続くドリーム・スクール・ライフ(前編)


 まどろみの中にあった義之の意識を引き戻したのは、教室、いや、学園中に響き渡るチャイムの音だった。
 義之の計測が正しければ、今日、この音色を聞くのは12回目。予鈴のない風見学園においては、チャイムがなるのは授業の開始時と終了時だけであり、1時間目の開始を告げるチャイムと共に教室に滑り込んでからの記憶が正しければ、これは、6回目の授業の終了を告げる合図ということになる。
 そう、つまり。

「終わったぁーーー!」

 これで、今日の授業は全て終了ということだ。
 義之が声を上げると共に思いっきり背伸びをした。すると、それが伝達したのか、教室中がざわめき出す。
 その様子に、まだ教室に残っていた6時間目の担当教師は少しだけ苦い顔になるも、その視線はの先は義之、ではなく。

「あ……はいっ! みんな、静かに!」

 自分に向けられた視線とその意味に気付いたクラス委員長、沢井麻耶が慌てた様子で声をあげる。彼女は教室の皆を諌めると共に咳払いをした。

「えーっと、こほん。……きりーつ、れい!」

 ありがとうございましたー!
 麻耶の号令にあわせて教室中の人間が立ち上がり、頭を下げる。これで、正真正銘6時間目、最後の授業は終了だ。

「はい。それでは、また来週。きちんとプリントはやっておくように」

 手短に挨拶を纏めると、教師はそのまま教室から出て行った。
 切れる緊張の糸。
 枷が外れたかのように一気にクラス中がさわがしくなる。それは、ざわめく、どころの騒ぎではない。
 それも無理もないこと。青春真っ盛りの学生達にとっては抑圧からの解放ほど嬉しいものはない。今日はもう授業はなく、部活動などを別にすれば、一日の中で抑圧されている時間は終わり、自由時間の幕開けなのだ。しかも、それが金曜日のことであり、明日に待っているのは休日なのだから、その興奮も普段より数割増しであった。

「いやー。やっと終わったねぇ」

 ぼんやりとこれから訪れる自由時間に思いを馳せていた義之は後ろからの声に振り返った。透き通るような聞いてて感じのいい声、白河ななかだ。

「ああ。全く数学ってやつはどうしてこうわけがわからないんだかな。眠気を堪えるのが大変だった」
「あはは。義之くんはしっかりと眠っていたじゃない」
「いや、そんなことはないぞ。半分は寝ていたけど、もう半分は起きていたさ」

 からかうような声に義之は憮然として返す。
 嘘ではない。証拠に、義之の教科書やノートの隅々には色々な落書きが並んでいる。仮に真面目に授業を受けたかという質問を受ければ、ノーと答えるしかないが。
 そんな義之を見て、ななかは「本当?」と楽しそうに笑った。

 学園のアイドル、白河ななか。見るものを惹き付けるその愛らしい容貌は、纏っている風見学園の本校制服も抜群に似合っていた。

「後はホームルームだけだな。早く、先生来ないかなぁ」

 ノートや筆箱をバッグにしまいながら、義之は言った。すると呆れたような声が飛ぶ。

「桜内……あんたって本当に人の話聞かないのね」

 麻耶だった。
 心底、呆れた。とでもいうように義之の方を見て、ため息をつく。
 その言葉の意味がよくわからず、義之がななかを見ると、彼女もまた困ったような顔。

「……あはは、義之くん。午後から出張だから、今日は終わりのホームルームはないって午前のホームルームで先生が言ってたよ」
「え? そうなのか?」
「そうよ。お昼に伝えたじゃない」

 言われて見れば……。義之は額に手を当て、記憶を巡った。
 たしかにそんなことを聞いた覚えがある。しかし、お昼時という気の抜ける時間帯。興味のないことは頭の隅っこに追いやってしまい、今の今まで聞いたことすら忘れていた。

