1月15日(土)「さくらさんとデート(前編)」






 1月15日、土曜日、朝。
 目覚めてからかなりの時間が経っているというのに義之は自室のベッドの上で横になったままでいた。頭の中をしめるのはあの告白の夜のこと。
 さくらさんと恋人になった。
 義之とさくらの関係の変化を言葉にすればそれだけのことなのだが、義之にとってそのことはあっさりと流せる事実ではない。恋人ができる。それはいい。義之とて年頃の男子だ。恋人ができることもあるだろう。しかし、相手が問題だ。相手は、あの芳乃さくらだ。義之にとって原初の記憶、極寒の雪降る夜、桜の木の下で自分を拾ってくれた人。自分に家族のあたたかみを教えてくれた人。実の母親同様の愛情をもって自分に接してくれた人。義之の保護者であり、母親も同然の人。そんな人が、恋人になった。
 嬉しいか、嬉しくないかと聞かれれば勿論、嬉しい。クリパをきっかけに自分の中であの人は母親ではなくなっていた。いつしか母親以上の感情を抱くようになってしまっていた。そのことに背徳感を抱いたこともあった、否、今も少しの背徳感を抱いていることは否定できない。しかし、この想いは告げるべきものだという考えに至った。だって、どう否定しようとしても自分がさくらさんのことを好きなのは厳然たる事実であり、この想いは成就させるべきものだという思いもあった。一時は封印しようとした想い。だが、アイシアの後押しがこの想いは封印する必要はない。家族を、母親のような人を好きになってしまったとしてもそれは恥ずべきことではない、素敵なことだと気づかせてくれたから。だから、この想いが成就したことは、素直に嬉しい。さくらさんは自分の気持ちに応えてくれた。自分がさくらさんを好きなことと同じようにさくらさんも自分のことを好きだと言ってくれた。それが嬉しくないわけがない。感無量、と言ってもいい。
 ――しかし、それと現状をすんなり受け入れられるかというのはまた別の問題だ。
 恋人。さくらさんが。俺の。正直、嬉しいことは嬉しいのだが、熱に浮かされたように、勢いに任せるままに想いを語った告白の夜から時間を経た今は恥ずかしさと戸惑いの方が大きい。それくらい義之とさくらは家族として過ごした時間が長すぎた。あの夜以降、さくらさんとは会っていない。しかし、正直、どういう顔をして会えばいいのか、さっぱりわからない。普段通りの顔で会う? 気軽に「おはようございます」などと挨拶をする? 無理だ。恋人、という意識が先に出てしまいこれまで通りに接することなど想像するだけでも不可能だと思える。会えばまず照れる。会えばまず戸惑う。それは自分に限らずさくらさんも同じだと思う。お互いに『恋人』というこれまでになかった関係に困惑し、普通に接することなど不可能だ。
 そんな風にただ会うだけでどうしようかと悩んでいるのが今の義之の現状だというのに、予定されている出来事はそれにとどまらない。今日、義之とさくらはデートをする約束をしているのだ。
 デート、そうデートだ。デート。デート。デート。恋人同士がする、『あの』デートだ。クリパの時のようなさくらさんが一方的にデートと称しているのとは次元が違う。今回は自分もさくらさんも相手を一人の異性として意識し、その上で二人で行動を共にしようとしている。恋愛小説にあるような甘い展開も……待っているのだろうか? 正直、そういう展開を期待していないと言えば嘘になるが、自分とさくらさんではそういう展開は想像だにできないという方が今の自分の心境には近い。自分とさくらさんのデートというのは全くもって先の想像できない未知の領域だ。会うだけでどうしようかと悶々としているというのにデートなんて高難易度行為は正気の沙汰ではないとすら思える。 自分で提案しておいてなんだが、あの時の自分はどうにかしていたんじゃないだろうか? あれだけ自然にデートを提案し、さくらさんを誘った。それが自分の存在を維持することに繋がるとはいえ、あんなことよくできたものだと思う。
 さくらさんと、デート。一体、どこに行って、何をすればいいんだ? 今日がその当日だというのに義之にはさっぱりわからなかった。何のプランもビジョンも、ない。繰り返し言うが、今日がその当日だというのに。
 そもそもデートの誘いにせよ、あの告白の夜の自分はどうにかしていた。今にして思い返せば赤面モノの小っ恥ずかしいことを恥ずかしげもなくつらつらと口にしてさくらさんに告白した。自分は消えない、ということをさくらさんに理解してもらって、さくらさんの犠牲を防ぐためとはいえ本当によくあんなことができたものだ。
 あの夜の自分を思い出し義之は悶絶する思いにかられ、枕に顔面を押し付けていた。ああ、恥ずかしい。よくあんなことを堂々と、つらつらと言えたもんだ。
 枕の柔らかい感触を顔面で味わいながら、時間が流れるのを実感する。困惑する頭を冷やすためとはいえあまり有意義な時間の使い方とはいえない。いつまでもこうしている訳にもいかない。何度も言うが、今日はさくらさんとデートの約束をしているのだ。何のプランもないとはいえ、身支度くらいは整えておかなければ。
 とりあえずやることができれば思考を止めることができる。義之はベッドから降りると、手早く寝間着から私服へと着替えた。顔でも洗ってくるか、と部屋から出、階段を降りる。洗面所の扉を開くとそこには先客がいた。

「…………」

 さくらだ。ドキリ、と義之の心臓が跳ねる。どういう風に接すればいいのかわからない相手がいきなり目の前にいたのだ。咄嗟に声がかけられなかった。何を言えばいいのかもわからなかった。さくらの方は義之が入ってきたことに気づく様子もなく鏡を前にして深刻そうに鏡に映った自分の姿を眺めている。「う〜〜ん」とさくらが声をもらした。

