1月17日(月)「消えゆく存在」






 目覚めた時に寝ぼけて今、自分のいる場所が夢か現実かわからなくなることはよくある。それは単純に眠りが深かっただけの自然な出来事だ。夢見心地、という単語があるように人間は大なり小なり目覚めた時に夢を引きずっているものだし、例外はあれど元々朝一番の目覚めの瞬間というのは意識のはっきりとしない混濁とした時間である。目が覚めた、という実感がないというのは一般的にありえることだろう。しかし、今、義之を襲った感触はそういう一般的なものとは明らかに異なるものだった。
 自分がここに存在している、という認識が、ない。
 目は、覚めている。意識はしっかりと覚醒している。自分の体を受け止めるベッドのシーツの感触も、被っている毛布の感触も、全て感じ取れている。それでも、自分の体がこの場所に存在していないような、そんな感覚が全身を痺れさせる。いや、全身という表現すら適切ではない。五体の感覚が、四肢の感覚が、はっきりとしない。さらには何か、それらよりも重要な何かが、致命的な何かが欠落しているように思える。自分という存在をこの世界に繋ぎ止めている楔のようなもの。それを失ってしまったかのような宙ぶらりんな感覚。自分の体なのに実体がないような不可思議な感触。もしかして、今の自分は世界にいるという夢を見ているだけで、本当の自分はとっくにこの世界から消えてしまっているのではないだろうか……? そう考えるとふわりとした浮遊感。それに囚われ、世界から意識を隔絶しようとして、

「――――ッ!」

 ガバッと起き上がる。その勢いに被っていた毛布がずり落ちた。

「はぁッ! はぁ……はぁッ!」

 荒い息遣いを整えるのも後回しにして自分の両手を見る。

「はぁッ……はッ、はッ……」

 ――――ある。自分の両手。それはこの世界から消えてなくなったりせずちゃんと自分の体に繋がっている。両手だけではない。一気に明瞭になった意識で五体の感覚を確かめる。腕も足も、頭も全て、ある。何一つとして欠けることなく、この世界に存在している。

「はぁッ……は〜……」

 安堵の息が思わず出る。息遣いも徐々に平常のものに戻ってくる。大丈夫だ。俺はまだ、ここに存在している。そう自分に言い聞かせる。ふぅ、と一息。

「…………」

 今の感触は何だったんだ、と思う。夢? 幻? 寝ぼけていた? いや、さっきの感触はそんなものではなかった。体が、脳が、本能的に危機を感じ取っている。さっきの瞬間、自分は本当にこの世界から消えかかっていた……!
 右手をジッと見る。この手があるという感触。その感触はたしかにあるものの、どこか稀薄だ。右手だけじゃない。体全体がそうだ。存在はしている。たしかにしている。だが、それはどこか稀薄さを纏った感覚だ。浮遊感にも似た感覚。自分の存在が揺らいでいる、と感じる。自分はここにいる、と意識しているからこそ存在できているが、少しでも気を抜いてしまえば一気にその存在感は薄まる。そのまま消えてなくなってしまいそうになる。ともすれば自分の名前さえ忘れそうになっている自分に気づく。それくらい今の自分はおぼろげだ。
 これが、世界に否定される、ということか。
 さくらさんに言われたことの意味を実感をもって理解する。今の自分は異物なんだ。この世界に存在してはいけないイレギュラーな存在。世界はそんな異物を排除しようと躍起になる。それがついさっきの目覚めの時の感覚であり、今もつきまとう存在の希薄さなのだろう。それは日増しにひどくなっている。『枯れない桜』を枯らしたあの夜から時間が経つにつれてどんどん自分の存在が薄くなっているのを感じる。このままこの状態が進めばいずれは……、