「そういや、そうだったな。すっかり忘れていた」
「やれやれ、これだから桜内は……」

 麻耶の呆れ顔。それも義之には見慣れたものだ。入学当初から、彼女には苦い顔ばかりさせている気がする。
 まさか本校に進級してまで同じクラスになるとは思わなかった。まさしく腐れ縁というヤツだろうか。
 しっかりしてよね、と形式的な注意に近いことを言うと彼女は自分の席に戻っていった。

「……ってことは、もうこれで解散ってこと?」
「うん。そうなるね」

 傍らで笑うななか。
 付属時代は彼女との縁はあまりなかったが、本校に進級すると、彼女と同じクラスになり、それからは結構、親しい付き合いをしている。

「ふぅん……」

 随分気の抜けた返事だ。と自分でも思った。
 これから何かがあると構えていたはいいが、直前になってそれがなくなったと聞けば不思議と気が抜けてしまう。

(ま、どうせ、ホームルームなんていっても、適当にプリント配って終わりだしな)

 なくなったこと自体が、自分にとってどうでもいいことならば尚更だ。

「義之くんはこれからどうするの?」
「んー、どうするかって。そりゃ……」

 放課後の義之の予定。それは決まっている。そのことをななかが知らないはずはないのだが。
 いつも通りのこと。
 ホームルームがなくなったところで、何も変わりは――、

(あ……そうだ)

 そこまで考えたところで義之はふと思いついた。

「そうだな。ちょっと、行ってくる」

 たまには、悪くはないか。
 義之はななかに手を振ると、ありったけの荷物を放り込んだバッグをかかげ、立ち上がった。


 風見学園付属3年生のクラスがあるエリア。
 一年前は、義之が付属3年生だった頃は毎日のようにこの廊下を通り、この辺りに配された教室で授業を受けていた。

(もう遠い昔のことのようだな……)

 今年の春、いや冬の終わりまでという、日数でいえばあまり長くはない期間だというのに、その過去は随分と遠く見えた。本校の生徒となった自分の日常がさも当然だと思える。それは自分の毎日が充実しているからだろうか。
 少しだけ懐かしく思いながら、義之が廊下を歩いていると、ひょっこりと、教室から出た牛柄帽子が見えた。

「ん……桜内」
「いよっ、天枷」

 昨年の冬から風見学園に通っているロボットの少女、天枷美夏だ。
 美夏は少しだけ意外そうに、義之を見たが、すぐに「ああ」と納得したような顔になった。

「天枷、えーっと……」
「ふん。みなまで言うな。わかっている」

 にやり、と。からかうような笑い。
 こんな顔が出来るやつだったのか、と義之は意外に思った。この顔はまさに、杏や茜のするような顔ではないか。そう。
 身近に居るカップルをからかう。あの笑いではないか。

「由夢ーーっ! 恋人のお出ましだぞ!」

 ――――ドタン。
 美夏の甲高い声が響くのとほぼ同じタイミングで、教室の中から派手な音がなった。

「天枷。お前……」
「フッ、それでは美夏はこれで失礼する。由夢と仲良くな」
「ん、ああ……」

 意外と空気の読める――いや、したたかなヤツ。杏の影響だろうか?
 遠ざかっていく、牛柄帽子と深紅のマフラーを見送りながら、義之は苦笑いした。

「え、え、え……! あ……ほ、本当だ! に、兄さん!」

 相当に慌てているのか、若干、引っくり返ったその声が微笑ましい。
 教室から飛び出してきた由夢の姿を見て、義之は笑みを浮かべた。

「よ、由夢。ちょうど、ホームルーム終わったところみたいだな。よかった」
「に、兄さん……どうして?」

 真っ赤になって、囃し立ててくる由夢。

「どうしてって。別に俺が迎えに来るのはいつものことだろ」
「え……」

 そう。義之が由夢を迎えに行くという日常に違いはない。いつものこと。ただ、いつもと場所が違うだけ。
 普段は先に授業の終わった由夢が待つ校門のところで合流するのが普通だ。
 だけど、今日は義之の方が先に授業が終わった。由夢はまだ教室にいて、義之はそこまで迎えに行っただけ。
 だというのに。