「ボク、変じゃないよね? ちゃんとデートにふさわしい格好してるよね?」

 最初、その言葉は義之に対して向けられたものかと思った。しかし、どうやら独り言のようだった。

「……寝癖とかは、ない。髪の毛のセットもいつもどおり……うーん、なんだか乱れてるようにも見えるけど……」

 うにゃ〜、と唸りながら一人、髪の毛をいじる。絹糸のような美しい髪が揺れた。さくら本人は気にしているようだが、義之にはとても乱れているようには思えない。

「……目の下にくまとかも、ない。うーん、この際化粧でもしていった方がいいかなぁ。でも、自然体の方がいいような気もするし……どうしよう」

 義之の存在にも気づかずうんうん、悩むさくら。しまいには「うにゃ〜〜!」と声を上げた。

「気になるなぁ。ボク、どこか変なところないかな?」

 そして、身を乗り出し、鏡の中の自分をジッと見つめる。その横顔は端正に整っていて、いつもどおりに義之には見えた。そう、いつもどおり。綺麗な横顔。さくらさんは何をこんなに悩んでいるんだろう、と思った。変なところなんて欠片もない。自分には勿体無いくらいの美しい姿をしているというのに。だから、思わず口に出していた。

「ええ、変なところなんてないと思いますよ」
「そっかぁ。よかったぁ〜……って」

 笑顔になったさくらの表情がピタリ、とかたまる。次いで、驚愕の表情。「よ、よ、義之くん!?」と上擦った声が洗面所にこだました。

「どうして義之くんがここに!?」
「……いや、普通に顔を洗いに。っていうか、なんか、色々とすみません」
「うにゃ……ひょっとして見てた?」

 さくらの頬が羞恥に赤く染まる。義之としては「ええ、まぁ」と答えるしかなかった。

「うにゅ……恥ずかしいところ見られちゃったなぁ……」
「す、すみません」
「謝ることはないんだけど……うにゅ、恥ずかしい……」

 羞恥心ゆえかうつむくさくら。そんなさくらを見ていると義之の中にとある感情が芽生えた。それは、すなわち、

 ――さくらさん、可愛い。

 今日が自分とのデートの日だということを意識してくれた。意識して自分自身に変なところがないか、傍から見れば滑稽にも映る程、気にしてくれた。自分自身を良く見せようとおめかししようとしてくれた。そんなさくらさんをひたすらに愛おしく感じる。そんなさくらさんを前にしてみれば先程までの不安、何を話せばいいか、なんてことなんて頭から吹き飛んでいた。自然と言葉が口をついて出る。

「そんなに気にしなくても変なところどころか、さくらさんはすごく可愛いんですから大丈夫ですよ」

 義之の言葉にさくらは一瞬、何を言われたのかわからない、と言うようにポカンとした顔を浮かべ、次の瞬間にはボン、と擬音でも鳴りそうな勢いで赤面した。

「か、か、か……可愛い……ボク、可愛いかな?」

 ええ、と義之は頷いた。

「十人に聞いたら十人中十人がさくらさんは可愛いって言いますよ。それくらいさくらさんは可愛いんですから」
「可愛い……ボクが……」

 さくらは呆けたような表情を浮かべる。義之にそう言われたことへの照れと、信じられないというような思いが混ざり合ったかのような表情。全く、この人は……、と義之は少し呆れるような思いを抱いた。自分の可愛らしさに自覚が全くないのだろうか? 小柄な体躯に美しい金の髪と碧い瞳、そして、天真爛漫な表情。元気いっぱいにコロコロと移り変わる様々な表情はどれも可憐であふれんばかりの明るさがにじみ出ていて、その全てを愛おしく感じる。見ているだけで元気を分けてもらえるような気分になる。見ているだけで不思議と安心できる。この人程、可愛い人なんてそうそういないというのに当人には全く自覚がないというのだろうか。
 にゃはは、とさくらは呆けたような表情から一変。照れたように頬を朱色に染めて笑った。

「ありがとう、義之くん。義之くんにそう言ってもらって、すっごく嬉しいよ」

 ドキリ、と胸が跳ねた。ああ、やっぱりこの人はすごく可愛い。そう再確認させてくれる天使の微笑みだった。

「そうですよ。さくらさんはすっごく可愛いんですから。正直、俺には勿体ないくらいには」

 そうだ。こんな可憐な人が自分の恋人だなんて信じられない。この人は自分には勿体無いくらい、綺麗で、可愛い。そんなことを義之が考えていた時だった。

「勿体ないなんて……そんなことはないよ〜、義之くんだって、すっごくカッコイイんだから!」

 思いっ切り力説される。そう言われると、

「カッコイイ……ですか」

 義之としても照れるしかない。いや、照れだけではない。困惑もある。正直、自分の容姿なんてたいしたことない。平々凡々な顔だと思うのだが……それを『すっごくカッコイイ』とまで評されては困惑してしまう。
 しかし、そんな義之の困惑を打ち消すかのようにさくらは言葉を続けた。

「そうだよ! 義之くんはすっごく、すっごく、カッコイイんだから! 世界で一番カッコイイよ!」
「それは流石に言い過ぎだと思いますが……でも、ありがとうございます。そう言ってくれて。お世辞でも嬉しいです」
「お世辞なんかじゃないよ〜。ボクは本気でそう思っているんだから」

 さくらの碧い瞳が真っ直ぐに義之を見る。その瞳を見ていると彼女が嘘を言っているとは到底思えなかった。本当に本気で、義之のことをそう思っているのだろう。……すごく、照れ臭い。

「…………」
「…………」

 お互いに相手の容姿をベタ褒めしての、沈黙。互いに顔は赤面し、二の句が継げない。なんとも初々しい、気恥ずかしい、時間。これまでの、家族であった時期にはあり得なかったであろう時間と雰囲気。恋人同士の、雰囲気。まぁ、その場所が街角でも喫茶店でも公園でもなく、自宅の洗面所というのがなんとも滑稽で、それでいて、自分たちらしくもあったが。
 そんな気恥ずかしい沈黙を味わっているとああ、この人と自分は恋人になったんだなぁ、なんて実感が遅れて義之の胸の中に沸いてくる。

