1月15日(土)「さくらさんとデート(後編)」






「はぁ。ひどい目にあった……」

 嘆息。それしかでてこない。
 ふとした思いつきで訪れた喫茶店『ムーンライト』。まさか、そこであんな目にあうとは思わなかった。杏と茜に散々からかわれ、バカップル御用達の巨大パフェを二股のストローでさくらと共に完食し、そうして義之たちはムーンライトを後にしていた。杏と茜は義之とさくらのデートの今後の行方に興味津々といった様子ではあったが、流石についてくるなどといった野暮な真似はしなかった。しかし、杏たちと別れた今となっても、思い返してみては赤面する思いにかられる。付き合い始めて数日、初デートでアレは難易度の高すぎる行為だった。未だに胸から湧き出る羞恥心に義之が身悶えしていると「にゃはは」とさくらの笑い声が響いた。

「恥ずかしかったね♪」

 言葉の割に、ちっとも恥ずかしそうにない声音だった。むしろ、楽しかった出来事を語っているようですらある。義之にとっては羞恥でしかなかったことも彼女にとってはやはり、違うのだろう。「さくらさん、全然恥ずかしがってないでしょう」と文句にも似た声が義之の口から出る。

「にゃはは、ばれたか〜」
「ばれますよ」

 それだけ喜々として語っていれば誰でもわかる。悪戯がバレた子供のような顔で、さくらは笑った。そんなさくらの様子に「……楽しそう、ですね」と義之は声をかけた。さくらは一瞬、キョトンとした顔をした後、「うん♪ 楽しいよ」と笑顔を見せた。

「あのパフェ、そんなに美味しかったですか?」
「まーね。パフェ自体も美味しかったけど、それを義之くんと一緒に食べるっていう行為自体がね。なんていうかね、あー、ボクたち恋人になったんだぁ〜、って実感できて、ただ一緒に食べてるだけなのに胸の中がね、なんだかあったかくなったんだよ」

 そう言ってさくらは自分の胸に両手を当てる。「……完全にバカップルの行為でしたけどね」と義之が野暮な突っ込みを入れるも笑顔は崩れず「いいじゃないバカップルで」との声が返ってくるだけだった。

「義之くんと恋人になるなんて奇跡のようなことが起きたんだもの。二人の愛を示すためならなんでもやるよ。バカでもアホでも、なんでも言わせておければいいんだよ♪」

 そう開き直られては言葉も無い。しかし、釘は刺しておかねば。

「流石に公衆の面前、特に杏や茜のような輩の前でキスとかはやめてくださいよ?」
「え〜〜」
「え〜〜、じゃありませんよ」

 やれやれ、と呆れる。キス自体が嫌なわけではないが義之としてはもう少し節度を持ったお付き合いをしたいものだ。少なくとも公衆の面前でキスなどは自重したい。不満そうに頬をふくらませていたさくらだったが、不意にニヤリ、と笑うと「ま、いっか」と言った。何が、「ま、いっか」なんだ? 義之が不穏な気配を感じ取っていると、

「それってつまり、二人っきりの時は何をしてもオールオッケーってことだもんね♪」

 きらり、と碧い瞳が光る。小悪魔のような笑み。やば、地雷踏んだかもしれない、と思った。「覚悟しておいてね、義之くん。二人っきりの時は思いっ切りいちゃついてやるんだから」と言われれば、義之としてはこの人との付き合いで自分が主導権を握れることはないのか、と悟るしかなかった。まぁ、さくらさんと付き合うという時点でこの人に振り回されることはわかっていたことだが。

「ま、二人っきりじゃなくてもいちゃつくけどね♪」
「自分で言った前提を速攻で破壊しないでくださいよ……」

 苦言を呈するも返ってくるのは「にゃはは」という笑い声だけ。さくらさんはどこまでもさくらさんということか、と義之は諦観の思いだった。しかし、そんなフリーダムな彼女だから好きになったのだということも再認識して義之はどことなく晴れやかな気分でさくらに向き直った。そこにあるのは楽しげな笑顔。見る人を安心させる穏やかな微笑みとは少し違う、見る人も楽しい気分にさせてくれる楽しげな笑顔。そこに『枯れない桜』の前で語り合った時のような暗い色は見えなくて、うん、やっぱりこの人には笑顔が似合っていると思う。自分と付き合うことで、自分とデートすることで、この人がこんな笑顔を見せてくれるのなら、それは、何よりも光栄なことだ。幸福感と満足感を胸の中にたたえ、「それじゃ、そろそろデートを再開しましょうか」と義之は呟いた。

「うん!」

 返ってくるのは勿論、笑顔。さくらが差し出した手のひらを義之は今度は戸惑うことなく自然と自分の手で握りしめていた。繋がる、手と手。相手のぬくもりを感じ、ただそれだけで幸せな気分になれる。デート、してるんだな、俺たち……。そんな、当たり前のことを今更ながら再認識し、義之の口元は自然とほころいだ。「さくらさん」と名を呼べば、「ん? なに?」と笑顔が見返してくる。その無邪気な笑顔に心惹かれる胸中を自覚しながら……。

