1月21日(金)「さくら」



 存在の消失とは、すなわち、当たり前の消失だ。そのことをこの一週間で義之は嫌というほど思い知らされた。それまで当たり前だと思っていたもの、あって当然だと思っていたもの、日常とはそういう当たり前の積み重ねで形成されている。当たり前。それが当然で、自然だと思える出来事、習慣、時間。その時間があることに疑問を覚えることなんてない。だって、それはあって当然なのだから。当然のことに疑問を抱くこともなければありがたみを感じることもない。
 義之もそうだった。当たり前の出来事……例えば、朝、家族同然に育った隣家の姉妹と一緒に登校すること、学園で友人たちと他愛もないお喋りにうつつを抜かすこと、難解な数学や化学、英語の授業の最中に居眠りをし、教師の叱責を受けること、放課後の時間、これから帰り道どこに寄り道して遊ぼうかと友人たちと相談すること、帰路の途中、スーパーに寄り、よく夕食を食べに来る隣家の姉妹の分まで含めて買い物をすること、そして、その姉妹の分まで夕食を用意すること、時には一人で時にはその姉妹の内、姉と一緒に。その後の夕食からゴールデンタイムはその姉妹や保護者同然の人と一緒になりドラマを見たり、今日は学園で何があっただのこのドラマはどこが面白くてつまらないだの他愛もない談笑をしながら穏やかな時間を過ごすこと、どれも当たり前の出来事。
 当然あってなくなるはずもない出来事。日常を形成する重大な、でも、普段は重大だと気づけない出来事の重なり。繰り返される当たり前が繰り返される日常となる。この日常は変わることなく永遠に続いていくんだ、とつい最近まで疑うことなく信じられていたこと。そんな当たり前のこと。存在が消えるということはそんな当たり前を失うことである。
 失って初めて気付けた。そんな当たり前の重大さ、ありがたさ、尊さ、大切さ。日常を形成する大切でかけがえのないもの。それら全てを今の義之は失った。かつては何の疑問を抱くこともなく、あって当然と考え、過ごせていた日常を今の義之は失った。故に存在の消失とは、当たり前の消失であり、日常の消失である。
 今となっては朝倉姉妹と共に登校することはない。当然だ。今では義之は二人にとって見知らぬ他人である。幼少期から家族のように一緒に育った仲。それだけに他の人より強い想いを持って『枯れない桜』の力、魔法の力がなくなっても、義之のことを強く覚えていてくれた。
 しかし、それにも限界が訪れた。ついに朝倉姉妹は義之のことを記憶から忘却した。顔を合わせると「どこかで会ったような気がする」という程度の反応はしてくれる。それだけでもすごいことだと思う。世界から否定された、世界に弾かれた存在である義之のことをおぼろげながら覚えていてくれている。それだけでも感謝してしたりない。だが、覚えているといってもその程度。そこから親しげに会話を交わすこともなければましてや一緒に学園に通うことなんてない。必然、二人が芳乃邸に訪れることもなくなった。姉から生活習慣を注意されることもなく、かったるがり屋の妹の面倒を見ることもなく、朝倉姉妹と義之は完全な『他人』になってしまった。
 朝倉姉妹でさえこうなのだから他の人達はもっとひどい。小恋を除いた風見学園の友人たちはもう欠片も義之のことを思い出すことはなくなった。
 杏や茜、渉たちにとって義之はもはや完全なる『他人』である。義之のことを覚えていてはくれず、この一週間で何度『初対面』の挨拶をしたか、数える気にもならない。それでも最初はみんな少しは義之に対する記憶の欠片といったものを見せてくれてはいたが今ではそれもなくなった。
 小恋が少しだけ義之に対する記憶の欠片を見せてくれることがあるものの、それもほとんどない。否、『他人』と見なされるならまだマシな方で存在自体に気付いてくれないことも多々ある。そこにいるのにいない、存在しているのに存在していない、そんな扱いをされることも珍しくない。
 それも仕方がないことだろう、と思う。今となっては義之本人でさえ、自分の存在を忘れてしまいそうになってしまう程なのだから。こうして義之からは当たり前の日々は消え去り、永遠に続くと思っていた平穏な日常は消滅した。失って初めてわかる、大切さ。『当たり前』のありがたみを噛み締め、涙を流すしかない。こんな素晴らしい『当たり前』を堪能できていたなんて以前の自分はどれだけ幸せだったのだろう、と思う。誰の記憶からも意識からも忘れ去られ、空気のような存在となって日々を過ごす。それが、今の義之の日常だ。不真面目な授業態度を教師から注意されることもなくなった、他愛もない会話の中で友人たちにからかわれることもなくなった。でも、それは全く持ってありがたくないことだった。
 そんな状態になっても尚、義之が学園に通い続けるのは人の想いの力というものを信じているからだ。まだ俺は生きている、存在している。それはこの世界のどこかに俺の記憶、俺に対する想いの力が残っているからだ、と。ならばきっと、いつか、いずれは自分のことを思い出してくれる。『桜内義之』という存在を認識してくれる、記憶してくれる、想ってくれる。そう信じているからこそ愚直にも学園に通ってはその度に泣きたくなるくらいつらい思いにかられることを繰り返している。だから、今日もこりずに学園に通おうとベッドから体を起こす。
 体の感覚が、鈍い。意識だけが先行して動いて、体がそのことに気付き、遅れてついてきている。そんな感じだ。存在感がおぼろげな我が身、ここに存在しているような存在していないような感覚。それは半々、いや、今となっては存在していないような感覚の方が強い。幽体離脱して意識だけの存在になってしまったかのように感じる体との乖離感。自分の体なのに自分の体でないように感じる。その乖離感はまるでもうこの体が世界ここ にいられる期間はとっくに終わっているんだ、と言っているかのよう。『枯れない桜』という魔法の力の支えを失った我が身は想いの力だけが支えて、この世界に存在させている。しかし、その想いの力も以前――少なくとも『枯れない桜』を枯らせた時よりは――と比べると格段に弱くなっているのだとわかる。いつ消えてもおかしくない。そんな嫌な予感がどんどん強くなっていき、その予感を否定したくも、できないのがこの不確かな我が身の実状だった。
 想いの力は信じている。あの人の、さくらさんが俺を想う心。その強さを疑ったことはない。あの人の想いの力は何よりも強いものだ。――だけど。

「ダメ、なのか……?」

 そんな思いにもかられる。一人の人間だけの力では、どれだけ信じていても、愛していても、たった一人の想いだけでは『桜内義之』の存在を維持することはできないのだろうか……?
 弱気が脳裏を覆いかけた時、コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響き、思わずビクリと反応した。動揺を押し隠しながら「はい」と扉の方に声をかけると、「義之くん。ボクだけど……」と声が返ってくる。

「入っていいかな?」

 さくらの声だった。ノックもなしに突入してくることも珍しくない彼女にしては殊勝な態度だな、とほんの少し疑問に思いながらも義之は「いいですよ」と返していた。
 ゆっくりと扉が開き、さくらの鮮やかな金髪が視界に入ってくる。「おはよう、義之くん」という挨拶とともに微笑がこちらを向けばそれだけで安心感を与えてくれた。見ているだけで安心させてくれるさくらの笑顔。それはこんな絶望的な状況下にあっても変わりなく義之の心を落ち着かせてくれる。安心感と愛おしさ。やっぱり俺、この人の笑顔が好きだ、と再確認しながら義之は「おはようございます」と挨拶を返した。そんな義之をさくらは碧い瞳でしっかり見据える。世界に存在を否定され、彼女以外の世界中の誰もに忘れ去られていてもさくらだけは義之のことを覚えていてくれている。存在を認識してくれる。それだけさくらの義之を想う力は強いのだろう。彼女がいるから今も自分は存在することができている。それは間違いのない事実に思えた。

「体調はどう?」

 にこやかな笑顔が一転、少し不安そうな顔になる。体調は……悪い。今も横になっていた体を起こす、という行為をしただけなのに体が心から離れていってしまっているかのような感覚を味わった。しかし。

「どうもこうも。何もないですよ。いつも通りです」

 義之はそう言って笑った。虚勢を張っている、と言う訳ではない。頭の中を覆いかけていた弱気も不安もこの人の笑顔を前にすれば吹っ飛んだ。自分が消え去るなんて絵空事のように思えてくる。それだけの力がこの人の笑顔にはあった。

「そう? いつも通り?」
「ええ。いつも通り、元気です」

 伺うように碧い瞳を向けたさくらに対して再び笑いかける。さくらは「そっか〜、いつも通り元気か〜♪」と再び笑顔を見せてくれた。

「義之くん。まだ着替えてないよね?」
「見りゃわかるでしょう?」
「にゃはは、そうなんだけどね♪」

 なんでそんなことを訊くんだろう、と不思議に思いながらも義之は答えた。まだ学校に行くには早い時間、今からのんびり朝食の支度をする余裕すらある。義之は寝間着のままだった。そう言うさくらの方は既に寝間着から普段の私服に着替え終わっている。相当、早起きをしたようだ。

「これから着替えるの?」

 さくらの意図がいまひとつ掴めないまま、義之は「そうですけど……」と言葉を返す。起きたんだから、着替える。当たり前の行動だ。さくらの視線が義之とクローゼットの方を行き来したかと思えば、

「手伝ってあげようか?」

 悪戯っぽい笑みと共にそんなことを言ってのけた。相変わらずの冗談のキレに辟易しながら「……一人でできますよ」と義之が言うと「え〜〜!」と残念そうな声が上がる。まさか、本気だったのか? そんな思いと共に「子供じゃないんですから」と言葉を重ねると、義之はベッドから立ち上がった。

「でもでも、新婚の夫婦とか、よく朝、夫がスーツに着替える際にお嫁さんがスーツの上着を着せてあげたりネクタイを結んであげたりしてるじゃない?」
「スーツなんて着ませんし、ネクタイもありませんから。学ランくらい一人で着れます。だいたい俺たちは新婚の夫婦って訳でもないでしょう?」
「にゃはは……『今は』ね♪」

 楽しげに含みをもたせた声にドキリ、とする。新婚。この人と結婚。いずれは、そういう未来もあるのだろうか?