 ――さくらさんと恋人になった。

 その実感を義之は幸福感と共に胸中で噛み締めるのだった。



 今日の朝ごはんはさくらが作ることになった。
 当初はいつも通り義之が作ろうかと思ったのだが、恋人の朝ごはんくらい準備させてよ、というさくらの主張に義之が折れた形だ。聞けば、ついでに今日のデートで食べるお弁当も用意するという。恋人の自分が食べるご飯を手間暇かけて作ってくれる。そんなさくらのいじらしさに義之は胸を打たれる思いを味わいながら、お言葉に甘えた次第だ。ほんと、自分には勿体無い良くできた恋人だと思う。それを言えば多分、さくらさんは「義之くんもいつもボクのご飯作ってくれてるじゃない」なんて返すのだろうけど。しかし、自分がさくらさんのご飯を作るのは養ってもらっている家族としてほんの少しでも恩返しができれば、との思いあってのことだ。それにさくらさんが喜ぶ顔を見るのは、自分の料理を美味しい、と言って食べてくれるのは悪い気分ではない。
 が、今回わざわざさくらさんがご飯を作ってくれるというのは自分の手料理で恋人の喜ぶ顔がみたい、と思ってくれているということで、それもやはり悪い気分ではない。胸の中があたたかい気分で満たされる。なんだろう。ご飯を作る人が変わった、というだけのことなのに、ほんのそれだけのことで家族から恋人へとお互いの関係の変化を強く感じる。これは自分の自意識過剰だろうか?
 さくらの作った朝ごはんが居間のテーブルに並んだ頃、隣家から朝倉姉妹が姿を見せた。
「おはようございまーす」と言いながら居間に入ってきた二人はテーブルの上に所狭しと並べられた朝食を前に目を丸くした。

「うわ、どうしたの、兄さん」
「弟くん。今日は随分気合入ってるね〜、どれも美味しそ〜」

 その驚きも当然。恋人の朝ごはんを準備する、とさくらが豪語して作り上げた料理はどれも普段の朝食とは比べ物にならない気合の入った豪勢なものばかりだったからだ。恋人に少しでも美味しいものを食べてもらおうと言うさくらの気遣いに義之は胸が熱くなることを感じながら「ああ、違うよ」と朝倉姉妹の言葉を否定した。

「今日は俺が作った訳じゃない。作ったのはさくらさんだよ」

 義之がその言葉を言い終わるか終わらないかという時に台所の方からさくらが姿を現す。
少しだけ照れ臭そうに「にゃはは、今日はちょっと気合入れてみたんだ」と笑う。「へぇ、珍しいですね」と音姫が応じた。

「さくらさんがご飯を作るなんて。それもこんなに気合を入れるなんて……どうしたんですか?」
「にゃはは、恋人の義之くんに美味しいご飯を食べてもらおうと思ってね」
「なるほど〜、恋人の弟くんに。それは気合も入りますねぇ〜」

 さくらの笑顔に、音姫も笑顔で返した。が、直後。

「……え? こい、びと……?」

 その表情が硬直する。見れば由夢もまたポカンとした表情を浮かべてかたまっている。

「い……今、さくらさん、兄さんをことを恋人って言ったよね? わたしの聞き間違いじゃないよね? 恋人!? 兄さんがさくらさんの!?」
「こ、こ、恋人っ!? お、弟くんが恋人って、どういうことですか!? さくらさん! 弟くん!」

 そして、硬直が解けると共に朝倉姉妹はそろって血相を変えてまくし立てる。さくらは気にした様子もなく、笑っていたが、義之としては気が気でなかった。いつかはこの二人には言わなければならないことだと思っていたが、こんなにあっさり、たいしたこともないかのように言ってしまうとは。さくらの脳天気さに義之は正直、頭を抱えたい思いだった。どう弁解するか、いや、そもそも事実なのだから弁解も何もないのだが……などと義之が考えているとさくらは「言葉通りだよ」などと脳天気な笑顔で言う。

「ボクと義之くんは家族を超えた特別な存在になったんだ。……ねっ? 義之くん」

 さくらの碧い瞳が義之に向けられる。それに連動するように音姫と由夢も視線を義之にそそぐ。その瞳は「ホントに?」「嘘でしょ」と義之を問いつめていて一瞬、物怖じしそうになった義之だったが、ここで動じてはいけない、と自分に言い聞かせる。
 そうだ、自分はさくらさんの恋人なのだ。役者不足は百も承知、自分なんかがさくらさんの恋人なんて身分不相応だが、それでも、恋人なのだ。ならば堂々としていなければならない。堂々たる態度でこのことを家族である朝倉姉妹に説明、そして報告しなければならない。
 それが、さくらの恋人にふさわしい人間に少しでも近づける第一歩だと思い、義之は自分に向けられる視線を真っ向から受け止め、口を開いた。

「……ああ。俺とさくらさんは――恋人になった」

 恋人。その言葉が重みを伴い辺りに響き渡り、音姫と由夢が息を飲む音が聞こえた気がした。

「驚かれるのは無理もない。けど、これは事実だ。俺とさくらさんは、もうただの家族じゃない。俺はさくらさんのことを……一人の男として愛している」

 義之は真摯に、真実を告げる。にゃはは、とさくらが照れ臭そうに笑い、その後、少しだけ申し訳なさそうな顔になった。

「……ごめんね、音姫ちゃん、由夢ちゃん。ボクなんかが義之くんの恋人になっちゃって」

 気まずげな声。驚愕の表情を浮かべていた朝倉姉妹だったが、その言葉にハッとしたように表情を持ち直し、音姫が「いえ、謝ることなんてありませんよ」と微笑んだ。

「少し驚いただけですから……だよね、由夢ちゃん?」
「うん、お姉ちゃん。……そっか、兄さんとさくらさんが……」

 微笑む音姫に対し、由夢はいまだ現実を飲み込めていないようなぼんやりとした表情。

「おめでとう! 弟くん、さくらさん!」

 音姫はあくまで笑顔で、義之とさくらを祝福してくれた。そんな姉を前にしては「ありがとう、音姉」という言葉が自然と口をついて出た。さくらも申し訳なさそうな顔を徐々に微笑みに変え、「うん。ありがとう、音姫ちゃん」と家族からの祝福を素直に受け入れる。
 そんな面々を見ていると由夢もようやく物事が飲み込めてきたのか、