「幸せ、ですね」
「……うん、そうだね」

 当たり前のことを、義之は告げた。



 とはいえ、ノープランでスタートしたデートだ。良い行き先が早々思い浮かぶはずもなく、義之はさくらに「どこか行きたいところはありますか?」と訊ねた。
 本来ならこういうことは男性の側がリードするものであって、女性に行き先を委ねるのは論外だ、ということくらいは義之とてわかっていたが、行き先が思い浮かばないのであれば仕方がない。それにさくらの行きたいところに行った方がさくらも楽しいだろう、と義之は思っていた。
 義之の問いかけにさくらは「うーんと、ね」と少し考えこむ仕草を見せた末、キョロキョロと辺りを見渡し、そして、「あそこはどうかな?」と商店街の一角を指差す。さくらの指の先、そこには一件の花屋があった。

「花屋さん、ですか」
「うん! デートにはピッタリだと思うんだけど……」

 デートで買い物、といえば真っ先にブティック等の服飾系が思い浮かぶが、花屋というのもなかなかどうして悪いものではない。絢爛な花の数々とさくらさんの組み合わせはたとえどんな花でも見栄えすることだろう。義之に異論があるはずもなく、二人は花屋の入り口をくぐった。
 義之たちを出迎えるように綺麗に陳列され咲き誇る花の数々にさくらは「わ〜♪」と歓喜の声をあげる。白、青、赤、黄、どの花がどんな名前かそんな知識はないが、多種多様な色合いの花々が並ぶ光景は義之の目にも綺麗に映った。「綺麗だね〜」なんて言いながら色んな花の前を見て回るさくらに続きながら「そうですね」と相槌を打つ。
 そんな義之とさくらに店員の一人が歩み寄ってくる。「いらっしゃいませ。デートですか?」なんてその店員が口を開き、義之が恥ずかしさから返事に窮しているとさくらが「うん!」と元気よく返事をする。

「今日が初デートなんです。それで花を見て回ろうってボクが提案して……」

 さくらの説明に「なるほど。そうなんですか」なんて笑顔で店員は頷く。「よかったら、お花を説明しましょうか?」なんて提案されれば断る理由があるはずもなく、

「この花はプリムラといいます。ケショウザクラやオトメザクラとも言いますね。花言葉は『青春の始まり』や『青春の恋』……『青春』を象徴する花ですね」
「なるほど〜、若さの象徴なんですね」
「そうですね」

 こっちの花はクロッカス、これはノースポール、あれはパンジー、水仙などと店員は次々に花の名前と簡単な特徴、そして、花言葉を説明する。その博識ぶりには義之は内心舌を巻いたが花屋の店員なんてやっている以上、向こうもプロだ。これくらいの知識は当然、持ち合わせているものだろう、と思った。
 店員に先導されるまま次々と花を見ていると不意に「義之くん」とさくらが声をかけてきた。

「なんですか? さくらさん」
「にゃはは、ボクにピッタリの花ってどれだと思う?」

 楽しげに謎かけをするようにさくらは微笑む。「え……」と最初は戸惑いの声をもらした義之だったが「店員さんに選んでもらったらどうですか?」なんて自分でもつまらない答えだな、と思う答えを返していた。さくらは不満そうな顔になる。

「それじゃダメだよ〜、ボクは義之くんに選んでほしいんだから」

 そう言われれば選ぶ他ない。「そうですね……」と義之は呟きながら様々な花に視線を向けた。どの花も綺麗に咲き誇り、さくらさんに似合っている気がする。というかこの人に似合わない花なんてない。それだけに一つを選ぶのは困難だった。しかし、花々の群れの中で一際目立ち、目を引いた花があった。

「これは、どうでしょうか?」

 その花の名前は花にうとい義之でもわかる。

「……百合?」
「ええ。さくらさんによく似合っていると思うんですが……」

 そう、百合の花だ。フランス王家の象徴でもあり、キリスト教では純潔のシンボルとしても扱われる、ということを以前、杏か杉並から聞いた覚えがあった。その綺麗な花弁はさくらさんにとてもよく似合っているように思える。

「白百合ですか。彼氏さん、なかなかいい目をしてますね」

 そんな義之とさくらの様子に店員が口をはさむ。

「百合の花は純潔や無垢を意味する花ですが白い百合はその中でも特に純潔の意味が強い花です」
「純潔……無垢……」

 口に出してみて、得心する。これ以上なくさくらにふさわしいと思える言葉だった。

「まさにさくらさんのためにあるかのような花ですね」
「にゃはは……ボクにそんなに似合うかな?」
「ええ。似合うと思います。花言葉も含めて……」

 義之の言葉にさくらは照れくさそうに笑った。

「じゃあこの花、買おうかな」

 そう言ったさくらに「それじゃ、一輪挿しでいいですか?」と店員が言う。

「うん。あまりいっぱい買ってもこの後のデートでかさばっちゃうしね。それに世話も大変だし……」

 わかりました、と頷く店員に財布を取り出そうとしたさくらの機先を制し、義之が自分の財布を取り出す。ここで女性にお金を払ってもらう程、甲斐性なしではない。義之が精算を済ませ、花屋から出ると、さくらは一輪の百合の花を大事そうに抱えた。

