1月14日(金)「告白」





 ――午前0時。携帯のディスプレイで日付が1月13日から1月14日に変わったのを確認し、義之は桜公園へと足を踏み入れた。
 深夜の桜公園に人気はない。日中であれば遊びに来た子供たち、学校帰りの学生、デート中のカップル、ジョギング中のスポーツマン、散歩中の老人など大勢の人で賑わうこの公園もこの時間帯とあっては流石に人っ子一人いない。こんな時間にこの公園を訪れるのは余程の物好きか、もしくは余程特別な目的がある者だけだろう。そして、義之はその後者に入っている。
 桜公園を、歩く。この先に待っているであろうあの人のもとへと向かって。
 公園の敷地内に立ち並ぶ桜の木々は人の多い少ないに関係なく天へと向かって広がる枝木に薄紅色の花を満開に咲かせている。そんな満開の花々が並ぶ姿は相変わらず絢爛であったが、今から自分はこれらを枯らせようとしているのだと考えるとどことなくバツの悪い気持ちにもなる。悪いことをしようとしているのではなく、むしろ、いいことをしようとしているのだが、初音島から四季に関わらず咲き誇る桜の花を奪うということは自分には想像だにできない大事だ。気張るな、という方が無理がある。ここに立ち並ぶ桜の木々から薄紅色の花びらが消えた光景を幻視し、それはさびしい光景だな、と思う。だが、さびしくあっても、正しい光景だ。
 広間に抜け、立ち並ぶ桜の木々の中でも一際大きな桜の巨木を視界に捉える。そこには夢の中でさくらと同じ姿をした少女がそうしていたようにさくらが『枯れない桜』の幹に手を当てて、待っていた。義之はやや駆け足でそのそばまで駆け寄ると、遅くなりました、と言った。

「……こんばんは、さくらさん」
「……うん、こんばんは。義之くん」

 さくらはいつもの天真爛漫な笑顔ではなく、やや緊張したこわばった表情で義之を出迎えた。多分、義之もまた同じような表情をしているのだろう。

「こんな夜にわざわざ来てもらってごめんね」
「いえ、最初に話があるって言ったのは俺ですから……それに」

 義之は空を見上げた。真っ黒な空。深夜0時の時間帯にあって太陽は見えず、月明かりだけが義之とさくらとそして『枯れない桜』を照らしている。夜の闇の中、月の光に照らされて浮かび上がる桜の木はとても幻想的な雰囲気を演出してくれる。

「……魔法使いが話すには、相応しい時間です」

 一瞬の静寂の末に、さくらはそうだね、と頷いた。それは確認のための儀式。これから二人の間で話される内容がただの世間話などではなく魔法のこと『枯れない桜』のことに深く密接した話だという。もっとも、義之としては『枯れない桜』に関わる話は二の次で、まずは自分の想いを伝えることが第一義なのだが。
 しかし、なんて切り出せばいいか。義之が口を開けず、迷っているとさくらの方が先に口を開いた。

「……準備は、できたよ。明日にでもボクはこの『枯れない桜』と完全な融合をする」

 毅然とした決意の表情で、さくらは別れの挨拶を告げた。その表情からは不転進の覚悟が読み取ることができ、何を言われようと自分の決断を変えるつもりはないと宣言しているようでもあり、そうすることで自分の中の迷いを断ち切ろうとしているようにも思えた。

「……最後に義之くんとお話がしたかった。この世界とお別れをする前にね」

 毅然とした表情が一転、悲しげに瞳を伏せる。そんな顔は見たくない、と義之は思った。この人には笑顔が一番良く似合っている、悲しい表情なんてしてほしくないし、させちゃいけないんだ。義之はハッキリとした声で、

「ダメです」

 告げた。その言葉もさくらの宣告と同様、自分の決断を絶対に変えるつもりはないという決意のあらわれ。さくらの決断を否定する、という覚悟のあらわれ。
 義之の宣告にさくらは一瞬、何を言われたのかわからないと言うように目を丸くしたがすぐに言葉を返した。

「……ダメ、ってどういうことかな?」

 その声音からは明らかな戸惑いが読み取れる。困惑の感情しかその声にはなかった。これしか方法はないのに君は一体何を言っているの? と義之の常識を問うているようでもあった。
 義之は一瞬、言葉に詰まる。これから自分が言うことは、多分、さくらさんを悲しませることだ。悲しませはせずとも最低でもさくらさんを否定することだ。悩みに悩み抜いた末にさくらさんが下した決断を一刀両断に切り捨てることだ。それを思うと言葉にも詰まる。だが、それでも、言わなければならない。さくらさんの決断を肯定し見送ることは、もう自分にはできない。

「『枯れない桜』は、枯らします。それが、最善の解決策です」

 真っ直ぐにさくらを見据え、義之はそう断言する。それは心からの確信があっての発言。だけどこのことを言えばさくらがどういう反応を返すか、義之には分かっていた。そして、さくらは義之の予想通りの反応を返した。

