幕間4
強い潮の香りが鼻先をくすぐった。海に近いこの場所にあってはハッキリとその匂いを認識することができる。ふと視線を向ければ海の青と空の青、似ているようでまるで違う二つの色が接する境界――水平線が眼に見え、その境界は視界の限りどこまでも続いていた。
初音島のフェリー乗り場、港である。
初音島には本島と繋がる橋もかかっているが、本島との行き来をするにあたって一番ポピュラーなのはやはりこの港からフェリーを利用する海路だった。
潮の香りを含んだ風が吹き抜け、さくらの金色の長髪が揺れる。見るに見慣れた海の景色であるが、何度見ても見飽きることはない。自然というものはそういうものだろう。どこまでも続く海に思いを馳せていると無性に胸の中が寂寥感にさいなまれる。哀愁。希望。相反するようで共存する二つの感情の色を海の青は強く放ち、ちっぽけな人間の視線に応える。吸い寄せられるように水平線を視界に収めていたさくらは「それじゃあ、さよならだね」と発せられた声に、ハッとして現実に引き戻された。
言葉の内容の割に声は明るく、あっけらかんとした響きでさくらの耳に届いた。
「アイシア……」
さくらの口から声がもれる。数十年来の友人の名を呼ぶその声音は悲しみの色に染まっていた。そんなさくらを見て「そんな顔しないで」とアイシアは笑う。
「何も今生の別れって訳じゃないんだからさ」
「それは……そうだけど……」
明るい笑顔に思わず困惑する。「また、会えるよな?」とさくらの隣から声が響く。
「もう、義之くんまでそんなこと言って……」
さくら同様、悲しみの色をにじませた義之の声にアイシアは困ったように笑う。
どうして彼女は笑顔を浮かべていられるんだろう? どうしてこんなに明るくいられるんだろう? それが彼女の強さだということなのだろうが、さくらとしてはどうしてもそれが理解できなかった。
彼女をこれから待つのは苦難の道だ。これまでと同様、これからも彼女は孤独と共にあり、ひとりぼっちで生きていかなければならない。義之くんという家族を、生涯の伴侶を手に入れることができた自分とは違うのだ。それがわかっているのに、どうしてこんなに……。
「あたし、初音島に来てよかった」
そんなさくらの内心を知ってか知らずか笑顔のまま、アイシアは言う。「さくらに会えて、義之くんに会えて……」と続ける。
「すっごく楽しかった♪ 思い出も沢山、たくさーん、作れた♪」
ギュッと胸の前で両手をあわせて、本当にその事実を、思い出を噛み締めるようにアイシアは言う。
「それに滅多に見られないこと……奇跡も見せてもらえた」
そう言うとルビーの瞳がさくらと義之を見た。
「『枯れない桜』がなくなって、魔法の力がなくなって、義之くんは消える運命だった。……でも、さくらはそれを覆した! さくらと義之くんは運命に抗って、奇跡を勝ち取った!」
まるで我が事のように、嬉しそうにアイシアは言う。
「それを見られただけで充分! この世界に抗えないことなんてない。どんな苦難も打ち破ることができる。そのことを教えてもらった」
感謝しても、したりないよ、とアイシアは笑った。「アイシア……」とさくらの口から声がもれる。
「ありがとね、さくら、義之くん。あたしに奇跡を見せてくれて。あたしの行く道にはこれからも苦難や困難が待ち受けているだろうけど、それも打ち破って進む。あたしも、いつか……奇跡を起こしてみせる!」
力強く握りこぶしを作り、決意をにじませた表情でアイシアは笑う。「うん!」とさくらは頷いた。
「アイシアならきっとできる。奇跡を起こせるよ。ボクみたいな人間でも、できたことなんだから」
「つらくなったらいつでも初音島に戻ってきていいんだぞ?」
「うん! ありがとね、さくら、義之くん」
さくらと義之の言葉に、アイシアはやはり笑顔を返す。
「次がいつになるかはわからない。……だけど、あたしは必ずこの島に戻ってくるよ。その時まで、ちゃんと、あたしのこと……覚えていてね?」
「うん! 絶対に覚えてる!」