「初デートの記念としては丁度いいね」
「けど、さくらさん。初デートっていいますけどよくよく考えればクリパの時も俺たちデートしていたんじゃ?」

 あの時は渉や小恋に言われてデートではないと否定したものの、今、思い返してみればあれはデート以外の何物でもない。さくらさん本人もこれはデートだ、と言っていたではないか。

「ノンノン♪ あの時はボクと義之くんは付き合ってなかったでしょ? だから真の意味での初デートは今回なんだな〜。小さな違いに見えて、これがすっごく大きな違いなんだよ」

 まぁ、たしかに。あの時は自分もさくらさんも恋人同士なんかじゃなくて、そういう意識もなかったが。「そういうもんですか」と義之が言うとさくらは「そういうものだよ」と笑う。

「あの時はドレス姿でしたね」

 クリパの時のことを思い返し、義之は口元をゆるめた。そう。些細なハプニングからのドレス姿のさくらさんと一緒にクリパを見て回るという出来事。かなり常識はずれなことだ。もっともそんなことがあったからさくらさんに恋心を抱き、今、こうしてデートなんて12月の初めの頃には考えもしなかったことをしているわけだが。義之の言葉に「またドレスを着てあげようか?」とさくらは悪戯っぽく笑った。

「ううん。ドレス以外でも義之くんのためならなんでも着てあげるよ。バニーガールでも、メイド服でも♪」

 わりと本気で言ってるらしいその言葉に義之は「あはは……」と苦笑するしかなかった。ドレス、バニーガール、メイド。どれも見たくないと言えば嘘になるが、照れくさすぎる。そんな思いからか「さくらさんは普段着でも充分魅力的ですよ」と口に出していた。

「そうかな?」
「そうですよ。さくらさんは自分がどれだけ魅力的な女の子か、少し自覚するべきです」

 義之の言葉に一瞬、間が空き「女の……子……?」とさくらが声をもらす。

「あ、すいません。失礼でしたか?」

 仮にも目上の人に向かって『女の子』はないだろう。失言だったか、と義之が思っていると、

「ううん。そんなことないよ。そうだよね〜、女はいつになってもレディだものね〜。それに魅力的って……照れちゃうな、にゃはは」

 言葉の通り照れくさそうにさくらは笑う。さらりと言ってしまったが、ひょっとして自分はとんでもなく恥ずかしい台詞を口にしてしまったのではないか。赤面する思いにかられ、誤魔化す意味もあり義之が携帯を確認すると午後2時を回ったところだった。こんなに時間が経っていたのか、と少し驚く。そういえばお腹の方も適度に空腹を訴えだしてきている。少し遅いが昼食時だろう。午前の内にムーンライトで巨大パフェを食べたとはいえ、あれだけでは昼食にならない。「そろそろ食事にしましょうか」と義之が口にすると、「そうだね」とさくらは言葉を返した。

「……といってもここじゃ食べられないね。どこか別のところに行こうか」

 食事にする、と言ってもどこかの店に入るのではなく食べるのはさくらが朝、気合を入れて作ったお弁当だ。花屋の雰囲気はいいが食事を摂るわけにもいかない。どこかいい場所がないか義之は脳内のハードディスクをあさった。そして、「桜公園はどうでしょう?」と候補を述べる。桜公園もまたこの島におけるデートの定番の場所だ。朝からずっと商店街で過ごしていることもあり他の場所に行くのもいいだろう、と思っての提案だった。
 さくらに異論はないようで二人して桜公園に向け歩き出した。
 商店街を出て、桜並木を抜けて、桜公園へ。徒歩でも十数分もあればたどり着ける距離だ。薄紅色の花びらがアーチのような形状を描き空を覆っていた並木道は、今は枯れた枝木だけを覗かせるようになっており、その光景に義之は一抹の寂寥感を感じながらも何も言わず、並木道を歩いた。そして、目的地である桜公園が見えてくる。
 桜並木同様、桜公園も今となっては薄紅色の花びらは見られずただ所狭しと植えられた桜の木々は緑葉もない枯れた枝木だけを天に向かって伸ばしている。花を散らしたそれらを眺めていると寂寥感が胸の中に到来したが、寂しさには寂しさなりの、冬の景色には冬の景色なりの情緒がある。花が咲いている時期もあれば、枯れている時期もある。過ぎ去る年月、流れ行く時間、ずっと同じままでは、変わらないままではいられない景色。薄紅色の花を散らした桜の木々はそんな時の流れを、現実を象徴するようでもあった。何度も訪れたことのある場所のはずなのにまるで初めて来た場所のように思える。義之は真の意味では初めて見る冬の桜公園の景色を新鮮な思いを味わった。
 手を繋いだままのさくらの方を義之が見ると、さくらもまた薄紅色の花を散らした桜の木々を真剣な眼差しで見つめている。義之の視線に気付いたのかさくらはハッとしたように碧い目を見開くと、義之の方を向き、困ったような苦笑いを浮かべた。