「それはダメだよ……そんなことしたら、君が消えちゃう……!」

 くしゃり、と表情を崩して、泣き出しそうな顔でさくらは言う。知っていた。以前のアイシアも交えたやりとりでこの人が『枯れない桜』を枯らすという方法は、桜内義之が消えるという方法は絶対に取らないであろうということを。それゆえに確固たる決意を持って自らを犠牲にしようとしていることも。しかし、そんなさくらの決意に義之は自らの決意をぶつける。さくらが義之が犠牲になることを許容できないように、義之もまたさくらが犠牲になることを許容することなど到底できないからだ。

「だけど、『枯れない桜』を枯らさないと、さくらさんが消えてしまいます。俺は……そんなのは嫌だ」
「それは……仕方がないことなんだよ。この『枯れない桜』を植えたのはボク、そもそもの原因はボクの私利私欲によるもの。だから……ボクが責任を取らないといけないんだ」

 それに……、とさくらは続け、そして、感情を爆発させた。

「義之くんが消えちゃうのは絶対に嫌だ!! ボクが生きていても君がいないんじゃ意味がないんだよ! ボクは義之くんにこの世界で生きていてほしい!」

 それは純粋な、想いの吐露だった。涙声でさくらは叫ぶ。こんな状況だというのに義之は歓喜に打ち震えた。この人はこんなに俺のことを想ってくれている、こんなにも俺を大切に想ってくれている人がいる。だけど、それゆえに納得できない。「俺だってそうですよ……」と声をもらす。そして、さくらに負けないくらいの想いを込めて、叫んだ。

「さくらさんがいない世界なんて嫌です! 俺一人残っても、そんな世界に意味なんてない! 俺には貴方が、さくらさんが必要なんだ!!」

 義之の想いの吐露。それにさくらは一瞬、ひるんだように、驚いたように硬直する。自分がここまで大事に思われているとは思わなかった、とでもいうように。

「『枯れない桜』の暴走を止めるため、俺をこの世界に残すため、自分が犠牲になって『枯れない桜』と一体化する。立派な自己犠牲精神です。……さくらさん、貴方はそれでいいかもしれない。自分が犠牲になることで残された人たちが幸せになると信じて逝ける。……だけど、残された人間のことを考えたことがあるんですか? 貴方がいなくなって俺が、音姉が、由夢が、どれだけ悲しい思いをするか、どれだけさびしい思いをするか、それを考えたことがあるんですか!?」

 自己犠牲の矛盾がそこにはある。大切な人のために自らを犠牲にするのに、それが大切な人の悲しみに繋がる。畢竟ひっきょう 、自己犠牲とは自己満足と紙一重の行為なのだ。
 誰かのために誰かが犠牲にならないといけない。この世界にはそんな不条理がいくらでもあることなんて百も承知。それでも、それでも、義之はそんな不条理な理論を認めたくなかった。他にいくらでも、方法も、可能性もある。誰の犠牲も出さずに物事を解決する道も、方法も、ある。都合が良すぎる、と嘲笑されるか、呆れられるか、憤られるかもしれないことだが、義之はそう信じたかった。

「……だから俺は、貴方の決断を認めない。貴方が犠牲になる解決策なんて、貴方のいない未来なんて、……絶対に間違ってる!」

 故に義之は断言する。さくらの決断を、否定する。
 義之の言葉にさくらは驚愕の表情を浮かべていた。当たり前だろう。考えに考え抜いた末に、自分が正しいことだと信じ、実行しようとした行為を真っ向から否定されてしまったのだから。
 沈黙が、二人の間に走る。義之は真摯な瞳でさくらを見据え、さくらはその意志の強さに驚愕したように碧い瞳を丸くしていたが、ややあって、ゆっくりと口を開いた。

「……じゃあ、代わりに君が犠牲になるっていうの?」

 悲しみに満ちた、声だった。

「前にも言ったよね? 『枯れない桜』を枯らすってことは君がこの世界から消えてなくなるってことなんだよ? 君はボクの自己犠牲を否定しつつ、自分が犠牲になる道を選ぼうとするの? ……そんなの、ずるいよ」

 拗ねるようにさくらは言う。その声音からは悲しさが溢れていて、聞いているだけでこちらも暗雲とした気分になる。だが、さくらさんは勘違いをしている。
 義之は笑顔を浮かべた。いつもさくらが笑顔で義之を安心させてくれていたように、それを今度は義之がやる。自分の笑顔で、この人を安心させる。それが少しでも恩返しになる、これまでずっと彼女の笑顔に癒され続けてきたことの対価になると思うから。
 穏やかな微笑みで、静かに言葉を発する。さくらさんを安心させるように。

「さくらさんは勘違いしているようですからハッキリ言っておきますけど……俺は、消えるつもりなんてありません」
「……え?」

 さくらはポカンとしたような顔で不思議そうに呟く。そこには先程まであった悲痛さは消えていて、義之の笑顔が、笑顔で紡がれた言葉がさくらの精神を落ち着けたのは明白だった。