「そ、そう言われれば……そうなんですけど……」

 何故、これだけ慌てているのか。
 最も、義之には彼女が慌てることは分かっていたし、だからこそ、実行したのだが。

「なんていうか……新鮮で……。兄さんが私の教室まで来るのって」
「はは。まぁ、そりゃ新鮮だろうな」

 頬を赤くして、視線はもじもじと逸らし、けれど、どこか嬉しそうな由夢。
 してやったり。こんな顔をさせてやれたのなら、この試みは大成功。

「たまにはこういうのもいいだろ」


 義之は笑いながら由夢の隣に並ぶ。
 もうちょっとこの件でからかってやるのもいいかと思ったが、飛ばしすぎはよくない。これから次の月曜日までずっと一緒なのだから。

「……はい。そうですね」

 由夢は頬をほんのりとそめたまま頷いた。
 やがて、どちらともなく手を繋ぐ。それがいつもの光景。いつもの日常。

「んじゃ、帰るとすっか」
「はい。兄さん」

 ――――いつもの帰り道だった。



 なにか変だな。

 二人で商店街を歩きながら、義之は思った。
 こうして、学園帰りに二人で買い物をするというのも、珍しいことではない。
 昔と違って接触的に家事に関わってくるようになった由夢。その由夢と今日の晩御飯は何にしようか、などと話しながら一緒に買い物をして帰ること。義之が密かに毎日の楽しみにしていることだった。
 
「…………」
「由夢?」
「え、あ……。兄さん、何ですか?」

 しかし、今日はどうにも変だ。
 学園で合流したときから、今まで、どこか思いつめたような顔をしている。元々、彼女はあまり悩み事を抱えこむことはなかっただけに珍しい。特に、自分と一緒にいる時にそんな顔をするなんて。

「いや、なんか上の空だなーって」

 何気なくを装って、しかし、興味津々に義之は聞いた。
 以前の由夢ならば、このようなことを聞いても突き放すような答えしか返ってこなかっただろう。

「そう、ですか? 別にそんなことは」
「本当に? 何か考え事でもあるんじゃ……」
「本当、です」

 返って来たのは、少しだけ含みを帯びた声。
 以前の義之ならば違和感を覚えつつも、この答えに満足していたかもしれない。
 朝倉由夢の兄、桜内義之なら、妹に何か考え事があるとわかっても、本人があまり話したがらないことを不用意に突っ込むこともないか、と。
 しかし。

「いや、嘘だろ」

 朝倉由夢の兄ではなく、恋人である桜内義之には、それでは満足できない。

「む……」断言しきった義之の言葉が気に入らなかったのか、由夢は少しだけ眉をつり上げる。「どういう根拠があって、そう言うんですか」
「根拠?」
「はい」

 根拠、か。
 義之は軽く考え込んだ。そんなものは、いくらでもある。
 まず一つはその他人行儀な敬語。
 由夢が義之に対して敬語を使うタイミングは大きく分けて二つある。
 一つは回りに身内以外の誰かがいる、すなわち由夢が優等生モードを演じていなければならないとき。このタイミングならば敬語を使ってもなんらおかしいことはない。
 そしてもう一つは、由夢自身の心象が穏やかではないとき、だ。
 穏やかではない。と一言に言っても、その中身はいろいろあって、単純にうっかり義之が由夢との約束をすっぽかしたなど重大なミスをおかしてしまい不機嫌になっているときもあれば、単純に由夢自身が何かについて考えていて、つい敬語で返してしまうこともある。
 どちらにせよ、由夢がリラックスできていない時に敬語を使う。ということに違いはない。

