1月13日(木)「夢の中の邂逅」





 これは夢だ、とハッキリわかった。思考に没頭する内にいつの間にか眠っていたらしい。
 夢の中で義之は薄紅色の花びらが舞い散る広間に立っていた。目を惹くのは広間の中心にそびえ立つ桜の巨木。巨大な幹を持つその桜は枝木を大仰に広げ、まるで天蓋のように薄紅色の花びらを展開していた。見るに見慣れた姿ではあるが相変わらず、圧倒される。その桜の威容を前にしては自分がとてもひどくちっぽけな存在に思えてくる。
 初音島の数多くある桜の木の中でも一番巨大で美しい桜、――『枯れない桜』。夢の中とはいえ、今、自分がいる場所は桜公園の『枯れない桜』がある広間だとわかった。
 どうして、こんなところに、と疑問に思った義之に声がかけられた。

「初めまして、だね」

 その声は聞き慣れた声のようであり、全く聞き覚えのないような声にも思えた。
 いつの間にか、『枯れない桜』の幹に手を当てて、一人の少女が立っていた。小柄な体の少女だ。金色の髪に碧い瞳。それは義之が見慣れたあの人と瓜二つの外見をしていたが、

「さくらさん……じゃないですね」

 少女は、いや、少女の外見をした『誰か』はくすり、と笑った。

「そう。私はさくらじゃない。いや、何。ちょっとさくらの外見を借りてるのさ。さくらは私の若い頃に本当によく似ているからね」

 初めて会ったはずの人なのに、不思議とそんな気がしない。自分はずっと前からこの人のことを知っていたかのようなそんな錯覚におちいりそうになる。胸中に芽生えた奇妙な親密感に困惑しつつ、義之は訊ねた。

「貴方は一体?」

 少女はふふ、と楽しげに笑った。

「私のことなんてどうだっていいだろう? お前さんが今、抱えている悩みに比べれば些細な事さ」

 からかうような口調。しかし、まるで自分のことを何もかも見透かされているような感覚を抱き、義之は表情を硬くした。

「……知ってるんですか?」
「まぁね。……おいおい、そんな恐い顔をしないでおくれ。私はお前の味方だよ」

 全てお見通し、といった態度に自然と警戒心が高まる。当たり前だろう。初めて会った人に心の中を見透かされていい気分をする人間は少ない。

「義之。お前さんは『枯れない桜』を枯らしても、自分が消えないでいられる方法を探しているんだろう?」

 少女の言葉は核心を突いていた。こちらは名乗ってもいないのに名前を知っていることに関しては指摘することをやめる。どうせ指摘したところでとぼけられるだけだろうし、何より、目の前の少女は全てを知っているんだろう、という思いがあった。「よくご存知で」と少し皮肉げに返す。
 そうだ。『枯れない桜』を枯らして、そして義之が消えないでこの世界に残る。それができれば、それは最善の方法だ。さくらも義之も犠牲にならず、『枯れない桜』の暴走も止まる。しかし、それができないから悩んでいるのだ。

「……ええ。ですが、そんな方法はないでしょう? 『枯れない桜』が枯れれば、魔法の力が失われれば、魔法の力で生み出された俺という存在は消失する」

 身の上話をする必要はないだろう。余計な説明は省略し、事実だけを述べる。

「そうだね。魔法の力がなくなれば、お前さんは消える。それは大まかには間違いじゃない……でも厳密に言えば間違っている」
「間違い?」

 少女の言葉は義之の関心を惹くに充分なものだった。少女は頷く。

「魔法の力が消えることがお前さんが消える原因じゃないってことさ。お前さんが消えるのは他の理屈によるものだ」

 それは全くの新事実だった。魔法の力によって生み出された我が身、ならばそれが消えるのも当然、魔法の力がなくなることによるものだと思っていた。しかし、目の前の少女はそれは違う、と言う。
 困惑する義之に構わず少女は言葉を続ける。

「仮に『枯れない桜』を枯らしたとしよう。そうすればその時点で島を覆う魔法の力は消える。だけど、その瞬間にお前さんが消えるかと言えば、答えはノーだ。魔法の力が途切れても、お前さんは存在し続ける」
「俺の存在を支えているのは魔法の力じゃないってことですか?」
「それも答えはノーだ。魔法の力はたしかにお前さんの存在を支えている。だけどね、お前さんの存在を支えているのは、桜内義之という存在をこの世界に維持しているのは魔法の力だけじゃないのさ」