「おめでとう。兄さん、さくらさん。ま、さくらさんは兄さんには勿体なさ過ぎるくらいの人ですから、せいぜい愛想を尽かされないように頑張ってください」

 少々、捻くれた、それでも祝福の言葉を述べた。
 勿体なさ過ぎる、ってお前ね、と妹の棘のある言葉に義之は少し苦笑いしたくなったが、まぁ、仕方がない。たしかにさくらさんは自分には勿体ないくらいのお人だ。
 朝倉姉妹からの、家族同然の二人からの祝福。これまで家族の関係だった人間同士が恋人になったというのにそのことに二人は驚きこそすれど責めるようなこともなく、祝福してくれた。それは自分とさくらさんの関係について胸の奥底で蠢いていたしこり――母親のような人と恋人になったということへのかすかな背徳感をなくしてくれるものだった。家族同然である二人からの祝福だからこそ、やっぱり自分たちの関係は、自分がさくらさんを好きだということは間違っていないんだ、ということを再確認させてくれる。その実感を胸に義之は二人に感謝し、素直に家族からの祝福を受け入れた。

「ありがとう、由夢ちゃん。でもボクが義之くんに勿体なさ過ぎるなんてことはないよ〜」
「そうですか? さくらさん程の才女が兄さんの相手なんて不相応な気もしますが」
「才女だなんて……ボクはそんなに大した人間じゃないよ」

 にゃはは、とさくらは笑いながらかぶりを振って否定する。

「……なんにせよ、末永くお幸せに。すぐに別れたりなんかして気まずい雰囲気になったら嫌ですよ。家族として毎日顔をあわせるんですから」

 由夢はやはり少し捻くれた態度でそう言葉を締めくくった。「大丈夫だよ!」とさくらは笑顔で言う。

「ボクと義之くんが別れるなんてありえないから! だってボクと義之くんは心が通じあってるんだもの! ねっ、義之くん?」

 そして小っ恥ずかしいことを相変わらず平然と言う。すぐには返事ができず、言葉に詰まった義之だったが、「まぁ」となんとか声をもらした。

「早々別れるなんてことはないと思う」
「早々……じゃなくて絶対、だよ♪」

 さくらに笑顔で言葉を訂正される。

「ボクは義之くんのことが大好き。大大大だぁ〜〜い好き♪ 義之くんもボクのことが同じくらい好きなんでしょ?」

 笑顔の問いに気恥ずかしさを覚えながらも義之は「はい」と頷いていた。

「……なら、やっぱり大丈夫♪ ボクと義之くんはずっと一緒なんだから♪」
「そうですね。俺も、さくらさんとずっと一緒にいたいと思います」

 そうだ。自分とさくらさんはこれから同じ道を、同じ未来を歩いて行く。お互いの想いを重ねて、一緒に歩いて行く。あの告白の夜から、そのことはもう決まっていることなんだ。
 その想いを込めてさくらに笑顔を向ける。さくらもまた、義之に笑顔を返してくれた。

「さくらさん……」
「義之くん……」

 そして、お互いに名を呼ぶ。それがお互いが想いを共有していることの証明のように思えた。視線は相手をとらえて離さず、何よりも大切な人の存在を胸の中に刻み込む。ああ、俺はこの人が好きだ。そう再確認する。おそらくはさくらも義之と同じことを思ってくれているのだろう。

「……甘すぎて口から砂糖を吐きそうです」
「あはは……」

 そんな義之とさくらを見る由夢と音姫は呆れた様子でまるっきりバカップルを見る目だったが、義之には気にならなかった。



 午前10時。晴天に恵まれ雲ひとつない青空に太陽は煌々と輝くものの、正午にはまだ早い時間に日差しは弱く、野外はやはり真冬の寒さだった。1月も半ばに入り、少しは和らいだものの、身を切る風に震えながら、義之は商店街の入り口でさくらを待っていた。
 デートの待ち合わせ、である。
 別に待ち合わせなどしなくとも、住んでいる場所が一緒なのだから一緒に出かければいいだけの話なのだが、「それだと雰囲気がでないよ〜」というさくらの抗議により、こうしてわざわざ別々に家を出て現地で待ち合わせをすることになった次第だ。義之の方が先に出ることになったのは、デートの待ち合わせは男の人の方が先に着いているもの、ということらしい。

(さくらさんとデート、か)

 胸に手を当てる。バクバクと心臓は高鳴り、これから先のことに対して緊張しているのが自分でもわかる。いや、緊張だけではない。この胸の高鳴りは緊張だけではなく、期待と、そして、不安だ。デート直前、だというのに正直、頭の中は真っ白で何のプランもない。気の利いた会話も気配りもできる自信はない。こんな体たらくでさくらさんを満足させることができるのか、さくらさんを楽しませることができるのか。不安で仕方がない。けれど、それと同時に期待もしている。今日のデート。自分とさくらさんが恋人という関係になって、初めて得る二人だけの時間。そこに甘い展開を期待しないわけがない。愛しい人と同じ時間を共有できる、というだけでも嬉しさが沸いてくる。そんな思いが期待と不安という矛盾した感情を胸の中に内包する。
 義之が視線を上げ、太陽の日差しに目を細めた、その時、「お待たせ♪」と声がかかった。
 声の主が誰かは考えるまでもない。義之は視線を下ろし、自分より頭一つ分低い背丈の彼女を視界に収め「いえ、今着たばかりですよ」と言葉を返す。「にゃはは」と笑い声が響いた。