「『枯れない桜』は枯らします。でも、俺は消えません」
「どういう……こと……?」

 訳が分からない、というようにさくらは困惑の表情を浮かべる。

「……義之くん。それは無理だよ。前も言ったよね? 君は魔法の力に支えられて存在しているって。『枯れない桜』を枯らすっていうことは魔法の力がなくなるってことだよ? そうしたら君という存在は、この世界に存在できない……」

 痛みを噛みしめるように、あまり確認したくない事実を再確認しているという風に苦々しげにさくらは説明をする。それは義之とて理解している事実だ。しかし、夢の中で出会ったあの少女の言うことがたしかなら魔法の力がなくても自分は存在できる。

「それは嘘じゃないですね。でも真実を全て話した訳でもないでしょう?」
「え……?」
「俺の存在を支えているのは魔法の力だけじゃない」

 義之の言葉にさくらは明白に驚きの表情を浮かべた。どうしてそれを知っているのか、どこでそれを知ったのか、というように。

「魔法の力と人の想いの力。この二つの力が俺……桜内義之をこの世界に存在させている。そうでしょう?」
「……うん、その通りだよ。君が、桜内義之がこの世界に生まれてからの十数年間で積み重ねてきた他の人の君に対する記憶と想いの力も魔法の力と一緒に君の存在を支えている」

 でもね、とさくらは言いづらそうに言葉を続ける。

「どこでそれを知ったのかは知らないけど、想いの力だけじゃ君という存在は存在を維持できない。魔法の力がなくなった時点でこの世界全てが君という存在を否定する。そうなると、想いの力もだんだん薄れていって、やっぱり君という存在は消滅する」

 それは夢の中で少女にも教わった桜内義之消滅へのメカニズムだ。しかし、

「だから『枯れない桜』を枯らしてしまうと君という存在は――――」
「――――消えません」

 さくらの言葉に義之は自分の言葉を重ねた。

「魔法の力がなくなって、世界の全てが俺という存在を否定しても、俺のことを信じる人さえいてくれれば、俺は、消えません」
「無理だよ……世界そのものが君を否定するんだよ? どれだけ君と親しい人であっても君の記憶や君への想いも消えていく。そんな絶対的な力に抗って、君のことを信じ続けられる人なんてどこに――」
「――俺の目の前にいます」

 義之の言葉にさくらはポカンとした顔のまま硬直した。構わず、義之は言葉を続ける。

「さくらさん、貴方ほど俺のことを想ってくれている人はいない。貴方が俺のことを信じ続ける限り、俺は大丈夫です。世界の否定にも負けない強い想いを抱いている最愛の人さえいてくれれば俺という幻想はこの世界に存在できる」
「え、あ、う……さ、最愛の……人……って、それって、えと……」

 義之の言葉の意味を理解したのかさくらは驚愕、というよりは困ったような照れているような表情で頬を赤くする。今が、その時だ。想いを告げる時は今だ、という確信が義之の中に芽生え、

「――――好きです」

 考えるより先に口が言葉を発していた。

「俺、桜内義之は、貴方のことを……愛しています」

 飾り立てる言葉は必要ない。ただ胸の中にある想いを真っ直ぐに告げる。純粋な想いの吐露。それを受けてさくらは、

「あ、……うう〜……」

 真っ赤になってもだえていた。

「す、す、好き……!? 義之くんがボクのことを好き!? それって、……そういうこと、だよね。あ、う〜。あ、あ、あ、愛してるって、そんな、うにゅ〜」

 それまでの重苦しい場の雰囲気もどこへやら。真っ赤になって照れるさくらを前にしてはそんな雰囲気も雲散霧消する。信じられない、というようにさくらは困惑していた。そんなさくらの様子を見ていると義之も少し、不安になる。この困惑ぶりを見るに、この想いはもしかして自分の片思いだったのだろうか? そんな思いが「あ、すみません」という言い訳めいた言葉となって出ていた。

「いきなりこんなこと言われても困るだけですよね。すみません。迷惑……でしたか?」

 義之の言葉にさくらはぶんぶん、と首を横に振った。必死な様子がその動作からは読み取れて、つい先程までの張り詰めた表情が嘘のように思えてくる。

「うにゃ!? ち、違う、違うよ〜! 迷惑なんてことはなくて……まぁ、びっくりしたのは事実だけど……」

 さくらは慌てた様子でそう言う。その声音からは心底、びっくりしたのは事実だと読み取ることができた。

「義之くんがボクのことを好き……好き、なんだね。そっかぁ。義之くんが……」

 困惑しているような表情。しかし、その表情は戸惑いより照れの方が強く見えるのは義之の錯覚か願望だろうか?