 魔法の力だけではない……? では、自分という存在をこの世界に維持している魔法以外の力があるということか?
 そんな義之の推測を裏付けるように少女は言った。

「魔法の力と双璧を成しお前さんの存在を支えているもの、それは……有り体に言ってしまえば想いの力」
「想いの……力……」

 曖昧な単語だった。そう言われてもよくわからない。

「桜内義之を最初に生み出したのは魔法の力であっても、それからの十数年間でお前さんはこの世界に確固たる爪痕を残してきた。虚構の存在であったとしてもお前さんがこの世界で行ったことは確固たる事実として残っているんだよ。特に人の記憶というところには強くね。だから、お前さんのことを覚えている人間がいる限り、お前さんを想っている人間がいる限り、魔法の力を失ってもお前さんは消えない」
「じゃあ、『枯れない桜』を枯らしても、俺は消えないってことですか?」

 少女の言葉が本当だとしたら魔法の力がなくても自分は存在できる、すなわち『枯れない桜』を枯らしても自分は無事、ということになる。それは最も望ましい未来。さくらさんも自分も、誰も犠牲にならない未来。しかし、歓喜の感情を沸かせた義之に釘を刺すように少女は「いいや」と首を横に振った。

「消える。魔法の力を失った時点で元々この世界に存在していなかったお前さんの存在は薄れていく。魔法の力がなくなればお前さんはこの世界の記憶に残らない。お前さんのことを覚えている人間も徐々にお前さんのことを忘れていく。それが例え、どんなに親しい家族や友達であってもね。当たり前の話さ。世界そのものに否定されるんだから人間風情がそれに抵抗することなんてできない。……そして大半の人間からお前さんの記憶が消えた時、……想いの力がなくなった時、義之、お前はこの世界から消失する」
「…………」

 過程は微妙に異なるが結果は変わらない、ということか。『枯れない桜』を枯らせば自分は消える、ということは既に聞き及んでいるとはいえ、あらためて言われるとやはり胸の中に痛みを伴う。仕方のない事だが、あまり再確認したくない事実だ。
 もしかしたら『枯れない桜』を枯らしても、自分は助かるかもしれない、と期待しただけに期待した分、ショックも大きい。

「『枯れない桜』を枯らしても、俺が消えない方法はないんでしょうか?」

 そんな都合のいい方法はない、と理解しつつも、訊ねずにはいられなかった。それにこの少女を前にしては、彼女ならなんでも知っている、不可能を可能にすることだってできる、という思いを抱いてしまう。それくらい少女の雰囲気は超然としていて現実離れしていた。
 さくらと同じ外見をした金髪碧眼の少女。彼女は義之の問にしばし考え込んだ素振りを見せ、

「…………ひとつだけ、方法はあるかもしれない」

 ぽつり、と言った。
 え? 聞いておいてなんだが自分でもまさかそんな方法があるなんて思ってもいなかった。信じられない、という思いが義之の全身を駆け巡る。信じたい、という思いが義之の胸の中に湧き上がる。『枯れない桜』を枯らしても自分が消えない方法。誰も犠牲にならずに済む最善の、解決策。それが……『ある』というのか?

「……といっても確実だと言えるわけじゃない。可能性があるってだけの話だ。それも極僅かな可能性がね。そんな不確実ないくつもの推測に仮定を重ねた上での話だよ? それでもよければ話すけどね」

 お願いします、と義之は言った。たとえ僅かとはいえ可能性があるというだけでも聞く価値はある。今の自分はわらにもすがりたい思いなのだ。推測上等、仮定上等。この絶望的な状況を打破することができる可能性がある手段とは、どんな手段だと言うのか。気が逸る。思わず身構えるような気分になる。

「その方法はね――――恋をすることだよ」

 少女が何を言ったのか、一瞬、理解できなかった。今、彼女はなんと言った? 恋? 恋? 恋をすることが自分が助かる方法? どんな大仰な方法を口にするのか、と身構えていた分、少し拍子抜けした。恋をする、とはどういうことだ? 理解が追いつかない。思考が混乱する。
 そんな義之を落ち着かせるかのように、少女はゆっくりと言葉を続けた。

「いいかい、義之。お前さんの存在を支えているのは魔法の力と想いの力って言ったよね? それは極論、魔法の力がなくなっても、想いの力さえ強ければ桜内義之という存在はこの世界に存在できるってことだ。だけど、普通はそれは不可能。魔法の力がなくなった時点で世界は桜内義之という存在を否定する。魔法の力がなくなった時点で桜内義之という存在は幻想のものになる。世界中の全てがお前という存在を否定する。それで想いの力がなくなるって話はさっきしたね?」

 こくり、と頷く。そうだ、だから自分は消える。それが抗えない事実ではなかったのか?
 少女はだけどね、と言い言葉を続ける。

「……仮にもし、世界中の全てに否定されても桜内義之という存在を信じる人がいれば、桜内義之という幻想はたしかにこの世界に存在すると信じ続けられる人さえいれば、その幻想は存在し続けることができるかもしれない。そう、例えば――」