「……いや、俺は消えない」

 不吉な想像を首を振って否定する。俺は、消えない。たしかに『枯れない桜』を枯らして魔法の力を失って自分の存在はひどく不安定なものになった。それはたしかだ。だが、それでも尚、自分が消滅せず――不安定ながらも――存在できているのは魔法の力と並ぶ自分の存在を支える二本柱のもう片方、想いの力があるからだ。その力が今の自分をこの世界に繋ぎ止めている。さくらさんを始め、音姉と由夢の朝倉姉妹、小恋、杏、茜の雪月花三人組、渉、杉並の悪友連中……。みんなが俺のことを想ってくれているから俺はまだこの世界に存在できている。その事実に感謝を抱く。そして何よりも強く俺のことを想ってくれている人――――さくらさん。さくらさんは俺のことを忘れたりしない、俺のことを信じ続けてくれる。世界の全てに否定されても彼女なら自分の存在を信じ続けてくれる。だから、俺は消えたりなんかしない。
 そう思うと少しは気楽になった胸中をたしかめ、先程よりは強く感じる自分の存在感に満足し、義之は着替えるためにベッドから起き上がった。今日は月曜日。学校が始まる週の始めだ。



 生憎と本日はさくらはもう仕事に出た後のようだった。朝の時間を最愛の恋人と共に過ごすことができなかったことを義之は多少残念に思いつつも顔を洗い、一人用の朝食を作り、朝食を済ませた頃には家を出るにはちょうどいい時間になっていた。早すぎず、それでいて、遅刻とも程遠い時間。義之は準備を整えると――といっても教科書類をクラスの机に預けた軽い鞄を手にするだけだが――芳乃邸の玄関を出た。そこでパタリと朝倉邸から出たばかりの由夢と鉢合わせをした。義之にとって学園に行くのにちょうどいい時間ということは当然、同じ学園に通う由夢にとってもちょうどいい時間ということで、タイミングがいいな、とは思いつつも別段、驚くことはなく、せっかくだし二人一緒に登校するか、音姉がいないのは生徒会の仕事か何かで先に出ている――まさかあの姉が由夢より遅くに家を出ることはあるまい――のだろうなどと考えながら、「おはよっ、由夢」と気楽な調子で義之は声をかけた。
 おはようございます。兄さんがこんな早くに家を出るなんて珍しいですね……なんて少し捻くれた挨拶が返ってくるのだろう、と義之は少し身構えたが、由夢の反応は予想とは大きく異なるものだった。

「――あっ、えと……」

 困惑した声。見ればその目も戸惑いに揺れていて、義之は一体どうしたのだろう、と思う。自分が由夢に話しかけてこんな反応をされたことはこれまでなかった。その様子をよくよく見れば、何故、自分が話しかけられているのかさっぱりわからない、といった様子で戸惑いを超えて警戒心すら見え隠れする。それはまるで、

 ―――まるで見ず知らずの他人に声をかけられたかのような反応で。

 ざわり、と寒いものが義之の背筋を走った。

 ――――どれだけ君と親しい人であっても君の記憶や君への想いも消えていく。

 あの告白の夜のさくらの言葉が脳裏に蘇り、愕然とする。まさか、忘れてしまったのか? 俺のことを? 由夢が? そんな、まさか――、

「あっ、兄さん……!」

 喉元まで出かかった不安が全身を循環する前に由夢のその声が耳朶を打ち、不安に代わり安堵の感情が全身に行き渡るのを義之は感じた。兄さん。由夢はたしかにそう呼んだ。自分を見て、自分のことを。見れば由夢の態度から不審がる様子は消えてその目と声からは戸惑いは消え、親しい人間、家族を見る目と家族に向ける声に変わっていた。

「兄さん、兄さんだよね?」

 安堵するような声。最も、安堵したのは義之も同じだったが。「当たり前だ」と義之は答えた。

「俺以外の誰に見える。正真正銘、桜内義之様だ」

 フッと、作り笑いをし、わざとおどけてみせる。由夢は義之の存在を確認するように「うん……うんっ」と何度も何度も義之の顔を見た。ひとしきり安心し終えたのか由夢は自然な表情になり、しかし、それが一転、考えこむような表情に変わる。