 しかし、そう思いながらも義之は口に出さなかった。そんな回りくどい指摘をするよりもわかりやすい根拠。目に見えてわかる差異があったからだ。
 義之は一拍置き、そして述べた。
 この言葉を聞いた時、由夢はどんな顔をするんだろう。そんなことを考えながら。

「お前が俺といっしょにいるときはいつも、この世の幸せを全て満喫していると言わんばかりのうきうきハッピーって顔してるから。
 今は愛しのお兄様であるこの俺が隣にいて、しかも、手まで握ってやっているのに、そうじゃないのは明らかにおかしい」
「ふぇっ!?」

 ポカンと。
 由夢の目が見開かれたかと思えば、その頬が真っ赤に染まる。
 そして、その口がパクパクと金魚のように、開かれては、閉じる。必死で何かを言おうとしているものの、言葉にならない。そんな感じだ。

「さっきからお通夜みたいな暗い顔して。いったいどうしたんだ?」

 お通夜は言いすぎかな、と思いつつも義之は言った。
 彼女の表情の微妙なかげりはそれこそ彼女をよく知るもの、恋人である自分や姉妹である音姫レベルでないとわからないような些細なもので、目に見えて曇った顔をしているというわけではない。

「あ、う……に、兄さん」
「ん?」

 由夢の口から発せられていた途切れ途切れの音がようやくつがなり、言葉の形を成す。それは義之の質問に対する答えではなく、質問に対する、質問だった。

「に、兄さん……うきうきハッピーって……私はそこまで、のろけては……。
 そ、そんな感じに見えてた? その……兄さんと一緒にいる時の私って」
「うん。いつも」

 知らぬは当人ばかり、とでもいうか。
 義之だけではなく音姫も。そして、雪月花の面々や美夏も。おそらくは自分たちのことを少しは知っている人間なら誰しもの共通認識だろう。

「……あまり表情には出さないでいたつもりなんですけど……」
「あれで表に出てないってのは相当無理がある」

 廊下で義之を見かけたら声をあげ。義之の隣にいれば、それこそ太陽のように輝く笑みを顔に貼り付けたまま崩さない。それで平静ぶっているつもりだったのだろうか?
 一緒にいる時の彼女は、この世全ての幸せを満喫する、どころか。自分の中には収まりきらない幸せをあたりに振りまいてやる、といわんばかりの顔をしている。
 自分といることでそれだけの顔を見せてくれることを義之は嬉しく思いつつも、同時に少しだけ恥ずかしかった。

「そう……。たしかに心の中はそれくらい幸せな気分だったけど……」
「へぇ」
「うん。兄さんさえ隣にいてくれたら、他には何もいらないなーなんて……あっ」

 ドクン、と。
 思わぬ攻撃に義之の心臓が跳ねた。

「あ、や……兄さん、今のは……」
「…………」

 つい口に出てしまったのか。由夢は由夢でさらに顔を赤くする。
 義之とて、大分と耐性がついてきたつもりだった。この手のネタでからかわれる側から、からかう側に。華麗なシフトチェンジをこなせた気分でいた。
 しかし、やはり、そういうことをさらりと言われるというのは、中々に。

「……えー、あー、その……まぁ、そう思ってくれるのなら」

 義之は真っ赤になっている由夢の顔を見ながら、なんとか言葉を紡いだ。

「俺も、嬉しいよ」

 多分、自分の顔も同じように真っ赤になっているんだろうな、と思いながら。

「………………」
「………………」

 平日の夕方。
 ごく普通の学園の帰り道。ごく普通の買い物途中。
 まだ日も高く、周りには大勢の買い物客で溢れているというのに。
 なんだって、自分たちは、こんな妙な雰囲気になっているのだろうか。

(たしかに、杏たちにバカップルだとからかわれるのも仕方がない、かもな……)