 ――何よりもかたい絆で結ばれた、世界の否定にさえも負けない強い想いを持った恋人とか。

 そう、少女は告げた。

「世界の否定にも負けない……強い、想い……」

 オウム返しに呟く。そうさ、と少女は頷いた。

「だけど、それは並大抵の想いなんかじゃ足りない。なんせ世界が否定している真実に真っ向から抗うってことなんだからね。本当に気持ちと気持ちが、心と心が通じあった真の想いがないと奇跡は起きない。……そんな人が、お前にはいるかい?」

 碧い瞳で真っ直ぐに見られ、義之はしばし沈黙し、しかし、ハッキリした声で答えた。

「……今は、いません」
「ほう? まるでこれから先にはいる、とでも言いたげな言い方だね」
「はい。そういう人の候補なら……います」

 恋をすることが自分が消えない方法だと言った。そして、自分は今、恋をしている。大好きな人がいる。何よりも大切に想っている人がいる。仮にあの人もまた自分のことを想ってくれているのなら――。
 自分は、絶対に消えたりしない。
 そう、純粋に信じられた。確信。思いは強固に固められ、胸の中にしっかりと根付く。自然と、笑みすら浮かべていた。それは絶望してどうしようもない時にこぼれるような諦観の笑みではない。希望の、笑みだった。

「……ありがとうございます。とても参考になる話でした」
「気にすることはない。単なる老婆心さ。……それにお前さんが『枯れない桜』の力がなくても本当に存在し続けることができるのかに関して保証もしちゃあいない」

 少女は念を押すように言う。しかし、義之は大丈夫です、と言った。

「俺は、消えません」

 真っ直ぐな、純粋な、言葉。少女は面食らったように目を丸くしたが、ややあって、そうかい、と楽しげに笑った。

「……最後に、これは余談だけどね。私は魔法は補助輪に過ぎないと思っている」
「補助輪?」
「ああ。最初は必要なものかもしれない。けれどいずれ外す時が来て、そして、外した方が遠くへ行ける。どんな魔法もそうだと思う。魔法使い、いや、魔法の力を持つ者はその力を手放せない、手放したくないと思っているのが大半だけど、本当はそんな力はない方がいいのさ」

 補助輪、か。果たして、自分にとっても魔法は『その程度』のものなのかどうか。それは、これからわかる。

「……そろそろ夢から醒める時間だね。じゃあね、義之。お前と話せて楽しかったよ」
「……はい。色々とありがとうございました」

 目の前の人物が誰かは知らない。だけど、彼女は自分に道を示してくれた。感謝しても、したりない。そんな人のことを知りたいのは当然の感情だ。気付かず、「貴方は一体……?」と声に出していた。
 少女はやはり楽しげに笑い。

「ただの魔法使いさ。……『枯れない桜』に宿ったもう五十年以上も前に死んだ魔女の亡霊だよ。一度は消えてなくなったはずなんだけどね。孫や曾孫があまりに苦しんでいるのを見ていられず帰ってきてしまったみたいだ」

 孫? 曾孫? 唐突な単語を義之が訝しんでいる内に少女は「ま、それも今回限りさ」と笑った。

「もう会うことはない……いや、もしかしたら私の生まれ変わりとお前が会うこともあるかもしれないかな? ま、その時はその時でよろしく頼むよ」

 突風が吹いた。夢の中だというのに妙にリアルな質感を伴ったその強風に、思わず目をつぶる。そして、再び開いた時には目の前にいたはずの少女の姿は消えていた。

「……魔法使い、か」

 世界が色を変えていく。夜空が次第に明みを帯びていく、彼女の言う通り、そろそろ夢から醒める時なのだろう。そう、夢から醒める。『枯れない桜』という魔法ゆめ をなくし、現実の世界に戻る。その時が、来たのだ。
 最後に義之は目の前の桜の巨木を見上げ、そうして、意識は覚醒した。



 穏やかな目覚めだった。ベッドの上でゆっくりと瞳を開き、清涼な感触が胸の中を満たしていることを確認しながら体を起こす。「今の夢は……」と呟きながら、部屋を見渡すも、そこは変わり映えしない見るに見慣れたマイルーム。その光景が今までの出来事が夢だったんだ、という確信を強めてくれた。
 わかりきっていたこと。アレは夢だ。そんなこと、夢を見始めた時から理解していた。
 夢の中で『誰か』が語った、『枯れない桜』を枯らしても自分が消えない方法。自分も、さくらさんも、誰も犠牲にならず『枯れない桜』の暴走を止められる方法。都合が良すぎる、という思いも勿論、ある。夢は見る者の願望を映すものだ。あの夢は誰も犠牲にならないですむ方法を求める自分が、その思いを強く抱いていたが故に見た、自分にとって都合の良い夢なのかもしれない。
 他人の夢を見させられている義之には夢というものがいかに夢の主に都合の良いようにできている世界かを嫌というほど理解している。
 だが、それでも。
 あれがただの夢だと言い切ることは、しょせんは夢だと無下にすることは義之にはできなかった。