「変だよね……兄さんに間違いないのに、なんだか最初、兄さんのことが知らない人のように見えたんだ」

 いぶかしむような言葉。由夢は自分で自分のことをいぶかしんでいた。知らない人のように見えた。その言葉が義之の胸を射抜く。家族同然の仲、妹といっていい存在の彼女が自分のことを忘れる。やはり、『枯れない桜』がなくなった影響としか考えられなかった。

「………………」

 思わず言葉に詰まる。事前に知らされていたこととは言え、想定していた時と実際にその場面を――自分のことを他人が忘れてしまう場面を目にするのでは胸に響く衝撃の度合いが違う。みんなが自分のことを忘れていく。幼い頃から一緒に育った由夢でさえ最初は義之のことを完全に忘却していたのだ。この分だと他の知り合い連中は……。由夢も今は自分のことを思い出すことができているがいずれは自分のことを思い出すこともなくなり完全な『他人』になってしまうのでは……。そう考えるとひたすら恐怖感が義之の全身をつたい、支配した。忘れられる。そのことが、とにかく怖い。
 いきなり黙りこんだ義之を不審に思ったのか由夢が「兄さん?」と問いかけてくる。咄嗟に義之は「なんでもない」と応じた。しかし、それで納得できなかったのか由夢は「本当?」と続け、いぶかしむように義之を見る。

「顔色悪いよ? 何か気がかりなことでもあるんじゃない?」
「愛する妹に知らない人だと思われちまったからな。傷心気味なんだ」

 冗談めかして答えるが半分は本心だった。由夢はからかわれていると思ったのか、不快そうな顔を一瞬覗かせ、語気を荒げる。

「そ、そんなこと言われてもっ! 本当に変なんだよ、わたしが兄さんのことを忘れるなんてあるはずがないのに、何故か最初は知らない人に思えちゃったの! 自分でも自分がよくわからないんだよ!」

 声が段々と涙声になっていく。本当に訳が分からない! 由夢の声はそう訴えていた。心なしか薄っすらと目尻に涙を浮かべた妹を見、義之はポンとその頭の上に手を置いてやった。「兄……さん……?」と由夢が呟く。

「大丈夫。由夢は何もおかしくなんかないんだ。気にすることはない」

 まるで幼子を安心させるように。穏やかな声で義之は言う。

「本当? ……でもわたし、兄さんのことを忘れて……」
「でも、今は思い出してるだろ?」
「そ、それは……そうだけど……」

 腑に落ちない、といった様子の由夢に義之は笑いかける。

「そういうこともたまにはあるさ。何も変なことはない。ほら、見慣れた漢字をおかしく感じることってあるだろ。えーっとゲシュペルト崩壊、だっけ?」

 首を傾げ「ゲシュタルト崩壊?」と言った由夢に「ああ、それ、それ」と義之は相槌を打つ。

「そんなようなもんだろ。まぁ、何にせよ気にするな。そんな大事じゃないんだ」

 義之の言葉にもやはり由夢は納得しがたい様子だったが、しばらくの沈黙の末、「……うん」と頷いてくれた。「んじゃ、せっかくだし一緒に学園に行くか」と義之が言えばようやく笑顔に戻った由夢が「そうだね」と頷く。

「…………」

 由夢と並んで歩き出しながら、しかし、義之は考えこむ。今は由夢を安心させるため、あんなことを言って気楽に振る舞ってみせたものの『枯れない桜』を枯らした影響、魔法の力がなくなった影響。それが、こんなにも身近に、こんなにも早く現れるとは。最初の由夢の目。『他人』を見る由夢の目を思い返せば不安が胸の中で踊る。そこにこれまで当たり前にあった親愛の情はなく、ただ見知らぬ人間への戸惑いと警戒心だけを秘めた瞳。これから先、学園で友人たちにあんな目を向けられるのかと思うと、義之は肌が粟立つような恐怖を覚えるのだった。