(きっと、あるさ)

 そんな未来に義之は思いを馳せる。さくらさんと共に辿り着く。明るい未来。幸せな未来。その未来はきっと、この先にあるものだ。そして、きっと、辿り着いて見せる。俺は、消えたりなんかしない。だって、この人と共に未来を歩いて行くんだから。そんな義之の密かな決意を知ってか知らずか「どうしたの、黙りこんじゃって? 寝ぼけてる?」なんてさくらが笑いかけてくる。「いえ」と口元に笑みを浮かべたまま義之は否定し、

「さくらさんと共に過ごす未来のことを考えていました」
「そっか♪ その未来ではボクは幸せそうな顔をしていた?」
「え、えっと……」

 未来のことを考えていたとはいえ、そこまで詳細に未来図を描いた訳ではない。義之が思わず言葉に詰まると「にゃはは」とさくらの笑い声が耳朶を打った。

「なんてね♪ 義之くんと一緒にいられる未来ならボクは幸せに決まってるよね。バカバカしい質問だったね」

 さくらは笑う。その笑顔を前にしていればやはり不吉な想像など吹っ飛んでしまうことを義之は感じた。

「それじゃ、着替えるんで、ちょっと外出ていてもらえますか?」

 まさか本気で着替えを手伝ったりする気はないだろう。そう思い、クローゼットにかかっているハンガーにかけてある学ランに手をかけながら言うとさくらは「あー! ちょっと、待って待って!」と慌てたように言う。まさか、やっぱり本気で着替えるのを手伝う気で……。そんな義之の危惧とは裏腹にさくらは想定外のことを言った。

「着替えるのはいいんだけどね。学ランじゃなくて私服の方に着替えて欲しいんだ」
「?」

 意図がわからず思わず首を傾げる。今日は平日だ。学園が休みということもない。ならば、制服――学ランに着替えるのが自然なはずだが。

「今日は学校。サボっちゃおうよ♪」

 そんな義之の疑問に答えるようにさくらは笑顔でとんでもないことを言った。

「はい……?」

 思わず呆然となり、声がもれる。しかし、さくらは構わず言葉を続ける。

「今日は朝からボクとデートしようよ♪ なんだか今日は義之くんと一緒にいたい気分なんだ♪」

 普段から彼女は義之に「授業なんかサボって一緒にお茶しない?」などと言ってくることはあった。しかし、その大半は冗談半分で本気で言っていることは多分、なかった。だが、今のさくらは本気で言っている。来るべき楽しいイベントを目前にしたような子供のような純粋な笑顔を前にしてはそう、思えた。「いや、でも……」と常識から義之が困惑の声をもらすと、「嫌……かな?」とちょっと弱気な声が響く。碧い瞳が上目遣いに義之を見る。そんな目をされると何も言えなくなってしまう。義之は言葉に詰まった。

「ひょっとして義之くんはボクと学校で、学校の方が大事なのかな……?」

 悲しげに、そんなことを言われてしまえばもう義之に選択肢はなかった。無言で学ランにかけた手を離し、クローゼットを開くと中から私服を取り出す。その様子を見ていたさくらは嬉しげに表情を輝かせた。

「さくらさんより大事なものなんてある訳ないじゃないですか」

 苦笑しながら義之がそう言うとさくらはより一層嬉しげに笑みを深める。

「にゃはは……そこまで言われると照れちゃうな……でも、ありがとう」

 満面の笑み。その笑顔が義之にとっては何よりもご褒美だった。



 朝の胡ノ宮神社には静謐せいひつ な空気が漂っていた。
 初音島の神社の中では最も有名で由緒正しいこの神社は大晦日と元旦には多くの参拝客で溢れかえっていたが、何ら特別な日ではない平日の、しかも早い時間とあっては参拝に訪れる人間もおらず、ひっそりと静まり返っている。時折吹き抜ける寒風が神社の敷地内に植えられた木々を揺らし、枝木が揺れる音と小鳥たちの囀りだけが静かに境内に響き渡る。和風の建築物と自然というものは奇妙な一体感をもって感じられるもので、自然に育った木々の色と人の手で築かれた木製の建築物の色は完璧な調和を形成し、参拝に訪れる人間を出迎える。
 他に参拝客はおらず、義之とさくらは二人してこの静謐な空気を堪能していた。呼吸をするだけで清涼感が胸を満たすのを義之が感じていると「落ち着くね」とさくらの声が耳朶を打った。「ですね」と賛同の声を返す。何かと和風のものが好きな彼女のそばで育ったからか昔から神社というものが義之は好きだった。鳥居や社殿といった純和風の建築物に囲まれたこの空間にいると自然と気持ちが穏やかなものになる。初音島の他の場所同様、この神社でも桜の木からは薄紅色の花々は失われ、枝木だけが侘びしい姿を晒していたが、その景色もまたそこまで嫌いではないことに義之は最近、気付き出していた。勿論、以前の常に薄紅色の花に覆われた初音島の景色も好きだ。だが、その不可思議――魔法の力が消えた自然な初音島の姿もまた同じくらい魅力的だと思い始めている自分がいる。そんな思いを「最初はこの島から桜の花が無くなるなんてどうなることかと思いましたが」と声に出すとさくらがぴくり、と反応した。

「案外、悪いものでもないですね」
「そうかな?」
「ええ」

 さくらは少し意外そうな顔をしていた。まぁ、意外に思われるのも無理はない。義之が物心ついた頃――否、この世界に生み出されてから、ずっとこの島は桜の花に覆われていたのだ。そんな世界で育った人間がそれまでと違う世界、光景に慣れる、というのは考えにくいことだろう。「勿論、桜の花に覆われた初音島も好きですけどね」と少し言い訳をするように義之は笑った。

「桜の花……魔法の力がなくてもこの島は充分魅力的ですよ。やっぱり、あの力はあってはならない……とまでは言いませんが、無くても別に大丈夫な力だったんじゃないでしょうか」

 少し生意気な、あるいは失礼な言葉だったかもしれない。少なくともこれまでその魔法の力に支えられて生きてきた人間が、その魔法の力を初音島に与えた張本人を前にするには。しかし、その張本人――さくらは義之の言葉に衝撃を受けたという様子もなく、静かにその言葉を受け入れるように「そうだね」と頷いた。

「きっと、魔法の力なんてものは無くても大丈夫なものなんだよ。大多数の人間にとってはね。それが必要なのはきっと……ボクみたいな弱い人間だけなんだろうね」

 自嘲めいた笑み。その笑みを悲痛だと思うより先に「さくらさんは弱い人間なんかじゃありませんよ」と即座に否定の言葉が出ていた。さくらはポカンとした顔になる。そんなこと言われるなんて思ってもいなかった、と言うように。

「俺の知っているさくらさんは強い人間でした」

 風見学園の学園長として激務をこなし、それでいて、『枯れない桜』の管理という大仕事も同時にこなす。こんなこと弱い人間にはできない。充分に強い人間だと義之には思えた。

「……でもボクは、魔法の力に頼って、君を……この島全体を巻き込んで君という存在を生み出した。弱い人間だよ。島の迷惑になるってわかっていたのに私利私欲のために『枯れない桜』を咲かせたんだから」
「でも、さくらさんは俺達に何も言わなかったじゃないですか」
「え……?」
「それだけの大きなものを背負って、でも、そんなことはおくびにも出さないで俺達に笑顔で接してくれた。辛いことも悲しいこともあったでしょうにまるで表に出さず笑顔を……笑顔を浮かべ続けてくれた」

 その笑顔にどれだけ救われてきたか、わからない。その笑顔にどれだけ安心させられてきたか、わからない。その笑顔にどれだけ笑顔にさせられてきたか、わからない。だから、

「さくらさんは強い人です」

 戸惑う碧い瞳に向かって、そう断言する。それでもさくらはやはり素直にその言葉を受け入れられない様子だった。それも無理はないことだと義之は思う。彼女が自分のことを卑下するのも、弱い人間だと思ってしまうのも、それに足る理由はある。

「今はそう思えないかもしれない。自分のことを卑下してしまうかもしれない。でも、いつか、理解してください。貴方は決して弱い人間なんかじゃないということを」

 真摯な瞳でさくらを見る。さくらはやはり戸惑っていたようだったが「……うん」と言葉を返した時にはその瞳から戸惑いの色は消えていた。

「ごめん。やっぱり、今はまだボクにはそう思うことはできない。義之くんが言うように自分を肯定することはできない。でも、いつか……いつかそんな日が来るかもしれない。ボクは強い人間だって、そう思える日が来るかもしれない」

 一拍の間、そして、「君と一緒にいられるのなら……」とさくらは呟いた。それは挑戦だった。義之に対して自分は弱い人間じゃないと思わせるだけの充実した、幸せな日々を過ごさせてくれるのかな? という挑戦だ。だから、義之は真っ向からその挑戦を受けて立つ。

「そう思わせてあげますよ。さくらさんは決して弱い人間じゃないんだって。それくらいさくらさんを幸せにしてあげます」

 義之がそう言って笑うと「楽しみにしてるね」とさくらもまた微笑を浮かべた。普段の天真爛漫な笑みとは少し違う微笑み。困難に挑戦する子供を見守る母親のような微笑み。少しだけ大人びていて、思わずドキリとする。やっぱり、この人は美しい、と今更ながらに思い、

(そのためにも、俺は消えるわけにはいかないんだ)

 その微笑みを前に決意を新たにする。この人を幸せにする。この人が自分のことを肯定できるように。この人が自分に自信を持てるようになるように。この人が何も気にせず笑顔でいられるように。そのために自分はこの人のそばにいなければならない。絶対に、消えたりするわけにはいかない。
 義之は視線を社殿から植え込みの方へと移した。胡ノ宮神社の植え込みの隙間からは初音島の内湾が見渡せる。内湾は平穏な毎日を示すように穏やかに波を打っており、『枯れない桜』という魔法の力が消えた今の初音島を象徴するようでもあった。あの日、『枯れない桜』を枯らして以来、この島で不審な事故や事件があったという報道はない。少なくとも自分は、自分とさくらさんはこの島の平穏を守ることができたんだと思うと少なからず満足感と達成感が胸に押し寄せ、自分の存在の危機を背負ってでもやる価値があったことだと再認識する。
 初音島の海はどこまでも穏やかで義之がその光景に見入っていると「ねぇ」とさくらが呟いた。視線を海からさくらの方に移すと、さくらの碧い瞳は何かを訴える色を宿しており、次に少しだけ開いた唇に目を惹かれる。それだけでこの人が何を求めているのか、義之には察することができた。義之は静かにさくらの体を抱き寄せる。「あっ……」と自分から誘っておきながらさくらは照れくさそうに困ったように声をあげたが、それには構わず体を密着させると、義之はその唇にゆっくりと自分の唇を重ねた。