「アイシアみたいな女の子のこと、忘れようと思っても忘れられないって」
義之がそう言うとアイシアは悪戯っぽい笑みを浮かべ「あはは、義之くんはあたしの魅力にメロメロだからね〜♪」などと言う。「な!?」と義之が声を上げる。
「そ、そういう意味で言ったんじゃない……」
「そうかな? あたしがあまりに魅力的すぎて忘れられないってことじゃないの? 嬉しいな〜♪ でも、いいの? 彼女の隣でそんなこと言って……」
さくらはムッと不機嫌そうに唇を結んだ。そうだ。義之くんは自分の恋人なのだ。それが自分以外の女の子にメロメロだなんて……。「さ、さくらさん! 違いますって!」と言い訳じみた弁明が聞こえる。
「別に言い訳しなくてもいいよ。アイシアはすっごく可愛い女の子だもんね〜。そりゃあ忘れようと思っても、忘れられないよね〜」
さくらは突き放すようにそう言った。「でも、さくらさんの方が可愛いですよ」との声が耳朶を打ったのはその直後だった。思わず碧い瞳をパチクリと開いて、義之の方を見る。
「アイシアはたしかに可愛い女の子ですけど、さくらさんはそれ以上に可愛いですって」
その言いようは取り繕っているようでもあったが、本心からの言葉だとさくらには思えた。「ありゃ〜」と楽しそうにアイシアが笑う。
「う〜ん、これはこれは〜。お熱いことですな〜♪」
アイシアのからかうような声にさくらは顔が赤くなるのを感じた。可愛い、自分が……。その沈黙をどう感じたのか義之は、「……ってすみません。やっぱり可愛いとか、失礼でしたか?」と言い「あ、いや、そういうわけじゃあ……」とさくらも反射的に声を返していた。「あはは♪」とアイシアの笑い声が響く。
「大丈夫だよ、さくら。義之くん、さくらにメロメロみたいだし、間違っても他の女の子にうつつをぬかしたりしないよ」
「そ、そんなの当たり前だよ!」
自分達二人を見て、明らかに面白がっている様子のアイシアに対して思わずさくらの語気も強くなる。
「ボクと義之くんはかたい絆で結ばれてるんだからね! 誰にも割って入ることなんてできないよ!」
言った後で少し恥ずかしくなったが、口に出した言葉を訂正することはできない。義之は照れ臭そうに「そういうこと」と言い、アイシアもそれまでのからかうような笑みを消し、真摯な表情でさくらと義之を見る。
「……うん、そうだね。君たちはそうじゃないと。初音島に来て得られた一番の収穫は君たち二人を見られたことなんだからね」
そのルビーの瞳は嬉しげな色に染まっていた。うんうん、と自分を納得させるようにアイシアは頷く。
「さくら、義之くん。君たちと会えてよかった。末永く、お幸せに、ね♪」
いきなり真面目になったアイシアに少し戸惑いながらもさくらは「う、うん」と頷く。義之もまた困惑気味ながら「あ、ああ」と頷いた。
「さて、それじゃあ、そろそろフェリーの出発時間だね」
「うん。アイシア……元気でね」
「またな、アイシア」
視界を移し、フェリーを見上げたアイシアにさくらと義之は声をかける。「うん、またね♪」とアイシアは笑顔で返事をし、それっきり、踵を返した。
そうして、アイシアの小さな背中が遠ざかっていく。その様子をさくらは見つめ続けた。世界に否定された女の子。孤独と共に生きていくことを宿命づけられた少女。それなのにその背中は、その足取りは迷いのない立派なもので、思わず言葉を失ってしまうのも無理からぬことだった。気が付けば「アイシア……幸せになれるかな?」と義之に問いかけていた。
「きっとなれますよ。俺達だって奇跡を起こせたんです。アイシアも、奇跡を起こせますよ」
「……うん、きっと、そうだよね」
そうだ。そうでなきゃ、嘘だ。アイシアは幸せにならなければならない。自分のような重罪人でも幸せになれたのだから、彼女が不幸のままでいていい理屈なんてない。幸せにね、アイシア。
そうして、さくらは視界から消えるまでアイシアのことを眺め続けていた。
港を吹き抜ける風は潮気の中に暖かさを秘めていて、これから訪れる春を予感させてくれるのに、充分のものだった。