 風見学園の敷地内には桜公園や桜並木に負けず劣らず所狭しと桜の木々が立ち並んでいる。少し前――あの告白の夜――まではその木々には美しい薄紅色の花々が咲き誇り、その光景を毎朝の登校の度に目の保養にするのが学園の生徒達のいつもの一日の始まりだったのだが、その桜の木々からは今となっては薄紅色の花々は消え、もの寂しい枝木だけがその姿を晒していた。
 『枯れない桜』を枯らしてから、この島から薄紅色の花々を奪ってから数日。いい加減、見慣れたといえばそうなのだが、それでも、やはり寂しい気分にさせられる。そして、今、登校してきた義之を陰鬱な気分にさせるのはそれだけではなかった。

(何人、俺のこと、覚えてるかな……)

 そんなことを思う。風見学園の正門をくぐった義之の脳裏には親しい友人たちから顔と名前を知っている程度のクラスメイトたちまで様々な顔が思い浮かぶ。彼らは、彼女たちは、一体、何人が『桜内義之』という存在を覚えているのか。世界の否定にすら抗い、何人の人間の脳裏に『桜内義之』の記憶は残っているのか。世界から否定されたイレギュラーである我が身を思えば自然と陰鬱な気分にもなる。隣を歩く由夢の顔を覗き見る。幼い頃から一緒で家族同然に育った彼女でさえ、最初は義之のことを忘れてしまっていたのだ。ならばそれより付き合いの浅い学園の連中はどうなるか。ちょっと冷静になって考えれば、浮かび上がるのは残酷な予測だけだ。学園の連中で由夢に並ぶ長い付き合いがある奴なんて……小恋くらいだ。学園で特に親しい杏や茜、渉や杉並でさえ、この学園に入学してからの付き合いなのだから。
 ――それでも、信じたい。
 しかし、そんな状況にあっても義之の胸の中には不安と同じくらいの期待もまた確実に存在していた。由夢同様、最初は忘れているかもしれない。最初は『桜内義之』という存在を忘却しているかもしれない。それでも顔をあわせれば、顔をあわせてみれば由夢のように『桜内義之』のことを思い出してくれてこれまでのように、いつものように自然に接してくれると、信じたい。世界の否定にすら抗ってくれると、信じたい。こんなことを思うのは勝手なことだろうか……?
 昇降口のところで由夢と別れ、義之は自らの教室を目指す。重い足取りを自覚しながら廊下を歩いていると前には見知った後ろ姿が見えた。渉だ。

「…………」

 普段なら気楽に声をかけるところだが、今となってはそれは躊躇われた。果たして、彼は自分のことを覚えているのか……。少し逡巡した後、義之は「おはよう」と見慣れた後ろ姿に声をかけた。「ん?」と声をもらし、渉が振り返る。そこに浮かんでいるのは相変わらずの人懐っこい笑み。親しみやすさがあふれた顔たちに、全く、黙っていれば二枚目なんだから彼女の一人や二人すぐに作れるだろうに、などと、今の状況とは関係ないことを思う。渉は気安い笑みを浮かべたまま「おう、おはよう」と挨拶を返してくれた。
 気安い笑みに、安堵する。渉は覚えていてくれた。俺のことを、『桜内義之』を覚えていてくれた……!
 安堵と歓喜が胸の中で踊るのを感じながら、義之は渉の隣に並ぶ。渉はそれを咎めることもなく、「男二人が並んで歩くなんて趣味じゃねえんだけどな」などと軽口を叩く。「そう言うなよ」と義之も軽口を返す。しかし、その安堵も教室に着くまでだった。付属3年3組の教室の前に着き、その扉をくぐろうとした義之を渉は不審そうな目で見た。

「あれ……? お前って俺と同じクラス?」

 渉はポカンと目と口を開き、そう言う。言葉に他意はなく、本当に疑問に思ったから訊いた、というのが読み取れた。「何言ってんだ。当たり前だろ」と義之は返しながらもざわり、と寒気が背中を撫でる。