「んっ……」

 もれる声と吐息。やわらかくてやさしい感触が唇を介して伝わってくる。付き合いだしてから何度もやった行為であるにもかかわらずそれは新鮮な感覚をもって義之には感じられた。しばらくの間そうやって口付けを続けていたもののやがてどちらともなく唇を離す。さくらの方を見ると彼女の頬は赤みを帯びていた。自分の頬もまた赤くなっているんだろうな、と思いながら義之はそんなさくらの顔を見つめる。さくらの顔は相変わらず端正な顔たちでやっぱりこの人は自分には勿体無いくらいの美人だ、と思わざるを得なかった。朝の胡ノ宮神社に人気はなく、小鳥たちだけがそんな二人の接吻を見守っていた。



 昼食時の食事処と言えば平日とはいえ人出で賑わうものだ。義之とさくらは風見下商店街に場所を移しその一角にあるファミレスで昼食を摂っていた。既にお互いに注文した昼食は食べ終わり今は義之は食後の紅茶にさくらは食後のデザートにと洒落こんでいるところだった。さくらはデザート――パフェをスプーンでひとすくいし、満足気に舌鼓を打つ。

「う〜ん♪ 美味しい♪」

 見るからに楽しげな様子のさくらを対面に迎えていては義之も自然と笑顔になるというものだ。「美味いですか?」と聞くと「すっごく美味しいよ♪」と笑顔が返ってくる。

「ほっぺたが落ちる〜♪」

 満面の笑みだった。さくらの目の前に置かれたパフェは以前のムーンライトで食べたバカップル御用達のパフェ程ではないにせよかなりのサイズのものでそこそこの量は食べたはずなのによくそれだけのボリュームがお腹におさまるものだ、という念を感じざるを得ない。そんな思いで義之がパフェを眺めていると何を勘違いしたのかさくらは「義之くんも食べる?」などと言ってくる。「へ?」と素っ頓狂な声を返した義之だったがその頃にはさくらは既にスプーンでパフェをひとすくいして義之の前に差し出していた。

「はい、あ〜ん♪」

 ニコニコ笑顔で紡がれる言葉。そこには悪意なんて欠片もなくて。

「…………」

 思わず言葉に詰まる。彼女の「あ〜ん」は以前のデートの時のお弁当の時もあったが、それで慣れるというものでもない。羞恥心が先に出て、義之は硬直してしまった。そんな義之をどう思ったのか「義之くん?」なんて言ってさくらが首を傾げる。

「あ、ひょっとして義之くん。甘いものダメだった?」
「いえ、そういう訳じゃ……ないんですが」
「そう? それなら、はい、あ〜ん♪」

 再びスプーンを差し出すさくら。義之が素直に口を開けないのは単なる羞恥心だけではなかった。差し出されたスプーン。それは今の今までさくらが使っていたもので、つまり、

「いや、その……」
「その?」
「……間接キス、になっちゃうじゃないですか」

 蚊が鳴くようにか細い声で義之はそう言った。一瞬、何を言われたかわからないというようにポカンとした顔になったさくらだったが、すぐににゃはは、と笑顔になった。

「今更なに言ってるの♪ 間接じゃない直接のキスを何度もした仲じゃない?」
「それは……そうなんですけど……」

 さくらの言う通りだ。義之とさくらは既に何度も唇を重ねている。ならば今更間接キスごときで足踏みするのはおかしいかもしれない。しかし、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 義之がいまだに躊躇しているのを見るに見かねてといった様子でさくらは「それとも、義之くんはボクがあ〜んしてあげてるのに食べられないっていうのかな?」なんて少し意地悪そうな笑みを浮かべて言った。

「いえ、そういう訳じゃ……」
「そういう訳じゃない。あ〜あ、せっかく恋人の義之くんに美味しく幸せにパフェを食べて欲しいと思ってスプーンを差し出してるのにな〜。あ〜ん、してあげてるのにな〜。ボクが真心込めてやってあげてるのにな〜。義之くんはボクのあ〜んじゃ食べられないって言うんだ〜?」

 悪戯っぽくさくらはそんな風に言葉を重ねる。そう言われてしまっては義之にはもう選択肢はなかった。義之が覚悟を決めたのを見て取ったのかさくらは再び「あ〜ん♪」と笑う。

「あ〜ん……」

 ローテンションで呟きながら義之は口を開く。さくらのスプーンがすかさずそこに差し込まれ、義之はそれを頬張ることしかできなかった。アイスクリームの冷たい感触が口内を満たす。暖房の効いている室内で冷たいものを食べる。現代人ならではの贅沢だ。

「美味しい?」

 ニコニコ笑顔でそう訊ねられ「……はい、美味い、です」と義之は口内のアイスを飲み込みながら返事をした。そんな義之の様子にさくらは満足気に頷くと「これで貸し一つだね」なんて言って笑う。「貸し?」と義之が首を傾げると義之の前にスプーンが差し出された。今度はその先端にはパフェのアイスは乗っていない。その逆方向を前に差し出している。まさか……と義之が思った時、それを察したようにさくらはくすり、と笑う。

「それじゃあお返ししてね。今度は義之くんがボクに食べさせて♪」

 悪戯っぽく、楽しげに、さくらは笑いながら、そんなとんでもないことを言ってくる。「どういう……ことでしょうか……」とわからないふりをして言い返したのは精一杯の抵抗だった。さくらは物分りの悪い子供相手に噛み砕いて教えるように「だ〜か〜ら〜」と笑う。

「義之くんがあ〜んをやってボクの口の中にパフェを運んで欲しいな、って思って」

 そうだろうな、と思った。この状況下にあってはそうとしかさくらの意図は読み取れない。しかし……。
 絶句を返事にしているとさくらは拗ねたように頬をふくらませた。

「SSPの時もお寿司でやってくれたじゃない? あの時と何も変わらない……ううん、変わってるか。むしろ恋人という関係になったことでより自然な行為になってると思うけど?」
「それは……そうかもしれませんけど……」

 たしかにSSPに彼女が訪れた時もやった行為ではある。あの時は彼女と自分は単なる家族だった。それが今は恋人だ。あの時より自然な行為だというさくらさんの言葉には一理ある。しかし、あの時、SSPの時に「あ〜ん」をやったのだって望んでやった訳ではなくSSPのことが生徒会にバレないように、いわば人質を取られてやった訳であって何もないのに「あ〜ん」なんて恥ずかしいことをするのは……。義之が躊躇しているとさくらは「も〜」と怒ったようにさらに頬をふくらませる。

「義之くんの愛はその程度のものだったんだ。恋人に対してパフェを食べさせてあげる程度のこともしてくれないんだ」

 拗ねるような言葉に「そ、そういう訳じゃ……!」と義之が慌てて声を発するとにんまりと笑ったさくらが「じゃ、早く食べさせてよ」とささやく。差し出されたスプーンとパフェ、そして、さくらの顔を交互に見た義之は、

(逃げられない……か)

 覚悟を決めた。スプーンを受け取るとさくらは「にゃは」と笑う。受け取ったスプーンでパフェをひとすくい、そして、こぼさないように慎重に運ぶ。さくらのそばまで近づけたはいいが、さくらは楽しげな笑みをたたえるだけで口を開こうとしなかった。

「…………」
「義之くん、黙ってちゃどうしていいか、ボク、わからないけど?」
「くっ……」

 デジャヴを感じるやりとりだった。そうだ。SSPの時もこんなやりとりをした。あの時も最終的には自分が折れるしかなかったが、今回もまた……。諦観が義之の脳裏を支配し「……あ〜ん」と義之は声を出した。しかし、それに対するさくらの返答もまたデジャヴを感じるものだった。

「元気ないよ〜? もっと元気良く!」

 楽しげなさくらの表情。やけくその念で義之は「あ〜ん!」と叫んだ。さくらは満足気に笑うと、「あ〜ん♪」と口を開いた。子供のように純粋無垢な姿。可愛いなぁ、などと思ってしまう。

「あ〜ん?」

 そんなことを思っていたら手が止まっていた。さくらがどうしたの? と言うように口を開いたまま、碧い瞳で見つめてくる。義之は「すいません」と言うとスプーンをさくらの口の中に入れた。

「もぐもぐ……うん、美味しい♪」

 さくらはアイスクリームを咀嚼して飲み込むとそう言って笑った。

「義之くんが食べさせてくれるから美味しさ倍増だね♪」
「あはは……そんなに変わりないと思いますけど……」
「ねっ、もう一口食べさせてよ!」

 期待に満ちた碧い目で見られる。やっぱりこの人には敵わないなぁ、と思う。付き合ってからというものずっと振り回されっぱなしだ。だが、それも悪くないと思える自分がいて義之は内心で苦笑した。振り回されっぱなし、それもいい。惚れた弱み、というヤツだろうか? 所詮、自分ごときがこの人に敵うはずはないのだ。諦観とも達観ともとれる内心の納得を経て義之はもう一度、スプーンでパフェをひとすくいする。さくらの口元までそれを運び、パクリ、とさくらがスプーンをくわえる。

「にゃは、やっぱり美味しい♪」

 幸せそうな笑顔だった。そんな笑顔を見せられてはこっちまで幸せな気分になってくる。しかし、ふと、義之の胸中には思うことがあった。今言うべきタイミングではない、とは薄々思いつつも気になってしまったのだから仕方がない。義之は口を開いた。

「でもあんまり甘いものばかり食べてると太りますよ」

 案の定。見る見るうちにさくらの笑顔が曇った。笑顔が徐々に不機嫌そうな顔に変わっていく。やっぱり、言うべきじゃなかったか、と後悔するより先にさくらが「ひどいよ、義之くん」と言った。

「レディーに対して太るだなんて、もうデリカシーが無いんだからぁ」
「す、すみません……ちょっと気になったもので」

 そう言われては平謝りと言い訳をするしかない。情けないなぁ、俺、と思いつつも義之が「すみません」と重ねて言うと「まぁ、いいんだけどさぁ」とさくらは呆れたように言う。それが平謝りするしかない情けない彼氏を見て呆れて果てた末に出た言葉だというのは義之にも理解できた。しかし、呆れ顔もしばしのこと、「甘いものを食べても太るとは限らないよ」と言ったさくらの表情は笑顔に戻っていた。

「栄養が胸にいっておっぱいが大きくなるかもしれないでしょ?」

 そう言って自分の胸に両手を当てる。その挑戦的な笑みに義之は思わず言葉を失った。ど、どう反応するべきだ? 胸のことを話題に出されてしまってはどう返していいのかわからない。あまりこだわるのもいやらしい感じがするし、かといって相手が話題に出したのにスルーするというのも感じが悪い。そんな風に義之が困惑していると、「義之くんはおっぱい大きい方がいいんでしょ?」とさくらが言った。その表情は少しだけ拗ねているようであった。決して胸が大きいとはいえない恋人を前に「いや、別にそういう訳じゃ……」と義之があたふたと言葉を返すと、「でもでも、義之くんが持ってるエッチな本はおっぱい大きい女の子が多かったよ」と言われてしまい今度こそ義之は絶句せざるを得なかった。