「……桜、枯れちゃってるね」

 ポツリ、と呟く。寂しさを噛み締めたような口調。その声音に罪悪感が含まれているのを察した義之は「でも、これが正しい光景ですよ」と声を出した。そうだ。自分たちはわかっていた。こうなるとわかっていて『枯れない桜』を枯らしたのだ。そうすれば全ては正常に戻ると信じて、全てを正常に戻すために、桜を枯らしたのだ。だから、この花を散らした桜の木々を見ていてこれでいい、と自分たちの行動の正しさを実感することはあっても、悲しむことはないはずだ。しかし、矛盾するようだが初音島から桜の花が消えた、という事実は重い事実として胸を締め付ける。その痛みはおそらく自分よりさくらさんの方が上だろう、と思えた。義之の言葉にさくらは少しの間考えるようなそぶりを見せたがその末に「……そうだね」と呟いた。

「冬に桜の花は咲かないからね。これが正しい……正常な景色。これまでがおかしかっただけなんだからね」

 ボクのわがままのためにおかしくさせていたんだからね。言外にそう伝えたさくらの言葉を義之は脳内で反芻し、少し重苦しくなった雰囲気に眉をしかめた。
 ダメだ。俺たちは今、デートをしているんだ。こんなしんみりした空気なんて似合わない。思う存分デートを楽しまなければ。勿論、自分たちが『枯れない桜』を枯らしたことは忘れてはならないことだし、忘れるつもりもない。物寂しくなった桜の木々に再び視線を送った義之はその光景を胸の中にしっかりと刻み込んだ。すまないな、桜の木、俺達のせいで物寂しい思いをさせてしまって。背負わなければならない責任をしっかりと背負った義之はさくらの方を向いて「それより」とつとめて明るい声で切り出した。

「お昼ご飯、食べましょうよ。さくらさんが作ってくれたんでしょ?」

 義之の言葉にさくらは一瞬、キョトンとした顔になり、そう思えば表情を輝かせ、「うん♪」と頷いた。

「初デートで恋人に披露するお弁当だからね〜♪ 気合をいっぱい、い〜っぱい込めて作ってきたよ〜♪ ボクのラブラブヒートハート注入済みだよ〜♪」

 そう言って笑うさくらの表情からは先程見せた陰りは見られず、楽しげな笑みが空気をほぐし、明るい雰囲気が広がる。義之は軽くなった胸中を自覚しながら「そいつは楽しみです」と返した。
 土曜の昼下がりの桜公園。この公園を彩っていた薄紅色の花はなくなってしまったけれど、それでこの公園を訪れる人が皆無になるなんてことはなく、大勢の人の姿が見られる。
桜の花はなくともこの場所が訪れる人に癒やしを与えてくれる場所であることには違いはないようだった。義之とさくらもこの場所なら落ち着いて食事が摂れると思って来たのだから。
 しかし、生憎とお花見で使うようなレジャーシートのようなものは持ってきていない。手持ちは財布とお弁当と水筒とあと買ったばかりの一輪挿しが入ったリュックだけの軽装だ。ならばベンチで食事を摂るしかないわけで、義之は公園に視線を走らせ、あいているベンチを探した。さくらもまた同じことをしていたようで、義之より先に「あそこにしようよ」と公園の一角を示した。碧い瞳が見つめるのは誰も座っていないベンチが一つ。異論があるわけもなく、義之は頷くとさくらと二人してそのベンチに移動した。
 そうして二人してベンチに腰掛けると、さくらはリュックの中に入っていた風呂敷包みを開き、中にあったお弁当箱のフタを意気揚々と開く。

「じゃんじゃじゃ〜ん!」

 楽しげなさくらの声が響き、義之はお弁当箱の中身に視線を吸い寄せられた。
 まずはじめに目についたのはメインディッシュであろう鶏の唐揚げだ。こんがりと揚げられた鶏肉が食欲をそそる褐色の色合いを放っている。その唐揚げを包み込むようにカットされたレタスとトマトの緑と赤の色合いが目にうるおいをもたらし、少し離れたスペースにはさつまいもとレンコンの煮物に加え、星形に切られた人参。卵焼きとタコさんウインナーが綺麗に並べられている。デザートとしてはウサギを模した形にカットされたリンゴがあり、最後におにぎりの群れを見て、義之はこのお弁当箱の観賞を終えた。「おお……」と意識せず声がもれた。気合を入れて作ったというだけあり、見事な出来だった。彩り豊か、綺麗に盛りつけられた料理の数々は見ているだけで食欲をそそられる。「流石ですね、さくらさん」と言えば「えへへ……」と照れ笑いが返ってくる。

「どれもすごく美味しそうです」
「そう? それならよかった」

 さくらは安堵したようにそう言うとお弁当箱二人の間に置き、お箸を一膳取り出した。このお弁当箱のサイズと中に詰められた料理の多さからおそらくは一人用ではなく二人で食べるものだろう。そう思い義之は自分の分のお箸をさくらが取り出してくれるのを待った。……が。