「そうか、そうか! 悪ぃ、悪ぃ。これでもクラスメイト全員の顔と名前は覚えるようにしてるんだけどなぁ」

 なんの悪意もなく、渉はそう言って笑った。

「………………」

 落胆に思わず言葉を失う。渉は『桜内義之』のことを覚えていたわけではなかった。渉にとって今の自分は名前も知らない同じ学園の一生徒で、気安い表情や軽い会話はただ単に渉が初対面の相手とも人見知りせず軽快な会話ができるコミュニケーション能力を持っているというだけのことだったのだ。自分のことを覚えていてくれた、と喜んだ分、落胆も大きかった。渉は自分のことを友人どころかクラスメイトとしても認識してはくれていなかった。『桜内義之』のことを完全に忘却していたのだ。
 傍目に見ても義之は落ち込んで見えたのか渉は「おいおい」と慌てたように声を出す。

「んなに気ぃ落とすなって。そりゃ、同じクラスなのに覚えてなかったのは俺が悪かったけどよぉ」
「……ああ、いや、そういうわけじゃないんだ。気にしないでくれ」
「そうか? それなら、いいんだけどよ……」

 どことなくバツが悪そうに渉は呟く。しかし、すぐ後にはいつもの笑顔に戻っていた。

「……まぁ、いいや。んで、お前、名前なんていうんだ?」

 他意も悪意もない声と表情だった。ただ単に初対面の相手に名前を訊く。それだけの、当たり前のことを渉はしているだけだった。そんな渉の態度を前に完全に忘れ去られしまっているという実感が遅れてやってきて義之の胸をえぐった。ショックを堪えながらも「桜内義之だ」と名乗ると、渉は「桜内義之……」と眉をしかめた。

「……なんか、えらく聞き覚えがあるってか、馴染み深く感じる名前だな」

 そうして、不思議そうに呟く。ハッと義之は顔を上げて渉の顔を見た。渉は自分のことを覚えていない。しかし、完全に忘れ去ったわけではないのか? 無意識レベルではまだ自分のことを覚えているのか? そんな義之の期待を裏付けるように渉は、

「今日初めて知り合ったはずなのになんだかずっと前から付き合いがあるような気がするぜ」

 そう言って「変だよな」と笑った。そんな渉を前に義之は感激が身を打つことを感じた。やはり渉は覚えている。無意識レベルでの話だが自分と友人だったということを完全に忘れ去ったわけではなかった……! 義之は歓喜がにじみでた声で「変じゃないさ」と言った。

「俺もお前とは長い付き合いがあるように感じる」
「そうか? ははっ、気が合いそうだな、俺たち」

 心底楽しそうに渉は笑う。最後に「俺は板橋渉、よろしくな」と残すと渉は先に教室に入って行った。その背中を見送りながら、義之は絶望の極寒の中にあった胸の中にあたたかみが宿ることを感じた。想いの力。自分を支える二本柱のうちの一つ。その力は決して簡単に消えてしまうものではない。強く、強く、この世界に根付いている力だ。渉は最初は自分のことを完全に忘れているように見えて、それでも記憶にすら残らないレベルの深層心理ながら、自分のことを覚えていてくれた。この世界で自分が積み重ねてきたこと、やってきたことはたしかな爪痕となり世界に残り、消えるわけではない。そう、信じたい。
 渉が見せた記憶の片鱗、『桜内義之』という存在の片鱗に微かな希望を託しながら、義之もまた教室に入る。
 小恋、杏、茜の三人がかたまって何かを談笑しているのが見えた。どうやら、いつものように小恋いじりを杏と茜が楽しんでいるようだ。義之が自分の席に向かう途中、その隣を横切ると、茜の視線が義之の方を向いた。小恋いじりのついでに自分もダシにされるか、そう身構えたが、