「あ、いや、『持ってる』じゃなくて『持ってた』か〜。音姫ちゃんと由夢ちゃんに焼き払われちゃったからね」

 ボクは全部知ってるんだよ、と言わんばかりのニヤリとした笑みを前に何も言い返せなくなる。なんで、知ってるんだ? という疑問が義之の脳裏を埋め尽くす。たしかに彼女の言うことは事実だ。自分が巨乳物のエロ本をベッドの下に隠し持っていたことも、それを朝倉姉妹に発見されてしまい、全て燃やされてしまったことも、全て紛れも無い事実である。しかし、それを何故、彼女は知っているのか? そんな疑問が顔に出ていたのかさくらは再びニヤリと笑うと、

「ボクは義之くんのことならな〜んでも知ってるんだよ。子供の頃から今に至るまで、ね」

 今ひとつ回答になっていない回答を返してくれた。あはは……、と苦し紛れに義之は苦笑いする。だから、というわけではないだろうが、さくらの笑顔はそこで途絶え、ちょっと悔しそうな顔で「ボク、おっぱい小さいから、不満でしょ?」と問いかけてくる。
 何を言っているのか、というのが義之の素直な感想だった。たしかに自分は巨乳物が好きだ。しかし、女性の価値が胸の大きさだけで決まるなどと器量のないことを思っているはずなどあろうはずもない。「そんなことありませんよ」と意識せず返答していた。

「そりゃ、たしかに俺が持ってたそういう本はそうだったかもしれませんが……胸が小さくてもさくらさんはそんなことまるで気にならないくらい魅力的な女性ですから、不満なんてあるはずがないですよ」

 それは紛れも無く義之の本心だった。パチクリとさくらは目を丸くし、やがて「……ホントに?」と聞いてくる。自信のなさが現れているような小声でそれは全く持ってこの人らしくなかった。そんなに胸のことを気にしていたのだろうか、などと邪推してしまう。

「ホントですよ。さくらさんはすごく……世界一といっていいくらいの魅力的な女性なんですから。俺には勿体無いくらいのね。こうしてさくらさんと一緒にいてデートしていて俺はずっとドキドキさせられっぱなしなんですよ? それこそ胸が破裂しそうなくらいに」

 最後の方はちょっと恥ずかしい本心の吐露だった。それを聞いてさくらは頬を赤くし、にゃはは、と照れ隠しのように笑った。

「……そっか、ありがと、義之くん」

 はにかんだような笑み。その笑顔に胸が一つ大きな脈を打つのを義之は感じた。ほら、今もだ。今もこの人を前に自分はドキドキしている。ドキドキさせられている。
 ちょっと昼食を摂るだけのつもりで立ち寄ったファミレスで、思いもよらない展開を迎えたことに戸惑いながらも義之はやっぱりこの人は可愛い、と再確認させられるのだった。
……だから、こんなにドキドキするのも仕方がないよな、と言い訳じみたことも同時に思いながら。



 西の空に沈みゆく太陽が初音島を照らす。否応なしに哀愁の心を煽る黄昏の光に照らされ、『枯れない桜』はその雄々しい姿を堂々と曝していた。その枝木を彩る薄紅色の花々が失われてもこの『枯れない桜』の巨大な雄姿は失われはしない。天に向って数多にも枝分かれし大きく伸びた枝木の数々は薄紅色の花を失って尚、それだけで芸術品と言っていい姿を黄昏の光に映し出され、見る者の心に色濃く印象を残し、見る者を圧倒する。根本から伸びる長く巨大な影もその存在をより強く印象づける。周囲に数多く植えられた桜の木々と比べると大人と子供、あるいは王と臣下か。周りの桜の木々たちとは幹の太さは二回り以上も違い、天空に向かって広がる枝木のボリュームにも圧倒的な差がある。名実ともにこの初音島に存在する数多くの桜の中で頂点に君臨するといって間違いない。それが『枯れない桜』だった。
 黄昏時の桜公園。冬の空の早い夕暮れを眺めながら、義之とさくらが訪れたのはこの場所だった。
 全ての、始まりの場所。
 この島の人々を願いを叶え、そして同時にこの島を危機に陥れた『枯れない桜』が植えられた場所であり、義之が生まれた場所。そんな真実を知っている者は島の住民の中でもごくわずかではあるが、真実を知っていようと知らなかろうとこの島に住んでいればこの場所には否応なく特別性を感じる。『枯れない桜』の威容にはそれだけの力があった。
 そして、真実を知る者にとってはこの初音島を語る上で避けては通れない重要な場所であり、今日一日のデートの締めくくりとしてこれ以上の場所はない、と言えた。『枯れない桜』の幹に手を当て、「ボクは……」とさくらが静かに口を開く。その後ろ姿は長年連れ添った存在の消失を悲しんでいるようでもあり、哀愁の念にあふれていた。それもそうだろう、と義之は思う。ここに『枯れない桜』を咲かせてからというものの、彼女にとってこの桜は自分の分身にも等しかったはずだ。ずっとそばにいて願いを叶える桜の木をコントロールする。そんな作業を十数年も続けていれば、特別な感情を抱かないはずはない。友人、相棒、あるいは自分の子供も同然か。

「ここで願ったんだ」

 一陣の風が吹き抜け、さくらの金髪を揺らす。その風にまぎれて発した「何をですか?」という義之の言葉が果たして彼女に届いたのか、相変わらず哀愁の念で彩られた後ろ姿からは察することができなかった。
 義之の言葉を受けてか、受けてないのか、さくらは今は亡き存在に手向けをするようにゆっくりと『枯れない桜』の幹を手でなぞる。それはまるで死人の顔についた汚れを払ってあげるように。そんなさくらの後ろ姿を義之は見つめ続けた。ややあって、さくらが再び口を開く。

「ボクにも家族が欲しいです。あり得たはずの可能性を見せてください……ってね」

 そうして、金髪を揺らし、さくらは義之の方を振り向いた。黄昏に濡れたその表情は亡き盟友の死を悼んでいるようでもあり、自分のかつての過ちを悔いているようでもあった。「その願いから生まれたのが俺、ですか」と義之は口に出していた。「そう」とさくらは頷く。

「……でも、それは本来いけないこと。この世界の摂理を捻じ曲げてまで家族を求める。それは大罪……絶対に許されないこと……」

 それは懺悔だった。自らの罪を告白し、許しを請う。気付く。彼女はずっと背負い続けてきたのだと。罪の意識を。朝の胡ノ宮神社の時に彼女は自分は弱い人間だと言った。それもこの背負ってきた罪の重さが言わせたことだったのだろう。罪。それを罪と捉えるかどうか人によるだろう、と少なくとも義之は思う。だが、少なくとも彼女はそのことを罪だと感じているのだろう。その姿に痛ましさを覚える。この人にこんな顔をして欲しくない。そう、強く思う。その一念が義之に「俺は罪だと思っていませんよ」と言葉を言わせていた。さくらはキョトンとした顔になる。そんなこと言われるなんて思ってもいなかった、と言うように。明確な罪なのに、どうして罪ではないのか。それが不思議でたまらない、と困惑に揺れる碧い瞳が語っていた。だから、その碧い瞳に「だってそうじゃないですか」と義之は言葉を重ねる。

「さくらさんが『枯れない桜』を咲かせてくれなければ、さくらさんが『枯れない桜』に願ってくれなければ……俺は、ここにはいなかった」

 そう。それが、真実だ。

「俺はこの世界に生まれてくることはできず、朝倉家で家族のあたたかみを知ることもなければ学校で友達と楽しく過ごすこともできず……そして、何よりさくらさんの恋人になることもできなかった」

 彼女が願ってくれたから自分がいる。彼女の願いがなければ自分は存在していなかった。何も知ることができず、楽しいことも、嬉しいことも、何も知らないままだっただろう。そして、当然、恋に落ちることもなかった。目の前にいる彼女に。

「……だから、俺にとってさくらさんは大恩人なんですよ。貴方のおかげで俺は幸せになれた。思い上がりかもしれないけど、多分、俺という存在がいることで音姉や由夢、小恋たち……そして貴方自身も幸せになれた。……その行いが罪な訳ないじゃないですか」

 だから、最大限の感謝の念を伝える。俺をこの世界に生み出してくれてありがとう、と。「義之くん……」とさくらが声をもらす。自分を真っ直ぐに見る彼女を前に、こんなに小さい人だったか、と少し驚く。義之の記憶の中で彼女はいつも大きな人だった。勿論、物理的なものではない、精神的なものだ。彼女はいつも義之の前を歩いて、そして、義之の手を引いてくれていた。あの冬の日。最初に出会った、その日から。ずっと義之を導いていてくれた。それがいつしか背丈も自分が追い抜いて、こんなにも小さく弱々しい姿を自分の前に晒している。まるで、迷子の子供のように。

「あっ……」

 さくらの声がもれる。意図せず抱きしめていた。抱きしめざるを得なかった。その小さな体があまりにも儚くて、今にも消えてしまいそうだったから。その小さな体があまりにも寒そうで、こごえていたから。ギュッと、抱きしめる。あたたかみを伝えるために。さくらは何も言わず、抱擁を受け入れてくれた。
 どれくらいの間、そうしていただろう? 触れ合う肌と肌。お互いの体温を伝え合って、二人してあたためあって、そうやって、どれくらい過ごしていただろう。『枯れない桜』が見守る中、他に訪れる人間もおらず、二人は無言だった。やがて、「あのね……」とさくらがためらいがちに口を開く。何を言おうとしているのだろうと思い、その表情を伺い、その瞳が悲しみに染まっていることを察して、義之は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。

「消えないで……」

 弱々しい声が響く。最初、意味がわからなかった。消えないで? そんな言いぶりだとまるで自分が今にも消えてしまいそうになっているようじゃないか。何を言っているんだろう、と思う。自分が消えるわけがないのに。この人の想いがある限り、自分がこの世界からいなくなるなんてあり得ないのに。それでもさくらは悲しそうな表情を崩さず、すがるように「消えないでよ……」と再び口にする。「何を言ってるんですか……」と思わず口に出していた。