 元々は、突っ込んだ発言を最初にした自分が悪いのだが。
 義之が一人、悪友たちの顔を浮かべながら変な納得をしていると、

「兄さん」

 妙な雰囲気と思考を断ち切るように。涼やかな由夢の声が聞こえた。
 まだ若干の恥ずかしさがあり、彼女の顔を正視することができなかった義之は、商店街にたっているノボリを適当に見回しながら答えた。期間限定! お月見バーガーに、お月見うどん……もうそんな時期か。

「ん? なんだ、由夢」
「さっきの質問の答えなんだけど」
「さっきの質問――ああ」

 はて、と義之は一瞬、考え、すぐに思い出した。

「どうも、私達のことについて、学園のみんなの認知度が低いみたいなんです」
「はい?」

 心外だ、とでも言うように言った由夢の言葉。その意味がよくわからない。

「だから、もうちょっと、学園でも見せ付けてあげた方がいいかなぁ……って思っていたんだけど」
「由夢?」
「そういうのって、私も兄さんも柄じゃないし……」
「えーっと、由夢ー?」

 一人で納得して話を進める由夢について行けなくなり、義之は疑問の声をもらす。と、その時だった。

「あー、朝倉さんじゃない!」

 ふいに飛んできた声に注意を惹かれる。
 みるとそこには風見学園付属の制服に身を包んだ女子の集団がいた。
 胸につけているリボンは由夢と同じ緑色。由夢と同級生――親しげな様子からクラスメイトだろうか?――の一団のようだ。

 学園の帰り道に商店街に寄るというのは何も買い物をする人間に限定されたコースではない。ここにはカラオケボックスやゲームセンターなどの娯楽施設があるし、喫茶店や服屋など女の子の好みそうな物も多い。
 学園帰りに親しい仲間で適当に商店街を散策していたところ、見知った顔を見かけて声をかけてみた、というところだろう。

 義之が知り合いか、と目線で問いかけると由夢はこくりと頷いた。

「朝倉さん、それに桜内先輩も。こんにちはーっ」

 がやがやと、義之たちのもとに寄ってくる少女たち。よくよく見れば、彼女たちには見覚えがあった。由夢や美夏に用があって、クラスを訪れた時によく見ている顔だ。

「やっほー、朝倉さん」
「みなさん、こんにちは」
「こんにちは……って君はたしか杏の」
「はい。お久しぶりです、桜内先輩」

 特にその中の一人は、杏と一緒にいるところも見る――たしか同じ演劇部に所属の――わりと馴染みの後輩ではないか。
 これでは何事もすぐに忘れると言われても仕方がないな、と義之は内心思いながら、それを隠すように笑みを浮かべた。

「桜内先輩ー、次の文化祭でも杉並先輩と一緒に何かを企んでいるって本当ですか?」
「まさか。俺は健常なる一般生徒だ」
「そう思ってるのは先輩だけだと思うけど〜」

 まくしたてるような少女たちの言葉に少しだけ肩を竦めるも、当たり障りのない答えで返す。こんなもの、杏や茜の相手をするのに比べたら楽なものだ。
 優等生モードになった由夢も談笑に参加し、他愛もない会話に場が和む。
 しかし、おそらくは何気なく放ったであろう言葉に、

「それにしても、兄妹でご一緒にお帰りですか?」

 一気に場は凍りつくことになった。
 ピキリ。何かが凍るような音を聞きながら、義之は「ああ、そういうことか」と。先ほどの由夢の言葉の意味を理解した。

「ほんと朝倉さんと先輩って兄妹仲がいいですよね」
「………………」
「あ、ああ……まぁね」

 隣の由夢の顔を見ることが出来ない。
 相変わらずにこやかに笑いかけてくる後輩たちに、義之は曖昧な相槌を打った。

「音姫先輩とも仲いいですしね〜。桜内先輩は」
「まぁ、朝倉さんの家は家族仲がいいから」
「羨ましいよねぇ。うちにも兄貴がいるんだけど、これがどうしようもないヤツでさ〜」