「それもそっか♪ だって義之くんが家を出た十分後にボクも出かけたんだからね」

 義之くんを待たせたら悪いと思って、とさくらは笑う。

「だったらそもそもこんな風に別々に出ることもないと思うんですけど……」
「わかってないな〜、義之くんは。様式美ってやつだよ。日本人なら特に大切にしないといけない美学だぞ?」
「はぁ」

 そういうものだろうか? 得意顔のさくらを前に困惑する。

「まぁ、それはともかく、そろそろ行きましょうか」

 別に行き先など考えているわけではないのだが、いつまでもここでこうしてるわけにもいかないだろう。義之はそうさくらを促したのだが、

「ん……」

 歩き出そうとする義之を見てさくらが不満そうな顔をする。「どうしたんですか?」と訊ねれば「あのさー、義之くん」とさくらが呆れたような声を返す。

「なんですか?」
「ボクたち、これからデートに行くんだよね?」

 そう言われればはい、と頷くしかない。
 そんな義之を前にさくらは片手をこれみよがしにひらひらと揺らした。それを見てハッと理解する。義之は片手を差し出し、さくらの手を握った。うん、とさくらの表情が不満気なものから満足気なものに変わる。繋いだ手からはさくらの肌の、人肌のあたたかみが感じ取れて、そのあたたかみが恋人、という今現在の、かつてはありえなかった義之とさくらの関係を実感として義之の胸中に感じさせる。この感触は悪くはない。悪くはないのだが……。

「……ちょっと、恥ずかしくありませんか?」

 それが義之の率直な気持ちだった。この人と手を繋いで歩くなんていつ以来だろう? 少なくとも義之が風見学園に通うようになってからは記憶にない。大昔、自分が小さかった頃はこんな風に手を繋いで歩くこともあっただろうが、大きくなった今になってそれをするというのはいささかの羞恥心が先に出る。
 義之の言葉にさくらは一瞬、何を言われたのかわからない、というようにポカンとした顔をし、次いで「何言ってるの」と笑った。

「せっかくのデートなんだから、手くらい繋がないと」

 にゃはは、と笑い声。さくらにとっては特に気にすることもない些事のようだった。
 まぁ、たしかに。言われてみれば、そうだ。これまでずっと一緒に過ごしてきた身。これくらいのわかりやすい変化がなければ、デートという気分もしない。それに繋いだ手と手。この感触はやはり悪くない。悪くないのだ。恥ずかしさと嬉しさが両立する不可思議な感覚を抱きつつ義之は「それも、そうですね」と言葉を返した。
 手を繋いで、商店街を歩く。ただそれだけのことなのに心臓が脈を打つ。1月中旬の太陽の日差しはか細く、やや肌寒かったが、そんなことはまるで気にならなかった。ちらり、と隣を見る。すぐそばには見るに見慣れたさくらの顔がそこにはある。身内贔屓を除いても可憐だと思える美しい横顔は楽しげに微笑みを浮かべていて、その横顔を見ているだけで幸せな気分になれる。見ているだけで安心できるさくらさんの笑顔。今ではその笑顔は安心感に加えて幸福感まで与えてくれるようになった。行き先も、やることも、何も決めていないが、この横顔を見れるのならこうやって目的もなくブラブラと商店街を遊歩するのも、悪くない。そんなことを思っていた義之は不意に発せられた「ボクの顔に何かついてる?」の声にドキリ、と胸を跳ねさせた。「え?」と困惑の声がもれる。

「義之くん、さっきからボクの顔、チラチラチラチラ見てるから何かついてるのかな〜って思って」

 こちらを向いたさくらが笑顔のままで言う。言葉に含みはなく本当にただ気になったから聞いただけのようだった。
 気づかれていた? そんなに自分はさくらさんの方を見ていたのか? と自問する暇もなく、「あ、その、いや……」としどろもどろの声を返した義之は、

「……綺麗な顔だな、って思いまして」

 言葉を弄する余裕はなく、思った通りのことを口にしていた。「綺麗……」とオウム返しにさくらの声が返ってきたのと、その頬が朱色に染まるのは同時だった。「うにゃ……ありがと……」と彼女らしくないか細い声が続く。
 俺は馬鹿だ、と義之は思った。こんなこと言ったらお互い照れて、気まずくなることは必至じゃないか。

「…………」
「…………」

 案の定。こそばゆい沈黙が二人の間に広がる。それは決して気分の悪いものではなかったが、あまり長く続けていたいものでもない。何か気の利いた会話の一つでもできやしないかと思うが、あいにくとそこまで回る口は持っていない。必死に話題を探した義之は「喫茶店でも行きましょうか」という短慮で思いついたことをそのまま口にしていた。
 義之が口を開いたことで気まずさも和らいだのだろう。「喫茶店かー」とさくらも言葉を返す。
 喫茶店。あまり考えての発言ではなかったが、なかなかどうしてそれなりにいい提案な気がする。どのみち、このまま目的地も決めずにずーっと歩き続けるわけにもいかなかったのだ。それにデートで喫茶店といえば定番中の定番だ。「いいね」とさくらが笑う。

「ボクに異論はないよ。どこの喫茶店に入ろうか?」
「そうですね……」

 現在地を考え、近場にある喫茶店を探す。『花より団子』も悪くはないが、この位置からなら『ムーンライト』がいいだろう。「ムーンライトに行きましょう」と馴染みの喫茶店の店名を義之が告げると、さくらは笑顔で頷く。そうして、手は繋いだまま、数分にも満たない距離を歩くと『ムーンライト』の看板が見えてきた。さくらと繋いでいない方の手でその扉を開き、中に入る。程なくエプロンをかけた店員さんが出迎えにきてくれて「いらっしゃいませ〜、二名様ですか?」と訊ねてきた。首肯すると「ご案内します」と席に案内される。土曜日の正午手前。店内にはそこそこの客がいてティータイムを楽しんでいたり、やや遅めのモーニングを取っていたり、逆に少し早めの昼食を取っているようだった。そんな客の中に、