「俺は消えたりなんかしませんよ。さくらさんがいる限り、俺は……」
「ううん! ダメなんだよ!」

 唐突に発せられた大声に思わず言葉を失う。さくらは今にも泣き出しそうな顔のまま言葉を続けた。

「ボクにはわかるんだ。君の存在がどんどん稀薄になっていっているのが! 君という存在がどんどんこの世界から消えていっているのが!」

 義之は何も言い返せなかった。自分の存在の稀薄さ。それは自覚していることだからだ。そうだ。俺という存在はどんどんこの世界から薄れていっている。既に目の前にいる彼女以外、自分のことを覚えている者はおらず、こうして一緒にいるから自分の存在を自覚できるが、一人だけでいると自分で自分のことを忘れそうになっている自分がいる。
 隠していた、ことだった。知られてはいけない。彼女を不安にさせてはいけない、と。さくらさんの前では絶対にそんなそぶりは見せたつもりはなかった。……でも、彼女はしっかり気付いていた。この身を襲う危機に。敏感に感じ取っていた。思えば今日という日になって唐突に学校をサボってまでデートに誘ったのもそれ故の行動だったのだろう。

「君をこの世界に繋ぎ止めている想いの力がどんどん弱くなっている! 音姫ちゃんも、由夢ちゃんも、小恋ちゃんも! 君のことをもう忘れちゃっている! 君への想いを失ってしまっている! 今、この世界で君を想っているのはもう後はボク一人だけしかいないんだよ……!」

 悲痛な声が響く。そうだろうな、と自覚するしかない我が身の不実さに情けなくなった。彼女の言うことは正しい。もうこの世界で俺を覚えているのは彼女一人。俺をこの世界に繋ぎ止めている想いの力も今では彼女一人分しかない。全く持って言う通りだった。だが、

「でも、さくらさんは俺を覚えている」

 それもまた事実だ。いずれこうなることは『枯れない桜』を枯らしたあの夜からわかっていた、ことだった。世界に否定され、親しい人たちに忘れ去られていく。それはとても悲しいことだ。だが、わかっていたことだった。そして、それでも自分は消えないという確信を持てていたのは目の前にいる彼女のおかげだった。今もこうして自分のことで顔をくしゃくしゃにしてしまう程に彼女は自分のことを想っている。

「さくらさんの想いがある限り俺は――」

 消えたりなんかしない。その声は「ダメなんだよ!!」というさくらの絶叫に遮られた。これまでも大声だった。しかし、今の叫び声はそれ以上のもの。精一杯の絶望がこもった声だった。ギョッとしてさくらを見返せばやはりその表情は悲痛な色一色に染まっていて今にも泣き出しそうに碧い目を歪めている。自分の叫び声に自分で驚いたようにさくらはハッとして言葉を失う。

「…………」
「…………」

 どちらともなく体を離していた。ややあって気まずそうに静かに「ボク一人じゃ……ダメなんだよ」とさくらが声を紡ぎだす。

「ボク一人の想いの力じゃ、君をこの世界に存在させておくことはできない。ボク一人だけが君のことを覚えていても、君の消滅は止められない」

 訥々と、静かに、絶望に彩られた声音でさくらは言う。「君は……この世界から消滅する」と死刑宣告までされたというのに義之は妙に静かな自分の心の音を聞いた。消滅、消える、この世界から。それは最初に真実を知った時と同様、現実味のない響きをたたえて胸に届いた。しかし、あの時よりは事実として実感はできている。そうだ。朝、目を覚ました時の現実との乖離感。自分のことを忘れてしまった姉、妹、友人たち。自分一人でいる時に自分で自分のことを忘れそうになる奇妙な感覚。心と体が離れていってしまっているのかのような浮遊感。それらは全て実体験として義之が体験したことだ。この世界からどんどん自分という存在が薄れていっている。今日の朝だってそれで絶望しそうになった。だから、多分、さくらさんの言うことは正しいんだろうな、と心のどこかで受け入れてしまっている自分がいた。だけど。

「……やっぱりボクじゃだめなんだよ。ボクなんかの想いじゃ、君をこの世界に存在させられない……」

 だけど。
 目の前でポロポロと涙をこぼし、絶望にあえいでいる彼女を前にそれを認めることは義之にはどうしてもできなかった。そんな顔をしないでください、さくらさん。貴方にそんな顔は似合わない。貴方はいつまでも、いつでも笑っていてください。笑顔を浮かべ続けていてください。そんな思いが義之に彼女を再び抱きしめるという行動をとらせていた。「義之……くん……?」と困惑の涙声が黄昏の空に響き、義之は静かに「大丈夫」と言った。

「大丈夫ですよ」

 やさしい声音が響く。泣きじゃくる幼子を安心させるように、やさしく義之は言葉を発していた。それはほとんど無意識の行動だった。しかし、涙を流すさくらを前にしてはどうしても取らざるをえない行動でもあった。彼女の言うことはおそらくは正しいのだろうと思う。このままでは間違いなく俺は消えるのだろう。だけど、それでも。それを肯定することは自分にはできない。なんて欺瞞ぎまん だろう、とも思う。彼女の言うことが正しいとわかっているのにそれを否定して安心させる言葉を吐く。しかし、彼女にこんな悲しい顔をさせたまま何も言えないなんて不実は彼氏である自分に許されることではなかった。だから、欺瞞とわかって尚、義之は言葉を続ける。

「俺は……大丈夫ですから」

 小さな体をしっかりと抱きしめ、ゆっくりと言葉を発する。いつしかさくらの碧い瞳から流れる涙は止まり、その表情も悲しみからぼんやりとしたものへと変わっていっていた。義之を見る碧い瞳は夢見心地のようにぼんやりと目の前の現実を現実と捉えられていない、おぼろなもの。何を言われたのか理解できなくて、でも、その言葉を聞いてると何故か安心できて、そんな風に義之には見えた。「義之……くん……」と声がもれる。ぼんやりとした表情は徐々に安堵するように穏やかな表情へと変わる。笑顔、とまではまだいかないまでも義之の言葉でとりあえずは胸から湧き上がってきた悲しみを消化することはできたようだ。
 その表情を見た瞬間、決意した。この顔を二度と悲しみの色に染める訳にはいかない、と。そのためにも、俺は――、

(――俺は、消える訳にはいかないんだ)

 そうだ。それが絶対の真実であり、この人の恋人である自分の使命。他人からの想いがなければ存在できない? 自分以外の誰かにすがらなければ存在できない? そんな事実、くそくらえだ。俺は消えない。消えたりなんかしないんだ。だって、俺が消えれば、消えてしまえば……。さくらの表情を見る。涙の跡が残る顔たちは黄昏に照らされやはり端正な美を映し出し、本当、自分には勿体無いくらいの綺麗な彼女だ、と思わされる。
 俺が消えれば――この人が悲しむ。それだけは、あってはならないことだ。その強い想いが胸の中で灼熱の温度をまとって燃え上がり、世界に対する挑戦となる。

「俺は、消えません」

 だから、あえて、義之は宣言する。それは、絶対の決意。義之は真っ直ぐにさくらを見た。さくらは「本当に……?」と呟く。「はい」と頷き、義之は笑顔を見せた。

「俺は消えません。だって、俺がそう信じているから。だからさくらさんも信じてください、俺は消えたりなんかしないってことを。さくらさん一人の想いだけで足りないっていうのなら俺の想いもそこに加える。二人分の想いがあれば、きっと大丈夫。俺は……消えません」

 さくらは碧い瞳で、真贋を見極めるかのように義之を直視した。何かを考え込んでいるかのような沈黙。ややあって、「……うん」と頷いた時にはその顔には悲しみの色は欠片も残っていなかった。義之の想いに応えるように真っ直ぐに義之の瞳を見返してくれる。不意に、にゃは、とさくらが笑った。何故、このタイミングで笑うんだろう、と少し狐につままれたような気分になって「はい?」と義之が声を出すと「ううん」とさくらはやはり笑顔で言う。

「カッコよくなったね……すっごく、ボクには勿体無いくらいに……いい男になったよ、義之くん」

 満面の笑みでそんなことを言う。何を言っているのか、という思いとその笑みを前にした時の安心感が同時に義之の胸に飛来した。さくらさんが自分に勿体無いことはあっても自分がさくらさんに勿体無いなんてことあるはずがないのに。言葉の真意を理解した途端、照れくさくなり、「そ、そんなこと、ないですよ」と義之はあたふたと慌てた声を発していた。さくらはそんな義之の慌てっぷりを楽しむように再び微笑むと、「ううん。ホントにカッコよくなったよ」と続けて言う。一泊の間、そして、

「今の君には、ボクの全てを捧げたいと思う」

 そう言って意味深な笑みをさくらは浮かべたかと思えば瞳を閉じて何かをねだるように首を上向きにする。何を求めているのかは、明白だった。義之は自らの顔をゆっくりとさくらの顔に近づけ、その唇に自らの唇を触れさせる。

「んっ……」

 さくらの声と吐息がもれる。『枯れない桜』だけが見守る中、黄昏に照らされた二人のキスは余人が立ち入る余地のない不可侵の領域を形成し、義之は唇のやわらかさ以上にあたたかみを感じた。自分と彼女の愛の証。自分と彼女の心が通じあっているという証左。想いの力の具現。様々なものを義之は繋がった唇を介して感じる。これだ、と思った。これこそが自分がこの世界に存在する何よりも重要なものなんだ。やがて名残惜しい思いを残しながら唇をゆっくりと離す。かなり長い間、口付けをしていたのだろう。ぷはぁ、とさくらが息を吐いた。その仕草も愛おしい。口付けを離してからそう時間が経っていないのにさくらは「義之くん……」と何かを言いたそうに上目遣いで義之を見る。「帰ろうか」と続けて言った。デートはこれで終わり、ということか。まぁ、いいだろう。朝から夕暮れの今までもう充分、堪能した。彼女の可愛さは十二分に堪能した。そう思って「ええ、今日のデートはこれで終わりですね」と口にするとさくらはキョトンとした顔になった。そして「違うよ〜」と笑う。そうかと思うと、ちょっとためらった仕草を見せ、