 朝倉さんはいいお兄さんを持って幸せだね。

 多少の違いはあれど、少女たちが言っているのは概ねそんなところだ。その言葉に悪意は感じられない。
 彼女達は傍にある冷気、由夢が放っている冷気にはまるで気付いていないようで、義之だけが一人、その極寒のオーラに肩を震わせた。

「あはは、まぁ、ね。はは……」

 なんとかフォローしようとするも、なんといえばいいのか。相変わらず口を開いても出るのは歯切れの悪い言葉だけ。

「みんなー、もうそろそろ……」

 そんな折、少女達の一人が携帯電話を取り出したかと思えば、その時刻表示を見て、声を潜める。
 つられて義之も、空を見ると、たしかに。太陽はその角度を落とし、もう夕暮れと言っていい時間に思えた。

「あ、そうだね。それじゃ行こうか」
「うん。じゃあね、朝倉さん。それに桜内先輩!」
「あ、ああ。じゃあな」

 次から次へと手を振り、義之たちのもとから遠ざかっていく少女たち。その様子はまるで嵐のよう。
 彼女らに答えて、手を振りながら、義之はチラリ、と横目で由夢を見る。
 義之の妹、いや恋人である彼女は、

「………………」

 なんとも形容しがたい表情で、友人たちの後姿を見つめていた。


「……なるほど。バカップルね」

 喫茶店『ムーンライト』。
 全てを話し終えた義之に返ってきたのは、杏の冷笑するような視線だった。

「ねえ、杏ちゃん。私の聞き間違いだったのかな」
「…………」
「『由夢とのことで悩みがあるんだ』……なーんて、ものすごーく真剣そうなことを言っていた気がしたんだけど」

 茜は(義之のおごりの)オレンジジュースを一気に飲み干すと、にやりと笑った。

「なんか、延々とバカップルの自慢話をされただけのような」
「ええ。私もバカップルの自慢話にしか聞こえなかったわ」

 二人して顔を見合わせ、そして、からかうような視線を投げかけてくる。
 やはり、こいつらに相談するのは間違いだったかもしれない。本校に進級して、二人とは別のクラスになってしまったが、悲しいやら嬉しいやら、二人ともまるで変わりはない。月が欠けても、雪月花は健在だ。

「お前らなぁ……俺は結構、真面目に」
「ふふ、幸せな毎日を送っているようで何よりね」
「まったくですなぁ。ほんっと、羨ましい♪」

 たしかにそう言われても仕方がないかもしれない。うなだれながらも、義之は思った。由夢がここ最近抱いているという悩み、その内容は。

「ようするにー、学園中のみんなに自分達の仲を知ってもらいたい、ってことでしょ?」

 茜の言葉。
 それは、当たらずとも遠からずか。由夢はそこまで自己主張の激しい人間ではないはずだ。おそらく不満なのはその点ではないと義之は思っていた。

「そういうわけじゃあないんだ。なんつーんだろうな」
「…………?」
「いつまでたっても兄妹っていう色眼鏡で見られるのがいやであって、別にカップル扱いされたいわけじゃないらしいけど……あー、もう!」

 説明しながら、義之は頭を掻いた。
 自分でもいまいちよくわからないのだから、他人にうまく説明することなどできるはずがない。
 実際、茜はわけがわからないという風に首を捻り、杏ですらもポカンとした顔になっている。

「さっき茜が言ったことと同義に聞こえるけど……」

 机に置かれた(これまた義之のおごりだ)パフェ。最後に残っていたチョコレートチップをほお張りながら、杏が言う。

「そうなんだよな。俺もわけが分からない」

 あの帰り道の後、義之は由夢に詳しい話を聞いてみた。
 なんでも事の発端はある日の放課後のこと。
 「相談がある」と真剣そうな顔をした級友に、由夢が話を持ちかけられたことからはじまる。
 誰とでも仲がよく、さらには学園では優等生のキャラで通している由夢だ。このように相談事を持ちかけられることも珍しくはない。深くは考えずに二つ返事をした由夢だったが、その級友の相談事の内容に絶句することになった。
 なんでも。