「……それにしても一体何者なんだか」

 ひとりごちる。夢の中に現れたさくらと同じ姿をした『誰か』。彼女は一体何者なんだろう? そんな疑問が義之の脳裏をよぎる。魔法のことも『枯れない桜』のこともさくらのこともよく知っているような口ぶりだったが……。

「……まぁ、考えても仕方がないか」

 しかし、義之はいくら思案したところで彼女の正体を知ることはできそうにない、と早々に結論づけた。当たり前だ。夢の中にいきなり現れた初対面の『誰か』。そんな人間の――夢の中に出てきた人物を現実に存在する人間と同列に考えるのも妙な気もするが――ことなど今の義之がいくら考えたところでわかるはずもない。さくらの姿をしていて、さくらのこともよく知っているようだから、もしかしたらさくらに訊ねれば正体がわかるかもしれないが、今は彼女の正体を知ることが重要なのではない。重要なことは他にある。

 その方法はね――――恋をすることだよ。

 夢の中の少女の言葉が脳裏に蘇る。恋をする、か。今の自分は……。
 胸に手を当てて考える。とくん、とくん、と心臓の鼓動が聞こえる。この音を一際大きくする存在。そんな存在が義之の胸の中にはいる。
 芳乃さくら。
 あの雪の日、『枯れない桜』に願いを委ね自分を創り、自分を拾い、家族のあたたかさを与えてくれた人。いくつもの博士号を持つ天才で風見学園の学園長も務める才女。基本的にはしっかり者なのに稀にものすごくずぼらな面も覗かせる人間らしさも持つ年齢不詳の少女。いつも見る人を安心させてくれる笑顔を浮かべている天真爛漫な人。自分の家族であり、母親のような人。そんな人を、自分は――。

「ああ、もう、これを否定しても仕方がないな」

 夢の中でも少女に語ったことだ。自分は、桜内義之は、――――芳乃さくらをどうしようもないくらいに愛している。『枯れない桜』の問題が判明してから、こんなにもさくらさんのことで悩んだ、苦しんだ。こんなにもさくらさんのことを意識した。それは強い想いがなければできないことだ。

 ――――自分の想いに正直に、思うがままに行動する。……それがきっと最良の結果に繋がるとあたしは思うな

 アイシアの言葉が蘇る。そうだ、この想いをさくらさんに伝える、その時がついに来たのだ。それが、自分もさくらさんも消えない唯一の方法。最善の選択肢であり最良の結果に繋がる道。
 だが、この方法には一つ穴がある。

「……問題は、さくらさんが俺のことをどう思っているかだけど……」

 そうだ。自分はさくらさんのことが好きだ。それは認めよう。この世界の誰よりもさくらさんのことを想っている、その自信はある。しかし、肝心のさくらさんの方はどうか?
 嫌っては、いないだろう。さくらは義之が犠牲にならないで済むために自らの身を犠牲にする方法を取ろうとしている。それくらいにはさくらも義之のことを大切に想っている、かけがえのない存在だと想っている。だが、果たしてそれは恋愛感情なのか?

(……わからないな)

 義之にとってもさくらは元より大切な存在だった。しかし、それは家族として大事に想っていたのであり恋愛感情を抱くようになったのはクリパ以降の話だ。さくらが義之のことを好きだったとしても、それは家族としての好き、なのかもしれない。

(ま、こればっかりは考えても仕方がないか)

 どちらにせよ、自分があの人に告白するという未来は少なくとも決まっている。どんな言葉が返ってくるかはわからないし、それがどういった結果をもたらすのかもわからないが、悪い風にはならないと思う。

 俺は、消えません。

 夢の中で義之は少女にそう断言したのだ。それは絶対の自信ゆえの言動。
 根拠の無い戯言と笑われるかもしれない。しかし、さくらさんほど自分のことを想っていてくれている人はいないというのもまた事実。
 ――――大丈夫。きっとあの人は自分の気持ちにこたえてくれる。
 自分自身に言い聞かせるようにそう胸中で言葉を響かせると義之は携帯を取り出した。方法は見つかった、決意もした、ならば行動に移すのは早い方がいい。義之はさくらに宛てて「大事な話があるので今日、会えませんか?」とメールを送った。
 返信は思っていたより早く着た。

 ――――うん、わかった。ボクも今日、義之くんに話したいことがあったんだ。今夜、0時ごろに桜公園の枯れない桜のところで待ってる。





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