「それじゃあ、食べようか。いっただきま――」
「え?」

 さくらの言葉を義之の驚愕の声が遮る。当たり前だ。これから食事をしようとしているのにさくらは一膳しかお箸を取り出していない。まさか自分にはお箸なしで食べろとでも言うのか……? 義之が困惑していると、さくらはキョトンとした目を義之に向けてくる。どうしたの? とでも言うように。「あの……さくらさん……」と義之は声を絞り出した。「俺の分のお箸は?」と聞くと、間髪入れず、

「ないよ」

 さくらはそう言った。へ? と声がもれる。自分でも相当間抜けな顔をしているんだろうな、と思いつつ義之は現状への困惑の声を続けた。

「ないって……どういうことですか?」
「言葉通りの意味だよ。義之くんの分のお箸は持ってきてないんだ」

 さくらは笑顔で、そんなことを言う。さくらの意図がわからず義之はますます困惑した。そんな義之に対し、さくらは笑顔のまま、楽しげに「だって必要ないでしょ?」と言うと、手に持つお箸を使って唐揚げの一つをつかみ取り、それを義之の眼前に差し出す。まさか、と思った。そして、義之が感じた嫌な予感は的中した。

「はい、義之くん。あ〜ん♪」
「…………」
「あ〜ん?」

 さくらの笑顔が困惑の色を帯びる。しかし、困惑するのは義之の方も同じだった。どうして食べないの? とでも問うように碧い瞳が義之を見る。「いや、流石にそれは……」と義之はしどろもどろの声を出した。

「……普通に食べましょうよ」

 そう言うのが精一杯だった。が、さくらはその言葉に露骨に不満そうな顔をすると、

「え〜、なんで〜? 恋人同士なんだからこれくらいのことは当然でしょ?」
「いや……いくら恋人同士といいましてもね……」
「む〜」

 さくらは不満そうに頬をふくらませる。

「SSPの時は義之くんがボクに食べさせてくれたでしょ? だから、これはそのお返しだよ」
「いや、別にお返しとかいりませんよ……」
「え〜、いいじゃん、別に」

 さくらの不満はおさまる気配がない。義之がどう説得したものか、と考えているとさくらは不満そうな顔から一転、悲しげな顔を見せた。

「義之くんはイヤ? ボクにあ〜んしてもらうの?」

 う……、と義之は言葉に詰まった。碧い瞳が悲しげに、泣き出しそうな色をたたえてこちらを見ている。そんな目で見られるとなんだか、自分が凄く悪いことをしているような気がしてくる。意識せず「……嫌じゃないですよ」と声に出していた。さくらの碧い瞳がうかがうように義之を見、「ホントに?」と言葉を発する。

「……むしろ嬉しいです」

 そう。嫌じゃない、と言った言葉は嘘ではない。望んでいなかったと言えば嘘になる恋人同士の甘いひととき。どちらかと言えばそれはむしろ嬉しい。ただ物凄く恥ずかしい、というだけで。
 義之の言葉にさくらは表情を輝かせ「そっか」と笑った。

「じゃあ、気を取り直して……」

 再び箸でつかんだ唐揚げを義之の前に差し出してくる。羞恥心を抑える意味も込めて義之は「いただきます」と呟いた。

「あ〜ん♪」

 さくらの楽しげな声。それにあわせて義之が口を大きく開くと、すかさずさくらの箸がそこに差し込まれ、はさんでいた唐揚げが入ってくる。それをもぐもぐ、と咀嚼すると揚げられた衣の感触、そしてその中に包まれた鶏肉のジューシーな味わいが口内に広がった。

「……美味い」

 咀嚼していた鶏肉を嚥下し、義之は呟いた。その一言にさくらの表情がパーッと明るくなる。

「ホントホント? 美味しかった?」

 心底嬉しい、というようなさくらの態度に義之は「ええ。すごく」と返す。この唐揚げ、ただ単に鶏肉を揚げただけではあるまい。何か下味を付けてからのはずだ。自らも料理に携わる者として義之はそう推測した。何を下味にしたのかまではわからないが、手が込んでいる。気合を入れて作ったという言葉に嘘はないようだ。
 なんにせよ、この唐揚げは美味い。であればもっと食べたい、という欲求が胸から湧き上がってくるのは必然だった。

「もう一つください」
「うん♪ オッケー、オッケー! いっぱい作ったからね。じゃんじゃん食べてよ♪」

 さくらはノリノリでお箸を動かすともう一つ唐揚げを取り、義之の眼前に差し出す。羞恥から再びためらいはしたものの、こうなりゃヤケだ、と義之はさくらの「あ〜ん♪」という声にあわせ口を開いた。
 二つ目の唐揚げも一つ目同様、とても美味しかった。「美味しい?」と訊ねられ「はい」と頷く。さくらは義之のそんな反応に満足気に笑顔を見せた。