「自分は桜内先輩が好きだから、妹の由夢ちゃんが便宜をはかってくれないかな」

 ということだったらしい。
 当然、義之の妹ではあるが、恋人でもある由夢がそんな申し出を受けることはできず、丁重にお断りしたらしいが。
 そのことで自分たちがいまだに『兄妹』とみなされていることを知り、愕然とした由夢がクラスメイト10人に「自分と兄の関係はどう見える?」と直接的に、あるいは間接的な言い回しで聞いてみたところ10人中、――由夢と義之の共通の知り合いである某ロボット少女を除いた――9人が『兄妹』と答えたことにさらなるショックを受け、自分たちはそこまで恋人に見えないのかと、思い悩むまでに至ったらしい。

「あはは。それはきっと嫉妬だよ」

 説明の最中に茜が口を挟む。

「そうか?」
「うん。兄弟がどうこうじゃなくて、単に下級生にモテモテの義之くんに由夢ちゃんが嫉妬してるの。それだけのことでーす」

 空になったコップに突き刺さったストローを吸いながらの言葉。その口ぶりには。相当な確信を感じさせられる。
 しかし、義之は笑った。

「はは、馬鹿言え。誰が下級生にモテモテだって?」

 渉みたいなことを言うヤツ、と。杏に視線を投げかけてみるが、

「ふふ…………」

 杏は杏で意味ありげに笑う。

「な、なんだよ?」
「さあて、知らぬは当人ばかり、ね」
「そうだよねー。全く」
「いや……」

 たしかに、由夢にそのことを相談した娘は自分に気があるのだろう。
 けれど、それはたまたまその娘が(何を思ったかは知らないが、おそらくは相当特殊な趣向なのだろう)自分のことが気に入っただけであって、下級生全体に人気があるのとは違う。それをあたかもそうであるかのように言われるのは心外だ。
 義之は二人の態度に困惑しつつも、一人、思考を走らせて自分を納得させた。自分のようなどうしようもない人間が人気が出るわけはない。自分のような人間のことをわかってくれるのは、あいつ一人だけだろう。いや、あいつ一人で十分だ。
 自分の全てをわかってくれるのは。

「けど、いまだにそういう関係に見られてないってのは、俺も少し驚いたな」

 脱線した話題を元に戻そうと義之は言った。

「わかると思うんだけどなぁ。普段の態度を見てると」

 一緒に登下校をして、一緒にお弁当を食べて、休日には一緒に遊びに行く。これはどう見ても、恋人の行動だ。
 それを見ているのにわからないとは、由夢のクラスメイトは相当、鈍いヤツばかりなのだろうかと義之は思った。現に義之の知り合いや由夢の知り合いでも美夏などはわかってくれている。しかし。

「いやー、私たちは結構親しかったから分かるけど……」
「由夢さんって、元々、義之にはデレデレだったしね」

 茜と杏は声を渋らせた。

「そうか?」
「うん。普段の態度って言うけど」
「言っちゃあなんだけど、義之が由夢さんと付き合いだす前、一年前の冬の日からやってること自体はあまり変わってないじゃない」

 杏の言葉に義之はハッとした。
 言われて見れば。一緒に登下校……昔からやっていた。一緒にお弁当を……これもわりと昔から。一緒に遊びに……これも、当時は無理やりつき合わされている気分だったけど。
 意識の違いはあれど、その行動はたしかに――。

「いやいや、大違いだって!」義之は首を振る。たしかに一見は同じに見えるかもしれないけど!「昔の由夢はあんなに素直じゃなかったし、あんなに可愛い顔を見せてくれなかったし、俺も一緒にいてあんなに幸せな気分にはならなかったぞ」
「……………」
「……………」
「それに昔は俺が髪を撫でてやったりしたら怒ったし、絶対にキスなんてしなかったし、抱きついてきたりも――あ」