「……義之くんにはボクの部屋に来て欲しいんだ」

 黄昏の光を浴びた頬を朱色に染めながら、そんなことを口にした。



 当然だがさくらの部屋は芳乃邸の一角にある。一階にある和室の一つ。長年使っているというさくらの言を聞くまでもなく、義之が物心ついた頃――生まれた頃からさくらが使っている部屋だ。当然、入るのは初めてではない。義之が芳乃邸に住むようになる以前、朝倉邸に住んでいた頃から遊びに訪れることもあった部屋だ。芳乃邸に住むようになった今では掃除や寝ているさくらを起こす時などでちょくちょく、とはいかないまでもそれなりの頻度で訪れることのある場所である。いわば、通い慣れた場所。しかし、どうしたことだろう。今、義之はその場所に立ち入ってどうしようもない胸の高鳴りを覚えていた。ドキドキと心臓は大きな鼓動をたてて蠢いている。何かあった訳でもないのにビクリと体は緊張にこわばり、顔は朱色を帯びる。それはさくらの態度のせいだろう。義之はこの部屋に招いた彼女はもじもじと何か重大な事実を秘めているように体をぎくしゃくと動かす、不自然な態度を取り、恥ずかしげに頬を朱色に染めている。胸の奥から湧き上がる羞恥心を必死で堪えるようなそんな態度。否、羞恥心だけではない。その態度に秘められているのは恋心だ。恋する相手を前にした乙女。そんな表現がぴったり当てはまる態度をさくらはとっていた。愛しくて、愛しくて、たまらないんだけど、恥ずかしくてあるいはあまりにも恐れ多くて、何の言葉も出てこない。心の想いが言葉として成立しない。それだけの恋心。触れてはいけない何かに触れようと決意して、だけど最後の踏ん切りがつかなくて躊躇しているような、そんな表情。その全てが初々しい。いつもの義之を振り回し義之の一枚も二枚も上を行き、翻弄するさくらではなく、まるで初めて恋心を知ったばかりの初心うぶ な少女のように今のさくらは義之の目には映った。義之はここにきて初めて芳乃さくらという女性を等身大の一人の少女として捉えた。その態度の全てはこれから起こる出来事に起因していることに間違いはなく――、

 ――義之くんにはボクの部屋に来て欲しいんだ

 先ほどの黄昏の下での頬を朱色に染めて発せられたその言葉に込められた意味に関して、義之は自分の解釈でおそらく間違っていないんだろう、という確信を強めた。その確信が強まれば強まるほど義之は気もそぞろになり、落ち着きをなくしていく。ついには所在なさげにあちこちを見渡す。和室にピッタリ似合う化粧鏡に木製の衣装棚、本棚、一方、こちらは和室とはミスマッチ感あふれるデスクトップパソコン。以前、見た時と寸分変わらぬさくらさんの部屋だ。違いといえばこの間のデートで買った白百合が飾られているくらいだろうか。その部屋に自分はいる。以前とは少し異なる自分が、否、以前とは少し異なる関係になった自分とさくらさんが。

「…………」

 何も言葉が出てこない。それは義之もさくらも同じようだった。この部屋に招かれた、ということはおそらくはそういうことなんだろう。そう、なんだろう。さくらがもじもじするばかりで何も言わないのも、いつもの天真爛漫な笑みではなく羞恥心に染まる緊張の表情をその顔面に貼り付けていることも、つまりはそういうことであるということなんだろう。差し込む夕陽の光が照らすさくらの表情はやはり赤みを帯びている。おそらくは自分も同じように赤い顔をしているんだろうな、と義之は思った。緊張が声帯を麻痺させお互いの言葉を奪う。しかし、それに抗い義之は声を出そうとした。だが、必死の念で絞り出した声は明瞭な言葉にはならず「あ、あの……」と意図を伝えるには不充分な響きだけを残し、そう広くないさくらの部屋に反響する。びくり、とさくらが体を震わせた。そんな声でもこの人を反応させるに足るだけのものはあったようだ。「な、なにかな……?」とさくらがやはり羞恥に染まった顔のまま、もじもじと言葉を発する。

「い、いえ、特に何ってことはないんですけど……」

 そんなさくらを前に言葉を続けることもできず義之はそう言って会話を断ち切ろうとする。しかし、そんなことをしても意味はない。この場所で二人して、いつまでも沈黙を貫き通す訳にはいかないのだ。彼女との間の沈黙はこれまで基本的に心地の良い静寂だったが、今の自分と彼女の間にある沈黙は気恥ずかしさだけが刺激されるなんとか逃れたい類の沈黙だ。
 だが、気の利いた会話などポンポン飛び出る訳がない。自分は彼女に招かれてこの部屋に来た。ということはつまり、やっぱり、そういうことなんだろう。そんな立場で何も言える訳がない。八方塞がり。どうしたものか、と義之が思案していると「義之くん」と声が耳朶を打った。見ればさくらがためらいがちにやはり頬を朱色に染めたまま、上目遣いで義之を見ている。ドキリ、と胸が跳ねることを義之は感じながら「なんでしょう?」と声を返していた。

「さっき言ったよね……? 君にボクの全てを捧げたい……って」

 その言葉に再び胸が跳ねる。全てを捧げる。そうか、あの言葉はそういう意味も込めていたのか、と納得し、そのことに思い至らなかった自分の愚昧さを内心で罵った。言葉に込められた真意を悟ると同意に気恥ずかしさが一気に胸の奥から込み上げてくる。「え、ええ」と必死の思いで声を返すとさくらは羞恥と緊張に塗られた表情で「ボクじゃ……不満?」とささやいた。その一挙一動が初々しく、愛おしい。見ているだけで心臓がどんどん鼓動の音を大きくしていく。義之は内心の動揺を悟られまいとしつつもそれも無駄な努力だと気付いている自分がいた。上擦った声で「そ、そんなこと、ないですよ」と返す。なんて不格好な声だ。これで動揺を隠せているなんてとても思えない。
 夕陽を浴びて、そうすることで自分の中の緊張を押し殺せると信じているかのように胸の前で手を結んださくらの姿は初々しさと愛しさに溢れていて、恋する乙女、という単語を義之の脳裏に思い起こさせる。その姿はあまりにも無垢で、あまりにも幼くて、見ているだけで背徳感すら抱かせる。今、義之の目の前にいるのは数々の博士号を取った天才科学者ではなく、生徒一人一人に気を配り学園のことを第一に考える学園長でもなく、自分を導いてくれる保護者でもなく、芳乃さくらという一人の少女だった。美しい、と思う。この美しい少女を、自分は、今から……。「ねぇ、義之くん」と声。それが、最後通告だった。頬は朱色に染めたまま、それでも決意の色を碧い瞳に秘めて芳乃さくらは告げる。

「ボクを――――抱いて」

 告げられた言葉は艷やかな響きを纏って義之の耳に届いた。ドキリとして義之はさくらを再度見る。幼さと艶やかさ。それら二つの要素が相反するようでいて、相反せず共存している。起伏に乏しい小さな体から何よりも強い色気が放たれ、義之を魅了する。その幼い肢体が発する美に囚われ、目が離せない。わかっていた、ことだった。この部屋に招かれた時点で、この部屋での彼女の態度を見ている時点で、彼女がそれを望んでいるということに。義之はわかっていた。理解していた。だけど、わからないふりをしていた。あまりにも、気恥ずかしすぎるから……否、覚悟ができていなかったから。

「…………」

 結局、自分の不実さに終始する話だった。自分は目の前の少女を、芳乃さくらを愛すると決めておきながらその覚悟ができていなかったのだ。だから、最後の最後でこの男女の儀式の目前になっておきながら尻込みし何も言えなくなってしまう。なんたる不実。そんな覚悟もなく、彼女の恋人面をしていたのだとすれば笑いさえ込み上げてくるだろう。しかし、今は笑うことなどできる状況ではなく、想いを告げた少女は真っ直ぐに義之を見ている。碧い瞳で、自らの生涯の伴侶と決めた男性を女性は真っ直ぐに見ている。この視線に、この言葉に、この想いに、応えないでいることなどそれこそ許されることでもなく、

「――――わかりました」

 義之はそう言い、彼女の覚悟を受け止める覚悟を決めた。
 義之の目をさくらは見ると、意を決したように体を義之の方へと寄せる。ぴったりと、お互いの吐息も聞こえる距離まで近づくとさくらは義之の手をとり、自分の胸に当てた。
「さくらさん!?」と戸惑いの声が義之の口をついて出る。さくらは「聞いて」と静かな、しかし、羞恥心を含んだ声で言った。

「ボクの胸、すっごい、ドキドキしてる。わかるかな?」

 さくらの胸に当てられた手は服越しにさくらの肌の感触を感じ取る。起伏に乏しい体とはいえ、その胸は微かに膨らみを帯びておりやわらかな感触が義之の手のひらを介して伝わってくる。しかし、それ以上に、ドキドキバクバクとした鼓動の音がハッキリと手のひらを介して伝わってきた。「俺もですよ」と義之は声に出していた。

「俺も……同じくらいドキドキしてます」
「そう……かな? ドキドキ、してる? ボクなんかが相手でも?」

 この期に及んで何を言っているんだ、この人は、と思った。ボクなんか? 冗談じゃない。貴方だからこんなにドキドキさせられているというのに。その思いが「なんならさくらさんも触って確かめてみてくださいよ」と言葉になっていた。
 さくらは「……うん」と頷き、自分の手を義之の胸に当てる。「うわあ」と声が上がったのはその後すぐだった。その声音に歓喜の色が含まれているように聞こえるのは義之の思いあがりだろうか?

「ホントだ。義之くん、すっごいドキドキしてる」
「でしょう? さくらさんが相手だから、こうなんですよ」
「そっか……ボクが相手だから……」

 惚けたようにさくらは呟き、そして、「もっとドキドキするかもしれないね」と言った。どういう意味……と言葉を出しかけた義之の唇はさくらの唇を押し当てられふさがれた。突然のキスに義之は一瞬、頭の中が真っ白になるが、すぐにさくらの唇の感触を味わうことに思考が移行した。さくらさんの唇はやわらかくて、あたたかい。ずっとずっと、一秒でも長く、その感触を味わってみたくなる。そんな思いは不意にさくらの唇が義之の唇から離れたことで雲散霧消した。ぷはぁ、とお互いに息継ぎ。さくらは惚けた顔のまま、「ここから先……行こうか」と言った。照れと緊張を多分に含んだその言葉。ここから先、キスの先、男女の儀式。それが何を意味するか、ここまできてわからないバカはいない。義之もまた照れが感情を支配するのを感じながら、「……はい」と頷いた。

「……義之くん」
「なんでしょう?」

 名を呼ばれ問いかける。さくらは顔を真っ赤に染めたまま右手の人差し指と中指を自らの口元に当て、隠すようにしながら「……やさしく、してね?」とささやいた。可愛い、と素直に思った。もうここまで来たら多くを語る必要はない。義之は「はい」とだけ頷く。
 部屋に差し込む夕陽もいつの間にか消え、夕焼けを薄青色の帳が上書きしていく空の下、薄暗くなった部屋の中でお互いの気持ちが一つに繋がっていく。その夜、義之はさくらと一つになった。