「……でね、小恋ちゃんはもっと大胆になるべきだと思うのです」

 視線が義之を捉えたのは一瞬、すぐに小恋の方にその視線は戻される。完全にスルーされた。意識して無視した、などという生易しいものではない。完全に視界に入っていないかのように、茜は義之の存在を無視した。次いで、杏の視線が義之の方を向くも、

「……そうね。小恋に足りないのは積極性よ」

 やはり無視。道端に落ちてた石ころでも見た程度に視線を軽くそそぎ、すぐに小恋の方へとその視線は戻される。義之のことなど眼中にないように杏もまた義之の存在を無視した。茜にせよ、杏にせよ小恋をからかっているのならその幼馴染である自分をからかいのダシにするなり先日、目撃されたさくらと義之のデートの話題を切り出すなり、いくらでもいじりようがある――否、普段なら絶対に義之というこの場に現れたエサに食い付かないはずがないのに。「あ〜! 義之くん、丁度いいところに〜」なんて言って会話に引きこもうとするに決まっているのに。

「例えばその豊満な胸を強調するファッションとか! そうすれば男子だってきっと小恋ちゃんを放っておかないよ!」
「小恋はエロエロだからね」
「茜〜、杏〜、わたし、そんないやらしい女の子じゃないよ〜!」

 完全に義之の存在を無視して女性陣三人は会話を進める。まるで誰もこの場にはいないかのように。今の自分は杏や茜にとって見知らぬクラスメイトでしかない。その現実が無慈悲に硬質な感触となって胸の中に押し寄せ、泣き出しそうになった。否、クラスメイト――人間として認知されているのかすら怪しい。それくらい自分を見る杏と茜の目はそっけないものだった。由夢や渉は義之のことを捉えて会話をしてくれたが、それは義之の側から話しかけたからだと気付く。こちらから話しかけなければ認知すらされない存在。空気か何かになったかのような気分だった。

「……………」

 世界から否定される。徐々に他人から忘れられて行く。他人の頭の中からその存在が消えていく。あらかじめ、わかっていたことだった。それなり以上には親しいはずの友人から知らない人と認識された事実にショックを受けつつも、義之は早く三人のそばから立ち去ろうという常識が湧いてきた。今の自分は三人にとって見知らぬ他人だ。それがいつまでもそばにいて聞き耳を立てているというのは不審に思われる。最も、不審に思うのも自分のことを人間という存在として認識していてくれればの話だが。

「まぁ、小恋ちゃんには自分の魅力をアピールしたい男の子なんていないしね」
「これだけの色気を持っていながら……勿体無い話ね」

 談笑は続く。さっさと自分の席に向かおうと思った義之は自分にそそがれている視線に気付きそむけたはずの三人の方に顔を向けた。

「あ……」

 視線の主は困ったように声をもらす。小恋だ。ジッと。小恋は義之を見ていた。そうすることで何かが思い出せる。思い出せそうで思い出せない何かがわかる。喉元まで出かかっているんだけど……と言うように。そんな瞳に義之は思わず「小恋……」と声をかけていた。ハッと小恋の目が見開かれる。その驚きや得心を浮かびあげた瞳は声をかけられて、ようやく思い出せた、と語っていた。「義之……」と続いた声に義之は歓喜に打ち震えた。
 思い出して、くれた。覚えていて、くれた。小恋は俺のことを忘れないでいてくれた……!

「小恋……! 俺のこと、覚えているんだな……?」

 歓喜の感情がにじみ出た問いがもれる。小恋は静かに、しかし、確かに頷いた。

「あ、当たり前だよ〜! わたしが義之のこと、忘れるはずないじゃない!」
「そうか……そうなんだな! ありがとう、本当に、ありがとう……!」
「ちょ、ちょっと……義之、どうしちゃったの?」

 歓喜を通り越して涙声にすらなっている義之の声に小恋は困惑の声をもらす。杏と茜に至っては訳が分からないとそんな義之を見ていた。「貴方、小恋の知り合い?」と杏のいつも通り冷静な言葉がかかり、やはり、杏は忘れてしまっているのか、というショックを新たに受けつつも「ああ」と回答することはなんとかできた。