 言葉の途中で絶句する――何を言っているんだ自分は。
 思考しながら、喋るとろくなことにならない。自分のような単細胞ではなにかを考えているとTPOというものが頭から抜け落ちてしまう。
 義之は誤魔化すように咳払いをした。

「はいはい。のろけのろけ」
「まったく、お熱いですなぁ」
「ええ。義之じゃなくて私たちが文句を言いたくなるくらいに熱いわね」
「まさに、青春真っ只中。羨ましい、羨ましい。私たちにも春は来ないのかなぁ〜」
「…………」

 だが、時は既に遅し。ねっとりとした視線が義之に絡みつく。
 気恥ずかしさから目をそらし、口ごもりようにして言った。

「……ともかく、お前らだって、わかるだろ。その……」
「ええ。一般論の話よ。キスにせよ、ハグにせよ。みんなの前ではしたりはしないでしょ?」
「当たり前だ!」

 義之も由夢も人並みの、いや人並み以上の羞恥心は持ち合わせている。それに二人とも根っこのところでは真面目だ。公衆の面前でそのような行為に及ぶような考えは初めからない。
 口付けをしたり、抱き合ったりするのは周りに誰もいない二人きりの時だけの話で。それ以外では、一見したら一年前と変わらない兄弟のような行動に留めて――あ。

「私たちだって、一年前と比べて義之くんや由夢さんが全然違いがないなんて思ってはいないけど」

 けれど、と茜。
 そういうことだろう。それなりに付き合いのある仲ならわかることだ。しかし。

「なるほど。まぁ、たしかに……」

 義之と由夢が風見学園に入学してから数年かけて、二人を見て、周りが作ってきた『仲の良い兄妹』という固定概念。その固定概念だけを持っている人間の認識を改めさせるには、少し足りないのだ。

「一緒に登下校、ただしお姫様抱っことか」
「尚且つ会うたびにハグハグするとか。これならみんなも……」
「…………勘弁してくれ」

 杏と茜のムチャクチャな物言いに義之はうなだれた。
 とはいえ彼女らの弁にも一理はある。
 強すぎる固定概念をひっくり返すにはそれこそ公衆の面前で『兄妹』ではありえない行動をするくらいじゃないといけないが、由夢もそれができないから悩んでいるのだろう。それだけの大胆さがあるのなら、初めから悩んだりはしない。というよりも、義之としてもそこまで大胆、そして恥知らずな行動は遠慮願いたいことだ。
 つまるところ、堂々巡り。

「どーしたものかねぇ」

 言いながら、背伸びを一つ。何も案は浮かばない。そもそも、由夢の望み自体が今ひとつ理解しにくい。
 茜の言ったように『学園公認のカップル』とでも言うヤツになりたいのだろうか? 由夢だって女の子だ。男の義之には理解しがたいがそのようなことに憧れがあるのかもしれないが、今回の話はそこまで極端なことではない、はずだ。

 『兄妹』とみなされるのは、いや。だけど『恋人』扱いされるのも恥ずかしい。

 どう答えればいいのか、まるでわからない問い。さながら、昔の自分に対して素直になれなかった頃の由夢のようだ。
 そう思うと義之の胸に少しだけ懐かしさがこみ上げてきた。

「うーん。杏ちゃん。何かいい案ある?」
「そうね…………」

 空になったジュースと、空になったパフェの食器を弄びながら、二人は何事かを考え込んでいるが、その顔を見る限り、妙案が浮かんだようには思えない。
 ――どうやら、おごり損になりそうだな。
 義之は苦笑して、財布の中身を確認した。足りないなどということはありえないが、念のためだ。

「ふふ……」

 杏の何かを企むような、いつもの不敵な笑いを義之は捉えることができずに。
 『雪月花』改め『雪花』との会談は、終わりを迎えた。