 果たして、そこは夢か幻か。消えゆくソレは断末魔の叫びをあげる代わりに道連れを求めた。自分だけが消えていくなんてことがあっていいはずはない。ソレは思考をしないが、もし仮にソレが思考をする存在であったとすればその思考はきっとそうであったであろう。道連れに選ばれたのは当然とも言える人物だった。
 ひらり、はらり。薄紅色の花びらが舞っている。不可思議な空間であった。空には太陽も無ければ、月も無い。ただ薄青色だけが天空を覆っている。にも関わらずその空間はうっすらとした明かりに照らされている。見渡すかぎりは桜、桜、桜。桜の木が群れをなして所狭しと植えられている。そして、その中央には一際巨大な桜の木が一本。この木を中心にこの世界は構成されているのだろう、とその場に居合わせた少年には思えた。視界を埋め尽くす桜の木々はどの木も薄紅色の花々を満開に咲かせていて、ただ、ただ、美しい。美しく、幻想的で、神秘的で、非現実的だ。この空間には現実的なモノというものが致命的に欠けている。けれどそんなこと問題ではないだろう、と少年には思えた。だって、そうだろう? こんなにも美しいんだから。この美しさの前には他のどんなことだって些細なことになるに決まっている。ふと、違和感。そう認めた矢先に違和感が脳裏をかすめ、少年は微かに首を傾げた。程なくしてその違和感の正体に気付く。
 ――――俺は、誰だ?
 自分の名前が思い出せない。否、名前だけではない。自分にまつわる全てのことが思い出せない。これまで何をしていたのか、これから何をしたいのか。何が好きで、何が嫌いなのか。望みは何なのか、義務は何なのか。それら全てが忘却され、脳裏から消え去っている。思い出せない。思い出そう、と努力はしてみるものの、何も頭には浮かばない。途端、自分の存在がひどく曖昧なものに少年には思えた。ここにいるようでいて、いないような感覚。足元が定まっていないような、宙に浮いているような浮遊感にも似た感覚。まるで、この世界に自分は存在していないような、してはいけないような感覚。だが、そんな違和感も疑問も不安も、全てはこの光景の前では無意味に思える。薄闇に冴える桜の花々の薄紅色が視界を埋め尽くし、思考を放棄させる。この美しさの前では何もかもが無意味に思えてくる。熱に浮かされたような頭で多分、自分は存在していないんだろうな、とぼんやりと思った。自分のことを全て忘れ、やるべきことも、やりたいこともない。たった独り、この世界に存在しているだけの無意味で無価値な存在。それが、自分だ。ならばその存在に意味はあるのか? 多分……ないだろう。自分にできることといえばただこの桜にあふれた世界で舞い散る桜の花々を綺麗だ、と思うことしかできない。それすらも自分は不要だ。だって、自分がいようがいまいが、この世界は変わることがない。ただ、桜の花びらを舞い散らせ華麗に存在するだけだ。そこに自分という存在は不要だ。
 ならば――――消えるか?
 それもいい、と思う。この桜の花にあふれた美しい世界に溶け込めるなら、目の前のこの荘厳な桜の巨木と一体になれるのなら、それも悪くはないかな、と思う。そうだ、そうしよう。今すぐにでも自分という存在を無くそう、ここから消えてなくなろう。桜の花はそんな甘美な誘惑をもたらし少年の思考を徐々に侵食していく。ついに、少年が思考というものを放棄しようと思った時、

 ――――  くん。

 声が聞こえた、気がした。
 誰かが何かを言った、気がした。
 それはとてもとても大切な人の、とてもとても大切な言葉のように思えた。
 そういえば、自分には大切な人がいたような気がする。それはこの場所に来て、少年が初めて思い出したことだった。とても大切な人が……ずっと一緒に歩んでいこうと決めた人が、いたような気がする。

 ――――  くん。

 また、声。一体誰なんだ、と思う。声の主がわからない。しかし、その声がする度に自分という存在がどんどん明確になっていくような感覚を抱く。からっぽの器に次々と中身がそそがれていくような感覚。その感覚は大切なもので、忘れてはいけないものだと桜に浮かされた頭でも理解できた。
 この声の主は、誰なんだろう? 気になった声のした方を見る。そこには――、

「…………?」

 誰もいなかった。声自体が幻聴であったと言うかのようにその方角に人の姿は影も形もなかった。周囲と変わらず桜の木々が立ち並んでいるだけだ。全く、何なんだ、と思う。せっかくあの人が来てくれたと思ったのに――――あの人?
 首を傾げる。あの人? 自分は誰が来たのだと思ったのだ? 誰の声だと期待したんだ? 頭の中にはなんの記憶も残っていないはずなのに。『あの人』だなんて……。馬鹿馬鹿しいとも思う。しかし、その思考は脳裏を埋め尽くし、顔も思い出せない『あの人』のことが胸の奥底に根付いて離れない。なんだろう。すごく大切な人、だったような気がする。『あの人』は自分にとって……。
 不思議な事に『あの人』について考えだすと、消える訳にはいかない、という気持ちが少年の胸に湧き上がってくる。消える訳にはいかない。そうだ、自分は消える訳にはいかないんだ。何故だ? 何故、消えてはならない? 消える訳にはいかない? 先程まではそれも良しと思っていたではないか?
 だが、胸に湧き上がるこの気持ちだけは否定しようがなかった。理由はない、否、わからない。理由はわからないが、何故か消えてはならないという強い思いだけは胸の奥底から湧き続けて止まらない。だって、

 ――――だって、自分が消えればあの人は悲しむ。

 ハッとする。また、だ。また『あの人』だ。また『あの人』のことを考えている自分がいる。『あの人』が誰なのか、それすらわからないのに。なのに思考は全て『あの人』を中心に回り出している。『あの人』はたしか……。少年は思考を動かす『あの人』の正体について必死で思い出そうとした。そうすると靄に包まれていた『あの人』の正体について徐々に記憶が呼び起こされていく。たしか、『あの人』は自分の恩人、だったような気がする。そして、自分の保護者のような人でもあった気がする。そして、そして……。

 ――――自分の何よりも大切な人だったような気がする。

 そうだ、と気付く。『あの人』は自分の……恋人だ。何よりも大切な、世界の全てを敵に回しても守ってあげたい、そんな、人だ。そして、世界の全てを敵に回しても自分を守ってくれる、そんな、人だ。自分と共に未来を歩んでいこうと決めた、そんな、人だ。歯がゆい。ここまで思い出せているのに何よりも肝心な『あの人』の名前を思い出せないなんて……。少年は自らの不実さに歯噛みし、視界を上げた。そこには薄紅色の花々を咲かせた桜の木々が立ち並んでいる。それをぼんやり眺めているとふと脳裏に閃くものを感じ、少年はハッとした。桜? 桜……サクラ……さくら……!

 ――――さくら!

 その名前を思い起こした瞬間、少年の体は電撃が走ったかのようにビクリ、と震えた。歓喜の感情に、打ち震えた。少年は思い出せた。思い出すことができた。芳乃さくら。少年の大恩人で、保護者で、そして、恋人。その名を。その瞬間、再び声が聞こえた気がした。自分のことを呼ぶ、さくらさんの声が。

 ――――  くん。

 その声の方向に再び振り向く。今度はいる。さっきとは違う。さっきは自分は何も思い出せていなかったけど、今は思い出せている。だから、見える。今度は会える。あの人に! その確信が胸にはあり、少年の視線の先、そこには、

「さくら……さん!」

 薄闇の中に冴える金色の髪。宝玉のように美しい碧い瞳は不安そうに染まっていて、端正な顔たちにも弱気が目立つ。しかし、それも一瞬のこと。少年の声を聞いた瞬間、彼女は相好を崩して輝くような笑みを浮かべた。見ているだけで安心できる、そして、愛おしいその笑顔。ああ、この笑みだ、と少年は思った。ずっと前から、最初に出会った時からこの笑みに見守られて生きてきた、この笑みを見て生きてきた、この笑みを見て好きになった。この人に一番似合う表情、笑顔。それを今一度確信する。少年はもうからっぽではなかった。体の中が、頭の中が、心の中が、あふれる感情で埋め尽くされる。少年の中にやりたいこと、やるべきことが芽生えていく。少年を空虚な存在から、存在していない存在から、存在している存在へと変えていく。少年の中に存在意義というものが生じ、少年の存在を確かなものとして世界に刻む。そして、決め手とばかりにさくらは少年の名を呼んだ。

「義之くん!」

 義之くん。心地の良い声音が耳を打つ。義之くん、義之、桜内義之。そうだ、自分は……桜内義之だ! そう思い出せた瞬間、体が実体を持ち、おぼろな存在が確固たる存在と化し、この世界に根付くのを感じた。それまで感じていた稀薄さは薄れ、自分はここにいるという実感が全身を満たす。少年は――桜内義之はそこにいた。たまらず「さくらさん!」と自分を呼んでくれた人の名を呼び駆け出す。そう時間はかからずさくらの元に辿り着いた義之は自分の体に思いっ切り抱きついてきたさくらの小さな体躯を受け止めることになった。「義之くん! 義之くん!」とさくらの声が続く。その声音は喜んでいるようなあるいは、泣いているようなもの。感極まったと言わんばかりの声に義之もまた「さくらさん」と再びその名を呼んでいた。ぎゅっと抱きしめられる。義之の存在をたしかめるかのように、あるいはもう離さないと告げるように。

「君は、独りじゃない」

 さくらは言う。独りじゃない。それはかつて義之がさくらに向けた言葉。その言葉が、想いが、あたたかみを伴って胸に染みる。絆。目の前の少女、誰よりも大切な、恋人から宛てられたその言葉が意味するのはきっとそうなんだろう、とぼんやりと思う。義之を抱きしめたままさくらは言葉を続ける。

「ボクが君を想い続ける。世界中の誰もが、あるいは、世界そのものが君を否定してもボクだけは君を信じ続ける。絶対に、絶対に、君のことを忘れたりしない」

 続く言葉は絶対の決意の現れ。世界そのものという巨大な敵を相手に回しても絶対に折れたりなんてしないという決意。その具現。それが今、目の前で自分のことを抱きしめている少女なのだろう、と義之は思った。それは決して口先だけの軽いものなんかじゃない。真の、純粋にして、確固たる想いの元にあるであろうことはこの全てが自分を否定する世界の中にあってはたしかなことだ。それを確認した瞬間、胸の奥底から名状しがたい衝動が湧き上がってくることを義之はたしかに感じた。胸に芽生えた、この想い。この想いはなんというのだろう? いや、悩むまでもない。答えは既に、わかっている。多分、これは――、

「愛してるよ、義之くん」

 ――そう。きっと、『愛』というものなんだろう。さくらの言葉にそれをたしかめた義之は「俺もですよ」と言葉を返していた。

「愛しています、さくらさん」

 心と体。その全ての繋がりがあるから、信じられる。自分と彼女との間を結ぶたしかな感情。世界の否定さえ跳ね除ける強い想い。親と子ではない。恋人だから、繋がれる、感じられる、想える、二人の絆。それを理解した瞬間、ああ、そうか、と義之は悟った。