「………………」

 ひとしきり混乱し終わるとさくらは沈默した。どことなく居心地が悪そうに見える。その頬は微かに朱色に染まっていて照れゆえの沈黙だろう、と思えた。その証拠にか、さくらは沈默しながらもちらちら、と義之の様子を伺うような動作を続けて止まらない。このままさくらからのアクションを待っていても何も生まないだろう。そう思った義之は自分から口を開くことにした。

「あの……なんていうか、いきなりですみません」
「……えっ!? あ……ううん、謝ることは、ないんだけど……」
「はい。……それで、よければ返事を聞かせてほしんですけど……」

 ぼん、と。さくらの顔が真っ赤になる。「え、えと……」としぼりだした言葉は必死さがにじみ出ていた。

「返事って……やっぱり、そういうこと……だよね……うん」
「は、はい……まぁ、そういうこと、です……」

 しかし平常心を保てていないのはさくらに限った話ではない。義之の胸もまたバクバクと声高に心音を鳴らしている。一世一代の、ありったけの勇気を込めた告白だ。どういう言葉が返ってくるのか、考えるだけで期待や不安が心臓を揺らす。
 さくらの碧い瞳が遠慮がちに義之を見る。義之もまた瞳でさくらの顔を見返した。気恥ずかしい沈黙が二人の間に訪れる。しばらくの間の後、「あのね……逆に聞きたいんだけど」とさくらは口を開いた。

「ボクのどこがいいの? 義之くんの周りには魅力的な女の子がいっぱいいるでしょ? 音姫ちゃん、由夢ちゃん、小恋ちゃん、ななかちゃん、杏ちゃん、茜ちゃん、美夏ちゃん、それに、アイシア。みんなの方が女の子としてはボクなんかよりずっと魅力的だと思うんだけど……」

 さくらは自信なさげにそんなことを言う。しかし、それは義之にとっては全く持って論外のことだった。「そんなことありません」と気がつけば口に出していた。

「さくらさんほど魅力的な人は俺のそばにはいませんよ。そりゃ、音姉や由夢たちが魅力的じゃないってことはないですけど、今の俺の中ではさくらさんが全てです。さくらさんより魅力的な女の人なんて、いません」

 言ってから、今、自分は物凄く恥ずかしいことを言ったんじゃないかと気付き、赤面する思いにかられる。だが、赤面する思いなのはさくらも同じようであたふたと慌てた仕草を見せると顔を真っ赤に染める。しかし、事実だ。他人に安心感を与えてくれる穏やかな微笑み。天真爛漫な明るさ。大人びている、かと思えばとても子供っぽい一面も覗かせる二面性。義之たち家族や学園の生徒たちの幸せを心から祈るやさしさ。義之たちのために学園長の激務や『枯れない桜』の管理を人知れず行っていて、その辛さをおくびにも出さないでいた強さ。それら全てが魅力となり義之の心を高鳴らせてくれる。ゆえに、断言できる。芳乃さくらほど魅力的な女性はこの世界にいない。……少なくとも、義之にとっては。
 だからもう一度、義之は口にする。

「好きです、さくらさん」

 真っ直ぐにさくらを見据え、心からの真っ直ぐな言葉で、想いを再び伝える。さくらは不意をつかれたと言うように「あ、う……」と照れたような言葉にならない声をもらし、その後硬直。
 義之がやはり、この想いは自分のひとりよがり――片思いだったのだろうか、と不安を感じはじめた時、深夜0時の冷たい夜風にまじり、か細い声が響いた。

「……本当に、ボクなんかでいいの……?」

 自分を卑下するようなそんな言葉。

「義之くんにはボクなんかよりふさわしい人がいると思う……それでも、ボクで、いいの?」

 何をバカなことを言っているんだろう、と思った。そして、それは自分の台詞だ、とも思った。自分なんかがさくらさんの相手に相応しい人間か、正直、自信はない。それでもこの想いは身分不相応だから、と封印してしまえる程軽いものでもない。義之は頷いた。

「さくらさんじゃないとダメなんです。だって俺は、さくらさんが好きなんですから」

 それが本心にして真実。ああ、そうだ。この俺、桜内義之は芳乃さくらをどうしようもないくらいに愛している。他にふさわしい人なんているはずがない。

「義之くん……」

 さくらの唇から声がもれる。その声音には未だ消えきれない葛藤が内包されていた。この想いを本当に受け入れてしまっていいのだろうか? 自分にそんな資格はあるのだろうか? そんなことを言うように、迷いに曇った声。しかし、次にしばらくの時間をおいて「ボクも……」と続いた声からは葛藤は消え、全てを受け入れてしまっていい、という思いが満ちていた。

「うん。ボクにこんなことを言う資格があるのかはわからない。君の想いを受け入れる資格があるのかもわからない。……それでも……それでも、ボクも……ボクも……君のことが――」