「次はさつまいもにしようか。これも、すっごく美味しいと思うよ♪」

 自分の食事などそっちのけでさくらは楽しげに次に義之が食べるものを差し出してくる。その度にさくらは「あ〜ん♪」と言い、その度に義之は若干の羞恥心を抱きつつも言われるがままに口を開き、差し出されたものを食べる。その繰り返し。正直言って恥ずかしかった。だけど、自分に食事を差し出してくるさくらさんはずっと満面の笑みを浮かべていて、こんな笑顔が見られるなら多少の恥ずかしさはいいか、と思えてしまう自分がいた。最愛の人に『あーん』をしてもらってるという現状にもまたそこまで嫌な気分はせず、むしろそれにどこか心地よさを覚えている自分に気づく。とんだ、バカップルだ、と自嘲めいた思いにかられつつも胸から湧き上がる幸福感によってそれを拒むことはなく、――――結局、二人用に作られたはずのお弁当箱の中身のほとんどは義之の腹の中におさまることになった。



 義之にとっては嬉しいやら、恥ずかしいやらのお弁当タイムは終わり、義之とさくらは二人してベンチに腰掛けていた。くてっ、とさくらが義之の肩にもたれかかり、体を預けてくるのを義之は自然に受け止める。昼下がりの桜公園。チラホラと人の姿は見られるものの、そこに喧騒はなく、静謐な時間がゆったりと流れる。二人の間に会話はなかったが、それは嫌な沈黙ではなく、気分の良い穏やかな空白期間だった。こうしてから、どれだけの時間が経っただろう? そんなことを義之は思った時だった、「義之くん」とさくらが義之に体重を預けたまま、視線は正面に向けたまま口を開いたのは。その声音から先ほどまでのデート中の浮かれた雰囲気はなく、重く、真剣な響きを感じ取った義之は「なんですか?」と視線は正面に据えたまま、さくらの方は見ずに会話の先を促す。

「ボク、最初は君に恋愛感情なんて持ってなかった」

 それは衝撃の告白と言えば、そうなのだろう。一世一代の大告白をして、受け入れられて、恋人の関係になって、今の今までデートをして、今この瞬間も幸福の時間を共有している相手が言う言葉にしては。
 しかし、義之はその告白に当惑することはなく、自然と受け入れていた。さくらの方に顔を向けようとすら思わなかった。言葉が胸の中にすみやかにおさまるのを感じる。むしろ、それで当然だろう、という思いすらあった。義之が沈黙を返事にするとさくらは訥々と先の言葉を紡ぐ。

「勿論、愛してはいたよ。ボクにとって義之くんは自分の子供同然……ううん、ホントの子供だからね。誰よりも愛していた。それだけは自信を持って言える。でも……それは恋愛感情じゃなかった」

 そうだろうな、と思った。あの冬の日、『枯れない桜』の下でさくらと出会ってからの日々を義之はおぼろげに思い返す。この人から注がれる愛情はとても深いもので、自分はこの人に愛されている、という実感を子供心でも理解しながら育った。勿論、自分に愛をそそいでくれたのはさくらさん一人ではなかったが、その中でもこの人の愛情は人一倍大きいものだった、と思う。
 しかし、それは女が男に向ける愛情とは異なる、親が子に向ける愛情だ。恋愛感情との間には決定的な境界線が生じている。それを義之は理解していた。だから、このさくらの告白にも驚くことはなかった。視線は正面に据えたまま、桜公園の枯れた桜の木々を見ながら、やはり沈黙を返事にし、さくらの次の言葉を促す。「……でもね」とさくらは声を発した。

「君が成長するにつれて、だんだん君から目を離せなくなってきた。君がボクを見てくれることを嬉しいと感じるようになってきた。そして……決め手は君と一緒にクリパを回ったこと……かな。それまでも君のことを意識はしていたけどあれをきっかけに君のことを異性としてより強く意識するようになったんだ」

 さくらさんも、か、と義之は思った。自分もそうだ。クリパをさくらさんと一緒に回ったのをきっかけにさくらさんのことを異性として強く意識するようになった。この胸の中に彼女への恋愛感情が芽生えた。そんなことを考える義之に構わずさくらは続ける。

「――好きになっちゃったんだ、君のことを」

 その言葉は奇妙に強い勢いをもって義之の耳朶を打った。好きになった、ではなく、なっちゃった。微妙な言い回しの違いだが、その言い回しには覚えがある。自分も、そうだ。自分もさくらさんへの恋心を初めて自覚した時、そう思った。好きになってしまった、と。
 義之とさくらの選んだ言葉は若干の違いはあれど同じニュアンスを含んでいる。なってしまった、すなわち、普通ならばなってはならないという戒めを込めた言葉。「さくらさん」と義之は呟き彼女の方を見る。義之の視線を碧い瞳は真っ直ぐに受け止めてくれた。「おかしいよね」とさくらは苦笑する。

「ボク、お母さんなのに。お母さんなのに、子供のことを好きになっちゃったんだ。親子の愛じゃない、恋愛感情を抱くようになっちゃったんだ……。でも、それはいけないこと。ボクと義之くんは親子だし、ボクは自分の私利私欲のために『枯れない桜』を咲かせたという罪を背負っている。間違っても義之くんの恋人になんてなれる人間じゃない。……そう思って、この想いは封印してきたんだ」