「あら?」

 見慣れた姿を見かけ、思わず義之の胸が跳ねた。凝ったゴスロリ衣装に身を包んだ少女と豊満な胸を持った少女の二人組。その二人は義之には見るに見慣れた組み合わせで……。

「ふふ、奇遇ね」
「あ! 義之くん! やっほ〜♪」

 雪村杏と花咲茜だ。しまった、と思った。それはそうだ。馴染みの店に行くのならそこで馴染みの人間と出会うことは充分考えられることではないか。義之を見て、最初は他意のない笑顔を浮かべていた二人だったが、義之が一人ではないことに気づくと少し怪訝そうな顔をし、義之の同行者――さくらの顔を見、そして、義之とさくらが手を繋いでいることを確認すると悪戯っぽい微笑みを浮かべた。長年の付き合いでわかる。これは……絶好のオモチャを見つけた時の顔だ。「あら、園長先生も」「こんにちは〜」などと気軽に挨拶する二人にさくらもまた「杏ちゃん、茜ちゃん、こんにちは〜」と気軽に返す。離れた位置に座ろう。そんなことを思った義之の機先を制するように「隣、あいてるわよ」と杏が笑う。そんなやりとりを見て店員さんに「お知り合いですか? でしたらお隣の席でどうぞ」と言われればもはや退路は絶たれ、義之とさくらは杏と茜の隣の席に腰を下ろした。義之の対面にさくらが座る。危機的状況にも関わらず、その際にさくらと繋いだ手を離したことに、彼女のあたたかみが離れていったことにほんの僅かな残念さが胸元をかすめた。

「さてさて〜♪」

 茜が義之とさくらの顔を見比べ、ニヤニヤと笑う。

「義之くんと芳乃さん、これはまたなかなか見ない組み合わせですな〜」
「そうね。義之と園長先生が二人一緒に……それも手なんて繋いで喫茶店に入ってくるなんてなかなか見られない光景だわ」

 洞察力に長ける二人のことだ。自分とさくらさんが手を繋いで喫茶店に現れた、ということがどういうことかなんてとっくにわかっているだろうに。少しずつ外堀を埋めるように、もったいぶった口調で話を進める。「これはどういうことか……是非とも事情を聞きたいわね」と締めくくった杏がその視線を義之に向けた。ニヤニヤとした笑みは絶やさずに。

「…………」

 それに対する義之の返答は、沈黙だった。今更黙秘権を行使しようとも何の意味もないことはわかっているのだが、これが義之にできる精一杯の抵抗だった。意地、といってもいい。ふむ、と得心した顔で頷いた杏は視線をさくらに移す。

「どういうことでしょうか、園長先生?」
「どういうこともなにも、デートだよ♪」

 明るいさくらの声が響く。言っちゃうか、言っちゃいますか……と義之は内心で呟いた。まぁ、この人に今自分たちのやっていることを隠す、なんて思考はないだろう。それが杏と茜の二人に絶好のオモチャを与える結果になるとしてもおそらくそれを嫌うのは自分だけでこの人はまるで気にもしないだろう。わかっていた、ことだった。「デート!」と茜が声を上げる。

「義之くんと芳乃さんがデート! これは衝撃的な出来事ですな〜、杏ちゃん」
「ええ。義之は放っておいても誰かとくっつくだろうとは思っていたけれど、それが音姫先輩でも由夢さんでも小恋でもなく、園長先生だというのは衝撃的ね」

 何が放っておいても誰かとくっつく、だ。自分はそんなに軟派で軽薄な男に見られていたのか。からかわれている、という現実からの逃避か、義之はそんなどうでもいいことに対して胸中で毒づいた。
 杏と茜の反応にさくらは照れたようににゃはは、と笑う。

「うん。正直、ボクもびっくりなんだよ。義之くんとこういう関係になって、デートなんて夢のようなことができるなんて……」

 夢のよう。そう語ったさくらは言葉通り幸福な夢を見ているように幸せを噛み締める表情をしていた。「幸せ真っ只中、って顔ね」と杏が笑う。

「彼女さんの方はこの調子だけど、彼氏さんの方はどうなのかな〜?」

 そんなさくらを横目に見、茜が義之に水を向ける。「彼氏さ〜ん、今、幸せですか〜?」なんてことをニヤニヤ笑いと共に訊ねてくる。

「…………」

 そのニヤついた顔を軽く睨みつけてみるも、効果はないようだった。期せずして手元に転がり込んできたオモチャで遊ぶ楽しさがニヤニヤ笑いから伝わってくる。どう答えようともて遊ばれることは明白。そんな状況下で義之は「幸せだよ……」と逆切れ気味に返していた。
 今の自分は幸せだ。それを否定することなどできようもない。幸福の絶頂にあるさくらさんの笑顔がそれを許さない。ならば今の自分は幸せと正直に心の内を公開するしかない。「幸せに決まってるだろ」と続けた声にはやけくそめいた響きがあった。

「うんうん♪ それはなにより〜♪」

 満足気に茜が笑う。えへへ、とさくらも照れたように笑い、杏もニヤリ、と笑うと「ちなみに告白はどちらから? 告白の言葉は?」と質問を並べる。

「ん〜と、告白は義之くんからだね。えっと、告白の言葉は〜……」

 律儀にも質問に答えようとするさくらを前に義之は「さくらさん! そんなのに答える必要はないですって!」と慌てた声を上げていた。そんな義之にも構わず杏と茜は「ふむふむ」「義之くんが告白したんだ〜」などとコメントする。そんな二人を軽く睨むも、二人は気にした風もない。さくらは言葉を続けようとして、しかし、はたと声を止め、「ないしょ♪」と笑った。