 ――――好き。

 その言葉を告げた時、さくらの表情は笑顔に変わっていた。
 はにかんだような笑み。頬を赤くし、照れを多分に含んださくらの笑顔。迷いや葛藤を振り切ったようなそんな表情を前にしては義之もまた笑みを浮かべざるを得なくなって、気恥ずかしい思いがその場を満たし、しかし、それ以上に幸せだ、という思いが強く胸を埋める。自然と「さくらさん……」と想い人の名を呼んでいた。さくらもまた「義之くん……」と名を呼び返し応える。どちらともなく二人の距離は近づき――。
 抱擁。さくらの小さな体が義之の体を抱きしめていた。1月の深夜の極寒の中、たしかなあたたかみを感じる。義之もまたさくらを抱き返した。何よりも大切で、かけがえのない存在がこの腕の中にいる。それが実感となって胸を満たすと、これ以上ない幸福感が義之の全身を駆け巡った。義之とさくらの二人以外は誰も居ない深夜の桜公園の中、二人の鼓動だけが『枯れない桜』の下で重なりあう。静寂が続く。今この瞬間に無粋な言葉は不要。お互いはお互いの存在を体と体の接触で感じ取り、それがこれ以上ない至高の時間を生み出す。

「さくらさん。貴方は独りじゃない」

 この静寂の時間を終わらせてしまうことを少し心惜しく思いながらも、義之は自分の腕の中にいる小さな想い人に対して言葉をかけていた。それは心からの言葉。愛する人へと捧げる想いの言葉。

「貴方一人で何もかも背負い込む必要はないんです。貴方だけが犠牲になるなんてことはない。そんなこと、する必要はないんだ」

 びくり、とさくらの小さな体が微かに震える。それがわかるくらいの二人の距離。
 お互いの体は密着させたまま、さくらが顔を持ち上げる。そして、碧い瞳で義之を見上げる。その瞳にあるのは、戸惑い。

「――ボクは許されるのかな? ボクなんかがそんな都合のいい未来を生きていいのかな?」

 自分なんかが許されるのか。そこには贖罪を決意した人間の戸惑いがある。自分の罪を自覚し、自らの犠牲をもって罪を償おうと思っていたらそんな必要はないと言われた。それは困惑もするだろう。だが、だからこそ、義之は断言する。

「許されます。他の誰が貴方を許さないと言っても、俺だけは貴方を許します。さくらさんには都合のいい未来を生きる権利……幸せになる権利がある」

 そうだ。この人には幸せになる権利がある。否、幸せにならなければいけない。これまで散々つらい思いをして多くのものを一人で抱え込んで、それでも、そんなことは微塵も表に出さずに笑顔を浮かべ続けていたんだ。多くの人に幸福を振りまいてきたんだ。そんな人が幸せにならないなんて、嘘だ。

「俺という存在がいることで、貴方が幸せになる手助けができるのなら、それは……これ以上ないくらい俺にとっても幸福なことです」
「義之くん……」
「家族ではなく、恋人として……貴方が幸せになる手助けをさせてくれませんか――さくらさん」

 心からの笑顔で義之は想いを告げる。さくらは「恋人……」とぼんやりとした声をもらした。

「恋人――なんだね。義之くんが……ボクの……」

 確かめるように、噛みしめるように、その言葉をさくらは口にする。

「……まるで夢を見ているみたい。ボクが、こんな幸せを享受できるなんて……」

 表情は言葉通り、夢見心地で。未だ事実を信じられないというようにぼんやりとした表情でさくらは言う。義之は「夢じゃありませんよ」と言った。

「俺は誰よりもさくらさんが好きだし、さくらさんも誰よりも俺のことが好き。これは、現実です」

 そして、笑顔を見せる。さくらは一瞬、ポカンとした表情を浮かべたが、すぐに義之同様に笑顔を見せた。いつもの見ているとそれだけで安心する笑顔とは少し違う、頬を朱色に染めての照れを多分に含んだ笑顔。「うん」と笑みを深めさくらは頷く。

「ボクの方からこそお願いするよ。義之くん。ボクを――幸せにして。ううん、今まででも充分幸せだったけど、それ以上に、これ以上ないくらい……ボクを幸せにしてくれないかな?」

 さくらの問い。答えは、考えるまでもない。義之は「はい」と頷いた。すると、

「んっ……」

 さくらが瞳を閉じて、唇を義之の方へと差し出す。さくらが何を望んでいるのか、それは明白だった。一瞬、躊躇したものの、さくらが望んでいるのなら、と義之もまた、それに応じ、

「大好きです、さくらさん」

 義之の唇がさくらの唇に触れる。薄紅色の花が舞い散る中、触れ合う、唇と唇。ただ、それだけのことなのに、義之にはこの行為がひどく神聖であるようにも背徳的であるようにも感じられた。自分の家族と結ばれる。母親のような人と結ばれる。否、結ばれた。その現実がリアルな質感をもって義之の胸に到来する。背徳的だ、という思いも勿論、ある。この人は自分の母親なのだ。その人物と一人の男と女として付き合うことになる。その事態に対する戸惑いも躊躇もある。しかし、それ以上に想いを成就したという思いが、この人と恋人の関係になれたという思いが強く義之の胸を打ち、それは喜びとなり、義之は歓喜に打ち震えた。
 一瞬であったようにも、永遠であったようにも思えた接吻の時間が終わり、やがてどちらともなく唇を離す。