 恋心を自覚しながらも互いの関係を考え、その想いを封印する。それは義之にも覚えのあることだ。さくらへの恋心を自覚したあの補修合宿の夜。義之はまずこの想いは成就するものではない。自分の心の中に封印しないといけないものだと思った。
 でも、それは間違いだ。アイシアの助言と後押しがそのことを義之に気づかせてくれた。たとえ相手が家族であろうとも、母親のような人であろうとも、好きになってしまったのなら、その想いは封印するべきではない。その想いは開放しても、なんら恥じるべきものではない、と。

「……そうやって胸の中に君への想いは封じ込めていたんだけどね。そしたら、君の方からボクに告白してくるんだもの。あの時はびっくりしたよ」

 心底驚いた、と言うようにさくらは苦笑する。びっくりした、か。まぁ、当然だろう。好きになってしまった相手。本来、好きになってはならなかった相手。好きだけどその想いを打ち明けないでおこうと決めていた相手からいきなり「好きです」と言われたのだから。なんのために自分は苦悩して恋心を封印していたんだ、という気分になって理不尽さすら覚えたのかもしれない。

「……でも、さくらさんは俺の告白を受け入れてくれましたよね?」

 義之は言う。そうだ。さくらさんは俺の告白に驚きつつも、そして、自分にはそんな資格はない、と言いながらも最終的には告白を受け入れてくれた。だからこそ、今日こうして一緒にデートをしているわけなのだから。

「それもそうなんだけどね……」

 さくらは困ったような表情を浮かべると「実は……」と気まずそうに切り出した。

「……今でもちょっと悩んでる。あの時は君の告白を受け入れたけど、本当にボクなんかが義之くんの恋人になっていいのかな? ボクなんかが君を愛する資格はあるのかな?」

 それは問いかけているようでいて、自分自身を責める言葉だった。自分に義之の恋人になる資格はない、とそう語っていた。それを義之は悲しげに染められた碧い瞳から読み取った。不安と自責の念に揺られ、まるで触れれば壊れてしまいそうなくらいに繊細で、はかなさを秘めた表情。その表情を見ているだけで悲痛な気分になる。だけど、

「人が人を愛するのに、資格なんていらないんですよ」

 自然と、義之は口に出していた。ハッとさくらが碧い瞳を見開く。碧い瞳に真っ向から見据えられ、一瞬、物怖じするも、この想いの吐露は止めるべきではない、という思いから義之は言葉を続けた。

「好き――――ただそれだけでいいんです。その感情は誰にも否定出来ない、尊いものなんですから」

 言い切ってしまってから、ああ、そうだ、と自分の言葉に納得する。好き。その感情は絶対のものだ。誰にだって否定できやしない。その感情の前には相手が家族であろうと、母親であろうと、自分が罪を抱いていようと関係ない。その感情は決して恥じるべきではない、むしろ、誇っていいものなんだから。

「俺はさくらさんのことが好きだし、さくらさんも俺のことが好き……そうでしょう?」
「……うん。ボクは君のことが好きだよ」

 義之の問いにさくらは悲しげな表情を引っ込めて、毅然として返す。その言葉、感情に嘘はない、と言うように。「なら」と義之は笑った。

「それでいいんです。誰に遠慮することもないし、恥じることもないし、悩むこともないんです」
「そっか……そうだよね」

 義之の言葉にさくらもまた笑みを浮かべた。「好きだよ、義之くん」と言葉を重ねられれば義之の胸中にもあたたかいものがあふれる。ああ、自分たちは決して間違っていないんだ、という確信が胸の中に芽生え、目の前の人をひたすらに愛おしいと思う。「さくらさん……」と義之もまた彼女の名を呼んでいた。二人の間にあたたかい空気が生じる。それは1月中旬の寒さを吹き飛ばす勢いで二人をあたため、何よりも心地よい感触を二人に与える。甘酸っぱくてこそばゆい。家族の間柄では出せない。愛する男女だけが生じさせることのできる空気、恋人同士の時間と空間。その感覚を全身で堪能する。この世界から自分たち二人以外の人間が消え去ってしまったのかとさえ錯覚する、二人だけの時間。その熱はただひたすらに嬉しくて、愛おしくて、尊くて。眼前の少女から目を離せないでいる自分に義之は遅れて気づく。俺、この人が好きだ。当たり前のことを今更ながら再確認する。眼前の少女が持つ絹糸のような金の髪、宝玉のような碧い瞳が引力を放ち、義之の視線を吸い寄せて離さない。口元にたたえられている微笑みもまた引力の一つであった。少しだけ照れくさそうに頬を微かに朱色に染めながらも、自分を直視する視線を咎めることなく、受け入れてくれる。彼女の方もまた義之の方を直視し、引っ張って離さない引力の虜になっている。互いに言葉はなく、目だけで会話をする。この二人だけの空間を堪能する。そうして、どれくらいの時間、二人して、見つめ合っていただろう。それからの行為は必然だった。さくらのまぶたが閉じられる。そして何かを求めるように顎を、否、唇を微かに上に向ける。義之はゆっくりとその唇に自分の唇を重ねた。