「杏ちゃんや茜ちゃんには悪いけどこればっかりはないしょ。大切なた〜いせつな言葉だから、ボクの心の中だけに留めておきたいんだ。でも、そんなに凝った言葉じゃなくて、ストレートな告白だったよ。なんていうかね抽象的なんだけど……心がこもっていた、と思う。義之くんの愛が感じられた……かな」

 そう言って、さくらは頬を紅潮させ微笑んだ。そこから読み取れるのは若干の羞恥とそれ以上の満足、そして、幸福感。自分には勿体無い言葉だった、とでも言うようにさくらは照れ臭そうに微笑んでいた。その笑顔に杏と茜の前だというのにドキリ、と義之の胸が跳ねた。二人の前だというのにこんなにストレートに惚気けられるとは思わなかった。

「案外、実直なのね」
「う〜ん、残念! 私もその現場見たかったな〜」

 あまりにストレートな惚気けだったせいか杏も茜もからかうことを忘れた様子でそんな感想を述べる。なんにせよ、と杏は続け、

「おめでとう、義之、園長先生。二人の仲を祝福するわ」
「末永くお幸せにね〜♪」

 二人はそう祝福してくれた。音姫や由夢と同じように。義之とさくらを祝福してくれた。そこにからかいの色はなく、純粋にめでたいことだと思ってくれているということが感じ取れた。義之はそれを少し意外に感じつつも、この祝福は素直に受け止めるべきだろう、と思った。

「ああ。ありがとう、二人とも」
「ありがとね♪ 杏ちゃん、茜ちゃん♪」

 二人の祝福に素直に応じる。
 表面上はなんだかんだとからかったりふざけたりしてきても心の底ではきちんとこうして相手のことを真摯に考え、その関係の変化を祝福してくれる。友人二人の心遣いに義之は内心で感謝し、素直に祝福を受け入れる。朝、朝倉姉妹に祝福された時と同じように。
 ほんと、ありがとな、杏、茜。義之が感謝の言葉を胸の内で述べていると、「ところで〜」と茜が悪戯っぽい笑みを浮かべていた。今、感謝したばかりでなんだが、その笑みを見ているとなんだか、嫌な予感がした。

「お二人とも注文はまだじゃないですか〜」
「……ああ、お前や杏と話していたからな」

 わざとらしい敬語。嫌な予感がどんどん強まることを感じながらも義之は応じた。「このムーンライトには」と杏が茜の言葉を引き継ぐ。

「メニューには載っていない隠しメニューがあることをご存知かしら?」
「いや、知らないな」

 馴染みの店ではあるが、そんなことは初耳だった。義之の言葉に杏はでしょうね、と頷く。

「隠しメニュー……それを注文するには条件があるの」
「条件ってなんだよ」

 義之が問うと杏は含みのある視線で義之とさくらの二人を順に見た。

「ずばり……カップル限定……」
「カップルじゃないと頼めないの?」
「はい、園長先生」

 さくらの言葉に杏は頷く。

「どうでしょう、園長先生。デートの記念にそれを注文してみては?」

 メニューに載っていない隠しメニュー、そして、カップル限定。嫌な予感がどんどん強くなっていく。待て、それはひょっとして物凄く恥ずかしいメニューなんじゃ……。義之のそんな懸念にも関わらず杏の言葉にさくらは笑顔を浮かべると「そうだね♪」なんて楽しげに言う。こんな楽しげなさくらに口を挟むことは気後れするが義之は「あの、さくらさん」と声をかけた。

「やめておいた方がいいんじゃ……」
「いいじゃん、いいじゃん! カップル限定メニュー! まさに今のボクたちにあるかのようなメニューじゃない? せっかくの初デートだし、頼んじゃおうよ♪ 店員さーん!」

 義之の静止も無駄に終わり、さくらは店員を呼ぶとさっさとカップル限定メニューを注文してしまった。「二つください」と言ったさくらに店員が「一つでいいと思いますよ」と言ったことや、杏と茜の悪戯っぽいニヤニヤ顔、義之の方を同情するような目で店員が見たことなど気になることは山程あり、嫌な予感をさらに強めていく。カップル限定のメニュー、二つじゃなくて一つでもいい……これらのキーワードが意味する、そのメニューの中身は……。
 ――果たして、その予感は的中した。
 『ムーンライト』、カップル限定の隠しメニュー。それは巨大なパフェだった。普通のジュースや一般的なパフェを入れるのよりは遥かに肥大化したグラスはすさまじいボリュームでそこに所狭しと押し込められたパフェもやはり肥大。ピンク色が目に眩しいストロベリークリームで全体が構成されたパフェは所々にカットされたイチゴやクッキーが備え付けられ、成る程、見るも豪勢な姿だ。そのパフェを包み込むようにピンク色のストロベリージュースが巨大なグラスを満たし、クリームを溶かす。ここまではいい。非常識な大きさをしていることを除けば、まだ普通のパフェと言える範囲内だ。ただ問題はそこから伸びるストローだ。長く太いストローはパフェに突き刺さっている根本は一本だが、その途中で二股に枝分かれし、ハートの形状を描き、前と後ろに別れ、天を仰いでいる。二股のストロー。その姿はようするにカップル二人で一つのストローを使ってこれを飲め、と言っているに等しく……。