「キス……しちゃったね……」
「……ええ」

 これまでさくらが義之の頬にキスをすることはあった。しかし、唇と唇で、恋人同士がやるようなキスをしたことはなかった。恋人。今の自分とこの人の間柄をあらわすその単語がひどく比重を増して胸の中で膨れ上がる。
 ハッとして気づいた。今の自分とさくらさんは抱き合った状態、くっついた状態のままだ。急に気恥ずかしさに襲われ、ゆっくりと体を離す。距離を離したというのになんだかお互いの吐息が感じられるように思えるのはキスをした、という印象が強く心に残っているからだろうか。今になって照れの感情が義之の中に飛来し、それはさくらも同じようで見れば照れたような表情で顔を真っ赤に染めている。おそらくは義之もまた似たような表情をしているのだろう。「えと……その……」と照れに震える声がさくらの口からもれる。

「うにゃ……ふつつかものだけど、よろしくお願いします……」

 真っ赤な顔で恥ずかしそうにそんなことを言われてしまっては、その表情に思わず見とれてしまった。素直に可愛い、と思った。考えてみればこれまでさくらさんの色々な表情を見てきたが恥じらう表情は見たことがなかった。この人はこんなに可愛かったのか、なんて、今更ながらに思う。ずっと身近にいた人の初めて見る側面に胸を打たれ、義之は「こ、こちらこそ……」なんて気の利かない返事を返すのが精一杯だった。
 想いは、伝えた。想いは、果たせた。想いは、成就した。ならば、後は――。
 まだ自分には言わなければならないことがある。しかし、それを言えばやはり目の前にいるこの世界の誰よりも可愛く、愛しい人の表情は曇るだろう。おそらくは幸せの絶頂にいるであろう現状を崩すことになる。それを思うとためらいもする。だが、それでも、言わなければならない。

「さくらさん、『枯れない桜』を枯らしましょう」
「……それは」

 案の定。さくらの表情は曇った。夢から醒めて現実を直視したように。恋というまどろみに浸かっていた意識が無理矢理に現実に引き戻されたように。さくらの表情からは恥じらいが、微笑みが、幸福が、消え、厳しい表情で直視しなければならない現実を静かに見据える。だが、義之はやはりこの現実を前にしても笑顔を浮かべた。

「大丈夫です。俺は――消えません」

 それでもなお、義之はそう断言する。否、断言できる。

「貴方にこうして想いを伝えた。想いが通じ合った。想いを共有した。俺がさくらさんのことを愛しているように、さくらさんも俺のことを愛している。ならばきっと大丈夫です。さくらさんが俺のことを想い続ける限り、俺は消えません」

 さくらは不安げな表情を浮かべ、「本当に……?」と声をもらす。そこにあるのは恐れと、不安と、そして、微かな期待。義之は「俺を信じて」と告げた。

「俺を信じてください、さくらさん。さくらさんの想いがあれば、きっと大丈夫。桜内義之という幻想は、きっと、この世界に存在できる」

 笑顔でそう言う。他力本願なことを言っている、という自覚はある。自分では自分は消えないと確信している癖にその理由は他の人の想いという曖昧なもの。だが、しかし、自分は消えないとたしかに信じられる。自分とさくらさんの結びつきは世界の否定なんかに負けるくらい弱いものじゃないという確信がたしかに胸の中にある。交わした口吻の残滓が、さくらさんの唇の熱が、唇を介して交換したお互いの感情が、胸の中に残り、その確信を組み上げる。同じ想いをさくらさんもまた抱いているのなら、それならやはり大丈夫。その想いがある限り自分は、消えたりなんかしない。
 義之の言葉にさくらはしばしうつむき沈默し、しかし、次に顔を上げた時には決意の表情を浮かべていた。「わかった」と言葉が紡がれる。

「――ボクは義之くんのことを信じる! 義之くんのことを想い続ける! たとえ世界が否定しても、ボクが義之くんのことを肯定する! 世界の否定なんかに負けない! だって、ボクは……義之くんのことを誰よりも大切に想っている……義之くんのことが大好きなんだから……!」

 それは決意の宣言だった。どんなことがあろうとも義之の存在を信じ抜く。たとえ世界の全てに否定されても義之を信じ続ける。宝玉のように輝く碧い瞳は決意を秘めて、きっちり結ばれた口元は意志の強さを携えて、真っ直ぐに前を向き、これから先、どんな苦難が待っていようとも自分はそれを乗り越えてみせる、否、一緒になって乗り越えると、語っていた。

「――――君はボクが守る」

 それはかつてさくらが言った言葉と同じ言葉。しかし、その意味合いは全く異なる。義之を守るために自らを犠牲にするという自己犠牲の宣言だったかつてとは違い、今は二人、手を取り合って共に未来を歩いて行こうという誓いだ。その誓いの言葉が胸に染みるのを感じながら義之は「ありがとうございます、さくらさん」と言った。

