論外だ。大切なあの人が犠牲になるのを見過ごすなど許容できることではない。
 ――ならば、どうするか。

「……『枯れない桜』を枯らしつつ、俺も消えない」

 夢物語を口にする。
 なるほど、この夢物語を実現できれば問題は全て解決するだろう。自分もさくらさんも幸せになれる未来が待っているであろう。だが、そんなことはあり得ないことだ。
 自分は『枯れない桜』によって生み出された存在。『枯れない桜』の魔法の力なしでは現存できない存在。
 昨日、さくらさんとアイシアに散々言われたことだ。『枯れない桜』の消滅は義之自身の消滅だと。ならば、やはりそれは事実で、回避することは不可能なのだろう。
 ――――では、受け入れるか?
 『枯れない桜』を枯らし、自らは消滅し、さくらさんを救うか?
 否。さくらさんの幸せを願うなら、それは絶対にとってはいけない手段だ。
 先程、確認したばかりではないか。桜内義之が消滅する未来ではさくらさんは救われない。
 真にさくらさんのことを思うのなら、さくらさんが取ろうとしている手段、『枯れない桜』とさくらさんの完全なる融合を肯定し、見送るべきではないのか?
 いや、これもまた否、だ。
 いくら島のためとはいえさくらさんが犠牲にならないといけないなんて絶対におかしい、間違っている、許容できない。さくら本人が納得していても、義之が納得できない。それが自分勝手な考えであることを義之は理解しつつも、どうしてもさくらが犠牲になるということに関しては認められないでいた。
 では、傍観するか?
 初音島で頻発する事故や事件を他人事と決め付け、このまま何もせず、『枯れない桜』の暴走を放置し続けるか?
 それも、否。
 そんなことできない。罪もない人達が巻き込まれ、最悪、命を落とすかもしれない現状を放置しておくことなど絶対にできない。こうしている今も、初音島のどこかで事故や事件が起こっているかもしれないのだ。
 猶予はない。かといって、打開策もない。……八方ふさがりだ。
 どうすれば、いい?
 何か、何かないものか。自分もさくらさんも犠牲にならず、それでいて『枯れない桜』の暴走を止めることができる方法は。いくら考えても、いい案は浮かばない。そんな都合のいい方法なんて早々、浮かばない。
 『枯れない桜』の消滅は、桜内義之の消滅。この事実をなんとかしない限りは、問題が解決する気がしない。だが、魔法のことに詳しいさくらも、そして、おそらくはさくらと同じくらいには魔法に詳しいのであろうアイシアも、この事実は不変のものだと告げたのだ。誰かに助けを請いたいが、誰に相談しても解決策が出る気がしない。
 あるいはさくらやアイシア以上に魔法に長けた人物がいれば解決策も出るかもしれないが……。あいにくと義之の知り合いに、そんな人物は思い浮かばなかった。





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