 ――俺は、ここにいてもいいんだ。

 この人が自分を信じている限り、この人が自分を想い続ける限り、自分がこの人を信じている限り、自分がこの人を想い続ける限り、桜内義之という幻想は幻想ではなく、たしかな存在として、この世界に存在し続ける。『愛』という何よりも大きく、強い想いをお互いが信じている限り。

「さくらさん……」
「義之くん……」

 自然とお互いの唇は触れ合っていた。あたたかな感触。このぬくもりが何よりも強い力となり、俺を存在させるんだ、という思い。このぬくもりは何よりも大切にしなければならない、という思い。様々な思いが義之の脳裏をよぎったが結論は一つだった。

 ――――さくらさんが愛おしい。

 繋がった唇が『愛』の証となる。そんな二人を祝福するように桜の花びらが舞い、二人の体に降り注いだ。義之は一旦、唇を離すと、周囲に立ち並ぶ桜の木の中で一際巨大な木――『枯れない桜』を見上げた。天に向かって大仰に広げた枝木の数々に薄紅色の花々を咲かせた荘厳な巨木は変わらぬ姿で自分たちを見下ろしている。しかし、その様子はどこか、これまでとは違うように思えた。『枯れない桜』が自分たちを祝福してくれている? 不思議と義之にはそう思えた。思えば勝手な話だ。こちらの都合で咲かせておいて、不必要になったから枯れてくれ、と迫る。しかし、自分は消えたくない。これ以上ないくらいに自分勝手。だが、その自分勝手をこの『枯れない桜』は許してくれようとしている。その慈悲の心には感謝するしかない。さくらの体から自分の体を離し、義之はゆっくりと『枯れない桜』に歩み寄る。「ありがとう」と声に出ていた。
 義之はゆっくりと『枯れない桜』の幹を手のひらでなぞった。ざわざわ、と『枯れない桜』がまるで義之の言葉に応えるようにその枝木を揺らす。その尋常ではない勢いは超常の力が働いていることが明確だった。「義之くん!」とさくらの慌てた声が耳に響く。しかし、大丈夫だという確信が義之にはあった。「大丈夫です」とさくらに声を返し、

「『枯れない桜』が俺に見せたいものがあるって……ちょっと行ってきます。大丈夫。すぐに戻りますよ」

 笑顔をさくらに向けた。さくらは最初、戸惑ったような表情を浮かべていたが、やがて全てを悟ったように穏やかな笑顔になると、「うん。いってらっしゃい」と言った。

「ボクは一足先に帰ってるね。大丈夫。義之くんのこと、ちゃんと待ってるから」

 見ているだけで安心するさくらの笑顔。それはこの時も変わること無く義之に安堵の感情をもたらしてくれた。「はい。行ってきます」とだけ返すと、視界を『枯れない桜』に向ける。そして、両の手をその幹に当てた。
 瞬間、世界が暗転した。
 浮遊感。義之をこれまで何度も襲った感覚。しかし、今回は少し違った。自分が消えかけているような浮遊感ではない。本当に義之は宙に浮かんでいた。周囲には相変わらず桜の木々が立ち並び、一見すると何も変わってないように思える。だが、違う、とわかった。さっきまでの場所とは違う場所。その証拠として漆黒に彩られた天空には月が浮かび上がっている。『枯れない桜』を中心に桜の木々が立ち並ぶ場所――桜公園だ、と思った。気付けば舞っているのは桜の薄紅色の花びらだけではない。天空よりポツポツと、純白の雪も降り注いている。この光景、この景色には覚えがある。自分の中にある最初の記憶。原初の記憶。あの人と出会った夜――、

「ボクにも家族が欲しいです」

 声。それは聴き馴染んだものであって、思わず義之は声の方へと視界を下ろした。『枯れない桜』の麓で一人の少女が祈るように膝を折っている。想いを桜に託している。その姿は何よりも真摯で、尊く、儚く、そして、哀れですらあった。

「あり得たはずの可能性を、見せてください」

 少女が願いを告げると『枯れない桜』はそれに応えるようにその枝木を大きく揺らした。ざわざわ、ざわざわ。ひとしきり揺らし終わると『枯れない桜』の麓に光が発生する。それは普通ではあり得ない超常のもの。その証拠に光はそのまま消えることはなく人の形を象るとそのまま実体を持った人間となってその場に『出現』した。
 ――黒髪の少年だった。少女とよく似た顔たちをした幼い少年。何も知らない純粋無垢な瞳で世界を見つめている少年。なんてことはない、幼い日の、あの日の、あの雪の夜の、さくらさんに出会った夜の自分自身がそこにいた。少年は不安そうな瞳で空を見上げる。そんな少年に少女――さくらはやさしげに声をかける。その表情は幸せに染まっていて、ああ、そうか、と理解する。

 ――――芳乃さくらの内に生まれた希望サクライヨシユキ ――――

 ――――俺は、さくらさんを幸せにするために生まれてきたんだ。
 その事実をようやく理解した自分の鈍感さに腹立ちを覚える。ようやく理解できたことに喜びを覚える。ようやく理解できた自分の存在理由。自分とさくらさんが今の関係になることは、最初から決まっていたこと、すなわち、運命、だったのだろう。何故ならこの身は、この心は、あの人を幸せにするという目的のために生み出されたものなのだから。今になって、今だからこそ、理解できた自分という存在の意味。それを胸の中で深く、大切に、噛み締める。自分の存在はあの人のためにある。なら、あの人を笑顔にしなければならない。決して悲しませるなんてことはもうあってはならない。そのことを強く、強く、胸に刻みこむ。もう二度と、あの人に悲しい顔をさせないように。あの人にずっと笑顔でいてくれているように。自分は、ずっとあの人のそばにいよう。きっと、この身と心はそのためにあるものなんだから。
 もう少しだけこの景色、自分の原初の記憶を見ていたいという名残惜しさを感じつつも、ここは今の自分よしゆき がいるべき場所ではない。今の自分の居場所は他にある、という確信を抱く。次第に遠ざかっていく幼き日の自分とさくらさんの姿。舞い散る桜の花びらと雪の薄紅色と純白の色。徐々に幻想の世界から現実へと意識が引き戻されていっていることを感じる。自分の起源ルーツ と生まれた意味は知った。『枯れない桜』はこれを自分に見せたかったのだろう。理解した。全てを、とはいかないまでも自分という存在の意味を知ることはできた。ならば、後は帰ろう。大切な人が、愛する人が、あの人が待つ場所へ。
 ――――そうして、桜内義之はこの夢とも幻ともとれる世界から現実の世界へと帰還した。



 目を開けて最初に見えたのは心配そうな碧い瞳だった。さくらさんだ。さくらが身を乗り出して横になっている義之の顔を覗き込んでいる。その碧い瞳が、表情が、心配の色に染まっているのはあの別れ方をした後では無理からぬことだろう。さっきまでの光景、夢か幻かと疑ってしまう幻想的な世界はたしかに『あった』ことだと再確認しながら義之は「さくら、さん」と声を絞り出した。碧い瞳がハッと見開き、次いで安心したようにその表情が和らぐ。さくらが顔をどけて義之が起き上がるスペースを確保できたことを確認すると義之はその上体を起こした。そして、違和感を覚える。これまでとは違う、という感じがたしかにあった。これまで……存在が消えかけていた時の体の違和感。存在しているのに存在していないような体の稀薄さ、実体の無さ、体と心の乖離感。それらが全てなくなっている。体をまとう違和感がなくなったことに対する違和感。それまであった違和感が消えてなくなって正常に戻っていることに戸惑いを覚える。体はしっかりと生の肉体としてここに存在し、心と深く、強く結びついて離れることはない。『桜内義之』はたしかにここに存在していた。
 そのことを認識し、そして、今いる場所に少し戸惑う。今、自分が横になっているのは住み慣れた自室、ではなかった。和風の景観に木製の衣装棚、さくらさんの部屋だ、と認識するのと同時にどうして自分がここで横になっているのかを義之は思い出した。あの後、さくらさんと男女の行為をして、その後、二人してここで布団を敷いて眠ったのだと思い出す。そうしたらあの不思議な夢を見て、そして、夢の中で自分の存在理由を知って……。未だ、自分という存在が確固たる存在としてこの世界に存在していることに疑問を抱きながら義之が自分の手のひらを見たりして体の感覚をたしかめていると、さくらが「義之くん」と口を開いた。その表情に不安げな色はもうなく、満面の笑みが広がっている。ああ、これだ、と思った。この笑顔が見たかった。自分をずっと見守ってきてくれたこの笑顔。それが見られるだけで後はもうどうでもよかった。どうして消滅しかかった体がこの世界に再び存在することができたのか、疑問は沢山ある。だけど、この笑顔を前にしてはそんなものは些細なものだと思えてしまう自分もいて、我ながら、単純だと呆れる。幼い頃から見慣れてきたさくらさんの笑顔。見るだけで安心して、そして、愛しさを覚えるその笑顔が言葉を紡ぐ。

「おかえりなさい。それに、おはよう、義之くん」

 それだけで充分だった。後は、もう何もいらない。自分はここに帰ってくることができた。ここにたしかに存在して、消えてなくなったりしない。この人と、愛する人と共に未来を歩いて行くことができる。それを確認すると自然とまた義之も笑顔になり、

「ただいま。それから、おはようございます、さくらさん」

 ――――これからはずっと一緒だ。その確信はたしかに胸に強く、強く、あり。縁側から差し込む朝日に照らされ、さくらの端正な顔たちが輝きを帯びる。絹糸のような金色の髪、宝玉のような碧い瞳。穢れを何も知らないような純粋無垢な顔たちが満面の笑みをたたえる。これからも自分はこの笑顔に見守られて生きていくのだろう、これからも自分はこの笑顔を見て生きていくのだろう。そう、強く、強く、確信する。見慣れた笑顔が与えてくれる安堵に、胸の中は透き通るような清涼感。これ以上ないくらいの充実感を覚え、義之は笑みをさらに深くする。これ以上の喜びはない。これ以上何を喜べというのか。自分はこれからもずっとさくらさんと同じ道を歩いて行くことができる―――――。
 この笑顔がずっと続くように、自分にできることは全てしよう、と思う。だって自分はそのために、自分はこの人が笑顔で、幸せでいられるために生み出された存在なのだから。そして、この人の幸せはすなわち自分の幸せでもある。二人が互いに幸せでいられる未来。それは、すぐそばにある。
 冬の朝。凍える冷気は健在ながらも胸の中はあたたかく、義之は目の前の人と共に歩いて行く未来に想いを馳せた。それはきっと、素晴らしい未来になるだろう、と、たしかに信じることができた。





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