「俺も……絶対に消えたりなんかしません。消えてなんてやるものか。魔法の力なんてなくたってこの世界に存在し続けてみせる」
「魔法の力がなくなってもボクが君を存在させる。ボクは君のことを絶対に忘れたりしない。君を信じて、想い続ける」

 紡がれる言葉は決意の証。強い意志を秘めた瞳でさくらは義之を見る。世界の否定すら跳ね除けかねない毅然とした態度だった。この強さもまた自分がこの人に惹かれた魅力の一つだと再確認する。この人と共に未来を歩いて行きたい、否、歩いて行く。そんな思いが義之の胸中にあふれる。義之とさくらは『枯れない桜』を見上げていた。
 はじめからそのつもりだった義之は元より、さくらの賛同も得られた今、やるべきことは単純明解。『枯れない桜』を、枯らす。ただ、それだけのこと。それだけのことでこの島で起きている問題は全て解決する。
 誰も犠牲にならなくて済む道。ここに辿り着くまで、長かったな、と思う。さくらさんの不審な行動に疑問を抱き、『枯れない桜』の真実を知って、さくらさんの自己犠牲の決意に動揺しながらも一時はそれを許容して、でも納得なんてできなくて、悩みに悩んだ末に『枯れない桜』を枯らす、という方法を思いついて、そして、それが自分自身の消滅に繋がることを知り、やっぱり悩んで、でも、『枯れない桜』がなくても自分は存在できる、消えなくて済む、と確信できるところまで来て……。義之の脳裏で走馬灯のようにここに至るまでの経緯が思い起こされる。一時は絶望もした、どうにもならない現実、何もできない無力な自分に絶望した。しかし、辿り着くことができた。誰も犠牲にならなくて済む道、最善の選択肢に自分たちは辿り着くことができた。
 恋をする。――――たった、それだけのことでよかったのだ。

「それじゃあ……枯らすね」

 さくらが『枯れない桜』を見上げながらポツリと口にする。ただ、それだけのことなのにその一言で場の空気が一気に引き締まったように感じる。
 『枯れない桜』を、枯らす。世界で唯一、この島でだけ見ることができる四季を通して咲き続ける薄紅色の花はもう、見れなくなる。そのことが今になって重みを増して感じられる。堂々たる巨木の姿が、美しく広がる薄紅色の花々がこの木から花を奪う責任をお前がとってくれるのか、と問い詰めてきているように感じられる。落ち着け、と義之は胸中で自分に言い聞かせた。『枯れない桜』は枯らさなければならない。わかっていたことではないか。他の誰でもない自分自身がそれを正しいことだと信じ、さくらさんを説得したんじゃないか。今更、何を動揺している?
 そんな義之の内心の動揺を知ってか知らずかさくらは『枯れない桜』の幹にそっと片手を置く。小さな手。それは僅かに震えているようにも見えた。

「…………」

 さくらの表情がこわばる。そこにあるのは不安と……恐怖、だろうか?
 『枯れない桜』を枯らす、と確固たる決意をしたとあっても自分が引き起こすであろう事態。この島から桜の花が消えたり、義之の存在が消滅するかもしれないという可能性に体と心が震えている、すくんでいるのだろう。年がら年中咲き誇り初音島を象徴する『枯れない桜』を消すというのは、それだけの大事だ。そして、また、義之の存在も。絶対に義之を消させないと思うことはできても、それでも心のどこかで消えてしまうかもしれない、この行為が最愛の人を失わせてしまうかもしれないという可能性が脳裏をよぎってしまうのだろう。
 震える、小さな手。その上に義之は自分の手を重ねた。「えっ……?」とさくらがかすかに驚いたような声をもらす。そんな驚き顔に「一緒にやりましょう」と義之は声をかけた。そして、微笑みかける。大丈夫、俺は消えたりなんかしませんから。さくらの表情から緊張が消え、義之に笑顔を返す。

「……うん、そうだね。一緒にやろう」

 二人して『枯れない桜』と向き合う。重ねた手に想いを込める。これは恋人としての二人の初めての共同作業。そして、重ねた手はこれから先の未来を共に歩いて行くという証。
 真摯な想いを。ただ、純粋に『枯れない桜』の消滅を願う。義之は感謝の念すら抱いていた。ありがとう。俺を生み出してくれて、これまで俺の存在を支えてくれて。でも、もういいんだ。お前の力がなくても俺は大丈夫だから。だから……勝手なことを言うようで悪いけど――――、