「あれ? 杏も茜も義之と知り合いじゃなかったっけ……?」
「違うわよ」
「違うよ〜」

 そんな杏と茜の様子を不審に思ったのか小恋が疑問の声をもらすも、やはり、二人は義之のことを忘れてしまっているようだった。先日、目撃されたデートのこともこの学園に入学して以来の長い付き合いのことも。渉のように深層心理に残っているかもしれないが、具体的な記憶としてはもう頭の中に存在していないのだろう。学園に入る以前からの付き合いのある幼馴染の小恋と、学園に入ってからの付き合いの杏と茜の違い、だろうか……? などと義之はロクに回転してくれない頭をなんとか回して考える。幼馴染が自分のことを覚えていてくれた喜びと友人が自分のことを忘れ去ってしまった悲しみという両極端な感情に脳裏を揺さぶられながら。

「そうだっけ?」

 杏と茜が義之のことを知らない、ということを小恋は不思議がっていたがそこはやはり世界による否定の力、魔法の力を失ったことによる記憶の消滅、そして、消滅した記憶に適した記憶の書き換えが行われていたのだろう。さしていぶかしむこともなく納得した様子だった。

「じゃあ、いい機会だから紹介しておくね。この人は桜内義之。月島とは所謂、幼馴染の関係かな」
「へ〜、小恋ちゃんの幼馴染なんだ〜。あ、私は花咲茜で〜す。よろしく〜♪」
「雪村杏よ」
「桜内義之です。よろしく」

 そうして義之は茜と杏と『初対面』の挨拶を交わす。その声音に悲しみの色が出ないように必死に堪えながら。茜は義之の頭の先からつま先まで興味深げに観察すると「なんだか初対面の気がしませんな〜」と笑った。「私もね」と杏がそれに続く。

「なにかしら。この胸の奥で蠢くような、大きな衝動……」
「はっ、これはもしかして恋!?」

 杏と茜の言葉はからかいではあったが、そのからかいを心地よく思うと共にやはり、この二人も渉と同じ……という思いにかられる。

「え〜、そんな〜、困るよ〜」

 杏と茜の言葉に小恋が困ったように言う。それを耳ざとく聞き取り杏は「あら、私や茜が義之を好きになってどうして小恋が困るのかしら?」と笑いかける。案の定、「そ……それはっ、えーっと……」と小恋は言葉に詰まった。見ればニヤニヤ笑いの杏と茜。いつもの光景。自分をダシに小恋をからかう杏と茜といういつもの絵面が、そこにはあった。

「そ、そんなことより杏! 義之のこと『義之』って……初対面なのに随分、親しげに呼ぶね」
「あ、話題そらした」
「そらしてないから!」

 茜の指摘に真っ赤になって小恋は首を振る。話題そらしは明白だったが、そこにそれ以上突っ込む者はおらず「それもそうね……」と杏が珍しく不思議そうな顔をする。

「なんだかそれが自然な気がして……不思議ね。やっぱり初対面の気がしないわ。義之とは」
「そうだよね〜。私も義之くんとは初対面だと思えないよ」

 杏と茜はそう言って笑う。やはり、そうだ、と義之は歓喜の確信を得て内心に打ち震えた。渉と同じだ。この二人も表面上では自分のことを忘れていても心の奥底ではどこかで自分のことを覚えている。想いはそう簡単に消えるものじゃないんだ。もっと深く、世界の否定すら跳ね除けて存在するもの。それが、想いの力、というものなんだ……!
 そう純粋に信じることができた。これなら、大丈夫。俺は、消えない。その思いを胸に適当に会話を切り上げ、自分の席に着く。しかし、自分自身の存在を支えていた魔法の力の消失、世界の否定というものの強大さをこの時、義之は甘く推し量っていたことに徐々に気付かされることになるのだった……。





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