「んっ……」

 さくらの声が漏れる。あの告白の夜以来の、通算二度目の口付け。さくらの唇は柔らかく、あたたかかった。その感触を義之は自分の唇で味わう。際立って特別なことをしているわけではない。恋人同士の、恋人同士なら、ありふれた行為。だけどその行為は、義之にこれ以上ないくらいの幸福感を与えてくれた。幸せだ、と思う。この人と一緒にいるとこんなにもあたたかい気持ちになれる、幸せを実感できる。やっぱり自分にとってさくらさんは特別な人だ。その『特別』の意味は以前と今では少し異なっているけれど。
 名残惜しさを感じつつも義之は自分の唇をさくらの唇から離した。さくらは嬉しげな笑顔を浮かべて「ちゅー、っていいね」と呟く。

「唇を通してお互いの存在を実感できる。お互いの愛を確認できる。誰が最初に思いついたのかはしらないけど、すっごい発明だよ♪」

 義之は「そうですね」と頷いた。

「キスしてる間、すごく幸せな気分になれました」
「ボクもだよ。義之くんの存在を何よりも強く感じることができた。愛する人の想いを直に感じることができた」

 そう言ってさくらは自分の唇に指を当てた。そこに残る義之の唇の感触を思い起こすように、堪能するように。そんなさくらの表情から恍惚の色を読み取り、義之は赤面する思いにかられた。さくらは悪戯っぽい笑みを浮かべると、「ねえ」と声をかけてくる。

「もう一回しようよ! ちゅー♪」

 期待に満ちた碧い眼差しに見られ「え……」と困惑の声が漏れる。

「いや、さっきしたばかりじゃないですか」
「だ〜か〜ら、もう一回だってば。一回も二回も同じでしょ?」

 オモチャをねだる子供のように、上目遣いでさくらは言う。義之は辟易しつつも、「仕方ありませんね……」と呟いた。「にゃは」とさくらは笑うと、まぶたを閉じ、唇をすぼめる。
 そんなさくらの唇に義之は再び自分の唇を重ねる。再び唇で感じ取るやわらかであたたかい感触。幸せの感触。唇を介してさくらさんの想いが自分の中に入ってくるような感覚を抱く。幸福の感情の交換、そして、共有。幸せの儀式。それを唇で存分に堪能し、義之は自分の唇を離した。さくらがまぶたを開き、碧い瞳で見つめてくる。どことなく名残惜しそうに、艷やかで悪戯っぽい笑みをたたえて。

「にゃはは……やっぱり……ちゅー、っていいね」
「……ですね」

 若干の羞恥を感じつつも義之は頷く。キス。それは男女の仲を深め、そして、確認する伝統の作法。ただ、唇と唇を重ねる。それだけのことなのに、こんなにもあたたかい気持ちになれる。相手の、愛する人の存在を何よりも身近に感じ取ることができる。こんなにも簡単にできて、こんなにも素晴らしい儀式は他にないだろう。
 微笑むさくらの表情からその幼げな容姿に不釣合いな扇情的な色気、艶やかさを感じ取り、義之は若干、どきまぎした気持ちになる。しかし、平静を装い「さくらさん」と口を開いた。

「今でも、悩んでますか? その、俺と、そういう関係になってることについて……」

 義之の言葉にさくらはキス直後の微笑みをポカンとした表情に変えたものの、その後にあったのは笑顔だった。

「……ううん。義之くんの言葉やさっきのちゅーで吹っ切れた……かな」

 それは、幸せを噛み締める微笑みだった。頬をほんのり朱色に染めてさくらは言葉を紡ぐ。

「改めてよろしくね、義之くん。不束者ですが、君の恋人をやってもいいですか?」
「頼むのはむしろ俺の方ですよ。甲斐性なしですが、さくらさんの恋人をやってもいいですか?」

 それはあまりにも珍妙なやりとりだった。既に恋人の関係にあるというのに付き合う前ではなく、後になってから自分が恋人でいいですか? ……なんて確認するなんて。そのあまりの珍妙さにどちらともなく吹き出し、笑いがこぼれる。

「あはは、おかしいですね、俺たち」
「にゃは、ホントにね♪」

 そうして笑い合う。なんとも滑稽で、それでいて自分たちらしいやりとり。さくらの笑顔はこの場面にあっても義之に安心感と幸福感を与えてくれた。この人のそばにいたい。この人と同じ道をずっと歩いていたい。そんな感情が胸中から湧き上がってくることを義之は感じた。
 手を差し出す。そうすると自然とさくらさんはその手を取った。手と手を繋ぐ。お互いのぬくもりを感じ合う。それが、今の自分とさくらさんの関係。
 手を取り合ったまま義之とさくらはベンチから立ち上がる。「次はどこに行きましょうか?」と義之は笑いかけていた。

「どこでもいいよ。どんな場所でも君と一緒なら、何をしても、きっとすごく楽しいと思うから」

 さくらは笑顔でそう答える。その笑みは昼下がりの陽光を浴びて、無垢な期待感に満ちた端正な顔たちがくっきりと浮かび上がり、義之の胸に一つ、大きな脈を打たせる。
 ――――やっぱり、この人には笑顔が似合っている。
 その確信を胸に抱き、義之はさて、次はどこへ行こうかと考えをめぐらせるのであった。





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