「…………いや、冗談だろ?」

 目の前にあらわれたソレを前に呆然としていた義之が必死でしぼりだしたのはそんな言葉だった。

「ふふふ、ざんね〜〜ん、冗談なんかじゃありませ〜ん♪」
「現実逃避はよくないわよ、義之」

 茜と杏がそう言って義之の言葉、否、願望を否定する。彼女らの言う通り、いくら目の前のソレを凝視しようともソレが消えてなくなったりすることはなく、その堂々たる姿をテーブルの上に鎮座させている。見ているだけで甘ったるいオーラが目や鼻といった視覚情報や嗅覚ではなく皮膚感覚で感じられるその一品は紛れも無くバカップル御用達の一品。杏たちは知っていたのだろう。ムーンライトのカップル限定隠しメニュー。その中身を。だからこそ、自分とさくらさんにそれを勧めたのだ。そうだ、さくらさんはどうなんだろう? この自分なら絶句してしまう一品を前に一体どんな感情を抱いているのだろう? 義之はそう思い対面に座るさくらに視界を向けた。

「…………」

 さくらはポカン、と。呆然とした様子でソレを見つめている。それはそうだ。流石の彼女でもこれは想定外、そして、絶句してしまうものだろう。こんな目の前にあるだけで恥ずかしいものが運ばれてくるなんてノリノリで注文した彼女とて想定できるはずが……そう考えた義之の思考は次のさくらの一言で否定された。

「美味しそうだね♪」

 笑顔。呆然とした顔が一変した後にあったのは笑顔だった。満面の笑みでさくらはそんなことを口にした。それが照れ隠しでもなんでもなく、本心からの言葉であるのだろうということは大好物のお菓子を前にした子供のように純粋無垢な笑顔を見れば明らかだった。彼女はこれだけの一品を前にしても羞恥心を感じていない。むしろ、

「義之くん! 早く食べようよ♪」

 ノリノリだった。目の前の特大パフェに明らかにはしゃいでいる。そのパフェに突き刺さった二股のストローのことなどはじめから眼中にないかのように。どうやら呆然として言葉を失っていたという点は義之と同じだがその理由は大きく異なり、運ばれてきたものに感激し、見とれていただけのようだった。マジですか、さくらさん……と胸中で呟く義之の心も知らず、さくらは「よっしゆきくん♪」などと繰り返し言って義之を急かす。
 自分の名を呼ばれているのに返事をしない訳にもいかない、かといって目の前の巨大パフェへの衝撃も抜け切らない。「あ、いや、その……」と義之はしどろもどろの声をもらした。

「お、俺はいいので……さくらさん一人で食べてください」

 義之の言葉に「え〜!」と反応したのはさくらではなく、何故か茜だった。

「義之くん……それはちょっとノリが悪すぎるんじゃないかなぁ〜?」

 呆れる、を通り越してとがめるような茜の言葉。しかし、ノリが良いも悪いもない。公衆の面前でこんなバカップル御用達のストローを使ってパフェを食べろなどと、どんな罰ゲームだ。「勘弁してくれ……」と義之は呟いた。

「俺たちはお前らの見世物になるためにいるわけじゃないんだ……」

 それは杏と茜に向けた言葉だ。そうだ。こんなのいい見世物だ。自分たちは、俺とさくらさんは親睦を深めるためにデートをしているのであってこの喫茶店に立ち寄ったのもその一環だ。断じて杏と茜を楽しませるために来たわけではない。さくらさんだって、それは同意見のはず……。

「そう? 義之にとってはそうかもしれないけど……でも、園長先生は不満みたいよ?」

 杏がからかうように、挑発するように言う。そんなわけないだろう、と義之は思った。さくらさんだってこんな見世物になるようなこと望んでいるわけがない。そりゃあ、目の前のパフェは美味しそうだが、なら、それを一人で食べればいい話だ。わざわざバカップル御用達の二股のストローなんて使って食べる必要はない。そんなことをして杏と茜の二人を楽しませることなんてないはずだ。そう思って、義之はさくらを見たが、さくらは「む〜〜」と義之を見つめ返した。

「さ、さくらさん……?」

 困惑の声がもれる。さくらの碧い瞳。それは不満を訴えるように上目遣いで義之を見上げていて……まさか、不満なのか? 杏の言う通りに? 自分がこのストローを使わないようにしようとしているのが不満なのか? そんな義之の考えを裏付けるように「ボクと義之くんは恋人なんだよね?」とさくらが言葉を発した。不満そうなその瞳、表情はそのままに。

「ええ、そりゃ、まぁ……」
「だったらこのパフェも二人で食べるべきじゃないかな?」
「それは……」

 言葉に詰まる。追い打ちをかけるように「このパフェはカップル二人で食べるように作られてるんだよ」というさくらの声が耳朶を打った。

「…………」

 それは、たしかにそうだろう。この巨大パフェ。どう見ても一人で食べきれるサイズではない。そして突き刺さった二股のストロー。カップル二人で食べろ、と言外に訴えているのは明白だ。それは最初にこのパフェを見た時に感じた印象そのままだ。
 さくらは不満そうな表情をいつの間にか笑顔に戻していた。

「なら一緒に食べようよ、義之くん♪」

 明るく、楽しげに、さくらは言う。そこには羞恥心など欠片もなく、純粋に自分と二人でこのパフェを食べるという行為への期待があふれている。この期待に満ちた純粋無垢な笑顔を裏切るというのはいささか気が引ける。たとえ、杏と茜がニヤニヤ笑いをたたえてこちらを見ているのだとしても。

「…………はい」

 ――――結局。義之はこのバカップル御用達巨大パフェを店側が想定していた通りの食べ方で完食する羽目になった。その間、杏と茜の二人から散々冷やかしとからかいの言葉を受けたものの、間近に迫った――このストローを使うとなると自然と使っている二人の距離は縮まる――さくらさんの満足気な表情を見ていると、それもいいか、などと思ってしまう自分もいて、やっぱり自分はさくらさんのことが好きなんだな、と再確認しながら義之は口の中いっぱいに広がる甘みを味わった。舌だけではなく皮膚感覚で感じるその甘さはパフェの甘味のせいだけではなかったような気もするが、それが気のせいか真実かは巨大パフェを完食するまでの短くない時間をもってしてもわからなかった。





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