 ――――枯れてくれ。

 二人分の想い。それを受けてか『枯れない桜』は最後に断末魔のように枝木をきしませたかと思うと、

 枯れた。

 天蓋のように広がっていた薄紅色の花びらはそれこそ本当に魔法のように一瞬で消え失せ、花々を失った枝木だけが物寂しい姿を晒している。
 枯れたのは『枯れない桜』だけではない。周囲一体を覆っていた他の桜の木々もまたその枝木から薄紅色の花びらを失っている。辺り一面に広がるのはありふれた、しかし、初音島では見慣れぬ冬の景色。だが、そんなさびしい風景に思いを馳せる暇は義之にはなかった。
 体から力が抜けた。がくり、と膝から崩れ落ちる。冷たい地面に対し、尻もちをつき、へたり込む。「義之くん!」とさくらが悲鳴のような声を上げた。

「あ……」

 これが魔法の力を失った代償か、と思った。魔法の力と想いの力。自分を支えていた二本柱のうち、一つを失った代償。体に力が入らない。無様にへたり込んだ姿勢のまま、体が動いてくれない。そして、何よりも、自分自身の存在をひどく希薄に感じる。この世界に存在しているはずなのに、まるで存在していないような、この世界に自分自身という存在が『いる』という実感が沸かない。浮遊感にも似た感覚。世界から浮き出てしまったかのような、世界から拒絶されているような、世界と自分との間に大きな隔たりが生じてしまったかのような乖離感。そもそも……俺は――誰だっけ? 俺は……俺は……えーっと……。

「義之くん!」

 再度、さくらに呼びかけられる。その声は力となり義之の胸に宿り、体内を循環する。声の方を見る。さくらさんが碧い瞳を涙目にしてこちらを見ていた。義之くん、義之くん、と何度も呼びかけられる。その度に体から抜けていった力が戻ってくるような感覚。世界から離れていった心が戻ってくるような感覚。そうだ。俺は、桜内義之……桜内義之だ!
 その実感が力となる。さくらさんが自分のことを呼ぶ度に力が生まれる。体中に力が満ちる。自分自身の存在を強く感じる。なるほど。想いの力が自分を支えているというのは嘘ではないな、と思った。

「義之くん! 大丈夫!?」

 必死な声。義之はふらつきながらもなんとか二本の足で立ち上がり、「大丈夫です……」と返事をしぼりだした。

「さくらさんがいる限り……俺は、大丈夫です」

 そうだ。さっき自分が自分のことさえ忘却しそうになった時、魔法の力を失いこの世界から拒絶されたようにすら感じた時、それを払いのけることができたのは自分の名を呼ぶこの人の声だ。この人の声、想いには世界の否定を跳ね除ける力がある。それは間違いない事実に思えた。

「さっきさくらさんが俺の名を呼んでくれた時、俺の全身には力があふれた。希薄に感じられた自分自身の存在を強く実感することができた。やっぱり、さくらさんの俺への想いにはそれだけの力があるんですよ」

 義之はそう言って、さくらを安心させるように笑いかけた。さくらは「ボクの想いが……」と半信半疑の様子で声を発する。

「……だから、俺のことをもっと想ってください。そうすればきっと、俺は……消えないで済むと思います」

 義之の言葉にさくらは「うん」と笑顔を見せた。

「ボクは誰よりも義之くんのことを想うよ。だって最愛の、大好きな義之くんのことなんだもの。世界の否定なんかに負けないくらい……強く、強く、義之くんを想うよ」

 そして、笑い合う。今晩、これだけ弛緩した雰囲気になったのは初めてだった。状況を考えれば場違いとも思える穏やかな空気。敵は強大。世界そのものを敵に回してしまった自分たちにはおそらくこれからお互いの絆が試される試練の時が訪れるだろう。しかし、きっと自分たちなら乗り越えられる。俺とさくらさんの絆は、俺達を繋ぐ想いは、世界を敵に回しても負けやしない。そう、素直に信じられた。
 「さくらさん」と義之はさくらの名を呼ぶ。「何かな?」と返ってきた返事は期待を孕んだ、ちょっと楽しげな声音だった。

「次の休み……土曜日、時間があいていたら……でいいんですけど……」
「うん。何?」

 ひょっとしたら、自分は場違いなことを言おうとしているのかもしれない。しかし、この欲求は胸の中に沸いたものだ。できることなら、叶えたい。

「デート、しましょう」

 義之の言葉にさくらは一瞬、ポカンとした表情を浮かべ、

「……うん♪ いいよ、やろう、デート♪」

 楽しげに笑った。
 デート。そう、自分とさくらさんは恋人の関係になったのだ。ならばデートの一つくらい、当たり前にやるべきだろう。それに、お互いの絆を深めて、想いを深めることは自分の消滅回避にも繋がることだ。

「…………」

 さくらの楽しげな顔を見る。やっぱり、この人には笑顔が似合っている、と思う。そして、自分のことでこの人が笑顔になってくれたというのなら、それはこれ以上ない幸福なことだ。
 ――――俺は、消えない。この人がいてくれる限り、絶対に消えたりなんかしない。
 薄紅色の花々を散らし、すっかり寂しい姿となった桜の巨木を見上げながら、義之はそう、胸中で決意の言葉を述べた。





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